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2008年5月に作成された記事

2008年5月31日 (土)

計測萌えになろう

読んで納得!図解で理解!「ものをはかる」しくみ Book 読んで納得!図解で理解!「ものをはかる」しくみ

著者:瀧澤 美奈子
販売元:新星出版社
Amazon.co.jpで詳細を確認する

普段何気無く使っている、ものの量を表す言葉。

その内のどれくらい、「どのようにしてはかっているか」を知っているでしょうか。

たとえば、体重のような身近なものでも、体重計がどういう構造で、どのような機構で体重を量るか。また、においや味のような感覚的なものを、どうやって定量的に把握するか。毎日テレビから流れる、気温・気圧・風速や雨量は、いつも見聞きして知っている言葉だけれど、それがどういう意味を持っているのか、どうはかられているか、というのは、意外に知られていないのではないでしょうか。

本書では、様々な分野に亘って、ものを計測する仕組みが説明されています。水道使用量や電気使用量のような身近なもの。また、体脂肪、「肌年齢」や「血管年齢」といった、最近になってよく見聞きするような量。あるいは、星の明るさや、地球から月への距離、といったスケールの大きなものまで、盛り沢山の内容です。

私達は、色々な数値に囲まれて生活しています。その数値がどうやって導き出されてきたか、という所に目を向けるのも、大切なのではないでしょうか。

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2008年5月30日 (金)

またか

ニューストップ > トピックス > 政治・社会 > 23歳女性行方不明事件 > <江東女性不明>容疑者、技能高く職場転々 美少女グッズも - Infoseek ニュース - Infoseek ニュース

ま た か。

いつまで続くんだろうね。

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疑似科学批判とニセ科学批判

不定期更新 思索日記(時々戯れ)  疑似科学批判(1)

不定期更新 思索日記(時々戯れ)  疑似科学批判(2)

不定期更新 思索日記(時々戯れ)  疑似科学批判(3)

不定期更新 思索日記(時々戯れ)  疑似科学批判(番外編1

不定期更新 思索日記(時々戯れ)  疑似科学(3)の若干の(?)修正ないし補足

途中で、玄倉川さんと最近やり取りされていた方のブログだと気付きました。

書かれてある事はどちらかと言うと、科学哲学上の境界設定問題とか、そっち寄りの話になってますね。少なくとも、昨今の「ニセ科学批判」と一致するものでは無い。

昨今のニセ科学批判(「昨今の」←こういう書き方になっちゃうんですよね)の意義としては、たとえば、形而上学的な概念を原理とする説明体系を主張するだけでは、それはニセ科学と判断しない、という所を明確にした事にあると思います。つまり、神秘主義的なものを、「ニセ科学である」と批判したりする事は無い。ニセ科学として批判されるのは、形而上的概念を用いつつ、現代科学の概念を説明しようとしたり、という場合でしょうね。超越的な存在を実験によって証明した、とかね。

これは論理的に当然ですが、ニセ科学批判者がオカルトを批判した場合、オカルトをニセ科学だと看做している訳ではありません。

うーん、まあ、「疑似科学」を独自に定義して論を展開するのはご自由だとは思うのですが、どうでしょう、現在、科学哲学方面で、神秘主義や超能力等を「疑似科学」と評価するのは、常識なのでしょうか? よく解りません。文献によっては、社会科学全般を疑似科学と看做したり、形而上学的な論理を擬似j科学と判断したり、というのは見た事がある気もしますが(ソース失念)、疑似科学には「擬似」という語が入っていますからね。通常は、「非科学」とでもされるべきだと思います。宗教を非科学だと言っても、反対する人はいないでしょう(「非科学である」という判断にネガティブな印象を持つ、というのはあるだろうけれど)。言及先では、疑似科学に「科学の装いを有している」という条件が含まれていますが、それだと、神秘主義や超能力を疑似科学に含めるのはよく解りませんね。しかも、「科学的方法によって真偽を明らかに出来ない」、という条件もある。ニセ科学論的には、これは、ニセ科学と判断されるための必要条件では無かったりするんですけどね。

池内氏の本の書評なんか読むと(原典未読)、quine10さんと同じような分類の仕方なのかな、とも思います。

○○(擬似・似非・ニセ 等)科学、という概念を作って、そこに宗教や超能力やスピリチュアルを含めるのは、意味内容的にも戦略的にもあまりよろしく無い、と感じるんですけどね。科学を基準として文化に優劣をつける印象を与えそうですし。

最初、引用しつつ、ここはニセ科学批判についての指摘としては的外れである、というのを書いていこうと思ったのですが、そもそもニセ科学批判について語っていないのだから、書いても仕方無い、と思い直したのでした。

やっぱり、「水伝騒動」と呼ばれるやり取りの観察から、「疑似科学批判」一般について語るものを、最近見かけるようになってきましたね。

そこで立てた一般論を、「ニセ科学批判」にまで敷衍しないで下さいね。色々前提が違っていますので、的外れになるのが落ちですから。

少なくとも、言及先で書かれている所の「疑似科学批判派」に、自分は含まれないですね。

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2008年5月29日 (木)

スピーカー

ソニー、1本の有機ガラス管で音を360度に広げる100万円のスピーカー「Sountina」を発売 - GIGAZINE

おお…。なんかカッコイイ。

ちょっと体験してみたいなあ。

値段がイイですね。それほど突出して高い訳じゃ無いかもだけど。

やっぱあれなんですか。ちょっとやそっとでは壊れないんですかね。見た目は脆そうだけど。

音を360度へ広げるスピーカーシステム “Sountina”(サウンティーナ)発売 | プレスリリース | ソニー

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2008年5月28日 (水)

悩み

ある人が、ある事で悩んでいると言っている。

それを聞いた人が、自分にそれが起こったら、と想像する。

その想像を元に、その事の評価を行う。自分だったら、という視点で、「そんな事で悩むのはおかしい」、「自分はもっと悩んでいる」、などと言ったりする。

間違っているんだけどね、それは。

「そんな事で悩むなよ」、と言って慰めたりするのは、ごく親しい間柄だからこそ成り立ちうる事だし、「そんな事で悩むなよ」、と言って非難するのは、自分にそれが起こったら、というのを考えただけの、想像力が不足した物言い。

そういう所に、思いを馳せないと。悩みの大きさと経験した現象は単純に結び付いていないし、他人と完全に一致するものでは無いのだから。

理解しようとしているようで、無理解なんだね。

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HINKAKU

何度かこのネタ書いていますけれど。

品格って、数度の注意とかで「取り戻せる」ものなの? それで身に着けられるほど軽い、簡単なものなのか。

その前に、「取り戻す」というのは、何に掛かっているの? 現横綱? だとしたら、横綱が品格を備えていたという事実が必要だね。もしかすると、横綱になった人間て事かな。以前の横綱は品格を備えていたが、ここ最近の横綱にはそれが欠けている、的な。

そもそも、品格に欠けると評される人を横綱にしたのは誰? やっぱり、品格が「無くなった」という事か。でも、品格を備えていた人は、それを失うものなのかな。品格って、そんなものなの?

大体、品格が足りない云々という話が出てから、一体何年経ってるんだろう。

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2008年5月27日 (火)

人間タイトルメーカー

  • ニセ科学入門
  • ニセ科学論入門
  • ニセ科学論へのいざない
  • ニセ科学とは何か
  • ニセ科学を語る
  • ニセ科学を読み解く
  • はじめてのニセ科学論
  • ニセ科学のおはなし
  • ニセ科学のはなし
  • ニセ科学概論
  • ニセ科学試論
  • ニセ科学論概説
  • 解説・ニセ科学
  • ニセ科学の諸相
  • ニセ科学って何?
  • ニセ科学と科学
  • 科学とニセ科学
  • 似非科学? 疑似科学? ニセ科学?
  • 何故「ニセ科学」か
  • 現代人のためのニセ科学論
  • ニセ科学に騙されないために
  • 科学とニセ科学はどう違う
  • ニセ科学のメカニズム
  • ニセ科学の何が問題か
  • ニセ科学に興味がある人に知ってもらいたいいくつかの事
  • ニセ科学のトリック
  • ニセ科学の実際

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その場しのぎ

Interdisciplinary: キャッチーだねの続き。

退屈力読書中 - アルファ’s blog(仮

これはどういう事だっ。

なんか、ストイック氏(隠語です)みたいですね。

まあ、正当化は簡単。

ゲームが変わった、と言えば良い。

メディアの形態が変容し、コンテンツが全く一様で無い文化である、というのを都合良く利用する訳ですな。アド・ホックに。

シリアスゲーム系はホラーゲーム等とは異なっている、なんてのも言いそう。

それならば、ゲーム一般を批判するような事は謹んで欲しいものですけれど。

柔軟な文化であるだけに、適当な解釈が出来てしまったりするのですよね。何とでも言える。否定的な文脈では一緒くたにするのにねえ(「全てが悪い訳では無い」、という逃げ道を用意しつつ)。

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2008年5月26日 (月)

ニセ心理学。IQ

面白い本を2冊ご紹介。

ニセ心理学にだまされるな! (Doyukan Brush Up Series) Book ニセ心理学にだまされるな! (Doyukan Brush Up Series)

著者:古澤 照幸
販売元:同友館
Amazon.co.jpで詳細を確認する

これは、kikulogでも紹介しました。コメントを、一部抜粋します(血液型と性格3でのコメント)。

社会心理学者による本で、血液型性格判断やコールドリーディング、江原的スピリチュアル、筆跡による性格判断、等について論じられています。
平易な文体で読みやすく、参考文献も挙げられていて、丁寧な内容です。
 
タイトルからは、これがこうニセ心理学だから信じてはダメだ、と論う本なのか、と思われるかも知れませんが、科学的・論理的に捉え、証拠を大切にしてきちんと考察していく、という姿勢が説かれていて、どちらかと言うと、懐疑的な態度やクリティカルシンキングの大切さを主張する本、という感じです。

これは良い本だと思います。

著者のサイト⇒古澤照幸のページ

次はこれ↓

Book IQを問う―知能指数の問題と展開

著者:サトウ タツヤ
販売元:ブレーン出版
Amazon.co.jpで詳細を確認する

IQについて詳しく論じられた本。内容としては、ある程度カタめです。とは言え、文章そのものはとても読みやすく、丁寧に書かれています。知能研究史の概観、ビネーがどのような目的で知能検査を開発し、それがどのように利用(時には捻じ曲げられて)されたか。そもそもIQで何を示しているか、などを知りたい人にはお薦め。グールドの本も良いけど、大部な上に、超ウルトラ読みにくいですからね…。

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2008年5月25日 (日)

たとえて言うと

ニセ科学について、ろくに調べもせずに論を展開しているのを見て覚える違和感。

やっと、(一部の人に、だけれど)解りやすい喩えが見つかった。

それはあたかも、

「”ロールプレイングゲーム”を語る森昭雄氏」

のごとく。

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キャッチーだね

退屈は正義のようです - アルファ’s blog(仮

また齋藤さんか…。見てみようかなあ。

文藝春秋|退屈力(齋藤 孝)

CM、ネット、ゲーム……「高度刺激社会」は加速し、特に子どもたちを襲います。齋藤氏は、そのような脳を興奮させる生活から、少ない刺激の中で豊潤な満足感を得る、“態度の転換”の必要性を訴えます。

へえ。

Book 退屈力 (文春新書 628)

著者:齋藤 孝
販売元:文藝春秋
Amazon.co.jpで詳細を確認する

って、amazonのレビュー見てたら、

「子供もスパイシーなものを求めるようになってきた。これは食文化の世界においても、やはり刺激を追及するようになったあらわれだ。」

…。これは引用? 要約? どっちにしても、凄い内容。

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2008年5月24日 (土)

正当化?

