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2008年5月 9日 (金)

「科学的に」

5/6のエントリー関連で色々考えていて、思い付いた事。前から何となく思っていた事ではあるのですが。

「科学的」という言葉、色々な見方が出来ますね。

たとえば、「科学的に認められない」、という言葉が、何を意味するか。科学というものが、現象を解明する方法と知識の体系である事を知っている人ならば、その言葉は、「科学の方法によって確認されていない」、「現在の知見からすると充分な根拠で否定出来る」、という意味で用いると思いますが、それを受け取る、科学的方法に疎い人は、「そのような現象そのものがあり得ない」と主張している、かのように捉えるのでしょうね。そういう所でも、ずれが出てくるのだと思います。

水伝の場合は、それが絶対にあり得ない事を断言する程度には、科学はものを解っている、と言えるでしょうし、血液型性格判断の場合には、それまでの科学の知見から考えて、あっても全然おかしく無い現象であるが、調査研究によってほぼ否定されている、という具合ですね。厳密に言えば、血液型と性格の間に強い連関があるという積極的な証拠は見出せなかった、という事ですが、言い回しとして、「科学的に間違っている」、と表現出来る。少なくとも、「強い連関がある」という主張に対しては、間違っていると確実に言える(それは、全く連関が無い、というのを意味しない。複雑ですねえ)。で、「科学的」という言葉に、もっと広い意味を持たせている人は、「絶対にあり得ない」と主張しているように誤解するのでしょう。だから、「まだ科学的には解明されていない事がある」、という反論が出てくるのですね。それは、的外れの反論な訳です。

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「科学論」カテゴリの記事

コメント

ぼくなんかのスタンスだとほんとうは(素のままで、未定義の)「科学的な」なんて云う用語は使わなくても議論は可能なんですが、カウンターパートがこの用語をそのまま使用していると使わざるを得ない部分もあって。
リーダビリティを損なわない程度に議論の進捗のなかで適宜意味合いを特定しながら使う、と云う方法しかないのかなぁ、とか思ったりしてます。

投稿: pooh | 2008年5月 9日 (金) 08:10

poohさん、今日は。

「科学的」が、「ある方法(実験や理論的考察)によって確かめられた知識」、という意味で用いられるか、「普遍的な事実」と同義で用いられるか、という所で、ずれが出るように思います。

言葉の意味に関してある程度の共通了解を持っていないと、議論なりが、全く噛み合わなくなってしまいますよね。つい昨日も経験した事なのですが。

投稿: TAKESAN | 2008年5月 9日 (金) 11:34

TAKESANさん、またまた啓発記事、ワクワク、ドキドキです。
poohさん、こんにちは。
poohさんの以前のエントリーを参考に「議論や討論」の土台について書こうと思いながら、
依然として水騒動がバタバタしているので、
その方面をROMしていました、、、
すると、「あっ、こんなテーマで書きたい」とか「そうか、、、こんな本を読みたい」とかコロコロと転がっている私。
と、言う事で、なかなか考えがまとまらなくて、
書けそうにありませんが、ボチボチとやっていきます、、、


さて「科学的」ですか?
定義が曖昧なときに便宜上使いやすいのかなぁ???と思ったりしています。
少なくとも研究者は、自分の研究を論文なり雑誌で発表する時、「科学的」という言葉は使いませんようね、、、どうなんでしょう????

投稿: せとともこ | 2008年5月 9日 (金) 11:38

せとともこさん、今日は。

「科学的」という言葉、解っている人達の間では、色々な意味を一まとめにした便利な概念として使えるが、知らない人には誤解される虞がある、という感じだと思います。「科学」という言葉を知らない人は恐らくいないでしょうけれど、でも、その言葉の意味を突き詰めて考える人は、それほどいない。

解っている人にとっては、かなり広い概念をその都度説明するのは、大変に面倒ですしね。というより、説明は無理ですよね。科学的とはどういう事か、を知りたければ、本を何十冊も読みましょう、という話になりますし。

