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2008年4月23日 (水)

そんなに天才が欲しいのか

kikulog(「七田眞はなぜ幼児教育の専門家と思われているのか」)に書いた自分のコメントから抜粋。

自分が才能優れた者でありたい、というのは、誰しも持つ願望だと思うんですよね。で、天才で無い自己を認識出来るくらいの思考力はある訳で。それでも、自分と繋がりある存在が優れているのを示す事で、自身の才能が優れていたのだ、という証を残したい。そんな認識があるのかな、なんて。恐ろしき自己満足の世界ですが。

全部想像ですけど。

これは、早期教育とかについてやり取りがなされている所に、書いたものです。

誰だって、自分は優れているのだ、と確認したかったり、優越感に浸りたい、というのは、ある程度は持っていると思うのです。「高い能力を持った存在でありたい」という願望ですね。

で、子どもに早くから、いわゆる「早期教育」を施そうとし、子どもが「天才」的な能力を得る、という謳い文句に食い付くのは、「自分と繋がっている存在が優れている事を示し、自分自身が優れていたという証としたい」、という思いがあるのではないかな、なんて考えています。

表面的には、高い能力を持っていると、将来社会的に優位だから今の内に、というのが主張されるのでしょうけれど、やはり、もっと心理的な、「自分が満足したい」、というのもあるんじゃないかなあ。

ほら、自分が応援している――スポーツ選手でも芸術家でも芸能人でも何でもいいですが――人が活躍すると、あたかも自分が優れている事も証明されたかのような、そんな錯覚を感じる事、あるじゃないですか。え、無い? 私はありますよ。……まあともかく、そういうのを、より身近の存在に求める、というか。今の喩えだと、「この人を応援している自分の見る目は優れていた」、的な自己満足ですが、子どもに天才であって(天才になって)欲しい、というのは、もっと、何と言うか、より自分自身と重ねているような感じ、みたいな。自身と子どもを一体として、その評価を高めたい、というか。

他者からの相対的な評価、つまり、「位置付けられる」事ばかり気にする。「自分が集団のどこにいるか」、という所がいつも頭にあると、凄くきつくなると思うんですけどね。何かを出来るようになる事そのものとか、何かを知る事そのものを追究・追求した方が、楽しいんじゃないかな。

「天才とは何ぞや」、というのは、また別のお話…。

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「随想」カテゴリの記事

コメント

判官びいきというか阪神ファンみたいなのもありますね。
これは別の心理か。

昔、陸奥嵐という相撲取のファンでした。土俵の真ん中で高々とつり上げるまでは良いのだけど、そこで力尽きて勝負に負けてました。

投稿: zorori | 2008年4月23日 (水) 09:06

zororiさん、お早うございます。

養育者が子に(時には過度に)期待するのって、なんか、「究極のファン心理」みたいな感じがします。しかも、自分の評価にも関わる、という(自分で自分を評価する、というのもあるかも)。

投稿: TAKESAN | 2008年4月23日 (水) 10:10

子供って成長が早いので、同じ月齢の子とどうしても比べちゃうんですよ。それで、自分の子が平均より発達が遅いと落ち込んだりする。
早期教育は、こういった親の不安を巧みに煽っているのだと思います。ほかの子より早く読み書きが出来るようになるっていうのは、かなり魅力的だと思います。
TAKESANさんが仰るような心理状態で早期教育を行っている人もいるとは思いますが、私個人の感想としては、むしろ「不安感」から逃れるために始めた人の方が多いような気がします。

まあ、のめりこんでいる人はTAKESANさんが仰るような人が多いと思いますが。

投稿: Noe | 2008年4月23日 (水) 12:22

Noeさん、今日は。

他と較べてしまう、というのは一般的な事ではあるのですよね。それで、不安を解消するために色々やる、という感じなのでしょうね。
早い内に言葉を喋るようになったら凄いと感じるとか、結構ありますし。

でも、その不安感が強過ぎると、のめり込んでしまうんだと思います。もちろん、色々複雑な理由はあるのでしょうけれど。

ちょっと冷静になって、個人差があるものだ、とか、そういう所をちゃんと見ていくのがいいんじゃないかな、と思っています。平均値だけじゃ無くてバラツキを見るとか。

投稿: TAKESAN | 2008年4月23日 (水) 13:11

これ話すと、日本のお母様方はびっくりされるのですが、フランスは義務教育でも、親から「原級留め置き」要求が出せます。勿論、逆に、飛び級も小学校からありますが、飛び級したからって、それを誉める近所のおばちゃんってのも(日本人以外)あまり居なかったですね。

投稿: JosephYoiko | 2008年4月23日 (水) 13:23

JosephYoikoさん、今日は。

 >親から「原級留め置き」要求が出せます。

なるほど、そうなのですね。日本ではちょっと考えられないですね。
(制度的な事は別として、心理的に)日本だと、それを「恥」と感ずる傾向があったりするようにも思います。「遅れている」事に対する気負い、的な。
と言うのも、とても恥ずかしい話ですが、自分自身、そういう認識を持っていた事があるので。(このエントリー自体、自分の経験に基づいている部分があったりします。子どもがいる訳では無いですが)