「ごくせんは不良を讃えるな」 和田秀樹さんがコラムで異論(J-CASTニュース) - Yahoo!ニュース

この論法だと、大部分のフィクションが、成立し得ないですよね。

フィクションとは、多かれ少なかれ、ステレオタイプを用いて組み立てられて行くものなのだから。

番組作りを再考するという意見が説得力を持つには、相当な強い証拠が求められるでしょう。当然、『ごくせん』を観る事によって不勉強を正当化する人間が多い、という証拠です。

ちなみに、ネタ元は読んでいないので、どんな「データ」が示されたかは、把握していません。

勉強しない事を正当化するのが問題だとは私も思いますが、テレビを観て正当化「している」かどうかは、別の現象でしょう。

現実に即して物語を構成しなければならないのだとしたら、実につまらないな、と感じます。

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大言、か?

痛いニュース(ノ∀`):スクエニ社長「DSのドラクエ9は、1000万本売れるかも」

ドラクエ9:「1000万本の可能性も」 スクエニ和田社長が期待感示す(まんたんウェブ) - 毎日jp(毎日新聞)

DSならば1000万本もない話ではない。

凄絶に吹いた。

私はドラクエ大好き人間なんですけど、それでも1000万は無いと思う。

行っても400万とか、かなあ。奇跡が起きて500万とか。これでも超大胆予想だけど。200万くらいは余裕かな。

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2008年5月23日 (金)

もやし

インスタントラーメンに、もやしを一掴み入れてみる。

それだけでは、味がしつこく、単調な食感であるインスタントラーメン。それが、もやしを投入する事によって、しつこさが程良く和らげられ、また、単調であった食感に、もやしのしゃきしゃきとした食感が加わり、味にヴァリエーションが出てくるのである。それでいて、もやし自身は強く存在感を主張する事無く、あくまで引き立て役に留まっている。実に見事な相乗効果と言えよう。

白状しよう。

正直な所、筆者は、もやしを侮っていた。

それまで筆者は、もやしなる存在は、あっても良いが、「無くても構わない」物である、と思い込んでいたのである。

しかしながら、インスタントラーメンにもやしを入れ食すという「実験」を行った筆者は、もやしに対する評価を一転させざるを得なかった。

これで、ラーメン屋で出てくるラーメンに、何故もやしがほぼ例外無く入っているか、という理由を合点した。それには、実に合理的な理由があったのである。

もやし。

それは、料理の味を引き立てる、無くてはならぬ食材である。

その役割は恰も、主演の役者の魅力を増幅させる名脇役の如く、である。

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疑似科学・ニセ科学

「疑似科学批判」のレビューを書かない:Chromeplated Rat:So-net blogにコメントしようとしたけど、ちょっと長くなったのでエントリィ。

考え方によっては、池内氏の用法が、それまでに用いられてきた「疑似科学」の用法を踏襲している所もある、と言えるのかも知れません。それこそ、占い等も疑似科学と呼ぶ、というのは、あった訳ですから。

これは私の考えですが(ある程度賛同頂けるとは思いますけれど)、昨今の(きくちさん等による)「ニセ科学(きくちさんの定義に従う)批判」というのは、それまでに用いられてきた疑似科学概念に含まれるものの内、判断がある程度明確である、「科学(とその時点で認められている知識・方法)のようで科学で無い」という部分を対象化し、切り離して捉えたものである、と言う事が出来ると思います。※私はそれを、「洗練された」と表現しますが、ここには異論もあるかも。

だからこそ、説の内容そのものでは無くて、主張のされ方をも考慮して、そのズレ方などを評価して判断を行う。それは、科学に進入した主張かどうかをまず判断する、という事。そうすれば、オカルトや宗教等を「○○科学」として批判する事(それは、科学的方法を「基準」として他文化まで評価してしまう事だから)を避けられるし、戦略的にも優れた概念であると思っています。

ここ最近、「疑似科学」を適当に使っているのをいくつか見て、最近の用いられ方、あるいは「ニセ科学」が異なる意味内容で用いられる場合がある、というのを踏まえて無いだろうな、と改めて思いました(最近のニセ科学批判が関わっているのは明らかなのに)。

そういう現状を鑑みると、「再定義」する試みというのは、ややこしいな、とは感じますね。

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2008年5月22日 (木)

思い込みが激しい

美少女アダルトアニメやゲームの規制嘆願が提出される | デジタルマガジン

請願情報

このようなゲームに誘われた青少年の多くは知らず知らずのうちに心を破壊され、人間性を失っており、既に幼い少女が連れ去られ殺害される事件が起きている。

これはひどい。

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2008年5月21日 (水)

動きの説明

怒涛の武術関連エントリー連発。

ググってたら、懐かしいものを発見⇒武術稽古法研究 010 「〈体内波〉=支点の処理から支点の質的転換へ」
2011/10/18追記:リンク切れだったので別ページへリンク⇒http://www3.ocn.ne.jp/~hanmiken/010.htm

懐かしいもの、というのは、甲野氏の説明体系、という事。著者は甲野氏自身ではありませんが、合気ニュースの本に収録されたので、私はそっちを読んでいます。

当時は、熱心に甲野氏の本を読んでいた時期でしたねえ。かなりかぶれていたかも。懐かしいなあ。

と、前置きはここまでにして。

さて、武術に興味のある方も無い方も、リンク先の説明を読んで下さい。

どうでしょう。「何を言っているのか全く解らない」のではありませんか? それは、武術の専門用語を理解していないから、では無いので、ご安心下さい。

甲野氏の動きの説明(少なくともこの当時の)が問題なのは、「ヒンジ運動」や図形を用いて、それに人間の運動を当てはめて、武術の動きを解釈しようとした、という所です。これは、ある意味で、気や呼吸力等の概念を使うよりも、ややこしい(何故なら、後者は、高度に抽象的な概念であるから)。

こういうモデルを使った説明が有意義であるためには、

  • モデルが、物理学的にきちんと説明出来るものである事。
  • そのモデルが、人間の運動において成立し得るものである事。
  • それが可能であるとして、実践する者が、そのモデルを「体現」出来ている事。※つまり、「言っている事とやっている事がずれていない」、という意味。
  • 実際に体現出来ているとして、それが目的(ここでは、武術の技法として有効か否か)に適っている、という事。

これらの条件が必須です。人間は、解剖学的構造や生理学的機能に従って運動する実体であるから、動きのモデルが物理的にある程度妥当であるとしても、それがバイオメカニクス的に成立可能でなければならない、という事ですね。

単純な力学を武術の技の説明に用いようとして、過度に単純化してしまったり、というのは、結構見られます。人間が、複雑な構造を持っていて、その運動は脳によって制御される、という側面を、スポイルしている訳です。してはならないのにね。

人間の動きは、物理学的にも生理学的にも限界付けられているのです。だから、それを「踏まえなければならない」。人間の動きを幾何学的なモデルに「沿わせよう」とすると、却って、人間の運動の複雑性や、柔軟な変形性を蔑ろにしてしまう可能性があるのですね。視覚的イメージに、認知が規定されてしまい、それに身体運動も従ってしまう。「伸筋」による説明なんかもそう。だから、古来の達人は、知覚的な側面(良い動きをした時の主観的な「感じ」。科学的には「身体意識」等)を重視した、と私は考えています。

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掛からない

ある武術の達人がテレビに出ていて、出演者の芸能人に軽く技を掛けようとしたら、全然掛からなかった、というのを観た事があります。※どの人物であったかは憶えているのですが、ソースを失念して記憶が曖昧になっているので、こういう書き方です。ご了承下さい。武術に興味がある者なら知らない訳が無い、というくらい著名な方。

これ、「なんだ、インチキか」、と考えてはいけないんですね。そうじゃ無くて、ある程度の協力関係が無いと、掛からない、という風にまず解釈する。相手が全く武術に興味を持ってない場合、力を抜き切って手を持ったり、技を掛けようとした瞬間に手を引っ込めたり、という事があるので、「掛けようが無い」訳ですね。たとえば、攻撃せんと襲い掛かってくるのも、ある意味「協力」な訳です。合気道なんかで、本気で掴まないと掛からない、と言われるのは、そういうのが理由だったりします。ふわっと掴むと、関節を固めていないから、そこがぐにゃっと曲がって出来ない、という風になるんですね。

そこら辺の論理を、基本的に押さえておくべきだと思います。

まあ、その次の段階としては、「相手が軽く握ってきた時にどうするか」、という考察が出来るのですが。当身を入れる、とか、関節を取る、とか、様々な答えがありますね。どんな人間にどのように掴まれても同じように掛けられるか、というのは、技法の汎用性という面からは信じたくなりますが、基本的には、過剰な信用・期待でしょう。

とは言え、軽く掴まれても、「手をくっ付ける」技術がある、と言われる事もあります。合気柔術なんかでよく出てきますね。さて、これはどのくらいの汎用性を持つか。相手が離そうという意思を持っても効くのか、等のポイントがあります。これはもう、「出来る人にしか解らない」世界。本当は、出来ると称する人が見せないといけない。現象が存在する事を示す、いわゆる立証責任みたいなものですね。

ところが、武術の世界だと、情報を秘匿するという側面がある。戦闘技術なのですから、「奥の手」を簡単に晒す事は出来ない訳です。従って、詳細を隠すという行動が、正当化される。なので、かなりややこしい。

本当は、「ふーん、出来るの。やって見せて。」と応答するのが一番なんですよ。そうやって、徒に神秘化されるのを防がないといけない。やって見せないと信用出来る訳無いでしょ、と。そもそも、人間対人間の関係で成立する現象だから、外部からの観察のみで確認する事が、ほとんど不可能。たとえば陸上競技なんかだと、パフォーマンスが視覚的に明確に評価出来るから、ある意味では遥かに厳しいのです。

「手をくっ付ける方法があるのだ」、と主張する人がいるとして、「じゃあ、どうやるんですか?」と訊くと、それは秘伝だから教えられない、となるのですね。だから、技術・主張の妥当性の確認をしようが無い。それでも、そういう技術がある事は主張され、流派の優秀性や正当性が仄めかされたりする。ややこしい。

もし出来る人がいるとしても、その説明原理やメカニズムが正しいか否かを確認しなければならないのですが、現状、それ以前の段階に留まっています。本来、情報をオープンにしないのに正当性を主張する、というのは、おかしな話なのですけれど。

ちなみに、私自身は、いつまでも手をくっ付ける、なんて事は出来ません。生理・心理的な反応によって、長くとも数秒離れない、というのはあると思いますが、今の所、倒れてもずっとくっ付いて離れない、という現象については、懐疑的です。これはもちろん、あり得ないという主張では無く、保留、という意味ですが(遠当てと一緒で、無意識的な反応でそういう現象が生起し得る、とは考えています)。

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2008年5月20日 (火)

策士

GJ⇒錯覚・トリック - ASIOS -

いい仕事、してますね。

錯視を紹介するページは多くあるけれど、実際同じ色なの、とか、ホントにまっすぐなの、というのは、ディスプレイに顔を近づけて手で他の部分を隠して確かめる、という具合で、結構面倒なものですが、マウス操作で手軽に確認出来るようにするとは、あまり見ないですね。これはいいアイデア。

