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2008年5月14日 (水)

説明出来る、使える

2008-05-11 - IHARA Note:大半の疑似科学は技術である。

2008年5月15日追記:応答を頂きました⇒2008-05-15 - IHARA Note:「大半の疑似科学は技術である」の続き。

こちらのエントリーについては、コメント欄で、私の考えを書きました。ご参照下さい。

この間読んで、何となく気になっている記事です。

特に批判とかでは無いのですが、ちょっと意味が掴み取れないなあ、という印象でした。

素朴な疑問としては、科学と技術、「説明出来る/出来ない」、「使える/使えない」、というのを、峻別出来るものなのかなあ、とか。いや、何となくは解るのですけれど、上手く掴み切れないのですよね。技術が説明するためのものでは無い、というのは理解出来なくもないのですが、科学が「使える/使えない」という文脈で用いられる事は、ありますよね。よく考えると、前者の方も、何かを説明出来るヒントとして捉えられる、という事もあると思うのですが、そういう話とは違うのかな…。今、ものの本をめくったら、ジョセフ・ブラックとジェームス・ワットの親交の話が載っていて、興味深かったです。

 疑似科学の代表格である「水からの伝言」は日常の心の持ち方として使うための概念だ。だから、これは技術である。科学的文脈で主張してはいけないし、科学的文脈で批判されるべきものでもない。技術として「使える」か「使えない」かで語られるべきものだ。

ここも、意味が取りづらいですね。まず、水伝が、「日常の心の持ち方として使うための概念」、と説明されていますね。従って、それは技術である、と。まずここに、誤解があるような気が。水伝は、周知の通り、「言葉に応じて水が変化する」というメカニズム(良い言葉は何故良いか、というメカニズム)を謳っている訳で、間違い無く、科学を主張したものですよね。科学的文脈で主張してはいけない、と言われても、そもそも科学的文脈に「進入」してきたものなのですから…。だから、そこを捨象して、技術として「語られるべきだ」、というのは、当たらないのではないかと思います。そもそも疑似科学やニセ科学といったものは、科学を装っているもの、ですしね。

「水からの伝言」は今のままでは「単なる使えない技術」にすぎない。どう使えばいいのかが分からないからだ。もしそれが可能なら、使いやすく改良されることを願う。

うーん、ここも…。水伝は、上にも書いたように、言葉に応じて水が変化するというのを実験で確認した、と言って、それを道徳的な、「言葉遣い」の根拠にしている説です。それを、「単なる使えない技術」と表現するのが、どうしても掴めないです。使いやすく改良される、というのもね。全く具体的にイメージが出来ない。

科学と技術はもともと別々のものだった。それが融合したのはかなり最近のことだ。私は、この二つをもう一度分離すべきなんじゃないかと思っている。

そして、こういう結び。やっぱり解らない。ところで、技術の有効性の評価なんかは、科学的な方法が用いられたりしますよね。統計的な方法とか。そういう意味でも、密接な関係なんじゃないかと思うのですが、違うのでしょうか。

なんか、解らん解らんと連発してますね。でも、本当に、よく解らないのでした。ニセ科学についてはそこそこ解ってるはずなのだけれど。

技術といえば、技術開発者さんがおられる…(水を向けている訳では決してありません、多分)。

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科学論」カテゴリの記事

コメント

こんにちは、TAKESANさん。

>技術といえば、技術開発者さんがおられる…(水を向けている訳では決してありません、多分)。

「鉄は何万人も人を殺して一人前の材料となった」なんていうのは、鉄などの金属の後に開発されて、その後を追いかけていた材料の開発に関わっていた頃の私の言っていた事です。意味が分かりにくいかも知れませんが、鉄は人類が始めて手に入れた高強度材料でして、まだ、その特性がよく分からなくても「必要なら使わざるを得ない」状態だったんです。だから金属疲労などのことが分からなくて、「保つハズなんだけどな」と使った所が突然破壊して人が何人か死んでも、「じゃあ使うのを止めよう」なんてできなくて、「もう少し厚くしてみよう」とかで使わざるを得ない訳ですね。でもって厚くしたって金属疲労は進行するからまた壊れて人を殺す。とても沢山の人を殺したり怪我をさせて、いろんなデータが溜まるとはじめて「金属疲労という現象があるんだ」とわかる訳ですね。でも、私が関わっていた様な後追いの材料は、それが許されない訳です。「どういう疲労現象が起こるか使いながら考えましょう」なんて言ったら、「そんな危ない材料は使えないよ、鉄でも製品はできるから鉄を使うよ」と言われる訳ですね(笑)。

後から理屈で解明したときに「優れている技術」というのはあります。例えば日本刀の鋼の技術など、今の学問で解析すると刃物として最高の鋼です。それを理屈でなく経験のみで作り上げたことは素晴らしい事です。でもその時に今できあがっている日本刀の技術ではなく、その試行錯誤段階に思いを馳せて欲しいんですね。戦場であっという間に折れたり曲がったり、その結果として斬られて死んだり、なんてね。そんな沢山の失敗の上に今の高い技術が完成している訳ですね。

 「使えそうだから、理屈は分からないから使おう」という人は「経験的技術の進展の人身御供の候補者」として大変貴重な人なのだろうと言うこともできます。

投稿: 技術開発者 | 2008年5月14日 (水) 08:28

技術開発者さん、今日は。

言及先では、使える/使えない の視点が技術で、科学とは異なる文脈である、と言われている訳ですけれども、その、「使える/使えない」の評価そのものに、科学的方法が用いられ、既存の理論との整合性が考えられるものだ、と私は思うのでした。

ちょうど日本刀のお話をして下さったので、ちょっとそこに乗っかりますと、厳密には、この文脈での技術では無いかもですが、それに近いものとして、「武術」がありますね。長い時を経て経験的に洗練されてきた、攻撃的な相手を制する技術体系。昔は、剣術等があり、実戦で負ける事は、即、死に繋がるものだった訳ですね。そういう厳しい条件の下で、いかに殺されずに相手を殺すか(時代によっては、いかに傷つけずに制するか。これも洗練の一つの方向性)、という所が突き詰められ、役に立たない技術は淘汰され、優れた体系が残った(ちょっと単純化してます)。
まさに、道具としての刀の構造機能が洗練されていったように、身体運動技術としての武技も、同じく洗練されてきたのですよね。

で、それは、現代のバイオメカニクスや心理学から考えても、非常に興味深い対象で、とても優れている。そして、そのメカニズムの解明は有意義ですし、メカニズム解明がフィードバックされて、技術体系を向上させる事も出来る。そういう意味でも、明らかに、相互作用し、影響を与え合っていると思うんですね。

いや、そもそも、言及先で、そういう話がされている訳では無い、のかも知れませんけれど…。
でも、水伝の場合、「こういう技術があって、それは使えるものだよ」、という主張「では無い」のですよね。あれは、「この技術(ここでは”言葉遣い”)には、こんなメカニズム(言葉で水が変化する)があるんだよ」、というものなので、それは間違い無く、「科学」を主張していますね。だからこそ、ニセ科学、すなわち、科学を騙っているもの、と評価される訳で。

上にも書いたように、この文脈では、「技術」とは、「言葉遣い」を指すと思います(他に解釈出来ない。「言葉で水が変化する」という所を、「技術」と捉える事は出来るのかなあ?)。つまり、良い言葉を使いましょう、というものですね。でも、それは「水伝じゃ無い」のですね。もし、言葉遣いを良くしましょう、それは人間の精神に影響を与えるものだから、という主張であるなら、それは水伝とは別物だし、心理学的な分析対象である一般的な現象である、と思います。

投稿: TAKESAN | 2008年5月14日 (水) 11:26

某ブクマ曰く、

 >「科学」を持ち出してきたのは先方なんで

シンプルで妥当な指摘ですよね。ニセ科学を主張する人は、科学だと言っているのですし。

水伝は、言い逃れをしているけれど、そもそも「実験」で確認したと言った。ゲーム脳は、科学的に実証と(必ずしも文字通りでは無いけれど)言っている。血液型性格判断は、統計的に確認された、と言う人がいる。「血液型から性格が高い確率で当てられる」という世間に信じられている現象は、科学の方法によって確かめられる対象。

投稿: TAKESAN | 2008年5月14日 (水) 11:36

「疑似科学は技術」と言いたいだけちゃうんか
というツッコミは無しですか。

>科学と技術はもともと別々のものだった。それが融合したのはかなり最近のことだ。

科学は技術に比べたらかなり最近出来たものなので、「もともと別々のものだった」という表現には違和感を覚えます。なんか、並行して長期間存在してきたかのような印象を受けます。

それにしても、なぜ例として「水伝」なのでしょうか?疑似科学なら他に相応しいものは沢山あると思うんですが。

投稿: Noe | 2008年5月14日 (水) 12:26

憶測ですが。
例示を水伝ではなくマイナスイオンにとったら、ここで云う「使える/使えない」軸が猛烈に生臭いものになってしまうからかも。

投稿: pooh | 2008年5月14日 (水) 12:49

Noeさん、今日は。

▼▼▼引用▼▼▼
「疑似科学は技術」と言いたいだけちゃうんか
というツッコミは無しですか。
▲▲引用終了▲▲
それを言っちゃうと、終わってしまうので…。

うーん、そもそも、「科学」で何を指そうとしているのかが、よく解らなかったんですよね。ニュートンの話が出ているので、近代の実証科学を示しているのでは無いのかな、とは思いました。科学史的には多分、古代ギリシアに科学の萌芽を見る、という事もありますよね。でも、そうだとすると、そもそも科学と技術は別のものであった、とは言えない気も。
そこら辺が、ちょっとはっきりしませんね。※

例が水伝なのは、やっぱ目立ってるからなんじゃないかと。はてな界隈でもよく出てきますし。

※道家・赤木 『科学と技術の歴史』(’99)によると、
▼▼▼引用▼▼▼
「自然科学」とは,活動としてみれば,「自然の内部に隠れている法則を体系的に認識すること」であり,「認識したもののすべて」が,その時点までの自然科学であると言える。認識するとは,平たく言えば,知るとか、発見するという意味である。(P31)
▲▲引用終了▲▲
と説明されています。従って、古代ギリシア(本書では、「古典ギリシア」)の自然哲学も、自然科学の概念に含まれています。ここでは、現代の洗練された実証の方法は、必ずしも含まれない訳ですね。

