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2008年6月21日 (土)

知識と経験と

鉄パイプで頭を殴っても死なないフィクションを見て、この程度では死なないと思ってしまう人がいるんじゃないか - ARTIFACT@ハテナ系

短いけど、なかなか考えさせられる文章。

まず、フィクションによって情報を得て、それが「本当だ」と思う事は、あると思う。

はてブかどっかにもあったけど、ビール瓶で人の頭を殴ったら簡単に割れるんじゃないか、とかね。

で、実際には、人間というものは、知識と経験によって、物事を認識していく訳なんだよね。

もちろん、峻別出来るものでも無いけれど、便宜的に分けて考えてみると、知識というのはたとえば、拳銃で撃たれて人が死んだとか、転んだ拍子に手を着いたら骨折してしまったとか、そういう情報を得る、という事。つまり、記号的に認識する、というのかな。

で、経験というのは、ここでは、「体験」というのと同じような意味だと考えて貰えれば良いのだけれど、つまり、「殴られて痛みを知った」とか、そういう類。心理学的に言うと、実際に物理的に攻撃を受けた際の知覚を記憶に刻む、とでも表現出来るかな。あの程度であんな痛みや怪我に見舞われたんだから、こっちはもっとひどい事になるだろう、という「比較」によって、推測する。

人間は、経験した事の無いものについては、常に類推し、推測しながら生きていく訳で。

それまでの経験(体験)と知識から、経験していない事を想像していく。だから当然、フィクションの情報を元にして、それが現実に対応している、という風に思い込む事は、あり得ると思う。

ただ、だからといって、それが即認識を固定する、とは言えないのだよね。結局、情報にどれだけのウエイトをかけているか、とか、他にどういう知識を持っているか、関心を持っているか、というのが問題になってくる。

それで、そのウエイトのかけ方そのものにも、知識と経験が関わってくる。高い所から落ちても怪我一つしない、という描写があったとして、それは、高い(けどその描写よりは低い)所から落ちた経験から類推したり、あるいは物理の法則から演繹したりして、「それは無い」、と考えていく訳だよね。そして、相対化して楽しむ。もちろん、周りの人間から「フィクションなんだから話半分で捉える」という教育がなされていた場合には、取り敢えずウソだと看做したりね。

リンク先への反応には、その現象に近い経験をしとくのが大事だ、という意見もあって、確かにそれは、ある程度は言えるのだと思う。だけど、それと同じくらい(あるいはそれ以上に)に、知識も大事。交通事故の怖さは車に轢かれないと解らない、なんて話は当然馬鹿げている訳で、それは、事故でとても多くの人が亡くなっているという事実を知っていたり、車の重さや大きさから直感的に類推したり、というので「解っている」んだよね。

だから結局、知識と経験(体験)の両方が大事というのは一般論として言える、と思う。

後は、バランスの問題だろうね。やっぱり人間は、「想像力」を働かせる存在だから、知識の方がより重要、とも思ったり。より一般的・普遍的なものとして、物理の基本の知識とかね。人間の構造を簡単にでも理解しておく、とか。それは、とても重要な事だと思う。出来れば、「フィクションは基本的にデタラメだ」、くらいの認識を持っていた方が、安全側になって良いとも感じる。いかにも「本当っぽい」、というのはあるからね。そういう基本の認識を持つというのも、広い意味でのリテラシーと言えるかも知れない。

まあ、大人なら、人間がかめはめ波を撃つ事が出来ないなんて、誰だって解ってる訳だけど、それが解っているのは、やっぱり「知識」があるから、なんだよね。体験から、「かめはめ波が撃てない」のは、解らないんだよね。

※上で、知識と経験は「峻別出来ない」、と書いたのは、体験によって得られた知覚的な記憶も「経験知識」と呼べるだろうから。それと、知識を経験によって確認する、というのもあるしね。だから一応、「知識」というのは論理的な知識で、「経験」は、体験的なもの、という風に、便宜的に分けてみた。

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コメント

 知り合いと交わした会話。
友「ソウルキャリバーって、武器に扇があるんだよね」
私「へー、それじゃハリセン対決みたいだな。楽しそう」
(私、ゲームをしてみる)
私「あのさ、このゲームって、何か面白武器が混じってるけど、次はハリセン入れて欲しいよね。ドツキ漫才のツッコミ対決ができそう……ま、今のままでもいいか」
友「でもその扇、多分”鉄扇”だから、リアルで殴ったら即死しそうだけど」
私「^^;)」