このページについて解説しているエントリーはこちら⇒ASIOS公式ブログ: 「錯覚・トリック」で伝えたかったもの

ASIOSは、どんどん知られるべきだと思う。正しい「懐疑的思考」という概念を周知させるためにも。

ここもいいですね⇒錯視―視覚の錯覚

ちなみに、私が一番好きなのは、これ⇒ザンダー錯視

最初見た時、シンプルだけどこれは凄い、と思った。

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合気を捉える

似たような事は何回も書いてるけれど。

技術としての「合気」に関しては、高岡氏による「奪制御支体重」理論が、最も妥当で優れた説明、だと思っています。これは、一般に認識されている「合気」という技法を分析し、その現象面を科学的に定義したものですね(噛み砕いて言うと、「ああ、これが合気だね」、と多くの人が納得するような説明、という事)。すなわち、「制御を奪われ(奪制御)」「体重は自分で支えている(支体重)」状態が、「合気が”掛かった”」状態。

当然、そのような現象が果たして、人文・社会科学的メカニズムを完全に排除しても、ちゃんと再現出来るか、というのが、科学的には最も重要なのですが。その意味では、高岡氏の研究は画期的なものですが、まだ不充分だ、とも言えるでしょうね(高岡氏自身、部分的な解明、という意味合いの主張をしているので、押さえておきましょう。文脈によって、主張の強さが違っていたりするけれど…)。

武術の技法の有効性というのは、汎用性如何による、と言えますからね。非協力的な相手には掛からない、体力差が大きいと掛からない、掛けるまでに時間が掛かる、等の条件は、その汎用性を低くする。そして、そういう汎用性を、「合気」という技術は果たして備えているのか、それが重要。武術界の中の人達は、その汎用性を過剰評価し、外から見る人は、過小評価しますからね。どっちもダメ。「正確に理解」しないと。

もちろん、汎用性が低いなら低いなりに、有効な局面に用いていこう、と考えれば良い訳です。で、それを見出すには、知らなくてはならないのですね。まあ、簡単に言いますと、合気でプロレスラーも自由自在に吹っ飛ばせる、とか、そういうおかしな事を言っちゃいけない、という話です。

どちらかと言うと、合気というのは、技法の稽古を通して、普遍的な、高度の身体制御を身に着ける、という面があるんですよね。身体を拘束された状態から相手を崩す、という条件があり、それを達成するために、高度な身体制御を会得せざるを得なかった、という事なのでしょう。これは、経験的に優れた方法を見出したという点で、画期的な事だと思います。実際に腕を掴むなんてあり得ない、と言う人は、そこら辺にも思いを馳せる必要がありますね(でも、ほとんど腕を掴むなんて無い、というのはその通り)。

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2008年5月19日 (月)

言う前に

「どうも僕は、論理的とか合理的にものを考えるべきだ、というのを見聞きするのが嫌いでね。もっと、何と言うか、直感とか感覚とか、そういうのを大事にすべきだと思ってるんだよ。」

「ほう。それで君は、論理的にものを考えた事があるのかい?」

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分類

Science and "Fake Science" Hal Tasaki:科学と「ニセ科学」をめぐる風景

改めて読みましたが、やはり、実によく練られた文章ですね。

※以下、引用は前後します。ご了承下さい。

ここ最近、色々考えていて、

a: 実際に効果があり、その機構も理解されている。

b: 実際に効果があるのだが、その機構はわかっていない。

c: 効果がない。

科学者はaの範疇のものだけを認め、bの範疇のものは「非科学的」とみなすという誤解がしばしばあり、それが「ニセ科学」批判と混同されることもあるようだ。もちろん、経験事実こそが科学の出発点なのだから、科学者がbを排除することはあり得ない。むしろ、効果が経験的に確かめられているにもかかわらずその機構がわからないものは、科学者にとって重要な研究対象になるのだ。たとえば、漢方薬の中には、臨床実験で効果があることが明確に示されているものの、機構が解明されていないものも少なくないそうだ。

ここで書かれているような事がポイントなのだな、と改めて感じた次第。

a1: 効果があると主張し、理解されている機構を説明する。

a2: 効果があると主張し、理解されている機構とは別の筋の通らない機構を説明をする。

b1: 効果があると主張し、機構は未知であると述べる。

b2: 効果があると主張し、筋の通らない機構を説明をする。

c1: 効果がないと正直にいう。

c2: 効果があると主張し、筋の通らない機構を説明をする。

ここで、効果があるか否か、という所(aかbなのか、それともcなのか)が、「科学的に認められているか否か」、という観点で、それを「どのように主張するか」によって、それがニセ科学かが、判断される訳ですね。当然、「効果が無い」、あるいは「まだ認められていない」場合(c)には、「効果がある」と主張する事そのものが、ニセ科学的主張と看做されます(c2)。効果が認められているか否かという視点と、どのように主張されているか(あるいは、どのように広く信じられているか)を、両方考慮しなければならない訳ですね。だから、機構が未知であっても、効果が認められていれば(そして、無理矢理に機構の説明をこじつけなければ)、それはニセ科学とは言わないという事です。

で、とても重要なポイントが、

ただし、a, b で「効果がある」というときは、単に「誰それが試したら効果があった」とか「効果があると評判だ」といった個人的・主観的レベルではなく、心理的な効果を徹底的に取り除いて客観的に効果があることが経験的に確認されたレベルをいう

ここです。科学か否か、という所に、「メカニズムが解明されているか否か」、というイメージを持っているかどうかで、ここら辺の認識に、齟齬が出るのだと思います。心理学の領域、特に、応用的な分野、たとえば教育心理学や心理臨床なんかだと、こういう観点が、決定的に重要となるでしょう(多分、医学医療のかなりの部分も、そうでしょう)。メカニズムはブラックボックスのままで良いから(解明しなくても良い、という意味ではありませんよ…)、効果のほどを、きちんとデータを採り、適切な統計的分析を行って評価する。

……っと。この他にも、重要な所を引用していこうと思ったら、全部重要だった。とても内容が濃く、きっちりと組み立てられている文章ですからね。まあともかく、ニセ科学論に興味があって未読な方は、取り敢えず読んでみて下さい。ニセ科学批判論者(が採っている、あるいは採るべき)の基本的な姿勢が、きちんと書かれています。

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2008年5月18日 (日)

過小評価と過大評価

2008年5月18日追記:下の方に追記してます。

合気について調べていて、こういうエントリーを発見⇒合気道の科学」と「空手・合気・少林寺」 - 武術とレトロゲーム - Yahoo!ブログ

ちょっと惜しい読解だと思いますね。

高岡氏の疑似科学性を指摘する姿勢には共感しますが、若干的外れの箇所もあるように思います。吉丸氏の説を科学的と看做しておられるのかな。それはちょっと、筋が悪いと感じるのですが、どうでしょう。屈筋優位と伸筋優位という概念は、全く不充分ですしね。※ところで、少し調べてみましたが、伸筋/屈筋という概念、リハビリテーションの分野等で用いられているようですね。

高岡氏の、レフ/ラフパワー概念が優れているのは、そこから、メソレフパワーという概念を導出した所にもあると思うのですね。ある体系内で通用する運動が他の体系にも優れたものであると一般化出来る訳では無い、という所を解明したのですね。これは、一般的な言い方をすれば、「それぞれの武道で有効な力の出し方は、他にすぐ応用が出来る訳じゃ無い」、となって、「当たり前じゃん」、と思われるかも知れませんが、科学とは、当たり前だと思われている事をきちんと対象化する、というのも含んでいるのですね。この概念については、「鍛錬シリーズ」に詳しいですね。メソレフパワーは、「名前」との結び付きも重要ですね。尤も、かなり仮説的ではありますが。「法力」の部分については、確かに、かなり言い過ぎっぽい所がありますしね。私は、あれは数割は冗談だ、と解釈しています。主旨は、言葉の意味世界が身体運動に及ぼす影響は強いから、「名前」が重要だ、という部分だと思います。※高岡氏はどこかで、「言い換えに過ぎないじゃないか」、という批判について言及していたと思います。ソース失念。

話を高岡英夫氏と「空手・合気・少林寺」に戻します。結局、高岡氏は、「何だかよくわからないけど、すごそうなことが書いてある。」と一般大衆に思わせたかったのだと思います。また某教団と同じく、「インテリ学生が強さや達人の動きに憧れて、コロっといく。」方法をよく心得ていると思います。内容は対話形式で進みますが、実際は高岡氏が創作した架空の人物ではないかと想像され、言わば自画自賛・我田引水的な構成となっています。高岡氏が新造語、新概念を提唱したあと、作中の他者が「これは、歴史的な発見になるかもしれませんね。」と言った感じのコメントをするノリです。

この分析、高岡氏の意図については知る由もありませんが、それを措くと、確かにそういう面は感じますね。よく言えば、とても巧み。まあ、教団に準えるのは、色々考えるべき所ではありますけれども(信仰に近い思いを懐いている人は、いるでしょうけれど)。

それに対して、「丹田」や「経絡」のような実在しない観念上の器官名を多用せずに、西洋の運動生理学やスポーツ理論でも認められている「屈筋」と「伸筋」の二分法によって、二種類の力の使い方・出し方を解説した吉丸氏の理論は斬新で、日常の稽古にも応用の利く具体的な理論でした。

ここにはちょっと、首を傾げます。人間の身体の複雑な運動を、「屈筋/伸筋」という観点で分類するのは、物凄く無理のある主張で、過度の単純化であると考えます。バイオメカニクス的には、目的とする運動に関して最も効率的な筋収縮が行われるのを、「優れた運動」と呼ぶ訳です。時々刻々と、適切に、筋の収縮・弛緩を行う。論理的には、「伸筋優位」な運動という概念は、あまり適切とは言えないでしょう(たとえば、ハムストリングスはどっちでしょう)。簡単に言うと、腕を伸ばさなくても良い局面では、伸筋は「弛緩させなければならない」場合もあるのですね。

仮に高岡氏がラフパワー=ガムシャラな力=素人の力み方=屈筋群優位の運動、レフパワー=洗練された力=呼吸力・合気・気の力・勁=伸筋群優位の運動と、吉丸氏の著作より先に表明していれば、もっと評価していたかと思います。「屈筋群」の箇所を「表層筋(浅層筋)」、「伸筋群」の箇所を「深層筋」に置き換えて、当時発表していたとしても、同様に評価していたと思います。

屈筋は、浅層の筋肉を指すのではありませんよね。当たり前ですけど、伸筋が深層筋を指す訳でもありません(それに、上の方、イコールで結んではいけないです)。ところで、高岡氏は、たとえば『意識のかたち』の105ページ辺りで、腸腰筋の重要性を説いていますね。腸腰筋の重要性は、各所で語られるようになりましたが、この筋肉、伸筋/屈筋のどっちでしょう。

高岡氏が独自の概念をよく提出するのは、その通りですね。ただ、それまでに、適切に概念を示す術語が無かったなら、それを提唱するのは、科学的に当たり前の話です。当然、既存の体系、あるいは先行研究との整合性が確認されねばならないのは、言うまでも無い事です。その意味では、独自過ぎるという印象はありますね。とても有用で興味深いものではあるのだけれど。

 私が高岡氏を「だめだコリャ」と思った瞬間は何度かあります。ひとつは、福昌堂の某誌上で「合気特集」があったとき、高岡氏が「合気」を解明するようなコーナーがあり、その中で高岡氏は「合気」をいくつかに分類して解説していました。その中に「波動合気」と言う分類があったのです。宗教界や疑似科学の分野で「波動」と言う用語が、本来の自然科学の定義を離れて、どのような使われ方をしているか知っていて「波動」などと言っているのでしょうか。

ここは、部分的に同意。確かに、波動の使い方は、ちょっと怪しい。ですけれど、合気の分類自体は、とても興味深いものでした。特に、「第一の合気」と「第二の合気」については。あれは、その後の「低次合気」、「中次合気」に通ずる考え方だと読み取る事が出来ます。

