「遠当て実験」から考える
亀@渋研XさんとnewKamerさんに書き給へと指令を受けたので(嘘)、書いてみます。
まず、こちらを参照下さい⇒PSJ渋谷研究所X: 【種】ASIOS:気功で人を倒せるのか
簡単に要約すると、自称遠当て(離れている所から何らかのアクションを起こし、触れないままに相手を倒す技法)が出来るという人に、懐疑的な人が技を掛けさせるという「実験」を行った所、まったくビクともせず終わった、というエピソードについての話題です。
さて、この話題について、コメント欄で出たのが、
こういうケースで「この実験で、否定にしろ肯定にしろ、どこまでのことが言えるか」というのは、いい練習問題になると思って、そういう角度からの記事にしようと思っているうちに日が経ってしまいました。
「誤った二分法」の問題もあって、ついつい、これだけで一般化した「ある」「ない」の両極の答えのどちらかを言おうとするのが、ぬるいマスコミなどでよく見る記事ですよね。それがおかしいことは、すぐにわかる人も多いと思うのですが、じゃあそこから先は、というと、そこをうまくまとめられなくて。(亀@渋研Xさん)それから、ASIOSの基本路線は「批判」のスタンスはとらずに事実を提示する方向なんで、一事実から「結論」を導かれても困っちゃうのですけどね。でも、実際にそういう結論に行っちゃう人は多いですよね。
「この実験で、否定にしろ肯定にしろ、どこまでのことが言えるか」みたいなところは、是非ニセ科学批判方面の人に言及してもらいたいところ(トラックバックとかも)。(newKamerさん)
こういったご意見でした。つまり、自称遠当てが出来る人の所へ懐疑論者が行って技を掛けさせたら――という現象をどう解釈するべきか、どこまでの事が言えるか、という視点ですね。こういうエピソードがあると、たとえば、「掛からなかったんだから、あれはインチキだ」、とか、「あり得ない」とか言えるかどうか。それとも、「”あの”武道家はインチキだったのだ」、と言うか。どちらかに振れてしまいがちなのですよね。
しかし、物事を批判的に考える際には、きちんと丁寧に、対象を読み解かなければならない。何が言えて、何が言えないか。それをしっかり分析する必要があるでしょう。
と、前置きが長くなりましたが、このエピソードに関して、私なりの考察を書いてみたいと思います。
最初は、論点を整理してまとめようと思いましたが、それは止めて、思い付くままに書こうと思います。その方が流れを追いやすいかも知れない、と考えたので。
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さて、まず、「遠当て」という現象がいかなるものか、というのを考えていきたいと思います。
まず、観察される現象。つまり、「どう見える現象であるか」。取り敢えず、一対一の場合について考えます。
遠当てというのがどのような現象かというと、掛ける側と掛けられる側が離れていて、掛ける側が何らかのアクション(突きの動作をする。手をかざす。気合を掛ける、等)を起こした直後、「両者の身体接触が無い」にも拘らず、掛けられる側に、倒れ込む、後ろに転ぶ、膝から崩れる、等の動作が、「意識しないまま」に生起する現象、と説明する事が出来ます。
ここで重要なのは、「身体接触が無い」、「掛けられる側が意識していない」、という所です。つまり、「触れていない」のは、両者に力学的な関係が無い事を示し、「意識していない」というのは、「倒れようと考えていない」のを意味します。前者は、一般的な武術・スポーツにおける力学的な論理を排除し、後者は、「掛けられている者が”わざと”倒れたり飛んだりする」という条件を排除します。これをより簡単に言うと、「触れてないのに、何故か相手が倒れる」、「わざと倒れている訳では無いらしい」、といった所でしょう。
さて、次に、「現象を説明するメカニズム」について考えていきます。
上で示した現象を説明する論理は、いくつも考えられます。
- 何らかの暗示効果によって、力学的関係が無いにも拘らず、掛けられている側が意識していないのに倒れてしまう。
- 身体は接触していないが、何らかの物理作用が巧妙に働き、現象が生起している。
- 現代科学では見出されていない何らかの原理(たとえば、「気」)が働き、現象が起こる。それは、離れた所にあるものを動かす機能を持つ。
- そもそも、相手が倒れているのが「わざとでは無い」というのが虚偽である。すなわち、両者が協力してイカサマを行っている。
これらのようにです。(表面的には)同じ現象を説明するメカニズムについて、様々なものが考察出来るという事です。そして、このような現象を肯定する論者が、どのようなメカニズムを想定、あるいは主張しているか、という所が、重要なポイントです。
上に挙げた例の内、1と4は、これまでに解ってきた色々な分野(物理学や心理学等)と整合する主張です。つまり、離れているのに倒れるのは、何らかの心理作用、あるいは社会的なメカニズム(ここでは、イカサマがある、という事)によって現象が起こっているのである、というものです。
対して、2は、身体は接触していないが、遠隔的に相手を倒す事の出来る、何らかの物理的な作用が働いているのではないか、という仮説です。何とか磁気、の類ですね。3は、そもそも物理学等の論理では説明出来ない現象が起こっているという主張ですから、科学的な論理を否定し、当然、心理的な効果の可能性も排除し、技法の普遍性(たとえば、相手が全く知らなくても掛かる、等)を主張します。
このように見ていくと、「遠当てがあるか否か」、という単純な問題設定は出来ない、というのが理解されると思います。つまり、原理あるいはメカニズムに何を想定しているか、を考えなければ、お互いに異なる論理を想定し、ある/無い をぶつけ合う事になります。ですから、物理的にはそんな現象はあり得ない、だから「無い」と言っている人と、心理的メカニズムを想定して「ある」、と言っている人は、実は、「違う現象」について議論をしている、という事が起こり得る訳です。
