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2008年4月16日 (水)

ニセ科学批判のあり方

2008-04-12 - 理系兼業主婦日記:科学、ニセ科学、グレーゾーンについて

こちらを読みまして、コメントを入れようとしたら……長文自重>自分

という訳で、こちらに書いて、TBを送ります。引用文とか、コメント欄で書いたそのままです。

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初めまして。

大変興味深く拝読いたしました。

kikulogの当該エントリー、確かに、どういう事を議論しているのか、等が解りにくくなっている所がありますよね。深く考えると、抽象的な議論に踏み込まざるを得ないとは思うのですが、具体的な物事と結びつけて考察していくのが大切である、とも考えます。

「業界化」(きちんと意味が掴めていないかも知れませんが、ご容赦下さい)、という部分に関してですが。
多分、ある程度社会に認知され、同調する人が増えてくると、そういう印象が持たれる、というのは避けられない事なのだと思います。だからこそ、地道な議論を積み重ねて、具体的に論証をし続けていく必要がある、と考えています。
きくちさんとは、私が持っているブログでもやり取りさせて頂きましたが、そこで、
▼▼▼引用▼▼▼
ある程度広まった言葉は解釈が変えられていく宿命にあります。とはいえ、問題を社会に訴えるには、ある程度わかりやすい言葉は必要なんですよね。

「ニセ科学」という言葉が独り歩きするのを止めることはできませんが、せめて自分の言葉が届く範囲だけでも、ある程度ストイックな使い方に限定することを確認しておきたい。という感じですかねえ
▲▲引用終了▲▲(http://seisin-isiki-karada.cocolog-nifty.com/blog/2008/04/post_f244.html)より引用
と仰っていました。ですから、こちらで書かれています、
▼▼▼引用▼▼▼
そして、そのことがきくち先生たちにとっては、もしかして本意ではなかったりするのかなー、などと、僭越ながら思ったりしている今日この頃であります。
▲▲引用終了▲▲
この部分は、当たっているのではないかと、私も思っています。もし、「ニセ科学批判の権威」と言われる事があれば、きくちさんご自身はそれは受け容れられないのではないかな、というのも、これまでやり取りさせて頂いて、感じています。

ニセ科学という言葉は、インパクトが強く、ある意味「解りやすい」語であるが故に、注意深く用いていく必要があるのだと考えます。

ニセ科学を信じている人なりに、どうメッセージを届かせるか、という部分について。
これは、大変に悩ましい問題です。
私は、主に「ゲーム脳」説を批判しているのですが、その「信じられ方」には、様々なものがあります。科学者が言っているから、というものや、テレビで観て何となく信じていた、というもの等。その具体的なケースを見て、どのように対応すべきだろうか、と考えるのですね。対象の論調によっては、科学的に実証されていないと直接言う事で、強く批判をする場合もありますし(その説を広めるという事自体が批判されるべきである、という場合もありますので)、特に科学という言葉を使わずに、様子を見て行う事もあります。もちろん、「それはニセ科学と言われていて…」という言い方自体をしない場合もあります。

水伝に関しては、私は本質的に、科学以前に「言葉」の問題だと思っていて、その視点から考える文章を書いたり、リンクを集めたりしています。水伝関連を考察したサイトとしては、こういうものもあります(色々な「信じ方」を想定して書かれたものです)⇒http://kameo.jp/mizuden/faq.html

やはり、「どういう層」に向けてメッセージを届けるか、というのは、常についてまわる問題なのですよね。自分のしている事は問題があるだろうか、というのはいつも自問しています。いわゆるビリーバーなのか、もっと周辺にいる人なのか、最もコアの部分にいる人(主唱者)なのか。ある層に向けたメッセージでも、それが対象にきちんと届くか、それ以外の層の人に受け取られ、誤解されるのではないか。
等々。

いずれにしても、色々な角度から、様々な議論を積み重ねていき、批判に対しては開かれた態度を採る、というのが重要なのではないかと思います。

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コメント欄のかずえもんさんは、少し誤解なさっているかも知れませんね。うーん、水伝よりも(あれは、原典を読まないと、「科学を装っている」という所が見えにくいかも知れない)ゲーム脳の方が、解りやすいかも。あれなどは、はっきりと科学的だと言っているのですよね。そして、それが躾の根拠のように使われたりする。なので、きちんと批判しなくてはならない。

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コメント

こんばんは(^O^)

僕は、きくちさん一人に責任を被せたくないから、JosephYoikoは、ひねくれていると思われることまでしつこく聞くことで、きくち発言が誤解されないように努力しているんだけどなぁ(^^;

あてにならない某科学環境部が、曲解して利用したら、大変なことになるので、日本舞踊の流派程度のガイドラインは作りたいですね。

また、おねえちゃん飲み屋に行くの好きなので、騙される方々の思考の実例は、僕の方が数倍見ている自負ありますし、実例ベースでやるのも面白いし、大事ですわな。

彼女らが、どのくらい無知かはなかなか大学ではサンプルとれないでしょうし(^^;

インチキ化粧品担当はしますよ。

投稿: JosephYoiko | 2008年4月16日 (水) 00:43

JosephYoikoさん、今晩は。

しつこく訊く、って、凄く大事だと思うんですよね。内部(ここでは、ある程度の方向性が一致している人達、というくらいの意味です)で批判し合わないと、停滞してしまいますしね。

ニセ科学wikiなどは、なかなか良いガイドラインなのではないかな、とも思っています。

▼▼▼引用▼▼▼
また、おねえちゃん飲み屋に行くの好きなので、騙される方々の思考の実例は、僕の方が数倍見ている自負ありますし
▲▲引用終了▲▲
これも大切ですね。それぞれの人が触れる「実例」には色々ある、言い方を変えると、一人の人が触れる実例の幅には限界がある。だから、色々な人が意見を交わしていく必要があると思います。

僭越ですが、私は、ゲーム脳を担当したいと考えてます。

後、変な言い方ですが、私みたいな、「科学者で無い人間」がニセ科学批判を積極的に行う事にも意義があるのではないかな、と。少なくとも、科学者だけが行っている活動、という見方には反論出来ますし。

投稿: TAKESAN | 2008年4月16日 (水) 01:55

こんにちは。クリティカルヒットに「科学者でない人間」なA-WINGです。

どうしても気になったので、先方にコメントしてしまいました。かずえもんさんタイプの誤解は、FAQの範囲ですけど、しかし地道に対応していったほうがいいのかなと思いました。

