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2008年7月 2日 (水)

内功を科学的に見てみる

黒猫亭さんのコメントへのレスです。

多分これは、日本武術とも関わる問題でもありますね。とっても興味深く、本質的な議題です。

中国武術の体系を深く勉強した訳では無い立場の者が語るのはおこがましいですが、少し私見を。

科学的な視点を交えて考えてみると(ちょっとややこしいかも知れません)。
内功は、一般に、自身の身体の気の流れにアプローチし、コントロールする体系と言う事が出来ると思いますが、これを、心理学、あるいはバイオメカニクス(生体力学)的観点から見てみると、身体に意識を向ける事によって、体性感覚等の体の「感じ」を知覚し、それを手掛かりにして身体運動システムを制御していく方法を体系化したものである、と考える事が出来ると思います。

人間は、視覚・聴覚情報優位の動物の訳ですね。だからどうしても、体性感覚的な情報は、無意識的な処理に任せてしまう傾向がある。たとえば、どの筋肉がどのくらい収縮していますか、と訊かれたとして、それに答えられる人はほとんどいない、と思います。
武術では、そのような体性感覚的な内的な情報を意識させるために、気等の概念が用いられます。「気の流れ」という言い方もその一つです。気の流れというのは、自己と他者の認識的・心理学的な関係を指す場合と(「相手の気の流れを読む」という表現や、合気道の「気の流れ」技での用法)、上に書いたような、体性感覚的情報の時間的・空間的変化を表す場合とがある、と考える事が出来ます。内功は後者のアプローチを強調したもの、と捉えられるのではないでしょうか。

バイオメカニクス的には、自身の気の流れをコントロールするという認識によって、体幹部の運動を向上させる、という面があります。たとえば、呼吸法によって、普段の生活では意識されないような筋肉の感覚を強く意識する事が求められます。腹部の深層の筋群や、肋間筋のような呼吸筋の収縮した時の感覚を意識し、その情報をフィードバックして、改善していく訳ですね。中が見えない箱に手を突っ込んで模型を作る、というようなイメージが、比較的近いかも知れません。

元々、深層の筋肉というものは、解剖でもしてみない事には見るのは不可能ですし、どういった構造・機能を持っているかも把握し辛いものです。ですから、ある特定の運動を行った時の感覚情報を、パターン、あるいはスキーマとして認識して、経験的に、その内有効であるものが淘汰されて残った、と考えられます。それを言葉で表現したものが、「丹田に気を集中させる」であったり、「正中線を作る」、であったり、という訳ですね。そして、その内的な情報を認知し、コントロールしていく方法が、経験的に蓄積され、それが整理された結果、武術的な内功という鍛錬システムが形成された、と見る事が出来るのではないか、と考えています。

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「武術・身体運動」カテゴリの記事

コメント

参考文献としては、

・『意識のかたち』

・『からだには希望がある』

・『からだにはココロがある』

・『究極の身体』

辺り(いずれも、著者は高岡英夫氏)が良いかなあ。『センター・体軸・正中線』なんかも良いかも。
※疑似科学的説明も含まれておりますので(それが少ないものを選びましたが)、ご注意を。

高岡理論を借りれば、「内功とは身体意識の構造を変化・コントロールする経験的方法・知識体系の一つである」、という風になるでしょうか。

投稿: TAKESAN | 2008年7月 2日 (水) 01:27

 ゆっくりいきましょう。私も分からないことの方が多いのです。中国武術修得には情報戦が重要で,知る知らないで致命的な差異が生じるので,もともと根幹情報は秘匿されるべきものなのです。日本の武術がどんなに凄くても国家が管理したりしません。日本では情報管理は,個人や団体がやっておりますが,あっちは国レベルです。その違いを舐めるなとよく師に叱られました。
 内功の結果生じるものとして,深部の筋肉の連動と自在なパフォーマンスというのがあります。それは副産物なのか,実は核心を含むものなのか私の中では正直曖昧です。分からないというのは実際のパフォーマンスを見聞きしても,更にその理合では解読できない上のパフォーマンスがあるからです。
 ある老師の体で,驚いたのは体のあらゆる場所で発勁できるということで,それは肘とか肩とか腰にとどまりません。エイリアンが体の内部にいるように腹の任意の場所を盛り上げたり運動したり出来るのを拝見したことがあります。当時の私は気色の悪い隠し芸を見るようなレベルでしたが,あれは隠し芸ではなく武術の必然であったということが後で分かりました。その方については,ある武術家が腹にいきなり抜き手を差し込んできたので慌ててうっかり発勁したら,相手の指がバラバラになったという逸話もあります。これらは通常の随意筋の制御だけでは到底無理です。腕や脚の筋肉だけではなく,そういった筋肉とその連動が寄与しているというのはあると思います。
 例えば,私のような低いパフォーマンスでも拳を相手に圧着した状態でパンチをぶち込めます。そのとき相手が腹筋を固めていても内臓までするっと潜り込んでいく打人感覚を感じますが,これは腕の筋肉を意識すると出来ません。
 仰るとおり,体の中の分かりやすい部位の筋肉を動かしたり力が入っていることを自覚することは誰にでも容易いのです。一方,間接が破壊されないように早めに動いてパフォーマンスを低減させる別の筋肉の動きは自覚されません。そうやって普段人は体を動かしています。
 他の武技は分かりませんが,中国武術の場合,きちっとした師に着いているのか見かけを追った表演によるパフォーマンスなのか,ブレーキを掛ける方の筋肉の使い方や間接のゆるみなど,見分けるポイントがあります。勿論,実際にその動きを隠して練習・表演する場合もあるので(本当に使い分けておられる方は普通におられます。)単純ではありませんが。
 内功では,身体意識の構造の変化という目に見えにくいものではなく,物理的現象として,体の構造や発動する筋肉やそのパフォーマンスに劇的な違いが生じてしまうことも確かなようです。ある意味,人間の皮を被った別の存在のような感じさえします。体現者の体は手を触れた瞬間に一斉に汗が噴き出るほどの明確な圧力となって感じられるものです。「中の筋肉」が極限まで太って駆動している感じって分かりますでしょうか。
 例えば自分が体感した浸透勁は,相手の体の一部も自分の体の一部として一体化してしまって,相手の体の中の任意の場所にその威力の作用点を作ってしまう感覚に似ています。それらも,体内の中の任意の場所に意識を向けてそこから相手に力を伝えるという意識で自分の場合は誘導できました。「(内観的)意識と制御」によると言えなくもないと思います。合気の崩しは分かりませんが,たとえば,そういった意識で技は誘導されていないでしょうか。