------

poohさん、今日は。

水伝が、具体的な科学っぽさや技術っぽさを感じさせないから、というのがあるかもです。あれ、原典を読まないと、それがなかなか解りにくいので。原典は、バリバリ科学っぽいんですけどね。
他の疑似科学(ニセ科学)をあまりご存知で無い、という可能性もあるけれど…。

投稿: TAKESAN | 2008年5月14日 (水) 12:54

少し前に「『科学技術』と並び称されるように」というようなお話を伺った記憶が蘇りました。poohさんのところとこちらのどちらに書こうか考えたのですが、こちらの流れのほうが向いていそうなのでこちらに書かせて戴きますね。

技術開発者さんが最初に書かれたようなことをオレも考えていまして、技術というのはまず合目的的な試行錯誤に基づく経験値の集積ですね。神農の話なんかも「百草を嘗めて効能を確かめ、諸人に医療と農耕の術を教えた」なんてウィキに書かれていますが、それが致死毒だったらその場で死んでいるわけですね。寧ろ目的の為に無数の犠牲を伴いながら経験則を積み重ねた「諸人の営み」の象徴として神農の伝説があるわけです。

言及先の方が仰っている「使える」という言葉の陰には、技術開発者さんやTAKESAN さんが仰っているような無数の犠牲者があるわけで、失敗即死という冷酷な淘汰の結果として微調整が加えられて「使える」技術のこんにちがある。

そういう意味で、自然科学を技術的実用性の側面から視るなら、事象の背面の理を解明することで、大量の犠牲を伴う経験知の集積を要することなく「使える」法則性を見出すこと、というふうに視ることも出来るでしょう。もう少し科学哲学寄りに解釈するなら、科学という方法論は一旦「使える・使えない」という実用的な視座を捨象することで、万象の裏面の理の体系を明らかにする知の手法だとも言えるでしょう。

それは一種の知的好奇心という高尚な欲求をモチベーションとするわけですが、これはやっぱり何処かで「使える・使えない」という現実的な視座とリンクしているわけで、本来社会や文明にとって不都合なものであれば、そんな欲求が肯定的に評価されなかったはずだと思うんですね。

一旦「使える・使えない」という実用的な視座を捨象し、純粋に背面の理の体系を探ったほうが、結果的には包括的に「使える」技術の創造に有益だろうという暗黙の期待があるから、純粋な知的好奇心に基づく科学的探求が称揚されているというところもあるでしょう。少なくとも、純粋哲学ではなく社会原理の観点から言えば、そういう側面があると思います。

だから自然科学の短い歴史の中でも、実用性の観点からの揺り戻しがあるわけで、社会に対する還元なんて名目で「役に立つ研究をしろ」「カネになる研究をしろ」という圧力があったりなかったりするわけですね。そういう意味では、科学の方法論というものを実用性の観点で謂えば、よりステディでローコスト(社会的な意味で)なアプローチと謂えるわけで、背面の理が解明されていれば、或る程度確実にそれが機能することにローコストで保証が得られるわけです。

自然科学が何故他の規範よりも有力なのかと謂えば、物理的現実の実在を疑わないのであれば、ほぼ絶対に近い確率で予言が出来るからですよね。経験則に基づく技術が何故ハイコストなのかと謂えば、これが出来ないからでしょう。予言が出来ないからあやふやな見込みに基づいて実際にやってみる、失敗したら犠牲を伴うし、その犠牲が積み重なって如何なる条件においても有効な規則性が「偶然」見出されるまでに膨大な時間がかかる、というわけです。

つまり、予言が出来ないから虱潰しに全部やってみるしかないわけです。さらにそれまでの積み重ねの連続上にないブレークスルーというのは、誰かが「偶然」想い附くことを待たねばならないというわけで、窮めて非効率的であると言えるでしょう。

で、今現在の技術というのは、合目的性の観点から自然科学の規範を採用しているわけで、自然科学が万象の背面の理を解析することで演繹的に保証するようなレベルのステディさが「事実として使える」技術にも求められるわけですね。つまり、自然科学という手法がすでに存在する以上、「或る目的を想定して虱潰しに全部やってみる」という犠牲を伴う方法論を採ることは出来ないわけで、それが作動することは確かめられているけれど何故作動するのかわからないという「技術」は、従来その種の技術が受けていた犠牲を伴う淘汰というプルーフを受けていないわけです。

技術開発者さんが仰ったような「背面の理が導き出す別の影響」の存在が経験と犠牲によって検証されていないわけですから、実は偶然見出された「使える」ような見え方の技術というのは、従来の経験則に基づく技術と同列に視てはいけないのだと思います。

従来的な経験則に基づく技術にしたところで、たとえば「この薬草を煎じて飲むことで健胃効果があって健康に良い」とされている薬草があるとしても、実はその薬草には表面的に因果関係を特定しにくいような機序で強い発ガン作用があるとか、そういうことは考えられるわけです。

しかしその経験則が活きていた時代性においては、胃潰瘍で死ぬ危険性のほうがガンで死ぬ危険性より圧倒的に高かったということも考えられるわけで、そうすれば、その時代性においては発ガンリスクというのは殆ど重要な問題にならないから、そもそも発ガンリスク自体がまったく検証されていないということも考えられますね。

たまたま長生きした人がガンで死んだとしても、それは一般的にそこまで長生きしない時代性においては現実的な不都合とは見做し得ないということになります。経験則に基づく技術というのは、飽くまでそれが有効な時代性において不都合よりもメリットのほうが大きく見えるという相対的な側面を持っているわけで、自然科学は背面の理の解明を必ず要求するメソッドであることで、それよりも包括的に事態に対処出来るツールとしての有効性を持っているという言い方が出来ると思います。

投稿: 黒猫亭 | 2008年5月14日 (水) 14:44

歴史的には、技術というか呪術というか経験的ノウハウが最初にあって、それから科学が分離したと私は思っていました。もちろん、ノウハウにもいろいろ種類があって、あるノウハウから分離した科学が他の技術と融合して使われたりしますから、分離と融合は錯綜しているんじゃないですかね。

で、「私は、この二つをもう一度分離すべきなんじゃないかと思っている。」というのは確かに真意が分かりませんね。科学と技術はあまり区別しないで使われる言葉なので、明確にしようと言う程度なら分かりますけど。まさか、科学抜きの経験のみの技術に立ち返ろうというのではないでしょうけど。

投稿: zorori | 2008年5月14日 (水) 15:50

「きれいな言葉を掛けるときれいな結晶ができる」という言明はTAKESANのおっしゃる通り技術ではありませんね。技術というのは、例えば、「丈夫な(脆い)材料の方が良い」という価値観が先ずあって、それを効率的に実現する技かと思います。

それで、仮に正しい科学だと仮定して「水伝」を技術に応用できるかというと、可能な場合とそうでない場合があるんじゃないでしょうか。きれいな結晶を見たいという需要があれば、技術として使えます。ところが、きれいな言葉使いをしたいという需要への技術たり得るかというと違いますね。ではなくて、きれいな言葉使いをさせたいという教師などの需要への心理的技術にしか過ぎません。元もときれいな言葉使いが良いと思っているなら、技術が無くたって話せるわけですし、汚い言葉使いをする悪がきを脅す手段にしか過ぎません。しかも、きれいな結晶が良いという価値観が無ければ効果はありません。

技術とはある目的を効率的に安全に実現するものだと思います。道徳教育の目的とはある価値観を育てるものだと思うのですが、「水伝」はその価値観そのものは育てないで、その外面的な行動をさせるために別の価値観を使っているだけじゃないかと。だから、外面的行動をさせる技術ではあるけど、道徳教育の技術ではないと。

投稿: zorori | 2008年5月14日 (水) 16:37

私は、この方が疑似科学との関連から科学を語っているので、この方の言っている科学とは現代科学の思考法を言っているのだろうなと思いました。
哲学の時代からなら確かに共存していたといえますが、その場合、最近は科学が技術を説明するためのツールになったというだけで、科学と技術は分離も融合もしていないような気が・・・
いや、そのことを指して「融合」と言っているのか。それならこの方は、「技術」の説明に「科学」を用いるなと言っていることになるのかな?
う~ん、そんな過激なことを言うつもりがあるとも思えないし・・・
(やはり「言いたかっただけ」に傾いてしまう)

投稿: Noe | 2008年5月14日 (水) 17:20

では、コメントを更めて、この方が仰っている水伝が使える技術であるという前提を検証してみましょう。実はこの言明には何の根拠もないというのは皆さんがお考えの通りだと思います。

道徳教育という観点で視ても、これは単に教師が何か有効な授業をしたと思い込む為の口実という実用性しかありません。本来的な意味での道徳教育においてはデメリットしかないというのは、dlitさんやTAKESAN さんが「言葉」の側面からアプローチされている通りです。この教育で「良い言葉を遣おう」という表面的なモチベーションが喚起される一方で、面白半分に悪い言葉を遣って誰かを痍附けようとする悪意をもたらすのではないか、しかも人と人の間では実際に呪術の悪影響があるのではないか、ということを、過去に指摘させて戴きました。

水伝を道徳教育に用いるということは、論理的に考えて「良い言葉を遣う必要がある」という徳義感の結論に直結しないということは、たとえばTAKESAN さんの論考などでも屡々言及されています。このストーリーが語っているのは、言葉が人体に対して影響を持つという架空の論理だけであって、「だから」良い言葉を遣おうという結論というのは「他人に危害を加えるのは良くない」という一般則にのみ依存していて、このストーリーとは意味的にまったく無関係であることになります。だとしたら、そもそもこれを例にとって道徳教育を行う実用的な意味というのはまったくないわけで、デメリットがあるだけ「使えない」技術だということになります。

また、水伝が広まることで、たとえば「良い音楽」を聞かせることで家畜や栽培物の生育や味が良くなるという「虚偽」が広まり、その結果として無意味な設備投資を行う農家が現れたり、そのような肥育法・栽培法による生産品だということが市場価値を持つわけですが、これは一見社会的なメリットに見えますが、単に意識的ではないだけで虚偽の価値を謳って商品価値を高めているだけですから、悪意なき生産農家に詐欺師同然の商売をさせているという社会的に甚大な悪影響があるわけです。

水伝というのは、本質的には、たとえばpoohさんやオレや地下猫さんが指摘しているように、「呪術は人に対しては効く」ということを、全然論理的には関係ない架空の喩え話(しかも虚構を事実として提示する虚偽という側面もあります)で補強するという効能しかないのですね。つまり、人に呪術的なコミュニケーション原理を妄信させるツールとしてしか「使える」ところはないわけです。で、人間同士の間なら呪術は効くというのは、或る程度の範囲で事実なわけで、それを説明するのに虚偽の喩え話は必要ないわけです。

