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2008年5月に作成された記事

「遠当て実験」から考える

亀@渋研XさんとnewKamerさんに書き給へと指令を受けたので(嘘)、書いてみます。

まず、こちらを参照下さい⇒PSJ渋谷研究所X: 【種】ASIOS:気功で人を倒せるのか

簡単に要約すると、自称遠当て(離れている所から何らかのアクションを起こし、触れないままに相手を倒す技法)が出来るという人に、懐疑的な人が技を掛けさせるという「実験」を行った所、まったくビクともせず終わった、というエピソードについての話題です。

さて、この話題について、コメント欄で出たのが、

こういうケースで「この実験で、否定にしろ肯定にしろ、どこまでのことが言えるか」というのは、いい練習問題になると思って、そういう角度からの記事にしようと思っているうちに日が経ってしまいました。

「誤った二分法」の問題もあって、ついつい、これだけで一般化した「ある」「ない」の両極の答えのどちらかを言おうとするのが、ぬるいマスコミなどでよく見る記事ですよね。それがおかしいことは、すぐにわかる人も多いと思うのですが、じゃあそこから先は、というと、そこをうまくまとめられなくて。(亀@渋研Xさん)

それから、ASIOSの基本路線は「批判」のスタンスはとらずに事実を提示する方向なんで、一事実から「結論」を導かれても困っちゃうのですけどね。でも、実際にそういう結論に行っちゃう人は多いですよね。
 「この実験で、否定にしろ肯定にしろ、どこまでのことが言えるか」みたいなところは、是非ニセ科学批判方面の人に言及してもらいたいところ(トラックバックとかも)。(newKamerさん)

こういったご意見でした。つまり、自称遠当てが出来る人の所へ懐疑論者が行って技を掛けさせたら――という現象をどう解釈するべきか、どこまでの事が言えるか、という視点ですね。こういうエピソードがあると、たとえば、「掛からなかったんだから、あれはインチキだ」、とか、「あり得ない」とか言えるかどうか。それとも、「”あの”武道家はインチキだったのだ」、と言うか。どちらかに振れてしまいがちなのですよね。

しかし、物事を批判的に考える際には、きちんと丁寧に、対象を読み解かなければならない。何が言えて、何が言えないか。それをしっかり分析する必要があるでしょう。

と、前置きが長くなりましたが、このエピソードに関して、私なりの考察を書いてみたいと思います。

最初は、論点を整理してまとめようと思いましたが、それは止めて、思い付くままに書こうと思います。その方が流れを追いやすいかも知れない、と考えたので。

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さて、まず、「遠当て」という現象がいかなるものか、というのを考えていきたいと思います。

まず、観察される現象。つまり、「どう見える現象であるか」。取り敢えず、一対一の場合について考えます。

遠当てというのがどのような現象かというと、掛ける側と掛けられる側が離れていて、掛ける側が何らかのアクション(突きの動作をする。手をかざす。気合を掛ける、等)を起こした直後、「両者の身体接触が無い」にも拘らず、掛けられる側に、倒れ込む、後ろに転ぶ、膝から崩れる、等の動作が、「意識しないまま」に生起する現象、と説明する事が出来ます。

ここで重要なのは、「身体接触が無い」、「掛けられる側が意識していない」、という所です。つまり、「触れていない」のは、両者に力学的な関係が無い事を示し、「意識していない」というのは、「倒れようと考えていない」のを意味します。前者は、一般的な武術・スポーツにおける力学的な論理を排除し、後者は、「掛けられている者が”わざと”倒れたり飛んだりする」という条件を排除します。これをより簡単に言うと、「触れてないのに、何故か相手が倒れる」、「わざと倒れている訳では無いらしい」、といった所でしょう。

さて、次に、「現象を説明するメカニズム」について考えていきます。

上で示した現象を説明する論理は、いくつも考えられます。

  1. 何らかの暗示効果によって、力学的関係が無いにも拘らず、掛けられている側が意識していないのに倒れてしまう。
  2. 身体は接触していないが、何らかの物理作用が巧妙に働き、現象が生起している。
  3. 現代科学では見出されていない何らかの原理(たとえば、「気」)が働き、現象が起こる。それは、離れた所にあるものを動かす機能を持つ。
  4. そもそも、相手が倒れているのが「わざとでは無い」というのが虚偽である。すなわち、両者が協力してイカサマを行っている。

これらのようにです。(表面的には)同じ現象を説明するメカニズムについて、様々なものが考察出来るという事です。そして、このような現象を肯定する論者が、どのようなメカニズムを想定、あるいは主張しているか、という所が、重要なポイントです。

上に挙げた例の内、1と4は、これまでに解ってきた色々な分野(物理学や心理学等)と整合する主張です。つまり、離れているのに倒れるのは、何らかの心理作用、あるいは社会的なメカニズム(ここでは、イカサマがある、という事)によって現象が起こっているのである、というものです。

対して、2は、身体は接触していないが、遠隔的に相手を倒す事の出来る、何らかの物理的な作用が働いているのではないか、という仮説です。何とか磁気、の類ですね。3は、そもそも物理学等の論理では説明出来ない現象が起こっているという主張ですから、科学的な論理を否定し、当然、心理的な効果の可能性も排除し、技法の普遍性(たとえば、相手が全く知らなくても掛かる、等)を主張します。

このように見ていくと、「遠当てがあるか否か」、という単純な問題設定は出来ない、というのが理解されると思います。つまり、原理あるいはメカニズムに何を想定しているか、を考えなければ、お互いに異なる論理を想定し、ある/無い をぶつけ合う事になります。ですから、物理的にはそんな現象はあり得ない、だから「無い」と言っている人と、心理的メカニズムを想定して「ある」、と言っている人は、実は、「違う現象」について議論をしている、という事が起こり得る訳です。