 バイオメカニクス的には,「腹部の深層の筋群や、肋間筋のような呼吸筋の収縮した時の感覚」を意識するだけではなく,そいつらを全部パフォーマンスに動員するシステムを作っていくものといえるかもしれません。
 なお,動的な内功のトレーニングもありますから(動功と静功の違い),外功だけなのか,内功も同時に鍛えているのか居ないのか,見かけだけで判断すると危険だということも確かです。典型的な外家拳,外功的鍛錬が内気を練っていないというのとは違っていたりします。八極が,普通の拳法じゃないよと言われる所以もその辺りだと思います。内家拳は,外功と内功を一緒にトレーニングする,外家拳は別々にやるというのもよく言われるところですが,これも一面的な見方だと思います。
 解く鍵は,やはり,「意識」の運用の仕方とその結果何処がどのように鍛えられているかということかなと思います。高岡氏のレフパワー・ラフパワー論については,意識の運用の部分で核心を突いていると思います。これらは,口訣という形で,文章情報で残さないことが前提になっています。
 とりとめのない文章になりましたが,未整理の覚え書きメモ程度とご理解下さい。

投稿: complex_cat | 2008年7月 2日 (水) 23:27

complex_catさん、今晩は。

ありがとうございます。大変参考になります。

▼▼▼引用▼▼▼
エイリアンが体の内部にいるように腹の任意の場所を盛り上げたり運動したり出来るのを拝見したことがあります。
▲▲引用終了▲▲
これと似たエピソードを、佐川幸義翁関連の書物で見た事があります。『透明な力』ですね。

 >実際にその動きを隠して練習・表演する場合も
 >あるので
あまり詳しく書くのは憚られますが、ある日本の武術では、創始者がそういう風になさっていたようです。これ以上書くとややこしい話になるので、ちょっと無理です…。同じカテゴリーの中でも、会派によって、何が真伝か、本当に実用的な武術であるか、という議論や争いがあるんですよね。

 >合気の崩しは分かりませんが,たとえば,そう
 >いった意識で技は誘導されていないでしょうか。
私は門外ですが、大東流の一部で、それが伝承されている、というのは聞いた事があります(松田敏美伝の大東流の話題でよく見ます)。

 >そいつらを全部パフォーマンスに動員するシス
 >テム
私は、これが高岡氏の言うDSの機能だと思っています。身体意識は、解剖学的構造をそのままなぞるものとは限らず、有効に用いるには、ある部分を一纏まりしたシステムとして機能させないといけないと考えられますが、そのシステムを統率する装置がディレクターと呼ばれるのだと思います(と言うか、それが高岡氏の説明ですね)。

投稿: TAKESAN | 2008年7月 3日 (木) 03:18

>TAKESANさん、complex_catさん

実戦武術の文脈で内功を語る難しさというのは、「内功」というタームの指示する意味の振れ幅の問題でもあり、それを伝達する言葉の問題でもあるとオレは考えています。とりあえず、まず第一にタームの定義を摺り合わせましょう。ウィキで「内功」を調べてみると、

>>内功(ないこう)は、中国の大衆小説である武侠小説において使われる言葉で、内家功夫、いわゆる気功を指す。攻撃、防御、治療など様々な用途に用いられ、武術の基礎をなすものと位置づけられている。対義語としては外功がある。

まあ、この記述で大体不足はないと思います。つまり、定義上、「表向きには」中国武術において「内功」と謂う場合、何らかの指導上の「比喩」や自然科学的原理の説明ではなく、一般的に謂うところの気功「そのもの」を指すと思うのですね。その言い方が少し強いとすれば、「内功≧気功」くらいの関係にはなりますでしょうか。ウィキでは「武侠小説用語」ということになっていますが、実際のどんな中国武術でも大きく違う意味ではこの言葉を遣っていないはずですよね。

何故なら、「内功」というのは中華文化圏(日本も辺縁として含まれます)で重要な世界原理として働く道教の陰陽五行説に立脚した理念なので、中国由来の武術でこれを表向きに否定するということは考えにくいからです。

おそらく中国武術の文脈で謂えば、TAKESAN さんが説明されたような事柄というのは物理的実体としての人体を意識によって操る方法論と謂えますから、厳密な定義論で謂えば「外功」ということになってしまうんですね。如何に精妙で最適化された動きといえども、物理的実体としての人体が敵手の肉体に及ぼす作用やその為の訓練や体術の鍛錬というのは、中国武術のロジックではすべからく「外功」ということにならねばならないはずなんですね。

中国武術で謂うところの「内功」というのは、飽くまで陰陽五行の気を特殊な呼吸法などによって体内で錬って用いる内的な超越力を意味するのであり、実際の武術の教授においても、このロジックから大きく外れた説明は用いられていないと思うんですよ。おそらく、道教的な世界原理を離れて自然科学的な言葉を用いて教授する武術の門派があるとしても、それはごく最近の傾向でしょう。

