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2008年5月19日 (月)

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Science and "Fake Science" Hal Tasaki:科学と「ニセ科学」をめぐる風景

改めて読みましたが、やはり、実によく練られた文章ですね。

※以下、引用は前後します。ご了承下さい。

ここ最近、色々考えていて、

a: 実際に効果があり、その機構も理解されている。

b: 実際に効果があるのだが、その機構はわかっていない。

c: 効果がない。

科学者はaの範疇のものだけを認め、bの範疇のものは「非科学的」とみなすという誤解がしばしばあり、それが「ニセ科学」批判と混同されることもあるようだ。もちろん、経験事実こそが科学の出発点なのだから、科学者がbを排除することはあり得ない。むしろ、効果が経験的に確かめられているにもかかわらずその機構がわからないものは、科学者にとって重要な研究対象になるのだ。たとえば、漢方薬の中には、臨床実験で効果があることが明確に示されているものの、機構が解明されていないものも少なくないそうだ。

ここで書かれているような事がポイントなのだな、と改めて感じた次第。

a1: 効果があると主張し、理解されている機構を説明する。

a2: 効果があると主張し、理解されている機構とは別の筋の通らない機構を説明をする。

b1: 効果があると主張し、機構は未知であると述べる。

b2: 効果があると主張し、筋の通らない機構を説明をする。

c1: 効果がないと正直にいう。

c2: 効果があると主張し、筋の通らない機構を説明をする。

ここで、効果があるか否か、という所(aかbなのか、それともcなのか)が、「科学的に認められているか否か」、という観点で、それを「どのように主張するか」によって、それがニセ科学かが、判断される訳ですね。当然、「効果が無い」、あるいは「まだ認められていない」場合(c)には、「効果がある」と主張する事そのものが、ニセ科学的主張と看做されます(c2)。効果が認められているか否かという視点と、どのように主張されているか(あるいは、どのように広く信じられているか)を、両方考慮しなければならない訳ですね。だから、機構が未知であっても、効果が認められていれば(そして、無理矢理に機構の説明をこじつけなければ)、それはニセ科学とは言わないという事です。

で、とても重要なポイントが、

ただし、a, b で「効果がある」というときは、単に「誰それが試したら効果があった」とか「効果があると評判だ」といった個人的・主観的レベルではなく、心理的な効果を徹底的に取り除いて客観的に効果があることが経験的に確認されたレベルをいう

ここです。科学か否か、という所に、「メカニズムが解明されているか否か」、というイメージを持っているかどうかで、ここら辺の認識に、齟齬が出るのだと思います。心理学の領域、特に、応用的な分野、たとえば教育心理学や心理臨床なんかだと、こういう観点が、決定的に重要となるでしょう(多分、医学医療のかなりの部分も、そうでしょう)。メカニズムはブラックボックスのままで良いから(解明しなくても良い、という意味ではありませんよ…)、効果のほどを、きちんとデータを採り、適切な統計的分析を行って評価する。

……っと。この他にも、重要な所を引用していこうと思ったら、全部重要だった。とても内容が濃く、きっちりと組み立てられている文章ですからね。まあともかく、ニセ科学論に興味があって未読な方は、取り敢えず読んでみて下さい。ニセ科学批判論者(が採っている、あるいは採るべき)の基本的な姿勢が、きちんと書かれています。

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「科学論」カテゴリの記事

コメント

極端な相対主義の弊害はやっかいな問題ですね。最大限好意的に解釈しても、極端な相対主義は何も語っていない気がします。例えば、

「ここで重要な観点は理科でも取り扱われるさまざまな科学概念、科学理論や法則、体系というものは、そういう意味で、あくまで人間の構成物であり、それら自体が自然界に実在するということを前提としないという点にある。」