投稿: A-WING | 2008年4月16日 (水) 12:40

A-WINGさん、今日は。

そうですね。基本的な誤解であるので、指摘していった方が良いかも知れません。特に、かずえもんさんのように、「既にメタ」である方(ニセ科学的なものの胡散臭さを理解している方)に、ニセ科学という語の用いられ方と、ニセ科学の実態を説明するのは、大切だと思います。

思うに、「ニセ科学」と言えば水伝、というイメージを持つ方が多いのかな、と。一番代表的なものだとして紹介されるものですしね。他のニセ科学と呼ばれるものに目を向ければ、また異なった見方になるかも知れません。ゲーム脳は、もっと知られていいかな。

投稿: TAKESAN | 2008年4月16日 (水) 12:56

こんにちは、皆さん。

 なんていうかな「人は信じたいものを信じる」で終わって欲しくないんですよね。そんなのは人間が知性を持ち始めた時からそうなんで、現代に成って急に人間がそうなった訳ではないんですね。そういう人間でありながら、なんとか「変なものを信じることで滅びる」にならずにやってきたと言うことに想像力を働かせて欲しいという思いがあります。

 毎度の人間の基本仕様論になってしまいますが、なんていうか個体の生き延びにくい部分を群れとして補完することで生き延びようとするから、生物は群れをつくるんじゃあないでしょうかね。なんていうか、「人は信じたいものを信じる」という基本仕様があるけど、人の群れとしての社会というのは、その「信じたいものを信じる」が群れ全体に蔓延して、生き延びるのに困難が生じたりしないようにする何らかのメカニズムを発達さたから、人は滅びずに今まで生きて来たんじゃないかな。

投稿: 技術開発者 | 2008年4月16日 (水) 15:23

「科学的合理性というのは人間にとって不自然なものなので、訓練で身に付けなくてはならない」ってことですよね。何度も書いたか(^^
 
webちくまに書き始めたのも、だいたいそういう話の周辺をぐるぐる回るはず

投稿: きくち | 2008年4月16日 (水) 18:07

技術開発者さん、きくちさん、今晩は。

そうですね。「不自然」なもの、なのですよね。
ちょっと話は ずれちゃいますが。
いわゆる「直感重視」で、合理的・分析的な思考を忌避する向きも見られますが、何と言うか、自分が「自然に生きている」と思っていても、それが実は、どれだけ「不自然なもの」に支えられているのか、という所を、きちんと見直した方がいいんじゃないかな、と、自分の経験を振り返っても思います。

きちんと科学に目を向けた方がいいのに……と書くと、「科学が全てじゃ無い」、とか言われたり(笑) そりゃそうだよ、という話なんですけどね。

投稿: TAKESAN | 2008年4月16日 (水) 18:43

益々ずれますが…。

「科学」と聞いてイメージされるものが、「大まかな機能」みたいなものでしかないのかな、と思ってます。

「人類に益を与えたが、害悪も もたらした」、とか、「科学は小難しいもの」、とか。

もっと「身近」になればいいと思ってるんですけどね。『サイエンスZERO』みたいな番組とかがもっと増えたり。最近は、サイエンス系の番組は増えている印象ですが、これは悪く無い傾向なんじゃないかな、と。雑学系のもありますけど、私はこういうのって、社会に絶大な影響を与える、と思ってるんですよね。学校の授業より大きい、ってのは言い過ぎか(笑)
前、数学の問題が商店街のあちこちに貼られている地域がある、というのを紹介しましたが、そういうのがリテラシーを底上げするって、あると思います。

投稿: TAKESAN | 2008年4月16日 (水) 19:13

はじめまして。TBありがとうございます。
議論を積み重ねることの重要性、まったくそのとおりだと思います。その意味で、こちらで取り上げていただいたことに感謝しています。

確かにおっしゃるとおり、例としてはゲーム脳の方が適切だったかもしれません。(これも「伝え方」の工夫の一つになり得ますね)

ここに書き込まれている方(もしくは読まれている方)の中で、誤解があるといけないので、確認させていただくと、私のエントリは「人は信じたいものを信じる」→「だからしかたない」という論旨にはなっていません。

投稿: pollyanna | 2008年4月16日 (水) 21:53

pollyannaさん、今晩は。

水伝の場合、「科学を装っている」という所が見えにくいという所がありますね。なので、水伝のような「単なる」オカルトを科学の視点で批判してどうする、という反論も、時折見受けられます。
対してゲーム脳は、ニセ科学としての特徴が解りやすいので、ニセ科学を説明する際の例としてはこちらの方が良いかも知れない、と思う事があります。

▼▼▼引用▼▼▼
私のエントリは「人は信じたいものを信じる」→「だからしかたない」という論旨にはなっていません。
▲▲引用終了▲▲
拝読した際、ニセ科学の概念や批判を知らしめるためには方法を工夫する事が重要である、という論旨だと理解しました。

投稿: TAKESAN | 2008年4月16日 (水) 22:40

>pollyannaさん

はじめまして。ご確認の事柄、一応理解しております。ただ、一般的にネットで「ニセ科学批判」という場合は、菊池誠さんやapjさんの活動を指すのだと思いますが、その場合「ニセ科学」という用語には「科学を装うが科学ではないもの」という定義があるわけですね。

この定義によるなら、「科学を装う」以上はそれによって生じる説得力が当て込まれているのだろうという自然な想定になりますので、主に科学の規範で批判するという筋道になるわけです。pollyannaさんが仰る「科学という言葉を遣わなければ」というのは、非合理な信仰一般に関してはその通りかもしれませんが、この定義に基づく「ニセ科学」に関しては、やはり「科学を装う」部分の欺瞞を暴くのが最も核心的な課題になるわけですね。人々がニセ科学を受け容れるのは、「科学を装っている」というそれ故にである、という想定になるからです。

ですから、科学を装っていないものはこの文脈においては「ニセ科学」ではないのだし、ニセ科学でないものに対してはすでに別種のアプローチが為されていると思いますよ。ニセ科学批判というのは、一種対象を厳密に限定することによって成立している活動なんですね。

だから、TAKESANさんが

>>水伝の場合、「科学を装っている」という所が見えにくいという所がありますね。

と仰るのは、それを受けてのことです。

投稿: 黒猫亭 | 2008年4月16日 (水) 23:05

これも、対象によるかも知れません。

水伝が何故批判されているか、どこがおかしいか、というのを、肯定的に受けとめている人に説明するには、「科学」や「実験」という語を使わずに、言葉の問題から考えさせる、という方法も、有効かも知れません。
うーん、つまり、まず「科学的に誤っている」、と「言ってから」具体論に進むのでは無く、まず具体的な所のおかしさを指摘して積み上げていって、「ね、おかしいでしょ。これが”科学”としておかしい、って事なんだよ」、と、そういう風にアプローチするのも一つの方法である、とpollyannaさんは仰りたかったのだと、私は読み取りました(「ニセ科学批判批判」という語を書いておられる事から、ニセ科学論の事情はよくご存知なのではないか、と推察します)。

