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2008年5月 1日 (木)

武器と化す言葉、壊される水:B面

物事には、色々な面があります。

調理器具である包丁は、人間を殺してしまう道具としても、使えてしまいます。

薬は、医者によって病気を治す手助けにも使われますが、身体に害を及ぼす物ともなります。麻薬なんかがそうですね。

「言葉が水に影響を与える」、という説があります。

水の入ったビンに声を掛ける、また、文字を書いたラベルを貼り付ける。そうした後にその水を凍らせれば、言葉に応じた結晶を形成する、という説です。良い言葉、たとえば「ありがとう」であれば美しい結晶が出来、「ばかやろう」という悪い言葉であれば、崩れた結晶が出来る、と主張されます。

この説を言い出した人、また、それを広めようとする人は言います。

良い言葉を用いれば、水は綺麗になる。だから、良い言葉を用いましょう、と。

つまり、言葉によって水が変わるのだから、多くの部分に水が含まれている人間にも良い言葉を掛ければ、好ましい結果になるに違い無い、という事ですね。

この説は、学校の道徳教育にも用いられるケースがあるといいます。「良い言葉を使わせよう」という目的のためにとても良い教材だ、と考えられているのでしょう。

ここでは、水が変化する、という前提があって、そこから、良い言葉を使わせるように促す、という「教育」の流れが想定されています。つまり、「いい言葉で水が綺麗になるんだから、普段きちんとした言葉遣いをしましょうね」、「乱暴な言葉では水が汚くなるから、使ってはいけませんよ」、というやり方です。

この説は、言葉が、物としての人間の身体に、直接的に影響を与える、というもので、「良い言葉は人間の身体を綺麗にする」、「悪い言葉は人間の身体を汚くする」、というのを、「喩え話では無く」主張している事になります。

AとB、2人の子どもがいる、と仮に考えてみます。

AとBはともに、水に言葉が影響を与える、という説を信じました。

Aは、良い(と社会の多くの人が考えている)言葉をどんどん使っていこう、と考えました。

Bは、自分が好きで無いと思っている人に対して使えるのではないか、と考えました。簡単に言うと、「他人を攻撃する道具」として理解した、という事です。

これは、物事の両面のどちらに光を当てるか、という違いです。でも、その違いは大きいのです。

Bのような考えを持った人が、Aのような人に対して「悪い」言葉を投げ掛けたらどうなるでしょうか。Aは、言葉が水に影響を与える、と信じている訳です。当然、良い言葉・悪い言葉、がどういうものかは、社会的に共通しているから、Bの投げ掛けた言葉は、Aにとっては「武器」として働きます。これは、普通に考えられる、「言葉で傷付く」、という話では無く、ちょっと次元が違います。水に言葉が影響を及ぼすから、水を含む、物としての人間にも影響を与えるだろう、という考えを持っているのですから、投げ掛けられた「悪い言葉」が自分の身体を直接壊してしまう、と思ってしまう可能性が考えられるのですね。

人間は、物事の片方の側面だけを見て、他の面には目が届かない事があります。

良い言葉は水を綺麗にするから良い言葉を用いましょう、というのは、人間が善意で動くという前提があるからこそ成り立つ理屈です。それは、人間が素朴であり、良いとされる事をそのまま受け容れる、という考えです。しかし、人間の心理がそのような単純なものでは無い事は、言うまでも無い事です。素朴であるからこそ、相手の心をちゃんと考えず、「無邪気」に言葉を投げ掛ける可能性があります。特に、「信じた程度」に差があった場合の事を考えてみると良いでしょう。片方は、言葉によって人間の身体が強く影響を受ける事を信じています。片方は、それほど本気で信じた訳では無く、「面白半分」で色々な言葉を投げ掛けます。さて、どのような事が起こり得るでしょうか。想像してみて下さい。

ここで採り上げた説は、昨今、ニセ科学(科学的に確認されたと言っているが、実はそうでは無いもの)であるとして批判されているものですが、それ以前に、言葉というものについての考え方としても、道徳的にも、大変に問題のある説なのです。素朴な言語観・人間観に基づいたこの説を道徳教育に用いるのは、誤っています。一見、寛容で善意に満ちた論であるようですが、その実は、言葉の特徴である「恣意性」(音や文字と意味が直接結び付いている訳では無いという性質)を無視して、言葉と意味が緊密に対応し、「”美しく無い”言葉を使うべきでは無い」という、極めて排他的・不寛容な主張なのですから。

