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2008年7月に作成された記事

2008年7月31日 (木)

批判の仕方の話と科学的方法に関する話

ニセ科学論議の違和感概要 - 痛いことを惜しげもなくさらすブログ

発端は私のコメントだと思いますので、言及します。

なかなか難しいです。何度も繰り返されてきた議論ではありますが、まとめるとなると困難ですね。そういう疑問を持たれた方への案内としてニセ科学wikiがあるのですけれど、どうやら既読でいらっしゃるようです。

最近「ニセ科学」タグのついた記事を良く見かけるようになったんですが、最初は「科学を騙る詐欺商法を見分けてだまされないようにしよう」という話なのかなと思っていました。

ニセ科学を批判する場合、それを積極的に詐欺に用いる人を批判する、という事は、もちろんあります。で、それ以外にも(と言うより、こちらが最も一般的な動機だと思われます)、学説を歪めて流布したり、あるいは、全く認められていない説を、「認められたかのように」広める人に対する批判、というのもあります。簡単に言うと、ニセ科学は「ウソを広めている」訳です。これについては、ニセ科学wikiに詳しいので、今一度参照なさるとよろしいと思います。

後、これはちょっと推測を含むのですが。

もしかすると、「ニセ科学」にまつわる議論、はてブ経由のものしか参照なさっていない、という事はないでしょうか。ニセ科学というのは、科学を騙るもので、ニセ科学批判者というのは、それぞれの動機において、それを批判している人を指す訳ですね。従って、批判の方法まで統一されているのではありませんし、他の部分についても、必ずしも認識が共有されているものでも無いのですね。もちろん、ニセ科学の定義とか、何をニセ科学と判断していて、それは妥当であるか、という部分については、共通了解を形成する訳ですが。

科学的手法と呼ばれる、たぶん検証可能性とか再現性とかの話だと思うんですけど、それを主張するのにどうしてこんなコメが集まるんでしょうか?

この部分、ちょっと解りませんでした。はてブのコメントは、検証可能性や再現性を主張するものがありましたっけ。少なくとも私は、黒影さんの主張が妥当か否かが解らないと言っているのに、その態度について独立に評価するのは無理がありはしないか、という意味合いで、コメントを入れました。だから、まともで無い事を言っている人に、「まともで無い」と言うのは、全然構わないでしょう、と書いた訳です。それは客観的な評価であるかも知れないのだから。

ニセ科学を主張する人の中には、あらゆる部分が破綻した論を展開して、デタラメを「科学的に実証した」、と言ってのける大学教授もいるのです。私は、そういう人を、まともで無い科学者と評する事に、些かの躊躇いも感じません。と言うか、たとえば森昭雄氏を、他にどう評すれば良いのか、全く解りません。ニセ科学を流布して、(主に)科学者で無い人を惑わし、教育機関主催の講演が今も開催される、そんな人を、他にどのように評価すべきなのでしょうか。

大体ニセ科学を論破しようと試みる方は、アカデミックな雰囲気がコメントからにじみ出てきているように感じます。大学の研究者の方とかが多いんでしょうか?

たとえば私は、科学者ではありません。アカデミックな雰囲気というのがどういうものなのか、今一つ判然としませんが、そもそも「科学的にどうか」、という(黒影さんの)話に絡んでいるエントリーなので、そういう雰囲気があるのも当然のような気もします。

もちろんそれを皆さん踏まえていると思うのですが、そうであればどうしてある意味不遜にも「まともな研究者であれば」という言葉遣いで、科学的態度の正しさを主張できるのか、ちょっと不思議に感じてしまいます。

これは、「レベル」を考慮なさっていないのでは? 科学者(の集合)とは専門家集団です。プロフェッショナルです。科学的研究方法・知識に関するある程度のスキルが要求されている訳でしょう。そのラインに達していないにも関わらず、専門的知識を誤解させるような説を流布しているのであれば、まともで無いと評するのは、全く問題無いのでは。もしかすると、「まとも」という部分が掛かる所の読み方が、異なっているのかも知れませんけれど(「研究の姿勢」か、「人格性」か)。コペルニクスの例は、状況の異なりが考慮されていないので、あまり適切では無いように思います。福岡氏への黒影さんの批判が不当か否か、というのがまず考えられなくては。その後の一文は、ちょっと意味が掴めません。

科学的態度とは、たぶん「正しい」ということを見つけ出すために推奨される方法論だと私は思っているのですが、そこの認識は間違ってないでしょうか?

私の考える「科学的態度」とは、事実(証拠)に基づき現象の構造を追究していく態度です。「正しい」という語にどういう意味を持たせてあるかが読み取りにくいですが、科学とは、実験や観察によって得られたデータを数学的に処理し、現象の構造を明らかにしていく営為なので、その意味で言うと、「正しい」(現象を正確に捉えられているか)かどうかを見つけ出すものだ、というのはその通りだと思います。科学の理論は実際の現象を近似したものと考える事が出来るので、仮に真理(実際どうなっているか)というものを想定した場合に、そこに近づいているのか、という観点は重要でしょうね。近づいているかどうかは、これまた実験や観察によって「確かめられる」訳です。

そうだとすると、一方で「正しい」ということが、生き物としての人間にどれだけの効用があるかということが、人間としての私にとって非常に興味があるところです。

要するに、「科学的態度を訓練して身につけると、人間として幸せになれるの?」ってことは、科学的態度を広く啓蒙していく上で重要だと思うんですが、そのあたりについては最近はどういう議論になってるんでしょうか?

ここら辺、食い違いがあるかも知れません。ニセ科学批判の動機は、「ウソをつくな」、です。科学的態度を身に着ける事と幸福さとの関係、というものに言及する訳では無いと思います。もしそういう論があるなら、それは、ニセ科学論とは離れて、批判者個人の思想に関わるもののようにも思います。ニセ科学が批判されるのは、「ウソをついている」からです。その上で、「どのニセ科学を批判するか」、というのが、それぞれの人のそれぞれの動機で決められる訳です。たとえば私は、「ゲーム脳」を最も採り上げて批判しています。が、それは別に、科学的態度を身に着けた方が幸せだ、などという動機からではありません。(動機については、「ゲーム脳」カテゴリーのエントリーでも書いていますので、よろしければご参照下さい。それが妥当で無いと判断されれば、批判は歓迎です。)

それに対して、ニセ科学批判は「科学的正しさ」こそが真・善・美であるっ!と主張しているのはわかるのですが

えっと。

是非お聞きしたいのですが。

誰がどこでどのように、そういう主張をしたのでしょうか。少なくとも私は、全くそういう主張は見た事がありません。と言いますか、見たら批判します。だって、そんな事思っていませんから。

もう一度言いますが。

「ニセ科学」とは、「科学を騙っているもの」です。もう一度、wikiをご覧になった方がよろしいです。

科学的な正しさとは、実験や観察によって確かめられ妥当だと認められている、という意味ですから(そして、それは「とても大きい意味」です)、そもそもそれを、「真」だなどと看做す人は、そんなにいるとは思えません(「善」、「美」はいくら何でも…。なんか、科学的方法の具体的なイメージを、あまりお持ちで無いような)。科学は、「どうなっているか」を追究するもので、「どうすべきか」、という問いに「直接」(科学的知見に基づいて考えられる事は、当然ある)答えるものではありません。

「俺は人間というちっぽけな視点からではなく、神の視点である科学的方法をとっている。その道から外れていないことを告白します!」という意味に私には感じられた、ということです。

中傷の意図はないですので、何卒ご容赦ください。

まあ、誤読でしょうね。私もひえたろうさんも、別に中傷の意図を読み取った訳では無いと思いますよ。少なくとも私は、問題設定などを読み違えた、と感じてコメントしました。初めからひえたろうさんは、

 「科学が全てじゃない」「科学は万能じゃない」なんていうのは科学の側からすればあまりに当たり前のことだ。科学というのは適用範囲を極めて小さく絞っているからこそこれだけ厳密な体系を作れているわけで、(思い出話とか - 『digital ひえたろう』 編集長の日記★雑記★備忘録

と書いておられる訳ですね。読み落としでも無い限り、ちょっと誤読が過ぎるんじゃないかな、と思った次第です。そもそも、私にしてもひえたろうさんにしても亀@渋研X:さんにしても、「科学以外のものの見方から科学的ものの見方への”転向”」の話をしていたのでは無くて、「科学的とはどういう事か」、という事についての認識の変遷を書いていたのですから。もしかすると、はてな界隈のニセ科学論に印象が引きずられた、という事は無いでしょうか?

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2008年7月30日 (水)

メモ:観点

メモ程度です。

武術で、ある形(フォーム)が有効である、という教えがある。たとえば、合気柔術で言われる「朝顔の手」。

このようなものは、色々ある訳だが、それが、何故有効であるのか、というのを考えると、いくつかの観点に分けて考察する事が出来る。(もちろん、そもそも有効であるのか、というのも確かめる必要があるが、それは省く。)

即ち、

  • 力学的
  • 生理学的
  • 心理学的

このような観点である。そして、それぞれ、施術者と被術者への影響が考えられる。

 

 施術者

 被術者

 力学的

 a1

 a2 

 生理学的

 b1

 b2 

 心理学的

 c1

 c2 

表にすると、このように整理出来る。

あるフォーム(に限らないが)の効果を考える際には、この内のどの部分に関わっているか、というのを考えると解りやすい。

もちろんこれらは、完全に独立では無く、相互に作用している。必ずしも、全てについて考えるべきという訳でも無い。

その形が、構造的に強い形であるのか(a1)、相手に力を加えやすいのか(a2)、その形を取る事によって、なんらかの生理的効果を自身に及ぼすのか(b1)、相手に接触して刺激を与え、生理的な効果を及ぼすのか(b2)。あるいは、たとえば視覚的にその形を捉える事によって、自分/相手に何らかの心理的な効果を及ぼすのか(c1/c2)。

これは、そのフォームなりの有効性のメカニズムを分析的に考察するための、それなりに有効な整理であると思われる。たとえば、「朝顔の手」が実は、その形を「見る」事で何らかの心理的作用を及ぼし、それが「技の掛かりやすさ」に繋がっているかも知れない、と考える事が出来る。その場合に、目隠しをする等の状況を作り出し、心理効果の可能性を排除して、力学的・生理学的効果を見るという実験が可能になる。

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にゃウンド?

声はあの人でした:「にゃウンド肉球」の“ぷにぷに”感を動画でチェック - ITmedia +D LifeStyle

しっかし、色々考え付きますな。

これ、売れるかも(適当)。

どうせなら、若本規夫ヴォイスヴァージョンとか出せばいいのに。

なんか、裏面のネジ留めと、スピーカーの穴を見てウケた。表とのギャップが(ホントは、掌が裏だけど。製品的にね)。

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2008年7月29日 (火)

「原理は解らなくても良い」事に気付いた時。統計の話

PSJ渋谷研究所X: 「原理がわかってないと科学的と言えない」という誤解と、「原理はわかってなくてもいい」の不十分さ

凄く面白いので、是非読んで下さい。

実は私も、科学的であるとは、必ずしもメカニズムが解明されている事を意味しない、というのを知ったのは、せいぜい2年くらい前だったりします。このブログを作った最初の頃のエントリーを見ると、「メカニズムの解明が重要」というフレーズが、結構出てきます。

それまで、心理学の教科書とかで、「統計の所だけ飛ばす」という、馬鹿丸出しの事をしてたり。だから、統計学の勉強を始めて、まだ2年も経っていません。統計って、料理で言うと包丁のような役割のものなのにね。

私が統計的方法の重要さに気付き、勉強しようと思ったきっかけは、ニセ科学論と、治安悪化言説についての反論に興味を持ったから、ですね。治安悪化論はまさに、集団の傾向がどうなっているか、という問題ですし、ニセ科学論では、血液型性格判断や、薬が効くかどうか、という所で、臨床的方法や疫学的な観点が必要になってくる訳ですね。そういう所から興味を持って調べていって、実験科学において再現性を確認するというのが、きちんとした実験計画に基づきデータを採り、それを適切に処理して行うものである、というのも解ってきた。社会心理学なんかで、ある属性を持つ人の傾向がどうだ、と言う場合も、統計的方法によって相関関係を見ているのだ、という事が解った。