私がこのエントリーを書いたのは、「ニセ科学批判の個別のケースにおいては、必ずしも”科学”という語を”まず用いる”訳では無い」、というのを主張したかったから、なのですよね。

たとえば、(自分の文章で恐縮ですが)、ここでは、科学という語は一切出さずに、水伝のおかしさを説明してみました⇒http://seisin-isiki-karada.cocolog-nifty.com/blog/2007/06/post_d388.html

投稿: TAKESAN | 2008年4月16日 (水) 23:25

あー、なんか理解出来た気がする。

何がって? 書きません(笑)

いや、ピカッと閃いた事があったので、何となく書きたくなったのでした。

投稿: TAKESAN | 2008年4月17日 (木) 03:20

>TAKESANさん

ああなるほど、そういうふうにも読めますね。少しコメント欄の会話に引きずられたかな(笑)。仰るような意味であれば、大分以前にオレも似たような話をした覚えがありますし、敢えて反論する必要もないのですが、少し伝わりにくいかな、とは感じます。

何でしょうね、やっぱり力点の掛かり方によって聞こえ方が違ってくるということなんでしょうかね。あと、やはりコメントの遣り取りでちょっとズレて解釈している人に話を合わせると、本文の論旨の焦点がボケてくるということもあるんじゃないかと思います。

そういう意味では、変なことを言っているわけではないのに、ちょっと損しているのかもしれませんね。

投稿: 黒猫亭 | 2008年4月17日 (木) 03:40

なんか、「業界化」という言葉が一人歩きを始めましたね(笑)。結果的に「斬新な」レッテルを提供したことになるようです。

投稿: 黒猫亭 | 2008年4月17日 (木) 03:51

こんにちは、きくちさん。

>「科学的合理性というのは人間にとって不自然なものなので、訓練で身に付けなくてはならない」ってことですよね。何度も書いたか(^^

 確かに、社会の中にいる個に関しては「不自然なことだけど努力によって身につける」ものではあるんです。ただ、私が気にするのは社会そのものの「成り立ち」として、「科学的合理性を身につけていない人」でも「不合理な行動に落ちこまないようにするシステム」の部分があったのではないか?ということなんです。

なかなか良い事例が思い浮かばないんですが、例えば、独占禁止法に不当廉価販売(ダンピング)というのがあります。競争相手を排除する目的で無茶な安売りをすることですね。実のところ、目先しか見ない消費者には、停止命令が出ても「なぜ安売りしてはいけないのか」なんて言われる法律です。まあ、「なぜ」と聞いてくれれば「競争相手がいなくなったら逆に高くなりますよ」みたいな説明ができるわけですが、中には「まあ法律でいけないとされているのだから駄目なんだろう」だけの人も少なくないわけです。希望としては、それは全ての人が「ダンピングがなぜ悪いか」を理解して欲しいわけですが、そうそう希望どおりにはいかない訳です。でも、単に「法律できまっているからいけないんだ」という人でも、そういう停止命令を支持してくれるなら、独占禁止法のもくてきである「公正な競争の維持」はできるわけですね。

 なんていうか、理想は社会の個人がきちんと色んな事を理解して判断することではあるんだけど、結局そこまではなかなか到達出来ないから、社会は「到達出来ない人」も含めて、なんとかうまくやっていくシステムを持つ部分があるんだろうと思うんです。でもって、現代というのは、「個人」という事に意識が行きすぎて、そのなんとか上手くやっていくシステムを「良くない」としている気がする時があるわけです。

投稿: 技術開発者 | 2008年4月17日 (木) 08:02

黒猫亭さん、お早うございます。

多分、水伝なんかを「科学的におかしい」などといきなり言ってしまっては、信じたりしている人に言葉を届かせる事は出来ないのでは、という主旨だったのだと思っています(私はそう読みました)。
で、それは多分、既に批判者にはコンセンサスがあるんじゃないかな、と。

そんなやり方では届かないのでは、というのは貴重な意見だと思うんですね。どうすれば良いのか、色々な方からお知恵を拝借したいくらいだったりします。

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あちらのコメント欄の事に関しては、私は口を噤みます。もちろん、皆さんがこちらにお書きになるのは構いませんです。

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技術開発者さん、おはようございます。

(これはあまりにも一般論で、何も言った事にならないけれど)個人がそれなりの見識を持つようにするのと、それがあまり実現されていなくとも社会が上手く機能するシステムを維持していくのと、両方が重要なのだと思います。

ちなみに、毎度の事ですが(笑) 現代がどう変化してきたか、という部分に関しては、多分、技術開発者さんとは意見を異にするかも知れません。とは言え、きちんと反論なり批判なり出来るほど知識も考察も無いので、「そうなのかな?」という印象程度なのですが。

投稿: TAKESAN | 2008年4月17日 (木) 10:49

ちょっと本題からずれるかもしれませんが。

昨日、世界日報の読者で作る「世日クラブ」主催、世界日報後援で、森昭雄教授の講演が行われたそうです。

世日クラブのサイト
http://senichi-club.jp/modules/eguide/event.php?eid=16

世界日報の記事
http://www.worldtimes.co.jp/wtop/education/news/080417.html

まずはご報告まで。

投稿: ゲイムマン(府元晶) | 2008年4月17日 (木) 12:00

ゲイムマンさん、今日は。

あ、昨日でしたか。

うーん、ゲーム脳研究の権威って、そりゃそうだよなあ。

記事では、ゲーム脳そのものについて語ったかどうかは不明ですね。ゲーム脳に関しての講演では無いようなので、具体的には説明は無かったのかも知れませんね。だとすると、(あくまで不幸中の)幸いですが。

投稿: TAKESAN | 2008年4月17日 (木) 12:11

>ゲーム脳に関しての講演では無いようなので、具体的には説明は無かったのかも知れませんね。

いや、どうでしょうね?
森氏と教育、というと、恐らくは森氏自身が関わっている「親学」関連だと思いますが、『「脳力」低下社会』の中でそれを語っている部分では、「親の指導力が低下している」といい、その原因をIT機器、依存に結びつけていますからね。また、読者からの手紙や、義家弘介氏の著書からの引用を用いて、「道徳心の低下」の原因が、ゲームや携帯電話である、というような持論を展開しています。そういう意味では、あると思いますけどね。