投稿: apj | 2008年6月21日 (土) 00:15

apjさん、今晩は。

日本武術方面の人だと、武器として「扇」が出てくると言われた瞬間に、鉄扇が想起されますね(笑)

ググったら、「鉄ハリセン」なるのが出てきました。さすがに実在はしないだろうけど…。

投稿: TAKESAN | 2008年6月21日 (土) 01:57

鉄扇って、鉄っていうくらいなんで、さぞかし思いんだろうなぁ。
とか、
ゲームキャラだとスレンダーな女性がブンブン振り回してたりで、(勝手なイメージ)実はムッキムキなのかなぁ。
とか、思って調べてみたら、以外と軽いんですねぇ。
軽いのだと160gとかなんですね。始めに見つけた450gでも軽いですし。
元々は武士の護身用で刀も防げたとか…。一人でちょっと感動してましたね。


あ~、もっとコメント書こうと、仕事中に考えてたけど忘れてしまいました。(笑)

投稿: 知己 | 2008年6月21日 (土) 03:20

知己さん、今晩は。

武器術にそんなに詳しい訳では無いですが、鉄扇術というのがありますね。開かないやつでツボを極めたりもするとか。

金属だから、軽く当たっただけでもメチャクチャ痛そう…。木刀でも、当たると骨をやっちゃいますしね。

あ、ちなみに、時代劇で見られる「十手」。あれもちゃんと武術で使うんですねえ。ご存知無い方は、どんな使い方するんだ、と思うでしょうね。私も、黒田鉄山という方のビデオで観たのですが(ニコニコにも動画があったけど、貼りません…。多分OUTのやつです)。

投稿: TAKESAN | 2008年6月21日 (土) 03:39

>知己さん、TAKESANさん

TAKESAN さんが仰るように、こんにち「鉄扇」と呼ばれているものには開くものと開かないものがあるようですね。開くものは骨だけが鉄で後は普通に和紙で出来ていますから当然軽い。五〇〇グラム未満というのが一般的でしょう。もっと重いものとなると、単純にでかくするしかないですから、舞扇みたいな長くてでかいものになって携帯に不便です。

これは鋼の骨で刀身を受けたり突いたりするもので、比較的軽いですから、振り回して打撃を加えるという使い方はしないみたいですね。主に材質の堅さを活かした型になるようです。

開かないものというのは、要するに扇子を象った鉄の塊ですから当然重い。これはそのものズバリ、短い鉄の棒として打ったり払ったり突いたりという用法で使うようですが、これはどうも割と新しく作られたもので、武術の鍛錬の為に(つまり鉄下駄みたいな感覚で)作られたものだと聞いた覚えがあります。

十手のほうは割合由緒正しい武器で、武芸十八般という時には十手術も入っていますよね。元々中国から伝来した武器だということですから、サイなんかと近い武器でしょう。中国の古典を読んでいると、たしかに十手がよく出てきます。投げ銭というのも出てきますから、銭平の技は割と由緒正しい武芸の範疇ですね(笑)。

十手は、日本では戦国時代に「兜割り」として普及したものらしいんですが、この兜割りというものの実物を見ると、十手とはまた形や用法が違います。五〇センチくらいで反りのある短い木刀型の鉄の棒に十手の鍔が附いているもので、名前の通り鎧兜の上から打撃を加えたりしたようですが、より直接的には近接戦の組み討ちで相手の刀を折る目的で使ったようです。

戦国時代にはすでに鉄砲が登場していますから、最低限馬と弓と槍で戦争する時代になっているので、刀というのは血みどろの組み討ち用のサブアームに過ぎないですよね。で、その場合、どんな銘刀でも何人か斬ったら刺したり殴ったりする以外使い道のなくなる刀より、最初から致死的な鈍器として使える上に、相手の刃物を何十本でも毀せる兜割りが流行したのかもしれません。

この「刀を毀す」というのは十手術にも受け継がれているようで、十手術と鉄扇術や兜割り術というのは或る程度共通する要素があるようですが、習ったことがないので詳しいことはわかりません。