上にも書いたように、科学における統計的方法というのは、料理における包丁のようなものだと思います。分野によって、適用する統計解析の方法は違ったりする訳ですが(食材によって、出刃・薄刃・柳刃等の包丁を使い分ける、ようなもの)、包丁(もっと一般的には刃物だけれど)を使わない料理(体系)が無いように、実証科学においては、統計的方法というのは、欠いてはならないものだと思います。また、現に「使われている」訳だから、ちゃんと使えているかを確認するためにも(切り口は綺麗か、形は揃っているか、目的の料理に適した切り方か)、その「使い方」を、知っておくべきでしょうね。これは、それまで等閑にしてきた者として、「痛感」しています。

中には、材料を雑に切り刻み、素人には解らないだろうと高を括って料理を出すが如く、データを不適切に処理し、実証されただの効果が得られただの、と触れ回る者がいる訳ですしね。それをある程度見抜くためにも、科学的方法に関心がある人は、使い方を心得ておくべきでしょうね。

よく知らない人に、「メカニズムは必ずしも解らなくて良い」、というのを説明する際には、「だが、統計的方法を用いてきちんと厳しく評価されねばならない」、というのを教えるべきなのだと思います。

一応補足。

メカニズムが解らなくても良い、というのはもちろん、科学はメカニズムの解明を企図するものでは無い、というのを意味しないです。現象の構造を分析し、その論理を解明していくのは、科学の本質的な意義の一つですから。ただ、問題を見る場合には、層を考えなくちゃならない訳ですね。どのようなレベルで現象を説明するか、という。それが、薬が効くか否か、という現象であった場合には、(生化学的論理を踏まえつつ)作用帰序はブラックボックスでも構わないから、薬を実際に与えて効果が出るか、というのを調べるのですね。もちろん、心理学のように、メカニズムに関する仮説を立てて、それを検証するために、刺激と反応の関係を見る、という方法もあります。

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秀夫天才

各方面の取り計らいにより、MGS4をプレイする機会に恵まれました(ありがとう、某友人)。

取り敢えず言えるのは。

HIDEO最高。

監督は、世界の宝です。

ああいう作品に触れると、ゲームやってて良かったな、と思う。

ありがとう、小島監督&制作スタッフの皆さん。

※もしコメントありましたら、ネタバレ絶対禁止でよろしくです。ちなみに、私の中で「ネタバレ」とは、クリアまでの大体の時間とか、どのシーンがどのくらいの割合か、とか、そういう所まで含みますので…。ミステリーなんかでも、「シリーズでずっと明かされなかったあの事について明らかになっている」、という情報そのものが、ネタバレです。具体的に書かれていなくても。

※MGSシリーズを知っていてMGS4をやっていない方は、amazonのレビューは見ない方が良いです。

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2008年7月28日 (月)

いやはや

Yahoo!掲示板 - 化学 - 「マイナスイオン」監視室

帰無仮説に逃げないこと

あはは。

これ以上、笑わせないで下さいよ。FSMさんはガクッときてるかも知れないけど。

推測↓

  1. キーワードぽいけど知らないので、取り敢えず論点を逸らしたかった。
  2. 知らなかったのでググったら、統計的仮説検定の方法を説明するページがヒットし、見てみたら意味が解らなかったので、論点を逸らしたかった。
  3. 「帰無仮説」の響きを気に入ったので、論点を逸らしたかった。
  4. 取り敢えずFSMさんのコメントの意味が解らなかったから、論点を逸らしたかった。
  5. 初めて見た言葉だったので、使いたくなり、論点を逸らしたかった。
  6. 本文中に書くと無理解がばれるから、タイトルに書いていかにも解っている風に演出し、論点を逸らしたかった。

「インナーサークル」に続くプチヒット。

「帰無仮説に逃げ」る

だがこれは、私の中以外では流行らない。

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2008年7月27日 (日)

言葉遣い

茂木さんを「駄目」と決め付ける人ってやっぱりいるんだね(追記あり) - 諏訪耕平の研究メモ

ublftboことTAKESANです。

えっとですね。

黒影さんの福岡氏批判が「よく分かりませんでした。」と仰っているのに、批判の際の言葉の使い方について指摘するのはどういう事なんだろうな、という事なんですね。内容の妥当さが解らないのですから、強い言葉で批判しているのが妥当かどうかも、そのままでは判断出来ないですよね。

たとえば、森昭雄氏(ゲーム脳を主張)に対して、「まともな研究者では無い」と言うのに、何の躊躇いもありません。科学研究を業とする人間が、まったく正当な手続きを経ずに実証されたと言い、それを流布しているのですから。そしてそれは、”「デブにデブって言うのは当然」とは思わない。”などという話とは、全然違う話なのでは。何について語っているか、どのような事を主張しているか、そして、主張している人間の属性が何であるか、という所を考慮しないで、具体的な言葉遣いそのものをどうこう言うのは出来ないでしょう。

後、NATROMさんのコメントは、多分、福岡氏のような方に対して掛かっていますね。

要するに、批判の内容を吟味しないのに、言葉遣いの強さ等に関して評価してしまっている訳です。まさか、批判の際には一般に、「まともでない」等の表現は使うべきでは無い、という意味なのでしょうか。だとすると、それには同意は難しいですね。何かを主張する事は、誤った知識を広めたりする危険性を伴っている訳で、時には、物凄い悪影響を及ぼす場合もあります。何となく信じかけているかな、という人ならともかく、主唱者であったり積極的に広める人であったりに、それなりの批判を加えるのは、全く構わないと考えます。

ですから、もし黒影さんの書き方に批判を加えるならば、その言葉遣いを使って批判するほどのおかしな説を福岡氏は主張していない、というのを示しながら行うべきでしょうね。そうじゃ無いと、単に、「まともでないとか言っちゃいけないよね」、という話にしかならないと思います。

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メモ:現象の解釈と統計の適用範囲

ある人は、超能力があり、コインを投げて連続して表面が出せる、と豪語しています。

さて、それを確かめるために、実験を行う事にしました。

その人は、10回連続で表を出しました。もし、コインの表裏が同じように出るとすると、実験によって同じ結果が出る確率は、0.1%程度でしかありません。

自称超能力者氏、勝ち誇ったような顔をしています。

さて、この実験から、自称超能力者氏は実際に超能力を会得している、と言って良いでしょうか。

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※メモです。仮説検定の手続きをまとめてみました。間違いや不備があったら、指摘頂ければ嬉しいです。

統計的検定の手続き。

ここで確かめたいのは、コインの面の出方が偶然に任されていないか、という事。

そこで、コインの面の出方は偶然である、という仮説を立てる。

その仮説の元で、10回コインを投げる実験を行った場合、何回表が出るか、という確率が求められる。つまり、まず、表が出る確率が0.5であると仮定して、10回中x回表が出る確率は○○%、という風に。

実際に実験を行い、もしコインの出方が偶然だとしたら、実際行った実験の結果がどのくらいの確率で起こる事なのか、という所を計算する。もし、表が出る確率が0.5だったとして、コイン投げ実験で10回中10回表が出る確率はどのくらいか、というのを考える。

そこで得られた確率を見て、初めに立てた仮説(コインで表が出る確率は0.5である)を棄却するかどうか判断する。つまり、その確率が低かった場合、「これは、初めに立てた仮説が間違っているのだ」と判断する、という事。仮説を棄却するかどうかのラインは、前もって決めておく。普通は、5%や1%が用いられる。

自称超能力者氏の実験の場合は、10回中全部表だったのだから、表が出る確率が0.5%の場合に10回コインを投げて全部表である確率は、約0.1%だったのだから、仮説を棄却するラインがたとえば5%だった場合、「コインで表の出る確率は0.5」という仮説を棄却する。

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統計的検定の手続き。+補足

ここで確かめたいのは、コインの面の出方が偶然に任されていないか、という事。

そこで、コインの面の出方は偶然である、という仮説を立てる。帰無仮説。まず、否定したい仮設を立てて、それを否定する事によって、コインの出方が偶然で無い事を論証する、という方法。ここでは、帰無仮説:P=0.5 対立仮説:P≠0.5

その仮説の元で、10回コインを投げる実験を行った場合、何回表が出るか、という確率が求められる。つまり、まず、表が出る確率が0.5であると仮定して、10回中x回表が出る確率は○○%、という風に。帰無分布:帰無仮説の元での検定統計量の分布。ここでは、P=0.5 n=10 の二項分布。

実際に実験を行い、もしコインの出方が偶然だとしたら、実際行った実験の結果がどのくらいの確率で起こる事なのか、という所を計算する。もし、表が出る確率が0.5だったとして、コイン投げ実験で10回中10回表が出る確率はどのくらいか、というのを考える。

そこで得られた確率を見て、初めに立てた仮説(コインで表が出る確率は0.5である)を棄却するかどうか判断する。つまり、その確率が低かった場合、「これは、初めに立てた仮説が間違っているのだ」と判断する、という事。仮説を棄却するかどうかのライン有意水準(危険率)は、前もって決めておく。普通は、5%や1%が用いられる。背理法的なやり方。つまり、初めに仮説(帰無仮説)を立て、その仮説の元での、検定統計量の実現値の出現確率(有意確率:p値)を求め、それが低い確率であった場合に、これほど低い確率の事象が起こったという事は、仮説が間違っているからだ、と判断(帰無仮説を棄却)する。

自称超能力者氏の実験の場合は、10回中全部表だったのだから、表が出る確率が0.5%の場合に10回コインを投げて全部表である確率は、約0.1%0.5^10だったのだから、仮説を棄却するラインがたとえば5%だった場合、「コインで表の出る確率は0.5」という仮説を棄却する。

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さて、自称超能力者氏が10回コイン投げをした結果、10回表が出ました。そして、その結果によると、偶然、つまり、表の出る確率が1/2であるとはちょっと考えにくい、と言って良さそうです。

では、この結果から、自称超能力者氏が、実際に超能力を持っている、と判断して良いかどうか。

良くありません。

何故なら、偶然とは考えられないようなコインの面の出方が見られた、という現象は、「投げた人に超能力がある」、という以外の解釈が可能だからです。

この現象で考えると、超能力がある、という以外に、ある可能性があります。そうです、「コインにイカサマがある」、という可能性。ですから、まず実験前に、ここのチェックを徹底的に行い、可能性を排除する必要がある訳ですね。まあ、そこの所をちゃんと描写しとけよ、という突っ込みは覚悟の上です。

結局、何が言いたかったか。

統計学的方法というのは、適用する範囲をちゃんと弁えて用いなければならない、という事です。この超能力実験の例で言うと、コインの面の出る確率についての評価、という部分にしか使えない訳ですね。じゃあどうしてそうなったか、というのは、その他の知識や現象の意味合いをきちんと考えていかなくてはならないのです。

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2008年7月26日 (土)

研究対象はそこら中に転がっている

自由研究の時期ですね。

子どもが楽しみながら出来る研究を考えてみました。自由研究として認められるかは知りません。でも、「自由」なんだよね。問題は、「研究」の体をなしているかどうかです。「何を調べるか」は、何でもいい。

どこが研究なんだよ、という抗議は受け付けません。

○模型制作における、塗料別の硬化時間の比較。

○模型制作における、接着剤による強度の違い。

○テレビゲームの無線コントローラは、どのくらいまで離れて操作出来るか。遮蔽物の影響も考える。

○PSPの無線通信は、どのくらいまで離れて可能か。遮蔽物の影響も考える。

○サッカーボールの空気量による、キック時の飛距離の変化。

○乾電池の種類による、ミニ四駆(まだあるのか?)のスピードの違い。

○段ボールで、大人が乗っても壊れない椅子を作る。

○加熱時間による、野菜の煮え具合の変化。

○走る時、どこを意識すれば良いか。意識する部位によるタイムの変化。

○普段遊んでいる人形(一般的にはドールって言うんですかね?)の関節の構造。人間の構造とどう異なり、どのようにして再現しようとしているか。

○普段遊んでいる、変形もののおもちゃ、どのような機構で変形を実現しているか。図解によって、一般的な構造を見ていく。

○扇風機とエアコンとテレビとテレビゲーム等の、消費電力・電気代の比較。

○自分が好きなお菓子がどうやって作られているか、その工程の調査と考察。

○パソコンの動く仕組み。ユニットごとの役割を調べる。

○10円玉は、何に漬ければピカピカになるか。また、何故そうなるのか。

○模型制作における、有効な後ハメ加工の方法の考察(超マニアック)。

○模型制作における(こればっか)、塗料希釈度の違いによる硬化時間の変化。

○ハサミで刺身を作ってみる。包丁とどのような違いがあるか(調理したものは、きちんと食べましょう。ハサミは調理用を買ってきましょう)。

○ベーキングパウダーの割合で、ホットケーキの膨らみ方がどう違うか(ここだけの話ですが、よし、ホットケーキ作ろう、と思って、小麦粉とか卵とかを混ぜた後で、ベーキングパウダーが無い事に気付いた、という事があります。それでも焼いてみました。何という実証精神)。