ここまでを踏まえた上で、件の「実験」について考えていきましょう。

実験は、懐疑的な人が、自称「遠当て」が出来る人に技(技と呼べるか、というのは疑問ですが、取り敢えず、そう表現します)を掛けさせる、というものです。

この実験では、掛ける側と掛けられる側が協力している、という可能性は、排除されます。これは、「実験が失敗した」という結果から、明らかです。

では、上の1~3までの可能性が全て否定されるか、というと、それは出来ません。それが出来るのは、遠当てを出来ると主張する側が、「いかなる状況でも誰にでも絶対に掛ける事が出来る」、と言っている場合のみです。つまり、簡単に言うと、「調子が悪かった」、「上手く気が合わなかった」、「波動が良くなかった」、等の理由によって、「出来なかった」事を説明出来るのです。だから、1回や2回出来なかったからといって、全て否定する事は、論理的に無理な訳ですね。

尤も、「調子が悪かった」、等と理由付けするのは、「技法の普遍性」の無さを自ら認めてしまっている、という事が出来ます。遠当てを、非協力的、あるいは攻撃的な人間を制する技、すなわち「武術」と捉えるならば、技法の普遍性は重要な条件です。ですから、ここでも、「何を主張しているか」、という所を重視すべきです。主張している者が、「遠当てとは、攻撃的な相手を制圧出来る実用的な技法なのだ」、と言っている場合には、この実験で、その主張の信憑性は疑わしい、と考える事は出来るでしょう。

しかしながら、遠当てを出来ると言う者が、「相手に倒れる気が無いのに倒れてしまう」、という現象のみを主張しているとするならば、また別の考え方をしなければなりません。これは、「掛けられる側がわざとやっていない」という条件と、「身体が触れていない」という条件が満たされれば、成立するからです。

当然、現実的には、「遠当て」という武術的な技法を肯定しているので、上のような主張をする人間は、ほとんど存在しないものと思われますが、「遠当て」という現象の構造を丁寧に見ていくと、このように考える事は、論理的に出来ます。

暗示効果によって、倒れる気が無いにも拘らずに倒れてしまう、というのは、充分に考えられるものでしょう。懐疑的に捉えている人でも、その場の状況によっては、倒れる可能性は、あるかも知れません(それで、懐疑的な見方から転向する可能性もある)。これは推測ですが、件の実験で、「舌の位置」や「足の親指」を動かせば掛からない、と言っているのは、意図的かそうで無いかは判りませんが、それが心理的な効果だと自ら認めている、と考える事も出来ます(もちろん、舌が動けば気の流れが変わる、等の説明も可能)。

さて、術者が実は、暗示効果だと認めているのではないか、という可能性は措いておいて、そのようなメカニズムでは無く、「気」(物理を超越したり、現代科学とは矛盾するような概念として)によって倒れるのだ、等の主張をしている人が、件の実験を知ったらどう考えるか。

たとえば、次のような説明が考えられるでしょう。

「あの術者は本物では無い。本当の達人であれば、あの懐疑論者も、なす術も無く倒れるはずである。」

論理的には、いくらでも、このような言い逃れは可能です。現象が無い事を証明するのは出来ないからです。もちろん、現代の科学の知見からは、接触していないのに、心理的なメカニズムによらずあの現象が起こる、というのは、ほぼ否定出来る、と言って良いでしょう。しかし当然、肯定者は、そもそもそういう部分を否定する所があるので、それは説得力を持ちません。

もし、心理効果を排除しても現象が成立する、というのを主張するのであれば、そう主張する側に、立証の責任があります。そうで無ければ、否定するのは、出来ると言っている人を全て探し出してやらせてみて、出来ない事を確認しなければならないからです(厳密には、それも不充分。出来ると思って無い人が出来る、という可能性すら考えられるから)。それは当然不可能です(人間は、どんどん生まれる)。※だから、否定と言っても、「そのような現象は絶対にあり得ない」と断言する事は、厳密には出来ない。あり得ないと言い切って良いような現象ではあるけれど、それは文脈にもよるし、また別の話題です。

従って、件の実験から言えるのは、両者の協力関係を排除した条件では、遠当ては成功しなかった、だから、当該実験での術者は、遠当てを極めて高い確率(ここも、色々考える事は出来る。高い確率とはどのくらいか、等)で成功させる事は証明されなかった。しかし、遠当てという現象そのものが実験で否定されたとは言えない。それ(心理効果を排除した遠当て)は、現代科学の知見からは、無いとほぼ主張出来るとはいえ、完全に無いと断言する事は不可能であるから、傍証の一つとして捉えるのが妥当である、という所でしょうか。極めて慎重かつ丁寧に見ていけば、そのように考えられます。

心理効果を排除した条件で遠当てが出来るか、という実験を考えると、掛けられる側が、「(遠当ての)実験に参加している事すら知らない」という条件は、必須です。当然、実験環境に、懐疑的な人間が含まれている事も必要です。事は、現代科学を否定するような現象の確認なのだから、極めて精密に行われなければなりません。もちろん、そのような実験を行い、肯定的な結果が出たとしても、そういう結果がある程度再現される必要もあります。それを回避するために、「その技術が可能な本物は、世界に数人しか存在しない」、等の説明が考えられますが、それは、少なくとも、技法の普遍性を自ら否定する、という態度です。

少々長くなりましたが、「遠当て」は存在するか、という、一見単純な問いであっても、このように細かく考える事が出来ます。物事を「ある無し」で考えるのは難しいし、現象をきちんと分析し、定義をして、そこから実験なり観察なり、あるいは、理論的な考察なりを行う事が、肝要です。

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きれーなにほんご

きれいな日本語意識高まる 旺文社の小中高校生調査 - MSN産経ニュース

そりゃあ、綺麗な方が良いかどうか、と訊かれれば、肯定するんじゃないか。見事な誘導に見えるけど。「きれいな日本語でなくともよい」、という訊き方とか。こういう場合に、「何を訊かれているか解らない」から答えない、なんてのは、私みたいなへそ曲がりくらいでしょう。
しかも、検定を受ける人達は、平均よりも言葉の用い方について関心が高い、という推測も出来ますね。

「きれいな日本語を話していると思う」という質問に「はい」と答える人がいるんだね。驚き。言葉について意識が高い人は、要求水準が上がるから、肯定しないんじゃないかな。肯定する人は、余程の自信家なのか…。

それからね。
言いたい事が伝わるかどうかは、言葉の選択の仕方と相互作用してるんじゃないの?