投稿: 黒猫亭 | 2008年6月21日 (土) 06:03

>黒猫亭さん
初めまして、よろしくお願いします。

詳しい説明有難うございます。
やっぱり用途によって、道具は色々と進化、もしくは変化していくのですね。刃物なんかも、武器から調理用まで、今では数え切れないほどありますからね。
私は武術関連は殆ど情報を持ってないのですが、武器だけでも色々様々で面白いですね。
う~ん、ちょっとそっち方面も調べてみようかなあ。

文章もこんな風に分かりやすく読みやすく書けるようになりたいですねえ。


そういえば、
銃って本当はそんなに当たらないってのは聞いてたし、自分が撃ってみたら...とか想像で「当たらないんだろうなあ」と、漠然と信じていたのですが、想像以上に当たらないようですね。
「据物撃ちなら誰でもできる」を読んだ後は、もう納得するしか無かったです。

投稿: 知己 | 2008年6月21日 (土) 08:13

本文に誤りがあったので、訂正。最後辺りの取り消し線の所です。

------

黒猫亭さん、今日は。

おお。

私は、武器術はそれほど関心を向けて勉強していないので、「兜割り」というと、榊原鍵吉しか浮かびませんでした(笑)

上に書いた黒田鉄山氏のビデオを観た時、なるほど、十手とはこのように操作して、刀をからめ取るものだったのか、と。鉤の部分に刀身を引っ掛けたりして取るんですよね。

刀は、数人斬った時点で、脂がこびりついて使い物にならなくなる、というのも聞きます。合気道開祖の植芝盛平翁のエピソードにもありました。時代劇で、バッサバッサと斬り捨てていくシーンを見て誤解する、とかあったり。津本陽氏の小説では、切れなくなった刀を捨てて、倒した敵から奪って使う、という描写がありましたね。

------

知己さん、今日は。

武器は、ものすごい種類がありますね。刀だけでも色々あるし、槍でも、操法自体が異なるものもあったり。中国武術の槍と日本武術の槍も全然違いますしね。長物でも、薙刀と槍じゃまた違うし。

実は、銃の弾丸がなかなか命中しない、という知識自体も、フィクションから得たものでもあったりします(後は、武術関連でちらほら)。そういう、フィクションで尤もらしく説明されているものがフィクションで否定される、というのもあって面白いですよね。考証の度合の違い、と言うか。

上に書いた刀の話も銃の話もそうですけれど、自分では経験しようが無いものというのは、知識を元に判断するしか無いんですよね。そういう面もあると思ってます。

投稿: TAKESAN | 2008年6月21日 (土) 12:17

玄倉川さんのエントリーを読んだ多くの人は、納得したと思うんですよね。

で、どうして納得出来たか、というと、それは実際に銃撃戦を見せられたとかでは無く、理論的な説明があったからですよね。ある程度自由に動く物体に適切に命中させるのは困難だ、という、それまでに得た知識で充分理解可能である説明がなされた。で、今まで漠然と、撃てば当たるんだろう、と信じていた人でも納得出来たりする。

そこら辺も、より基本的な所の知識というのが重要になってくるし、人間の想像力の豊かさが大切だ、という事ですよね。

投稿: TAKESAN | 2008年6月21日 (土) 12:22

 こんにちわ。
 たとえば、柔道の締め技で「活を入れる」というのを「誰でもできます」という書かれてたりしますが、これだけだと危険だと思います。よくわからない説明ですし。

http://www.sportsclick.jp/judo/03/index02.html
 経験的に練習中や試合中やテレビなどでも「落ちる」人をみますし、柔道を指導している人も、「だいじょうぶ~だいじょうぶ~」みたいな人が多いのですが、事故も起きてたりするわけで、「身体的な痛みを感じる教育」(笑)はできますけど、ちゃんとした知識ないと、武道は当然、人を殺してしまう場合はあるわけで、「殺意」は問題になりますが、そういった「知識の有無」もあると思います。「殺意ほどはなくても、いじめてやろう+誤った知識+勘違い」の加害者というのはいると思います。

 殺人事件のときに一般常識からすると「荒唐無稽」な場合もありますし、ウソついている場合もありますが、アホだからこそ犯罪までいってしまうというのもあります。
 それをどこで効率よく説明できるかというと、学校教育かマスメディアであって、学校教育においては、精神論のみ語っている、運動部の顧問のほうがゲームより怖いと思いますよ(笑)