こんな感じ。方法については、色々工夫出来るでしょう。それを、推理小説を読み解くように考えていくのも、楽しいでしょう。

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2008年7月25日 (金)

今更

ここ数ヶ月の間に、産経・読売・毎日の各紙で、ゲーム脳説が紹介されました。いずれも(書き方に違いはあるけれども、ある程度傾向は一致していると言えるでしょう)、それが、他の科学的な仮説や実験研究と同等であるかのような、紹介の仕方でした。

これは実は、かなり異様な事であると言えます。

ゲーム脳は、そもそもニセ科学です。つまり、きちんとした研究を行ってすらいないのに、実証されたと言っているものです。研究は妥当だろうけれども主張が行き過ぎている、というものでも無いのです。あらゆるレベルで、科学的には「説」にすらなっていないもの。それを、中立・公平を努めようとしているのか何なのか解りませんけれど、「批判もある」、というかたちで紹介しているのです。これは、明確に「間違っている」と言える。

ゲーム脳は、ちょっと調べれば、実態が解るものです。それこそ、早ければ数十分で気付けるような代物。いや、気付かなくてはならない、と言った方が良いでしょう。何といっても、新聞記事なのですから。

ゲームの影響について、本当に中立・公平に論じたいのなら、ゲーム脳を持ち出すのは、筋が悪いのです。これは、かなり穏当な表現ですが、率直に言うと、調べるのをさぼっている、あるいは、一定水準以上の能力を持っていない、という事でしょうね。それを言い切って良いほどのものなのですよ、ゲーム脳というのは。

このような主張を、ゲームを擁護したいがための意見だ、と読むのも自由ですけれど。目を逸らせば楽だから、勝手にそうすれば良い。間違っているものには間違っていると言い続けます。まあ、文字通りにとれば、私は「ゲームを擁護している」訳ですが。不当に非難されているものを護りたいと思うのは、当たり前の心理です。

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2008年7月24日 (木)

また毎日か

27 毎日のゲームと子ども3 - アルファ’s blog(仮

新教育の森:子どもとゲーム/3 脳への影響は未解明 - 毎日jp(毎日新聞)

アルファさんのブログにコメント入れようと思ったのですが、毎日の記事への意見として、エントリーにします。

専門家の意見を都合良く持ってくると印象が誘導される、という良い(悪い、か)例ですね。

小泉氏の意見の部分には、「3.熟達化によって熟考の必要が無くなった段階」(1と2はアルファさんのブログを参照して下さい)、という読み方も出来る訳ですが、それは、ゲームをある程度知っている人でないと読み取れない部分ですよね。知らない人は、ゲームは概ね熟考しない、と言っているようにも見える。

津本氏の場合は、「相手の表情等を見ないコミュニケーションが発達を遅らせる可能性がある」、という一般的な論理から(これはある程度妥当だと思います)、ゲームもそういう可能性がある、と言っている訳ですね。この意見自体は、それほどおかしなものでは無いと思いますが(可能性がある、という意見なのだから)、しかし、この文脈で書かれると、「流れ」で読んでしまう。それに本来、ゲームはコミュニケーションツールでもある訳ですね。複数でやるゲームなど、いくらでもあるのです。もし、一人遊びが出来る可能性があるものの悪影響を言う、という事なのであれば、読書等も同様に捉えるべきなのですし。

それにしても、ゲーム脳をまた紹介するとはね。ニセ科学ですよ、あれは。記者は、そのニセ科学性に対して、あまりに素朴過ぎるでしょう。

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2008年7月23日 (水)

究極の身体

7月初めに、高岡英夫氏の『究極の身体』に関連するサイトがオープンしました⇒高岡英夫「究極の身体」

既に絶版となっている本の内容を紹介するものや、松井浩さんとの対談もあります。いずれも興味深いものなので、ご覧になってはいかがでしょうか。

※いつもの注意。高岡氏の主張には、疑似科学的なものが何割か含まれます。その事を理解した上で読みましょう。『究極の身体』にはそういう所があまり無いので、私は積極的に薦めています。

余談。

今売っている『秘伝』の、宮本武蔵特集、とても面白かった。

究極の身体 Book 究極の身体

著者:高岡 英夫
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2008年7月22日 (火)

記事の見方

Interdisciplinary: 子どもとゲームと親の続き。

PSJ渋谷研究所X: 子どもとゲーム:実は「ゲームが問題」ではないことも-1

大変丁寧な読み解きだと思います。皆さんも読みましょう。

私が思うに、ゲーム脳を、「批判”も”ある説」として紹介するのは、100mで14秒台しか出ていない選手を、オリンピックに出られるぎりぎりの所にいる選手かのように紹介している、ようなものなのですね。そういう人を、「うーん、もう少し調整が進んでコンディションが良ければ、オリンピックも夢では無いのでは」、と紹介するようなもの。だから、そこはしっかり書く「べき」。ゲーム脳というものを紹介するのであれば。

新聞記事の評価は、2つの見方があると思います。

一つは、現状を鑑みて、どれくらいの仕事をしたか、という所。ある状況における相対的な評価、とでも言いましょうか。つまり、他の新聞記事がろくでも無い屑のような記事を書いている今の状況から考えると、バランスを取ろうという書き方が見えて、頑張っていると評価出来ます。

もう一つは、世間に情報を周知する、というメディアの基本的な役割を考えて、最低このくらいはやらなくてはならない、というラインを越えているかどうか、という見方。ゲーム脳の場合だと、それが全く考慮に値しない愚論だという事を正しく伝えるか、という所ですね。

また100m走の喩えを出すと、前者は、他の人達が11秒台で走っている所、10秒31を出した、という感じですね。当然、新聞記事のレベルとしては、10秒を切るかどうか、というパフォーマンスを見せてしかるべきなのですが(2つ目の見方)、現状では他に抜きん出ているからそれは評価しよう、という考え方。

と、そういう異なった評価軸を考えて、今の状況でああいう特集を書くのは興味深いけれども、記事そのもののレベルとしてはそれほど高いものでは無い、というのが、今の私の感想ですね。

後、思うに、「ゲームが脳に与える影響」についてどのくらい調べられているか、というのを紹介する前に、「脳に影響を与えるとはどういう事か」、というのを特集するのも良いかも知れません。新聞記事で、それ自体を検討したり、神経神話批判をするのは、それほど多くは見られない事でしょうから。

それと、ちょっと細かい所ですが。

ゲーム体験が脳に悪影響を与えるなどという学説は存在しない。そのようなことを主張しているのは、森昭雄ただひとりである。その主張も、学説の体を成していない。そのために、森とその主張は批判されている。

「ただひとり」と言うのは、ちょっと難しいですね。「脳に悪影響」、「学説」をどう捉えるか、というのがポイントなのでしょうけれど。脳内汚染なんかは、様々な研究を寄せ集めて適当に解釈し、それを一つの学説のように主張している、というものですしね。意味合いを広くとって、ゲームが脳に悪影響を与える、という趣旨の発言をしている人、あるいは、森氏の主張に賛同する人、と考えると、自分の学説に付随させるかたちでゲームの害悪を唱える人も含まれますね。大友氏なんかは、まさに森氏と軌を一にする人です。

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2008年7月21日 (月)

子どもとゲームと親

亀@渋研Xさんへのレスも兼ねて。

※これは、読売新聞紙上の特集、「子ども――ゲーム」の7/17~7/19分の記事について言及したエントリーです。引用文は、その記事より。

全体としてみれば、確かに、他の同じような記事と較べると、頑張っている方なのかな、と思いました。個人的な感想としては、「それまで不味いものばかり食べさせられてきて、その後で、美味くは無いがちょっとマシなものを食べたら、結構美味しく感じる」、というような感じかな、と。ゲーム関連の記事は、あまりにも不味いものばかりですしね。
書き方としては難しいのでしょうね。不安を感じている養育者の紹介をするのだから、その具体例を書かざるを得ない訳ですが、私などから見ると、それは「不安を煽っている」ようにも感じるんですね。

ああいう記事に関心を持つ人の中には、ゲームに対して漠然とした不安を感じている人も多いでしょうから、果たして冷静に特集全体を見渡すのだろうか、と。

ところで、第一回に、「2才からゲームをしている」という風な記述がありますが、これ、どのくらいの割合なのでしょうね。私としては、2才児がゲームを「ゲームとして」プレイする、というのは、ちょっと考えられないです。ボタンを押せばグラフィックが変化するので、その単純な変化を楽しむ、というくらいのものなのではないかなあ。リモコン押せばテレビが消えるのを憶えて、それを面白がるみたいに。

▼▼▼引用▼▼▼(第一回より)
茨城県土浦市や東京・秋葉原の連続殺傷事件などの容疑者がゲーム好きだという報道を見て、長男の姿に重ねてしまう。現実とゲームの世界の区別がつかなくなり、道徳心が育たないのではないか、と思う。
▲▲引用終了▲▲
ここなんかは、完全に報道の害ですね。現在のゲーム研究の知見から考えても、こういった無根拠な情報による不安を与える方が問題なのでは、と思います。金川はともかく、加藤は「ゲーム好き」と言えるほどかな、という気もしますし。

第二回は、上にも書いたように、論外だと言えます。記事に対する要求水準が高いのではないか、とも思われるかも知れませんけれど、私としては、ゲーム脳を一説として採り上げるのは、陰謀論を、考察すべき興味深い一説として採り上げるのと全く同レベルだと考えているので、そういう評価になります。

榊原氏のコメントは尤もだと思います。
▼▼▼引用▼▼▼(第二回より)
 お茶の水女子大学教授で小科医の榊原洋一さん(発達神経学)は「ゲーム脳の考え方がもてはやされているのは、親が子どもからゲームを取り上げる根拠が欲しかったからではないか。しかし、ゲームをやらせるかどうかは、親の価値観に従って各家庭で決めることだ」と話している。
▲▲引用終了▲▲

第三回、ゲームを持ってない事で子どもが仲間はずれにされる、という可能性について書いてあります。

私は、このロジックがよく解りません。いや、仲間はずれにされる所の懸念が解らないのでは無くて、「ゲーム」の特徴であるかのように言われるのがよく解らない。

子どもは、流行りのものを知らない、所有していない、同じような考えを持っていない、という事で爪弾きにするのは、よくある訳ですね(子どもに限らないけれど)。それは、かなり一般的な事だと思います。
で、ゲーム云々とは直接関係は無くて、もっと一般的な社会心理学的な話ですよね。贔屓とか、その辺の。

まあ、何故こんな事を書くかというと、自分は、ゲーム好きだった事で、物凄く変な目で見られていた訳です。当時は、ゲームばっかりやっているとバカになる、というのが言われていたのですが(これは、ずうっと前から言われていて、最近になってそれが、「脳」への悪影響という具体的な論になってきたのですね)、そういう所から、小馬鹿(これほどぴったりな表現は無いでしょう)にされてきた、という経験があるのです。後、当時の子どもに一般的に人気があったものに興味が無いのを馬鹿にされたり。

昔だったら、(ちょっとステレオタイプ化します)女子だったらアイドルに興味が無いのを馬鹿にされたり、男子だったら野球やサッカーに興味が無いのはダメだと思われたり、というのが、結構あったような。

そういう経験があるので、結局、ゲームがポピュラーになって、状況が逆転したのではないかな、という事なんだと考えています。ゲームがどうこうという問題じゃ無くて、同じような方向性じゃ無い子どもを爪弾きにする心理自体を見るべきなのではないかな、と。
ゲームの普及度から考えると、ゲームを持ってない事で仲間はずれにする、という頻度は高くなると思いますが、それが即、ゲームそのものに内在する問題だ、と言えるかどうかは、ちょっと疑問です。
下手すると、ゲームが薬物と同様の効果を及ぼし、その結果として、ゲームをやらない子どもに排他的になるのだ、という主張も出てきかねません。実際、岡田氏はそれに近い事を言っているのですしね。

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読書感想文

個人的には、宿題で読書感想文をやらせるという意義が、今一つ解らない。

いや、そんな事を言ったら、宿題一般がそうだという話になっちゃいますけどね。

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2008年7月20日 (日)