>ゲーム脳研究の権威

そもそも学術論文すらまともに発表しない人が「権威」ってのもおかしいですけどね(苦笑)

ちなみに、
http://d.hatena.ne.jp/tabiture/20080416
の方が講演会に行ってきたようです。レポートを楽しみにしているところです。

投稿: たこやき | 2008年4月17日 (木) 12:29

たこやきさん、今日は。

ですね。もちろん私のは、超希望的観測、ですね。さすがに、全く触れない事はあり得ないでしょうから(それだと森氏を呼ぶ意義が無いので)、どのくらいまで話したか、という所でしょうね。いつもの如く、脳イメージングの画像を示したりしたかどうか、とか。

情報、ありがとうございます。レポートが書かれるのですね。これは興味深いです。

っと、メモが上がってますね。なんか、衝撃的な事が書いてある…。

投稿: TAKESAN | 2008年4月17日 (木) 12:39

おっ、早速、僕の「お友達が怪しい人は怪しい」説のサンプルが出てきた(笑)。

投稿: JosephYoiko | 2008年4月17日 (木) 12:54

JosephYoikoさん、今日は。

義家氏の著書から、というのが、なかなかです。しかも義家氏、岡田尊司氏の著作に賛同していますからね…。

世界日報といえば、有害図書撲滅氏を思い出すなあ。

投稿: TAKESAN | 2008年4月17日 (木) 13:07

>そんなやり方では届かないのでは

ウェブでのニセ科学批判記事が、あくまで全体に向けての一般論として書かれるのに対し、読むほうは具体的な個人を想定してしまう、ということがあるのかな、と思いました。

投稿: A-WING | 2008年4月17日 (木) 15:02

多分、それはあるでしょうね。
一般論は一般論として大事だし、一般論として見て欲しい、という気持ちはあります。

で、具体論には様々なバリエーションがあるので、そこも見て欲しい、と言うか。

投稿: TAKESAN | 2008年4月17日 (木) 15:15

ちょっと見ない間に、すごーくスレッドが伸びていてびっくりしました。

>TAKESANさん
私の言葉が足りなかった部分を、適切に読みとってくださってありがとうございます。そのとおりです。ってか修行足りんですな>私

>黒猫亭さん
「一種対象を厳密に限定することによって成立している活動」というご説明でよくわかりました。ありがとうございます。
そうですねー。おっしゃるとおり、私の説明が悪くて伝わりづらかったこともあったかもしれません。
レッテル貼りの件についてもすみません。言葉って怖いですね、ほんと。

投稿: pollyanna | 2008年4月17日 (木) 16:46

 こんにちは、TAKESANさん。

 kikulogの方で狭い道路の速度規制のたとえ話を書いたら、「事故を起こさない意識の方が大事」なんてコメントされてしまいました。まあ、多くの人は理解されているみたいなので、あまりkikulogをかき回したくもないので、コメントは返さないでおこうと思うんですけど、「事故を起こさない意識」を運転者全部が常に意識してくれるなら、もともと速度規制や反則金や白バイのねずみ取りもいらない訳です。人間の持つ不完全性の中で不完全でありながら、それなりに「実効性がある」と経験的にできあがっているのが、それらのシステムなんだということですね。もちろん、それらのシステムと並行して「意識喚起」はやっていく訳ですけどね。

>個人がそれなりの見識を持つようにするのと、それがあまり実現されていなくとも社会が上手く機能するシステムを維持していくのと、両方が重要なのだと思います。

 そう、運転者のかなりの部分が狭い道を通るときには「嫌だな~、誰も飛び出しなんてしないでくれよ」と自然に速度をゆるめる訳です。でも人間だから、そこに思いが至らない人もいるし、至らない時もある訳です。慣れで思いが麻痺する事もあるでしょう。だからこその速度規制であり標識であり、時には白バイであるわけです。

>ちなみに、毎度の事ですが(笑) 現代がどう変化してきたか、という部分に関しては、多分、技術開発者さんとは意見を異にするかも知れません。

 なんていうか、私だって社会学者でもないし、そうきちんとした根拠を持って考えている訳でもないのね。だから「受け入れてくれ」とまで食い下がる気はないわけです。

 ただ、あくまで私なりに考察した結果として、「白バイで反則金なんて、意識喚起につながらないね」と法規制をとりやめて、意識喚起の運動を増強しても、狭い道での事故は増えると思う訳です。でもって、私なりの考察の結果として、「そんな怪しげな事信じるなんて馬鹿じゃないの」なんて言われることが少なくなった現代は、ちょうど、白バイで反則金を止めた道路で事故が増えるのと同じようにニセ科学が増えている様な気はしている訳です。もちろん対策としてこれだけでよいという訳ではないんです。ただ両輪があつても良いと思っています。でもって、「レッテル貼りみたいになるから良くない」みたいに、「ニセ科学」という言葉の持つインパクトを否定する形というのが、「片輪走行を勧めている」みたいに見えたりするんですね。

投稿: 技術開発者 | 2008年4月17日 (木) 16:50

pollyannaさん、今晩は。

ここは、よくコメントが伸びるんですね。と言うか、皆さんのコメントで成り立ってるようなものなのです(笑)

黒猫亭さんが補足して下さいましたが、ニセ科学批判というのは、ある程度限定した概念について検討する活動だと言えます。敢えて疑似科学という語を使わずにニセという語をあてるのも、グレーゾーンについて議論するのも、ある種、意味をきちんと「狭めて」用いていこうという意識の表れなのではないかと思っています。

------

>技術開発者さん

以前、確か食品偽装の事件があった時だと思いますが、その際に、同じような話題がありましたよね。私は、模造品の宝石を見抜けない消費者に問題があるなんて言ってはダメじゃないだろうか、というような発言をしました。それとニセ科学論は繋がると思っています。

私自身は、今の社会は、「史上最も社会のリテラシーが高く、史上最もニセ科学が蔓延している社会」、だと考えているんですね。なんか凄く変な表現ですが(笑)

投稿: TAKESAN | 2008年4月17日 (木) 18:18

投稿: JosephYoiko | 2008年4月17日 (木) 23:11

あっ、石戸さんの記事ですね。
「犯罪不安社会」読んでくださってお会いした記者さんです。
こちらも読んでくれてるかも。
http://ameblo.jp/hiromiyasuhara/entry-10023652996.html

