昔書いた事2
Interdisciplinary: 昔書いた事の続き。前と同じく、今と考えが違う所があります。今見ると間違っていると感じるものも、敢えて載せます。たとえば、「意識」とか「感覚」の使い方なんかは、今と全然違って、心理学的な定義を踏まえていなかったします。
○1998年8月頃~
・支点が動くことも気にしない。そのまま下ろす。つまり脱力ということ。しかし、初心者はつかまれた所を意識。初心者は力を抜けといわれても無理だ。
上手な人の技を見ると、肘を曲げているように見えるが、あれは「曲がっている」のだ。曲げようと思ってまげている訳ではない。
・今まで腕を張る事にこだわりすぎていた。むだな力みが抜けない。力を抜く。曲がる時は曲がれば良い。伸筋云々というのもこだわりすぎない。
・柔軟な考え方。意地を張ってはいけない。間違った時は間違った。ただ、意地と信念は違うだろう。
・自分の体の使い方での発見は、それが以前からやっていたことなのに新しい発見だと思うことがままある。そして、それをわざわざ新たな術理の発見だと発表する人が居る。多くの場合は、意識(感覚)が、新たに出来た、ということだ。(注:解りにくいので補足。つまり、バイオメカニクス的に、運動の仕方が変わっていなくとも、自分の身体意識についての内観が変わって、運動そのものが変わったと誤解してしまう場合があり、それについての「解釈」を新しい「術理」の発見だとして発表する人がいる、という事。どなたの話かは明らかですね。)
・昨日、色々友人相手に練習したが、やはりそうはうまくゆかないものだ。
・佐川幸義先生は、「私の合気は腕の筋肉の微妙な働きで云々」と言われていたそうだが(注:佐川翁関連の著作を参照して書いたものです)、前腕の筋肉を微妙に使うには、指と手首を使うということになる。もし佐川先生がこのことをふまえた上でおっしゃっていたのであれば、指と手首の操作が非常に重要だということになる。
・「透明な力」というのは、塩田先生が言われていた「呼吸力」とほぼ同質のものだったのではないか。(中略)ものごとには段階というものがある。ある程度力がある人に技が出来ても、それよりさらに力の強い人はいる。強い人は幾らでもいる。つまり、五の力には十の力で対抗し、十の力には十五ので対抗しようとする様なものだ。
しかし、合気というものの考え方では、相手の力を消し去ってしまう。つまり、十の力をいきなり零にしてしまうという。想像を絶する。もしそれが実現したならば、とてつもなく合理的であり、力を使わないということである。
・腕をゆっくり降ろすのと、脱力して落とすのとでは当然使用する(される)筋肉は異なる。
・肩の力は抜けるものではなく、抜くものである。それは、普通の人がただ力を抜くという程度のことではなく、上腕骨が関節から抜けている様な、糸でつながっている様な感覚でなくてはならない。佐川先生の言葉を見ても、「透明な力」には、肩の力を抜く、ということが何度も出てくるし、朝日新聞の記事を見ても、肩の力は抜いて、力は肘から先に、とある。更に、○○先生のビデオを見ても、腕の上げ方そのものが違い、肩が落ち切っている。弟子や講習会参加者等は、よくわかっているのだろうか。寺田五右衛門が白井亨に行った肩砕きというのは、この辺りを教えたのかも知れない。
・脚の力を抜く。胯(注:この字は普通に出るのかな。「クワ」です。この当時は、中国武術系の本を読んで、用いられている言葉を借りたりしていました。誤用が多いかも知れません)、つまり脚の付け根の力を抜く。感覚としては、肩を抜いた時の感覚と殆ど一緒である。これは、高岡氏の言われる「開側芯」というディレクターと同じだろう。とにかく、今までは、脚に気持ちを通そうとし過ぎていた。力んでいた。
・腕の力も抜けていなければならないが、脚の力を抜くことも、よく考えなければならない。
・伸筋ということをイメージすると、体がかたくなる感じがする。
研究者たちは、ちゃんと伸筋の意味を分かっているのだろうか。伸筋や屈筋、回旋筋や内・外転筋には、全部定義があるのだが、果たして分かっているのか、疑問である。
・気の力を伸筋云々というのは馬鹿な話である。何故「気」や「呼吸力」「中心力」「集中力」等が有効だったか。それはそこに無い、つまり、目に見えないからである。ところが、伸筋をもちいる、となると、それはそこに存在するのである。この様なことをいっていると、必ず矛盾が出てくる。(注:補足。つまり、気や呼吸力というものは、そもそも実体を指示する概念では無いので、何かホリスティックな現象を表す言葉として有効であるが、伸筋等は、解剖学的に定義された概念なので、その実体的構造機能を踏まえずに扱ってしまうと、矛盾を起こしてしまう、という事)