ナンセンス

アルファさんのブログによると、18日の読売新聞に、森昭雄氏が登場した模様⇒森昭雄 読売新聞に登場 - アルファ’s blog(仮

WEBの方には上がっていないようで、私はソース確認出来ていません。

それにしても、(読売に限りません)未だに森氏の意見を専門家のものとして紹介するって、どういう了見なんでしょうね。可能性としては、ゲームの印象を悪くしようと故意にやっているか、記者が馬鹿であるかのどちらかですが。ああ、前者だとしても、馬鹿ですね。いずれにしても、馬鹿です。

ゲーム脳って、それに反論がある、という説と同時に紹介して、それを両論併記と言える、という代物ですら無い訳です。それを、一説として紹介する事自体がナンセンス。そこら辺の所が理解されていないようで。

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2008年7月19日 (土)

ミクで武術:走運動(基本運動)

自重するって言った割りには、一日空いただけ。

基本的な運動として、走運動のモーションを作ってみました。

今回、モーションを作るにあたり、こちらを参照しました↓

キーフレームを4つ作るだけで、後は補間され、こんなに綺麗なモーションになるんですね。とても参考になりました。

こちらが今回作った動画↓

上のニコニコの動画を基に、まず左右合わせて4フレーム作り、そこから調整しました。初めは歩行運動モーションから足を広げ、後から細かく調整。以下、キーフレームの画像です。

1

走運動には空中期があるので、両足を離し、(重心が全く上下しない事は無いので)重心を少し上げます。

2

そのままだと、補間によって、接地時に爪先が上がり過ぎていたので、上のように、足首を調整します。

3

接地~振り出し途中。接地脚は後方スイングさせ、若干上半身を傾かせ、骨盤は後傾。

35_2

前から見ると、膝が内側に入り過ぎていたので修正。

4

腿の振り上げが高くなり過ぎてしまうので、膝の位置を調整(基本は足首IKで調整)。骨盤は、振り出されている足の方に出し、上半身は、それとバランスを取るように、逆に回転させていきます。そして、前進しながら空中期へ移行。

これを片方の一サイクルとし、後は反転コピーで、逆側も作ります。所々、首や肩腕の位置を微調整。

そこそこ見られるモーションになったかな。あ、カメラは適当です。ただ方向を変えてみたかっただけ。

実は、IKを使うと、脚・足が思うように調整出来なくて、IKを切って正面斬りのモーションを作ろうと試みたのですが、あまりにも手間が掛かり過ぎる事を実感したのでした。動きの複雑さの違いもあるけれど、こちらはそこそこ簡単でした。

2008年7月19日追記:ちょっと改良してみました↓

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2008年7月18日 (金)

センセイの回答

回答「B型やO型で憧れる行動をちょっと真似てみては」 - OhmyNews:オーマイニュース

こりゃあ、頂けませんね。

まず、色々な説があると紹介していますが、それは、「血液型と性格が連関するか」、という所であって、「血液型がその人の性格を決定的に支配しているかどうか」、という文脈と即絡められるようなものでは無いのです。あたかも、血液型性格判断自体について、まだはっきりとは解っていない、という印象を与えるものですよね。

後は、結構典型的な誤謬が見られます。はっきり言って、結構ダメなレベル。性格判断が広く信じられるには何らかの理由がある、というのはその通りでしょうけれど、(わざとかどうか判らないけれど)その中身はぼかしていて、血液型と性格に生理的繋がりがあるとも読める書き方になっていますね。

質問者さんはあれですね。ああいった質問をする事自体、些細な事を気にし過ぎ、です。しかも、性格を変えられるか、という質問を、何故そこでするのか…。て言うか、斎藤環さんが回答者にいるのに、何ゆえその二人に回答させるんだろう。あ、片山さんの回答は、森永さんと較べると、まともだと思います。

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2008年7月17日 (木)

ミクで武術:剣の体捌きをベースにした突き・掌打・肘打ち

最近こればっかなので、そろそろ自重します。

今回は、剣の体捌きをベースにした攻撃技(やはりカクカクしています。エンコードが上手くいっていないみたいです)。

武術では、武器技と体術は一体である、という事がよく言われますね。それは、基本的な身体の動かし方が共通しているからです。

構えは左半身(どちらでもいいですが)。体幹や脚を使って、重心を前に移動させます。ここが重要ですが、右腰は、ある程度残します(佐川先生の写真で、その瞬間を捉えているものがありますね。二刀で突き様の動作をして相手を吹っ飛ばしている写真)。右肩も引いておきます。この場合、背中はそのままで、肩甲部や肋骨を一体にしてずらすようにするのがポイント。で、充分に重心が前に行ったら、右大腿を、骨盤の回転と同時に振り出します。その時、肩も出していきます。足は滑らせるように。しかし当然、床に触れてはいけません。

そして極め。左の肩甲骨・肋骨等を引き、右は入れます。身体を左右に割っていく訳ですね。これは、抜刀の動きと一緒です。突きは、何となく拳を捻ってみました。

後、ちょっとした小細工で、極めの部分に軽く重心移動を入れて、それっぽくしようとしてみました。微妙ですが(笑)

ポイントは、重心を左右にふらふらさせない事。後は、剣と全く同じです。

おまけ。

スローモーションバージョン↓

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2008年7月16日 (水)

ミクで武術:抜刀2

抜刀の動画を作ってみました。

ちょっとカクカクしています。エンコードの問題かな(サムネイル失敗した…。再生中に画面内をクリックすれば、大きな画面で観られます)。

単なる抜き付けだと短すぎるので、ちょっと違うものを。

転身しつつ抜刀し、後方の敵に突きを入れる、という動作です。おまけで、最後に正面斬り。

これは、その場で180度転身する体捌きの訓練として行っています。

まず構え。

1

基本的な姿勢。半身です。重心は真ん中に。

2

膝や股関節、体幹部の操作で方向を転換しつつ、右手で抜いていきます。両肩が左右に広がる感じ。足首を底側に曲げない、膝を伸ばさないのがポイント。昨日説明した要領。身体が割れていくイメージです(高岡英夫氏は、「割体」と表現。身体が「割れる」とか「ずれる」という表現が、よく用いられる)。

3_2

刀が鞘から離れた後の状態。左脚は大きく外旋しています。このまま左足の内側に乗っていき、重心が支持点(ここでは左足)より大きくはずれた所で、右脚を出します(大腿部の屈曲。膝と足首で地面を蹴るのでは無い)。倒れ込む勢いを利用する訳ですね。

4

極め。体術の突きと同じ要領(逆に言えば、体術の突きは、剣と同じ要領)。剣は寝かせて突いています。

5

正面への打ち込み途中。いわゆる廻剣動作です。脚や体幹は、柔らかくしながらも動かないようにします。そして、肩甲部を柔らかく使って振り上げ。剣は落ちるに任せます。

6

斬り下ろし途中。手首は使いません。使う場合は、最後の最後に。流派によっては、手首を使う事を強く戒める所もあるようです。初心者は、「斬る」意識が強すぎて、ついつい手首を返そうとしがち。

7 9

極め。振り下ろす際は、肩甲骨・鎖骨・肋骨が柔らかい一体の物体のようになって、それが一気に落ちていくようなイメージで。前方を斬るというより、柄頭で下方を思い切り叩く、という気持ちでやった方が良いかも知れません。もちろん、イメージはほどほどに使いましょう。解剖学的な構造が解っていれば、それを使うに越した事は無いです。

この技、上にも書いたように、その場での転身の訓練のために考えたものです。剣でも杖でもこういう体捌きはある訳ですが、剣を抜くという条件を与える事によって、難しくする。綺麗な転身が出来なければ剣が上手く抜けない、という動きな訳ですね。ポイントは、重心をあちらこちらに動かさない事。動画では若干妥協しましたが、重心は、ほぼ直線上を移動するようにします。最初の画像の姿勢も、身体を割っていく動作で、重心はほぼそのまま。間違っても、正面に動いてはいけません。

その後は、後方を向きつつ重心を移動させ、支持している所(足)と大きくずれた時(倒れそうになる)に、右脚を踏み出します。

この技は、足をなるべく使わない運動を訓練する訳ですね。多くの人は、足首を底側に曲げたり、膝を屈伸させたりしがち。

武術では、いかに早く間に合わせるか、というのが重要なのです。そのためには、脚や体幹の操作で、支持点と重心の位置とをずらし、動きを作っていかねばなりません。足でもたもたしていたら間に合わない。その際の要領の一つが、「床を蹴らない」という事。黒田鉄山氏がよく言われますね。あるいは、床と足との間に云々(薄紙一枚の間を空ける、とか)、という教えは、色々な流派で存在すると思います。ですが、足に注意が行き過ぎて、上に書いたように、足首を先行して操作してしまう事が、ままあります。昨日も書いたように、手許で釣竿をコントロールするようなイメージが良いでしょう。竿の先を直接はコントロール出来ませんよね。でも、足先は自分でコントロール出来る。実は、これが厄介なのです。この場合、手許は腸腰筋、釣竿は、大腿骨から先の骨に相当します。高岡氏は、このような構造を、「双鞭構造」と概念化しています(『究極の身体』)。

剣を抜く場合、左半身が疎かになりがちです。なので、後方に転身するという状況を作って、きちんと動かさなければどうしようも無い、という風にしている訳ですね。

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2008年7月15日 (火)

ミクで武術:抜刀

MMDで、初音ミクさんが抜刀をしている動画を作ろうとしています。

が、

難しい。

シンプルな運動だけに、ごまかしが効かない。再生してみると、違和感が物凄い。これは難儀です。

静止画なら普通に見られますが、動きを繋げるのが厄介。

ちょっと画像を載せてみましょう。めり込んだりしている部分がありますが、あんまり気にしないで下さい。

Battou1

構え。少し左脚がおかしい。刀の角度はもう少し水平に近くて良いですね。重心の位置も甘い。

Battou2

踏み込み途中。右肩を入れながら前側の足を踏み込みます。重心の上下動を押さえる。つまり、体幹の操作を行い、また、腸腰筋の収縮によって股関節を屈曲させる。そうすると足が浮き(釣竿を手許でコントロールするようなイメージ。膝を伸ばそうとは絶対しない)、前に身体が倒れ込む。

Battou4_2

抜刀。右肩を入れ、左肩を後にずらす。正中線を保ったまま行う。つまり、肩鎖関節を柔軟に使い、他の骨や筋肉がつられて動かないようにする。左右に力が広がっていく感じで。あるいは、両肘で当身を行うような感じです。

Battou3

横から。これは、ゆっくりやった時のものなので、抜刀して、前足が着地した後に(完全に後では無い)後足と腰を開いています。速くやる時は、前足と後ろ足の動きはほぼ同時。身体が浮く感じ。動き方によっては、実際に浮く(両足とも接地しない)場合もあるかも知れません。当然、足が浮くのと重心が上がらないのが同時に成立しなければなりません。まっすぐ歩いていたら、いきなり、両側を壁に阻まれた、身体の前後の幅の分しか隙間(はきっちり自分の真正面にある)の無い空間が現れた、というようなイメージを持つと、解りやすいでしょう。壁にぶつからないようにするにはどうすれば良いか。

こんな感じです。なんか、抜刀の講座みたいになりましたが。

ちなみに、私は抜刀は100%独学(人に直接習っていないという意味)なので、そこはご了承下さい。

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2008年7月14日 (月)

初音ミクさんが武術を始めたようです

初音ミクさんが剣の素振りをしています。

MikuMikuDance(VPVP)というツールで作成しました。

実は、以前から、3DCGで武術の(自分の)動きを再現したいと思っていまして。その内Poserでも手に入れてやってみようかなあ、と考えていたのですが、なんと、フリーでお手軽に出来るソフトがある、というのを、昨日知ったのです(ニコニコアカウント持っているのに昨日知ったというのがアレですが)。

精密なモデリングを求めなければ、充分に使えるし、何より操作性が素晴らしい。blenderの奇跡の操作性で泣きそうになった経験がある者としては、これは実に魅力的でした(blenderとかMetasequoiaとか、その内やろうと思ってます)。こういうツールが無料で提供されるというのは、感動もの。

で、これが、初作品です。かなり動きが微妙になっております。

手作業でモーションをつけるというのは、しんどいですねえ。私はまともな撮影機材を持っていないので、ケータイで写真撮ったり、自分で動いてみてそのイメージを脳に刻んだりして、ちまちま作りました。

武術に興味がある人間が作ったという事で、ポイントとしては、これ↓

Keng

ベタ掴みはいかんので(よく見るんですよね。ゲームとかマンガで) それっぽい手の形に。軽く甲側に反らせているのがミソ。

その内、体捌きとか他の武器とかもやってみるかも知れません。

しかし、面白い。ハマってしまう。

※刀のアクセサリはこちらから⇒MikuMikuDance の小物置き場 ミクの髪型のポーズデータはこちらか⇒VPVP wiki - ポーズデータ  それぞれお借りしました。作成された方に、お礼申し上げます。