で、現代社会において呪術が許容され得るとしたら、「多くの人々が識らない技術を持つことで他者に対する優位を確保する」という下世話な動機などではなく、われわれが無意識に使っているコミュニケーションの呪術的側面に想いを致すことで、人と人の間でコミュニケーションを穣りあるものにしようという形のものであると思いますが、水伝が訴える呪術の有用性というのはその域を超えています。

たとえば水伝というのは「祈れば湖の水を浄化することが出来る」「祈ればハリケーンを止めることが出来る」、こういう結論に必然的に結び附いているわけですが、それが甚大なデメリットや不正義をもたらすというのはすでに語ったことです。湖水浄化の努力の功名を簒奪したりモチベーションを低下させる、自然災害に対する警戒をおろそかにさせる、その他諸々の大きな社会的デメリットがあるわけです。

この方が水伝を「使える」技術だと仰るのは人文科学的な意味合いだと思うのですが、そういう意味で、従来の水伝批判の文脈ではまさにそれがそのような文脈において「使える・使えない」という部分についても言及しているわけで、その結論として水伝には言説技術として何ら実効的な意義はないということも語っているわけです。

なので、科学・技術の実用性に関する理路にも甚だ疑問を感じるし、さらに水伝が「使える」技術であるという前提の置き方にも大いに疑問を感じる次第です。

投稿: 黒猫亭 | 2008年5月14日 (水) 17:38

黒猫亭さん、zororiさん、今日は。

>皆さん

やっぱり、「科学が何を指しているか」、「技術が何を指しているか」、が判然としないのですよね。

Noeさんも仰るように、「融合」というのもどういう概念なのかな、と。

メカニズムの説明なのかどうか、という所で分けているのかな。でも、メカニズムが解らなくても効果を定量的に評価する、というのも科学的方法と考えられる訳で、医療統計とか疫学的な方法が発達したのですよね。心理学なんかでも、そういうのは多いですし(臨床なんかも)。そういう応用科学的な所と、基礎科学・理論科学を峻別すべきだ、というご意見なのかなあ。もちろん、方法や論理の面で分けて考える、というのは、大切な視点であるとは思います。

で、水伝の話に戻すと、一応、水伝を科学と技術に分けて考えようとしてみると、水伝の言いたい事である「良い言葉を使うのは好ましい事だ」、というのが、技術的・実利的側面であり、その根拠とする「言葉に応じて水が変化する」、というのが、そのメカニズム、あるいは科学的理論、と言えると思います。で、水伝とは、そもそもそれが密接不可分に絡み合っている訳ですよね。それで、本質的には、後者が重要。言葉によって水が変わる、というのを「実験」で確認した、と言ったのですから。それが、水伝という主張の核。
だから、水伝が使えない技術である、という表現自体が当たらないのではないかと。少なくとも、一面を見たものでしか無い。あれは、初めから科学の土俵に乗ろうとしたものなのですから。

そして、実用的側面、つまり、良いとされる言葉を使えば、というのは、心理学的・社会学的に考察すべき対象であって、それも、現在一般的に言われる所の「技術」には、当てはまらないと思います。そう言えるとしても、それは結局、社会科学的な研究対象として捉える事が出来ますね。

うーん。
科学と技術を分けて考えてみる、という一般論であれば納得出来たかも知れないけれど、それと疑似科学、とりわけ水伝の話と絡めて論じた事によって、話が解りにくくなったんじゃないかな。

投稿: TAKESAN | 2008年5月14日 (水) 17:55

そうですね。

最も違和感を覚えたのが、可能ならば、水伝を使える技術に改良するのを考える、という箇所です。
そもそもそれが絶対不可能だ、と言えるくらいの主張であるからこそ、ニセ科学として最もよく批判される訳ですしね。科学的にも、道徳的にも、言語学的にも。
ですから、水伝の論理をきちんと押さえておられないのかも知れないな、なんて推測をしてしまうんですね。

投稿: TAKESAN | 2008年5月14日 (水) 18:00

こんばんは。
言及記事は、幾つものツッコミポイントがありますね。既に「水伝が科学か技術か」という論点についてはかなり論じられているようですので、それ以外の点について書きます。

まず、水伝問題の一面しか見ていない件。未だに水伝の問題点が「疑似科学である事だけ」だと思っている人がいらっしゃる(勿論ここのコメ欄というわけでなく)ようですので、ここを読まれている多くの方々にとってはくどいと思いますが、改めて私見を述べます。
水伝は、ざっと考えただけでも
1.科学ではないのに科学を装っている。
2.(科学かどうかに関わらず)嘘を真実として広めている。
3.価値観の多様性を認めず、善悪の判断を他者に依存させる。
という様々な問題点を持っています。疑似科学であるというのは1.のそのまた一部分に過ぎないのですから、たとえ、仮に、水伝が「これは科学ではありません」という風に、全く誤解の余地ないまでに看板を掛け替えたとしても、それで全てが解決する訳ではありません(現実には科学の看板を下ろしていないのは、TAKESANさんのご指摘通りです)。

つまり、水伝は、技術としてだけ見ても役に立たないどころか、却って害になります。これを「使える技術にする」のは無理です。期待するだけ無駄というものです。
何故なら、水伝の主張は結局「良い言葉を使いましょう」「きれいな心を持ちましょう」というだけのものですが、それならそれで上記の事を「そのまま」根気良く教え続ければ良い、というのも既に指摘されている通りです。

私は、水伝に接すると、例えばバスの中で騒いでいる子供に対して「運転手さんに怒られる『から』やめなさい」と注意している親を見た時と同じような暗い気分になります。というのも、そのようにして育てられた子供が将来「怒られなければ騒いでも良い」と考えるようになった未来を想像してしまうからです。
「ααだからいけない」「ααだからββしなさい」という形式の教え方をする場合には、よほど注意してααの部分を入念に吟味しないと、後でしっぺ返しをくらう確率が高くなります。その意味で水伝は技術として見ても極めて安直であり、副作用が強く、どういじくってみても「使える技術」などになる筈がない、というのが私の結論です。
ですから、逆に言うと「後から生じる副作用など考えもせず、取り敢えず安直な方法に頼って現状だけしのげれば良い」という考え方をする人達こそが、水伝の考え方に高い親和性を示しているのかもしれません。

次に「科学と技術の分離」について。
たとえ元々は別ものだったとしても、技術を卵として生まれる科学理論もあるし、科学の果実として得られる技術もありますよね。ですから(少なくともtiharaさんのお使いになっている文脈の中では)科学と技術は相補的な関係にあるのであり「これは技術だから科学とは無関係だ」というのはあまりにも乱暴過ぎる主張です。

ここには「現在における科学と技術との深い関係は如何にして成立したのか」という、歴史に対する洞察が決定的に欠けています。もし、仮にtiharaさんが「技術は科学の付属物ではない。科学に対してもっと技術は復権すべきだ」のような考え方を意識しておられるのだとしても、いやそうであれば尚更、水伝を引き込むようなやり方は極めて筋が悪く、逆効果にしかならないでしょう。

更に「本来別々のものだったから再度分離すべき」という議論の仕方も、論拠としては非常に弱いものです。例えば「焼いた肉と、塩と、胡椒とは全て本来は全く別々の存在だったのだからこれらは一緒に食べるべきではなく、別々に摂取すべき」と言われたら私は絶対に同意しません。
それでも敢えて「分離すべき」と主張するのなら、融合状態よりも分離状態の方が優れている事を具体的に指摘しなければ説得力がありません。それが出来ないのであれば、単なる原理主義ないし懐古主義と言われても仕方ないでしょう。

つまり「科学と技術の分離」に関しては、前提もおかしいし、推論も変である。だから結論は全く信用できない、という事になります。

投稿: PseuDoctor | 2008年5月14日 (水) 22:49

技術開発者さんのお話に付け加えますと、何万人も殺してデータをとるというのは、終った話ではありません。今でも不本意ながら続いています。

放射線の安全基準を定めるために、広島と長崎のデータが「活用」されたのは有名な話です。チェルノブイリ原発事故が起きるまでは、放射線被曝の長期的な影響のまとまったデータは広島と長崎のものしかなく、放射線の影響評価にそのデータが不可欠だったのです。

さらに、まさに今、松本と東京のサリン事件の被害者のデータによって、サリン中毒の後遺症のデータが蓄積されつつあります。

投稿: かも ひろやす | 2008年5月14日 (水) 23:04

PseuDoctorさん、今晩は。

そうですね。仮に、水伝の主張の一部、すなわち、良い言葉遣いをしましょう、というのを取り出して、その部分を「技術」として捉えたとしても、それは、有効に活用出来るというものでは無いのですよね。何故ならば、各文化で良いとされている言葉を用いるのが、心理社会的に望ましい事である、という主張「では無い」から。水伝は、良い言葉と悪い言葉を勝手に二分した上で、「良い言葉を用いよう」と言っているのですよね。
だから、その主張がある程度(完全に、というのは絶対不可能)達成されるには、不寛容・排他的な認識を持たざるを得ない訳ですね。これは、言語学的な知見からも明らかであると思います。

もう一つの仮定として、水伝の主張を、上で書いたような、それぞれの文化で良いとされている言葉を使いましょう、という風に取るとすれば、それは最早、「水伝では無い」ですね。単に心理社会的な、いわば常識的な心掛けに属する現象であって、水伝の主張を効果的に用いる、などという話では全く無くなる。

科学と技術に関しては、便宜的に分けて考えるのは有効であるのかも知れませんけれど、全く異なる文脈であると考えたり、峻別する事は出来ないと思っています。
いずれにしても、技術の効果を確かめるという文脈であれば、それを定量的に評価するのが必要である訳ですし、メカニズムを全く考慮しない、という事も無いのですよね。それまでに蓄積された膨大な知識や考え方があるので、それと整合するか否か、という所も念頭に置くのが重要であろうと思います。

------

かも ひろやすさん、今晩は。

なるほど…。今でも現実に、続いているのですね…。

投稿: TAKESAN | 2008年5月15日 (木) 00:48

わ、わー、盛り上がってる……。
えー、周回遅れっぽいですが、エントリを書いてみました。トラックバックはまた「不明」になったので、届いているかもしれません(^^;;