でも、科学という言葉自体は誰でも知っているし、それぞれのイメージがあるでしょうから、「自分辞書」的なもので解釈して、それで論を進める。だから、噛み合わなくなるんですよね。コンセンサスが無いと。

たとえば、実験科学方面の人だと、条件をコントロールして実験してデータを採って、それを統計的に解析して……というような手続きを、「科学的」方法に含めていると思います。だから、そういう手続きを踏まえて無いものは、「科学的では無い」と評価される訳ですね。ところが、そういう事情を知らない人が、「科学的では無い」という言葉を見聞きすると、「事実では無い」、「あり得ない」と言っているように感じる。そういう事なのではないかと思います。

投稿: TAKESAN | 2008年5月 9日 (金) 12:14

「科学的に」という言い回しは、

 1.科学的に認められている方法によって確認
  (実証)されているか否か

 2.今までに蓄積された知識体系に整合するか
  否か

という意味を持たされる事があるように思います。で、コンテクストによって、どちらを主張しているかが異なってくる(が、両方が全く独立している訳では無い)。

投稿: TAKESAN | 2008年5月 9日 (金) 12:45

 個人的には「科学的に認められない」という言い方には違和感があります。
 それは、”科学”というのが現象を解明する方法と知識の体系であるとしても、”科学的”とはその中の方法論に限定されたものと考えているからです。

 ですから、その理論が科学の体系に含まれないという意味であれば、「(現段階の)科学では確認されていない」、「(現段階の)科学とは相反する」と言った方がピンときます。
 なお、血液型と性格については、「科学的に間違っている」というよりかは、「(検証方法が)科学的ではない」あるいは「(提唱者が)科学的という事の意味を間違って使っている」と言うのが正確かと。

 最近は、「科学」という枠組みで正誤を判定しようとするから、「科学」という枠組みを良く分かっていない人達と色々軋轢が生じるのであって、次のような流れで言えば良いのかなぁ、と思っています。

1 科学的に検証すると成り立ちませんよ
  or 科学的に検証できるような内容ではありませんよ

2 だから、科学的という表現を使うのは間違いですよ

3 でも、科学よりも自分を信じると言うなら別に止めはしませんよ

4 だけど、それで何か不利益があったら、自分の責任ですよ

投稿: Judgement | 2008年5月 9日 (金) 23:26

Judgementさん、今晩は。

言葉というものは、先入観によって捉える意味が変化する場合があるので、書く際に出来る限り気をつけても、誤解はされますね。だから、詳しい説明にリンクを張ったり、説明を怠らないという「態度」が重要になると思います。

「認められない」という言い回しは、それ自体が色々な意味に解釈される可能性があるものだと感じます。「確認されていない」という意味にも取れるし、現代科学の知識に整合しない、という意味にも取れる。こういうのは、前後の文脈で補ったり、という所かと思っています。

私が感じるのは、「”科学的”という言葉が出る事自体」に、拒否反応とは言わないまでも、嫌悪を覚える人がいるのかな、と。どんなに注意深く表現したとしても、読まれなくては意味が無いので、そこら辺は悩ましい所です。

血液型性格判断に関しては、基本的には、科学的に間違っている、という表現で良いだろうと考えています。もちろん、より厳密に考えるなら、他の言い方もあるでしょうけれど、科学的方法によって反証された、という事ですから、特に、科学というものに対してコンセンサスが取れている人達の間で用いる場合には、構わないかと思います。
当然、よく知らない人に対して、それは科学的に間違っているよ、という言い方をするかどうかは、ケース・バイ・ケースだと思います。たとえば、私が友人に対して説明する際には、まず、「間違っている」と言い、「間違っているとはどういう意味か」を説明するでしょうね。

私が、対話、あるいは議論において重視すべきだと考えているのは、「相手が用いている言葉の意味をよく考える」、「意味がきちんと取れないなら、保留するか、またはちゃんと訊く」、という事ですね。書く側にも読む側にも、きちんとしたやり方が求められると思ってます。
このエントリーでは、そういう事を主張したかったのでした。