投稿: 安原 | 2008年4月17日 (木) 23:31

こちらも

TAKESANさんところもって意味です。たびたびすいません。

投稿: 安原 | 2008年4月17日 (木) 23:43

投稿: apj | 2008年4月18日 (金) 02:57

>pollyannaさん

こちらこそ少しそちらのご意見を読み違えていたようですいません。

ニセ科学という問題性の切り取り方というのは、やっぱり対象を限定することで成立している部分というのはあるわけで、本来的にはニセ科学批判を行っている論者の方々はやはりニセ科学だけではなく非合理一般が問題だという意識はあるんだと思います。

菊池さんも、たとえばニセ科学とスピリチュアルの問題は同じ位相にあるとお考えだから、対談集であのように語り、ブログでも度々話題にされるのだと思うんですが、ニセ科学という問題性の切り取り方では、スピリチュアルを相手取ることは出来ないんですね。ですから、同じ位相の問題性と捉えて意見表明や議論はするけれど、ニセ科学としてスピリチュアル批判を展開するという馬鹿げたことはやらないわけです。この辺が少しややこしいことはややこしいでしょうね。

また、上のほうで書いたように、pollyanna さんが書かれた以下のようなご意見は、大筋ではオレも同じような話をしたことがあります。

>>そもそも人は、信じたいと思ったことを信じるもので、それが一見「科学的に見える」から信じるわけではないでしょう。

>>科学のような装いの下に、自分の信じたい情緒や信条を見て、それを信じているはずです。

人は信じたいことを信じるものなのだし、その為の口実として「科学的に見える」という正しさのイメージが機能しているのがニセ科学である、そういう認識についてはオレも大筋では賛成です。ただ、それがニセ科学である以上、「科学的に見える」ことの説得力を過小評価して非合理一般の階層に差し戻して論じるのでは、非合理一般の中からニセ科学を切り出すという前提の卓袱台返しに感じられます。

たしかに上位概念としては正しい認識なんですが、「『科学的に見えるから』信じるわけではない」というところを強調してしまうと、ニセ科学として切り出して下位の階層に具体化した個別的な問題性から離れて、再び抽象化されてしまうと思うんですよ。では、具体的にどう批判を展開するの?という地点に戻っちゃうんですね。

ニセ科学批判というのは、非合理批判を個別的に展開していくプロセスにおいて、対象を限定して或る特定の「部分」を担う方法論だと思うんですね。だから、部分としてのニセ科学批判が上位階層に当たる非合理批判の全域をカバーしていないという批判は、やはり階層が混乱した話になると思います。

また、そもそも人々が「信じたいと思ったこと」とは何かと言うと、それは選れて個人的な問題になるだろうし、人の数だけあって一括りには出来ないはずなんですね。

個別のニセ科学に関して考察を深めていって、どうやらこれが広く受け容れられる裏にはこのような一般的背景があるらしい、そういう問題性のアプローチはすでに行われているのですが、ビリーバー一人ひとりの心の問題となるともっと細やかな一対一対応の話になってくると思います。それはもう、サシの説得もしくはカウンセリング的なアプローチでしか対応出来ないのではないかと思うわけですね。

というか、人一人の価値観を変えようとする以上、誰とも知れない不特定多数に向けて語った発話を受け取ってあんたが自発的に変わってくれというのではなく、やっぱり一対一で対面して語るのが筋だと思うんです。

ネットでニセ科学批判を論じる難しさというのは、ネットの言説というのはそういう個別的な説得のツールには不向きだということがあるんですね。相手が望んでいない認識を説得によって受け容れさせるには、物理的に密接し退っ引きならない対人的な間合いで対話を積み重ねていく必要がありますが、ネットの場合は距離がありすぎるのでそもそも対話の土俵に上げることが困難だし、相手が土俵に上ってくれても「あなたとは認識が違いますね」で幾らでも対話が打ち切れるわけです。そもそも、一対一対応よりも不特定多数へ向けた情報発信や活発な議論を通じた知の蓄積に向いたメディアだという特性があるわけですね。

個別のニセ科学を考察して論じる場面では、まずそれがニセ科学であるか否か、何故ニセ科学なのかというところから入っていく手続上の必要性があるわけで、グレーゾーン問題なんかもその連続上の話だと思うんですが、ネットの議論である以上、必ずしも個別的な説得の論理として展開されているわけではないんですね。

ビリーバーさんがこれを読んで迷妄から醒めて救われてくれれば、というのとは微妙に位相の違う議論なんだと思います。どちらかと言うと、こういう議論や知の蓄積を通じて社会全体のリテラシーを向上させる、少なくともそのような問題性に対して意識的な人々に対して、多くの人々の議論を通じて蓄積された知を発信し、現実的な活動に還元されることを期待する、そういう間接的な影響によってビリーバー的な心性を変えていこうという戦略にならざるを得ないと思うのですね。

ビリーバーに届く言葉というのは、やっぱり一対一対応で粘り強く説得するというやり方が必須なんであって、その人が何を「信じたい」と思っているのか、何故そう思うのかを密接な対話を通じて探り当て、根気よく通じる言葉を模索していく必要があるわけです。その意味で、ネットの発話には最初から望まざるビリーバーを「回心」させる力なんかないと思うわけです。

ビリーバーたちと現実にそういう密接な対話を続けておられる方から「ネットの議論はメタ議論ではないか」というご指摘を頂戴したこともあるのですが、たしかにメタ議論であることは間違いないんですね。というか、ネットの活動である以上、ビリーバーにまで届く言葉ではないというのは、元々ネットのニセ科学批判というツールのリーチがそこまでの到達距離を持つものではないということなんだと思います。

TAKESAN さんが仰ったような方法論というのは、たとえば水伝に関する考察と議論が深められた結果、水伝の言説構造がかなり明確に分析され一般背景の部分に関する知見が積み上げられてきたことを受けて、説得寄りの情報発信を模索する試みだと思うのですが、これもコアなビリーバーを説得し得る論理として捉えられているわけではなく、もう少し無自覚に水伝に接近している境界上の人々に届くかもしれない言葉として考えられているのだと思います。

投稿: 黒猫亭 | 2008年4月18日 (金) 04:54

>JosephYoikoさん

あ、丁度それを、エントリーで採り上げた所でした(今日付けの)。

GJですよね。

------

安原さん、今晩は。

短いですが、適切な記事ですね。

お、こちらを読んで下さっているのかも、ですか。だとすればありがたいですね。

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apjさん、今晩は。

一括りに出来ない、という所、その通りだと思います。信じ方も様々だし、個別に見てやっていくものだと。
目立つ所には一般論的なやり取りがある訳ですが、具体的な対話なんかは、あまり表には出てこなかったりするのかも知れません。