なんつうか、音の評価技術に関するヒントにならんかという期待と、学会での科学な人たちの態度がイヤだったという軽いルサンチマンと、といった辺りが動機で「ぼくの研究アプローチを、みんな無視しないでください」という切羽詰まった話をしようとしたのだけれども、たまたま技術者だったもので「技術と科学」と書いてしまったということではないか、という解釈です。そうはっきり書いたわけではないですけど。

大はずれかもしれないし。

投稿: 亀@渋研X | 2008年5月15日 (木) 05:17

亀@渋研Xさん、今日は。

TB、今確認したら、届いてました。妖精さんは、ご機嫌ナナメだなあ。

今から読みますね。

投稿: | 2008年5月15日 (木) 12:33

ごむべえになってしまってた…。

投稿: TAKESAN | 2008年5月15日 (木) 13:22

応答して下さってますね⇒http://d.hatena.ne.jp/tihara/20080515#p1

えっと、このエントリーとコメントを精読して頂ければ理解して貰えると思うのですが、私はそもそも、典型的なニセ科学批判批判の文章とは受け取りませんでしたし、「水伝が使えるように改良出来る」と主張されたとも読みませんでした(イメージ出来ない、と書きました)。そこの所は、よろしく…。
うーんと、使えないと「ばっさりと頭から切り捨てる」という姿勢なのに、何故、「使いやすく改良されることを願う。」となるのでしょう。よく解りません。

後、水伝は、「ニセ科学」です。
▼▼▼引用▼▼▼
 そこは対処法の見解に相違がある。科学的文脈に「進入」したと感じたとしても、科学的文脈に「進入」したと見なしたら事態がややこしくなるだけだ。ここは、技術的文脈に「進入」したと見なしてほしい。そうすれば、「使えない」の一言で切って捨てることができるので。
▲▲引用終了▲▲
全然意味が取れないなあ。感じた、じゃ無いです。事実ですよ。実験データらしきものを出して、それが確認された、と言っている訳だから。

だから、水伝のどの部分が、「技術」なのでしょう。解りません。

▼▼▼引用▼▼▼
 これでだいたい回答は終えたかと思います。疑似科学については、技術的観点から手早く切り捨てるのが得策なのではないかと思っています。それとも、これまでと同様に、科学的観点から批判を続けたいのでしょうか。
▲▲引用終了▲▲
うーん、だから、疑似科学を技術的観点から手早く切り捨てる、という所がよく解らないのです。具体的に示して頂ければ、ありがたいのですけれど。

得策、と言われても、ニセ科学は、「科学だと信じている」人が、数多くいる訳で、そこはどうお考えなのでしょうね。

たとえば、水伝の、「どこがどのように」技術的観点から考える事が出来るのか、教えて頂きたいですね。

他の部分は、ほとんど意味が解らないです。すみません。

あ、もしかすると。
「疑似科学の大半は、使えない技術である」、というのは、「疑似科学の大半は、技術として使えない」、という事なのかな。だとすれば、何となく解る気もするけれど、それだと、前者とは全く意味が異なるしなあ。

投稿: TAKESAN | 2008年5月15日 (木) 18:25

仮に、「疑似科学の大半は、技術として使えない」、という事なのだとしても(だとすると、疑似科学を「まず科学」と看做している事になるかな…)、そこから、使えないと切って捨てる、というやり方が有効である、とは言えないですよね。

だって、ニセ科学を使おうとする人は、「使いたいように使う」のであって、「使えると信じた」訳です。そして、何故信じたかと言えば、「科学的根拠があると信じた」からなのです。

ゲーム脳で言うと、あの脳波計?のデータが出ていたり、血液型性格判断で言うと、意味不明なカイ2乗(独立性の)検定をやっていて、強く関連がある、と主張していたり。

投稿: TAKESAN | 2008年5月15日 (木) 18:32

こんばんは。
ずっと「こうたやめた音頭」を踊っていたのですが、書いてしまいます。

私もやはりNoeさんの

>「疑似科学は技術」と言いたいだけちゃうんか

が、tiharaさんの深層心理のように思います。ポイントは、TAKESANさんも引用されているところです。

>科学的文脈に「進入」したと感じたとしても、科学的文脈に「進入」したと見なしたら事態がややこしくなるだけだ。ここは、技術的文脈に「進入」したと見なしてほしい。そうすれば、「使えない」の一言で切って捨てることができるので。

倒置法をストレートな表現に組替えてみると・・・

「『水伝が』科学の話だとしても、『つかえない』で切って捨てることが出来るように、「水伝は技術の話である」と解釈しましょうよ。科学の話に解釈すると、ややこしくなるから」となります。

って、そんな無茶な話はないですね。本末転倒、手段と目的が入れ替わるとは、このことです。

それに、こういうやり方って、水伝を信じちゃってる人達と、同じじゃないかなぁと思いました。

投稿: A-WING | 2008年5月15日 (木) 20:55

A-WINGさん、今晩は。

水伝を使えない技術として切って捨てる「事が出来る」のは、水伝のおかしさを知っている人、ですよね。そもそも、放っておいたり頭ごなしに否定してはならないのでは、という所がポイントな訳で。批判批判で、頭ごなしに否定している、と非難される事もしばしば、なのですしね。

やはりこういう場合には、具体的に示して貰うのが、一番解りやすいと思います。このままでは、全然意味が取れないので。

本文にも書いた通り、このエントリーとコメントは、批判では無いんですよね。読解の段階、と言うか。批判以前の問題なので…。

こうたやめた音頭というのを、初めて知りました。子どもの頃は、よくやってたなあ(笑)

投稿: TAKESAN | 2008年5月15日 (木) 23:19

こんばんは.
言及先,いろいろ違和感があるんですが,なんとなく言いたいことはわからんでもないような.

水伝の話については「オレの脳内信者を説得しろ」系の話に見えます.tiharaさんがどういう相手を想定しているのかわからないから,文意が汲みにくいんじゃないでしょうか.
"「使えない」の一言で切って捨てる" ことが有効な相手もいるとは思うんですよ.例えば,

「江本氏らの主張をガッツリ信じてるわけではないけど道徳の授業に水伝を使う教師」は,水伝を「子供に良い言葉を使わせるための"技術"」だと思っているのではないか.だとすれば,水伝はそもそも道徳的にも問題があるので,その"技術"(のように見えるもの)は使えないでしょ,と指摘する(教師に対して)ほうが科学云々言うより効果的なんじゃないの?

という話だとすれば,わかる.この場合の"技術"はtechnicというかskillでtechnologyじゃないですけど.

科学と技術(technology)の話は,どうも"科学"="科学技術"みたいな捉えかたをされて,「なにやら生活を便利にしてくれるもの」的なイメージで語られるのに違和感を感じている理学系の人としては,分けてくれと思いますよ.明日すぐ役に立たなくたっていいじゃないかよぉ,っていう (^^;
でもやっぱり,水伝の文脈でこれをもってこられても,困りますね.意味がつながらない.

投稿: たかぎF | 2008年5月16日 (金) 00:08

たかぎFさん、今晩は。

たとえば教育現場で使えるだろうか、という視点だとすると、科学と対比、あるいは並列、あるいは結び付けて論じられる所の「技術(テクノロジー)」とは、やはり意味が違ってきますよね(私の語感だと、メソッド、という感じかな)。
tiharaさんは、ご自身が工学関連の方である、という所に絡めて「技術」と仰ったので、それは当然、テクノロジーを指しているはずだとは思うのですけれど…。

で、水伝が有効な「技術」(ここでは、メソッドとかテクニックとかの意味)である、と考えている人に、「それは使えませんよ」、という説得が効くかは、やはりケース・バイ・ケースですよね。corvoさんのブログでのあのやり取りが、一つの事例と言えるかと思います。あの時には、まさに「技術」として使えない、と皆さんが説明されたけれど、納得されなかったのですよね。結構象徴的なんじゃないかな、と思います。
だから、「頭ごなしに”使えない技術”として切って捨てる」、というのは、納得は難しいのですよね。それで上手くいけば苦労しないですし、もしそれが一つの方法である、という事ならば、さすがにそれは、もう考えられている、と言うか。

科学=実学、というのは、あまり科学について関心を持っていない人は、考えがちなのかも知れませんね。で、仰るように、そういう所へ目を向けさせるのと疑似科学論の、どこがどう結び付くのか、という…。

投稿: TAKESAN | 2008年5月16日 (金) 01:45

亀@渋研Xさんへ。何となくこっちに書きます。

sor_aさんのブクマ
▼▼▼引用▼▼▼
血液型性格判断は使える技術になりつつあ
るけど,プロセス考えたら科学じゃないしなぁ.
▲▲引用終了▲▲
これは多分、血液型性格判断は、世間に広まって、コミュニケーションの道具として用いられ、そういう意味では「使える技術」として機能「してしまっている」、というのが仰りたいのではないかと思いました。つまり、使える(ように見える)技術ではあるけど科学では無い、やはり科学という面は考慮せざるを得ないのではないか、という事なのかな、と。

やっぱり、「技術とはどういう意味か」を示して欲しいなあ、と思ったんですよね。技術を定義して欲しい、では無くて、この文脈ではどういう使い方をしているかを具体的に教えて欲しい、という事ですね。

そもそも、疑似科学を技術と捉える視点が興味深かったのと、しかし意味が判然としない、という感想があったので言及した訳で、特に議論しようとか批判しようという気は無いのですし…(批判的な言及になっている部分もありますが)。

余談。

後、確実に起こる事を示せれば、私はそれは、科学と考えます。というより、「何が」確実に起こるかを考慮する必要があるかな、と。タミフルと異常行動の因果関係を調べる事なんかは、多分技術とは言わないでしょうし。

超余談(適当です)。

「”確実に起こる事”を示す」、と、「確実に”起こる事”を示す」だったら、ちょっと意味が違いますよね。どうでも良いですけれど。

投稿: TAKESAN | 2008年5月16日 (金) 02:11

よく考えると。

私は元々、水伝に関しては、自然科学的な所はほとんど言及せず、言語論的に検討して、批判しているのですよね。そこから、道徳教育等にも用いるべきでは無い、と。だから、いわゆる「科学」っぽい所には、触れていないですね。

で、ゲーム脳に関しては、これは実証科学的に全然ダメどころでは無い、というのを、具体的に指摘しています。

そういう意味で、ものによって批判のアプローチは変えているのですよね。ニセ科学や疑似科学と一口に言っても、色々あるのですし。

投稿: TAKESAN | 2008年5月16日 (金) 02:18

TAKESANさん、おはようございます。

>だから、「頭ごなしに”使えない技術”として切って捨てる」、というのは、納得は難しいのですよね。

相手を説得するという目的であれば、技術だろうが科学だろうが簡単ではないですね。「使えない技術として切って捨てる」ことが可能なら、「説明できない科学として切って捨てる」ことも可能ですが、実際はなかなか大変。

多分、この方が考えているのは相手の説得の話ではなくて、自分自身の判断の話のような気がします。
ご自身が技術畑なので、技術的に考える方が慣れているというだけで。「切って捨てる」という言い方には説得のニュアンスはありませんし。

そういうことなら、分からないでもありません。例えば超能力の細かい理論やメカニズムは知らなくても実用性で切って捨てたりしますから。

投稿: zorori | 2008年5月16日 (金) 07:44

みなさま、こんにちは。

たかぎFさん
>この場合の"技術"はtechnicというかskillでtechnologyじゃないですけど.