投稿: TAKESAN | 2008年5月10日 (土) 00:28

こんにちは。

僕も「科学的」という言葉はJudgementさんがお書きのように方法論や思考法に限って使用した方が混乱が少なくて済むと思いますが、現状では厳しそうですよね。「論理的」の方もかなり様々な使い方をされてますよね。僕はこっちの方が気になってたりします。

で、現実的な対応策として「どういう点で科学的である/ない」のかを明示することが挙げられると考えています。
でも、もちろんこれはもう皆さんが実際に選択している方法で、「科学」とかに脊髄反射する人ってその重要な具体的な話の部分は無視したり、「難しい話はわからない」と言って受け入れなかったりすることが結構ある気がします。

かと言って「科学」という用語を全く使用せずに説明するってのもなんとなくその場しのぎの対応になってしまうこともありそうですし、結局ケースバイケースということになっちゃうんでしょうか。

投稿: dlit | 2008年5月10日 (土) 01:19

dlitさん、今晩は。

そうなんですよね。脊髄反射的に反応したり、あるいは、ちゃんと共通了解が取れていないのに独自の解釈で用いていたり。これって、前から考えていた事ではあるのですが、最近Lightさんのブログを読んで、改めて思いました。

私自身は、科学というのは方法であり、手続きである、と考えています。つまり、ほとんどの文脈で、実証科学という意味で用いています。ですから、ニセ科学という概念を考える事が出来る訳ですよね。

方法としては、実験やデータの取り扱いのやり方を易しく説明して、だから間違ってる、という解説をしてから、「実は、こういうのが”科学的”という事なんです」、と言うやり方が考えられると思います。まず仕組みや考え方を解説して、「方法に納得」して貰って、それから名前を知って貰う、という。そうすると、抵抗感を減ずる事が出来るかも知れません。そして、「なるほど、それが科学か」、となるかも。
名付けて、「歌い手の名前を隠して”これ良い歌でしょ”と言って歌を聞かせて”いいね”と反応が返ってきたら”実はこれ○○(相手が嫌いな歌手)の歌なんだよ”とタネ明かしをして相手を”むむむ…”とさせる戦法」、です(笑)

尤も、言うは易しで、どんな風に文を構成するか、という所は難しいですけれど。

前に書いた、親子の会話で水伝について考える、というエントリーは、いかに科学というものを意識させないで、ある程度科学的な論理を組み込みつつ、水伝のおかしさを説明するか、という一つの試みだったりします。

投稿: TAKESAN | 2008年5月10日 (土) 01:49

難しいですね。

そういう方法だと、あの会話のように一対一がやりやすいのかな。ネットだと(場所にもよりますけど)第三者がいつでも入ってこれるので流れが作りにくかったりしますしね。それが逆に良い効果を生むこともあるとは思いますけれど。

投稿: dlit | 2008年5月10日 (土) 09:30

ネットに上げた文章は、いつでもどこの誰にでも読まれる、というものなのですよね。そういう意味で、書籍よりも、色々な読みをされる可能性があるかも知れません。
だから、ある対象を想定していても、全然違う所から反応が返ってきたり。

色々なものを参照して貰うよう仕向けるのが、現実的なやり方なのだと思います。

田崎さんの文章は、かなり広い範囲に亘って説得力を持つ、見事なものですよね。それでも、誤読・曲解する人は出てくるというのが悩ましい。悩ましいから色々やる、って事ですけどね。

「科学的」の話をゲーム脳に絡めて論ずると。
ゲーム脳を信用している人に説明する際には、「あれは科学的に証明されたものではありません」、と言う事がありますね。ゲーム脳はそもそも、科学的に実証したと提唱者が断言しているものですから。だから、対象によっては、初めに科学的に云々、というように説明する。

当然、「でも、いつか証明される可能性があるのでは」、という問いには、「その通りです」、と答える訳ですね。※ゲーム脳を、ゲームによって前頭前野が機能低下する、という定性的な主張に置き換えて仮説として取り扱えば。厳密には、その時点でゲーム脳という概念では無くなるのですが。いや、ゲーム脳自体正確な定義が無いって事ですけど。