投稿: 安原 | 2008年6月21日 (土) 13:44

安原さん、今日は。

武術の稽古なんかで、失神した人を外に放っておいて、なんて話を聞いた事もあります。これはむちゃくちゃ危ない話ですよね。
あれくらいで大丈夫だったから、もうちょいやっても大丈夫だろう、という思考もあるでしょうね。この場合は、経験を過信してしまう訳ですよね。一般的な知識が足りないが故に、経験を敷衍してしまう。

一番の基本としては、人間の身体は、他の物体と同じく壊れるものだ、という認識を持つ事でしょうね。しかも、他と隔絶して複雑精妙な構造・機構であるから、ちょっとした事で致命的な状態になってしまいかねない。それを、理解すべきですね。そしてそれは、経験によって知るのと共に、理論によって知る、というのが効いてくる、とも思います。

投稿: TAKESAN | 2008年6月21日 (土) 14:21

>知己さん

はじめまして。

>>「据物撃ちなら誰でもできる」を読んだ後は、もう納得するしか無かったです。

このエントリーの趣旨に沿って若干補足するなら、動く標的に当てる難しさというのは、やはり知識に則って想像することで理解可能です。この場合の知識とは、たとえば玄倉川さんのエントリーで紹介されているイチロー・ナガタ氏のようなガン・ジャーナリストの記事を読むことでフィードバックされてくる実践的知識も含まれるわけで、やっぱり経験と知識というのは互いに「循環」しているものだと思います。

標的に弾丸を当てる技術というのは、要するに弾丸の軌道を標的に合わせてやる技術です。銃身から延長した直線(というかこれに近似の照準線)を標的に合わせてから引き金を絞る。据え物撃ちというのは立射や伏射などの姿勢を問わずこの動作の基本訓練なわけです。長距離精密射撃となると、これに弾丸の放物線運動とか風の影響などを考え合わせる必要が出てきて、据え物撃ちでも別次元の難しさが出てきますが、今回は何故動く標的には仲々弾丸が当たらないのかを極単純化して考えましょう。

引き金を絞ってから銃の中で起きているメカニズムを極単純化して説明するなら、撃鉄が墜ちて撃針を叩き、撃針がチャンバー内のカートリッジの底を叩いて撃発することでカートリッジ内に燃焼ガスが充満し、弾頭がカートリッジから外れて前進します。カートリッジから外れた弾頭は燃焼ガスに推され続けて加速しながら銃身内を進み銃口から射出されます。標的に弾丸を当てる為には、最低限引き金を絞り始めてから弾頭が銃口から射出されるまで銃身を固定して、照準線上に標的を置き続ける必要があります。

据え物撃ちでも体感出来る難しさというのは、正確に照準する難しさ、銃身を固定したまま引き金を絞る、つまり銃把を握った同じ手の人差し指で銃の一部分のみに力を加える難しさ、それから撃発して機械内部で激しい力が加わった銃の挙動を的確に制御する難しさというのがあります。これに慣れてくると、標的が静止していても動いていても大して変わりはないように思えてきますが、標的が動いているとこれが予想以上に困難な動作になります。

これは、普通に想像すると標的が如何に動いていたとしても、それは照準線と交差する平面上の二次元的な座標の中で動いているに過ぎないわけですが、照準線自体も射手を頂点とする円錐の範囲内で三次元的に動いているわけで、この互いに動いている点と線を正確に合わせてやる必要があります。

なので、引き金を絞り始める瞬間には銃口から弾丸が出る瞬間を想定して照準する必要があって、その間銃身を固定することが可能である(つまり標的の動きが最も少ない)か、銃身の動きと標的の挙動を同時に予測して、それを合わせてやる必要があるわけです。当然引き金を絞り始めてから弾頭が銃口から発射されるまでの間には、短いとは言え実時間が必要ですし、銃身を動かしながら撃つとなると、その間も銃身は動いているわけです。無視出来るレベルだとは思いますが、角力も働いていますね。