「歌が巧ければ、声が良くなくても構わない」、という質問みたいだ。

旺文社のニュースリリース(PDF)⇒~旺文社「第5 回ことばに関するアンケート」集計結果~
小・中・高校生 約10,000 人が回答 「きれいな日本語を使おう」 意欲高まる

こういう性質のアンケートで、経年の割合の変化を単純に比較して、意味があるのかなあ。

って、

あなたは、日本語が乱れていない方が、言いたいことを相手にきちんと伝えられると思いますか?

こういう質問もちゃんとあるのね。て言うか、Q4とQ5が…。Q5は、「乱れていない」なんだね。ややこしい。「乱れている」という概念は、直前の質問にある「きれい」の反対なんだよね? ここで言う「乱れていない」と「きれい」は、同じ意味なの?

あなたが日本のことをまったく知らない外国人に、一つのことば(一語)で日本を紹介するとしたら、
どんなことばを使いますか? あなたが日本をイメージすると思うことばを、一つだけ挙げてください。

全く知らない人に、一語で紹介するのは不可能です。富士山とかなんとか、それで説明するのは、相手が日本を知っている、って事じゃないですか。まず日本行きのチケットを渡すべきだ。

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直感に合わせる

Interdisciplinary: 安心したいの補足。

臨時ブログ 魔法少女・水伝子(みずでんこ)に書いた自分のコメントをこちらにも。

今晩は。

「言葉を絶対視したい」、ちょっと説明が足りなかったかも知れませんね。

えっと、たとえば、「正しい日本語」を強調する人がいますよね。最近変化してきた日本語の言い回しを否定し、由来等を重視する、という。
そういうのは、ある固定した言語観がある訳ですね。こういう言葉にはこういう意味が込められていて…とか、「元々意味と違っているからダメだ」、というように。

水伝の主唱者や肯定する人には、それ(言葉と意味の対応。あるいは、言葉の持つ機能、とでも言いましょうか)が普遍的なものである、と思いたい、絶対的な真理だと思いたい、という認識があるのだと思います。
で、ある程度科学的知識が普及している社会に住んでいる人は、自然科学的な論理が普遍的である事そのものは、直感的であるにしろ、それなりに受け容れているものだと考えられます(それは、学校教育等によるものでしょう)。従って、自分達が信じたい「言葉の正しさ、普遍性」を、「自然の振る舞い」によって根拠付けようとしたのだ、と私は考えています。
簡単に言うと、「好きなものが」「正しいもの」であれば嬉しい、という事ですよね。正しいものを見抜ける自分は正しい、という風に、自尊心を満足させる事も出来ますし。

水伝の本に書いてあるのですが、特定の宗教の神の名を書いてビンに貼ったら水が綺麗になる、というのもあります。結局、初めに言葉を善悪に振り分ける先入観があって、それに合うように、「実験」を適当にもってきたのですよね。

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水伝などというものは、本来、自然科学的に考える前に、言語論的な難問をクリアしなければいけない訳ですが、結構、そこら辺が見逃されるのですよね。

これは、ゲーム脳なんかにも通ずる論理。と言うか、直感に合うように都合良く事実を解釈・あるいは曲げる、というのは、一般的にあるのでしょうね。

ゲーム脳の場合は、ゲームが何となく嫌い、ゲームをやっている人に違和感がある、気持ちが悪い、等々の直感を正当化するために、「ゲームをやると脳にダメージが与えられる」、という論理を利用した訳ですね。私やあなたの直感は、事実だったのですよ、と考えたいのです。それで、科学は事実を明らかにするものだ、という程度の認識は、大部分の人が持っているだろうから、そこに付け込むのですね。聴く人は、方法について詳しい訳じゃ無いですから、元々先入観がある人は、信じる。

逆に、「直感に合わないから」否定する、というのもあると思います。私の場合だと、血液型性格判断は、直感的に、間違っていると思いました。つまり、周りを観察したり、自分の血液型が当てられない、という経験から一般化したのですね。で、それはそれで、全然ダメなのです。信じるのと同じ。

たとえば、もし、「ゲームが暴力性を高める事が明らかになった」、というのを見聞きした時にどう考えるか。それが科学的に(←使っちゃいました)妥当だと認められている方法によって確認されたものならば、受け容れるしか無い。それが直感に反していてもね。そういうものです。※この場合だと、暴力性という概念をどう捉えるか、なんて論点もありそうですが、それは措いときます。

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タイムアタック的な2

火事場で挑んでみたら、やはり、手数が少なくなるなあ。近接だと、物凄く減る。却って遅くなってしまう。

うーん。火事場無しで、ナルガクルガ討伐まで15分切るんだけど、得意なラージャンで、8分くらい掛かる。速い人は5分くらいで終わるのになあ。まあ、動き次第で、結構バラツキが出てくるけれど(欲張ってスタンプ入れようとすると、空振りになる事がある。溜め2にするという手もあるけど)。

火事場無しで20分は、ギリギリって所か。

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TENSAI

天才コンプレックス - shi3zの日記

これはすっごい面白いね。一気に読んでしまった。

え、私?

