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2008年4月26日 (土)

何故か

激しく妄言です。

フィクション(の中でも特に、反社会的な事を扱ったりするもの)は、没入したり、キャラクターに感情移入したりして危ない、と言う人はいるけれど。

「俳優」を批判する人は、ほとんどいないよね。

だって、もろに「役に入り込む」じゃないですか。殺人鬼になったり人を騙したり。

インタラクティブどころか、「参加」、「埋没」、「一体化」、「トレース」、ですよ。

え、役者は演じているのを自覚しているからいい、って?

ふうん。

都合の良い解釈ですねえ。

まさか、俳優は身体を動かして演技するから脳が活性化する、なんて言わないよね。いや、さすがにそれは、舐めすぎか。でも、役者が危ない、なんて思ってる人がほとんどいないのは、事実だと思う。

じゃあ、違いはなんだろうね。

なんだろうね。

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「随想」カテゴリの記事

コメント

いや、実際役者という人種は結構危険なのですね。役者の演技のセオリーというのも一色ではないわけですが、没入型・憑依型の役作りをする役者なんてモロに演じた役柄の影響を蒙るわけで、窪塚洋介なんてその典型例かもしれません。

投稿: 黒猫亭 | 2008年4月26日 (土) 08:36

黒猫亭さん、今日は。

あたかも人格が乗り移ったかの如くになり、私生活にまで影響する、という話も聞きますね。ある意味では、それ(没入・投影)がどれだけ出来るか、というのが、役者に求められるセンスの一つ、と言えるのかも知れません。

で、何故そういう所が批判されないかというと(注:批判されるべきだ、と考えてはいません)、あまりにも社会に浸透し、しかもマスメディアの一部を担っているから、だと考えています。新奇の文化は、色々な点で目立ちやすい…。

投稿: TAKESAN | 2008年4月26日 (土) 11:39

こんにちは。
役者に限らず表現者とか才人って、「結構危険」というか、そういう側面はありますよね。それでも役者だから役に没入する経験が多いせいだ、なんて言われはしませんね。むしろ、大物の証明みたいに言う人も(少数かもしれませんが)いるぐらいで。

「スタンフォード監獄実験」「ミルグラム実験(アイヒマン効果)」なんて話がありますよね。そもそも人間って、ちょっとした舞台設定を与えられると簡単にその気になって行動が変わり、さらに暴走までしちゃう。別に特定の傾向がある人間にだけ見られる話じゃないわけで、けっこーデフォでヤバい代物だってことは言えますよね。もっとも、「役割を与えることで成長を促す」なんて善用(?)もできるわけですが。

役者やミュージシャンなどは別の意味で叩かれていますよね。
筒井康隆のエッセーを思い出しました。表現者や才人の奇矯さを受容できない現代社会について、怒りをあらわにしたやつ。ちょっとノスタル爺が入ったような文章だった気がします。昔はこうじゃなかったみたいな。『美藝公』や『スタア』にも、ひょっとすると『七瀬ふたたび』にも類似部分があったような。
1980年に、寺山修司のぞき魔事件てのがあったんです。で、「著名人・文化人の醜聞だ」ってんで新聞や週刊誌がこぞって叩いた。先のエッセーはその際に書かれたものだったと思います。
まあ犯罪は犯罪で、才能によって免罪されるべきなどとは考えませんが、なにごとも程度問題で。それはまた別の話ですね(^^;;

余談ながら「寺山修司のぞき魔事件」については、下記が詳しいです。
http://www.joy.hi-ho.ne.jp/byakuya/bungaku-37.html
尾崎豊と結びつけた筆者の感傷はともかく、実際に寺山がやったこととメディアによって広められたことのギャップが興味深いです。

投稿: 亀@渋研X | 2008年4月26日 (土) 13:57

始めまして、
「So-net blog:Chromeplated Rat」から、ここへ参りました。

私は「俳優」について、
演じる「俳優」自身が、人間の持っている多面性(性格)の中から、役柄において、その自分の一面を使い、演じきれるから、その役柄を演じられるのだと思います。
ロバート・デ・ニーロなどは、すっかり、その役柄に成り切り、性格まで迫真に迫り、自身も役柄のため、自己の体形まで改造してしまいます。