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2008年7月13日 (日)

ゲーム性

なんか、「ゲーム性」という概念について、議論的なもの(よく知らない)があったみたいですね。昨日、こちらを読んだのです⇒「ゲーム性」の定義が曖昧になってマジックワード化しているのは、コンピュータゲーム登場以降、そこで動く娯楽ソフトはゲームではないものまで「ゲーム」と呼ばれるようになったからじゃね? - 世界のはて

こういう定義論というのは、とても難しいものがあって、ゲーム性という概念に関しても、なかなか明確な定義は出来ないだろうと思います。現在多くの人の共通認識となっているものか、それとも、用いられ始めた時の意味の分析をするか、というアプローチの違いによっても、見方は変わってくるでしょうし。

まあ、それはややこしいので措いとくとして、ゲームらしいゲームとは - はてなダイアリーの記述にはびっくりしました。

ゲーム性の強いゲーム。

「ゲーム性」の定義は人によって異なるが、ゲーマーと呼ばれる人々の中では『ファイナルファンタジー』や『真・三國無双』などといった従来の重厚長大なゲームを指し、任天堂製のゲームや任天堂ハードのゲームは「ゲームらしいゲーム」に含まれないことが多い。

Touch! Generationsの大ヒットを好ましく思わない一部ゲーマーが、これまでの「ゲームらしいゲーム」の範疇に含まれていないゲームに対して、従来の重厚長大なゲームを強調するために使われるようになった。バンダイナムコゲームス副社長など*1、メーカー側の人間が使用するケースもある。

私の認識としては、こんな定義はあり得ない、と感じました。こういう用法が本当にあるのか、と。

たとえば、ゲーム性に乏しい、と言った場合、それは、高度のグラフィックを用いた映画的演出に大部分を割いた一本道のストーリーのRPGを評価する際などに用いられる表現、だと考えていました。近年のFFなんかですね。少なくとも、「重厚長大」なゲームを「ゲーム性が高い」などと評するのは、聞いた事が無い。私は、最近この概念についてどういう議論がなされてきたのか全く知らないので、本当にそういう意味合いで用いられるかどうかも判らないのですが、もしあるのだとすると、とても違和感のある用いられ方です。どちらかというと、プレイヤーとコンピュータのインタラクティビティに関わる概念だと思います。「操作性」や「ゲームシステム」なんかと繋がる訳ですね。

て言うか、象徴的な物言いとして、最近のスクウェア(スクエニ)のRPGにはゲーム性が無く(乏しく)て、任天堂のソフトにはそれが豊かだ、という見方が一般的だと思ってたんですよ。はてなの記述には、えー、と感じました。

重厚長大なのであれば、「重厚長大」と言えばいいじゃない。何をもってそう評するのかは、さっぱり判りませんが。ゲーム時間の長さ? それとも、ストーリーに関する事? シリアスだとかコミカルで無い、とか。だとすると、「ストーリー性」とすれば良いような。

ちなみに、これは私自身の価値観ですが、私は、ゲーム性の高いゲームが優れたゲームの必要条件とは考えていません。色々な要素を総合して評価されるものであるので、選択肢を選ぶだけのゲームでも、傑作はあるのですから。ある程度複雑なシステムであるが故につまらない、と評価されるものもある訳ですね。で、その評価は、他の部分によって変わってくるのでしょう。グラフィックが優れているとか音楽が良いとか。複雑に絡み合っているのだと思います。

ところで、前に書いたのですが、私は、コンピュータ・ゲームを、相当広い概念として捉えています(定義しようとしたけれど、「ゲーム」を未定義のまま「コンピュータ・ゲーム」を定義するという、物凄く微妙な論考になってしまった。全然参考になりません⇒●Interdisciplinary: ゲームとは何か(1) ●Interdisciplinary: コンピュータゲームの定義 ●Interdisciplinary: ゲームとは何か(2)´ 寿司とゲームのアナロジー´)。ですから、リンク先で言う所の”「コンピュータ上で動くゲームではない娯楽ソフト」”も、コンピュータ・ゲームに含まれると看做します。一応私は、そのような意味合いで「ゲーム」を用います。人によっては、意味が広過ぎると捉えるでしょうね。私はこの場合には、社会的にゲームがどのように認知されているか、という観点で分析しているので、そのような考えになります。

そうすると、「ゲーム性がゼロに近いゲーム」というのも、当然、全く矛盾無く成立し得るのですね。こうなると、「ゲーム」という概念から逸脱するのではないか、という見方も出来そうです。いずれにしても、大変ややこしい問題です。

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2008年7月12日 (土)

上達の過程と体幹主導系

NAKAHARA-LAB.NET 東京大学 中原淳研究室 - 大人の学びを科学する: マッサージ屋さんの熟達化

興味深い記事。

上達論・学習論的に見ても、身体運動論的に見ても、とても面白いです。

 マッサージとは「手で押して」はならないそうです。「体」を使って、垂直方向に押さなくてはならない。そうしないと、患部の深いところまで到達しないのだそうです。

これは、手指や肘・肩関節が先行して運動するのを戒める段階と見る事が出来ます。武術にも、手を使うな、という教えがあります。腕の関節を使ってしまうと、力の方向も安定しないし、重みを使う事も出来ない訳ですね。相手の身体を土台にして自分の身体を動かしてしまう、なんて事もあるのでしょう。大切なのは、体幹主導で使う事。肩から先は、棒のようにする訳ですね。肘や手首は固定して、力は体幹等の変形で生み出す。

ただ、注意すべきは、「固定」という意識を強く持たない事。固定という意識はともすれば、身体運動、この場合には、手首や肘の関節を、周りの筋肉を収縮させる事によって固定する、という方向に誘導してしまいます。これは良くありません。ですから、肘や手首がぎりぎり折れ曲がらない最低限の筋収縮によって固定する訳ですね。空手の柳川昌弘氏は、このような身体の使い方を、「受動筋力を使う」、と表現されています(これはなかなかに上手い表現だと思います)。言及先の、マッサージの上達過程の内2年目から3年目が、この段階へ進むプロセスなのでしょう。

上にも書いたように、重要なのは、体幹部の運動を先行させ、四肢はそれに従うように運動させる事。これを高岡英夫氏は、「体幹主導系(被制御体幹系)」と概念化しています(高岡英夫 『究極の身体』参照)。

剣術では、いかに剣が美しい軌道を描くか、というのを目指して振ります。そうすると、肘や手首をごちゃごちゃ動かしてはいけない訳ですね。最初の段階では、肩から先は棒のようにして、使わないようにする。それで、体幹や肩甲部の運動を促すのです。それが出来るようになれば、今度は肘や手首の関節を、より合理的に剣が運動するように微細な操作をすべく働かせるのですね。

また、剣の突き等の鍛錬とも繋がります。上のマッサージの例でもあったように、単に手や腕で押し込もうとすれば、自分が後に動いたりするんですよね。突きは、色々な物体が集合したものを刃物で刺し貫く技です。紙を破るのとは訳が違います。エンジンが止まっている車を押すような事をイメージしてみて下さい。肘や肩でえいっ、とやった所で、びくともしませんよね。全身を用いて、腕は力を伝達させるようにするはずです。突きも、それと似ているんですね。(で、その理合のまま、剣を無手にすれば……解りますよね。)

いきなり話は飛びますが、現代人は、このような身体運動が乏しくなっていると、私は推測しています。ロジックとしては、道具を用いるのが少なくなった事や、移動手段に徒歩があまり選択されない、というのがあると考えています。生活様式が身体運動構造を規定する訳ですね。尤も、この観点で実証研究がなされているという話は聞いた事が無いので、あくまで推測的ロジックですが(高岡氏の論に倣っています)。もしこの観点から、色々な文化ごとの傾向が判明すれば、有意義かも知れませんよ。日本のスポーツ界とかにとってもね。

後、身体運動と心理状態との関係、という観点もありますが、推測の積み重ねは、あまりやり過ぎるとちょっと危ないんで、この辺で(齋藤孝氏になっちゃう)。

※一応、ロジックだけ出しときましょう。

体幹系の運動の不足(四肢主導系)→体幹部の筋肉等の組織の硬直(わざとこういう表現にしてます。医学的には色々な専門概念があると思います。高岡氏的には、「拘束」が身体に現れた状態、といった所でしょう)→体幹部の硬直時の生理状態が心理学的影響を与える

と、こんな感じ。まあ、肩凝りが心理的に影響を与えるというのは誰しも実感する所でしょうから、その延長、あるいは一般化、とでも考えて下さい。

参考文献

究極の身体 Book 究極の身体

著者:高岡 英夫
販売元:講談社
Amazon.co.jpで詳細を確認する

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2008年7月11日 (金)

木刀

洞爺湖サミット関連の土産物で、木刀が売れたとか。

どうでもいいですが、武術をやる人は、「木刀」じゃ無く「木剣(ぼっけん)」と言ったりします。

ちなみに、私が愛用しているのは、10年以上前に買った白樫の、たかだか3,000円弱のやつです。他のは、どうもしっくりこなくて、それに落ち着いてます。紙やすりでニスを落として使ってます。柄は艶消しのさらさらしたのが好きなのです。

木刀って、値段に凄く幅があるんですよね。高いのはこんな値段だったり⇒木剣ショップ - 高級品木刀 - 本黒檀特上木刀

「木剣」でググると、十一番隊隊長が沢山出てくる(笑)

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殺陣木刀 (大)黒 木刀 殺陣練習用木刀 殺陣木刀 (大)黒 木刀 殺陣練習用木刀

販売元:しのびや楽天市場店
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2008年7月10日 (木)

確認

改めて、「ゲームの影響」に関して、自分の考えを述べておきたいと思います。

まず、ゲームは人間にどのような影響を与えるか、というのを、時間的な所を無視して一般的に語る事は出来ない、と考えています。何故なら、(コンピュータ)ゲームというのは、一様なものでは無く、様々なジャンルが混在しているものを総合して指す概念であり、さらに、時代によって中身がどんどん変化していくものであるから。例として、「”日本料理”の影響」というのを考えれば解りやすいでしょう。「日本料理」は、色々な料理を総合した概念であり、その内容は時代によって変化していく訳ですね。

従って、ゲームの影響は、と言う場合には、ある時点、あるいは時間的に区間を切り取って評価するのですね。

次に、ジャンルの問題。

ゲームの影響は、と言うのはちょっと単純で、本当は、各ジャンルについて考えなくてはならない。どういうジャンルのゲームはどんな影響を与えるか、という事ですね。で、「ゲームの影響」と一般論的に語る場合には、ゲームのジャンルの構成比や、売り上げの高いソフトのジャンルを考慮する必要がある。再び料理でたとえると、「”日本料理”は塩分が高い」、と主張するような感じです。これは当然、日本料理に含まれるものが全て塩分が高い、と言っているのでは無く、総体的に見てどうであるか、という主張ですね。よく食されている料理に使われる材料の内、味噌や醤油には多く塩分が含まれている、というような前提がある。

本当は、こういう所を踏まえずに、ものは言えないのです。しかるに、ゲーム批判者は特に、中身の多様性と変容の可能性に目を向けにくい。「ゲームは~」と、一般的な所を語りたがる。ジャンルに言及する意見はあるにはあるけれど、どうにも、きちんと調査した形跡が見られません。

再び、ゲームの変容の可能性について。

ゲームが変わっていく、というのは、大きく分けて、グラフィカル的な所と、入力デバイス的な所、そして、ジャンルの構成比を考える事が出来るでしょう。普通は、「音」の影響は、あまり考慮はされないと思います。

グラフィカルな部分では、それがリアルになっていく所への影響が懸念されています。つまり、高度に抽象的・記号的なグラフィックから、具体的・写実的なグラフィックになった場合、心理的な影響の与え方は異なるのではないか、という見方。

次に、入力デバイス。これは、コントローラの形状や、入力する信号の多様性が考えられます。WiiやDSが出てきて、信号入力時の身体運動のあり方も変化してきていて、影響も異なってくるのではないか、という視点です。

最後に、ジャンルの構成比。これは、解りやすく言うと、「何が流行っているか」、という観点です。RPGが数百万本売れているのか、FPSが主流なのか。家族で楽しめるゲームが売れているのか、テキストを読み込んで攻略するタイプのゲームが人気なのか。また料理の喩えを出すと、塩辛いものが好まれるのか、それとも油っこいものか、辛いものか甘いものか。そういう観点ですね。