10代後半くらいから21・2歳までにかけて、自分は天才だと思ってました(笑) それが馬鹿な間違いだと気付いたのは、24・5かな。結構早かったのか。その時感じたのは、自分が生活してきた狭い空間での位置付けだけで評価する事の愚かさ。それと、自分が天才だと思い込む、あるいは天才にコンプレックスを持つ事が、自分の能力を高める事になんら寄与しない、という所に気付いた。他人の存在を意識して自分を鼓舞する、なんてのは、ある程度はいいけど、それが行き過ぎると、自尊心肥大のコチコチの認識になるしねえ。そんな事考える暇があったら勉強しようよ、なんて。

一箇所だけ突っ込み。

そして測定とか計量とかいうものが、いかに信用ならないかということ。

信用ならないのは、測定とか計量とかの意味を知らず、調べもせずに、それを適当に使ってしまう、「人間」なのですね。それこそ、数量化の理論とかは、天才的な人達が考えてきた訳ですから(←余計な一文だなあ)。

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まだやってるのか、って感じ?

B型的生き方で楽になる(日刊ゲンダイ) - Yahoo!ニュース

この間、本屋に行ったら、B型がどうのこうのという本が、いくつか並んでいましたね。

あれかな。他の血液型の人も、B型的な性格をちょっと取り入れれば楽になれますぜ、という事か。

と言うか。

B型って、血液型の事じゃ無くて性格類型の事を言ってるんじゃいないか。という風にすら読める。書いてる事ぐちゃぐちゃじゃないか。

B型自分の説明書 Book B型自分の説明書

著者:Jamais Jamais
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と、ここまでが、記事を読んでの感想。

amazonのレビューを見ると、なんだかネタが隠されている風でもありますね。Google ブック検索で読めるって書いてあったけど、今は読めないっぽい。ウケの良さそうな本ですねえ。

いずれにしても、こういう本が流行るのは、日本ならでは、なのでしょうね。血液型と性格に関連があるという説が浸透してる(信じる信じないは別にして)、って事なんだろうなあ。

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ちょっとずつずれて

杉山、クルム伊達の現役復帰に疑問「実際に若手が刺激受けるの?」(産経新聞) - Yahoo!ニュース

タイトルとか解釈がずれている気がしないでもない。

賞賛の声を挙げる一方で、「若手は若手で強くなりたい!うまくなりたい!と頑張ってやっているような気がするからね。これで刺激を受けてできるようなら、前からできてるような気がしないでもない」と辛口なコメントも。「やはり早過ぎた引退だったんでしょう。やり残していたこと、まだやりたい!という気持ちがあったんでしょうね。『若手に刺激を与えたい』ということですが、どうなんでしょうねー!?」といまひとつ納得がいかない様子だ。

素直に読めば、若手への苦言、とも読めるのだけれど、どうでしょう。伊達選手復帰が若手の鼓舞になるか、という所への疑問ではあるけれども、それが、「現役復帰に疑問」、となるのかな。よく解らない。

杉山さんのエントリー⇒復帰 杉山 愛・ツアーより愛をこめて/ウェブリブログ

「若手に刺激を与えたい」ということですが、どうなんでしょうねー!? このカンバックで実際に若手が刺激を受けるのかしら?と、ちょいと疑問です。だって若手は若手で強くなりたい!うまくなりたい!と頑張ってやっているような気がするからね。これで刺激を受けてできるようなら、前からできてるような気がしないでもない。

記事の要約とは、ちょっと感じが違うようにも思えますよね。

すっごい細かい事ですけど、なんとなーく、違和感を覚えたのでした。

どう思います?

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「科学的に」

5/6のエントリー関連で色々考えていて、思い付いた事。前から何となく思っていた事ではあるのですが。

「科学的」という言葉、色々な見方が出来ますね。

たとえば、「科学的に認められない」、という言葉が、何を意味するか。科学というものが、現象を解明する方法と知識の体系である事を知っている人ならば、その言葉は、「科学の方法によって確認されていない」、「現在の知見からすると充分な根拠で否定出来る」、という意味で用いると思いますが、それを受け取る、科学的方法に疎い人は、「そのような現象そのものがあり得ない」と主張している、かのように捉えるのでしょうね。そういう所でも、ずれが出てくるのだと思います。

水伝の場合は、それが絶対にあり得ない事を断言する程度には、科学はものを解っている、と言えるでしょうし、血液型性格判断の場合には、それまでの科学の知見から考えて、あっても全然おかしく無い現象であるが、調査研究によってほぼ否定されている、という具合ですね。厳密に言えば、血液型と性格の間に強い連関があるという積極的な証拠は見出せなかった、という事ですが、言い回しとして、「科学的に間違っている」、と表現出来る。少なくとも、「強い連関がある」という主張に対しては、間違っていると確実に言える(それは、全く連関が無い、というのを意味しない。複雑ですねえ)。で、「科学的」という言葉に、もっと広い意味を持たせている人は、「絶対にあり得ない」と主張しているように誤解するのでしょう。だから、「まだ科学的には解明されていない事がある」、という反論が出てくるのですね。それは、的外れの反論な訳です。

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ずれる

訊いた事に答えて貰えず、訊いていない事について書かれると、がっくりきますね。誰もそんなの言って無いのに……という感じで。

ほんの少しずつ、論点がずれていって、結局噛み合わない。そして、どんどん拡散する訳ですね。

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タイムアタック的な

MHP2Gのクエスト、「モンスターハンター」を、どれだけ早くクリア出来るか、チャレンジしてます。

条件は、

  • 近接武器
  • 全討伐
  • 攻撃・回復系キッチンスキル無し

あまり増やすのもあれなので、こんな感じで。

今の所の最高タイム↓

Mhp2g001_2

携帯で撮ったものなので、ちょっとぶれてますけど、24分58秒クリアです。

武器は、角王剣アーティラート。防具は、金色・真シリーズ一式。スキルは、集中・抜刀術・龍耐性+5・斬れ味レベル+1

アイテムは、調合書1~5、回復薬G、秘薬×2、護符と爪(力&守り)、シビレ罠、落とし穴、トラップツール×2、ネット×2、大タル爆弾G×2、活力剤×10、ケルビの角×10、閃光玉×5、光蟲×10、素材玉×30、鬼人薬(アルビノエキスが足りなかったので)、怪力の種、砥石