こういうふうに単純化して考えても、まず当たるわけがないと理解出来るわけで、これにイチロー・ナガタ氏が語るようなコンバットシューティングの状況が加わると、据え物撃ちはおろか、動く標的に当てるというのとも別次元の難しさになります。相手も撃ち返してくるのですから、撃たれないようにしながら相手に当てるということになるからです。実戦的な側面を考えると、撃ってはいけない対象群の中に撃つべき相手がいて誰に当たろうがおかまいなしに撃ち返してくるが、こちらは正確にその対象だけに当てなければならない、というさらに困難な状況が追加されるわけです。

体術としての技術を鍛えるなら、シミュレーションの訓練で同様の状況における瞬間的判断力や挙措動作の体制的システムを徹底的に鍛え上げ、実戦経験も相応に踏んで恐怖心やパニックを制御する術を覚える必要があります。武術をやっているTAKESAN さんには理解しやすいと思いますが、訓練を積むということは、実戦の場面でキチンと身体が最適に動くことを確信出来るような根拠を用意することで、実戦経験を積むということは、実戦の場面でキチンと訓練の成果を発揮出来るように心の在り方を持っていくということで、この相互作用が必要なわけですね。

一方、銃本体由来の命中精度は銃身長が重要な要素ですから、たとえば日本の警察官に配備されているニューナンブの五一・七七ミリ銃身ですと、拳銃としてはそれほど命中精度が低いわけでも高いわけでもありません。銃としての実用上の設計も剰り優れていないようですし、アメリカほど実戦の機会があるわけではないですから、設計上の難点が積極的に改良されたという話も聞かないので、最近警察官が発砲して何とか当てたという話を聞くと、結構訓練が行き届いているほうだとすら思います。

ただまあ、この「知識」が流通するのも善し悪しで、一般的に国内で警察官が発砲する場面を想定すると、威嚇射撃で犯人の叛意を威圧するのが目的ですから、「そんなに当たらない」という話だけが誇張して喧伝されると、警察官が発砲に踏み切っても抵抗が已まない可能性があるわけで、いざ発砲という段階に発展した場合、威嚇射撃で事が済まなくなる可能性も高いわけです。

投稿: 黒猫亭 | 2008年6月21日 (土) 21:09

>TAKESANさん

オレも以前は「兜割り」というと天覧兜割の撃剣術しか識らなかったんですが、ちょっと十手に興味を持って調べてみたことがあって、こういう武器があるということを識りました。刃物ではないですから、今でも観賞用と実用を兼ねて作られているらしくて、検索してみると何種類か売っています。

http://www.kyoto.zaq.ne.jp/dkaoj202/hon-ami-k0007.html
http://store.shopping.yahoo.co.jp/koncrete/kkb-007a.html

まあ、言ってみれば装飾品兼用の特殊警棒みたいな使い方も出来るわけですし、武芸者同士の試合でもなければ本格的な訓練が必要でもないですしね。ただ、形を見ると反りと鉤の附き方が少し変わっていて、峰の側に鉤が附いているので、刀を折ると謂ってもどういうふうに使うものだかちょっと想像出来ないですね。叩き折るのではなく鉤で絡めて梃子の原理で折るのだという話を聞きましたが、そこが秘奥ですね(笑)。

>>刀は、数人斬った時点で、脂がこびりついて使い物にならなくなる、というのも聞きます。

刃物というのは、顕微鏡的なレベルで言うと微細な鋸歯形状になっていて、それで挽き切るものだそうですから、鋸歯が血や脂で目詰まりすると当然切れ味が鈍ってきますよね。包丁でも、本職が肉や刺身を引く時は一々布巾で拭いながら引きます。

それ以外にも日本刀には「折れやすい」という無視出来ない弱点があるそうです。ご存じかと思いますが、日本刀で最も切れる部分というのは切っ先近辺だけなので、途中から折れると刺突にも使えなくなります。その意味で、刀を毀す武器というのは実戦では実用的だったんでしょうね。

決闘鍵屋の辻で有名な荒木又右衛門も、かの死闘の際に小者の木刀を受けて刀が折れてしまい、後に別の剣客に「折れやすい新刀を使ったのは不心得」と窘められたという逸話があるようです。また、誰の逸話だったか忘れましたが、大勢の敵から奇襲を受けた際に、地べたに何本も抜き身で刀を刺しておいて、切れなくなったり折れたりする度に新しい刀を使用したという話がありますね。講談レベルの脚色だとは思いますが。

