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2008年4月15日 (火)

認知→身体感覚のあり方

皆さん、歩く時とか走る時、身体を「意識」してます?

どの筋肉が働いているだろうか、とか、足のどの部分が接地するか、とか。重心はどのように移動しているか、とか。

(以下、高岡英夫氏の著作参照)歩きや走りは、一日で数千回は繰り返される運動なので、その構造を意識的に捉え、一つ一つ(一歩一歩)の運動を行うか否かでは、膨大な違いになるのですよね。

たとえば、腿の前側を緊張させようとするか、それとも後ろ側か。同じ大腿にある筋肉ですが、表と裏にある筋肉ですので、機能も全く異なる。どちらを主として用いるかで、運動全体の構造が、がらりと変わる訳です。

当然、「どういう運動が優れているか」、というのは、運動の目的・状況(競技の構造や、身体を取り巻く物理的な環境)によって異なる訳ですね。その中で、より一般的に優れているポイントを見つけ出し、それを日常的な運動で意識する事で、訓練・学習として、生活に組み込む。

武術では、行住坐臥全て武である、とよく仰っていた達人がおられましたが、これは、身体運動次元で考えるならば、上記のような論理を指している、と言えるでしょう(後は、精神的な「心構え」も含んでいる)。

人間は、複雑な認知を持つ動物ですから、「色々運動が出来る」訳ですね。ずっと同じ姿勢をとり続けるという「運動」すらも出来る。だから、運動の構造の個人差は大きいし、変容させていく事も可能。

道具を使う時、どのように操作するか、とか、メンテナンスはどうするか、というのは、考えますね。それと一緒で、自身の身体を対象化する訳です。当然、筋収縮を測定して云々というのは、ごく限られた人しか出来ないので、ほぼ知覚のみを頼りする。今ここの筋肉が収縮しているな、とフィードバックして、ここはこうした方がいいか、と、次に試み、その結果を見て、またフィードバックしていく、という。

当然、それを知るには、解剖学的な知識と、体性感覚を内省する能力が必要です。解剖学的な構造と知覚を対応付ける訳ですね。顕在意識のレベルで。

ハンマー投げの室伏選手は、背骨を任意に動かす事が出来るそうです。どのくらい精密に出来るかは不明ですが、一般の人は多分、脊柱がどういう構造をしているかすら、よく知らないのではないでしょうか。

少々抽象的・比喩的に言うと、「自分の身体を見つめる」、という事ですね。自分の脳が支配している身体を、より分析的に把握する。

更には、バイオメカニクス(生体力学)の次元の論理ともきちんと結び付けたい所ですが、これは非常に難しいですね。まあ、一応、私が目標としている所です。優れた身体運動はどういうものか、というのを科学的・分析的に理解し、それを体現する。どちらも求める。武術と科学の両方に関心を持つ人は、あまり多く無いように思えるので、なかなか理解されないかも知れませんけれど。

身体運動というものは、知覚という、極めて主観的なものが大きく関わってくる現象ですので、外から分析されるのを好まなかったり、という事があります。外から見て何が解るか、という具合ですね。まあ、中途半端な分析ではダメなのは当然で、直感によって「不充分さ」を見破ったり、というのはある訳ですね。スポーツ(特に、運動構造の比較的単純なもの)ではそれほどでも無いかも知れませんが、武術なんかは、直感重視・分析忌避、という所がありますので、科学的分析に目を向けにくいのだと思います。

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