別に四重でも八重でもいいのですが、高岡氏の弟子がヒクソンの弟子にスパーリングで勝てたら信用します。前述の「丹田」よりもさらに実在しない観念上の器官である「四重構造の腰」を持ち出されても、思弁的で具体性に欠けます。「四重構造の腰」を提唱しなくても、ヒクソンのテクニックと強さは十分説明できます。むしろ、ヒクソンの妻とヒクソンが、サーフィンの達人であること等に注目すべきでしょう。

腰のディレクターが多重構造である、という部分についての批判は、その通りですね。思弁的と言うか、疑似科学的。身体運動の構造が、腰の運動が多重構造であるが如くなる、という論理自体は、それほど「思弁的」ではありません。ポイントは、何故、単なる観察でそこまで解るか、という所と、それを確認する術が無いのに断言している、という部分でしょう。まあ、何をもって多重とするか、というのが全然明らかで無いから、実体的で無いとは言えるけれど、「思弁的」というのは、ちょっと語感が合わないですね。それにしても、弟子が勝てたら、という論理展開は、この種の論では、あまり筋の良いものではありませんね。だって、弟子が勝つ事と身体意識の構造のあり方が証明されるのは、全然異なった現象なのですから。

 また「空手・合気・少林寺」では、塩田剛三氏のことを「技の切れなら植芝盛平以上と言われている」と記載しています。私は武術・格闘技関係の雑誌や書籍をかなり読んでいるつもりなのですが、いまだに「空手・合気・少林寺」以外の文章で、「技の切れなら植芝盛平以上」と言う表現に後にも先にも出会ったことがありません。学術的な体裁にするのなら、参考文献(出典)は全て明らかにしてほしいものです。それとも、単なる「耳からの伝聞」なのでしょうか。たとえそうだとしても、多数意見である必要があります。

高岡氏の書くもので、伝聞あるいは噂話的なものは、結構多いですね。引用文献も(特に、最近の著作では)あまり無く、良いとは言えません。その意味では、学術書としては不充分ですね。

うーん、高岡氏の論評については、異論はあるけれども、概ね妥当な批判だと思うのですけれど(批判は当たっているが、過小評価もしている)、吉丸氏の論が優れていると看做すのは、あまり適切では無いと感じます。

武術関連ではあまり見ない、良エントリーですね。ここでは、高岡氏に関しても色々論評しているので、ご批評頂ければありがたいです。

2008年5月18日追記:高岡氏が丹田について語っているものを引用します。引用文献は、『極意要談』(P180・181 伊藤信之氏との対談の部分)

伊藤 正中線は、陸上競技でも肉体と直接的対応を考える段階では軸として理解することができますが、武術でしきりにいわれ、高岡先生も重要視されている「ハラ」とは、一体どういうものなのですか。

高岡 「ハラ」、「下丹田」と古来から言われてきたものは人体下腹部の中心にあるとされている点ないしは球状の部分です。しかし、その部分は、解剖学的には腸があるばかりで他には何も見いだせません。ところが、その丹田があるとされる周りには、大腰筋、腸骨筋、上下双子筋、方形筋、横隔膜などの深層筋群と腹筋、腰背筋などの浅層筋群が丹田を中心に長球状の構造を形成しているのです。

 つまり、「丹田ができる」とは、こうした「長球状筋構造体」が至適のバランスを持った統一体として筋収縮活動を行うことを指すのです。

伊藤 武道家の人達のハラに対する説明には、極めて観念的な印象を持っていたのですが、先生の説明は極めて明快ですね。

高岡 ただ、深層筋や深層小筋群は、意識化することが極めて難しいのです。そこで意識と動作の関係がまた出てきます。丹田自体は、それらの筋肉群を統一的に動員するための「意識装置」であるわけです。

伊藤 なぜ、ハラが利くと動きがよくなるのでしょう。単に意識化できない筋肉というのは、その丹田周辺の筋肉群以外にも体全体に沢山あると思いますが。

高岡 それは、四肢の運動や体幹・呼吸運動の本質的な因子を根底から支えているのが、この長球状筋肉群だからです。それが本質的な因子を担っているということは、脊椎や骨盤とのつながりを考えれば容易に推察できると思います。

 ついでに申しますと、中丹田があるといわれている胸の部位、つまり胸郭を取りまく筋肉群も長球状構造体をなしており、この意識中心が中丹田なのです。

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タイムアタック的な3

Mh

これ以上の短縮は、この条件(全討伐&キッチンスキル無し)だと難しいかも…。もう、誤差の範囲内じゃないかなあ。

次は、オトモを連れてキッチンスキルを使うかな。KO術でもつけるかな。

火事場装備は作ったけれど、やはり手数が少なくなりそう。

参考までに、火事場装備↓

武器:轟槌 【大虎丸】

頭:カイザーXクラウン

胴:コンガZメイル

腕:リオソウルZアーム

腰:リオソウルUコイル

脚:リオソウルZグリーヴ

装飾品を付けて、スキルは→見切り+2・火事場力+2・耳栓

オトモには、睡眠属性か麻痺属性か…。爆弾は邪魔だしね。ハンマーだから、やっぱり連れて行かない方が良いかもしれないけど。

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2008年5月17日 (土)

実は

えっとですね。

私の場合、何故水伝を批判するか。その理由の一つは。

水伝は、言葉や文化の相対主義を許さない主張だから、なんですけどね。

水伝批判に、相対主義擁護の面がある事は、結構解りやすいと思うんだけどなあ。

もちろん、ここで言う相対主義とは、価値観や文化の多様性を認める、とか、そういう意味合いの概念です。自然科学的な論理も強く相対化してしまうような、そういう立場ではありません。

水伝は、道徳の根拠を自然の振る舞いに求めているという点で(それが全く独立しているものとは、私は考えない)、科学依存的、なんですけどね。こういう場合に、もし水伝が本当だったら、という話が出てきますけれど、それを徹底的に思考実験してみればいいんじゃないかな(※ここは最初、そんな思考実験自体全く成り立たないくらいには、科学はものを解っている、と書こうとしたんですけどね。Jさんに突っ込まれる(笑) )。田崎さんの文章にも、ちゃんと書かれてありますね。

※このエントリー、実は、とある所に言及したもので、上の文章は、その余談部分なんですけど、それをばっさり切って、余談をメインにしました。書いたら、かも ひろやすさんに再び鋭い突っ込みを受けそうでしたし。

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2008年5月16日 (金)

尾鰭

KOJIMA PRODUCTIONS - HIDEOBLOG

先日の、小島監督のMGS4インタビュー記事について、監督自身が説明しています。

うーむ。恐ろしいね。まさに伝言ゲーム。 前の宮本氏の例もあるしね。気を付けて読まないと…。

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asahi.com:ゲーム「メタルギアソリッド4」完成 6月世界同時発売 - コミミ口コミ

PS3の運命が左右される…。

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2008年5月15日 (木)

孫の手

統計的方法のしくみ―正しく理解するための30の急所 Book 統計的方法のしくみ―正しく理解するための30の急所

著者:永田 靖
販売元:日科技連出版社
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書店で目を通してみましたが、実に良い本。統計学の独習者にとって、「かゆい所に手が届く」本です。そうそう、そこがよく解って無かったんだよねえ、という所が解説されています。

いわゆる入門書、では無いので、全く統計に触れていないと、全然読めないです。Q&A的な本なので、お間違いの無いよう…。

帰無仮説を採択するのは、帰無仮説が正しいと結論する事じゃ無いんだよっ!

じゃあ(何が、じゃあ、なんだ)、取っておきの、私のお気に入りのページを紹介しちゃいますよ。

統計科学のための電子図書システムのWebページ

こういうのがWEBで無料で読めるのは、素晴らしいですね。感謝感謝。

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やっぱ日科技連だよね。日科技連最高。

別に回し者じゃありません。大村さんの「はなし」シリーズが大好きなんですよ(笑)

やっぱあれですよね。心理統計とか社会調査とか生物統計とかQCとか、色んな分野のものを読むと、勉強になりますよね。各分野で、重視されている事が異なっていたりして。

ところで、日科技連(日本科学技術連盟の略)って、何て発音するんですか?

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あってもいいじゃない

地球ドラマチック|『本当のティラノサウルスを知っていますか?』

これ観たのですが、超面白かった。

見つかった化石から色々想像し、理論的な考察を重ねて、当時生息した恐竜の生態に迫る。ワクワクしますね。様々な分野の研究者が協力して、謎を解いていく。ミステリーです。エレガントです。個人的に好きなのは、化石の分析や現代の動物の動きの解析等から、バイオメカニクス的に運動を推測していく所。

日本の民放地上波も、こういう番組作ってくれないかな。喜んで観るんだけど。こういうテーマを取り扱ったものは、無いではないけれど、ゲスト呼んでその人達に何か喋らせて、というのだからなあ。時にはいいけど、そういうバラエティ色を省いて、きっちりと作ったものが増えても良いと思う。ちょっと無駄が多過ぎるからね。ナショナルジオグラフィックチャンネルでやってるようなのを作ってもいいじゃない。

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2008年5月14日 (水)

説明出来る、使える

2008-05-11 - IHARA Note:大半の疑似科学は技術である。

2008年5月15日追記:応答を頂きました⇒2008-05-15 - IHARA Note:「大半の疑似科学は技術である」の続き。

こちらのエントリーについては、コメント欄で、私の考えを書きました。ご参照下さい。

この間読んで、何となく気になっている記事です。

特に批判とかでは無いのですが、ちょっと意味が掴み取れないなあ、という印象でした。

素朴な疑問としては、科学と技術、「説明出来る/出来ない」、「使える/使えない」、というのを、峻別出来るものなのかなあ、とか。いや、何となくは解るのですけれど、上手く掴み切れないのですよね。技術が説明するためのものでは無い、というのは理解出来なくもないのですが、科学が「使える/使えない」という文脈で用いられる事は、ありますよね。よく考えると、前者の方も、何かを説明出来るヒントとして捉えられる、という事もあると思うのですが、そういう話とは違うのかな…。今、ものの本をめくったら、ジョセフ・ブラックとジェームス・ワットの親交の話が載っていて、興味深かったです。

 疑似科学の代表格である「水からの伝言」は日常の心の持ち方として使うための概念だ。だから、これは技術である。科学的文脈で主張してはいけないし、科学的文脈で批判されるべきものでもない。技術として「使える」か「使えない」かで語られるべきものだ。

ここも、意味が取りづらいですね。まず、水伝が、「日常の心の持ち方として使うための概念」、と説明されていますね。従って、それは技術である、と。まずここに、誤解があるような気が。水伝は、周知の通り、「言葉に応じて水が変化する」というメカニズム(良い言葉は何故良いか、というメカニズム)を謳っている訳で、間違い無く、科学を主張したものですよね。科学的文脈で主張してはいけない、と言われても、そもそも科学的文脈に「進入」してきたものなのですから…。だから、そこを捨象して、技術として「語られるべきだ」、というのは、当たらないのではないかと思います。そもそも疑似科学やニセ科学といったものは、科学を装っているもの、ですしね。

「水からの伝言」は今のままでは「単なる使えない技術」にすぎない。どう使えばいいのかが分からないからだ。もしそれが可能なら、使いやすく改良されることを願う。

うーん、ここも…。水伝は、上にも書いたように、言葉に応じて水が変化するというのを実験で確認した、と言って、それを道徳的な、「言葉遣い」の根拠にしている説です。それを、「単なる使えない技術」と表現するのが、どうしても掴めないです。使いやすく改良される、というのもね。全く具体的にイメージが出来ない。

科学と技術はもともと別々のものだった。それが融合したのはかなり最近のことだ。私は、この二つをもう一度分離すべきなんじゃないかと思っている。

そして、こういう結び。やっぱり解らない。ところで、技術の有効性の評価なんかは、科学的な方法が用いられたりしますよね。統計的な方法とか。そういう意味でも、密接な関係なんじゃないかと思うのですが、違うのでしょうか。