それは科学じゃ無いよ、というメッセージは、最初に出して効く場合もあるし、様子を見て敢えて出さない事もあるのですよね。ゲーム脳なんかは、最初から科学を標榜しているし、信じる人も「科学っぽいから」信じる、という所があるので、前者でも良いかも知れないし。ここら辺は、ケースバイケースとしか言えないのだと思ってます。

前にこんな事を書きました⇒http://seisin-isiki-karada.cocolog-nifty.com/blog/2006/09/post_7d7e.html

信じられ方にはバリエーションがあるだろう、というものですね。

余談ですが、それを書いた頃は、水伝に反証実験をしてもいいんじゃない、と考えていた時代です。

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黒猫亭さん、お早うございます(5時をまわったー)。

時折、kikulogに、スピリチュアル批判をニセ科学批判と同一視して反論する方もおられますね。共通点はあるが同じでは無い、というのは重要な所だと思います。尤も、スピリチュアル批判系のエントリーが、ニセ科学カテゴリーであったりする訳ですが。これはきくちさんの意図でしょうけれども。

「科学的に見えるから信じる」か否か、という部分。これは、そういう場合は確かにある、と言えるかと思います。ゲーム脳は最たるものですし、水伝で、「実験」データがあるから信ずる、という人もいる。血液型性格判断は、「統計データ」(らしきもの)があるというのを鵜呑みにしたりする。
これは、どういう風な経緯で説に触れたか、という所だと考えます。

うーん、しかし、見事に纏めて下さいましたね。唸ってしまった。
付け加える事は何も無いです(笑) 皆さんに援用して頂きましょう。

投稿: TAKESAN | 2008年4月18日 (金) 05:17

こんにちは、TAKESANさん。

>私自身は、今の社会は、「史上最も社会のリテラシーが高く、史上最もニセ科学が蔓延している社会」、だと考えているんですね。なんか凄く変な表現ですが(笑)

実のところ私の言っていることも近いんです。なんていうかリテラシーの中に含まれる「情動に任せず理性的に判断する」という事がかなり重視されているために、もともと社会が持っている「情動性に働きかけて秩序を守る」という部分が崩れている感じをうけるわけです。私は「特急列車のレイプ事件」なんてのを題材にして論を展開したりしますが、「正義感に駆られて止めに入る」なんてのは、まあ、あまり理性的ではなくて情動だろうと思うんですよ。でもって、「情動に任せず理性的に判断する」社会だから、誰も止めなかった訳です。

投稿: 技術開発者 | 2008年4月18日 (金) 09:24

技術開発者さん、今日は。

ああ、なるほど。その部分は確かに、考えが近いかも知れません。何と言うのでしょう。社会全体として「大人しく」なってきた、という感じかな。

私はその傾向を(もしそうだとしたら)、総体として好ましいものだと思っているのですよね。

投稿: TAKESAN | 2008年4月18日 (金) 12:14

こんにちは、TAKESANさん。

>私はその傾向を(もしそうだとしたら)、総体として好ましいものだと思っているのですよね。

まあ、私もあまり感情的な社会は好きでは無いのだけど、社会というのが「理性」と「感情」の両方をうまく操ってなんとかしてきたという思いがあって、感情が弱くなった部分を理性がきちんと埋めないと穴が空く訳ですよ。

でもって、実際に色んな所に穴が空いて居るんだろうと思います。だから「もっとリテラシーを高めないと」と穴を理性で埋めることを求めるんだけど、そこが人間なので、そうそう理性が急に発達して穴埋めができるものでも無いんですね。私なんかは実利的な対策しか考えないから、「理性で間に合わない部分は感情の方を取り戻して埋めてくれ」なんて言っている訳です。

投稿: 技術開発者 | 2008年4月18日 (金) 13:04

TAKESANさん。
技術開発者さん。
こんにちは。


「理性で間に合わない部分は感情の方を取り戻して埋めてくれ」なんて言っている訳です。」
という技術開発者さんの
コメントを拝見して、
先日「宗教と科学」のバランスについてお話させていただいたことを思い出しました。

理性と感情の隙間に忍び込んでくる物は、
あるときは、なかなかに魅力的で心をとらえてしまうんでしょうね。
そして、いつのまにか、オットトとあちらがわ(ニセもの)に引き寄せられるのでしょうか?
この隙間って、およそ人なら多かれ少なかれもっていると思うのですが、
その人が感じる「不安」の多寡によるのかと思ったりしています。
占いとかおみくじとか、いわゆる人の生き様に介入していくるようなものを信じる,信じない、、、
という時、多分,その人は迷ったり悩んだりしている時が多いと思うのです。
解決の糸口を何かに依存することで、自分を明け渡し、その代償として責任転嫁を得る。
感傷的に。心地よく。
そんな気がするのです。
私はこのごろ、ニセ科学にしても他のことでも、
その人の「感傷」を相手にすることの容易でないことをまざまざと見てきました。
情と理性ではない「感傷」が入り込んでくるとき、どうすればいいのか、はたと戸惑う私です。

なんとなく書き込んでしまいました。
では、またね。

投稿: せとともこ | 2008年4月18日 (金) 13:25

なるほど。感情は弱くなってきたけれども、それに伴って理性が強くなってきた訳では無い、という事ですね。

うーん、ここに関しては、ちょっと難しいです。保留したいと思います。その部分に関して正確に判断出来るだけの材料(知識含め)が、私にはまだ足りません。

投稿: TAKESAN | 2008年4月18日 (金) 13:26

もう大分話が進んじゃって今更なんですが…

pollyannaさんの記事は,「オレの脳内仮想信者はその説明じゃ説得されないよ!」のパターンなんですよね.しかも「その説明」は,「ニセ科学を批判している人同士の議論」を指してますよね,多分.なので,そう言われてもなぁ…というかんじです.

与える「印象」ってのは確かに大事なんですよ.それはそうなんです.「科学者がエラそうになんか言ってる」みたいな印象が広まるのは,そりゃもちろん好ましくない.

批判側にいるもの同士で議論しているのを,そもそも"科学嫌い"な人が見かけて,悪印象を持つということは,もちろんあるでしょう.でもそれはある程度仕方がない.ニセ科学を批判している人同士だって意見が合わないことがあるのは当たり前で,どこかで議論しないといけない.その議論をクローズドでやるのはおかしいし,そもそも閉じられないし.

でも,きくちさんなりapjさんなりの活動をそれなりの期間見てきて,理解するだけのリテラシーを持っているはずの人に,印象論で
「脳内仮想信者が,ニセ科学批判について "科学者が『それは科学ではないから』というひとことで端折ってる.ムカツク" と言っています」
みたいなことを言われると,がっかりしてしまいます.
もちろん懸念はわかるのです.でも実際,信者や半信半疑の人と対話をするときには気を付けているつもりなわけで,具体的な指摘なしに漠然と気を付けろと言われても途方に暮れてしまう.