ニセ科学が多種多様であるように、批判の仕方も色々あるべきなんだと思います。

投稿: TAKESAN | 2008年5月10日 (土) 12:01

こんにちは。

ちょっと出遅れましたが「科学的」という言葉自体の曖昧さは、否定的な文脈での方がより強いように思います。つまり「科学的でない」とか「非科学的」とか言われると、無条件でけなされているように感じる人が結構いるみたいなのですね。例えば「宗教は非科学的である」というのは、私にとっては「ノコギリで料理は作れない」というのと同じ程度に批判でも何でもない記述のつもりです。しかしこれを宗教に対する侮辱だと捉える人も少なくないような気がします。

あまり推測で物を言うとまた恥をかくかもしれないのですけれども、確かに20世紀の中盤あたりまでは「非科学的」というのは「全否定」と同じくらい強い価値観を伴った言葉だったような感触を持っています。何故かと言うと、その頃までは多くの人が「科学の発展が無条件にバラ色の未来をもたらす」と信じていたかららしいです。実際、最も楽観的な予想によると、20世紀中にあらゆる感染症も癌も撲滅され、宇宙の構造も全て解明される予定だった筈なのです。イケイイケドンドンの時代ですね。
おそらく、こうした傾向は当時のSFにも反映されていると思います。レンズマンシリーズや初期のファウンデーションシリーズなどの背景には「知的生命体の知力には限界が無い」という考え方があるように思えます。あるいは「究極の知力を手にすれば、人でもラプラスの悪魔になれる」とでも言いましょうか。

勿論、現代の我々はそうではない事を知っています。しかし、もしかすると当時の「科学万能主義」の名残り、あるいはそれに傷付けられた人の恨みなどが社会のあちこちに残存しており、そしてそれが権威主義に対する反発等の心情と結合する事により、ちょっとしたきっかけで再燃するのかもしれません。

投稿: PseuDoctor | 2008年5月10日 (土) 12:14

恐らく、社会的認知と言うか、「科学」という語に対する印象形成が関係しているのでしょうね。
そのきっかけとしては、科学という語で何かを全否定しているのを見た、という印象等があるでしょうね。私の経験では、大槻教授の「物言い」に物凄い嫌悪感を覚えました。科学で何でも解る訳じゃ無いだろっ、と。

こういう社会的認知について、社会心理学的に調査すると面白いかも知れません。科学という語の具体的な意味は知らないが、それに対して過度にネガティブなイメージを持っている、という傾向が見出される、なんて事があるかも。

これも推測ですが、フィクションで否定的な文脈で扱われる、というのも影響を与えている可能性があるのかも知れません。マッドサイエンティストが出てきたり、排他的価値観の科学者が科学を過信して破滅する、的なストーリーだったり。

本来、意味を知らずに嫌悪を覚えるというのは、おかしな話なのですよね。だけれど、イメージってそういうものだから、「より知っている側」は、色々工夫していく必要があるのかな、と。

ここでのポイントは、科学にネガティブなイメージを持っていた、という経験が自分自身にもあった、という所だったりする訳です(笑)

投稿: TAKESAN | 2008年5月10日 (土) 12:31

以前、kikulogで「ステレオタイプな科学者像」についてのエントリがありましたが、一部の人達(あるいはもしかしたら多数の人達)の間では「科学的」という言葉を使う人=科学万能主義者、というステレオタイプが形成されているのかもしれませんね。

>イメージってそういうものだから、「より知っている側」は、色々工夫していく必要があるのかな、と。
そうですね。身につまされます。

投稿: PseuDoctor | 2008年5月10日 (土) 12:53

こんにちは。私は出遅れついでにずっと戻ってせとさんの「?」にぶら下がります。

「科学」ということばを使うのは世の中で「科学」と認められている複数の違った領域同志を比べたり、「科学」とは別物と考えられているたとえば「文学」と対比したりするような時ですよね。論じようとする対象の領域からは視点をずっと離れたところに置いて。ですから、私はどうしても使わなければならない場合以外は「科学」ということばを使わないようにしようと決意しています。言い換えでカタがつくなら「科学」なんて言わなくていいと思います。仕方がない時には、上でやったみたいに、「世の中の人が『科学』と呼ぶ分野」、って長くなりますが。