なんか、解らん解らんと連発してますね。でも、本当に、よく解らないのでした。ニセ科学についてはそこそこ解ってるはずなのだけれど。

技術といえば、技術開発者さんがおられる…(水を向けている訳では決してありません、多分)。

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2008年5月13日 (火)

「遠当て実験」から考える

亀@渋研XさんとnewKamerさんに書き給へと指令を受けたので(嘘)、書いてみます。

まず、こちらを参照下さい⇒PSJ渋谷研究所X: 【種】ASIOS:気功で人を倒せるのか

簡単に要約すると、自称遠当て(離れている所から何らかのアクションを起こし、触れないままに相手を倒す技法)が出来るという人に、懐疑的な人が技を掛けさせるという「実験」を行った所、まったくビクともせず終わった、というエピソードについての話題です。

さて、この話題について、コメント欄で出たのが、

こういうケースで「この実験で、否定にしろ肯定にしろ、どこまでのことが言えるか」というのは、いい練習問題になると思って、そういう角度からの記事にしようと思っているうちに日が経ってしまいました。

「誤った二分法」の問題もあって、ついつい、これだけで一般化した「ある」「ない」の両極の答えのどちらかを言おうとするのが、ぬるいマスコミなどでよく見る記事ですよね。それがおかしいことは、すぐにわかる人も多いと思うのですが、じゃあそこから先は、というと、そこをうまくまとめられなくて。(亀@渋研Xさん)

それから、ASIOSの基本路線は「批判」のスタンスはとらずに事実を提示する方向なんで、一事実から「結論」を導かれても困っちゃうのですけどね。でも、実際にそういう結論に行っちゃう人は多いですよね。
 「この実験で、否定にしろ肯定にしろ、どこまでのことが言えるか」みたいなところは、是非ニセ科学批判方面の人に言及してもらいたいところ(トラックバックとかも)。(newKamerさん)

こういったご意見でした。つまり、自称遠当てが出来る人の所へ懐疑論者が行って技を掛けさせたら――という現象をどう解釈するべきか、どこまでの事が言えるか、という視点ですね。こういうエピソードがあると、たとえば、「掛からなかったんだから、あれはインチキだ」、とか、「あり得ない」とか言えるかどうか。それとも、「”あの”武道家はインチキだったのだ」、と言うか。どちらかに振れてしまいがちなのですよね。

しかし、物事を批判的に考える際には、きちんと丁寧に、対象を読み解かなければならない。何が言えて、何が言えないか。それをしっかり分析する必要があるでしょう。

と、前置きが長くなりましたが、このエピソードに関して、私なりの考察を書いてみたいと思います。

最初は、論点を整理してまとめようと思いましたが、それは止めて、思い付くままに書こうと思います。その方が流れを追いやすいかも知れない、と考えたので。

------------

さて、まず、「遠当て」という現象がいかなるものか、というのを考えていきたいと思います。

まず、観察される現象。つまり、「どう見える現象であるか」。取り敢えず、一対一の場合について考えます。

遠当てというのがどのような現象かというと、掛ける側と掛けられる側が離れていて、掛ける側が何らかのアクション(突きの動作をする。手をかざす。気合を掛ける、等)を起こした直後、「両者の身体接触が無い」にも拘らず、掛けられる側に、倒れ込む、後ろに転ぶ、膝から崩れる、等の動作が、「意識しないまま」に生起する現象、と説明する事が出来ます。

ここで重要なのは、「身体接触が無い」、「掛けられる側が意識していない」、という所です。つまり、「触れていない」のは、両者に力学的な関係が無い事を示し、「意識していない」というのは、「倒れようと考えていない」のを意味します。前者は、一般的な武術・スポーツにおける力学的な論理を排除し、後者は、「掛けられている者が”わざと”倒れたり飛んだりする」という条件を排除します。これをより簡単に言うと、「触れてないのに、何故か相手が倒れる」、「わざと倒れている訳では無いらしい」、といった所でしょう。

さて、次に、「現象を説明するメカニズム」について考えていきます。

上で示した現象を説明する論理は、いくつも考えられます。

  1. 何らかの暗示効果によって、力学的関係が無いにも拘らず、掛けられている側が意識していないのに倒れてしまう。
  2. 身体は接触していないが、何らかの物理作用が巧妙に働き、現象が生起している。
  3. 現代科学では見出されていない何らかの原理(たとえば、「気」)が働き、現象が起こる。それは、離れた所にあるものを動かす機能を持つ。
  4. そもそも、相手が倒れているのが「わざとでは無い」というのが虚偽である。すなわち、両者が協力してイカサマを行っている。

これらのようにです。(表面的には)同じ現象を説明するメカニズムについて、様々なものが考察出来るという事です。そして、このような現象を肯定する論者が、どのようなメカニズムを想定、あるいは主張しているか、という所が、重要なポイントです。

上に挙げた例の内、1と4は、これまでに解ってきた色々な分野(物理学や心理学等)と整合する主張です。つまり、離れているのに倒れるのは、何らかの心理作用、あるいは社会的なメカニズム(ここでは、イカサマがある、という事)によって現象が起こっているのである、というものです。

対して、2は、身体は接触していないが、遠隔的に相手を倒す事の出来る、何らかの物理的な作用が働いているのではないか、という仮説です。何とか磁気、の類ですね。3は、そもそも物理学等の論理では説明出来ない現象が起こっているという主張ですから、科学的な論理を否定し、当然、心理的な効果の可能性も排除し、技法の普遍性(たとえば、相手が全く知らなくても掛かる、等)を主張します。

このように見ていくと、「遠当てがあるか否か」、という単純な問題設定は出来ない、というのが理解されると思います。つまり、原理あるいはメカニズムに何を想定しているか、を考えなければ、お互いに異なる論理を想定し、ある/無い をぶつけ合う事になります。ですから、物理的にはそんな現象はあり得ない、だから「無い」と言っている人と、心理的メカニズムを想定して「ある」、と言っている人は、実は、「違う現象」について議論をしている、という事が起こり得る訳です。

ここまでを踏まえた上で、件の「実験」について考えていきましょう。

実験は、懐疑的な人が、自称「遠当て」が出来る人に技(技と呼べるか、というのは疑問ですが、取り敢えず、そう表現します)を掛けさせる、というものです。

この実験では、掛ける側と掛けられる側が協力している、という可能性は、排除されます。これは、「実験が失敗した」という結果から、明らかです。

では、上の1~3までの可能性が全て否定されるか、というと、それは出来ません。それが出来るのは、遠当てを出来ると主張する側が、「いかなる状況でも誰にでも絶対に掛ける事が出来る」、と言っている場合のみです。つまり、簡単に言うと、「調子が悪かった」、「上手く気が合わなかった」、「波動が良くなかった」、等の理由によって、「出来なかった」事を説明出来るのです。だから、1回や2回出来なかったからといって、全て否定する事は、論理的に無理な訳ですね。

尤も、「調子が悪かった」、等と理由付けするのは、「技法の普遍性」の無さを自ら認めてしまっている、という事が出来ます。遠当てを、非協力的、あるいは攻撃的な人間を制する技、すなわち「武術」と捉えるならば、技法の普遍性は重要な条件です。ですから、ここでも、「何を主張しているか」、という所を重視すべきです。主張している者が、「遠当てとは、攻撃的な相手を制圧出来る実用的な技法なのだ」、と言っている場合には、この実験で、その主張の信憑性は疑わしい、と考える事は出来るでしょう。

しかしながら、遠当てを出来ると言う者が、「相手に倒れる気が無いのに倒れてしまう」、という現象のみを主張しているとするならば、また別の考え方をしなければなりません。これは、「掛けられる側がわざとやっていない」という条件と、「身体が触れていない」という条件が満たされれば、成立するからです。

当然、現実的には、「遠当て」という武術的な技法を肯定しているので、上のような主張をする人間は、ほとんど存在しないものと思われますが、「遠当て」という現象の構造を丁寧に見ていくと、このように考える事は、論理的に出来ます。

暗示効果によって、倒れる気が無いにも拘らずに倒れてしまう、というのは、充分に考えられるものでしょう。懐疑的に捉えている人でも、その場の状況によっては、倒れる可能性は、あるかも知れません(それで、懐疑的な見方から転向する可能性もある)。これは推測ですが、件の実験で、「舌の位置」や「足の親指」を動かせば掛からない、と言っているのは、意図的かそうで無いかは判りませんが、それが心理的な効果だと自ら認めている、と考える事も出来ます(もちろん、舌が動けば気の流れが変わる、等の説明も可能)。

さて、術者が実は、暗示効果だと認めているのではないか、という可能性は措いておいて、そのようなメカニズムでは無く、「気」(物理を超越したり、現代科学とは矛盾するような概念として)によって倒れるのだ、等の主張をしている人が、件の実験を知ったらどう考えるか。

たとえば、次のような説明が考えられるでしょう。

「あの術者は本物では無い。本当の達人であれば、あの懐疑論者も、なす術も無く倒れるはずである。」

論理的には、いくらでも、このような言い逃れは可能です。現象が無い事を証明するのは出来ないからです。もちろん、現代の科学の知見からは、接触していないのに、心理的なメカニズムによらずあの現象が起こる、というのは、ほぼ否定出来る、と言って良いでしょう。しかし当然、肯定者は、そもそもそういう部分を否定する所があるので、それは説得力を持ちません。

もし、心理効果を排除しても現象が成立する、というのを主張するのであれば、そう主張する側に、立証の責任があります。そうで無ければ、否定するのは、出来ると言っている人を全て探し出してやらせてみて、出来ない事を確認しなければならないからです(厳密には、それも不充分。出来ると思って無い人が出来る、という可能性すら考えられるから)。それは当然不可能です(人間は、どんどん生まれる)。※だから、否定と言っても、「そのような現象は絶対にあり得ない」と断言する事は、厳密には出来ない。あり得ないと言い切って良いような現象ではあるけれど、それは文脈にもよるし、また別の話題です。

従って、件の実験から言えるのは、両者の協力関係を排除した条件では、遠当ては成功しなかった、だから、当該実験での術者は、遠当てを極めて高い確率(ここも、色々考える事は出来る。高い確率とはどのくらいか、等)で成功させる事は証明されなかった。しかし、遠当てという現象そのものが実験で否定されたとは言えない。それ(心理効果を排除した遠当て)は、現代科学の知見からは、無いとほぼ主張出来るとはいえ、完全に無いと断言する事は不可能であるから、傍証の一つとして捉えるのが妥当である、という所でしょうか。極めて慎重かつ丁寧に見ていけば、そのように考えられます。

心理効果を排除した条件で遠当てが出来るか、という実験を考えると、掛けられる側が、「(遠当ての)実験に参加している事すら知らない」という条件は、必須です。当然、実験環境に、懐疑的な人間が含まれている事も必要です。事は、現代科学を否定するような現象の確認なのだから、極めて精密に行われなければなりません。もちろん、そのような実験を行い、肯定的な結果が出たとしても、そういう結果がある程度再現される必要もあります。それを回避するために、「その技術が可能な本物は、世界に数人しか存在しない」、等の説明が考えられますが、それは、少なくとも、技法の普遍性を自ら否定する、という態度です。

少々長くなりましたが、「遠当て」は存在するか、という、一見単純な問いであっても、このように細かく考える事が出来ます。物事を「ある無し」で考えるのは難しいし、現象をきちんと分析し、定義をして、そこから実験なり観察なり、あるいは、理論的な考察なりを行う事が、肝要です。

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2008年5月12日 (月)

きれーなにほんご

きれいな日本語意識高まる 旺文社の小中高校生調査 - MSN産経ニュース

そりゃあ、綺麗な方が良いかどうか、と訊かれれば、肯定するんじゃないか。見事な誘導に見えるけど。「きれいな日本語でなくともよい」、という訊き方とか。こういう場合に、「何を訊かれているか解らない」から答えない、なんてのは、私みたいなへそ曲がりくらいでしょう。
しかも、検定を受ける人達は、平均よりも言葉の用い方について関心が高い、という推測も出来ますね。

「きれいな日本語を話していると思う」という質問に「はい」と答える人がいるんだね。驚き。言葉について意識が高い人は、要求水準が上がるから、肯定しないんじゃないかな。肯定する人は、余程の自信家なのか…。

それからね。
言いたい事が伝わるかどうかは、言葉の選択の仕方と相互作用してるんじゃないの?