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「社会論」カテゴリの記事

コメント

おはようございます。
水伝の理屈は簡単に言うと、

1.きれいなものは良い。
  人に危害を加えるのは悪い。
2A.きれいな言葉を使えば、水の結晶はきれいになる。
  汚い言葉を使えば、人に(物理的に)危害を与える。
3.故に、きれいな言葉を使いましょう。

結局1.という道徳観が前提であって、1.の根拠には全然なっていないのですね。正しければ3.の根拠にはなるけど。

もし、
2B.汚い言葉を使えばきれいな結晶になる
だったら、汚い言葉を使いましょうということになるんだけどいいのかなと思ってしまいます。そして、現実には2Bはいくらでも観察出来るわけです。
ね。(もちろん因果関係があるわけではなく、水伝レベルの偶然の現象ですが)

物理現象と言葉を結びつけるとどんなに不自由で大変なことになるかと言うことが分かっていないのだなあと。

投稿: zorori | 2008年5月 1日 (木) 07:59

> Bの投げ掛けた言葉は、Aにとっては「武器」として働きます。

 おそらく、これには「その武器は自分にも影響を及ぼす」という反論(恣意的ないいわけ)が用意されてて、表面上辻褄を合わせることができるのだと思います。

 別に私が考え出したわけではなく、水伝と同じベクトルである、脳内麻薬を使った道徳教育では、そのような話になっていたもので。TOSSの「脳内革命」を使った道徳教育の例です。
http://homepage1.nifty.com/inoue-tugu/kenji2.htm

投稿: newKamer | 2008年5月 1日 (木) 10:00

zororiさん、今日は。

多分、ごく表面的にしか見ていないのでしょうね。良い言葉を使えば水が綺麗になると「何となく思う」、という。もちろん、その程度の信じ方であれば、それほど深刻にはならない、とも言えます。だけれど、水伝というのは、どれくらい信じさせるか、というのがキモなので、半信半疑の人にはそもそも効かない。だから、教育効果としてはほとんど意味が無いのですよね。もちろん、強く信じたらどういう事が起きるか、というのは本文に書いた通りなので、どちらにしてもダメ、という事なのだと思います。

------

newKamerさん、今日は。

こういう種類の言説を正当化するために用いられる論法ですよね。例:http://www.ne.jp/asahi/aquarius/messenger/books_002.htm
▼▼▼引用▼▼▼
人が言葉を発すれば、それを最初に受け取るのは「自分自身」です。
それが良い言葉であれ、悪い言葉であれ、自分の発した言葉は、まずは耳に聞こえ、
そして、全身に響き渡ります。人間の体の70パーセントは水です。言葉を発すれば、
「水の結晶」みたいに、言葉のエネルギーが体に刻まれることになるかもしれません。

良い言葉であれ、悪い言葉であれ、すべては自分に返ってきます。
他人には聞こえないような小声でも、自分の耳には確実に届きます。
もしそれが人の悪口、暴力的な言葉であれば、それも自分の体に刻まれることになる。
そうなれば、良い事は起きないでしょう。気をつけたいものです。
▲▲引用終了▲▲
ここでは、私が書いた、”「信じた程度」に差があった場合”というのがポイントになるかと思います。つまり、信じなかった人が信じた人に「悪い言葉」を投げ掛ける可能性ですね。
もしかすると、「耳を塞ぎながら言えば」自分には害は無い、というのを考え付くかも知れませんしね。もちろん、耳を塞いでも身体に直接影響するんだよ、という説明がなされるかも知れません。いずれにしても、そういうめちゃくちゃな説明が、アド・ホックに繰り返されるでしょうね。

そもそも、水伝自体が、無理矢理で矛盾だらけな論法なので、それをどうにでも都合良く解釈し直す事が出来るのでしょうね。
水伝を素朴に受け容れる人は、子どもの知恵とか悪意を舐めていると思います。

投稿: TAKESAN | 2008年5月 1日 (木) 11:47

少し疑問があるのですが、これと一つ前のエントリーを書かれた意図としては、水伝批判のまとめというところにポイントがあるのか、その伝え方、つまり具体的な書きようのところにポイントがあるのか、ちょっと掴めませんでした。