ここで、問題になるのは「実在する」の意味合いです。田崎さんも言うように、相対主義者といえども携帯電話が使えることは否定しないわけです。ただそれは人間の幻想かもしれないと形而上的に言っているだけですね。それはそうかもしれないけど確かめるすべはないわけで、言っても仕方ないというか無意味じゃないかと。実在すると言っても言わなくても何ら違いは無いわけです。「人間の構成物」とは人間の脳が考え出した夢だということですね。そして、現実と言う夢のなかでは携帯電話は使えるわけです。もちろん携帯電話が使えない夢を見ることも可能ですが、それは別の夢にになるだけのことです。
(ちなみに、夢の中でこれは現実だろうかと考えることがあり、その場合はこれは夢だということが分かります。最近はあまりそういう夢もみなくなりましたが)

こういう「実在」の言葉遊びなら実害は無いわけですが、教育現場ではそうとも言ってられませんね。別の夢の世界ではなくて、現実に携帯電話は使えないなどという誤解を与えかねません。「原子や分子、それから成り立つ物質は人間の構成物に過ぎないから、今道路を走っている車にぶつかっても平気だ」と子供が誤解したらどうするの。

投稿: zorori | 2008年5月19日 (月) 08:51

zororiさん、今日は。

理科教育の文脈で出てきた相対主義的な科学観というのは、apjさんの所とか川端裕人さんの所でも、問題になりましたね。

当然、哲学的厳密に言えば、色々な議論があり得る訳ですけれど(私自身は当然、科学的実在論に近い立場です)、いきなりそれを教え込む、というのは、私は反対ですね。

 >子供が誤解したらどうするの。

車にぶつかっても、という部分に関しては、論理的にはあり得るけれど、実際的には起こりにくいでしょうね。経験を相対化して、そこまで徹底的に相対主義を子どもが認識する、というのは。少々楽観的かもですが。ただ、魔法が使える世の中があり得たかも知れない、などと夢想したり、というのは充分考えられると思います(私は、そこがかなり懸念されると考えてます)。

もちろん、科学理論や概念が全く実在を前提としなくても成り立ち得る、と教える事そのものが、とても問題な訳ですね。

構成主義という言葉も可哀想ですね。心理学なんかでは、全然違う意味だったりするのに。色々な用いられ方をするから、それ自体が問題を孕んだ言葉だ、と認識されるという事がありますね。相対主義という語もそうかも知れませんけれど。

投稿: TAKESAN | 2008年5月19日 (月) 11:59

TAKESANさん。
こんにちは。
ちょっとばかりTAKESANさんのエントリーに関係した記事を以前書いたことを思い出しました。
「相対主義的な理科教育」と言うタイトルです。
http://ts.way-nifty.com/makura/2007/02/post_4610.html

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
実はここに大きな落とし穴があるのです。落とし穴の名前は「相対主義」と言います。
学校教育、とりわけ理科教育が偏向していったのは1998年改定「小学校学習指導要領」の「解説理科編」を見ると明らかです。(初等中等教育に関する提言を参照して下さい。)
「自然の特性は人間と無関係に自然の中に存在するのではなく、人間がそれを見通して発想し、観察、実験などによって検討し承認したものであり、自然の特性は人間の創造の産物である。」と言うのです。
そしてこの指導は2002年度から教育の現場に取り入れられました。
「科学の理論や法則は科学者という人間が創造した物」であると言う相対主義的な科学観に立脚した理科教育は、絶対的な真理や知識をを教えることを放棄。子どもの生活体験や経験、概念を重視する方向へと進みました。
(以前の記事より)
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
と、言うことで現場の事態は、かなり深刻です。

またまた勝手ばかり申しますが、
お時間のお有りなときにご覧頂けると嬉しく思います。

じゃ、、、、またね!