「歌が巧ければ、声が良くなくても構わない」、という質問みたいだ。

旺文社のニュースリリース(PDF)⇒~旺文社「第5 回ことばに関するアンケート」集計結果~
小・中・高校生 約10,000 人が回答 「きれいな日本語を使おう」 意欲高まる

こういう性質のアンケートで、経年の割合の変化を単純に比較して、意味があるのかなあ。

って、

あなたは、日本語が乱れていない方が、言いたいことを相手にきちんと伝えられると思いますか?

こういう質問もちゃんとあるのね。て言うか、Q4とQ5が…。Q5は、「乱れていない」なんだね。ややこしい。「乱れている」という概念は、直前の質問にある「きれい」の反対なんだよね? ここで言う「乱れていない」と「きれい」は、同じ意味なの?

あなたが日本のことをまったく知らない外国人に、一つのことば(一語)で日本を紹介するとしたら、
どんなことばを使いますか? あなたが日本をイメージすると思うことばを、一つだけ挙げてください。

全く知らない人に、一語で紹介するのは不可能です。富士山とかなんとか、それで説明するのは、相手が日本を知っている、って事じゃないですか。まず日本行きのチケットを渡すべきだ。

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直感に合わせる

Interdisciplinary: 安心したいの補足。

臨時ブログ 魔法少女・水伝子(みずでんこ)に書いた自分のコメントをこちらにも。

今晩は。

「言葉を絶対視したい」、ちょっと説明が足りなかったかも知れませんね。

えっと、たとえば、「正しい日本語」を強調する人がいますよね。最近変化してきた日本語の言い回しを否定し、由来等を重視する、という。
そういうのは、ある固定した言語観がある訳ですね。こういう言葉にはこういう意味が込められていて…とか、「元々意味と違っているからダメだ」、というように。

水伝の主唱者や肯定する人には、それ(言葉と意味の対応。あるいは、言葉の持つ機能、とでも言いましょうか)が普遍的なものである、と思いたい、絶対的な真理だと思いたい、という認識があるのだと思います。
で、ある程度科学的知識が普及している社会に住んでいる人は、自然科学的な論理が普遍的である事そのものは、直感的であるにしろ、それなりに受け容れているものだと考えられます(それは、学校教育等によるものでしょう)。従って、自分達が信じたい「言葉の正しさ、普遍性」を、「自然の振る舞い」によって根拠付けようとしたのだ、と私は考えています。
簡単に言うと、「好きなものが」「正しいもの」であれば嬉しい、という事ですよね。正しいものを見抜ける自分は正しい、という風に、自尊心を満足させる事も出来ますし。

水伝の本に書いてあるのですが、特定の宗教の神の名を書いてビンに貼ったら水が綺麗になる、というのもあります。結局、初めに言葉を善悪に振り分ける先入観があって、それに合うように、「実験」を適当にもってきたのですよね。

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水伝などというものは、本来、自然科学的に考える前に、言語論的な難問をクリアしなければいけない訳ですが、結構、そこら辺が見逃されるのですよね。

これは、ゲーム脳なんかにも通ずる論理。と言うか、直感に合うように都合良く事実を解釈・あるいは曲げる、というのは、一般的にあるのでしょうね。

ゲーム脳の場合は、ゲームが何となく嫌い、ゲームをやっている人に違和感がある、気持ちが悪い、等々の直感を正当化するために、「ゲームをやると脳にダメージが与えられる」、という論理を利用した訳ですね。私やあなたの直感は、事実だったのですよ、と考えたいのです。それで、科学は事実を明らかにするものだ、という程度の認識は、大部分の人が持っているだろうから、そこに付け込むのですね。聴く人は、方法について詳しい訳じゃ無いですから、元々先入観がある人は、信じる。

逆に、「直感に合わないから」否定する、というのもあると思います。私の場合だと、血液型性格判断は、直感的に、間違っていると思いました。つまり、周りを観察したり、自分の血液型が当てられない、という経験から一般化したのですね。で、それはそれで、全然ダメなのです。信じるのと同じ。

たとえば、もし、「ゲームが暴力性を高める事が明らかになった」、というのを見聞きした時にどう考えるか。それが科学的に(←使っちゃいました)妥当だと認められている方法によって確認されたものならば、受け容れるしか無い。それが直感に反していてもね。そういうものです。※この場合だと、暴力性という概念をどう捉えるか、なんて論点もありそうですが、それは措いときます。

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2008年5月11日 (日)

タイムアタック的な2

火事場で挑んでみたら、やはり、手数が少なくなるなあ。近接だと、物凄く減る。却って遅くなってしまう。

うーん。火事場無しで、ナルガクルガ討伐まで15分切るんだけど、得意なラージャンで、8分くらい掛かる。速い人は5分くらいで終わるのになあ。まあ、動き次第で、結構バラツキが出てくるけれど(欲張ってスタンプ入れようとすると、空振りになる事がある。溜め2にするという手もあるけど)。

火事場無しで20分は、ギリギリって所か。

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2008年5月10日 (土)

TENSAI

天才コンプレックス - shi3zの日記

これはすっごい面白いね。一気に読んでしまった。

え、私?

10代後半くらいから21・2歳までにかけて、自分は天才だと思ってました(笑) それが馬鹿な間違いだと気付いたのは、24・5かな。結構早かったのか。その時感じたのは、自分が生活してきた狭い空間での位置付けだけで評価する事の愚かさ。それと、自分が天才だと思い込む、あるいは天才にコンプレックスを持つ事が、自分の能力を高める事になんら寄与しない、という所に気付いた。他人の存在を意識して自分を鼓舞する、なんてのは、ある程度はいいけど、それが行き過ぎると、自尊心肥大のコチコチの認識になるしねえ。そんな事考える暇があったら勉強しようよ、なんて。

一箇所だけ突っ込み。

そして測定とか計量とかいうものが、いかに信用ならないかということ。

信用ならないのは、測定とか計量とかの意味を知らず、調べもせずに、それを適当に使ってしまう、「人間」なのですね。それこそ、数量化の理論とかは、天才的な人達が考えてきた訳ですから(←余計な一文だなあ)。

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まだやってるのか、って感じ?

B型的生き方で楽になる(日刊ゲンダイ) - Yahoo!ニュース

この間、本屋に行ったら、B型がどうのこうのという本が、いくつか並んでいましたね。

あれかな。他の血液型の人も、B型的な性格をちょっと取り入れれば楽になれますぜ、という事か。

と言うか。

B型って、血液型の事じゃ無くて性格類型の事を言ってるんじゃいないか。という風にすら読める。書いてる事ぐちゃぐちゃじゃないか。

B型自分の説明書 Book B型自分の説明書

著者:Jamais Jamais
販売元:文芸社
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と、ここまでが、記事を読んでの感想。

amazonのレビューを見ると、なんだかネタが隠されている風でもありますね。Google ブック検索で読めるって書いてあったけど、今は読めないっぽい。ウケの良さそうな本ですねえ。

いずれにしても、こういう本が流行るのは、日本ならでは、なのでしょうね。血液型と性格に関連があるという説が浸透してる(信じる信じないは別にして)、って事なんだろうなあ。

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ちょっとずつずれて

杉山、クルム伊達の現役復帰に疑問「実際に若手が刺激受けるの?」(産経新聞) - Yahoo!ニュース

タイトルとか解釈がずれている気がしないでもない。

賞賛の声を挙げる一方で、「若手は若手で強くなりたい!うまくなりたい!と頑張ってやっているような気がするからね。これで刺激を受けてできるようなら、前からできてるような気がしないでもない」と辛口なコメントも。「やはり早過ぎた引退だったんでしょう。やり残していたこと、まだやりたい!という気持ちがあったんでしょうね。『若手に刺激を与えたい』ということですが、どうなんでしょうねー!?」といまひとつ納得がいかない様子だ。

素直に読めば、若手への苦言、とも読めるのだけれど、どうでしょう。伊達選手復帰が若手の鼓舞になるか、という所への疑問ではあるけれども、それが、「現役復帰に疑問」、となるのかな。よく解らない。

杉山さんのエントリー⇒復帰 杉山 愛・ツアーより愛をこめて/ウェブリブログ

「若手に刺激を与えたい」ということですが、どうなんでしょうねー!? このカンバックで実際に若手が刺激を受けるのかしら?と、ちょいと疑問です。だって若手は若手で強くなりたい!うまくなりたい!と頑張ってやっているような気がするからね。これで刺激を受けてできるようなら、前からできてるような気がしないでもない。

記事の要約とは、ちょっと感じが違うようにも思えますよね。

すっごい細かい事ですけど、なんとなーく、違和感を覚えたのでした。

どう思います?

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2008年5月 9日 (金)

「科学的に」

5/6のエントリー関連で色々考えていて、思い付いた事。前から何となく思っていた事ではあるのですが。

「科学的」という言葉、色々な見方が出来ますね。

たとえば、「科学的に認められない」、という言葉が、何を意味するか。科学というものが、現象を解明する方法と知識の体系である事を知っている人ならば、その言葉は、「科学の方法によって確認されていない」、「現在の知見からすると充分な根拠で否定出来る」、という意味で用いると思いますが、それを受け取る、科学的方法に疎い人は、「そのような現象そのものがあり得ない」と主張している、かのように捉えるのでしょうね。そういう所でも、ずれが出てくるのだと思います。

水伝の場合は、それが絶対にあり得ない事を断言する程度には、科学はものを解っている、と言えるでしょうし、血液型性格判断の場合には、それまでの科学の知見から考えて、あっても全然おかしく無い現象であるが、調査研究によってほぼ否定されている、という具合ですね。厳密に言えば、血液型と性格の間に強い連関があるという積極的な証拠は見出せなかった、という事ですが、言い回しとして、「科学的に間違っている」、と表現出来る。少なくとも、「強い連関がある」という主張に対しては、間違っていると確実に言える(それは、全く連関が無い、というのを意味しない。複雑ですねえ)。で、「科学的」という言葉に、もっと広い意味を持たせている人は、「絶対にあり得ない」と主張しているように誤解するのでしょう。だから、「まだ科学的には解明されていない事がある」、という反論が出てくるのですね。それは、的外れの反論な訳です。

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ずれる

訊いた事に答えて貰えず、訊いていない事について書かれると、がっくりきますね。誰もそんなの言って無いのに……という感じで。

ほんの少しずつ、論点がずれていって、結局噛み合わない。そして、どんどん拡散する訳ですね。

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2008年5月 8日 (木)