タイムは、(討伐時の残り時間。うろ憶えなので、大体)リオレウス:46分半、ティガレックス:41分、ナルガクルガ:32分、ラージャン:25分02秒

戦法は、

  • リオレウス:閃光玉→頭に溜め3。飛び上がって攻撃した後の降下時、頭に溜め3
  • ティガレックス:シビレ罠と閃光玉を拾っておく。シビレ罠を適当な所に仕掛ける。尻尾側で待ち、降りてきたら、尻尾に溜め3(はずした…)。しばらく気付かないので、尻尾に攻撃。シビレ罠に誘導して、掛かった瞬間に頭に当たるように、突進中に溜め3→薙ぎ払いor切り上げ→溜め3。後は、閃光玉を投げて、頭を攻撃。
  • ナルガクルガ:尻尾付近に大タル爆弾Gを仕掛ける。ティガレックスと同じく、降りてくる所の尻尾側で待って、溜め3→連続攻撃。適当に爆弾を爆発させる。閃光玉→音爆弾という手もありますが、私としては、使わない方が効率が良いように思いました。ハンマーだと縦3が入るので、使ってもいいかな。
  • ラージャン:適当な所にシビレ罠。間違えて、降下するポイントに置いてしまって、破壊された…。怒ったら落とし穴。3回使えば、間も無く討伐。

こんな感じです。回復薬と薬草を持っていかないのは、時間短縮のため。秘薬といにしえの秘薬を、惜しまずに使います。

25分は、まあまあの速さだと思います。なんか、20分を切る人もいる、という噂も聞きましたが、それはさすがに、火事場力+2が無いと厳しいように思います。火事場無しだったら、閃光玉後のリオレウスとティガレックスの行動が良ければ、ぎりぎりで切れるかもしれないけれど、かなり難しそう…。

火事場力+2、抜刀術、斬れ味レベル+1、というスキルなら、いけそうかな。付けられるか調べて無いけれど。

ハンマーでもやってみようかな。今まで適当にしかやってないから、35分前後しか出てないので、ちゃんとやってみるか…。

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何故かと言うと

はてなブックマーク - なぜいつまでも水伝? - uumin3の日記

uumin3の日記:続・なぜいつまでも水伝?

ちょとよく解らないので、引用しつつ感想を。

 以下のような杜撰な実験には大した意味がないんだということは子供にもわかるのではないかと。

子どもどころか大人でさえ真面目に受け取る人がいる、という所が問題になっているように思います。それこそ、ブログ検索でもしてみれば、そこそこの数の人が肯定的に受け取っている事は、確認出来るかと。

 それから「よい言葉」をかける云々全般については、なぜ日本語に反応しているのか、というあたりで問いかけて見ればいいのではないでしょうか?

水伝は、どんな言語でも、良い意味を持つ言葉であれば水は反応する、という説明をしていますね。もちろん、それ自体無茶な設定なのですが、信ずる人はそれでも信ずるのであって…。

 そしてそれでもなお、という人が本当に今でも多いのかということについてはこれこそ検証しなければいけないことではないかとも考えます。

これは、よく出てくる事ですね。うーん、必ずしも、量的な所、つまり、「信じている人が多いから」、というのを批判の根拠にはしていないですね。教育現場に用いられた事、超有名芸能人がテレビで紹介した事、バラエティ番組で紹介された事、等が、かなり重視されていますね。それに、日本以外にも広く知れ渡っているようです。ところで、「多い」というのを、どのように評価するのでしょうね。推定をして、このくらい信じている、というのを調べる、って事なのかな。どのくらいいれば、「多い」と判定するのでしょうか。

 水伝本が売れたのはもう2、3年前の話。そして具体的な水伝を広めようとした事例も、もう1、2年前のものが多いのではないかという印象も受けました。

最近、江本氏の本が文庫化されましたね。講談社の。広めようとした事例が1・2年前のものが多い、と判断されるのが、よく解らないですね。今の方が少ないという判断は、どのようにしてなされたのでしょう。いや、まあ、印象と言っておられますけれど。

 で、その流行はどうなったかといえば、結局どれも数年で火が消えたように祀り捨てられているわけでして、もしかしたら水伝についてもその類のものではないかという感触がないではありません。

 あと1、2年も放っておけば、自然に消滅してしまうようなものではないかという印象が強いんですよ。それこそ何か陰謀的なものがない限り、私でしたらほとんど消えるほうに賭けたい話ですね。そういう妙な危惧(陰謀論につながりかねない不安みたいなもの)も批判なさる側に実はあるんじゃないかと思えたところもちょっと…ということなのでした。

まず後半。陰謀論に繋がりかねない、というのが何を指しているのか…。もしかして、玄倉川さんが書かれたような、ニセ科学を広める陰謀がある(というのを言い出す人が出てくる可能性)、的な話? 違うかな。ちょっと読み取れません。

前半に関しては、事前にそういう評価を行うのは難しいんじゃないかと。ゲーム脳も最初、ほっとけば消え去る、というように捉えられていましたよね。特に業界も動かなかったし。その結果がどうなったかは、まあ、言うまでも無い事です。ですから、放っておけば消える、という見立てには、ちょっと首を傾げてしまいます。

て言うか、水伝は、ここ2・3年で広まった訳ではありませんよね。批判活動が目立ってきたのがここ2・3年だ、という事なのでは。

水伝が採り上げられた事例としては、某ブクマ(カテゴリー:水伝)とかwiki(芸能人が紹介した例)が参考になるかと思います。

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教えてー

ロマサガ2に出てくる「七英雄」、なんて読むんですか?

