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2008年5月 6日 (火)

安心したい

はてなブックマーク - 臨時ブログ 「水伝を受け入れる人」=「自然科学を絶対視する人」

絶対視している、というより、都合の良い所に科学というものを持ち込みたがる、という感じかな、と。主張が先にあって、それを正当化すべく、「科学」を恣意的に利用する訳ですね。その実態は、科学でも何でも無かったりするのですが。

やっぱり、基本的な所で、科学に対する信頼は持っているのだと思います。明確なイメージは無くとも、自身の生活が科学技術に支えられている、という直観はあるのでしょう。だから、自分が信じている説に「科学的な裏づけ」があると「聞く(見る)”だけ”」で、「安心」するのだと考えられます。ゲームばかりやる子どもに手を焼いている人が、「ゲームで前頭前野の機能が低下する」、というのを聞いただけで安心(そして、新たに不安を感ずる)するように。

水伝を受け容れる人は、「言葉を絶対視したい」人、なんじゃないかな。そして、水伝を積極的に広める人は、「言葉を絶対視出来るように自然科学を利用する」人。

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コメント

>自分が信じている説に「科学的な裏づけ」があると「聞く(見る)”だけ”」で、「安心」するのだと考えられます。

…私は、物事を「科学的」に理解しようと思いますが、「(今、提言されている)科学が絶対だ!」とは思っていません。一方、「科学的思考」で捉えないと、「物事の<真>は捉えられない」とは思っています。
私は、「物事の<真>」とは、人間にとって、永遠に掴(つ)めないものと思っています。

世の中<一部の科学者>の言説に囚われず、<真>を追求することは、困難を極めますが、人間が生きるためには、「何か<核>となるもの」が無ければ、不安となり、自身の行動のバックボーンとなる「安心感」が無く、行動に踏み込めないのだと思います。

>「言葉を絶対視したい」人、「言葉を絶対視出来るように自然科学を利用する」人…。

とは、自分で絶対視した「言葉」を借り、自分の行動を<正当化する>行動のような気がします。

…しかし、様々な「言説」(言葉)囚われず、自身の行動がぶれないで生きることは、かなり困難が伴うような気がしています。

投稿: mohariza | 2008年5月 6日 (火) 12:22

moharizaさん、今日は。

えっと、ちょっとお書きの事が掴めていないので、ちゃんとしたレスにならないかもですが。

「科学を絶対視」という言い方、ニセ科学を批判する側に向けられる事がよくあるのですが、ここで言及したブログでは、ニセ科学を信ずる人に対してそれが用いられていたので、興味深いと思いました。

そもそも、「絶対視とはどういう意味だろうか」、という問いも立てられる訳ですね。私は、現象の構造を解き明かすものとして、最も優れた方法・文化である、と考えているのですが、これを「絶対視」と言うかどうか、とか。
言及したエントリーでは、自然科学の成果を道徳の根拠とする事を、「科学の絶対視」としていますね。これは多分、「普段特に意識はしていないが、都合の良い所では恣意的に利用する」、という所を示しているのだろうと思います。

私が書いた「言葉を絶対視」というのは、語形(音や文字)と意味にはある種の必然的な関係があり、それは何か強い力を持っている、という「直観」の事を指していて、水伝のコアの人は、それを正当化するために自然科学を利用しようとしているのではないか、と考えています。端的に言ってしまうと、自分達が正当だと信じているものがあって、「それに合うように」科学を利用する訳ですね。ゲーム脳なんかも一緒です。

▼▼▼引用▼▼▼
…しかし、様々な「言説」(言葉)囚われず、自身の行動がぶれないで生きることは、かなり困難が伴うような気がしています。
▲▲引用終了▲▲
うーん、「ぶれる事を恐れない」のが重要なんじゃないかと。水伝なんかは、「ぶれたく無い」心性の表れですし。
本当の「科学的な態度」とは、解らない事を解らないと認める事、科学に解って無い事は無数にあるのを認識する事、だと思っています。やる事があるから、人間は生きて行けるのですね。

投稿: TAKESAN | 2008年5月 6日 (火) 13:17

TAKESANさん

言及されたブログ主のkaqu11です。コメントありがとうございます。

>科学の絶対視
私のブログでは、「科学によって得られた知見を、本来の枠を越えて適用すること」、
及びそのような言説を容認することを「絶対視」としました。

本来、適用できる範囲が定まっているはずの知見を
他の事にまで適用していいと考えるのだから、
「科学によって得られた知見は何にでも通用する」と考えていると
思われても仕方ないのでは?
……と指摘したつもりです。