タイムアタック的な

MHP2Gのクエスト、「モンスターハンター」を、どれだけ早くクリア出来るか、チャレンジしてます。

条件は、

  • 近接武器
  • 全討伐
  • 攻撃・回復系キッチンスキル無し

あまり増やすのもあれなので、こんな感じで。

今の所の最高タイム↓

Mhp2g001_2

携帯で撮ったものなので、ちょっとぶれてますけど、24分58秒クリアです。

武器は、角王剣アーティラート。防具は、金色・真シリーズ一式。スキルは、集中・抜刀術・龍耐性+5・斬れ味レベル+1

アイテムは、調合書1~5、回復薬G、秘薬×2、護符と爪(力&守り)、シビレ罠、落とし穴、トラップツール×2、ネット×2、大タル爆弾G×2、活力剤×10、ケルビの角×10、閃光玉×5、光蟲×10、素材玉×30、鬼人薬(アルビノエキスが足りなかったので)、怪力の種、砥石

タイムは、(討伐時の残り時間。うろ憶えなので、大体)リオレウス:46分半、ティガレックス:41分、ナルガクルガ:32分、ラージャン:25分02秒

戦法は、

  • リオレウス:閃光玉→頭に溜め3。飛び上がって攻撃した後の降下時、頭に溜め3
  • ティガレックス:シビレ罠と閃光玉を拾っておく。シビレ罠を適当な所に仕掛ける。尻尾側で待ち、降りてきたら、尻尾に溜め3(はずした…)。しばらく気付かないので、尻尾に攻撃。シビレ罠に誘導して、掛かった瞬間に頭に当たるように、突進中に溜め3→薙ぎ払いor切り上げ→溜め3。後は、閃光玉を投げて、頭を攻撃。
  • ナルガクルガ:尻尾付近に大タル爆弾Gを仕掛ける。ティガレックスと同じく、降りてくる所の尻尾側で待って、溜め3→連続攻撃。適当に爆弾を爆発させる。閃光玉→音爆弾という手もありますが、私としては、使わない方が効率が良いように思いました。ハンマーだと縦3が入るので、使ってもいいかな。
  • ラージャン:適当な所にシビレ罠。間違えて、降下するポイントに置いてしまって、破壊された…。怒ったら落とし穴。3回使えば、間も無く討伐。

こんな感じです。回復薬と薬草を持っていかないのは、時間短縮のため。秘薬といにしえの秘薬を、惜しまずに使います。

25分は、まあまあの速さだと思います。なんか、20分を切る人もいる、という噂も聞きましたが、それはさすがに、火事場力+2が無いと厳しいように思います。火事場無しだったら、閃光玉後のリオレウスとティガレックスの行動が良ければ、ぎりぎりで切れるかもしれないけれど、かなり難しそう…。

火事場力+2、抜刀術、斬れ味レベル+1、というスキルなら、いけそうかな。付けられるか調べて無いけれど。

ハンマーでもやってみようかな。今まで適当にしかやってないから、35分前後しか出てないので、ちゃんとやってみるか…。

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2008年5月 7日 (水)

何故かと言うと

はてなブックマーク - なぜいつまでも水伝? - uumin3の日記

uumin3の日記:続・なぜいつまでも水伝?

ちょとよく解らないので、引用しつつ感想を。

 以下のような杜撰な実験には大した意味がないんだということは子供にもわかるのではないかと。

子どもどころか大人でさえ真面目に受け取る人がいる、という所が問題になっているように思います。それこそ、ブログ検索でもしてみれば、そこそこの数の人が肯定的に受け取っている事は、確認出来るかと。

 それから「よい言葉」をかける云々全般については、なぜ日本語に反応しているのか、というあたりで問いかけて見ればいいのではないでしょうか?

水伝は、どんな言語でも、良い意味を持つ言葉であれば水は反応する、という説明をしていますね。もちろん、それ自体無茶な設定なのですが、信ずる人はそれでも信ずるのであって…。

 そしてそれでもなお、という人が本当に今でも多いのかということについてはこれこそ検証しなければいけないことではないかとも考えます。

これは、よく出てくる事ですね。うーん、必ずしも、量的な所、つまり、「信じている人が多いから」、というのを批判の根拠にはしていないですね。教育現場に用いられた事、超有名芸能人がテレビで紹介した事、バラエティ番組で紹介された事、等が、かなり重視されていますね。それに、日本以外にも広く知れ渡っているようです。ところで、「多い」というのを、どのように評価するのでしょうね。推定をして、このくらい信じている、というのを調べる、って事なのかな。どのくらいいれば、「多い」と判定するのでしょうか。

 水伝本が売れたのはもう2、3年前の話。そして具体的な水伝を広めようとした事例も、もう1、2年前のものが多いのではないかという印象も受けました。

最近、江本氏の本が文庫化されましたね。講談社の。広めようとした事例が1・2年前のものが多い、と判断されるのが、よく解らないですね。今の方が少ないという判断は、どのようにしてなされたのでしょう。いや、まあ、印象と言っておられますけれど。

 で、その流行はどうなったかといえば、結局どれも数年で火が消えたように祀り捨てられているわけでして、もしかしたら水伝についてもその類のものではないかという感触がないではありません。

 あと1、2年も放っておけば、自然に消滅してしまうようなものではないかという印象が強いんですよ。それこそ何か陰謀的なものがない限り、私でしたらほとんど消えるほうに賭けたい話ですね。そういう妙な危惧(陰謀論につながりかねない不安みたいなもの)も批判なさる側に実はあるんじゃないかと思えたところもちょっと…ということなのでした。

まず後半。陰謀論に繋がりかねない、というのが何を指しているのか…。もしかして、玄倉川さんが書かれたような、ニセ科学を広める陰謀がある(というのを言い出す人が出てくる可能性)、的な話? 違うかな。ちょっと読み取れません。

前半に関しては、事前にそういう評価を行うのは難しいんじゃないかと。ゲーム脳も最初、ほっとけば消え去る、というように捉えられていましたよね。特に業界も動かなかったし。その結果がどうなったかは、まあ、言うまでも無い事です。ですから、放っておけば消える、という見立てには、ちょっと首を傾げてしまいます。

て言うか、水伝は、ここ2・3年で広まった訳ではありませんよね。批判活動が目立ってきたのがここ2・3年だ、という事なのでは。

水伝が採り上げられた事例としては、某ブクマ(カテゴリー:水伝)とかwiki(芸能人が紹介した例)が参考になるかと思います。

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教えてー

ロマサガ2に出てくる「七英雄」、なんて読むんですか?

私は「しちえいゆう」派。友人達は「ななえいゆう」派。

もう、十数年「しちえいゆう」だと思い込んできたので、「ななえいゆう」が正しいと言われても、違和感バリバリなのです。

オフィシャルな資料に答えは無いですかね。まさか、説明書に載ってたりして…。

ロマンシング サ・ガ2 オリジナル・サウンド・ヴァージョン Music ロマンシング サ・ガ2 オリジナル・サウンド・ヴァージョン

アーティスト:ゲーム・ミュージック
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2008年5月 6日 (火)

超酷評

(※ほんのちょっとネタバレ風です)「少林少女」はこんなにすごい! - かむかむごっくん

おお…。

これほどまでに罵倒されるとは、一体どれほどの作品なのであろうか。

めちゃくちゃ観たくなったんだけど…。

ビデオ出たら借りるかな。

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安心したい

はてなブックマーク - 臨時ブログ 「水伝を受け入れる人」=「自然科学を絶対視する人」

絶対視している、というより、都合の良い所に科学というものを持ち込みたがる、という感じかな、と。主張が先にあって、それを正当化すべく、「科学」を恣意的に利用する訳ですね。その実態は、科学でも何でも無かったりするのですが。

やっぱり、基本的な所で、科学に対する信頼は持っているのだと思います。明確なイメージは無くとも、自身の生活が科学技術に支えられている、という直観はあるのでしょう。だから、自分が信じている説に「科学的な裏づけ」があると「聞く(見る)”だけ”」で、「安心」するのだと考えられます。ゲームばかりやる子どもに手を焼いている人が、「ゲームで前頭前野の機能が低下する」、というのを聞いただけで安心(そして、新たに不安を感ずる)するように。

水伝を受け容れる人は、「言葉を絶対視したい」人、なんじゃないかな。そして、水伝を積極的に広める人は、「言葉を絶対視出来るように自然科学を利用する」人。

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2008年5月 5日 (月)

どっちか、じゃ無くて、どっちも

人間、いつ騙されるかわからない。自分は騙されないだろう、なんて考えてはいけませんね。

私、ずっと前に、友人と一緒に絵を見に行った事がありまして。

まあ、顛末はあんまり詳しくは書けませんけれど(私が絵を買った、というのは無いです)、あれです。シルクスクリーンをすっごく高く売る、ってやつです。

当時は絵画商法なんて知りませんし(て言うか、ごくごく最近知った)、数十万が相場と言われると、へえ、そういうもんか、と思う訳ですね。まあ、販売員?の巧みな事巧みな事。雰囲気に呑まれて、好きな人の絵だという先入観もあり、専門の人の言っている事だから信頼出来るのだろう、という心理を持つのですよね。

その頃は、ネットもほとんどやって無かったくらいだから(むしろ、ネットなんて危ないものだと思い込んで、避けていた)、特に調べようともしませんでした(悪マニなんて知ってるはず無い(笑) )。友人に付き合って行ったのだし、そもそも、不当に高額であるなんて、考えもしなかったのですねえ。私自身は、結構しつこく売りつけようとするものなんだなあ、とは思いましたが(疑りやすいのは前から)、まさか、金額そのものが妥当では無いなんて、ねえ…。

一緒に行った友人も私も、かなり懐疑的な人間だし、注意深く他人の言う事を聴く方ですが、それでも、気付かないのですよね。と言うか、あれは気付きようが無い。その部分に関しては、疑うなんて「微塵も」ありませんでした。後で調べると、なるほどなあ、と思えますけれどね。巧妙です。販売員は洗練された感じで、雰囲気の作り方、話術の上手さ等、なかなかのものです。

今ならね。WEBで色々調べて、適正価格はどんなものか、とか、どんな商法があるか、とか、色んな事を調べると思うんです。それは結局、「アンテナを向ける」という事だし、何かする前にワンクッション置く、という事でもあると。

ニセ科学にしても悪徳商法(こちらについての知識はほとんど持っていません)にしても、よく解らないものについては措いとく、というのが重要ですよね。でも、「よく解らないというのを”解る”」には、それなりに考えていなければならない訳です。実際、展示会に行った時の私は、絵がそもそも適正価格ですら無いなんて所は、ほとんど考える事すら出来なかったのですから。

なかなか気付けないんですよね、知識無いと。

だからね。

「知らせる事そのもの」も、重要なんだと思うんですよ。色々なパターンを示していく、というね。ちょっと調べたら情報が出てくる、という状況を作る事が。

科学や社会の基盤となる知識を蓄える事と、様々な具体的な事例を知る事。これ、両方大事なんじゃないかな。

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2008年5月 4日 (日)

科学信仰?