私は「しちえいゆう」派。友人達は「ななえいゆう」派。

もう、十数年「しちえいゆう」だと思い込んできたので、「ななえいゆう」が正しいと言われても、違和感バリバリなのです。

オフィシャルな資料に答えは無いですかね。まさか、説明書に載ってたりして…。

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超酷評

(※ほんのちょっとネタバレ風です)「少林少女」はこんなにすごい! - かむかむごっくん

おお…。

これほどまでに罵倒されるとは、一体どれほどの作品なのであろうか。

めちゃくちゃ観たくなったんだけど…。

ビデオ出たら借りるかな。

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安心したい

はてなブックマーク - 臨時ブログ 「水伝を受け入れる人」=「自然科学を絶対視する人」

絶対視している、というより、都合の良い所に科学というものを持ち込みたがる、という感じかな、と。主張が先にあって、それを正当化すべく、「科学」を恣意的に利用する訳ですね。その実態は、科学でも何でも無かったりするのですが。

やっぱり、基本的な所で、科学に対する信頼は持っているのだと思います。明確なイメージは無くとも、自身の生活が科学技術に支えられている、という直観はあるのでしょう。だから、自分が信じている説に「科学的な裏づけ」があると「聞く(見る)”だけ”」で、「安心」するのだと考えられます。ゲームばかりやる子どもに手を焼いている人が、「ゲームで前頭前野の機能が低下する」、というのを聞いただけで安心(そして、新たに不安を感ずる)するように。

水伝を受け容れる人は、「言葉を絶対視したい」人、なんじゃないかな。そして、水伝を積極的に広める人は、「言葉を絶対視出来るように自然科学を利用する」人。

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どっちか、じゃ無くて、どっちも

人間、いつ騙されるかわからない。自分は騙されないだろう、なんて考えてはいけませんね。

私、ずっと前に、友人と一緒に絵を見に行った事がありまして。

まあ、顛末はあんまり詳しくは書けませんけれど(私が絵を買った、というのは無いです)、あれです。シルクスクリーンをすっごく高く売る、ってやつです。

当時は絵画商法なんて知りませんし(て言うか、ごくごく最近知った)、数十万が相場と言われると、へえ、そういうもんか、と思う訳ですね。まあ、販売員?の巧みな事巧みな事。雰囲気に呑まれて、好きな人の絵だという先入観もあり、専門の人の言っている事だから信頼出来るのだろう、という心理を持つのですよね。

その頃は、ネットもほとんどやって無かったくらいだから(むしろ、ネットなんて危ないものだと思い込んで、避けていた)、特に調べようともしませんでした(悪マニなんて知ってるはず無い(笑) )。友人に付き合って行ったのだし、そもそも、不当に高額であるなんて、考えもしなかったのですねえ。私自身は、結構しつこく売りつけようとするものなんだなあ、とは思いましたが(疑りやすいのは前から)、まさか、金額そのものが妥当では無いなんて、ねえ…。

一緒に行った友人も私も、かなり懐疑的な人間だし、注意深く他人の言う事を聴く方ですが、それでも、気付かないのですよね。と言うか、あれは気付きようが無い。その部分に関しては、疑うなんて「微塵も」ありませんでした。後で調べると、なるほどなあ、と思えますけれどね。巧妙です。販売員は洗練された感じで、雰囲気の作り方、話術の上手さ等、なかなかのものです。

今ならね。WEBで色々調べて、適正価格はどんなものか、とか、どんな商法があるか、とか、色んな事を調べると思うんです。それは結局、「アンテナを向ける」という事だし、何かする前にワンクッション置く、という事でもあると。

ニセ科学にしても悪徳商法(こちらについての知識はほとんど持っていません)にしても、よく解らないものについては措いとく、というのが重要ですよね。でも、「よく解らないというのを”解る”」には、それなりに考えていなければならない訳です。実際、展示会に行った時の私は、絵がそもそも適正価格ですら無いなんて所は、ほとんど考える事すら出来なかったのですから。

なかなか気付けないんですよね、知識無いと。

だからね。

「知らせる事そのもの」も、重要なんだと思うんですよ。色々なパターンを示していく、というね。ちょっと調べたら情報が出てくる、という状況を作る事が。

科学や社会の基盤となる知識を蓄える事と、様々な具体的な事例を知る事。これ、両方大事なんじゃないかな。

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科学信仰?

元々私が紹介した事なので、ちゃんと書きます。

文脈と問いかけ:Chromeplated Rat:So-net blog

そろそろ、科学信仰から目覚めませんか? - オレドコBlog

えっと、poohさんも書かれている通り、私が、poohさんの所に、「このエントリーも同じ話題に言及しているけれど、読んでも意味がよく解らない」、という風に紹介しました。端的に、「科学信仰」という意味、本文の趣旨が、ほぼ解らなかったのでした。

別のエントリーで、ご本人に説明を頂きましたが、それは理解出来なかったし、poohさんのエントリーのコメント欄にある、

統計的に因果関係があるらしき有意だとしたばあい、
トンデモ仮説でも科学的なの?と思うだけで。

この文なんかも、まるで解らなかったのでした。

うーん、Francisさんは多分、政策にしろ教育にしろ、それは実証科学的な知見を元にして進めるべきだ、と書かれたと思うのですが、oredocoさんが、それを敢えて「間違ってる」とする論拠が、解らなかった訳です。科学が価値観を生まないとか、そういう話では無いんじゃないかなあ。使うのはダメ、と言うほどの事でも無いと思いました。科学的が「自然科学的」だと読まれたとしても、別に構わないですよね。それを基礎にして考えていくべきである事に、変わりは無い訳で。