あー、ぼくが「世間知」の話をされているような気がするのは、そのせいなのかな。

TAKESANさん
余談に反応。
>「”確実に起こる事”を示す」、と、「確実に”起こる事”を示す」だったら、ちょっと意味が違いますよね。

御意。後者は「”起こる事”を確実に示す」とすると明確になります。一方、前者は今の語順を入れ替えられませんね。
で、後者は語順を入れ替えると、「”起こる事”ではあいまいかな」なんてことにも気づけたり。
自分が書くときは、そうやって、なんつーか、どの意味にしたかったのか考えることができます。つい見落としますけど。
人の文が「どのつもりなのか」は……わからないときもあります(^^;;

zororiさん
>自分自身の判断の話

まだ応答を全然咀嚼できてないのですが、ご指摘の点はぼくもちょっと感じました。
ただ、コメントを書き始めて気づいたのですが、こうも読めませんか?

「あれ(疑似科学的言説)はダメ」という判断の根拠を問われたときに、「科学としておかしい」という話ではなく、「技術として使えない」という話をすれば楽なのに。

あれ? これがpoohさんのいうトータルコスト? もっとも「どうダメなの?」という話にまでなると、あんまりコストは変わらないかも。そういう意味では「科学リテラシー」の問題のように、「技術リテラシー」が問われるから、かな。

ちょっと余談。
tiharaさんが使う「進入」とか「切り捨てる」という表現は、TAKESANさんやぼくが言及する際に使った表現を引いておられるわけなので、どういう意図で使っておいでなのか、あまり深追いするのはどうなのかしら。

投稿: 亀@渋研X | 2008年5月16日 (金) 09:23

先ほどは分からないでもないと書いたのですが、具体的なことになると分かりませんね。

水伝のニセ科学部分は具体的に明言されていて、「言葉は水に影響する」ということですから、分かりやすいです。ところが水伝の技術部分がどんなものなのかはよく分からないのですね。例えば、水質浄化の技術としてどんなものかというと、みんなで祈るだけでしょう。つまり原理であるニセ科学をそのまま使っているだけで応用技術的部分がないのですね。どの程度祈れば良いかとか、どのくらいの距離ならよいかとか定量的なことが一切ありませんし。どの程度効果があるかも分からない。

つまり、使えない技術として切って捨てるのではなく、そもそも技術が無いとして切って捨てるのではないかという気がします。

だとすると、「水伝は技術である」というのは変な言い方じゃないかと。

投稿: zorori | 2008年5月16日 (金) 10:14

zororiさん、今日は。

一般論として、「頭ごなし」というのは、「有無を言わさず」、という事なので、必ずしも有効とは限らないのだと思います。もちろん、どういう意味で用いるか、という所は考えるべきですが。

------

亀@渋研Xさん、今日は。

余談の部分。
どちらも、「起こり方」について明らかにする、という所では一致しているが、前者は「高い蓋然性で起こる事」、後者は「起こる/起こらない程度」についてきちんと把握する事、という意味ですね。何が言いたかったかというと、科学というのは、起こらない事についてもきちんと評価出来るのだ、という事なのでした。

あー、今考え付きました。

技術として考えれば使えない、というアプローチの仕方の方が有効だ、というのは、なんか、信じる側の「考えの足りなさ」を前提している、ような感じがします。言い方を換えると、「説明すれば説得される」、というのを含んでいる、と言うか。
私は、ニセ科学を信じている人は、「色々考えて」信じている、と思うのです。だから、様々なアプローチの仕方をして、その人に響くやり方を模索していくのが大事なんじゃないかな、と。
私自身、10年ちょっと前なら、水伝を信じていたかも知れない、という事を、何度も書きます。これは、当時であれば、言語学にも全く触れていないし、自然科学の知識も全然無いから、という意味ですね。で、自然科学の知識が不足していても、言語学の知識があれば、水伝は否定出来る。
そういう事じゃないかな、と。

ちょうどさっき、こちらを読んで思い付いたのでした⇒http://d.hatena.ne.jp/lets_skeptic/20080509/p1

------

>zororiさん

そうなんですね。「大半の疑似科学は使えない技術である」、という主張なので、「疑似科学」と「使えない技術」というのは、具体的に想定されているはずなのですが、ちょっと読み取れません。
上にも書いたように、「大半の疑似科学は技術として使えない」、ならば、意味は通ります。こんな風に使えると言ってるんだよ、バカバカしいでしょ、というように説得するのは、有効な場合もあるでしょうから。もちろん、信じ方の度合いによって、有効かどうかは変わるでしょうね。
ここら辺については、以前に書いた事があります⇒http://seisin-isiki-karada.cocolog-nifty.com/blog/2007/09/post_7641.html

もし後者が趣旨だったのだとすれば(今の所、それが最も妥当な解釈だと考えています)、私は誤解していた、という事ですね(細かいけど、「誤読」にはならないと思う)。とは言え、ニセ科学批判について、科学を持ち出してのアプローチをはずす事は出来ない、というのは押さえておきたい所です。結局、論者によって、扱うニセ科学によって、どうアプローチするかは、実際に色々変えているのですしね。

投稿: TAKESAN | 2008年5月16日 (金) 13:04

そうそう。

私が、「侵入」と書かずに「進入」と書いたのも、ちゃんと意味があったりします。ホントは、前者の方が適切なんですけどね。でも、前者だと、傲慢な印象を与える可能性もあるので、あまり使わない、価値判断をあまり含まない表現で、読む側に引っ掛かりを覚えさせようとしたんですね。

これでも、結構色々考えてるんですねー(笑)

投稿: TAKESAN | 2008年5月16日 (金) 13:09

>>> TAKESANさん:
> で、水伝が有効な「技術」(ここでは、メソッドとかテクニックとかの意味)である、と考えている人に、「それは使えませんよ」、という説得が効くかは、やはりケース・バイ・ケースですよね。

そうですね.
だから,相手とか状況を特定しないで「ああするよりはこうしたほうがいいよね!」って話をしてる,のパターンだなぁ思うわけです.本人の中では想定するシチュエーションがあるのでしょうが,それが書かれていないので,議論するには情報が足りないんですよ.で,本人には情報が足りてないっていう自覚が,多分ないんじゃないかな.
こういう「提案」は割とよく見るので,"相手" のバリエーションは結構あるんだ,ということは意外と意識されないものなのかなぁと.やっぱり "類は友を呼ぶ" で,何で水伝なんか…と思う人は,あれを受け入れちゃう人とはなかなか出会わなくて,サンプル数が少ないんですかね.

技術=technology かどうかについては,technologyより広い意味(technicとかmethodを含む)で「技術」という言葉を使ってるように読めるのですが…まぁそれもご本人に聞かないとわからないですね.

投稿: たかぎF | 2008年5月17日 (土) 00:38

たかぎFさん、今晩は。

何と言ってもポイントなのが、そもそもタイトルが、「大半の疑似科学は技術である。」だった事なのですよね。だから、色々な推測も交えて、これはどういう意味なのだろうか、と考えてきたんですよね。

上で、誤読というよりは誤解、と書いたのは、個人的な語感からなのですが、その意味を詳しく説明すると、「誤読」、つまり、書かれたものを誤って読んでしまう、と言うには、あまりに情報不足である、という考えがあったんですよね(もちろん、語の使い分けに本質的な意味は無いです)。続きのエントリーを読んでも、よく解らないですし。

 >まぁそれもご本人に聞かないとわからない
 >ですね.
そうですね。未だに、どこまでを含めているのか判然としないのですが、私は最初、(エンジニアという所と絡めていたので)テクノロジーを意味していると思い読み進めましたが(だから、何故水伝がそうなのか、意味が取れなかった)、色々解釈をしてみると、もうちょっと広い意味なのかな、と感じました。

私が覚えた違和感は、ちょっと前の増田を読んだ時のものに近いです。

投稿: TAKESAN | 2008年5月17日 (土) 01:12

やっぱり、以前私が書いた、万能包丁のエントリーに繋がってくるのだと思いますね。

もし、一般論として有効だ、と訴える場合には、説得力を持つ根拠が必要なんでしょうね。「大半の疑似科学は(使えない)技術である」という主張がどうであるかを考えるには、情報が足りな過ぎます。

私の主張は、信じる人はそれぞれだから、色々な人に向けて使えるように、様々な種類の批判言説を用意しておこう、というものです。一般論を考えるとすれば、「これは絶対やっちゃいけない」、という所なのかな、とも思いますけれど。ここについては、強烈な罵倒や嘲笑は望ましく無い、というくらいの考えしか無いです。とは言え、関係によっては、そういうのも効く場合があるかも知れませんね。

ともあれ、まず第一段階として、複雑さを理解しておく、というのは必要だと思ってます。

投稿: TAKESAN | 2008年5月17日 (土) 01:24

こんにちは。

もうほとんど議論は尽きていると思うのですが、たかぎFさんが上で指摘されている、「技術」の意味の広さが問題だと思うのですけれど、僕はなんとなく「手段」と置き換えると意味が通るのかな、と思いました。「大半の疑似科学は(ただの)手段である」という感じなのかな、と。

あと、tiharaさんとは専門が割と近いこともあって、時々コメントのやりとりなどをしているのですが、理論研究と工学というのは何度かテーマになったこともあります。例えば下記のエントリとか。
http://d.hatena.ne.jp/tihara/20080323#p1