そういった様々な観点から、ゲームの内容は常に変容する可能性がある、と考える事が出来ます。特定の化学物質の与える影響について考える場合などとは、また異なった問題なのですね。

尤も、ゲーム一般に共通する要素、つまり、ディスプレイを長時間見る事などについて考えるのも可能です。それはそれとして、きちんと研究すれば良い訳ですね。でも、それを「ゲームの影響」と絡めるには、慎重にならなくてはいけない。どのようにディスプレイを注目するか、というのも、ゲームのジャンルや映像の演出効果によって変化するのですから。

ゲームの影響について語る際、極端な条件を前提する人がいるんですよね。暴力ゲームばかりやって云々、とか。そういう場合には、ジャンルの好みにどういう要因が関わってくるのか、という考え方をしなければならないのです。そもそも一つのジャンルに没頭するのは現実にどのくらいあるのか、とかですね。

一部の論者は、暴力ゲームの特性がそうさせる、としている訳ですね。条件付けや覚醒剤のような効果がある、と。それも、他の要因とどう関わってくるか、というのを考察すべきで、それは充分に行われているとは言えないように思います。覚醒剤的な効果、というのは、明らかに行き過ぎた主張です。覚醒剤のような効果をもたらす、と言うのなら、神経伝達物質の分泌の観測だけで無く、行動の観察をするのも重要だと思います。覚醒剤使用者と精神医学的・心理学的な状態が一致するか、という所をきちんと見なければ、ものを言うべきではありません。そして、ゲーム使用時の心理学的な研究は、行われている訳です。

なんにせよ、過度に単純化して考えてはならないのです。単純化したいなら、それを正当化する確固とした根拠を提出するべきです。

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2008年7月 9日 (水)

案の定

来て欲しくは無かったけど来るかも知れないと思ってたものが来た⇒【秋葉原通り魔事件】暴発は脳の機能不全? 脚光浴びる脳科学 (1/2ページ) - MSN産経ニュース

 『ゲーム脳の恐怖』の著書がある森昭雄日本大教授は「人を殺すことの善悪がつかないのは記憶、感情などを司る前頭前野が機能障害を起こしているからではないか。同種の事件は今後増えるだろう」と懸念。「茨城県土浦市の8人殺傷事件の容疑者はゲーム中毒だった。格闘ゲームをはじめとしたゲームは反射神経で反応するだけで、思考能力が働かなくなる。凶悪犯罪を起こした容疑者の脳の状態を科学的に分析する必要がある」と指摘する。

どこまでやらかすのですかね、産経は。5流の週刊誌レベルの記事ばかり。

 文科省がNPO法人「子どもとメディア」に委託した調査によると

(内容はリンク先をご覧下さい)気になる。そのNPO法人とやらはこれか⇒子どもとメディア

調査の詳細はWEBでは参照出来ないようですね。

それにしても、森・高橋・柳田の各氏とは、解りやすいものです。産経らしい。

はてブにも書いたんですけどね。神経科学の人達は、もうちょっと積極的に、何らかのリアクションをした方がいいんじゃないですかね。このままだと、科学を知らない人は、森氏の意見のごときものを妥当なものとして鵜呑みにし、少し懐疑的な人からは、脳科学とはこんなものなのか、と思われて、どんどん誤解が広まるようにも思います。

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昔書いた事4

Interdisciplinary: 昔書いた事3の続き。

この頃から、武術関連の覚書を書く頻度が減ってきました。学問の勉強にシフトしたからですね。

○2001年9月~

・剣の受け

浅い打ち込みを、わざわざ前に出て受ける人がいる。形にとらわれている。剣を打ちつける事が目的ではない。

・殊更にメタファーなどを使うと、逆に混乱してしまう。

・合わせ

腕の脱力によって、体幹部主導の運動を行う。

・体捌き

膝関節の伸展・足首関節の底屈を抑制。腸腰筋による股関節の屈曲。ハムストリングスによる膝関節屈曲。大腿骨の回旋。倒れこみ。

・「背中で息をする」ことの重要性。(注:武術的な「呼吸」は、生理学のそれより広い概念です。気の流れとも重なります。)

・腹式・胸式を意識する人は多くても、背中側の呼吸(均等呼吸)を意識する人は余りいないのではないか。肚ばかり意識すると、上体が固まる危険性が有る。

○2002年1月~

・「現状維持」ではなく、「開発・向上」という意識をもたなければならない。

・主に日本の、特に武道・武術界における、「年をとらなければ上達しない」(←潜在的に、この様に思い込まされる、ということ)という教えと、潜在的擁護システムとの関係。

・フォームの先行

身体運動の合理性を無視して、視覚的な情報を手掛かりにして、形を無理やり作ってしまう。

・誰だって、自分が「出来ていない」とは思いたくないものだ。その我を捨てることができれば、一気に上達への道がひらける。

・人間がどの様に「運動し得るか」、という一般的論理を認識する(注:つまり、バイオメカニクス的観点)。

各種目で、どの様に「運動すれば良いか」(それは、ルール等の、体系の記号的構造に規定される)、という体系内の論理を認識する。

・自分の身体が固まっていることを、正しく受けとめられているということは、良いことだと思う。誰であっても、自分が劣っているなどとは思いたくなく、人よりも物事を分かっている、と思いたいものだ。それが、正しい認識を妨げてしまうのだ。

・分かる人だけが分かれば良いのだ、という考え方そのものは、有ってよいのだと思う。だが、自分はそう考えない。出来るだけ論理的・科学的に説明しなければならないと思っている。

・何事も、原因を一つのものに帰属させようとしてはならない。皆、そうするのが楽だから、何かに原因を押し付けて、深く考えるのを止めれば簡単だから、そうしているのである。だが、現象とはその様に単純ではないのである。

・「武道は科学で解けてはならないのだ」という信念は、なかなか根深い。

以上、2001年・2002年の覚書より抜粋。

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2008年7月 8日 (火)

気感を科学的に考える

※話があちこちに飛びます。ご容赦を。また、武術や気論に馴染みの無い人は、読む事が困難です。て言うか、こいつは一体何を言っているんだ? となる可能性大、です。どきどき。

COMPLEX CAT : 気の体感方法と諸問題1

これは面白い。

『秘伝』とか、こういう論考を載せればいいのに。

こういった議論は、科学的には最も検証し辛く、あっち方面にいきやすい分野なので、慎重に慎重に語らないといけないですね。正直、ちょっとどきどきです。

私自身は、気感というのは基本的に、体性感覚と記憶のコラボレーション、だと思っています。様々な体性感覚が知覚され、それが記憶と照合され、「蒟蒻のような」感覚、と認知される、といった感じでしょうか。もちろん、初めに用いるイメージも、その助けをするでしょう。その意味で、完全に解明出来るかはともかく、純粋に知覚心理学的・認知心理学的現象、だと考えるのが、科学的にも妥当と考えます。

私の先生も(先生の師も)、殊更に「気」を強調する事はありませんでした。もちろん、日本武術なので、気という言葉自体は使います。ですが、いわゆる神秘的な現象を想起させるような用い方は、強く戒めていました。いかに合理的に相手を制するか、というのを目的とする武術だったのです。ですから、たとえば遠当てのような技法には、強く懐疑的でした。偶然タイミングが合って触れていないのに相手が倒れる、という現象は成立し得るかも知れないが、それは武術としての技ではあり得ない、というお考えでしたね。

意念を用いて手の間に何ものかを感じる、というのは、随分前にやろうとしましたね。まあ、ちょこっとは出来ました。でも、武術的にはほとんど意味が無いと考え、止めました。今は、気感、特に、何か具体物を感じるような場合は、上にも書いたように、生理的・バイオメカニクス的な変化に基づく知覚に「意味付け」したものだと考えているので、その自然科学的変化そのものを理解し、それと知覚と結び付けるべきだ、と考えています。つまり、この「感じ」はどこそこの筋肉が収縮していて……という風にダイレクトに理解したい、という事ですね。そうすれば、それが身体運動として合理的か否かも認識出来るので、良いですね。※高岡英夫氏の提唱する身体意識論の内、「クオリティ」と関わってくるでしょう。

とまあ、ここまでは、特に問題無く、心理学的メカニズムで説明し得るだろう、と考える事が出来ます。が、問題はここから。

そう、他人に手をかざされて気を感じた、という現象です。これをいかに見るか。難しいですね。科学的に考えてみると、

  1. 相手の手が何らかの物理的作用を及ぼした。
  2. 武術の稽古中である事、気の話題をしている事、等の認識をあらかじめ持っていたため、それが何らかの体性感覚的知覚を作り上げた。
  3. 全くの気のせい。

こういった可能性が考えられるでしょう。当然、実証科学的には、3が真っ先に疑われなければなりません。たとえば、目隠しをして気を当てて貰い、きちんと術者を判別出来るか、という実験が考えられるでしょう。そこら辺の実験が徹底的になされれば、「気を発せられた(と主張される)場合に、受けた側が確かに何かを”感じている”」、というのが認められるでしょう。もちろん、脳イメージング研究の精度が高まれば、何かを感じているのをビジュアルで客観的に捉えられる可能性もあります。いずれにしても、とても難しいですね。当然、考え得る限り慎重に進められねばなりません。

で、気を受けた側が確かに何かを感じているとして(それを仮定しないと先に進まないんで)、今度は、そのメカニズムを探求する必要が生じます。

※あくまで仮定です。科学的には、まず3の可能性を排除「するべき」です。それをすっとばして1や2のメカニズムを論ずるのは、基本的にナンセンスだと思います。以下は、思考実験に近いものです。それも無意味では無いでしょう。本質的に、このエントリーにはそういう性質を持たせてあるとご理解下さい。

1は、人間の手(で無くても良いが)から発せられる何らかの物理的実体が、受ける側に影響を及ぼし、「感じ」を与える、という事です。私自身は、これには非常に懐疑的です。人間の体性感覚受容器への適刺激を、他の人間が触れずに(かつ道具を使わずに)与えるというのは、とても考えにくい。まあ、生理・心理学的には、人間から発せられるものを測定し、今度はそれを実験的に作り出して与えてみて反応するか、というのを調べてみれば良い訳ですけれど。精神物理学的、あるいは知覚心理学的には、閾値以上の刺激を離れて与えるというのは、疑わしいと考えますが、どうでしょう。

次は、2ですね。手を触れずに気を当てられているという「感じ」を覚えるという現象が成立し得るとするならば、科学的には、2による社会心理学的・認知心理学的メカニズムが働いていると考えるのが、妥当かと思います。つまり、状況が「そうさせている」、という事です。その意味では、錯覚に近い。この説を実証するのは、物凄く難しいですね。どうすれば良いか考え付かないくらい。ともかく、1で無ければ2です。それ以外には考えようが無い訳ですね。

後は、他の生物や物体にどういう影響を与えるか、という所が考えられるでしょうね。私は、ここら辺にはほぼ全て否定的です。もちろん、厳密にあり得ないとは言えないですが。実験デザインは比較的簡単だと思うので(効果があるか否か、という実験ならば)、興味がある人がやれば良いと思います。極めて厳密、かつ慎重に行われなければならないのは、言うまでもありません。

私の持論は、「”気”とは、ある個人内、あるいは人間―人間のシステムで成立する生理・心理学的な総合的現象である」、です。それ以外の可能性は、基本的に排除します。

こんな所でしょうか。纏まりに欠けますけれど。

complex_catさんの文章、結構ぎりぎりの所ですね(笑) (はてブにも書きましたけど)綱渡り的な。ともあれ、気功にも科学にもお詳しい方の意見というのは、とても貴重だと思います。面白くて一気に読みましたしね。

そうそう、このエントリーを書いていて、思い出したエピソードがあります(記憶を元に書くので、詳細は違っています)。

以前、テレビにMr.マリック氏が出演していました。

マリック氏は、他の出演者の腕に手をかざし、触れないぎりぎりの所でさするように動かし、何か感じないかと訊きます。その人は、少し驚いたような顔をして、感じます、と言います。

そこでマリック氏が一言。

「”毛”です。」

これは面白かった。当時は意識していませんでしたが、一つ懐疑的な考えが鍛えられたかも知れません。

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またまた話は変わって。

畳半畳内で連続して受け身の取れる古武術の達人の聴勁を見せて貰ったことがありましたが,かならずしも気で説明する必要はないという方でした。その方は何度どんなタイミングで拳を出しても全部,簡単に外していました。

私は、「畳半畳内で連続して受け身の取れる古武術」というのを、一流派しか知りません…。

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2008年7月 7日 (月)