いずれにしても、本文の内容とタイトルがどう繋がるのか、よく理解出来ません。

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新東京タワー

東京POWER - 『digital ひえたろう』 編集長の日記★雑記★備忘録を見て、そんな話があるのを初めて知りました。てっきり、新東京タワーで決まったかと…。

新東京タワー最終6案「どれもセンスない」 - OhmyNews:オーマイニュース

「エド・はるみがブレークしていることと、和英のマッチした感じが良いと思いました」(東京EDOタワー)

に吹いた。

以下、適当です。突っ込まないように。

「KATANA」でいいんじゃない? 「SAMURAI SWORD」とか。「SWORD TOWER」とかね(笑)

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違い

ニセ科学に関して、「呪術」という概念からアプローチされているエントリーがあって、はてブも結構ついていたり、poohさんが言及なさっていたりしますね(元々poohさんは、こっち方面のアプローチをよくされる)。それについて(分野としては、人類学とか民俗学とかになるのかな?)の知識が無い私は、読んで、なるほどなあ、と思います。

重要なのは、合理的・論理的であるからといって、即、それが科学的である訳では無い、という所かと思います。これは結構前から、何回か書いています。

Interdisciplinary: 科学的、合理的、論理的(他にもいくつか書いたはずだけれど、見つけるのが面倒…)

コメント欄に、「木を切ったら風が止むのでは」、という推論を子どもがした、というエピソードを書いていますが、これは、実に「合理的」な思考だったりする訳です。ですが、「科学的」では無い。それまでに実証的(実証という概念をどう考えるか、というのも、物凄く重要なトピックだと思いますけれど)に確認された知識と整合するか否か、という点を考えなければならないからですね。それぞれの分野が完全に独立している訳では全く無いのですから。

超能力捜査も水伝も、それなりに論理的ではあるのです。他の物事を無視すればね。

科学って、やっぱり優れているのですね。現象の構造を解明したり、予測や制御に応用したり、という目的を考えると、やはり、他の文化とは違う、と言っていいかと思います。それをまず認識するべきなんじゃないかな。

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作り直す

痛いニュース(ノ∀`):「リメイクして欲しいゲームソフト」ランキング

希望。リメイクしたら別物になって意味無いじゃん、というツッコミはしないように。後、既にリメイクあるのも入ってるかも。

SA・GAシリーズ、FF VII・VIII、クロノトリガー、クロノクロス、飛龍の拳、ケルナグール、DQIII、オホーツクに消ゆ、イースIII(出まくってるけど)、武蔵伝、レリクス暗黒要塞(冗談です)、たけしの挑戦状をPS3で、初期のゼルダ、ソロモンの鍵、バルーンファイト、アイスクライマー

ゼノギアス、大人気ですね。私やって無いんですよ。

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武器と化す言葉、壊される水:B面

物事には、色々な面があります。

調理器具である包丁は、人間を殺してしまう道具としても、使えてしまいます。

薬は、医者によって病気を治す手助けにも使われますが、身体に害を及ぼす物ともなります。麻薬なんかがそうですね。

「言葉が水に影響を与える」、という説があります。

水の入ったビンに声を掛ける、また、文字を書いたラベルを貼り付ける。そうした後にその水を凍らせれば、言葉に応じた結晶を形成する、という説です。良い言葉、たとえば「ありがとう」であれば美しい結晶が出来、「ばかやろう」という悪い言葉であれば、崩れた結晶が出来る、と主張されます。

この説を言い出した人、また、それを広めようとする人は言います。

良い言葉を用いれば、水は綺麗になる。だから、良い言葉を用いましょう、と。

つまり、言葉によって水が変わるのだから、多くの部分に水が含まれている人間にも良い言葉を掛ければ、好ましい結果になるに違い無い、という事ですね。

この説は、学校の道徳教育にも用いられるケースがあるといいます。「良い言葉を使わせよう」という目的のためにとても良い教材だ、と考えられているのでしょう。

ここでは、水が変化する、という前提があって、そこから、良い言葉を使わせるように促す、という「教育」の流れが想定されています。つまり、「いい言葉で水が綺麗になるんだから、普段きちんとした言葉遣いをしましょうね」、「乱暴な言葉では水が汚くなるから、使ってはいけませんよ」、というやり方です。

この説は、言葉が、物としての人間の身体に、直接的に影響を与える、というもので、「良い言葉は人間の身体を綺麗にする」、「悪い言葉は人間の身体を汚くする」、というのを、「喩え話では無く」主張している事になります。

AとB、2人の子どもがいる、と仮に考えてみます。

AとBはともに、水に言葉が影響を与える、という説を信じました。

Aは、良い(と社会の多くの人が考えている)言葉をどんどん使っていこう、と考えました。

Bは、自分が好きで無いと思っている人に対して使えるのではないか、と考えました。簡単に言うと、「他人を攻撃する道具」として理解した、という事です。

これは、物事の両面のどちらに光を当てるか、という違いです。でも、その違いは大きいのです。

Bのような考えを持った人が、Aのような人に対して「悪い」言葉を投げ掛けたらどうなるでしょうか。Aは、言葉が水に影響を与える、と信じている訳です。当然、良い言葉・悪い言葉、がどういうものかは、社会的に共通しているから、Bの投げ掛けた言葉は、Aにとっては「武器」として働きます。これは、普通に考えられる、「言葉で傷付く」、という話では無く、ちょっと次元が違います。水に言葉が影響を及ぼすから、水を含む、物としての人間にも影響を与えるだろう、という考えを持っているのですから、投げ掛けられた「悪い言葉」が自分の身体を直接壊してしまう、と思ってしまう可能性が考えられるのですね。