今回の記事での例示が水伝だったのも、たまたま僕のエントリに引っ掛けて書いたものだったからなのかもしれません。ただの推測ですけれど。

投稿: dlit | 2008年5月17日 (土) 03:10

dlitさん、今日は。

そうですね。手段とかノウハウとか。後、骨(コツ)とか。工学的な方法ほど洗練されていない所も含意しているように読み取れます。

水伝そのものは、理論研究ぽい所が、核なのですよね。「言葉に応じて水が変化するという”事実”」を主張した訳なので。で、そこから演繹的に、「良い言葉を使いましょう」という提言を導き出したのですね。沢山の、「水伝の信じ方の実例」が、それを示していますね。「ありがとうと声を掛けると綺麗な結晶が出来るんだって」、という所から始まって、だから良い言葉を使いましょう、となる訳ですから。

で、それを流布する場合には、「何故良い言葉を使うべきだと思いますか」→「それは、良い言葉を使えば水が綺麗になるからです」→「人間は数十パーセントが水で構成されているから…」、というような論理展開ですね。いずれにしても、ニセ科学論において、理論的考察と実用性とは、密接不可分だと思います。

------

tiharaさんへ。もしかするとお読みかも知れないので。

右サイドバーに、ニセ科学関連のリンクがありますので、よろしければご覧下さい。

投稿: TAKESAN | 2008年5月17日 (土) 11:40

うまく議論のはしっこにつながっているか心配ですが、ちょっと思いを述べてみます。自省的な面をもつ(大概の人がそうでしょうが)職業的「科学」・「技術」者なら、それぞれの人の科学観、技術観を持っているだろうと思うのです。ただ、それを生の形で「科学」「技術」という言葉を使って語ってしまうと、自分で意識しないで万能包丁をやってしまうことになるのだろうと思います。

医学部出た人と薬学部出た人とである分子の作用機序を思い浮かべた話が共通にできていて、話がちょっと学問分野全般にまで及んだ際、「生理学」「薬理学」という一見単純な言葉が互いのイメージを共有するのに役立たなかった、ということがありました。思いうかべるものが違うらしいのですね。多くの人は学生の頃から次第に分野間のコンパートメントを形成していくのでしょうから、はじめの頃どんなカリキュラムで習ったか、という事がイメージを規定してしまうんだなあ、と骨身にしみました。

たとえば「スコットランドの啓蒙主義とは」なんて話題が出たら私は無知のゆえに何も語ることはできませんが、ジェームスワットは「科学」者か「技術」者か、という問題にだって同じように無知なわけです。それと似たような状況の者が「昔から」「科学」「技術」がどうこうなんて事が言えるはずがないですよね。防衛の手段として「科学」「技術」ということばを安易に使わない、というところにおちつくわけです。

kikulogで議論されている「右翼・左翼」ということばにも似たような問題がありそうな気がしてきました。社会の中で自分の考えを定位することは簡単ではない、プロパガンダは強烈に行なわれる、流通することばは情報のやりとりに有効ではなくなっている、ということなのでしょう。対策としては、じぶんの世界をすこしずつでも広げていくことなのでしょうか。限界に気付くという意味では、まじめに議論につきあってくれる人というのは本当に大切ですよね。

投稿: ちがやまる | 2008年5月17日 (土) 11:55

ちがやまるさん、今日は。

▼▼▼引用▼▼▼
「生理学」「薬理学」という一見単純な言葉が互いのイメージを共有するのに役立たなかった、ということがありました。
▲▲引用終了▲▲
ここは、大変示唆的です。

仰るように、それぞれの科学観・技術観があるのですよね。それは当然で、そもそもがある程度広がりを持つ概念で、その言葉自体の内容を研究する分野があるくらいなので、意味、用法の異なりが出てくるのも、ある意味当たり前な事だと思います。

で、そういう場合には、ある程度で良いので、何を意味しているのかを説明したり、というのが、コミュニケーションを円滑に進めるためのポイントかと思います。

意味を明らかにして欲しい、と書くと、たまに、「定義しろ」と言っていると誤解されて、困る事があります(笑) そうでは無くて、ある程度で良いので意味を限定したり具体例を出したりして欲しいな、という事なんですよね。あなたはこういう言葉を使っているが、私の語感だと、その書き方には違和感を覚える、なので、言葉の使い方を確認してみましょう、と、こんな感じでしょうか。

私の方法としては、言葉が多義的であったり、文脈によって意味が異なっている、というのを示すために、色々なエントリーを書いてます。言葉は多義的だから使い方には気を付けないとね、というメタな事を書くのも、その理由から、ですね。この間、「科学的とは」というのを書いたのも、そうです。

ずっと前に書いた事ですが、私の基本姿勢は、こんな感じです⇒http://seisin-isiki-karada.cocolog-nifty.com/blog/2005/12/post_ca91.html

投稿: TAKESAN | 2008年5月17日 (土) 12:13

こんばんは。

なるほど、確かに今回の場合も「技術」「科学」という単語からイメージされる内容に差があった為にうまく伝わらない、という面はあったようですね。
どうしても私などは語の定義にこだわりがちな傾向がありますし、もし全ての単語の意味を一意に決められれば議論の手間は大幅に減るとは思うのです。しかし現実はそうなっていないし、思わぬ副作用が出ないとも限りません。
結局、言葉というものは一義的に決められないし、人によって使い方に差がある、という点に気をつけなくてはいけないのですね。具体的には(別のところでも書きましたが)「この人はこの言葉をどういう意味で使っているのだろう」と考える癖をつけるとか、でしょうか。

投稿: PseuDoctor@出張中 | 2008年5月17日 (土) 22:50

PseuDoctorさん、今晩は。

ポイントなのが、WEBでのやり取りである、という所ですね。私はこれを、会話に準ずるものだと思っています。書き手は言葉の意味を明らかにするのが大事だし、読み手は、色々な解釈をして、文脈を考慮して適切な読みを探る。で、ブログとかの場合、情報をすぐに更新出来るし、訂正や追加説明等も容易ですから、それを活用しない手は無いですね。

たとえば自然科学や数学での議論ならば、言葉の厳密な定義を押さえているかどうか、という所が重要となると思います。これは、「間違っているか否か」、に近い観点ですね。言葉の使い方が(ある程度の曖昧さを残しつつも)きっちり決まっているので、論理的な厳密さを考えて行われるべきだと思います。
でも、たとえば今回のように、技術であるとか、あるいは、科学であるとかは、そもそも多義的で、社会にも広く浸透している概念ですから、まずどういう風に用いているか、という所のコンセンサスを得る事が肝要かと思います。今回の話とはまた別に、仮に、科学・技術史などの専門的な議論であれば、当該分野での一般的な用法を押さえる事が必要になったりもするでしょうね。

特に、社会的な概念なんかは、きちんとした定義が難しいし、そこに拘ると議論が出来なくなる場合すらあるのですよね。そういう時には、「多義的である事そのものを認識する」べきだと考えます。

私は、ソシュールに衝撃を受け、また、言葉の定義を重んじて論証を進める実証科学的方法を勉強したりしているので、その考え方の両方を念頭に置いています。時には厳密に、時には柔軟に、ですね。
多義的だからといって、「ニセ科学」を適当に、それまでの議論を無視した用法で使ったりしては、話にならない訳で(笑)

投稿: TAKESAN | 2008年5月17日 (土) 23:55

ちょっと武術の話をしますと。

武術には、「合気」という概念があるんですね。合気道にもついているので、知っている人は多いと思います。

で、その概念、武術史的にも技術としても、とても大きな関心を呼ぶものなのですが、物凄く多義的で、とにかく、色んな使われ方をしている。どう定義すれば良いかが全く解らないくらいに。由来を考えるか、それとも技術として捉えるか、様々な観点があります。

武術系の雑誌とかネットなんかでもそうなんですが、そういう概念に関する議論て、「めちゃくちゃ」なんですね。定義しようとしない。自身の解釈で相手の用法を否定する。武術論だと、「本物か否か」という論点が多く見られて、痛罵の嵐。

まあ、そういう、言葉についてあまりに無頓着なのを見てうんざりしてきた、というのも、上のような事を考えるきっかけになっていますね。

実は、武術系の議論って、ニセ科学論とはまた違った「ぐちゃぐちゃ」さがあったりするんですねえ。

投稿: TAKESAN | 2008年5月18日 (日) 00:17

うーん、なるほど。
私は未だ議論のレベルを認識する点に不足があるようですね。もっと精進せねば。
武道の議論に関する話も興味深いですね。どうなんでしょう、「勝ちさえすれば良い」という(武道においてすら誤っているであろう)価値観を議論に持ち込んでしまうのでしょうかねぇ。
そういう人が多数だとすると、尚更TAKESANさんのような方は貴重ですね。

投稿: PseuDoctor@出張中 | 2008年5月18日 (日) 00:46

 >私は未だ議論のレベルを認識する点に不足
 >があるようですね。もっと精進せねば。
いやいや、これは謙虚過ぎますよ(笑) て言うか、私もまだまだですし…。

武術論は、とにかく色々ですねえ。カオスと言うか。テーマの種類にもよりますけれど、分析的な議論は好きだけど、「科学的」議論を嫌う人を、結構見かけます。後、直感を過度に重視する人、とか。どの武道が最強か、という定番の議論はよくありますが、もう、ごっちゃごちゃです。

投稿: TAKESAN | 2008年5月18日 (日) 02:03

誰かこの日本語を解説して下さい⇒http://d.hatena.ne.jp/mojimoji/20080518/p2

何が再定義ですか。

まあ、最近話題になっているものや科学哲学上の議論における疑似科学やニセ科学問題とは、別の話をしている、というのを明らかにしてくれたので、それは良いですが。「初めに」書きましょうね。紛らわしいし迷惑だから。

ニセ科学の議論そのものについて、ちょっとは調べましょう。調べた上での主張なら、大したものだ。

投稿: TAKESAN | 2008年5月18日 (日) 17:18

lets_skepticさんの所に書いたコメントを転載⇒http://d.hatena.ne.jp/lets_skeptic/20080518/p1

▼▼▼引用▼▼▼
TAKESAN 2008/05/19 01:02
 >追記は誰に言っているのか分からないので無視。

ああ、あれは多分、私に向けたものだと思います。いや、2行分くらいが、自分の事かな、と思えるもので、他の部分は、同じく誰に言ってるのか判らないものでしたので、「多分」、なのですが。

ともかく、書かれてある内容としては、無視で正解ですね。再定義、なんて自分で言っているから、その語を使うとほとんど無意味な文になってしまうのに、気付かないのでしょうね。