投稿: 黒猫亭 | 2008年7月 3日 (木) 09:03

このTAKESAN さんの考え方は、一種西欧合理主義的な観点からの暗黙知の説明原理とでも謂うべきものだと思うんですが、中華文化圏における武術の説明原理というのはもう少し混沌としているのではないかと考えています。普通は相対立する概念だと思われている事柄、たとえば道教的世界原理と自然科学的世界原理が対立する局面があるとすれば、中華文化圏の「合理」というのは、そのいずれかを二者択一するのではなく、その対立を摺り合わせて両立させる方向で考えると思うのですね。

つまり、下世話に謂う気功のような一種胡散臭いハッタリ的な原理があるとして、それは以前亀さんがご紹介された記事のように、西欧合理主義的な文脈では、方法的懐疑に基づいてそのハッタリを暴き真実を確定するという方向で考えますよね。でも、中国武術では道教的世界原理に基づく気功を一概に否定しない、というか、専ら中国武術がそういう虚仮脅し的なハッタリを補強してきた側面はあると思うのです。中華文化圏では今でも生活の端々に道教的な世界原理が生きているわけで、それは或る意味実際に機能する原理なわけですから、否定する必要がないと思うのですね。

では、中国武術における「内功」というのは虚仮脅しのハッタリなのかと謂えば、実はそうではなくて、ここで話が一回りして、TAKESAN さんが仰ったような自然科学的な合理が踏まえられているんではないかと思うわけです。でも、表向きにはそれを「内功」という形で説明するわけで、実際に武術を教授する場面でも、明晰な自然科学的言語に言い換えて説明原理としての効率性を追及したりしないわけですね。飽くまで「体内の陰陽の気を臍下丹田で錬って云々」というような説明をするわけです。

その意味で、西欧合理主義的な文脈では、中国武術の理念というのは説明原理としては非効率的で不合理なノイズを孕んでいるように見えるわけです。しかし、それは一面では非常に合理的でもあって、別段中国武術というのは説明原理としての効率性を目的的に追求していないわけですね。武術の秘奥というのは、一握りの才能のある人間に伝わればいいのだし、ましてやそれがグローバルにわかりやすい言葉で門派の外の人口に膾炙するということは戦術的な意味で不利益にしかならない。

だから、中国武術の秘奥というのはわかりにくくても一向に差し支えないんです。そこで一種の適者の選別が働くわけですから、説明原理としての洗練や効率性を追求する動機がそもそも存在しない。或る程度のレベルに達した優秀な修行者(つまり肉体的な暗黙知を自在に応用可能な域に達した武芸者)にだけ、自ずから直観的に伝わればそれで好いわけですから、わざと言語的にわかりにくく出来ていると謂っても差し支えない。中国武術における合理性というのは、おそらくそういう種類のものだと思うのですね。

さらに謂えば、普通日本の武芸者はハッタリや虚仮脅しの虚飾を嫌いますが、中国武術の合理性で謂うなら、たださえ強い門派の武芸にハッタリや虚仮脅しでさらに威圧的なイメージ附けを施すことは戦う以前に敵を圧倒する合理的な選択なわけですから、特定の門派の外向けの言説をナイーブに鵜呑みにすることは出来ないわけですね。

つまり、中国武術における「内功」の問題を語る難しさというのは、主に説明原理としてのこの複雑性に拠るところが大きいのだとオレは考えています。各々の門派は自派の武術の神髄をわざわざグローバルな言葉や自然科学的妥当性に基づいて広く一般に知らしめようという動機がないわけで、中国武術を巡る言説には複雑なノイズが意図的に混入されているわけです。

また、本場の中国人の大多数も、武侠小説的な「何でもアリ」の荒唐無稽な意味での内功と本格的な実践武術修行における内功を、意識においてさほど厳密に峻別して考えてはいないと思うわけで、さらに説明原理としての混沌に拍車が掛かるわけです。

投稿: 黒猫亭 | 2008年7月 3日 (木) 09:34

やっぱり「内功」の掛け値無しの本質というのは、物理的実体が相手に及ぼす力の原理でなくてはならないわけで、TAKESAN さんが仰ったような事柄も含まれるわけですが、オレはむしろ原義に照らしてもう少し「理合」寄りの概念だと考えています。つまり、敵手を倒す物理的原理の性格が違うんではないかと思うのですね。

「内功」が「定義的に」謂えば「気功」のようなものだとしても、内家拳と外家拳は歴然と違う体系原理に基づいていて、どちらも立派に実戦的な戦闘技術として機能しているわけです。素人考えではありますが、たとえば内功を重んじる内家拳と比較的重視しない外家拳の違いを、以前こういうふうに考えたことがあります。

ttp://kuronekotei.way-nifty.com/nichijou/2007/03/lets_kungfu.html
ttp://kuronekotei.way-nifty.com/nichijou/2007/09/lovers.html

で、一般に内家拳が外家拳に比べて一段上と考えられているのは、内功の理念性という優越的イメージもありますが、やはり堅い物理的実体同士の激しい衝突力を基本原理に据える外家拳の考え方よりも、応力の伝達原理を精緻に考え抜いた内家拳のほうがコリオグラフィックな意味で実演困難だからだと考えていて、突き抜けたレベルの達人以外には命の遣り取りを含むような戦闘でそこまでの余裕は出ないからだと考えています。

つまり、理合の観点で実戦的な性格を帯びる拳法は、大雑把に言って外家拳的な性格が強くなるんではないかと思うんですね。アベレージレベルの習熟度で最も実戦において効果が確実なのは、やはり日本の空手のように堅い物体同士の強烈な衝突力を基本に据えた格闘だからで、普通に考えて、堅いものを打ち付けるというのが人間を倒す最も基本的な手法だからですね。