ただ、仕事で特定の分野に身を置いている、ということが自分の属する分野のことをよく知っている、とかうまく説明できる、とかいうことには必ずしもつながりませんから(むしろそんなことができる人は希少でしょう)、「科学」ということばを自分の都合で持ち出す方にはたまに出会います。論文の構成やことばづかいの話をしているはずなのに、「それが科学的ってことだろ。」なんて言われたこともあります。対処法は、相手の意図するところをさぐりながら、話をできるだけ具体的な方へ持っていくことですね。

投稿: ちがやまる | 2008年5月10日 (土) 14:02

>PseuDoctorさん

ステレオタイプは、重要ですね。科学者が何をやっているか、どんな見た目か、というのは、結構「明確な偏ったイメージ」がありそうな気がしますね。科学者が何をしているかは知らないけどイメージは持ってる、的な。

------

ちがやまるさん、今日は。

望ましいのは、科学という概念がそもそも広いものだ、というのを共通認識とする事なのだと思います。結局、知らないけど使う、という場合があるので、知っていて使う人との間に、齟齬が生まれるのですよね。敢えて用いないというやり方も考えられますが、使わないで他の表現を用いると、どうしても言葉が足りない、という状況もありそうです。個人的には、科学的という言葉を使いつつ詳しく説明する、というのが良いかな、と思っています。

投稿: TAKESAN | 2008年5月10日 (土) 17:28

 科学とは何か?
 科学とは、第一に、私たちが生きているこの世界が、私たちがこの世界に誕生する前から存在し、私たちの存在をも造った天然自然の存在の法則があることを認めることにあります。
 この世界は、天然自然の存在の法則によって、造られているのならば、この世界の成り立ちと仕組みの解明と理解も、私たち人間存在の解明と理解も、この世界を造っている天然自然の存在の法則に則って、これを唯一絶対普遍の原理にして行うのが正しい、と考えることです。
 一般に科学的と言われるのは、その方法論に根拠を置いていますが、その前に、自然法則+エネルギー一体不可分の働きでこの世界の全てを説明し尽くそうという学問、と言うべきです。
 そして、自然法則とエネルギーのもつ、性質や働き方の原理や、自然法則とエネルギーとの関係が分かれば、自動的かつ必然的に天然自然の存在の創造主である神を発見し、創造主である神が自然法則+エネルギー一体不可分の働きを素材と道具に使ってヒトの存在も含めてこの世界の成り立ちと仕組みの全てを造っていることを誰でも発見するはずです。
 一般法則論
 http://blog.goo.ne.jp/i-will-get-you/

投稿: 一般法則論者 | 2008年5月11日 (日) 03:59

 科学とは何かのコメントの補足
 自然法則+エネルギーとこの一体不可分の働きも、天然自然の存在の創造主である神の存在証明も、その機能も、相互の関係も、科学的に一意的に/一義的にかつ客観的にかつ明確にかつ確定的に解明し証明し説明する必要があります。
 科学論にこれを自動的かつ必然的に含むということです。
 そもそもどうしてこの世界が私たちに認識し理解できるのかも説明の必要があります。これをするのはヒトの心の働きですから、心の存在とその起源とその中身につても、天然自然の存在の創造主である神+自然法則+エネルギ一三位一体不可分の働きで全て創られているこの世界の成り立ちと仕組みに矛盾しない形でする必要があります。
 詳しくは次のブログ。
 一般法則論
 http://blog.goo.ne.jp/i-will-get-you/

投稿: 一般法則論者 | 2008年5月11日 (日) 04:18

「使わないで他の表現を用いると、どうしても言葉が足りない、という状況もありそうです。」(TAKESANさん)

ここが眼目です。そういう状況があるのか、どういう場合か、というのを検討できるところがウリだと思います。冒頭のpoohさんの立場に近いのかもしれません。もちろん、相手と自分の間で話を進めていく関係ができている場合のことですが。。。

