「科学だ」と言っていなくても。「科学だ」と言っているのに。
poohさんのブログのコメント欄(冒涜がまたひとつ:Chromeplated Rat:So-net blog)より、きくちさんのコメント。
「科学の問題であるかどうか」は、提唱者が「科学」と呼んでいるかどうかではないですよね。再現可能な客観的事実として提示されているのであれば、ポエムと呼ぼうがなんと呼ぼうが、科学者の検討対象になります。「物質の性質についての事実の言明」であるかぎり、そうなります。
もうひとつ言うと、彼らの白衣と顕微鏡と冷凍室というセットアップは「科学に見せかけるための道具立て」なわけだから、「ニセ科学」と呼ばれてもしょうがないでしょう。
自称「ポエム」なだけです。(きくち (2008-06-15 23:54)より一部引用)
とても重要な所。
「これは科学だ」と明示していなくとも、主張の内容から、科学的な言明である、と捉える事は出来るのですね。「物質の性質についての事実の言明」になっている、という部分が大切。
江本氏は、雑誌のインタビューで、水伝はポエムである、と言いました。しかし、水伝の主張は、言葉を掛けると結晶の形が変わると言い、しかも、何回やってもそうなる、と言っているのです。これが、「物質の性質についての事実の言明」。だから、それをしつつ、水伝が「ポエム」だと言うのは、実は通用しない。しかも、江本氏の本では、「実験」を謳っていて、「科学らしい」設定がなされている訳です。
ポイントは、何回やっても同じになる、と言っている所。これはつまり、「再現性がある」と主張している、という事。
水に言葉を掛けた(見せた)後に凍らせたら、言葉に応じて結晶の出来方が変わる、と言っていて、それが普遍的な現象である、と主張しているのだから、それは、即科学的な言明になると言えます。
この事は、物質科学だけで無く、心理学・社会科学方面にも適用出来ます。私が書いたコメントを、引用。
たまに、血液型性格判断も、同じような感じの議論になる場合がありますね。
信じる人は「科学だと言っていない(科学であると信じていない)」からニセ科学と呼ぶべきでは無い、能見説を知っている訳でも無い、という(誰が言ったかは忘れましたが)。
ところが、血液型で性格が判るのだ、というのは、きくちさんの表現をお借りすると、「社会の性質についての事実の言明」なので、それは即科学的な言明になる訳ですよね。つまり、心理統計的な、分布の問題に還元出来る(性格がきちんと測定出来るか、とかは措いといて)。
私は、その事自体を「科学的だと信じている」と表現したりしますけれど。
「科学」という言葉を一々意識しなくとも、科学的な話かどうかは判断出来る事もあるんですよね。(TAKESAN (2008-06-16 00:48)より )
血液型性格判断とは、ABO式血液型の情報だけから性格傾向が当てられる、という説です。性格が測定出来、いくつかの類型に分けられると前提すれば、血液型性格判断は結局、血液型ごとの性格類型の割合がどうなっているか、という問題だと見る事が出来る。
要するに、メカニズムについてどう解釈しようが、科学であると意識して無かろうが、提唱者や主唱者がいようがいまいが、「血液型から性格が当てられる(あるいは逆も)」という言明そのものが、科学的な言明になっている、と看做せる訳ですね。これを、きくちさんの表現を借りて、「社会の性質についての事実の言明」と書きました。
ちなみに、後のコメントで、きくちさんが、「あからさまな占いなら少し話しが違う」と仰っていますが、これは、占いというものが、日によって運勢が変動するような類のものであり、初めから超自然的な概念を用いるものもある、という所を考慮してのものだと思います。
次に、再び、先の自分のコメントより引用。
一方ニセ科学には、科学であると言っているにも拘らず、定義が不明確で概念をきちんと論証出来ないタイプもありますね。ゲーム脳とか。
ゲーム脳の場合、主唱者が、実証されたと主張しています。で、きっちりとした定義や作業仮説があって、それを実証されたと言っているなら、提示したデータや理論の考察、あるいは、他の理論体系との整合性を見て、実は論拠不充分であった場合に、「ニセ科学」と判断されます。しかしゲーム脳の場合には、それ以前の問題で、そもそも、明確な定義が無いものです(定義らしきものの一つは、「ゲームのやり過ぎによって前頭前野に機能低下を及ぼす」、という定性的なもの。別の所では、森氏が測定した「脳波」と称するもののグラフのパターン。別の所では、心理学的な状態のパターン)。元々、「ゲーム脳」という言葉は森氏による造語な訳ですから、きちんと定義されない以上、概念を分析して他の命題に直す事は出来ないのですね。それこそ、ゲーム脳という概念は、「森氏の頭の中にしか」ない※
従って、定義不明なものを「実証された」と言っているのだから、科学で無いものを科学と言っている事になる。それは即ち、「ニセ科学」だと判断されます。
大分、頭の中が整理されてきた気がします。
※「ゲーム脳」を、科学的議論の俎上に乗せるための条件は、
- まず、その概念の定性的定義を行う。たとえば、「ゲームのやり過ぎによって前頭前野に機能低下が起こる」。
- 各概念について、定義を行う。「ゲーム」とは何か。やり過ぎるとはどのくらいの時間か。前頭前野の機能低下とは何か。それらの定義が、先行研究と矛盾せず、基本的な科学の知識と整合するか、確認されなければならない。
- そうして定義された状態を「ゲーム脳」という語で示すのが妥当であるか、チェックする。言葉がきちんと、過不足無く説明出来ているか。
このくらいは必要です。この後に、作業仮説を立てるなりして実証していきましょうね、という事ですね。ゲーム脳は、それ以前の段階。
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コメント
自分で言うのはなんだけど。
珍しく、そこそこ綺麗なエントリーが書けた、と思う。
おおっ、これだ、と思う、ヒントのような一言って、ありますよね。
今回それは、きくちさんの、「物質の性質についての事実の言明」という文でした。これによって、かなり整理が進んだと思います。
お読みの方に、そんな所にも気付いて無かったのか、と言われそうですけどね(笑)
こういうのを、「a-ha!体験」と言うとか言わないとか。
投稿: TAKESAN | 2008年6月17日 (火) 02:22
水伝にしても、ゲーム脳にしても、科学の虎の威を借りているのだと思います。科学は人を説得する強力な武器であると認識しているから、科学を装うわけでしょう。
装っているだけで科学ではないと批判されたときに、「科学なんて言ってませんよ、ポエムです」と言い訳するか、「科学である」と強弁するかの違いはあります。どちらがズルイかといえば、前者ではないでしょうか。前者は科学を装ってウソをついていることを自覚しているわけです。後者は本当に科学だと思い込んでいるのかもしれません。
ドキュメンタリーを装ったヤラセが批判された時に、「いや、フィクションです」と逃げるような狡さを感じます。
投稿: zorori | 2008年6月17日 (火) 07:35
zororiさん、今日は。
前者は、「言い逃れ」なんですよね(後者を「開き直り」と見られない事も無いけれど)。
ずるいですね。その「ポエムである」という発言だけ抜き出して、科学であると言ってる訳では無いじゃないか、と言う人も出てますからねえ。江本氏の本を読んだの? と言いたいです。他にも、関連の実験と称するものは、やってるのですし。祈りの実験? とか⇒http://d.hatena.ne.jp/nekoluna/20080317/p1
投稿: TAKESAN | 2008年6月17日 (火) 11:43