また、たとえば中国武術の実際における内功を考える場面でわかりにくいのが「発勁」という概念で、息を吐くだの留めるだのというのは本質的な条件ではないように思います。相手に深甚な内傷を与えるような内功の正体とは、おそらくインパクトの瞬間の力の伝え方、その暗黙知的な技術なんではないかと想像したりするんですね。それは当然言語化出来ないわけですし、complex_catさんが仰ったように、常人では真似の出来ない奇形的な筋肉運動なども要されるのではないかと思うんですね。

この辺が、オレのように文芸作品からの関心で中国武術を調べている非実践者にはわかりにくいわけで、日本の武道もそうですが、中国武術というのはもっと先達の実践を通じて暗黙知的に伝わり、修行者が自身の実践において直観的に「解釈」していくという伝達経路の教授法が主流なのではないかと思います。しかし、その一方で「解釈」の振れ幅が門派の武芸の構造を破壊しないように理念を伝えていくのが言葉であることも間違いないのではないかと思いますので、その辺の言葉と実践の不即不離の関係が興味深いところだと思います。

投稿: 黒猫亭 | 2008年7月 3日 (木) 09:58

長文&連投失礼致します、結論です。

かねてより、非実践者であるオレが中国武術に纏わる言説を調べていく過程で、それが不可避的に意味的な揺らぎを生起して誇張・歪曲され、最終的には武侠小説的な妄説・空想に結び附いていく構造を持っていることに気附かされまして、これはどういうことなんだろうと漠然と疑問に感じていました。

今回complex_cat さんのご教授によって、やはり実戦的な武術には秘匿性があるという示唆を戴いたことで、その辺を解読する鍵を戴いたように感じました。これは兵法の観点から謂うと当たり前の話で、日本の武芸でも御留流なんてのがありますね。或る種の原理が広く識られてしまうことで、科学的な知見としては有意義な情報が得られても、実戦の場におけるアドバンテージが無効化されてしまう側面はあるわけで、武術が実践的な技能であれば、仮想敵にはその要諦を秘匿する必要がある。つまり、肝心要の部分は広く識られては拙いわけで、そこは秘匿しなければならない。

逆に謂えば、きちんと自派に所属して、一定の修行を積んだ者にしか門派の武術の構造上最も重要な部分は伝わってはいけないという実際的な必要性があるわけですね。つまり、厳しく門派のコントロールを受ける内部の者にしか本格的な武術の教授はしない。その一方で、自派の武術が如何なる構造を持つものであるのかを、内外に向けてアイデンティファイする言葉もまた必要なわけで、それは武術の構造を維持していく為の理念的な支柱としても必要とされる。

complex_cat さんのお話を伺って、中国武術を巡る言説一般が意図的なノイズや混沌によって揺らぐ構造を持っているのは、おそらくこの開示と秘匿のデリケートなバランスに則ったものなのではないか、と思いました。だとすれば、中国武術のロジックで謂うなら、少なくとも外向けには「内功とは気功である」と表現するのが逆説的に最も正しいということになるんでしょうかね(笑)。

投稿: 黒猫亭 | 2008年7月 3日 (木) 10:54

黒猫亭さん、今日は。

ああ、やはり私は、文脈を読み違えていたかも知れませんね。
私の視点は、気という概念を用いた練功の体系が、どのように科学的合理的に機能しているか、というものですね。まず、武術が身体運動としてどのような合理性を持っているか、という見方があり、それに各種練功法がいかに寄与しているか、という所を見る。そして、ある概念が(内功なり気功なり)現在どういう意味を持たされているかを探っていく、というアプローチです。

余談ですが。
武術の世界には、御留流である事を仄めかしたりひけらかしたりして自尊心を満足させようとする人もいて、なかなかややこしかったりします。
私自身は、武術の情報の秘匿性について色々思う所がありますが、ここには書きません。書くと多分、武術をやる人からは、大顰蹙です…。

投稿: TAKESAN | 2008年7月 3日 (木) 14:29

>TAKESANさん

いや、TAKESAN さんの受け取り方は「武術それ自体」に対するアプローチですから、本来そちらのほうが自然で、オレのほうが「武術に纏わる言説」に対するアプローチということになりますから、よっぽど変なことを言っているんだと思います(笑)。

お二方は実際に武芸を実践されている立場で、オレは「外」から物語化して武術を視ている立場ですので、これは少し通じにくい話だろうと思って、結果的にはかなり諄い話になってしまいました。わかりにくい話で恐縮です。

>>私自身は、武術の情報の秘匿性について色々思う所がありますが、ここには書きません。書くと多分、武術をやる人からは、大顰蹙です…。

そうですね、この辺けっこうデリケートな話になってくると思います。ただまあ、いろいろとcomplex_cat さんのお話を伺った中でも驚いたのは、政府が軍事的な観点から武術の秘奥を秘匿しているというお話でして、これ、考えてみると凄いことですよ。

つまり、日本で武道を嗜んでおられる方は、たとえば剣道辺りで謂えば、如何にその道に打ち込んでおられる方でも、軍事的な意味合いで真剣を揮って大勢の敵を殺すことを考えたりはしないものじゃないですか。薙刀でも槍術でも柔道でも合気でも空手でも好いですけど、普通はそれを文字通りの意味で人間を殺す為の技術だというふうに考えて習得している人は少ないでしょう。以前こちらでもそういう話題が出ましたよね。

国粋主義的傾向の強い某流派カラテの人たちが「もしも北海道に某国が攻めてきたら」みたいな話をしていたこともありますが(笑)、まあ少なくとも普通の人は伝統武術を戦闘術という観点では視ないものですよね。