投稿: ちがやまる | 2008年5月11日 (日) 09:44

一般法則論者さんのコメントは、他所でもお見かけする事がありますが、残念ながらと言うか何と言うか、意味が解りません。自動生成したような文章ですね。

多分、未来永劫、私には理解出来ませんので、こちらにご意見を書かれても、特に有意義なものにはならないでしょうね。

------

ちがやまるさん、今晩は。

多分、論点がずれてしまうと思いますが、ご容赦を…。

たとえば、科学という概念について、ある程度共通認識を持った人々の間なら、科学的、という言葉が、様々な方法や知識体系の総体を一言で表しているものだ、という所が前提されているのだと思います。そういう了解がある場合には、科学という言葉を用いるのが便利ですよね。
ニセ科学を説明する際にも、あれは科学を騙っているものだから、まず、「それは科学的に認められたものでは無い」、という風に進めていかないとどうしようも無い、という所もあるかと思います。水伝なんかはまさに、「科学的に」間違っているのですし。

どこへ向けて発信するか、というのは重要かと思います。予備知識がどのくらいあるか、とか。
でも、「水伝て科学的に間違ってるよね。」、「そうだよね。」という会話がなされていたとして(そこではコンセンサスがある)、それを眺めていて、「何でも科学で解る訳じゃ無いだろ。」と非難(科学という概念の理解に齟齬がある)する人は、必ず出てくる訳だから、これは難しい問題です。

投稿: TAKESAN | 2008年5月11日 (日) 19:52

あ、そうそう。

実は、ここ最近、明らかに科学的方法をあまり知らないのに、「科学」や「科学的」を連発する人を見かけたのですよね(poohさんやdlitさんはご存知のはず)。
で、「ちゃんと具体的に考えた上で言っているのですか?」と質問を投げ掛けました。特に反応はありませんでしけれど。
そのように、「解っていて敢えて使わない」というのとは正反対の、「解っていないのに敢えて使う」ケースもあるのが厄介なんじゃないかな、と思っています。

投稿: TAKESAN | 2008年5月11日 (日) 19:57

私は(何度か書いていると思いますが)大槻教授の「科学的にみてあり得ない」という表現が不快だったため、人と話すときには「科学」という言葉は使っていません(たぶん)。

おかしな話を否定する時は、具体的に「ここの説明のここがおかしいよね」とか「こんなことが出来ちゃったら、こんなことも出来ちゃうよね。でも実際には出来てないよね」見たいな感じです。

一対一ならこんな感じで大丈夫なんですが、不特定多数を相手にする場合は難しいですかね。

投稿: Noe | 2008年5月12日 (月) 08:31

Noeさん、今日は。

そうそう、私も全く同じでした。大槻教授の「言い方」に引きずられて、科学という言葉そのものを毛嫌いしたのですね。なので、直接会話する時なんかは、そんなに使わないです(使わない事も無いけれど)。

やっぱり、ネットに上げる文章なんかは、リンクを張り巡らせるというのが重要なんじゃないかと思いますね。

投稿: TAKESAN | 2008年5月12日 (月) 12:18

こんばんは。

大槻キョージュの言い方には、私でも反感を覚えますね。
おかげさまで(笑)、私は「科学的」という語を目にする度に「この人はどういう意味で使っているのだろう」と考える癖がつきました。大槻先生の場合は、勿論御自分では意味が解っておられるのだろうけれど、それを違う意味で捉える人が少なからずいる、という事には殆ど無頓着であるように見受けられます。

ちなみに、私自身がもし「科学的でない」という言葉を使うとすればどういう時か、と考えてみると、それはTAKESANさんと殆ど同じです。つまり
1.科学の方法論に従っていない
2.既存の知見と矛盾する
のいずれか、あるいは両方ですね。ですからあえて「非科学的」という言葉を使わなくても、1.または2.のように直接述べれば足りるという事に気付きました。