とはいえ、当該記事はいくらなんでも乱暴だったかと言うことで
新しく記事を書いています。よろしければごらん下さい。
「水伝を受け入れる人」の心理分析は全然していませんが。
http://kaqu11.blog116.fc2.com/blog-entry-3.html


(*昨日、新記事のほうをトラックバックしてみたのですが反映されていないようなので、
上手く送信できなかったのかと思いこのコメントをつけました。
トラックバック自体は送信されていてTAKESANさんの方で承認されなかった
ということでしたら、このコメントを削除して下さい。)

投稿: kaqu11 | 2008年5月 8日 (木) 20:56

kaqu11さん、今晩は。

TBは承認制では無いのですが、ちゃんと反映されない場合が結構あるのですよね。手数をお掛けしてすみません。

私の語感では、「科学の絶対視」というのは、科学的な見方のみを重視して、他の文化、たとえば宗教等を蔑ろにする立場、というように捉えています。別の言葉で表現すると、「科学至上主義」とか「科学万能主義」。ですので、ここでは、その意味に従ってエントリーを書きました(kaqu11さんに批判的に言及しようという意図も無かったので、はてブにリンクしたのでした)。はてブのコメンターも、そういう所の意味のずれを指摘したのではないかな、と思います。
どちらかというと、ニセ科学批判者が、「科学主義」として批判される事が結構あるのですよね。

多分、kaqu11さんのお考えと私の認識は、それほど違っていないと思います。少し言葉の用い方が異なっているのかな、という感じで。

水伝は、言葉を絶対視したくて、その絶対性の根拠に「自然の振る舞い」を持ってきたかった。そして、その裏付けとして「自然科学」を持ち出してきた、という所なんじゃないかと。「科学」は、方法と知識であって、自然そのものではありませんしね。ですので、「自然科学を絶対視」では無く、「自然の振る舞いを絶対視」という表現だったら、反応も違っていたかも知れませんね。

投稿: TAKESAN | 2008年5月 8日 (木) 21:57

TAKESANさん

返信ありがとうございます。
あのエントリは、元となったブログの記述に
「ばかって言うほうがばかなんだぞ」
という小学生のような勢いで書いたものなので、
いろいろ批判されたり突っ込みを入れられたり
するのは覚悟の上でした。
そんな格好いいものじゃないかな、
それはそれで仕方ないなと思ってました。

ただ、水伝を批判する時に
「言葉によって結晶のでき方が変わるのは正しいか否か」
という点で議論がヒートアップしてしまうと、逆に
「この点さえ科学的に証明されれば水伝は正しい!」
と思い込んでしまう人も出てきそうで、それは少し心配ではあります……、
なので、あのエントリを上げました。

>水伝は、言葉を絶対視したくて、その絶対性の根拠に「自然の振る舞い」を持ってきたかった。そして、その裏付けとして「自然科学」を持ち出してきた

なるほど……。いろいろと考えさせられます。

投稿: kaqu11 | 2008年5月 8日 (木) 22:25

水伝批判には、様々な論点が絡んできますね。一筋縄ではいかない。

---

このエントリー関連で色々考えていて、「科学」という言葉の使い方に関して、ちょっと思い付いたので、新たにエントリーを上げますね。

投稿: TAKESAN | 2008年5月 8日 (木) 23:04

moharizaさんのコメント

>一方、「科学的思考」で捉えないと、「物事の<真>は捉えられない」とは思っています。
私は、「物事の<真>」とは、人間にとって、永遠に掴(つ)めないものと思っています。


人間には<真>は捉えられないということは、「科学的思考」は無駄ということでしょうか。
捉えられないことは分かっているが、「科学的思考」によって、<真>に近づいたと思いたいという願望でしょうか。

私は、自分の知識が「真実」であるかどうかを判定することは人間には出来ないと思っています。
たまたま「真実」を知っている場合はあると思いますし、今ではそういった「真実」も数多いとは思いますが、それを「真実」だと「知る」ことは、少なくとも人間的思考をしている限りは不可能だと思っています。

「科学的思考」はそんな人間の限界を分かっているからこそ生まれたものなんじゃないんですかねえ。

投稿: Noe | 2008年5月 9日 (金) 08:46

Noeさん、今日は。

突き詰めると、哲学や科学哲学の話になりますね。
「真(真理)」というものをどのように捉えるか、というのも出てくるでしょうしね。

私自身は、パースのプラグマティズムに近い認識のような気もしますが、きちんと勉強していないので、よく解りません(適当過ぎてすみません…)。

投稿: TAKESAN | 2008年5月 9日 (金) 11:49

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