投稿: せとともこ | 2008年5月20日 (火) 17:15

ぶっちゃけますと、せとともこさんに初めてコメントを頂く以前に、既読です(笑)

「相対主義 理科教育」でググると、上の方に出てくるので、その時に読んでいたんですね。たしか、他のブログで相対主義的教育観が採り上げられた時に、調べたのでした。

ちなみに、上のコメントを書く時にも、再読したのでした。

科学とは、実験や観察によってデータを採り、それを適切に処理する事によって一般論を導き、知識の体系を構築していく知的な営み、だと思っています。そこに、自然の特性や科学の理論や法則が、人間の創造物である、などという論は、入り込む余地は無いと考えます。

投稿: TAKESAN | 2008年5月20日 (火) 18:31

その学習指導要領が出たころに、中学校で理科を教える友人と、問題の箇所について話したことがあります。実験が不要になるので、実験が苦手な理科教員にうけるだろうとの感想でした。

投稿: かも ひろやす | 2008年5月20日 (火) 21:07

かも ひろやすさん、今晩は。

ああ、なるほど。
実験が苦手な人にとっては、恰好の、言い訳と言うか正当化の材料になっちゃいますね。

定量的なものの考えを身に着けさせるのは、早ければ早いほど良い、と思っています。こんな事書くと、数字じゃ割り切れない事もある、柔軟な思考が阻害される、なんて事を言われそうですけれど。

投稿: TAKESAN | 2008年5月20日 (火) 22:20

移動中に携帯電話から投稿したら、変なことになったようでごめんなさい。これは、ノートPCからです。

逆に言えば、この要領を書いた人は高校でちゃんと実験をしなかったか、あるいは、実験した経験をまるっきり忘れてしまったかですかね。

ところで、実験の苦手な理科教師というのが、すでに私らの想像を越えていますが、存在するんでしょうね。

投稿: かも ひろやす | 2008年5月21日 (水) 01:31

極端な相対主義は、犯罪を助長するというか犯罪を犯す格好の言い訳に使われると思います。
(当たり前か)

投稿: Noe | 2008年5月21日 (水) 08:52

かも ひろやすさん、お早うございます。

 >変なことになったようでごめんなさい。

いえいえ、お気になさらず。

きちんと実験していれば、その重要性を蔑ろにはしない、はずなのですよね。

私が見てきた(教わった)理科の教諭は、皆さん、実験が凄く好きそうでしたね。好きという事は、意義や重要性も認めているでしょうね。

------

Noeさん、お早うございます。

極端にいくと、そうなりますね。さすがに、そこまで極端な人間は、それほどいないかも知れませんけれど。

 >(当たり前か)

そうですね(笑) 犯罪を正当化するような認識になった事を、極端な相対主義と表現する訳ですしね。

投稿: TAKESAN | 2008年5月21日 (水) 10:57

TAKESANさん。
おはようございます。

そうだったのですか〜〜〜
ご覧いただけていたのですか。
うれしい〜〜〜〜

それにしても、
このところ、アチコチで「言葉」がまたいろんな解釈されているようで、
私もROMしながら考え込んでいます。
難しいですね〜〜〜
apjさんのところで「書いてあることを如何に解釈するか云々」が話題にあがっていて、私も国語教育の実態について、ちょいと書こうかとも思ったのですが、話題の中心は別のところにあるので、
書かずに静観していました。
「行間をよめ」と教えるのが国語教育。
でも、試験では「書いてあることをそのまま答えろ」なんですよね〜〜〜〜
実に悩ましい。

理科もそうですが教育全般が今、混迷しているように思えてなりません。


さて、それはさておき、
実は結構、小島監督好きです。ちょい前まではまっていたのが「逆転裁判」。
もっと前が「三国無双」と「戦国バサラ」です。
また、ゲームの楽しいエントリー密かに待っています。
じゃね〜〜〜〜〜

投稿: せとともこ | 2008年5月21日 (水) 11:15

せとともこさん、今日は。

一般的には、書かれていない事を推測して補う、というのは、普通に行われる事なんですよね。
でも、はっきりしない場合には訊けばいいし(それが、WEBのやり取りの有用な所だと思います)、保留すれば良いはずなのに、推測を推測のままに止まらせないで、どんどんそこから論を進めていったりする。なかなか微妙です。

『逆転裁判』は、アドベンチャーゲームの最高峰だと思っています。あれは傑作ですねえ。

メタルギア、来月だ…。PS3持って無いので、友人に見せて貰わなければ。

投稿: TAKESAN | 2008年5月21日 (水) 12:41

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