最初は先日話題になった「ニセ科学批判をする方へのお願い」の連続上にある表現の問題を実演されたのかなとも思ったのですが、その観点だと言葉遣いが易しくて詳細な例示が加わっているという違いですから、増田さんの「お願い」と直接繋がる話でもないかな、と思いますし。

TAKESANさんのほうでも、どちらにウェイトを置いて論を進めたいのか明言されていないので、ちょっとどうレスを入れたものなのか悩んでしまいました。

投稿: 黒猫亭 | 2008年5月 2日 (金) 06:14

黒猫亭さん、今日は。

言葉遣いを替えたら「印象」が変わるだろう、というのを考えて、書いてみました。だ・である調を です・ます調に替えるだけで、文章の構成は全く同じでも、見え方が変わるのではないか、と考えた次第です。

そもそもは、水伝批判を、「科学の話としてでは無く」書こうと思ったのですね。ニセ科学ではあるけれども、まず道徳的・言語論的におかしいものである事を指摘する。ですから、カテゴリーは科学論ではありません。
文体を替えたのは、後から考え付いたものでした。

▼▼▼引用▼▼▼
TAKESANさんのほうでも、どちらにウェイトを置いて論を進めたいのか明言されていないので
▲▲引用終了▲▲
B面には、文体の違いによる印象の異なりなどの感想を頂ければありがたいですね。最初に考えたのは、前のエントリーには水伝批判としての感想、B面には書き方を違えた事についての感想、が書かれるといいな、なんて。

投稿: TAKESAN | 2008年5月 2日 (金) 11:30

>TAKESANさん

ああ、やはりそういうことでしたか。では、一応繋がり上、こちらのほうにご意見を。

そうですねぇ、です・ます体に替えたこと自体はそれほどの違いはないかな、と思います。文体それ自体は伝えたい相手やTPOの問題に依存しますので、一概にどちらのほうが伝わりやすいということでもないのかな、と。まあ、一般的にです・ます体のほうが「上から目線」という印象を和らげるとは思いますが、逆に丁寧な言い方をしたほうが「上から目線」に感ずる人もいるでしょうし、ちょっと難しい問題ですね。

寧ろ語尾や体裁の問題よりも、説明のロジックに依存する問題のような気がします。同じ筋道を同じロジックで説明するということになると、多少言い方を替えてもそんなに変わらないかもしれないというふうに思いますが、何処を強調するのかとか、実感的な部分をどの程度訴えるのかとか、比喩をどう用いるのかという部分で違ってくることなのかなと思います。

そういう意味では、例の「お願い」はよく出来ていて、要望を全部満たすのは原理的に不可能だと思いますが、欲しいものが逐条的に挙げられていますのえ、どれとどれを組み合わせてどういうニーズを狙うのかという部分で参考になるかな、と思います。

投稿: 黒猫亭 | 2008年5月 2日 (金) 13:15

文体を替えたのは、上にも書いたように、「印象」が変わるのではないか、と考えての事でした。仰るように、で・ある調だと上からものを言っているように思えますし、です・ます調であれば、柔らかい印象と与えると思います。
もちろん、です・ます調であっても、それが柔らかい印象を与えるとは限らないのですね。

なので、両方書いてみた訳ですね。書き方を替えてみたものを両方示す事で、文体などは本質「では無い」のを示そうと思いました。しかし、本質では無い所が重要なファクタでもあるので、その微妙な違いも示せればな、と。
読む人は、「何で2つ書いたんだ?」と引っ掛かるでしょうから、そこを狙ってみました。

本来、文体が異なれば、構成も変わるのが普通ですが、敢えて、構成は全く同じのまま文体だけを替えてみました。初めから、無理をしているのですよね(笑) まあ、ある意味実験です。

一般的に、常体は、堅苦しく説得を目的とする文で、敬体は、柔らかく共感を促す文、となるのでしょうね(見る側の印象として)。ただ、文がどのように読まれるか、というのは、読み手の環境にも大きく左右されるので、こう書くべきだ、とは一概に言えない。そんな事を考えて書いたのでした。

投稿: TAKESAN | 2008年5月 2日 (金) 13:38

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