人間は、物事の片方の側面だけを見て、他の面には目が届かない事があります。

良い言葉は水を綺麗にするから良い言葉を用いましょう、というのは、人間が善意で動くという前提があるからこそ成り立つ理屈です。それは、人間が素朴であり、良いとされる事をそのまま受け容れる、という考えです。しかし、人間の心理がそのような単純なものでは無い事は、言うまでも無い事です。素朴であるからこそ、相手の心をちゃんと考えず、「無邪気」に言葉を投げ掛ける可能性があります。特に、「信じた程度」に差があった場合の事を考えてみると良いでしょう。片方は、言葉によって人間の身体が強く影響を受ける事を信じています。片方は、それほど本気で信じた訳では無く、「面白半分」で色々な言葉を投げ掛けます。さて、どのような事が起こり得るでしょうか。想像してみて下さい。

ここで採り上げた説は、昨今、ニセ科学(科学的に確認されたと言っているが、実はそうでは無いもの)であるとして批判されているものですが、それ以前に、言葉というものについての考え方としても、道徳的にも、大変に問題のある説なのです。素朴な言語観・人間観に基づいたこの説を道徳教育に用いるのは、誤っています。一見、寛容で善意に満ちた論であるようですが、その実は、言葉の特徴である「恣意性」(音や文字と意味が直接結び付いている訳では無いという性質)を無視して、言葉と意味が緊密に対応し、「”美しく無い”言葉を使うべきでは無い」という、極めて排他的・不寛容な主張なのですから。

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武器と化す言葉、壊される水

物事は悉く、両面的な価値を有している。

調理器具である包丁は、人間を殺害する道具としても機能し得る。

薬物は、医療に用いる事も出来れば、身体に重大な害を及ぼす物ともなる。

「言葉が水に影響を与える」、という説がある。

水の入ったビンに声を掛ける、また、文字を書いたラベルを貼り付ける。そうした後にその水を凍らせれば、言葉に応じた結晶を形成する、という説である。良い言葉、たとえば「ありがとう」であれば美しい結晶が出来、「ばかやろう」という悪い言葉であれば、崩れた結晶が出来る、と主張される。

この説を提唱した者、あるいは流布する者は言う。

良い言葉を用いれば、水は綺麗になる。従って、良い言葉を用いましょう、と。

即ち、言葉によって水が変わるのだから、大部分が水によって構成されている人間にも良い言葉を掛ければ、好ましい結果になるに違い無い、という事である。

この説は、学校の道徳教育にも用いられるケースがあるという。「良い言葉を使わせよう」という目的を達成するに恰好の教材である、と看做されているのであろう。

ここでは、水が変化する、という前提を置き、そこから、良い言葉を使わせるよう促す、という「教育」の流れが想定されている。つまり、「いい言葉で水が綺麗になるんだから、普段きちんとした言葉遣いをしましょうね」、「乱暴な言葉では水が汚くなるから、使ってはいけませんよ」、という説得の方法である。

この説は、言葉が実体としての人間の身体に、直接的に影響を与える、というものであり、「良い言葉は人間の身体を綺麗にする」、「悪い言葉は人間の身体を汚くする」、というのを、「比喩では無く」主張している事になる。

AとB、2人の子どもがいる、と仮定してみよう。

AとBはともに、水に言葉が影響を与える、という主張を信じた。

Aは、良い(と社会的なコンセンサスがある)言葉を積極的に用いようという意識を持った。

Bは、自分が好ましく無いと思っている人間に対して利用出来るのではないか、と認識した。端的に言えば、「他者と攻撃する道具」として認識した、という事である。

これは、物事の両面のどちらに光を当てるか、という違いである。しかし、その違いは大きい。

Bのような認識を持った者が、Aのような者に対して「悪い」言葉を投げ掛けたらどうなるであろうか。Aは、言葉が水に影響を与える、と信じている訳である。当然、良い言葉・悪い言葉、というのは、社会的にある程度共通しているから、Bの投げ掛けた言葉は、Aにとっては「武器」として機能する。これは、一般的に言う所の「言葉で傷付く」、という次元の話では無い。水に言葉が影響を及ぼすから、水を含む人間にも実体的に影響を与えるだろう、という認識を持っているのであるから、投げ掛けられた「悪い言葉」が自分の身体をダイレクトに破壊する、と認識する可能性が考えられるのである。

人間は、物事の片方の側面だけを見、他の面には目が届かない事がある。

良い言葉は水を綺麗にするから良い言葉を用いましょう、というのは、人間が善意で動くという前提があるからこそ成り立つ理屈である。それは、人間が素朴であり、良いとされる事をそのまま受け容れる、という論理だ。しかし、人間の心理がそのような単純なものでは無い事は、言うまでも無いだろう。素朴であるが故に、相手の心を忖度せず、「無邪気」に言葉を投げ掛ける可能性がある。特に、「信じた程度」に差があった場合の事を考えてみると良い。片方は、言葉によって人間の身体が強く影響を受ける事を信じている。片方は、それほど本気で信じた訳では無く、「面白半分」で色々な言葉を投げ掛ける。さて、どのような事が起こり得るであろうか。想像してみて頂きたい。

ここで採り上げた説は、昨今、ニセ科学(科学であるかのように主張されているが、実態が異なっているもの)であるとして批判されているものであるが、それ以前に、言葉というものについての考え方としても、道徳的にも、大変に問題のある説なのである。素朴な言語観・人間観に基づいたこの説を道徳教育に用いるのは、誤っている。一見、寛容で善意に満ちた論であるようだが、その実は、言語の特徴である恣意性を無視し、言葉と意味が緊密に対応し、「”美しく無い”言葉を使うべきでは無い」という、極めて排他的・不寛容な主張なのだから。

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