元々私が紹介した事なので、ちゃんと書きます。

文脈と問いかけ:Chromeplated Rat:So-net blog

そろそろ、科学信仰から目覚めませんか? - オレドコBlog

えっと、poohさんも書かれている通り、私が、poohさんの所に、「このエントリーも同じ話題に言及しているけれど、読んでも意味がよく解らない」、という風に紹介しました。端的に、「科学信仰」という意味、本文の趣旨が、ほぼ解らなかったのでした。

別のエントリーで、ご本人に説明を頂きましたが、それは理解出来なかったし、poohさんのエントリーのコメント欄にある、

統計的に因果関係があるらしき有意だとしたばあい、
トンデモ仮説でも科学的なの?と思うだけで。

この文なんかも、まるで解らなかったのでした。

うーん、Francisさんは多分、政策にしろ教育にしろ、それは実証科学的な知見を元にして進めるべきだ、と書かれたと思うのですが、oredocoさんが、それを敢えて「間違ってる」とする論拠が、解らなかった訳です。科学が価値観を生まないとか、そういう話では無いんじゃないかなあ。使うのはダメ、と言うほどの事でも無いと思いました。科学的が「自然科学的」だと読まれたとしても、別に構わないですよね。それを基礎にして考えていくべきである事に、変わりは無い訳で。

いずれにしても、本文の内容とタイトルがどう繋がるのか、よく理解出来ません。

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2008年5月 3日 (土)

新東京タワー

東京POWER - 『digital ひえたろう』 編集長の日記★雑記★備忘録を見て、そんな話があるのを初めて知りました。てっきり、新東京タワーで決まったかと…。

新東京タワー最終6案「どれもセンスない」 - OhmyNews:オーマイニュース

「エド・はるみがブレークしていることと、和英のマッチした感じが良いと思いました」(東京EDOタワー)

に吹いた。

以下、適当です。突っ込まないように。

「KATANA」でいいんじゃない? 「SAMURAI SWORD」とか。「SWORD TOWER」とかね(笑)

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違い

ニセ科学に関して、「呪術」という概念からアプローチされているエントリーがあって、はてブも結構ついていたり、poohさんが言及なさっていたりしますね(元々poohさんは、こっち方面のアプローチをよくされる)。それについて(分野としては、人類学とか民俗学とかになるのかな?)の知識が無い私は、読んで、なるほどなあ、と思います。

重要なのは、合理的・論理的であるからといって、即、それが科学的である訳では無い、という所かと思います。これは結構前から、何回か書いています。

Interdisciplinary: 科学的、合理的、論理的(他にもいくつか書いたはずだけれど、見つけるのが面倒…)

コメント欄に、「木を切ったら風が止むのでは」、という推論を子どもがした、というエピソードを書いていますが、これは、実に「合理的」な思考だったりする訳です。ですが、「科学的」では無い。それまでに実証的(実証という概念をどう考えるか、というのも、物凄く重要なトピックだと思いますけれど)に確認された知識と整合するか否か、という点を考えなければならないからですね。それぞれの分野が完全に独立している訳では全く無いのですから。

超能力捜査も水伝も、それなりに論理的ではあるのです。他の物事を無視すればね。

科学って、やっぱり優れているのですね。現象の構造を解明したり、予測や制御に応用したり、という目的を考えると、やはり、他の文化とは違う、と言っていいかと思います。それをまず認識するべきなんじゃないかな。

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2008年5月 2日 (金)

作り直す

痛いニュース(ノ∀`):「リメイクして欲しいゲームソフト」ランキング

希望。リメイクしたら別物になって意味無いじゃん、というツッコミはしないように。後、既にリメイクあるのも入ってるかも。

SA・GAシリーズ、FF VII・VIII、クロノトリガー、クロノクロス、飛龍の拳、ケルナグール、DQIII、オホーツクに消ゆ、イースIII(出まくってるけど)、武蔵伝、レリクス暗黒要塞(冗談です)、たけしの挑戦状をPS3で、初期のゼルダ、ソロモンの鍵、バルーンファイト、アイスクライマー

ゼノギアス、大人気ですね。私やって無いんですよ。

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2008年5月 1日 (木)

武器と化す言葉、壊される水:B面

物事には、色々な面があります。

調理器具である包丁は、人間を殺してしまう道具としても、使えてしまいます。

薬は、医者によって病気を治す手助けにも使われますが、身体に害を及ぼす物ともなります。麻薬なんかがそうですね。

「言葉が水に影響を与える」、という説があります。

水の入ったビンに声を掛ける、また、文字を書いたラベルを貼り付ける。そうした後にその水を凍らせれば、言葉に応じた結晶を形成する、という説です。良い言葉、たとえば「ありがとう」であれば美しい結晶が出来、「ばかやろう」という悪い言葉であれば、崩れた結晶が出来る、と主張されます。

この説を言い出した人、また、それを広めようとする人は言います。

良い言葉を用いれば、水は綺麗になる。だから、良い言葉を用いましょう、と。

つまり、言葉によって水が変わるのだから、多くの部分に水が含まれている人間にも良い言葉を掛ければ、好ましい結果になるに違い無い、という事ですね。

この説は、学校の道徳教育にも用いられるケースがあるといいます。「良い言葉を使わせよう」という目的のためにとても良い教材だ、と考えられているのでしょう。

ここでは、水が変化する、という前提があって、そこから、良い言葉を使わせるように促す、という「教育」の流れが想定されています。つまり、「いい言葉で水が綺麗になるんだから、普段きちんとした言葉遣いをしましょうね」、「乱暴な言葉では水が汚くなるから、使ってはいけませんよ」、というやり方です。

この説は、言葉が、物としての人間の身体に、直接的に影響を与える、というもので、「良い言葉は人間の身体を綺麗にする」、「悪い言葉は人間の身体を汚くする」、というのを、「喩え話では無く」主張している事になります。

AとB、2人の子どもがいる、と仮に考えてみます。

AとBはともに、水に言葉が影響を与える、という説を信じました。

Aは、良い(と社会の多くの人が考えている)言葉をどんどん使っていこう、と考えました。

Bは、自分が好きで無いと思っている人に対して使えるのではないか、と考えました。簡単に言うと、「他人を攻撃する道具」として理解した、という事です。

これは、物事の両面のどちらに光を当てるか、という違いです。でも、その違いは大きいのです。

Bのような考えを持った人が、Aのような人に対して「悪い」言葉を投げ掛けたらどうなるでしょうか。Aは、言葉が水に影響を与える、と信じている訳です。当然、良い言葉・悪い言葉、がどういうものかは、社会的に共通しているから、Bの投げ掛けた言葉は、Aにとっては「武器」として働きます。これは、普通に考えられる、「言葉で傷付く」、という話では無く、ちょっと次元が違います。水に言葉が影響を及ぼすから、水を含む、物としての人間にも影響を与えるだろう、という考えを持っているのですから、投げ掛けられた「悪い言葉」が自分の身体を直接壊してしまう、と思ってしまう可能性が考えられるのですね。

人間は、物事の片方の側面だけを見て、他の面には目が届かない事があります。

良い言葉は水を綺麗にするから良い言葉を用いましょう、というのは、人間が善意で動くという前提があるからこそ成り立つ理屈です。それは、人間が素朴であり、良いとされる事をそのまま受け容れる、という考えです。しかし、人間の心理がそのような単純なものでは無い事は、言うまでも無い事です。素朴であるからこそ、相手の心をちゃんと考えず、「無邪気」に言葉を投げ掛ける可能性があります。特に、「信じた程度」に差があった場合の事を考えてみると良いでしょう。片方は、言葉によって人間の身体が強く影響を受ける事を信じています。片方は、それほど本気で信じた訳では無く、「面白半分」で色々な言葉を投げ掛けます。さて、どのような事が起こり得るでしょうか。想像してみて下さい。

ここで採り上げた説は、昨今、ニセ科学(科学的に確認されたと言っているが、実はそうでは無いもの)であるとして批判されているものですが、それ以前に、言葉というものについての考え方としても、道徳的にも、大変に問題のある説なのです。素朴な言語観・人間観に基づいたこの説を道徳教育に用いるのは、誤っています。一見、寛容で善意に満ちた論であるようですが、その実は、言葉の特徴である「恣意性」(音や文字と意味が直接結び付いている訳では無いという性質)を無視して、言葉と意味が緊密に対応し、「”美しく無い”言葉を使うべきでは無い」という、極めて排他的・不寛容な主張なのですから。

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武器と化す言葉、壊される水

物事は悉く、両面的な価値を有している。

調理器具である包丁は、人間を殺害する道具としても機能し得る。

薬物は、医療に用いる事も出来れば、身体に重大な害を及ぼす物ともなる。

「言葉が水に影響を与える」、という説がある。

水の入ったビンに声を掛ける、また、文字を書いたラベルを貼り付ける。そうした後にその水を凍らせれば、言葉に応じた結晶を形成する、という説である。良い言葉、たとえば「ありがとう」であれば美しい結晶が出来、「ばかやろう」という悪い言葉であれば、崩れた結晶が出来る、と主張される。

この説を提唱した者、あるいは流布する者は言う。

良い言葉を用いれば、水は綺麗になる。従って、良い言葉を用いましょう、と。

即ち、言葉によって水が変わるのだから、大部分が水によって構成されている人間にも良い言葉を掛ければ、好ましい結果になるに違い無い、という事である。

この説は、学校の道徳教育にも用いられるケースがあるという。「良い言葉を使わせよう」という目的を達成するに恰好の教材である、と看做されているのであろう。

ここでは、水が変化する、という前提を置き、そこから、良い言葉を使わせるよう促す、という「教育」の流れが想定されている。つまり、「いい言葉で水が綺麗になるんだから、普段きちんとした言葉遣いをしましょうね」、「乱暴な言葉では水が汚くなるから、使ってはいけませんよ」、という説得の方法である。

この説は、言葉が実体としての人間の身体に、直接的に影響を与える、というものであり、「良い言葉は人間の身体を綺麗にする」、「悪い言葉は人間の身体を汚くする」、というのを、「比喩では無く」主張している事になる。

AとB、2人の子どもがいる、と仮定してみよう。

AとBはともに、水に言葉が影響を与える、という主張を信じた。

Aは、良い(と社会的なコンセンサスがある)言葉を積極的に用いようという意識を持った。

Bは、自分が好ましく無いと思っている人間に対して利用出来るのではないか、と認識した。端的に言えば、「他者と攻撃する道具」として認識した、という事である。

これは、物事の両面のどちらに光を当てるか、という違いである。しかし、その違いは大きい。

Bのような認識を持った者が、Aのような者に対して「悪い」言葉を投げ掛けたらどうなるであろうか。Aは、言葉が水に影響を与える、と信じている訳である。当然、良い言葉・悪い言葉、というのは、社会的にある程度共通しているから、Bの投げ掛けた言葉は、Aにとっては「武器」として機能する。これは、一般的に言う所の「言葉で傷付く」、という次元の話では無い。水に言葉が影響を及ぼすから、水を含む人間にも実体的に影響を与えるだろう、という認識を持っているのであるから、投げ掛けられた「悪い言葉」が自分の身体をダイレクトに破壊する、と認識する可能性が考えられるのである。

人間は、物事の片方の側面だけを見、他の面には目が届かない事がある。

良い言葉は水を綺麗にするから良い言葉を用いましょう、というのは、人間が善意で動くという前提があるからこそ成り立つ理屈である。それは、人間が素朴であり、良いとされる事をそのまま受け容れる、という論理だ。しかし、人間の心理がそのような単純なものでは無い事は、言うまでも無いだろう。素朴であるが故に、相手の心を忖度せず、「無邪気」に言葉を投げ掛ける可能性がある。特に、「信じた程度」に差があった場合の事を考えてみると良い。片方は、言葉によって人間の身体が強く影響を受ける事を信じている。片方は、それほど本気で信じた訳では無く、「面白半分」で色々な言葉を投げ掛ける。さて、どのような事が起こり得るであろうか。想像してみて頂きたい。

ここで採り上げた説は、昨今、ニセ科学(科学であるかのように主張されているが、実態が異なっているもの)であるとして批判されているものであるが、それ以前に、言葉というものについての考え方としても、道徳的にも、大変に問題のある説なのである。素朴な言語観・人間観に基づいたこの説を道徳教育に用いるのは、誤っている。一見、寛容で善意に満ちた論であるようだが、その実は、言語の特徴である恣意性を無視し、言葉と意味が緊密に対応し、「”美しく無い”言葉を使うべきでは無い」という、極めて排他的・不寛容な主張なのだから。

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