TAKESAN さんの仰る榊原鍵吉の逸話の虚実は如何にと思って改めて調べてみたら、胴田貫を使用して兜の鉢を十数センチ切り割ったとありますね。これなんか折れにくくて実用的なので、逆にかなり酷使されて満足な古物が現存していないとかウィキに書いてありました。まあ、フィクションで有名な胴田貫の使い手は拝一刀とか破れ傘刀舟ですから、ああいう使い方をしていたらまず保たないと思います(笑)。

いずれにせよ、日本刀は武家身分の象徴的武装として幕末まで延命しましたが、戦争における主要な武器となったことは殆どなく、今で謂う自動小銃に対する拳銃レベルの護身武器のポジションであったようです。たしか武道の世界では「剣の○段は槍の○段落ち」というような言い方をするようで、武器としての槍の絶対的優位が謂われていますけど、正確には何段落ちなんでしたっけ。

前述の鍵屋の辻でも、附け人随一の使い手である槍術師範の桜井半兵衛に槍を執らせたらまず勝ち目はないということで、槍持ちの小者を遠ざけておいて、不意打ちで馬上の半兵衛の足に切りつけるという割とキタナイ手で仕留めていますね。

投稿: 黒猫亭 | 2008年6月21日 (土) 21:14

なんか、異様にお詳しいですね(笑) ついていけないくらいですよ。

型を主として稽古する武術の人なんかで、それだけをやっていて、どんな攻撃も捌ける、という風な思い込みをする、というのがあります。
もちろん、乱捕りのような稽古が必須、という訳でも無いですが、昔と今では武術や格闘技のありようも全く違う訳だし、それ以前に、人間が意思を持って自由に動ける存在だというのをちゃんと考えると、そう簡単にはいかないというのは、すぐに解るはずなんですよね。それこそ、PRIDE辺りの試合をちょっと見れば、よく解る。

でも、武術では、神秘性を求めると言うか、マンガや講談の話を真に受けるような、そういう人は出てきます。一つの理由としては、試合がほぼ無い、というのがあるでしょうね。
これは、据え物撃ちを即実戦に結び付けるというのと、よく似ています。心理的な要素も大きく関わってくるので、かなりかけ離れているんですよね。

型稽古で関節技とかやってる人は、型主体の武術に懐疑的な人に抵抗させて、技を掛けてみると良い、と思います。何かを知る事が出来るはずです。

兜割り、私が知っているのも、そのような話でした。胴田貫を用いて挑んだが、完全に両断する事は叶わなかった、と。きちんと調べて無いので、実際の所はあまり知りませんけれど。

武術には、いわゆる超人的なエピソードが、一杯ありますよね。示現流の東郷重位は、碁盤を両断して見せて、しかも刀が畳まで突き破っていた、とか、松林左馬助は、放り投げた(ここら辺、ちょっと定かで無いです)木の枝を十数片に切り刻んだ、とか。

前、こういう剣豪のエピソードを集めてみて、可能か否かを科学的に検討してみるのも面白いな、と思った事があります。そういうエピソードの宝庫ですからねえ。

槍の何段落ち、という表現があるのですね。知りませんでした。

私は未だに真剣を扱った事が無いので(せいぜい摸擬刀。基本、木剣の型です)、実感としてはなかなか解りにくい所がありますね。尤も、実戦における刀の使い心地を知る人間は、もはやほとんど存在しないでしょうけれど(そして、そういう時代は来るべきでは無い)。上で紹介した植芝盛平開祖のエピソードは、刀は数人斬ると脂で切れなくなるから、実戦では突きが役に立つ、というような話だったと思います。

で、そういうのをカバーするのが、知識な訳ですね。

投稿: TAKESAN | 2008年6月21日 (土) 22:57

脇道ですけど。
超人的エピソードは中国武術でよく聞きますね。あまり詳しくないですが。

武器も中国武術のものはなんだか人間のイマジネーションへの挑戦みたいな部分があったりするような、合理性が暴走してなんだかわからなくなっているようなものが多いような気がします。

http://www.gaopu.com/6666.html

投稿: pooh | 2008年6月22日 (日) 06:39

中国武術系も、宝庫ですね。

えっと、落ちてきた500kgくらいの物体を支えた、とか…。あとは、一撃で絶命させた系。一撃で相手が死んでしまう、という現象自体は、あり得なくも無いかも知れないと推測出来ない事も無い、ですが。李書文(八極拳)の逸話なんか面白いです。