どちらかと言うと、定義をしてくれ、じゃ無くて、定義を踏まえてくれ、だったんですよね。独自に定義したいのならそれで良いですが、まあ、疑似科学を採り上げるエントリーで、注釈を付けるなりはして貰いたいものです。これは一般に言う所の疑似科学とは異なる用法です、とでも。
▲▲引用終了▲▲
「追記」部分は、次を参照の事⇒http://d.hatena.ne.jp/mojimoji/20080518/p2

無内容な定義問題、と言っておられるのに、追記では、物凄く定義に拘っていますね。
それまでの用法を踏まえたらどうですか、とlets_skepticさんは指摘されたのですよ。疑似科学や陰謀論に通ずる思考様式を云々したいのであれば、「疑似科学問題とは」、という語の用い方はあまり妥当では無い、と。

ご自分で、
▼▼▼引用▼▼▼
似非科学とか疑似科学とか、区別せずに使ってますが。とりあえず僕の記事の中では同じ意味です。深く考えておりません。

 思うに、疑似科学問題とは、疑似科学と科学の区別問題ではない。あるいは、そのように言うだけでは、十分定式化できた、とは言えない。
▲▲引用終了▲▲⇒http://d.hatena.ne.jp/mojimoji/20080516/p2
こう書かれたのを、お忘れになった訳では無いでしょう。定式化などという事を言うのであれば、それまでの議論を踏まえるのは、「筋」です。当たり前の話ですよ。それまでの議論を無視した用法で論を展開すると、混乱する、という事なんですけどね。内容そのものは尤もだ、とちゃんと言っていて、「もったいない」と評されているのにね。
指摘では無く非難と受け取られたのかも知れませんね。私は、lets_skepticさんへの返答があまりに的外れだったので、ここで採り上げた訳ですが。

投稿: TAKESAN | 2008年5月19日 (月) 01:26

mojimojiさんとこにこんなことが書いてありますね。

>疑似科学問題に関心がある人は当然、科学哲学をやってるんだろうけど

この方は「科学哲学的に」疑似科学を捉えたいのかもしれませんが、みんながみんな同じスタイルで考えなければならないものでもないでしょうに。

投稿: Noe | 2008年5月19日 (月) 10:07

Noeさん、今日は。

文脈からすると、科学哲学的な観点だけじゃ「疑似科学問題」は捉え切れないよ、という主張なんじゃないかと、私は読みました。もちろん、ここで言う「疑似科学問題」とは、「再定義」されたものなので、何を指すかは不明ですけれど。

ちなみに、私自身は、科学哲学を齧った(実際は、嘗めた、というくらいですけど)のが、10年くらい前で、その時にポパーの反証可能性なんかの言葉を知ったのですが、科学哲学上の境界設定問題などに関心を持ったのは、ずうっと後、2・3年前からだったりします。

「ゲーム脳問題」を、「ゲームに悪影響はあるか否か」、という論理に「再定義」しているようなものなのですけどね(内容的には、それよりも、もっとおかしいですが)。定義した人の言っている事や、それまでの用法を踏まえるべきだ(ゲーム脳の場合には、それを提唱した個人がいるので、その人の主張を考慮する必要がある。疑似科学という概念は、科学哲学等で学問的に扱われているので、それを踏まえるべき)、という、至極当然の話なのに。

投稿: TAKESAN | 2008年5月19日 (月) 12:13

最近よく思うのですけれど、「疑似科学批判に一言」のようなエントリって大体、一般論のような語り方でありながら、実際には非常に具体的な個別のケースを念頭に論じている、ということが多いような気がするのですけれど、気にしすぎでしょうか。今回の場合ははてなの一連のエントリがやっぱり論の中心のような気がしますし。

一般化して語ってしまったら、そこに色んな形で関わる人から自分が論じようとしてなかったような側面についても、疑問の声や批判が来て当然だと思うのですけれどね。

投稿: dlit | 2008年5月19日 (月) 13:01

dlitさん、今日は。

私もそう思います。
いくつかの具体的な対象があって、それに絡めつつ、疑似科学論を論じる。知らなくては語れないような事にまで踏み込んで語っているから、詳しい人等から、それは違うのでは、と指摘されるのは、ある意味当たり前なのですよね。

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余談、かつ重要な事。

水伝に絡めているから、当然「ニセ科学論」とも繋がってきますが、「疑似科学」と「ニセ科学」が異なる意味で用いられる場合がある、というのを認識している人は、どのくらいいるのでしょうね。

投稿: TAKESAN | 2008年5月19日 (月) 13:19

こんばんは。
>一般論のような語り方でありながら、実際には非常に具体的な個別のケースを念頭に論じている
ぼくも同じように感じています。それで勘ぐりすぎたりもしています。<だめじゃん

ただまあ、みんな自分の関心領域とのつながり「だけ」で書き飛ばすことは多いわけで、「疑似科学批判に一言」に限った症状ではないとも思います。一般化するとしたら、なんかを批判するときにしでかしがち、という感じではないでしょうか(「疑似科学を受け入れてしまうヒトは、概して云々」とか。わあ、怖い)。

>「疑似科学」と「ニセ科学」が異なる意味で用いられる場合がある、というのを認識している人

「日本中に数えるほど」に1万カノッサ。ぼくに、いくつまで数える能力があるのかという問題もありますが。
まじめな話、まだまだネット上でさえ、かなりマイナーなスタイルだろうと思います。
「疑似科学」という言葉のポピュラリティが高いせいもあるとも思いますが、「疑似科学の別名じゃないの?」ぐらいの人が9割とか9割5分とか、そんな感じだろうと考えています。

投稿: 亀@渋研X | 2008年5月20日 (火) 03:42

亀@渋研Xさん、今日は。

すみません、ちょっと込み入ったコメントになりました。読みにくいかも。

 >「疑似科学批判に一言」に限った症状ではない
 >とも思います。
その通りですね。それこそ、それ自体が一般的に見られる事である、なんて。

最近の疑似科学への言及を見ていると、自分の関心領域を語りたいがために適当に用いている、という印象があります。で、それ自体は、誰にだってある事なので、仕方無いと思っています。でも、指摘された後にどう対処するか、というのは重要ですね。

 >「日本中に数えるほど」に1万カノッサ。

私もそう思ってます。かなり強い関心を持って調べた人でないと、「そんな細かい話」を知っているとは考えにくいんですよね。

で、ポイントなのが、最近の議論では、ほぼ「水伝」が絡んでいるという所で、水伝というのは、基本的には「ニセ科学」として批判されている。きくちさんの批判を通して知った人も多いと思います。
だけれど、ニセ科学という語は多分、強く関心を持たない人には、疑似科学と同義だと捉えられる。そして、「元々持っている」”疑似科学”のイメージに基づいて、水伝などの問題を解釈して、他の議論と絡める。そして、意味を共有していない人同士で話が噛み合わない、という事があるんじゃないかな、と。

たとえば、「古代の錬金術など現代科学からすれば”疑似科学”」だ、という用法を許容する人の場合、現代科学を基準として、擬似か否かを判断するものだ、という認識を持っていると思います。で、最近議論になっている水伝批判なんかを、そういう枠組みで読み取ってしまう。当然、最近のニセ科学批判的な文脈で言うと、その当時のスタンダードな方法に拠っているか、という所が判断の基準の一つになるので、認識にズレが出てくる。

そして、その認識のズレを修正、理解しないままに、それぞれの用法で言葉を使っていくから、議論が出来なくなってくる。私が、用法を踏まえるべきだ、と言うのは、ここら辺を考えているからなんですよね。当然、「多義的に用いられた、意味が変化してきた」、というのも、用法を踏まえるという事に含みます。

投稿: TAKESAN | 2008年5月20日 (火) 12:49

一般化の話、前から気になっていたのでちょっと書いてみました。ちょっと厳しすぎる要請かなという気もしているのですが…
http://d.hatena.ne.jp/dlit/20080520/1211263912
トラバというのも変な気がしたのでここに貼ってみます。ちなみに、ほぼ表現論の話でニセ科学の話題には触れ(られ)ませんでした。

投稿: dlit | 2008年5月20日 (火) 15:16

なんか当たり前のことなんですが、一般化された批判は(おそらく聞いて欲しいと思っている層からは特に)一般化された反論を生むので、それに対して一般化された再反論をしなければならなことが多い気がします。結局多くの場合に無駄なステップが生じている。
批判に関しては一般化しない方がいいんじゃないかと思えてきました。

投稿: Noe | 2008年5月20日 (火) 16:22

dlitさん、Noeさん、今晩は。

dlitさんのエントリー、共感しました。紹介されているブログも、興味深いものですね。

私自身は、注釈や但し書き的なもの、あるいは、「一般化するのは無理がある」という事自体を明示したりします。「とは言え~」とか、「でも、○○だから」、とか、「これは推測だけど~」とか、「これは経験的に~」という風に書くのですよね。これは一般に、「歯切れの悪い」もの言い、となりますが、私としては、歯切れが悪いくらいが丁度良い、と思っていますす。

で、主張の強さによっては、「根拠」が必要とされる訳ですね。理論的、あるいは統計的根拠が。

投稿: TAKESAN | 2008年5月20日 (火) 18:18

なんというか、僕はニセ科学を直接支持するような記事を見る場合より、こういう記事を読んだ時の方が脱力感がすごいのですけれど、「少しは調べてくれ」「そこまで疑似科学批判になんでも背負わせるな(甘えるな)」とかだけ言って終わるのは…やっぱりダメなんでしょうかねえ。

投稿: dlit | 2008年5月22日 (木) 16:37

dlitさん、今日は。

そうそう、私もそうです。

でもそれ(見ての感想とか思い)を書いたりするのも、憚られるのですよね。どういう態度を採っても、それをまた好きなように解釈されるから。

だから、とにかく地道にやっていくしか無いのでしょうね。

思うのは、以前の、ニセ科学とはレッテル貼りでけしからん、とかいう批判の方が、まだマシだったなあ、と。あれは、ニセ科学論に、ある程度直接触れてのものでしたからね。あの時より遥かに疲れる…。

uumin3さんのように色々考えてくださる方は、ほとんどいないのかな。

------

ニセ科学批判を行っているのが科学者だけだ、という思い込みとか、あったりしないかな。科学者でもニセ科学批判に関心を持たないという事があるのを、解っているのかな。科学者が書いた疑似科学批判本を、ニセ科学批判者が批判する事もあるのは、知っているのかな。

話は換わりますが、科学者の皆さんは、大変ですよね。事あるごとに、「笠に着ている」と看做され、それを元に論理を展開されたりして。その事自体が先入観である可能性なんかには、思いを馳せないのかな。ステレオタイプなのにね。象牙の塔に…という言い回しが、果たして実情を捉えているのかな。