しかし、中国武術というのはやっぱりその根底に身も蓋もない戦闘術としての属性があるわけで、前掲のオレのブログのエントリーでも少し語ったことですが、中国武術の達人が高潔な人格者である場合もあるけれど、別段中国武術は高度な人格を形成する為の修養の手段ではないし、心身の鍛練という抽象的な目的で行うものでもないわけで、飽くまで強い敵を倒す為の戦闘技術であるわけです。たしか、どんな流派でも「確実に相手を殺す」という目的の系統の技を持っていたと思いますし。

complex_cat さんのお話を伺って、やっぱり現代においても中国武術というのは戦闘技術としての根っこを決して忘れない技能なんだな、いざとなれば効果的に人を殺す技術としての性格を決して喪わないのだな、と思いました。これは「治にいて乱を忘れず」というのでもなくて、中国という文化圏においては、有史以来常に明日戦争や騒擾が起こってもおかしくないというダイナミズムが存在するということなんだと思います。

なので、中国武術の秘匿性については、そういう技能としての性格も鑑みる必要があるかな、とは思います。まあ、日本の武術もほんの戦国時代くらいまではそういう殺伐とした殺人術・戦闘術としての根っこを喪わなかったわけですが、徳川三〇〇年の平和が武術を無用の長物にしてしまったわけで、宮本武蔵の剣禅一如みたいな思想性の部分というのは、盤石と化していく徳川の治世において、無用のスキルである剣術が如何なる形に変容して生き延びていくのか、という知恵だと思います。

で、実際に剣術は軍人官僚としての士分の精神的レゾンデートルを保証する技芸としてこんにちまで生き延びたわけですし、そこで中国武術と日本の武術にはかなり大きな性格の違いが生まれたんじゃないかと思うんですね。勿論、日本の武術は圧倒的に中国からの影響を受けていますから、共通する部分も多いけれど、違う部分はかなり違うんだと思います。

投稿: 黒猫亭 | 2008年7月 3日 (木) 16:58

思い切り話しはズレますが。

日本で武術をどのような目的で修行するか、というのは、かなり色々な場合があるかと思います。これを多様性と見るか、それとも、他のものを、「武術の正統とは何か」という観点から否定するか、というのもそれぞれですね。

これは、余談と言うかトリビアですが。
「武道」と書くか「武術」と書くかで、その人の認識がある程度窺えたりします。(一概に言えないのは当然として)後者は、技術としての側面、あるいは戦闘技法としての実用性を求める人が意識して使う、という場合がありますね。

現代の日本で、武術の実用性を重んじる人は、集団戦闘等の積極的な戦闘の局面よりも、「護身」の観点からの実用性を志向するようにも思います。

尤も、こういうのは複雑な問題で、個人によって、カテゴリーによって違ったりしますが。私がこの手の話題で明言を避けるのは、事があまりに複雑であってちゃんとした客観的なデータが無いから、ですね。

投稿: TAKESAN | 2008年7月 3日 (木) 19:11

すいません,誤字などの書き直しに十分に時間が取れないので,修正が楽なように,自分のブログに補足エントリを立てました。

投稿: complex_cat | 2008年7月 3日 (木) 21:28

>complex_catさん

エントリー拝読致しました。詳しいご説明、ありがとうございます。やはり、武術としての本質的な論点に関しては、予想通りTAKESAN さんのご意見のほうが噛み合った話になっていると思いました(笑)。

オレのほうの関心というのは、中国武術に纏わる歴史的経緯や言説に関する事柄に特化していますね。殊に、近年急速に近代化された武術の指導体系の中で、道教的な説明原理に替わるシステムが確立されていないという点が興味深かったです。それから、やはり中華文化圏の連続性に断絶をもたらしている文革が、武術の世界にも暗い影を落としているということ、この辺も興味深い。

また、オレの理解も含めて、現時点における中国武術の実態に関する国内の認識というのは、かなり大きな誤解が罷り通っている部分があることを改めて痛感しましたね。或る種、本邦における中国武術の情報というのは、一般には文芸作品を通じた二次情報、三次情報が主要な情報源なわけで、たとえば八極拳に関しては、ウィキにもある通り「拳児」が起爆剤になって中華ファンタジー的なフィクションを経由して伝播している部分がありますので、虚構の介在する余地も大きいわけですね。

また、これはこれで一種喜ばしいことではあるのですが、近年は中華文化圏では非常にポピュラーな武侠片の本邦への紹介も進んでおり、それが逆に中国武術の実態に対する誤解を助長している部分はあると思います。

で、おそらく中国人や在日華僑の間でも、武術とは無関係な人々の間では武侠片を通じた武術の理解が一般的で、それは日本人の大多数が日本の武芸について講談や小説を通じた理解しか持っていないのと同様でなのではないかと考えています。その一方「日本人は全員サムライでカラテを学んでいる」という誤解と同列で「中国人はみんな中国武術に詳しい」的な誤解の故に、非常に変梃な言説の混乱があるんじゃないかと想像していたりします(笑)。

何分情報の密度が稠密なのと、こちらは半可通なので(笑)いろいろ理解するのに時間が掛かりますので、もう少しじっくり読ませて戴いてから、そちらのブログでもお話をさせて戴きたいと思っています。

投稿: 黒猫亭 | 2008年7月 3日 (木) 22:50

>complex_catさん

今読みました。
とても興味深くて、一気に読んでしまいました。実に面白いです。

ところで、Wikipediaの説明のまずさが指摘されていましたが、これは、日本の武術などでもある事ですね。Wikipediaに限らずWEBの情報は、ゲームやマンガ経由のものをそのまま紹介しているのもあって、吟味の必要がありますね。