・剣の素振りをする時には、なるべく音がしない様に、手の内が緩まない様に心掛ける。
・つかむ
しっかりつかむということは、肩関節の筋肉を緊張させ、上腕を固定し、上腕の筋肉で前腕を固定し、前腕及び手首の筋肉で、手首と指を固定することである。
この中で、最も強いのは、肩である。だから、幾ら初めにひ力を使っても、肩の力そのものを殺さなければ、腕を動かすことは出来ないのである。だから、その肩の力を殺す方法を考えなければならない。ここの所を、森恕先生は、「肩のロックを外す」と言われている(注:大分前のフルコン誌を参照して記述)。
・以前は、素振りを三百本程度行ったら、脚に非常に負担がかかり、ブルブル震えて立つのもやっとだったが、今日千本振ってみると、後ろ足がほんの少し疲れただけで、後は何ともなかった。これは、脚の使い方を変えて、筋収縮が抑えられたからだ。威力も以前より高まっているはずである。本当に、力むというのは単なる自己満足に過ぎない。
・外見では殆ど同じに見える運動でも、筋肉の用い方が異なる場合がある。
・他流の研究をするのはとても良いことだし、必要なことだと思う。だが、体の使い方も分からない者が、その形だけを見て、批判し、あるいはそのまま使ったりする。これは良くない。
・自分の考えが上手く文章化出来ないのが口惜しい。もっと文の書き方を勉強しておけば良かったとおもう。
・黒田先生も言われているとおり、型を手渡した瞬間にその型は死ぬ。よく(たまにか?)先生が本当のことを教えてくれない、とか言う人がいる。しかし、このようなことをいっているのは非常に甘い。その指導者が、正しい本物の型を見せれば、それはもう「教えた」ことになるのである。型に命を吹き込むのは自分の責任なのだ。人のせいにするな。自分が出来ないことの責任を他人に転嫁している。料理の世界を見てみろ。下の者は上の者の技を必死で盗もうとしているはずである。彼等は生活がかかっているのだ。出来なければ、失敗すれば信用を落とし、クビになってしまうのである。本来、武術の世界も、また、スポーツ、芸術、学問等全てについても言える。今の世は教え過ぎだと佐川先生も言われた。今はインチキがまかり通っているし、嘘つきも多いから、良い師をさがすのは大変だ。運も大きく作用する。何も知らない者が良い悪いを見分けるというのも難しい。武術界程玉石混交な世界も珍しいのではないか。
以上、1998年8月~12月31日分の覚書より抜粋。
武術に親しんでいる人なんかは、もしかすると、今ブログに書いている記事よりも、こっちの方が遥かに読みやすい、と思われるかも知れませんね。今は、科学的知識を踏まえて、より整然と矛盾無いものを書こうとしていて、学術用語もどんどん出しているので、読み辛いかも。当時の覚書では、日常的な言葉で説明していますね。今回のはちょうど、甲野氏等に批判的になってきて、高岡氏の本の影響を受けてものを書いている頃ですね。ちょこちょこ学術的概念も出てきていて、色々考えているのがよく解る。過渡期、といった所かな。
個人的には、今書いているものの方が、100倍くらいレベルが高いし妥当だと思っていますが、「受けが良い」のは、上に抜粋したような文かも知れませんね。
こういうエントリーを上げたのは、こんな程度の事はとっくのとうに通り過ぎた所であり、また、この程度の事では「解った」とは到底言えないし、言ってもいけない、というのを示すためでもあったり。武術系では、これくらいのレベルの事でも、「解った」と思い込んでいる風な人も、見たりするんで。
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コメント
胯について,一口メモ。
中国武術で言う「腰」はウエスト辺りを意味します。だから,あちらの人が書いたものを読み解くとき注意が必要ですし,姿形についてレクチャーを受けるときにも,日本武術が好きな「腰」は,「胯」と言わないと通じなかったりします。漢字を通して共通認識でやりとりできると信じているために生じる誤解です。
ちなみに太極拳などでの「胯をつくる」は脚の付け根の関節が伸びきらないようにしておくことです。これは初心者では,勁道確保のために外せない要件です。上級者では,関係なかったりしますが。
ターミノロジーはいろいろ大変です。
投稿: complex_cat | 2008年7月 3日 (木) 08:42
complex_catさん、今日は。
ご教示、ありがとうございます。
シンプルに、股関節の事(というか、大腰筋辺りの使い方)だと思っていました。半可な知識ではいけませんね。
投稿: TAKESAN | 2008年7月 3日 (木) 13:21