ここまでを踏まえた上で、件の「実験」について考えていきましょう。
実験は、懐疑的な人が、自称「遠当て」が出来る人に技(技と呼べるか、というのは疑問ですが、取り敢えず、そう表現します)を掛けさせる、というものです。
この実験では、掛ける側と掛けられる側が協力している、という可能性は、排除されます。これは、「実験が失敗した」という結果から、明らかです。
では、上の1~3までの可能性が全て否定されるか、というと、それは出来ません。それが出来るのは、遠当てを出来ると主張する側が、「いかなる状況でも誰にでも絶対に掛ける事が出来る」、と言っている場合のみです。つまり、簡単に言うと、「調子が悪かった」、「上手く気が合わなかった」、「波動が良くなかった」、等の理由によって、「出来なかった」事を説明出来るのです。だから、1回や2回出来なかったからといって、全て否定する事は、論理的に無理な訳ですね。
尤も、「調子が悪かった」、等と理由付けするのは、「技法の普遍性」の無さを自ら認めてしまっている、という事が出来ます。遠当てを、非協力的、あるいは攻撃的な人間を制する技、すなわち「武術」と捉えるならば、技法の普遍性は重要な条件です。ですから、ここでも、「何を主張しているか」、という所を重視すべきです。主張している者が、「遠当てとは、攻撃的な相手を制圧出来る実用的な技法なのだ」、と言っている場合には、この実験で、その主張の信憑性は疑わしい、と考える事は出来るでしょう。
しかしながら、遠当てを出来ると言う者が、「相手に倒れる気が無いのに倒れてしまう」、という現象のみを主張しているとするならば、また別の考え方をしなければなりません。これは、「掛けられる側がわざとやっていない」という条件と、「身体が触れていない」という条件が満たされれば、成立するからです。
当然、現実的には、「遠当て」という武術的な技法を肯定しているので、上のような主張をする人間は、ほとんど存在しないものと思われますが、「遠当て」という現象の構造を丁寧に見ていくと、このように考える事は、論理的に出来ます。
暗示効果によって、倒れる気が無いにも拘らずに倒れてしまう、というのは、充分に考えられるものでしょう。懐疑的に捉えている人でも、その場の状況によっては、倒れる可能性は、あるかも知れません(それで、懐疑的な見方から転向する可能性もある)。これは推測ですが、件の実験で、「舌の位置」や「足の親指」を動かせば掛からない、と言っているのは、意図的かそうで無いかは判りませんが、それが心理的な効果だと自ら認めている、と考える事も出来ます(もちろん、舌が動けば気の流れが変わる、等の説明も可能)。
さて、術者が実は、暗示効果だと認めているのではないか、という可能性は措いておいて、そのようなメカニズムでは無く、「気」(物理を超越したり、現代科学とは矛盾するような概念として)によって倒れるのだ、等の主張をしている人が、件の実験を知ったらどう考えるか。
たとえば、次のような説明が考えられるでしょう。
「あの術者は本物では無い。本当の達人であれば、あの懐疑論者も、なす術も無く倒れるはずである。」
論理的には、いくらでも、このような言い逃れは可能です。現象が無い事を証明するのは出来ないからです。もちろん、現代の科学の知見からは、接触していないのに、心理的なメカニズムによらずあの現象が起こる、というのは、ほぼ否定出来る、と言って良いでしょう。しかし当然、肯定者は、そもそもそういう部分を否定する所があるので、それは説得力を持ちません。
もし、心理効果を排除しても現象が成立する、というのを主張するのであれば、そう主張する側に、立証の責任があります。そうで無ければ、否定するのは、出来ると言っている人を全て探し出してやらせてみて、出来ない事を確認しなければならないからです(厳密には、それも不充分。出来ると思って無い人が出来る、という可能性すら考えられるから)。それは当然不可能です(人間は、どんどん生まれる)。※だから、否定と言っても、「そのような現象は絶対にあり得ない」と断言する事は、厳密には出来ない。あり得ないと言い切って良いような現象ではあるけれど、それは文脈にもよるし、また別の話題です。
従って、件の実験から言えるのは、両者の協力関係を排除した条件では、遠当ては成功しなかった、だから、当該実験での術者は、遠当てを極めて高い確率(ここも、色々考える事は出来る。高い確率とはどのくらいか、等)で成功させる事は証明されなかった。しかし、遠当てという現象そのものが実験で否定されたとは言えない。それ(心理効果を排除した遠当て)は、現代科学の知見からは、無いとほぼ主張出来るとはいえ、完全に無いと断言する事は不可能であるから、傍証の一つとして捉えるのが妥当である、という所でしょうか。極めて慎重かつ丁寧に見ていけば、そのように考えられます。
心理効果を排除した条件で遠当てが出来るか、という実験を考えると、掛けられる側が、「(遠当ての)実験に参加している事すら知らない」という条件は、必須です。当然、実験環境に、懐疑的な人間が含まれている事も必要です。事は、現代科学を否定するような現象の確認なのだから、極めて精密に行われなければなりません。もちろん、そのような実験を行い、肯定的な結果が出たとしても、そういう結果がある程度再現される必要もあります。それを回避するために、「その技術が可能な本物は、世界に数人しか存在しない」、等の説明が考えられますが、それは、少なくとも、技法の普遍性を自ら否定する、という態度です。
少々長くなりましたが、「遠当て」は存在するか、という、一見単純な問いであっても、このように細かく考える事が出来ます。物事を「ある無し」で考えるのは難しいし、現象をきちんと分析し、定義をして、そこから実験なり観察なり、あるいは、理論的な考察なりを行う事が、肝要です。
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