投稿: TAKESAN | 2008年4月23日 (水) 13:34

TAKESANさん、今日は。

>日本だと、それを「恥」と感ずる傾向があったりするようにも思います。「遅れている」事に対する気負い、的な。

フランスは、「(中学までで習う基本的に身につけていないとまずいことに)無知なのを隠している大人でいるのは恥ずかしい」って文化なので、日本とはだいぶ違いますね。

一応フランスは、話し言葉と書き言葉を区別するので、手紙がちゃんと書けないのはかなり恥ずかしいこととされています。

投稿: JosephYoiko | 2008年4月23日 (水) 14:53

こんにちは。
TAKESANさん。
昨日22日、全国学力テストが行われました。
その記事を書いたので、トラックバックをお送りしたのですが、相変わらず届きません。残念。
と、言う事で、お時間がありましたら、また読んでくださいね。

それで、早期教育。
私なんて強者ですよ。
胎教からやっていました。
「天才は胎教から」って言うタイトルだったか、忘れましたが、あの当時、胎教、はやっていました。
結果、見事天才が生まれました。
7歳までは胎児のことを覚えているというので、尋ねてみたのです。
「覚えている?」
「うん」
おおお〜〜〜これは、これは。と興奮する親ばか。
「ウルトラマンがいっぱいあったよ」
「アアアア、がっく」
です。
以前も書いたように天才ではありませんが、ユニークです。
はぁ===がっく↓

煽られる親ばかの心理、わかります。


投稿: せとともこ | 2008年4月23日 (水) 18:13

追記です。


私は遊びでやっていたのですが(ゆえに冗談ばかり言う子になったかぁ???)
本気で信じている方は、やはり不安というのと、
後はひとえに親の自尊心なのでしょうかねぇ???

この隙間にドンドン入り込んできて、
子どもたちから考える力を奪って行くようなやり方は大きな問題ですよね。
このタイトル「そんなに天才がほしいのか」。
言い得て妙です。
二十歳すぎればただの人っていいますが、
私は二十歳すぎなくても、早いうちからただの人でしたね。がっく。

投稿: せとともこ | 2008年4月23日 (水) 18:53

>JosephYoikoさん

それは、凄く見習いたい部分ですね。
多少遅れても、結果的にきちんと身に着けるのが大事だ、という認識の方が、色々良いのではないかと思います。

------

せとともこさん、今晩は。

今回は、TB届いていないですね。何でだろう。

▼▼▼引用▼▼▼
結果、見事天才が生まれました。
7歳までは胎児のことを覚えているというので、尋ねてみたのです。
「覚えている?」
「うん」
おおお〜〜〜これは、これは。と興奮する親ばか。
「ウルトラマンがいっぱいあったよ」
「アアアア、がっく」
です。
▲▲引用終了▲▲
実に微笑ましいエピソードですねー。
子どもが初めて声を発したり、字が書けたりしたら、嬉しいものなのでしょうね。それが「早い方がいい」、というのは、誰しも考える事なのだと思います。

このエントリーのタイトルの、「欲しい」は、「所有」に近いイメージで使っていたりします。直接的に書くと、ちょっと表現が強いかもと思ったので(つまり、「子は養育者とは独立した存在だ」、と言いたかったのですね)。

私自身が、「自分は天才かも」なんて、よく思ってたものです(あー、恥ずかしい)。自尊心なんですよね、過度の。この場合は、外部からの評価からも閉じていて、まさに自己完結してた訳ですね。そうなると、自分で自分に対して才能があると「思い込んでいれば」良いのですね。物凄い鬱屈です。

まあ、それが全くの間違いであって、自分がどこにいるのか、というのがほとんどどうでも良くなった(そんな所に時間を使うくらいなら勉強する)、というのは、精神衛生上も良かったですね。

これは何度も書いているのですが、私が好きなのは、「大事なのは”自尊心”では無く”向上心”」(要約)、という言葉なんですよね。

投稿: TAKESAN | 2008年4月23日 (水) 19:14

こんにちは。
自意識過剰で自分を天才かもとか思っちゃう「中二病」(使い方あってます?)と、親が子どもになんかせにゃと思い込む強迫観念とは、なんか別のもののような気がしますが……よくわかってません。

親の心理については、下記の記事を思い出しました。

視点・論点 「家庭の教育力とは?」
http://www.nhk.or.jp/kaisetsu-blog/400/8386.html

上記は全体としては妙なねじれがあるような論で気になっているのですが、文中の〈「きっちり」と「のびのび」という子育ての二つの側面〉というのは、そりゃそうだ、とは思います。確かに両極としてあるというか、その間を揺れ動くような部分が親の心理にはある。「なにもしなくていいのか」「よりよい子育てって、どんなものだ」とか考えると、素朴にはどっちかに行きやすいのでしょうね。「別になにもしなくていい」とはならない。時間的経済的な余裕がないからってなにもしないというのは、「親失格」みたいな強迫観念がありがち。