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>黒猫亭さん

中国武術の日本での誤解は、よく指摘される所ですね。だから私も、ほぼ触れないようにしています。半可な知識で書くと、大変な事になりますから…。

私も八極拳は、『拳児』で知ったクチです(と言うか、武術に関心を持つきっかけの作品。人生において大きな意味を持つものです)。

もちろん、専門家が書いた物を読んだりもしましたが、そういった情報も玉石混交のようで、門外の者には判断が難しいものがあります。

一度だけ、生で八極拳の套路を見た事があります(演武会で)。心意六合拳もありました。

歴史的な経緯等には全く疎いので、既にギャラリーと化しております…。

投稿: TAKESAN | 2008年7月 3日 (木) 23:45

お二方とも,読後コメント感謝いたします。
つたない文章で,読みにくかったと思いますが,影のボランティア・エディターの指摘もあり,修正加筆しました。
よろしくお願い申し上げます。

投稿: complex_cat | 2008年7月 4日 (金) 07:05

ちなみに,ある中国武術家同士の対談で読みましたが,文革では,かなりの数の武術家が弾圧,虐殺されたとされています。台湾に,逃げた方もかなりおられます。
 ただ,辺境では,そのまま伝統武術はこっそり伝承されていましたし,中国軍が近代化する過程で,白兵戦,情報活動のコア・テクノロジーとして温存しようとした経緯もあると思います。このあたりは,ロシアのシステマやサンボなどと似ていると思います。
 システマも,ソビエト連邦が崩壊しなければ,外に出てなかったかもしれません。

投稿: complex_cat | 2008年7月 4日 (金) 07:10

個人的な思いですが,旧日本軍は,最後の最後の個対個の戦闘技術でさえ,兵士自身が,全ての可能性をモサクしてでも生き残って帰る技術として教えていませんでした。それは,ゼロ戦の装甲がゼロ戦なのと同様,パイロットが生き残れば,また戦地投入できるという重要な部分を無視した旧日本軍のタクティクスのあらゆる面で見られる,軍の上の方の身勝手な美学のおしつけにより大いなる犠牲が引き起こされた根幹に関わる部分だと思っています。(例えば;http://www.amitaj.or.jp/~shibata/book/book_15.html)
 もしも,美学に散っていき手買えることを潔しとしないのが白兵戦レベルでも常識であったとするならば,特攻兵器だけが「統率の外道」であったわけではなく,それは旧日本軍全体を深く感染させていた病だと思います。
 近代日本武道においては問題ないと思いますが,武道という言葉には,そういう欺瞞性の歴史があるので,その歴史性を考えると私は,自分が使う言葉としては躊躇します。
 どんな武術でも殺伐とした戦闘術を教える前に説かれるべき道はあります。キル・ビルのように教えた瞬間に師が殺される世界となりますが,やはり使うのはなによりも人であるべきだと思うからです。それは当たり前の話であり,ことさら「道」という必要はないと思う私は生きて愛する家族の元に帰るための技術として学んでいるという矜持により「武術」という言葉を使います。

投稿: complex_cat | 2008年7月 4日 (金) 07:35

complex_catさん、今日は。

追加された部分も面白いですね。現代のK-1等と古流を、どっちが優れているか、と単純に比較したがる人もいますから、そもそも前提条件が異なる、という視点を持つのは重要であると思います。

個人的に、化勁の説明のくだりに惹き付けられました。
覇道的・王道的拳というのは初めて知りましたが、日本武術にも通ずる所がありますね。

私が「武術」という語を用いるのは、まず、それが戦闘技術である、という所を強調したいから、という理由もあります。術技を習得するという部分を疎かにして理念や思想に走ってしまうのを戒めたいからでもあります。一種の拘りですね。あまり「道」だ何だというと、独善的になったりしますし。具体的に言うと、私の武術に対する認識は、塩田剛三翁や佐川幸義翁に多大な影響を受けて形成されたものです(他に最も大きい影響を受けた先生がいらっしゃるのですが、秘密です)。

投稿: TAKESAN | 2008年7月 4日 (金) 11:51

>TAKESANさん

個人的な事情で最近ネットの活動が疎かになっていて、大事なことを書き漏らしていました。

>>「武道」と書くか「武術」と書くかで、その人の認識がある程度窺えたりします。(一概に言えないのは当然として)後者は、技術としての側面、あるいは戦闘技法としての実用性を求める人が意識して使う、という場合がありますね。

これには是非コメントしておきたいと思いつつ今まで取り紛れておりましたので、今更ではありますが、若干語らせて戴きますね。

すでに上のほうで陳べたことですが、オレはTAKESAN さん同様、日本武術や中国武術の本質を殺人を想定した実践的な戦闘術であると考えておりますが、非実践の立場から歴史性の観点で視ている部分があります。その意味で、「武道」や「武術」というのは割合カッチリ意味の規定されたタームであろうかと思っています。

この議論の流れではすっかり株を下げた形のウィキですが(笑)、「武道」のタームについては「柔道」がまず嚆矢となって「剣道」などに波及し、他の「芸道」と同様に明治期に発明されたものだと書いてあって、この記述はたしか歴史的に間違いのないところであったかと思います。なので、簡単に謂えば、実際の戦闘を最終目的として想定しない技芸の体系を「道」と称するのだと捉えています。

一種の体育思想というか、本来戦闘術であるはずの武術の技芸の習得を通じて、実際の戦闘とは別の理念(人間的成長や精神修養等)が目的視されている技芸の体系を「道」と称するのだろうという考えですね。ですから、別のエントリのコメント欄で言及されている黒田鉄山師の振武館も、表向きの目的として「武術的身体」の実現ということを謳っておられるそうなので、実質はどうあれ一応「武道」を装っておられるのだと思います(笑)。