武器術も面白いですね。やはりスケールが大きいなあ、という感じです。

投稿: TAKESAN | 2008年6月22日 (日) 11:43

こんばんは。初めまして、ですよね。
http://b.hatena.ne.jp/entry/http://blackshadow.seesaa.net/article/101466816.html
↑のコメント欄で「効く」ということについて考えてみたほうがよいというアドバイスを頂いた者です。記事とはさほど関係ないかもしれませんがお許しください。

正直「効く」ということを考えるとどうなるのかよくわかりませんが、その意味するところを教えていただければと思います。

私が思いつくのは、例えば食べすぎでお腹が気持ち悪いときに特定のホメオパシーのレメディーを飲んだら楽になるとかそんなことです。それを私は「効く」と認識しますがそういうことではないのでしょうか?
私はホメオパシーについてはある程度そういう経験を重ねているので、それを「かめはめ波」のようには考えられません。『体験によって得られた知覚的な記憶も「経験知識」と呼べる』のだとしたら、私にとってのそれも「経験知識」になるではないでしょうか。

答えがわからなくて妙に印象に残るコメントだったのでこちらに書かせていただきました。
もう少し詳しいところをお聞かせ願えると幸いです。

投稿: Hagalaz | 2008年6月25日 (水) 23:51

↑すみません、取り消し線が反映されませんでした。「経験知識」→「知識」です。

投稿: Hagalaz | 2008年6月26日 (木) 00:03

Hagalazさん、今晩は。

ホメオパシーは、療法として「効く」事を主張している訳ですよね? もしこの前提が違っているなら、私の指摘は全く的外れだという事を意味するので、お詫びします。※しかし、この前提が違っていると、Hagalazさんが、黒影さんのエントリーを誤読された、という事になります。

ある方法なりがあって、それが「効く」という主張がなされている場合には、それは、多くの人に安定して効果がある、という事を意味します。そうで無いと、「効く人には効くが効かない人には効かない」という主張にしかならず、それは、療法としての有効性の主張として成り立たないからです。黒影さんがそういう話をしておられないのは明らかですよね。

で、その「効く」というのは、臨床的な試験等の方法によって確かめられなければなりません。つまり、ある程度の人数を集め、ダブルブラインドテストを行い、得られたデータを統計的に処理して、プラセボ群との差が統計的に有意であるかを見、また、差が実質的に(医学的に改善効果だと認めて良いか、という観点)意味があるかを確かめる訳ですね。

つまり、黒影さんが論点としているのは、この観点からの、「効く」という事だと言えます。ですから、プラセボであっても「効く」ならそれでいい、と言う場合と、「効く」の意味合いが異なっている訳ですね。

従って、たとえば個人的にホメオパシー的方法を用いて、それで何がしかの改善が見られる、というのは確かにあるでしょうけれども、それが即、療法としての普遍的な「効果」を指す訳では無い、と言えます。

結局の所、黒影さんは、初めから「科学の話」をされているのですね。もし、ホメオパシーが、ある程度普遍的な効果を謳っているのであれば、その時点で、「科学の土俵に乗った」と言えると思います。ですから、効くかどうかをきちんと確かめるのは、必要な事なんですね。

私が「効く」という事について考えてみた方が良い、と書いたのは、そういう意味でした。

不明な点があれば、ご質問下さい。

投稿: TAKESAN | 2008年6月26日 (木) 00:29

ちなみに、プラセボ効果であっても効けば良い、と言うのは、薬として効かなくても良い、と言うのと、実は同じ意味です。プラセボは偽薬、つまり、薬としての効果が無いもの、という意味ですから、ホメオパシーで無くても同じ、という事ですね。
当然、それを理解しつつ、どうホメオパシーと接するか、というのは、また別の問題でもあろうかと思います。ですが、薬として「効くか否か」を問題にする場合には、プラセボ群と差があるのを示さなくてはならない訳ですね。