少しくらい、調べて欲しいですね。
疑似科学批判では水伝がよく採り上げられて云々、と言う人自身が、水伝を中心にして論じたがる、という事は無いのかな。ゲーム脳を批判している人とか、血液型性格判断を批判している人とか、いるのにね。

必死とかヒステリックとか、何かを批判しているのだから、そういう風に見える事もあるでしょうね。それはまあ、仕方無いです。そりゃ必死にもなりますよ、と返すかも知れないけどね。

投稿: TAKESAN | 2008年5月22日 (木) 17:00

こういうのって、ある部分は、懐疑論は無知な者を嘲笑うものだ、という非難と似ているのかな。

ところで、NATROMさんが批判的に言及されているけれども、どう反応されるのだろうか。

投稿: TAKESAN | 2008年5月22日 (木) 17:41

メモ

http://d.hatena.ne.jp/lets_skeptic/20080523/p1

余談ですが、私は勝手に、自分の認識はlets_skepticさんに凄く近い、と思っています。

私が強く主張したい(事あるごとに書いている)のは、「論理的・合理的=科学的」では「無い」、という事。

投稿: TAKESAN | 2008年5月23日 (金) 14:19

こんにちは、皆さん。少し全体主義者と紛らわしい事を書いてみますね。

なんていうか、人は皆それなりの形で社会とつながっている訳です。それゆえ、個々の人の自由とは言いながら、その自由により社会全体が影響を受けるわけです。

例えば、渇水期のために「ため池」を作ろうなんて話が出たときに、5%くらいの人が「自分は雨乞いに効果があると思うから、ため池つくりよりも雨乞いをする」だと、残りの95%は「あの野郎、ため池ができてもお前の田んぼに水なんて引かせてやらないぞ」と言いながら「ため池」作りに精をだすだろうと思います。一人当たりの労働増加は5%だからです。でも、「雨乞い派」が2割を超え始めると、残りの8割でため池を作るのがなかなかうまく行かなくなります。単に一人当たりの労働増加が2割増えるだけの事なんですが、気分として「あいつらはお祈りをしているだけなのに自分は働いている、面倒だなぁ~」なんて雰囲気が大きくなってしまうからです。そういう気分が出始めると「自分も雨乞いの方が良く思えてきた」と脱落者が出やすくなります。そして、脱落者が出ることで「ため池派」が5割を切ったりすると、もうよほど強力な指導者でも居ないとため池なんてできはしなくなる訳です。

変な話なんですが、「雨乞い派」が5%未満の時に、残りの95%は「個人の自由だし、幾ら言ったって聞きやしないから」と何も言わなかったかというと、そんなことはなくて「あいつら馬鹿だ。ため池ができてからきっと泣いて水を分けてくれと言ってくるぞ」なんて悪口を95%の中では言っていただろうと思うんですね。でもって、実はその悪口には、その95%の中から2割までの15%の脱落者を出さない役割を持っていた面が有るんじゃないかという気がするんですね。

なんていうか、ニセ科学批判をすると多くの人が5%未満の「信じ込んで揺るがない人」を転向させるために批判して居るんだみたいに思ってしまうわけですが、実のところ批判の役割というのは、逆にそっちに転がり込み兼ねない15%くらいの人を引き留めるためにやっているのかも知れないと思ったりする訳です。

というかニセ化学批判に関して言うと5%段階でやりそびれて2割くらいになっているのかも知れませんけどね。

投稿: 技術開発者 | 2008年5月23日 (金) 17:27

技術開発者さん、今晩は。

ちょうどさっき、A-WINGさんのエントリーを読んだ所でした⇒http://www.infosakyu.ne.jp/~ayame/logwing.cgi?id=weblog

子どもは、能力的にも立場的にも、異議申し立てなど出来ない(やりにくい)ものなのだと思います。ニセ科学というのは、ものによっては、特定の文化をいわれ無き根拠で非難したりする訳で、それは当然、子どもにも波及するのですね。そういうのを批判するのは、当たり前な話だと思います。それを、「異議申し立てしない第三者に依拠して怒りを爆発させる」などと解釈するのは、よく解りませんね(「怒りを爆発」に関しては、人それぞれでしょうけれど)。

批判がどこを向いているか、と言うと、色々な所を向いているのですよね。

情けは人のためならず、でもありますけれど。

その前に、あのエントリー、特に後半は、日本語が整合していなくて、ほとんど読み取れないんですけどね。

------

はてブ
http://b.hatena.ne.jp/entry/http://d.hatena.ne.jp/mojimoji/20080522/p1
に、
▼▼▼引用▼▼▼
もともと記号と論理の世界でしかない(自然)科学には「一人づつさまざまに」対処する事なんて無理(その冷淡さが疑似科学を生む)。結局、個別にそして様々な解釈にたいして開かれている言葉(=文学)しかない。
▲▲引用終了▲▲
こんなのがあって、意味がよく解らなかった。当たり前の事を言っているようでもあり、ズレた事を言っているようでもあり。

------

ちなみに私は、「バカが自分をバカであるのを知る」事が、いくらでもあると思っています。少なくとも、一例は知っています。

あのエントリー、バカの使われ方が21通りあるっ。
なんちゃって。

投稿: TAKESAN | 2008年5月23日 (金) 19:26

メモ

http://d.hatena.ne.jp/SeaMount/20080522/1211488635

▼▼▼引用▼▼▼
以上、いろいろと書いてきたが、私自身、そんなに偽科学叩きに詳しい訳ではない。自分が見知ったこと、感じたことを基に書かせていただいた。生意気なことを書いていると感じられたかもしれない。
▲▲引用終了▲▲
だそうです。

たとえばゲーム脳について調べるのも良いのではないかな。ニセ科学の一つとしてゲーム脳を挙げる人がほとんどいないのは、興味深い。

このブログの右サイドバーから色々読むとかね。

投稿: TAKESAN | 2008年5月23日 (金) 20:21

メモ

首肯したシリーズ。

http://uchya.blog109.fc2.com/blog-entry-910.html

http://blog.livedoor.jp/nanae_ll/archives/51071633.html

------

話換

Narrさんの所にコメントしたけれど、もしレスがあっても、反応はしないと思います(有意義な議論が成立する余地は少ないと予測)。もしするなら、こっちにお呼びするかも。

投稿: TAKESAN | 2008年5月24日 (土) 13:02

メモ

首肯シリーズ。

http://b.hatena.ne.jp/entry/http://d.hatena.ne.jp/D_Amon/20080524/p1

▼▼▼引用▼▼▼
本エントリはわかりやすいのに、ブクマコメントには意味不明なものが多いのはこれいかに?
▲▲引用終了▲▲
頷きまくった。

Waferさん、REVさん、kurahitoさんのコメントは、何度読んでも意味が解らなかった。D_Amonさんに『視点・論点』(きくちさんの)を100回読むといい、と言うのとか。

”「太陽」で「コート」を脱ぐ”というのは、柔らかい態度や説得によってニセ科学への強固な信頼が揺らぐ、というくらいの意味なんじゃないかな。

投稿: TAKESAN | 2008年5月24日 (土) 23:01

こっちに書きます。

玄倉川さんのコメントの2段落目(特に後段)は、ちょっと余計でしたね。むしろ、玄倉川さんの黒猫亭さんに対する率直な評価のみが書かれた方が、よろしかったと思います。玄倉川さんなりのご配慮とは思いますが、逆効果かも知れません。

http://schutsengel.blog.so-net.ne.jp/2008-05-16

※「玄倉川 (2008-05-24 19:09)」を参照。

私は、玄倉川さんと黒猫亭さんのやり取り、dlitさんやapjさんの所での黒猫亭さんのコメントはほぼ全て読んでいない、という事は、明記しておきます。

っと、これだけでは解りにくいですね。

つまり、玄倉川さんのコメントの後半は、「それまでに黒猫亭さんとやり取りをしてきて、かつ今回の議論を追っている人」以外にとっては、困惑せざるを得ない内容、という事ですね。簡単に言うと、「念のため」と言われても…という。
多分、そういう人は結構いると思いますよ。どの議論に興味を持つかは、それぞれですから。

黒猫亭さんとよくやり取りしていて、poohさんのブログを愛読していて、かつ、dlitさんやapjさんの所でのやり取りをほぼ読んでいない人間の感想として、一言書きました。

投稿: TAKESAN | 2008年5月24日 (土) 23:37

http://b.hatena.ne.jp/entry/http://d.hatena.ne.jp/lets_skeptic/20080526/p1
▼▼▼引用▼▼▼
2008年05月27日 harutabe >「なんらかの非合理な信念」/ニセ科学と超常現象・オカルト(と、お米の一粒一粒に神が宿っちゃう宗教観)を混ぜるなよ。ニセ科学は合理性を偽装してるんだから騙される奴はバカだろ
▲▲引用終了▲▲
ブクマコメントって、文字制限があるから、か知りませんが、意味が取れなかったりしますよね。

------

ニセ科学を批判する者は、ニセ科学には誰でも引っ掛かり得る、というのを念頭に置いている、と思うんですけどね。知識があるかどうか、というのが大事。知らない分野については、いかに認識力がある人でも、騙される可能性がある。だから、その事自体を心得ておこう、という所を主張している訳で。

そもそも、「ニセ科学に引っ掛かる人」などという分類自体が難しい、という事ですね。個別に考えないといけない場合がある。もちろん、引っ掛かりやすい、とか、ニセ科学的な傾向を見抜く、とか、そういうのを論じるのは出来ますが。

要するに、
血液型性格判断を否定する人がゲーム脳を肯定する、なんていくらでもあり得るし、そういう人について、知的に劣っているとか優れているとかは単純には言えない。何故なら、当該対象についての知識が重要であるから。
という話ですよ。

※「知識」は、事実に関する情報。「認識力」は、論理的思考力。とでも読み替えて下さい。

投稿: TAKESAN | 2008年5月27日 (火) 03:42

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tiharaさんの「大半の疑似科学は技術である。」について、ぼくも考えてみました。 [続きを読む]

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» 「大半の疑似科学は技術である」の続き。 [IHARA Note]
 まずは謝罪から入ろう。先日書いた私のエントリ(2008-05-11 - IHARA Note)についてトラックバックを送ってくださった三名の方へ。私は全く誤読させるつもりはなかったのですが、私の文章があまりにも分かりづらく、逆方向への誤読をさせてしまったようです。申し訳ない... [続きを読む]

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