というか、このご時世において、殺人を想定した実践的な戦闘術を表向きに教授することには社会的な抵抗があるでしょうから、どんな武術も表向きには「武道」を標榜しているという形になると思います。勿論、complex_cat さんの老師や鉄山師はその気になれば非常に効率的に人を殺すことが出来るわけですが、そういう目的が一義的に想定されている身体技術を教授しているのだというふうには表向きには言えませんよね。

平時においても何らかの意味のある目的の為の身体技術なのだと自己規定しない限り、何の為に非戦闘員が人殺しを射程に入れた戦闘技術を学ぶのだ、そういうややこしい議論を避けられないわけです。

そういう意味で、complex_cat さんが書いておられる、

>>近代日本武道においては問題ないと思いますが,武道という言葉には,そういう欺瞞性の歴史があるので,その歴史性を考えると私は,自分が使う言葉としては躊躇します。

というのは、元々「武士道」と「武道」という、「道」の意味性の揺らぎを混同した結果としての不合理だと考えています。武士道というのは、武士という特定の身分の身の処し方を体系化したもので、そういう軍人官僚の処世術としての「葉隠」解釈なんかもありますね。一方、「武道」というのは、平和な時代性を背景にして、殺伐とした戦闘術である武術を体育教育的に平和利用しようとする体系だと捉えています。

そこを混同してしまうから、本来合理的で身も蓋もない実践論であるべき武術が「かくあるべし」的な理念面における処世哲学とごっちゃになってしまうわけで、別段差別的な意味で謂うわけではありませんが、「武道」の理念で実戦を戦おうと思ったって本来無意味なんですよ。元々血腥い殺人術であったり戦闘術であるべきものを、別の平和的な目的の為にリストラクチャしたものなのですから。

歴史的な観点で謂えば、おそらく江戸時代の武術を表現するタームとしては「武芸」というのが正確なのかな、と思います。徳川治世下の江戸時代は稀に視るほど長期に亘って内憂外患の戦乱が起こらなかったわけで、関ヶ原以降はかなり初期の段階で実践的な武人の需要はなくなっているわけですね。

ただ、この時代性においても戦乱というのは明日起こっても不思議ではないという可能性における有事として常に想定されていたわけで、平和を前提視して武を疎かにしても好いというのは、武家社会では表向きに認められていなかったわけで、一応武士の嗜みとして一朝事あれば一人の軍人として戦闘に赴くことが前提視されていたわけです。

そういう意味で、江戸時代の武術というのは、もしかしたらあるかもしれない有事の為の備えとして延命したわけですが、まあ戦国時代で考えてもすでに刀槍の技で戦局が決定される時代性ではなかったわけで、大規模戦闘では鉄砲や大砲という火力、騎馬による機動力などが趨勢を決するということが周知されていたわけです。その意味で、平和期における日本武術は非常に微妙な位置附けに置かれていたわけで、幕末においても日本武術が役に立ったのは、一種の低緊張度状況におけるテロリズムの手段としてでしかなかったわけですね。

このような二重性を抱える時代性においては、武術はやはり直接的な戦闘術から、誰も本気で想定していない「有事」への備えとして、一種の象徴的軍事教練の為の「職能」として変質していたのだと思いますし、厳密な字義の意味で謂う「芸事」として成立していたのだと思います。

ただ、日本の表向きの政治的主体である武家社会は幕末までずっと軍事官僚社会として存続してきたわけですから、軍人官僚の理念的レゾンデートルとして武芸は尊重されてきたわけですね。

江戸も後期に至るまでは「芸者」と謂えば「武芸者」の意にとられていたそうですが、平和が続くうちに「芸」と謂えば歌舞音曲に関するものが専売になってきて、現在のような意味に変わったそうです。たとえば「表芸」という場合の芸というのは、別段歌舞音曲を意味する言葉ではなく、「本業」という程度の意味合いですよね。技術という意味と一種の取り柄というほどの意味が重なったものです。

長くなってしまいましたが、結局「武術」と「武道」というのは、意味するところや場合によって使い分けるのが正しいだろうし、或る観点においては「武芸」も交えながら階層の違う別のタームとして用いるということも必要だろうと考えます。一応、オレはその前提で使い分けるようにしていますが、実際にそうなっているかどうかは勿論議論の余地のあることですね(笑)。

投稿: 黒猫亭 | 2008年7月14日 (月) 07:47

黒猫亭さん、今日は。

現代で、積極的に「術」という語を用いる人の認識としては恐らく、
そもそもは殺し合いの技術として発展した武技が、時代が進むにつれ、様々な理念と融合し、単なる人殺しの技法から、一種の哲学の域まで昇華した、という所を念頭に置きつつ、しかし、古来の達人は皆、高度な技術を体得した上でそのような域に達したのであり、それを認識しないと形骸化してしまう、という所を危惧し、敢えて「術」という語を用いているのだろうと思います。そこには、術を修めていない内に「道」などを語るのはおこがましい、という弁えの認識の含意もあるものと考えられます。

私自身は、あまり「大袈裟」に捉えて欲しく無い、という気持ちから、術という語をよく用います。基本的にはそれは身体運動であり、非協力的な相手をいかに合理的に制するか、という目的を達成せしめるために発展してきた文化であって、理念的な事は、後からで良いと考えています。もちろん、それは即「暴力」でもあるので、使い方を誤らないために理念的なシステムと結合している、という見方も出来ます。でも、それを先に説き過ぎちゃって、肝心の技術の中身が……という事もあるし、方向性を間違えると、過度に権威化・神秘化してしまい、外部から閉ざされ、内部では、上位者を護り、下位者が「上達出来ない」システムを構築する場合もあります(「擁護システム」(高岡) )。