一般の人間も、映画等を観て、自己をその役者に重ね合わせ、心だけは変身していることがあると思います。
一般人も多面性を持って入るのですから、その一面を強調し、普段の人柄(人格)から変身することは出来ると思いますが、世間体(世間の目)があり、踏み込めないのだと思います。
また、そのようにすると、「多重人格者」として見られ、病人扱いにされる危険性もあります。

一般人の変身は、心のスイッチのみの、思考の部分だけが、無難かも知れませんね。

投稿: mohariza | 2008年4月26日 (土) 14:57

>亀@渋研Xさん

同じような面があっても、それをポジティブに捉えたりネガティブに捉えたり、というのがありますね。これは、社会にどのように認知されているのか、というのが関係するのだと思います。生産的であるか、とか、(良い意味で)他者に大きく影響を与える文化であるか、とか。

状況が心のあり方に強い影響を与える可能性は、ご紹介のミルグラムの実験等でも示唆されているものですね(ちょっと一般化してます)。
役者の場合には、とにかく入り込んで、私生活にも影響が出るくらいのやり方が良い、という人もいれば、その場面できっちり切り替えて出来るのが本当で、その他の所まで引きずってしまうのは本物では無い、という人もいますよね。そこら辺も、面白いです。(私は、後者が好ましいと思っていますけれど)

ご紹介の記事、興味深いですね。今でも充分起こり得る事ですね。

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moharizaさん、今日は。

知名度の高い人であれば、過度に没入するような事があっても、それが、「変人かつ非凡」というように、ポジティブに評価される場合がありますね。行動そのものが見られる、というのでは無く、社会的な評価が、見られ方に影響するのではないか、と思います。
多分、たとえば、名も無いアマチュアの演劇人が、同じような事をしたら、「単なる変人」として見られるでしょうね。

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改めて補足。

なんか、俳優をけなしているような書き方になっている、と読む方がおられるかも知れませんけれど、もちろん、「一切」そういう考えはありませんので、よろしく…。主眼は、同じようなものでも、先入観によって評価が大きく変わるのでは、という事です。

投稿: TAKESAN | 2008年4月26日 (土) 15:56

面白いことを考えつかれますね。TAKESANさんの意図を読み違えている可能性がありますが(したがってありきたりすぎる答えかもしれませんが)、

フィクションにはまる人達ではなく、はまるフィクションを批判したいのであれば俳優は批判する必要がない、一方、はまる人達を批判したいのなら俳優は数の上で取るに足らないから取り立てて批判する必要がない、ということなのではと思います。

投稿: ネット沙代 | 2008年4月30日 (水) 22:53

ネット沙代さん、今晩は。

お付き合い頂いて、ありがとうございます。

私自身が考えた反論に、仰るような、数が少ないから、というものもありました。
実は、それへの返答も用意してあって(笑)

ゲームやマンガの影響を云々する人は、「影響の強さ」を強調するが、では、ゲームなんかより遥かに没入度の高い「演技」に関わるのは、より影響が強く、従って、それに本格的に取り組む人数が比較的少なくとも、問題視すべきではないだろうか。

こんな感じです。もちろん、敢えて優先順位問題を利用した詭弁ですけれど。

当然、
▼▼▼引用▼▼▼
フィクションにはまる人達ではなく、はまるフィクションを批判したいのであれば俳優は批判する必要がない
▲▲引用終了▲▲
という所に対しては、現に、マンガやゲームという文化、また、それにはまる「人」をも批判するという現状がある、なんて言い返しが出来るかも知れません。

結局、「違い」を見出して、それを「原因」とする。また、「同じ所」を見つけ、それを、採り上げる根拠とする、というパターンがあるのだと思います。どちらかに恣意的にクローズアップして、どのようにでも詭弁を弄する事が出来るのですよね。

きちんとした科学的根拠について論じなければ、こういう詭弁が堂々巡になってしまう、という。

このエントリーでは、大した根拠も無く「それっぽく見える」ものを批判する現状を、皮肉ってみました。

投稿: TAKESAN | 2008年4月30日 (水) 23:41

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