投稿: PseuDoctor | 2008年5月13日 (火) 00:05

うーむ。これだけサンプルがそろうとは。
大槻教授って偉大だ(笑)。

投稿: ちがやまる | 2008年5月13日 (火) 06:21

PseuDoctorさん、ちがやまるさん、お早うございます。

大槻教授、大人気ですねえ。

実は、これはとても興味深い話なのですが、大槻氏がCSの番組(きくちさんも出演された、ニュースの深層)に出ていた時、とてもちゃんとした事(この書き方もあれだけど…)を仰っていて、あれ、と思った事があります。なんでそういう風に、地上波でもやらないんだろう、と。編集なのか、地上波用のパフォーマンス、あるいは戦略的なものなのか…。
私は、たけしさんの番組とかで、大槻氏が色々否定しているのを見て、相当反発を覚えました。あの言い方では、少なくとも正確な理解はされにくいよなあ、と、今では思います。

私が「科学的」という言葉について色々考えるようになったのは、最初に興味を持った学術書的な本で、いきなり科学哲学の話とか、「科学とは」的な話が出てきたから、なのでした。考えざるを得なかったのですねえ。

投稿: TAKESAN | 2008年5月13日 (火) 10:33

 この記事にインスパイアされて、色々とまとめてみました(&進行中です)。
 
 本当はトラックバック張りたかったんですが、前回もそうだったように、何度やってもエラーが出てダメです。
 最近NiftyとSo-Netは仲悪くなったのかしらん?

トラックバック代わりに
http://naked-kings.blog.so-net.ne.jp/2008-05-13

投稿: Judgement | 2008年5月13日 (火) 23:11

Judgementさん、今晩は。

ちょうど、さっき読んだ所でした。続きも拝読しますね。

うーん、ココログの妖精さんの機嫌が悪いのかなあ…。seesaaも上手くいかなかったみたいですし。なんの制限も掛けて無いんだけどなあ。

手数をお掛けします。

投稿: TAKESAN | 2008年5月13日 (火) 23:49

取り敢えずここに。

池内氏の『疑似科学入門』に対する批判エントリー⇒http://yoshibero.at.webry.info/200805/article_3.html

疑似科学批判本の内容を批判する、という興味深いエントリーです。

※私は、池内氏の本は未読で、かつ、BSEや遺伝子組換え食品にまつわる議論は全然押さえていないので、批判が妥当かについては、保留です。ですが、引用しつつ丁寧に批判を行っているので、興味深いものだと判断しました。

投稿: TAKESAN | 2008年5月15日 (木) 01:44

http://messages.yahoo.co.jp/bbs?.mm=GN&action=m&board=1835549&tid=a1va5dea5a4a5ja59a5a4a5aaa5sa1w4fbbkbcbc&sid=1835549&mid=1126

相変わらずなお人だなあ。

abc_wood_abcさんが説明して下さってますけど、あのコメントの「読みが甘い」という部分、私自身に掛かっていますからね。

いや、誤読は誰にでもある事ですけどね。SSFSさんの場合、バイアス強過ぎ。ニセ科学批判者につよーいバイアス掛かってます。その後に強い批判を書くんだから、よく読み込まないとね。自戒自戒。て言うか、コメント全体を読むと、誤解はしにくいと思うんだけどなあ。

ちょっと前に、似たような誤読をして、他者を強く非難しているのを見ましたね。幾通りかの解釈を想定した方がいい、と思うのだけれど。

投稿: TAKESAN | 2008年5月16日 (金) 12:28

なんかもう「意図的な誤読」とか受け取られても仕方のないところまで来てるような。

投稿: pooh | 2008年5月16日 (金) 14:12

poohさん、今晩は。

どんどん、あっちの方向へ行っちゃいますね。止まる事を知らない。

投稿: TAKESAN | 2008年5月16日 (金) 20:43

はてブ経由⇒http://bladerunner.blog91.fc2.com/blog-entry-37.html

引用部、実に興味深い。
科学論として興味深いのはもちろんだけれど、共著者も興味深い。

読んで無いので、これ以上の事は言えないけれど。

投稿: TAKESAN | 2008年5月20日 (火) 13:33

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