そして,こういう立場の人によるこういう"懸念"の表明自体が,"論理とか理屈っぽいの嫌い"な人達の「ニセ科学批判って,科学者がエラそうになんか言ってるだけだよね」という印象を強化しているんじゃないかという気がする今日このごろなのですが…これはこれで印象論だな.

投稿: たかぎF | 2008年4月18日 (金) 15:31

 自分トコのエントリーには追記したんですけど……。
 科学哲学的な意味で、科学そのものにグレーゾーンがあるといえばそれはその通りなんだけど、「ニセ科学」が人を欺すものである以上、「欺している」と判定する部分にもグレーゾーンがあるわけです。で、多分、欺しているか否かの判定のグレーゾーンは、科学やニセ科学に限った話ではなく、世の中にいっぱいある「人を欺す行為」について判定しようとしたときに出てくるものと同じなんですよ。
 ところが、なぜかニセ科学問題では、「科学は白黒はっきりしている」という誤解に引きずられる形で、「人を欺す行為についてもニセ科学の場合は線が引ける」という誤解が出てきてしまっているような。
 科学そのもののグレーゾーン問題と、ニセ科学について考える場合のグレーゾーン問題は、部分的にしか一致しないんですよ。きくちさんのエントリーは、2種類の異なるグレーゾーンがあるということが曖昧なままになっているように見えます。

投稿: apj | 2008年4月18日 (金) 22:49

上のコメントは、技術開発者さんへのレスです。

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せとともこさん、今晩は。

ちょっとずれてしまうかも知れませんが。
こういう時、やはり自分の事を振り返りますね。
自分が外からコントロールされる存在だと考えて占いを信じたり(何か嫌な事があったら、朝見た占いを思い出して、ああ、やっぱり、と思ったり)、霊的なものを信じ込んだり。
ここでこんな事を書いてる人間が、となるかもですが(笑) ほんの3年くらい前には、超能力捜査はある程度信じていましたし。

色んな隙間に入り込んでくるんですよね。だから、ここでも何度か書いていますが、水伝とかを批判する時には、10年くらい前だったら自分も信じていたかも知れない、というのを、常に念頭に置いています。感情的にも知識的にも、入り込む隙間があったと思います。

私は、大事なのは、「知識」だと思っています。世界がどうなっているか、という事についての、先人が死に物狂いで積み上げてきた膨大な知識。巨大で強固で精密な知識。それに触れて、圧倒される経験を持つかどうか、が肝要かな、と。

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たかぎFさん、今晩は。

私の認識としては、たかぎFさんや、lets_skepticさんがコメントでお書きになったものと同様です。
pollyannaさんのエントリーを読んで、違和感は覚えたのですよね。なので、ここで、説明を試みました。幸い、コメント欄でやり取りが続けられて、良い方向へ向かっていると感じます。

うーん、思うんですけど。
きくちさんやapjさんは、ある意味「損な役回り」をされている、と感じるんですよ。メディアに出たり講演を行ったりして、ニセ科学概念の普及に努めておられ、どうしたって、「科学者が何を言っているか」、という非難は受ける。知られれば知られる程、言葉が周知される程。

リソースは有限なのだから、あれもこれもは出来ないですよね。一般的な説明にリソースを割けば、他の所には(相対的に)及ばなくなる。

でも、概念の意味を突き詰めたり、どういうものが含まるか、というメタな議論は、絶対必要だと思うんですよね。それが無いと、ダメになってしまう。
何と言うか、役割分担なんじゃないかな、と。ニセ科学という強い言葉で批判する以上、それはどういう風に使われるべきか、というのは絶対必要なのだから、きくちさん達には、「それをやって欲しい」訳ですね。
pollyannaさんが懸念されている、科学者に対するネガティブなイメージを持つ人々がいる、というのは、全くその通りなのですよね。私自身、科学者は権威主義的で硬直的な人達だ、と思っていたくらいなので、よく解るんですよね。
でも、色々勉強して、実はそれが、自身の先入観によるものだ、というのが理解出来た。

だから、そういう人達が、フォローするべきなんじゃないかな、と。科学者に対してネガティブイメージを持つ人には、実はそれはステレオタイプかも知れないよ、と説くとか。
ある程度調べて「解っている」人は、懸念を示すより、「自分が解っている範囲の事をきちんと説明する」方が、いいんじゃないかと思います。そうすれば、「いやいや、その理解は違うよ」、と、他の論者からの批判も受ける事が出来る訳で。批判者同士の相互批判による議論の深化は、重要ですね。

科学者による糾弾に見える、というのは、昔からあるんじゃないかな、と。ガードナーやセーガンの言説にもそういう印象を持つ人は、いるでしょう。科学者に対するネガティブなステレオタイプは、かなり浸透しているのではないか、というのが、私の認識です。
批判というのは、そういうのがついてまわると思うのです。科学者という立場でものを言う以上は。ある立場でものを言っているのを見ると、その「立場」についてのステレオタイプが想起されて、それに基づいた印象が形成される。
ですから、それがステレオタイプだと解っている人が、その見方は妥当ではありませんよ、と言うのが大事なのだと考えています。

個人で何もかもする事は出来ないから、自分で出来る事をやっていきませんか、というのが私の考えで、ほんの微力ですが、いくらかはやってきたつもりです。lets_skepticさんが仰る通りだと思うんですよね。

投稿: TAKESAN | 2008年4月18日 (金) 23:04

apjさん、今晩は。

kikulogのエントリーで、科学か否か、のグレーゾーンと、ニセ科学か否か、のグレーゾーンの話が曖昧になっているのではないかなと、私も思っています。と言うより、きくちさんご自身が、そう仰ったのですよね。

科学か否か、というのは科学哲学の話で、ニセ科学か否か、というのは、社会学とか法的な所が絡んでくるのかな、と、(ある程度大雑把に)捉えています(単純に切り分けられないとは思います)。と言うか、後者の方は、明らかにapjさんの言説を参考にしている訳ですけれども。
私は、ニセ科学かどうか、というのを考える時に、臨床心理学におけるニセ科学的なものを思い浮かべたりするのですよね。そこでは、法的な場で議論が行われていたりするので、そこの部分が具体論として参考になるかな、と。

投稿: TAKESAN | 2008年4月18日 (金) 23:17

こんにちは、apjさん。

>「欺している」と判定する部分にもグレーゾーンがあるわけです。で、多分、欺しているか否かの判定のグレーゾーンは、科学やニセ科学に限った話ではなく、世の中にいっぱいある「人を欺す行為」について判定しようとしたときに出てくるものと同じなんですよ。