で、早期教育とか幼児教育って、「きっちり派」も「のびのび派」も「一挙両得派」もあるんですよね(「特になにもしない派」も、幼稚園や保育園のなかにはありますが、お教室にはあり得ない(^^;;)。そりゃあ、不安にかられている親御さん、取り込まれるわって感じです。「なにか手を打たないと、自分の気が済まない」のかもしれませんね。

ちなみにうちは「特になにもしない派」に近い「のびのび派」の幼稚園(我が家ではその園の方針を「ひよこの放し飼い」と呼んでいました)が近所にあったので、そこを選びました。
しかし、人気があったのは「きっちり派」の幼稚園でしたね。遠くから通う子はいるわ、定員オーバーで入れない子が出るわ、がんがん改築するわ、もう繁盛ぶりが全然ちがう(^◇^;)

投稿: 亀@渋研X | 2008年4月24日 (木) 05:18

こんにちは、皆さん。たまにはジョークでも書きます。

 小さいときから親父に「平凡であれ」としつけられまして、その教えと親父の背中を見て生きてまいりました。
 私の親父というのは、小さな田舎町の役場職員でございました。それは平凡な人生でごさいました。単に恐ろしく早く役場の中をで出世し、様々な産業振興政策を行ったために、町も貧乏町からかなり裕福な町となりまして、最後は助役でしたが、町長選に引っ張り出され掛けたのを家族全体で押しとどめたというだけのことでございます。
 私は最近は、「平凡に生きよう」と心がけておりまして、時々、思うのでございます。親父の教えの方を背中よりも大事にするべきであったと・・・。

投稿: 技術開発者 | 2008年4月24日 (木) 08:46

>亀@渋研Xさん

七田氏的なものにのめり込んで、という例では、自分が天才だと思いたい、というほど強いものでは無く、「自分も捨てたものでは無い」とか、天才の親である自分は実は優れていたのだ、と確認したい、とか、そういう風な心理ではないかと推測してます。

あ、本田氏の原稿ですね。最後の段落の主張は、私がいつもここで書いている事と同じですね。私は、心理的な所も念頭に置いていますけれど。

早期教育って、三才神話的なものが影響しているのかな、という気もします。乳幼児期の教育が大切なのはその通りでしょうけれど、今やらなくちゃ間に合わない、的な考えに囚われると、却って良くないようにも思います。教育、と言っても、社会常識などに関するものと、いわゆる「勉強」の側面があるでしょうけれど、ここでは、後者をクローズアップしています。

私自身は、礼儀とかはかなり煩く言われてましたが、勉強に関しては、ほとんど何も言われませんでした。「勉強しなさい」と強く言われたとか、一度も無いかも…。

------

技術開発者さん、今日は。

それはまた、絵に描いたような平凡な人生をおくられたのですねえ(えー)。

---

kikulogでは、天才は幸福になれるか、という話題もありましたね。まあ、幸福という概念が曖昧なので、何とも言えないですね。天才も曖昧だけど。

投稿: TAKESAN | 2008年4月24日 (木) 12:02

こんにちは、TAKESANさん。文学的な事で書きましょうかね。

>kikulogでは、天才は幸福になれるか、という話題もありましたね。

「撰ばれてあることの恍惚と不安と二つわれにあり」というのは太宰治が引用したヴェルレーヌの詩の一部ですが、まあ何を持って天才とするかは不明だけど、太宰は少なくとも恍惚も不安も感じるだけのものは持っていたんだろうと思います。そして、恍惚を追い求め、そして不安に耐えきれずに、ああいう死に方をしたのかも知れません。太宰はともかく太宰の周りの人にとつては、あまり幸福な事ではなかったんじゃないかな。

 我が子に「撰ばれてあることの恍惚」を味わわせたいなら、まず「撰ばれてあることの不安」に潰されないようにお育てなさい。さもないと、太宰を失った周囲と同じ悲しみを味わうかも知れませんよ、なんて言ってみたりします。

投稿: 技術開発者 | 2008年4月24日 (木) 17:45

天才は、強烈なる自尊心と、自身を天才と理解してくれる人間が存在しない事による孤独感に圧し潰されてしまうのかな、なんて思います。
自分が天才である事を理解するのなんて、天才で無い周りの人間には出来ないし、出来たらそれは、自分の天才を否定する事になるから、二律背反的なのかな、とか。しかも、自分を天才であると誉めそやす人は、表面的なものを見ているだけで、決して「解っている」訳では無いから、そこにまた苛立つ。

そんな事を考えると、幸せか否か、というのは、「能力」の高低と強く連関する訳では無いんじゃないかな、と思います。幸せというのも個人で閉じているものだから、複雑ですね。

ちなみに、ここで出したような例、「天才」と呼ぶには程遠い気もします。だって、あまりに人間的、ですしね(笑) 天才は超然としていないと(←「天才」概念に、心理のあり方を含めちゃってますね)。

投稿: TAKESAN | 2008年4月24日 (木) 18:42

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