投稿: TAKESAN | 2008年6月26日 (木) 00:36

ホメオパシーを使いつつそれをプラセボと考える人はあまりいないと思います(いや知りませんが)。感覚としては効くけどどうせ否定されるんだからいいよもうプラセボで!っていう感じです。でもダメなんですね、それは。

「効く」という言葉を私は個人の感覚として使い、ここでは科学的統計に基づいた普遍的な効果のことを言っているということですね。
わかりました。確かにその土俵の話ではありませんね。

ただ「似非科学」という煽り方は利用者にとってはあまり気分がいいものではないです。自分の体感としては苦痛が軽減するのに、科学的には無碍に否定されてしまうのがもどかしいです。
なのでちょっと感情的に反応してしまいましたというところです。

今のところ科学的に芳しい結果は出ていないということでしょうが、適正に処方されたレメディーなら本来科学的な検証にも耐えるんじゃないかと(勝手に)思うので検証自体はいくらでもやればいいと思います。他にも動物で実験するとか。

色々考えさせられました。
丁寧にお答えいただきありがとうございました。

投稿: Hagalaz | 2008年6月26日 (木) 04:47

何度もすみません。
×「無碍に」→○「無下に」です。

投稿: Hagalaz | 2008年6月26日 (木) 10:01

Hagalazさん、今日は。

たとえば、テレビショッピングなんかで、「個人の感想であり~」なんて書き方がありますよね。ああいうのも、明確に「効く」と言ってしまっては、きちんとした証拠が求められるから、注釈している訳ですね。

似非科学、あるいはニセ科学という言葉に関しては、コメント欄で説明するのは難しいので、右サイドバーにある、ニセ科学Wikiを参照なさってはいかがでしょうか。
ポイントとしては、「科学の土俵に乗る」、「科学を謳う」、「科学だと信じられている」、といった辺りですね。まとめると、「科学を装っている」。で、科学を装っているのに実態は科学では無い場合に、「ニセ科学」と呼ばれます。

こういう言葉を煽る感じで用いるか否かは、論者によると思います。はてブコメなんかでは、強い、挑発的な物言いも見られる場合がありますが、必ずしも批判者一般が採る態度では無い、という所はご理解頂きたいと思っています。ニセと判断する所は、実態と主張とのかけ離れ方の客観的評価でもあります。

効果があると主張される場合、主張する側に、それを証明する責任があります。これが、科学的な立証責任の原則です。それが確認されていない内は、取り敢えずは無いと看做しておこう、という態度を採る訳ですね。※無い事が証明されたと看做すのでは無いので注意。慎重に書くなら、あると確認された訳では無いので科学的とは今の所言えない、とでもなるでしょうか。

もちろん、原理的に成り立ち得ない、と判断されるものもあります。「水からの伝言」なんかもそうですね。

投稿: TAKESAN | 2008年6月26日 (木) 11:51

私はホメオパシーに興味があるだけで「ニセ科学」について正直あまり突っ込んでいく気にはなれないのですが(すみません)、そういう議論があることはわかりました。

>※無い事が証明されたと看做すのでは無いので注意。慎重に書くなら、あると確認された訳では無いので科学的とは今の所言えない、とでもなるでしょうか。

私の言いたいことも同じです。「未だ科学では説明がつかない」でじゅうぶんだと思いました。

>はてブコメなんかでは、強い、挑発的な物言いも見られる場合がありますが、必ずしも批判者一般が採る態度では無い、という所はご理解頂きたいと思っています。

はい。ご丁寧に対応いただきありがとうございました。

投稿: Hagalaz | 2008年6月26日 (木) 21:00

Hagalazさん、今晩は。

最後のレス以外については、ニセ科学論に踏み込まざるを得ないので、レスは省略します…(ちょっとだけ。重要な論点は、科学で説明がついていない事を「どう説明しているか」、という所です。後、「あり得ない事が充分説明出来る」場合もあります)。

はてブのコメントは、二セ科学を批判するもので、強い罵倒を目にする事があって、普段批判している者から見ても、うっ、となったりします。そういうのを目にして反発を覚えたり気分を害したりする、というのは、ある意味当然だと思います。
そういう所から、どのように批判するのが良いのか、という議論になったりもしますね。難しい話です。

投稿: TAKESAN | 2008年6月26日 (木) 23:05

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