 実は、今から5年ほど前「パソコンを使った内職商法の花盛りの時代」というのがありましてね(といっても今でもかなりある訳ですけどね)。なんていうか、女性週刊誌の広告欄に「家庭で空いた時間にやるだけで高収入」みたいな話が踊りまくっていた訳ですね。でもって、実際に連絡して資料を送ってもらって契約しちゃった人、つまり騙された人を相手に解約の相談とか色々としていた訳です。でもね、その頃に「家にパソコンとかもないし、あんな難しげなものさわる気も無いのだけど、世の中はパソコンとかできると有利な副収入の道もあるみたいだ」なんて事を新聞の投書欄にお書きに成った人というのを見たのね。この人は、確かに悪徳商法に「騙されてはいない」事になるわけですね、契約もなにもする気はないのだからね。でも、やはりそういう宣伝によって「世の中について惑わされ」てはいると思うのね。

 「内職なんてする気はないよ」と言われる人にとって女性週刊誌に「家庭でできる副業で高収入」なんて広告が幾らあっても、直接「騙されて金を取られる」には結びつきはしないのだけど、嫌になるほどの沢山の広告を目にすることで、「世の中にはそういう副収入を得る道も有るんだろう」なんて意識が醸成され、そのことで、「副収入を得たい人」が、そういう内職商法に引っかかりやすい雰囲気を醸成してしまっているということね。こういうのは、apjさんが言われる「騙されることのグレーゾーン」と関係するか道側から無いけど、私の経験による「騙されることのグレーゾーン」という感覚です。

投稿: 技術開発者 | 2008年4月21日 (月) 08:31

技術開発者さん、今日は。

一頃、広告が一杯ありましたね、内職商法。当時は、ちょこちょこネットで調べて、怪しさ満点というのを知りましたが、そういう環境に無い人は騙されるかもな、と思いました。自分はまさか、というのは、誰しも考えるものですしね。
私自身、これだけ色々広告があるんだから、もしかしたらまともなのか、と思いながら調べたのですよね。

新聞の投書欄などで、ご紹介のもののようなのがあると、手軽に調べられる環境に無い人は、ああ、そういうものなのか、と思ったりするのでしょうね。雰囲気に飲み込まれる、と言うか。そんな「何気無い」ものが、雰囲気や社会的な意識みたいなものを助長してしまうのかも知れませんね。

投稿: TAKESAN | 2008年4月21日 (月) 12:16

ちょっとここを読み返してみたのですが、(自分で言うのはアレだけど)かなり有意義なコメントのやり取りですね。なので上げます。

黒猫亭さんのコメント(投稿 黒猫亭 | 2008年4月18日 (金) 04:54)なんかは、ニセ科学論が敢えて概念を限定しているという所の説明が入っていたり、最近出た「説得」の話題なども絡められていて、綺麗に纏められた、秀逸の内容だと思います⇒http://seisin-isiki-karada.cocolog-nifty.com/blog/2008/04/post_c7db.html#comment-50142971

投稿: TAKESAN | 2008年7月 6日 (日) 15:17

TAKESANさん

体験談を書き始めたら収拾がつかなくなってきて、だんだん言ってることが怪しくなってきた今日この頃、渋研Xさんのところでのコメント欄のやりとりは、この辺の議論も踏まえていますかと聞かれたような気がしたのは気のせいでしょうか。踏まえているんですがいろいろ忘れたりとんちんかんなことを言うこともあるかと思いますので何かお気づきの点がありましたらご指摘ください。なにしろ誤解を招くのは得意技です。

ともあれ上げていただいてありがとうございます。やはり何か言う時には色々立ち戻って考えたり前の議論を見直したりが必要ですね。この「思いつきで物を言う」のも「敗因」の一つかもしれません。

投稿: とらこ | 2008年7月 6日 (日) 20:18

すみません「思いつき」という言い方には注意したほうがいいと渋研さんのところで話題になったばかりでした。こういうところがほんとに軽率ですみません。

もちろん「思いつき」という単語を使うなという意味ではないことは承知しておりますが私が軽率に議論をしているという印象を与えそうですね。

投稿: とらこ | 2008年7月 6日 (日) 20:35

とらこさん、今晩は。

ちょっとログを読み返していたら、こういうやり取りを以前にしていたんだな、と思って、上げてみました。上のコメントを書いてから、とらこさんのあちらでのコメントを読んだので、タイミング的にはもちろん偶然ですね。

私は、「思いつき」という書き方から、特に軽率という印象は受けないので、お気になさらないでも良いかと思います。

ニセ科学というのは本質的に、ニセ科学であるが故に批判を免れ得ないもの、ですが(「騙る」ものだから)、それぞれの論者の批判の動機には、それぞれ違いがあるのだと思います。
何故ダメなの、と訊かれ、「ニセ科学だから」、と、それだけを言う事は、多分あり得ないんですよね。それぞれのニセ科学について、色々な問題点が考えられる訳ですしね。

私は、水伝はニセ科学の中では実は特殊な例なんじゃないかな、なんて考えています。代表だけど特殊、と言うか。なんとなく、ですけれど。

投稿: TAKESAN | 2008年7月 6日 (日) 23:57

水伝は、ニセ科学であり、しかも、道徳を科学っぽい言説で説明している、という二重性がある訳ですよね。そもそもそういう構造をしている。

投稿: TAKESAN | 2008年7月 7日 (月) 00:07

TAKESANさん

>ニセ科学というのは本質的に、ニセ科学であるが故に批判を免れ得ないもの、ですが(「騙る」ものだから)、

はい、それが定義に近いですよね。「騙る」ってとこが。それを踏まえている人には「ニセ科学だから」以下略でも通じると思います。しかし「オーラ」をみて「あなたもいっぺん見てもらったほうがいいよ」と真顔で言ってくる人々に対してはまだ全然、関係各位の懸命の努力にも関わらず、通じていないよなあと思っております。

投稿: とらこ | 2008年7月 7日 (月) 11:52

とらこさん、今日は。

基本、オーラや超能力に傾倒する人がニセ科学論に関心を持って、それが限定された概念だというのを知る、というのは、そもそも難しいのだと思っています。

だから、それらをニセ科学と言っている訳では無いですよ、と事あるごとに言い続けるのが重要だと感じます。疑似科学批判として超常現象が批判されてきた歴史もあるし、陰謀論までニセ科学だと言う勘違いする人もいる訳ですしね。

投稿: TAKESAN | 2008年7月 7日 (月) 12:07

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