科学の定義

数学屋のメガネ:心理学や言語学は「科学」になりうるか

数学屋のメガネ:社会「科学」の可能性

うーん。

解らない。

私は、科学という概念の必要十分条件を設定して(定義)、それに当てはまるか否かで科学かそうで無いかを分類する、という事そのものに無理があるんじゃないか、と思っているのですが、そういう人間には、なんとも難解な文章です。

もちろん、私が板倉氏の論を知らない、というのも関係しているのでしょうけれど。あー、しかも、宮台氏の言説も知らないんだ…。

リンク先によると、科学の定義とは、

板倉さんが考える「科学」というのは、「仮説実験の論理」というものを経て、それが一般的・普遍的な真理であるということが確立された命題あるいは命題群(理論体系)のことを指す。「科学」というのは、現実の対象に対して成立する「真理」を意味する。そして、その真理は一般的・普遍的であることが特徴で、ある時間・場所・対象がたまたまそうであったという偶然成立した真理とは区別される。

このようなものであるとの事です。

ごめんなさい、よく解りません。

と言うか、まず、板倉氏の定義を妥当な科学の定義として論を進める正当性が知りたいような。それを基準にして、科学か否かを判断して良いものなのでしょうか。

心理学が個人の心理という個別的・具体的な対象を扱っている限りでは、これは「科学」にするのは難しいかもしれない。むしろ、広告業界などが、どのような広告が多数の人に影響を与え、購買意欲という「心」の作用を掻き立てるか、などという問題設定をした方が「科学」としての心理学に近いものになるのではないだろうか。ヒトラーの宣伝活動などは、心理学の対象としては興味深いものになるかもしれない。

これって、社会心理学的なものの事なのかな。当たり前の話ですが、そういう研究は普通に行われている訳で…。

今一つ、こう、具体性が見えてこないんですよね。現状の科学研究との繋がりが判然としない、と言うか。

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参考資料的な。

科学哲学における線引き問題の現代的展開(PDFファイル)

疑似科学と科学の哲学 Book 疑似科学と科学の哲学

著者:伊勢田 哲治
販売元:名古屋大学出版会
Amazon.co.jpで詳細を確認する

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2008年7月 6日 (日)

はてブ はじめました

はてブを始めました。

実は、始めてからひと月近く経ったりしてますけど。

「id:TAKESAN」ではありません。

私のIDが判るかなっ(わざとらしい)。

既にお気に入りに入れて下さっている奇特な方もいらっしゃるようです。

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昔書いた事3

Interdisciplinary: 昔書いた事2の続き。

○1999年1月~

・手の内について

悪い手の内―横から太刀を持つ。親指の所から崩され、太刀を奪われる。

・下肢を動かす時、股関節の働きが主となる。

・重心移動

余計な重心移動は決して行わない。たとえば、前方へ斬り込む時、一度後脚に体重をかけて行うのは良くない。(中略)後脚の膝関節伸展による丹田の浮き上がりも見られる。これも出さない様気をつける。極くゆっくり行う場合は、体重を後脚にかけないと出来ないが、そうでない時はよく意識する。

・武術の技法体系において、各要素は、他の要素と連関している。安易に他武道の動作を取り入れる事は絶対避けねばならない。佐川先生も、様々な格闘技・武術の技を単に寄せ集めたのではなく、「合気」という理合に基づいて融合させた技法体系を造り上げたのだろう。

・小胸筋の働きが大切である。

・アレクサンダー・テクニークは、非常に参考になる。体の地図ということ。

・体から肩甲骨を引き剥がすように。

・相手の体の事を考えずに、自分勝手に力を発しただけでは、技はかからない。力を加えるべき角度を考える。

・投げる形ばかり見てはならない。投げられる時の形をよく見る。

・武道の科学的・論理的・体系的な解明を目指す。広範囲の学際的な研究。(注:ここら辺は、高岡氏の受け売りぽいですね。初めのの文は引用かな)

・肩は絶対に力まない。絶対というのは、幾ら言っても言い過ぎではない。

・気の流れ技―他者運動量の利用。

・股関節屈筋群を知覚する。腹と脚とのつながり。

・骨は、筋肉の力によって、互いに引き合う。

・統計学的手法はどうも信用出来ない。使い方によっては非常に重宝すると思うが、何十年データを蓄積しても、無駄なものは無駄。

(注:恥の記録も載せておきます。今では考えられない記述。ちなみに、この時点で私は、統計学の入門書を1冊も読んでいないです。こういう経緯もあったりしたから、知らないのに非難する人に、「具体的に解ってて言っているのか」、と問うたりするんですね。)

・高岡の「瓦重構造」の概念は、非常に重要である。

・やはり自分には、科学的な考え方が向いている。少なくとも武術の実技面に於いて、あまり観念的・抽象的な説明ばかりするのは宜しく無い。何故ならば、武術は「力学的実体を因子とする文化現象」(高岡)であり、「文学や形而上哲学の如き観念的・思弁的或いは唯言語的な文化現象とは異なり、本来的に実証的性格を有する」(高岡)からである(注:鉤括弧内は、高岡英夫 『武道の科学化と格闘技の本質』より引用)。

・競争は大いに結構。然し、そこには絶えざる向上心が無ければならない。互いに切磋琢磨し、高め合う所に意義がある。互いに足を引っ張り合って、少しでも自らが有利に立とうとする様な貧しい心では全く意味が無いのである。

・素晴らしい能力を持った他人を認める事が出来ず、妬み・恨みの心を持ってしまう。悲しい話だ。

・今日、岡本正剛先生の、「大東流合気柔術」を読んだ。参った。あの体は尋常ではない。あの腕の位置はどういう事だ。素人には分からないだろうが、あの脱力は出来るものではない。目安としては、「腕が長く見える」という事。

・己を過信してはならない。他人を見下してはならない。

・物事の本質が直観的に解っているのと、それを更に科学的・論理的に研究して認識するのとでは、非常に大きな違いがある。前者のレベルが低いというのではない。

・外受け

胸の開き、沈身、肩の降ろしを使う。腰へ収束させる(体の裏)。前腕の回内。

・内受け

胸の閉じ、沈身、肩の降ろし。肚(ハラ)へ収束させる(体の表)。前腕の回外。

・今日、テレビで少林寺最高武僧の方の動きを見た。流石に少林寺最高武僧というだけあって、体はゆるゆる、正中線も腰腹もしっかりしていて、肩の力も見事に抜けていた(注:少林寺の釈徳健という方。今まで見た武術家の動きの中でも最高峰だったと、現在も考えています。大きな声では言えないけれど、You Tubeにあったり。アウト動画か微妙なところなので、貼りません)。

・科学的に考える。観念的ではなく論理的に。直感も大切に。構造を把握する能力。

○2000年1月~

・自分がやっている事を解りたい。人に何を訊かれても、矛盾無く答えられる様になりたい。それが科学的認識。本質の構造の解明。身体運動は力学的現象であるから、実証主義的認識を併せ持っていなければならない。「こうかも知れない」ではなく、「こうである」と言える様にならなければいけない。

・何処にどの様な筋肉があり(位置・形・大きさ)、それはどの様な運動を引き起こすか。ある程度大雑把な理解でも、運動に対する認識はがらりと変わるだろう。身体の分析的な把握。人間の身体は、非常に複雑精緻な構造をしている。従って、身体を単なる一塊の物体と考えるのではなく、又、身体各部を全く別な物として考えてもいけない。だからこそ、運動構造という認識が必要となる。

以上、1999年・2000年の覚書より抜粋。

毒舌過ぎたり意味不明な文章だったりで、なかなか選ぶのに苦労した…。段々と、科学的な思考になってきているようです。

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2008年7月 5日 (土)

科学の理解度判定問題に答える

ASIOS公式ブログ: 科学の理解度判定問題

大変興味深いので、やってみます。もちろん、カンペ無しで。

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【問1】新しい理論は科学を発展させるから、新たな主張にはあまり厳しい批判をせず、大事に扱うべきである。
a. その通り
b. そうではない

答え:b
理由:科学とは、ある説が妥当であるかを観察や実験によって確かめていくプロセスであり、それによって集積された知識の体系でもあるから、新しい理論あるいは仮説は、他の研究者から厳しい批判を受け、その妥当性が検討されるべきである。それは、「間違いを探していく」プロセスであるとも言える。


【問2】これからも絶対に間違いが見つからないように注意して作られた理論は、当然正しい理論である。
a. その通り
b. そうではない

答え:解答不能
理由:「絶対に間違いが見つからないように注意して作られた理論」という文の意味が判然としないから。

※一応、素直に読むと、解答の仕方としては、「いかに”注意”されようとも、科学としての正確な手続きを踏まえて確認されているか否かが重要なのである。”注意して作られた”事は、理論の正しさを保証しない」、等が考えられるでしょうか。意地悪ですみません。

【問3】新しく立てた理論について、その理論で説明できるという例を沢山見つければ、その理論の正しさはどんどん確実になっていく。
a. その通り
b. そうではない

答え:a(もしくは解答不能)
理由:「例を沢山見つければ」、「正しさはどんどん確実になっていく」という文をどう捉えるべきか…。一般には、理論から導き出された作業仮説が実証されれば、理論は確証された、とみて良いとは思うけれど。そして、それが追試されて他の研究者によって確認されていく訳ですね。もしかすると、科学哲学的な観点からの問いかも知れませんが。


【問4】"「白いカラスが存在する」という主張と「白いカラスは存在しない」という主張は対等なのだから、双方が証拠を持ち寄って議論すべきだ。"という考えは科学的である。
a. その通り
b. そうではない

答え:b
理由:挙げられている2つの主張は対等では無いから。一般に、~が無いという命題は証明不能であり(全てを調べ尽くすのは不可能)、~があるという命題は、一例でもあれば証明されるので、非対称である。従って、新奇な理論を提出する側に、立証の責任が課せられる。即ち、この場合には、「白いカラスが存在する」と主張する側が、白いカラスを見つけ出し、証拠を提出しなければならない。1000匹カラスを捕獲して全てが白く無かったとしても、見つけていないカラスに白い個体がいるかも知れない。


【問5】科学の歴史において現代では間違いとされる理論が主流になっていた事が多々ある。これは科学が失敗した例である。
a. その通り
b. そうではない

答え:b
理由:このような例を考える場合、当時の状況を考慮する事が必要である。現代的な観点から誤りである説が主流だったとしても、それは、当時の観察や実験の方法、あるいは、他に知られていた理論の不足等によって詳細な検討が出来なかった、という事が考えられる。科学とは、理論を検討するプロセスも含むのである。

※「科学が失敗した例である」というのをどう捉えるかもポイントかな。科学とは、失敗しながら知識を確実なものとしていく営為である、とも言えるかも知れないから。

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難しいですね。問いに含まれる言葉の意味をどう捉えたものか、と悩んでしまいます。もしかすると、そういう風に「引っ掛からせる」のも狙いなのかも知れませんけれど。

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2008年7月 4日 (金)

戯言

秋葉原通り魔事件 ~ 人生はリセットできない / SAFETY JAPAN [松村 喜秀氏] / 日経BP社

本当に下らない記事。戯言です。ふざけている訳では無く本気でこのような言を撒き散らす事に、戦慄を覚える。

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気とニセ科学

ふと思った事。

最近の武術関連エントリーとコメントのやり取りは、「ニセ科学(疑似科学)批判者は、”気”と言うだけでそれをニセ科学(疑似科学)だと頭ごなしに決め付けて否定する」的な意見への反論の例になっている気がします。

気という概念をニセ科学や疑似科学と判断するには、それがどのような文脈で、どのような意味を持たされているか、というのを考えなくてはならない訳ですね。

たとえば、それが、自然科学の原理と全く矛盾するもので、かつ自然の様々な現象を合理的に説明し得るものだ、と言うのであれば、それには疑問を差し挟まざるを得ない。あるいは、気の概念は科学的に解明されたと言い、その説明に、たとえば物理学的で無い「波動」を用いたりすると、それは「ニセ科学」などと判断され、批判される事になります。

私自身は、気という概念は、分析的に説明する事が困難な、あるいはまだ分析されていない、ある全体的・相互連関的な現象を整合的に説明するための概念である、と捉えています。従って、現代の科学的な知見をもってすれば、それを対象化し、きちんと分析的に考究する事が可能である、と考えています。

ただ、気をつけなければならないのが、過度に単純化する事。たとえば、気の効果だとされているものを、ある種の電磁波の効果だと短絡してしまう、等。元々ホリスティックな概念であるものを下手に切り取ってしまうと、その言葉によって意味されていたものとは全くの別物を、「気」と定義してしまう虞がある訳ですね。