なので、バランスが大切なのでしょうね。道を説く者は、術に拘る者を、技の稚拙に囚われて高邁な理念を蔑ろにする者と看做し、術を重視する者は、道を説く者を、技も出来ないのに殊更に精神性を説くロマンチストと見る、なんて事があったりするんですよね。

これは余談ですが。
武術では、「こうすると危険だからこうしましょう」、という風に技が教えられます。無理な方向にやったら関節を痛めたり、受け身を取りにくかったりするので、そういう教授がなされる訳ですね。
で、どうすれば安全か、というのを学習するのですが、これって裏を返すと、どうすれば危険であるかも知っている、という事です。壊そうと思えばどうにでも出来る訳ですね。だから、使い道を誤らせないような教授が必要なのだと思います。

投稿: TAKESAN | 2008年7月14日 (月) 17:45

 どう呼ぼうが構わないと云うことであるかと思いますが,黒猫亭さんのおっしゃるとおり「芸」あたりも妥当なのかも知れないという気がしております・・・道など人に云うのはおこがましいというTAKESAN感覚はよく分かります。

 ちなみに「芸」という言葉は,中国武術では「槍は芸中の王」というような用法で用いられます。

>「武道」というのは、平和な時代性を背景にして、殺伐とした戦闘術である武術を体育教育的に平和利用しようとする体系だと捉えています。

これは,日本武道においては一つの真理だと思いますが,言葉に関する感覚や拘りは人それぞれだと思うのですが,私の思うところを書きます。

 「術」といっても相手を殲滅するのが定めの乱世であろうと,また平和な時代であろうと,結局,どのような武芸者もただ強いだけの「人でなし」では駄目だったと思うのです。最後まで自分が生き残るために相手を屠る殺伐としたサバイバル技術の体現者として一生を終えるというのは,たとえ戦乱時であっても,人の一生としてそう生きたいと思う生き方なのか,どうなんだろうと思うからです。

 少なくとも,私は,武芸の究極形をとやかく言えるレベルではないのですが,達人になればなるほど,いわゆる圧倒的な力で相手を制するような技から離れていくと云うことがあると思います。戦わずに相手を制するスタイルを好むようになるということで,これは哲学的な意味合いのみならず,例えば,発勁よりも化勁により相手に負けを認めさせるレベルを好ましいと考えるようになるというのは実際にあると思います。
 また,どのような相手でも,僅か一瞬の間に発勁の一撃で相手を壁にたたきつけることが出来たにもかかわらず,相手に腕をとらせただけで,ありとあらゆる技が通用しないことを相手に知らしめた陳発科17世に対して,虚しい殺し合いと思いつつ,相手を全て一打ちで即死させ,最後は遺族から毒殺されてしまった神槍李書文公。
 李書文公は凶猛故と云うよりは武技に関してある意味純粋だったのではと勝手に想像しておりますが,ともに近代中国武術最強の達人と賞されたお二人の生き方は,とても対照的です。

 弟子の一人が,なぜそこで先生は相手をたたきのめさなかったのかと尋ねて,17世は,君は公衆の面前で恥をかかされたいのかと激しく叱ったそうです。平和な時代とはいえ,技が未熟であれば,その場で打ち殺されても何ら文句を言えないというのが武術家のリアリティだった時代,矢張りそれは術の追求が一つの芸や人の生き方を知らしめる道として完成したことを意味するのではと思います。
 他には,現代に繋がる,国手,王向斉老師も国境を越えた愛で沢井先生を弟子として育て,敗戦の自決を許さず,日本に戻されました。人の道と云うものを諭すような武術家のお話です。

 というわけで,私は,後付の言葉には真理はなく,各人の中に真理があると思います。武術は殺人技術ではあるけれど,それが全ての色を決めるわけではないという気がします。なぜなら,それを行おうとするのは,戦時にあろうが平和な時代にあろうが,また人であるからです。
 近代の記録に残る陳家の掛け値無しの達人でも,同じ修行をしながら,治安を預かる正義の味方から,連続強姦魔で最後は獄死という人まで,人それぞれです。極論ですが本人が,道だ芸だといってもせんなきことかもしれません。
 言葉ではない,お前自身だよ,ということを肝に銘じさせるものが,今の人の世の武であるのかもしれませんね。私レベルでは,勿論,道などとは名告れませんし,「道」や「芸」をつけるのもプレッシャーなので,「武技」ぐらいでしょうか。稚拙な技ですが。

投稿: complex_cat | 2008年7月14日 (月) 19:44

合気道では、「戦わずして勝つ」という事がよく言われたりしますね。
それとはちょっと違いますが、植芝盛平翁は、他者を無闇に傷つけないという理念を、実際の技術で、相手をなるべく傷つけずに制するという体系を構築する事で実現せしめよう、という風に創意工夫されたのかも知れません。問題の平和的な解決と、即暴力たる武の技は、本来は相反するものですが、それを、相手の肉体を強烈に破壊せずに柔らかく制するという技法の構築を行う、という方向へ持っていく事によって、矛盾を解消しようとしたのだと思います。もちろん、現在の合気会の技法体系が武術として充分に機能し得るか、とか、高度な次元で理念と技術を体現している人が多くいるか、というのは、また別の問題として考える必要があるでしょう。

また、高岡氏が『合気・奇跡の解読』の冒頭で書いておられた事も、大変示唆的であると思います。

もちろん、結局の所は、言葉の選択の問題なので、自分も文脈によっては「武道」を多用しますし(馴染みが無い人は、「武術」と言われてもよく解らないでしょうし)、他の人がそれを用いているからといって、その人の評価を下げるという事はありません。ある種の拘り、と言えるでしょうか。

投稿: TAKESAN | 2008年7月15日 (火) 02:28

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