難しいのが、使う人によっても意味がバラバラである、という所。これが、厳密な概念の定義を重んずる科学的な術語との違いですね。言い方を換えると、誰もが意味を共有出来るように概念を定義したものが科学的な術語である、となるでしょう。だから、歴史的にどう用いられてきたか、とか、どのような論者がどういう風に使っているか、というのを詳しく吟味しつつ、科学というメスで分析していくのが肝要である、と言えるでしょう。

私は、「”気”はニセ科学(疑似科学)だ」、という立場はとりません。何故ならば、それは極めて多義的な概念であり、個別の用いられ方を検討せずに一般的に評価するのが困難なものであるから、です。

余談ですけれど、ニセ科学批判者にして気概念などにも(必ずしも否定的で無く)興味を持っている人、というのは、それほど多く無い気がします。そもそも、ニセ科学論と武術の両方に興味を持っている人が少なそう。complex_catさんや黒猫亭さんや、こちらにコメントを下さる皆さんは、、そういう(多分)数少ない方々なんじゃないかな、という気がします。

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2008年7月 3日 (木)

挑戦

スポーツナビ | 北京五輪への道 | コラム|36歳の朝原宣治「正真正銘の最後になる」

朝原選手には頭が下がりますね。

「チャレンジ精神」と言ってしまうと、衰えかけた人の努力を称えるという、少しネガティブなイメージも持ってしまいますが、朝原選手の場合、オリンピックという世界最高の舞台に挑戦出来るパフォーマンスを長年維持出来るというその事実そのものが、とても素晴らしい事だと思います。

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2008年7月 2日 (水)

内功を科学的に見てみる

黒猫亭さんのコメントへのレスです。

多分これは、日本武術とも関わる問題でもありますね。とっても興味深く、本質的な議題です。

中国武術の体系を深く勉強した訳では無い立場の者が語るのはおこがましいですが、少し私見を。

科学的な視点を交えて考えてみると(ちょっとややこしいかも知れません)。
内功は、一般に、自身の身体の気の流れにアプローチし、コントロールする体系と言う事が出来ると思いますが、これを、心理学、あるいはバイオメカニクス(生体力学)的観点から見てみると、身体に意識を向ける事によって、体性感覚等の体の「感じ」を知覚し、それを手掛かりにして身体運動システムを制御していく方法を体系化したものである、と考える事が出来ると思います。

人間は、視覚・聴覚情報優位の動物の訳ですね。だからどうしても、体性感覚的な情報は、無意識的な処理に任せてしまう傾向がある。たとえば、どの筋肉がどのくらい収縮していますか、と訊かれたとして、それに答えられる人はほとんどいない、と思います。
武術では、そのような体性感覚的な内的な情報を意識させるために、気等の概念が用いられます。「気の流れ」という言い方もその一つです。気の流れというのは、自己と他者の認識的・心理学的な関係を指す場合と(「相手の気の流れを読む」という表現や、合気道の「気の流れ」技での用法)、上に書いたような、体性感覚的情報の時間的・空間的変化を表す場合とがある、と考える事が出来ます。内功は後者のアプローチを強調したもの、と捉えられるのではないでしょうか。

バイオメカニクス的には、自身の気の流れをコントロールするという認識によって、体幹部の運動を向上させる、という面があります。たとえば、呼吸法によって、普段の生活では意識されないような筋肉の感覚を強く意識する事が求められます。腹部の深層の筋群や、肋間筋のような呼吸筋の収縮した時の感覚を意識し、その情報をフィードバックして、改善していく訳ですね。中が見えない箱に手を突っ込んで模型を作る、というようなイメージが、比較的近いかも知れません。

元々、深層の筋肉というものは、解剖でもしてみない事には見るのは不可能ですし、どういった構造・機能を持っているかも把握し辛いものです。ですから、ある特定の運動を行った時の感覚情報を、パターン、あるいはスキーマとして認識して、経験的に、その内有効であるものが淘汰されて残った、と考えられます。それを言葉で表現したものが、「丹田に気を集中させる」であったり、「正中線を作る」、であったり、という訳ですね。そして、その内的な情報を認知し、コントロールしていく方法が、経験的に蓄積され、それが整理された結果、武術的な内功という鍛錬システムが形成された、と見る事が出来るのではないか、と考えています。

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2008年7月 1日 (火)

昔書いた事2

Interdisciplinary: 昔書いた事の続き。前と同じく、今と考えが違う所があります。今見ると間違っていると感じるものも、敢えて載せます。たとえば、「意識」とか「感覚」の使い方なんかは、今と全然違って、心理学的な定義を踏まえていなかったします。

○1998年8月頃~

・支点が動くことも気にしない。そのまま下ろす。つまり脱力ということ。しかし、初心者はつかまれた所を意識。初心者は力を抜けといわれても無理だ。

上手な人の技を見ると、肘を曲げているように見えるが、あれは「曲がっている」のだ。曲げようと思ってまげている訳ではない。

・今まで腕を張る事にこだわりすぎていた。むだな力みが抜けない。力を抜く。曲がる時は曲がれば良い。伸筋云々というのもこだわりすぎない。

・柔軟な考え方。意地を張ってはいけない。間違った時は間違った。ただ、意地と信念は違うだろう。

・自分の体の使い方での発見は、それが以前からやっていたことなのに新しい発見だと思うことがままある。そして、それをわざわざ新たな術理の発見だと発表する人が居る。多くの場合は、意識(感覚)が、新たに出来た、ということだ。(注:解りにくいので補足。つまり、バイオメカニクス的に、運動の仕方が変わっていなくとも、自分の身体意識についての内観が変わって、運動そのものが変わったと誤解してしまう場合があり、それについての「解釈」を新しい「術理」の発見だとして発表する人がいる、という事。どなたの話かは明らかですね。)

・昨日、色々友人相手に練習したが、やはりそうはうまくゆかないものだ。

・佐川幸義先生は、「私の合気は腕の筋肉の微妙な働きで云々」と言われていたそうだが(注:佐川翁関連の著作を参照して書いたものです)、前腕の筋肉を微妙に使うには、指と手首を使うということになる。もし佐川先生がこのことをふまえた上でおっしゃっていたのであれば、指と手首の操作が非常に重要だということになる。

・「透明な力」というのは、塩田先生が言われていた「呼吸力」とほぼ同質のものだったのではないか。(中略)ものごとには段階というものがある。ある程度力がある人に技が出来ても、それよりさらに力の強い人はいる。強い人は幾らでもいる。つまり、五の力には十の力で対抗し、十の力には十五ので対抗しようとする様なものだ。

しかし、合気というものの考え方では、相手の力を消し去ってしまう。つまり、十の力をいきなり零にしてしまうという。想像を絶する。もしそれが実現したならば、とてつもなく合理的であり、力を使わないということである。

・腕をゆっくり降ろすのと、脱力して落とすのとでは当然使用する(される)筋肉は異なる。

・肩の力は抜けるものではなく、抜くものである。それは、普通の人がただ力を抜くという程度のことではなく、上腕骨が関節から抜けている様な、糸でつながっている様な感覚でなくてはならない。佐川先生の言葉を見ても、「透明な力」には、肩の力を抜く、ということが何度も出てくるし、朝日新聞の記事を見ても、肩の力は抜いて、力は肘から先に、とある。更に、○○先生のビデオを見ても、腕の上げ方そのものが違い、肩が落ち切っている。弟子や講習会参加者等は、よくわかっているのだろうか。寺田五右衛門が白井亨に行った肩砕きというのは、この辺りを教えたのかも知れない。

・脚の力を抜く。胯(注:この字は普通に出るのかな。「クワ」です。この当時は、中国武術系の本を読んで、用いられている言葉を借りたりしていました。誤用が多いかも知れません)、つまり脚の付け根の力を抜く。感覚としては、肩を抜いた時の感覚と殆ど一緒である。これは、高岡氏の言われる「開側芯」というディレクターと同じだろう。とにかく、今までは、脚に気持ちを通そうとし過ぎていた。力んでいた。

・腕の力も抜けていなければならないが、脚の力を抜くことも、よく考えなければならない。

・伸筋ということをイメージすると、体がかたくなる感じがする。

研究者たちは、ちゃんと伸筋の意味を分かっているのだろうか。伸筋や屈筋、回旋筋や内・外転筋には、全部定義があるのだが、果たして分かっているのか、疑問である。

・気の力を伸筋云々というのは馬鹿な話である。何故「気」や「呼吸力」「中心力」「集中力」等が有効だったか。それはそこに無い、つまり、目に見えないからである。ところが、伸筋をもちいる、となると、それはそこに存在するのである。この様なことをいっていると、必ず矛盾が出てくる。(注:補足。つまり、気や呼吸力というものは、そもそも実体を指示する概念では無いので、何かホリスティックな現象を表す言葉として有効であるが、伸筋等は、解剖学的に定義された概念なので、その実体的構造機能を踏まえずに扱ってしまうと、矛盾を起こしてしまう、という事)

・剣の素振りをする時には、なるべく音がしない様に、手の内が緩まない様に心掛ける。

・つかむ

しっかりつかむということは、肩関節の筋肉を緊張させ、上腕を固定し、上腕の筋肉で前腕を固定し、前腕及び手首の筋肉で、手首と指を固定することである。

この中で、最も強いのは、肩である。だから、幾ら初めにひ力を使っても、肩の力そのものを殺さなければ、腕を動かすことは出来ないのである。だから、その肩の力を殺す方法を考えなければならない。ここの所を、森恕先生は、「肩のロックを外す」と言われている(注:大分前のフルコン誌を参照して記述)。

・以前は、素振りを三百本程度行ったら、脚に非常に負担がかかり、ブルブル震えて立つのもやっとだったが、今日千本振ってみると、後ろ足がほんの少し疲れただけで、後は何ともなかった。これは、脚の使い方を変えて、筋収縮が抑えられたからだ。威力も以前より高まっているはずである。本当に、力むというのは単なる自己満足に過ぎない。

・外見では殆ど同じに見える運動でも、筋肉の用い方が異なる場合がある。

・他流の研究をするのはとても良いことだし、必要なことだと思う。だが、体の使い方も分からない者が、その形だけを見て、批判し、あるいはそのまま使ったりする。これは良くない。

・自分の考えが上手く文章化出来ないのが口惜しい。もっと文の書き方を勉強しておけば良かったとおもう。

・黒田先生も言われているとおり、型を手渡した瞬間にその型は死ぬ。よく(たまにか?)先生が本当のことを教えてくれない、とか言う人がいる。しかし、このようなことをいっているのは非常に甘い。その指導者が、正しい本物の型を見せれば、それはもう「教えた」ことになるのである。型に命を吹き込むのは自分の責任なのだ。人のせいにするな。自分が出来ないことの責任を他人に転嫁している。料理の世界を見てみろ。下の者は上の者の技を必死で盗もうとしているはずである。彼等は生活がかかっているのだ。出来なければ、失敗すれば信用を落とし、クビになってしまうのである。本来、武術の世界も、また、スポーツ、芸術、学問等全てについても言える。今の世は教え過ぎだと佐川先生も言われた。今はインチキがまかり通っているし、嘘つきも多いから、良い師をさがすのは大変だ。運も大きく作用する。何も知らない者が良い悪いを見分けるというのも難しい。武術界程玉石混交な世界も珍しいのではないか。

以上、1998年8月~12月31日分の覚書より抜粋。

武術に親しんでいる人なんかは、もしかすると、今ブログに書いている記事よりも、こっちの方が遥かに読みやすい、と思われるかも知れませんね。今は、科学的知識を踏まえて、より整然と矛盾無いものを書こうとしていて、学術用語もどんどん出しているので、読み辛いかも。当時の覚書では、日常的な言葉で説明していますね。今回のはちょうど、甲野氏等に批判的になってきて、高岡氏の本の影響を受けてものを書いている頃ですね。ちょこちょこ学術的概念も出てきていて、色々考えているのがよく解る。過渡期、といった所かな。

個人的には、今書いているものの方が、100倍くらいレベルが高いし妥当だと思っていますが、「受けが良い」のは、上に抜粋したような文かも知れませんね。

こういうエントリーを上げたのは、こんな程度の事はとっくのとうに通り過ぎた所であり、また、この程度の事では「解った」とは到底言えないし、言ってもいけない、というのを示すためでもあったり。武術系では、これくらいのレベルの事でも、「解った」と思い込んでいる風な人も、見たりするんで。

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