見えれば安心
「漫画、アニメ、ゲームのせい」は「天狗の仕業」と同じ思考停止 - 最終防衛ライン2
何でもいいから原因を知りたい、これが原因だ、と「納得」したいのかも知れませんね。もしくは「安心」。でもそれって、不安を駆り立てる事でもあると思うのです。広く普及しているものが要因だ、と言っている訳だから。事実ならともかく、根拠が薄弱な話なので、愛好している者としては、かなり困りますが。尤も、それを言ったら、問題のあるメディアを愛好している者が困るなど構わない、と返されるのでしょう。で、何故そう思う、と訊けば、凶悪事件を起こした人間がゲームを愛好していたから、となるのかな。
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コメント
こんにちは。
>何でもいいから原因を知りたい、これが原因だ、と「納得」したいのかも知れませんね。もしくは「安心」。
しかもその原因は、あくまでも「アチラ側」である、と。(つまり、「真剣に向かい合っていない」ものが選ばれるのはたまたまではなく、そういうのが選ばれているのでしょう)
自分と別世界のものを「原因」に据えることで、自分は当事者側にいないですむんですよね。あくまでも第三者的傍観者として存在できる。本当は世の中複雑で、ひょっとしたら自分がその事件の原因の一翼を担っているかもしれない。でもそんなこと考えるのはストレスがかかる……。自分が何らかの行動や反省を求められるのはイヤ。
それを避けるツールとして、あくまで自分の世界の外にある「妖怪」を原因にする必要があるんでしょうね。
投稿: みづ | 2008年4月 4日 (金) 01:15
みづさん、今日は。
そうだと思います。「普通の側」と「そうで無い側」に分けて、自分が普通の側にいる、と安心したい、と言うか。それを分ける条件が、ゲーム等にのめり込んでいたかどうか、という所なのでしょうね。
投稿: TAKESAN | 2008年4月 4日 (金) 12:04
こんばんは。
お二人の仰る通りだと思います。
犯罪者は自分とは違う人種だと思いたい。
自分の中にも犯罪者となり得る要素があるなどとは絶対に思いたくない。
異質なものが原因だと解れば安心できるし、それを排除するのも楽になる。
恐怖と不安を解消するには最適なわけです。
ところで、今日の「視点・論点」では斉藤環先生がこの事件について述べておられましたね。私はTVを点けっぱなしにしてコメントを書いているのですが「何だか凄く良い事を言っているような気がする」と思ってふと画面を見たら、斉藤先生でした。
うー、もっとちゃんと聞いておけば良かった。
投稿: PseuDoctor | 2008年4月 9日 (水) 23:18
構造的には、全く「差別」と同じなのですよね。異質なものと正常なものを分類して、自分を正常側に置きたがる。
こういうのは、社会学やら人類学で考察されているのでしょうね。
>斉藤環先生がこの事件について述べておられまし
>たね。
おお、そうだったのですか。うーん、観たかったなあ。
投稿: TAKESAN | 2008年4月10日 (木) 00:21
再放送ありますよね.朝の4時半くらいに.きくちさんのときは,それをビデオに録りました.
ところで視点・論点は,文字起こし,っていうか元の原稿をウェブに残すようになったんですね.この3月からの分があるようです.
http://www.nhk.or.jp/kaisetsu-blog/400/
投稿: たかぎF | 2008年4月10日 (木) 01:15
たかぎFさん、今日は。
ああ、きくちさんの時は、再放送を観たのだった。
今回は余裕で見逃しましたが(笑)
NHK、GJですね。
投稿: TAKESAN | 2008年4月10日 (木) 12:51
お、上がってます⇒http://www.nhk.or.jp/kaisetsu-blog/400/8078.html
読もう。
投稿: TAKESAN | 2008年4月11日 (金) 01:47
斎藤環の「視点・論点」、前半はいいとしても、後半は、いつもの斎藤の「精神分析風タワゴト」という感じで感心しません。
「実存の不安」というのも、あまりにも文学的な概念で、現実の分析に役に立つと思えない。
「ゲーム」のせいにするにせよ、「実存の不安」の表れと見るにせよ、通り魔的な事件が2,3件続いたからと言って、性急に意味を読み取ろうとするのは止めたほうがいいんじゃないかな、と思いますね。
投稿: a-gemini | 2008年4月11日 (金) 21:45
私もテレビで観てて、前半「いいぞいいぞ」ってかんじだったのですが、後半は「なぜその前提でそこにとんでいくー~」ってかんじでした。結局匿名性のシステムがいかんぞみたいな。それこそ、過度の一般化になっておりましたね。あと本人診ないで、言っちゃだめだと思います。
投稿: 安原 | 2008年4月11日 (金) 22:16
a-geminiさjん、安原さん、今晩は。
ああ、やっぱり同じような感想を持たれましたか。
後半になって、「あれっ」と思いました。
私自身は、たわごととまでは感じませんでしたが(前半の言が無ければ、また印象が違ったかも知れません)、それでも、少々推測に基づくロジックが過ぎるかな、という印象でしたね。聴いていて、「そういう事もあるかも知れない」としかならない、と言いますか。
投稿: TAKESAN | 2008年4月12日 (土) 01:21
こんばんは。
あちゃらかな後半にだけ反応してエントリ書いちゃったわたしです。「関心のあるテーマが思い起こされる話に触れると、ついつい妄念が湧き出るのを止められない」という事例の連鎖反応ですね(汗)。
a-geminiさん
そうですか、〈いつもの斎藤の「精神分析風タワゴト」〉なんですか。斉藤氏の書いたものって、ゲーム脳に関するインタビューと、茂木氏との往復書簡(って、往復しなかったけど)ぐらいしか思い出せないのですが、そんなにいつもヌルいんですか。
安原さん
>本人診ないで、言っちゃだめだと思います。
確かに、精神科の臨床医なんだから、そうなのかもしれないですね。少なくとも、本人を診ないで経験に基づく憶測を語ってるんだから話半分に聞いてね、ぐらいなエクスキューズが必要でしょうかね。
NHKのwebで読み返してみると、〈いまや「生存の不安」はリアルなものではなくなり〉で始まる段落の最後に〈どういうことでしょうか〉というフレーズがありますが、ここからは勝手に自問自答モードなんですね。事実に基づく議論ではなくなって、印象に基づく持論の展開になっちゃっていますね。
さらに〈「誰でもよかった」という言葉は特別の意味を持つように思います〉以降は、感傷に過ぎないとも言える。なのに、カントを持ち出しているのは、意地悪に見れば、それで自説を意味ありげに見せる演出とも考えられますね。
「勝手に自問自答モード」以降は、「これは憶測でしかないけど、こう考えるとつじつまが合うのではないかと考えてます」……とかなんかエクスキューズがありゃあ、また印象は大きく違うのかな、なんて思ったりもします。もっとも、そんなエクスキューズをつけても気にしない人はしないのだろうし、そもそもそんなもんなら、あんな番組でまことしやかに語るな、という話もありますが(汗)。
投稿: 亀@渋研X | 2008年4月12日 (土) 02:33
亀@渋研Xさん、こんにちは。
斎藤が依拠しているのはラカン派の精神分析理論で、 これは実証性の欠如した観念的な図式を振り回すものです。
Wikipediaで「ジャック・ラカン」の項目を読んでもらうと、なんとなく雰囲気がつかめるかと思います。
斎藤は、思想的にはポストモダンの人なので、ヌルイのが普通で、「ゲーム脳」のときの実証的な態度はむしろ例外的だったと思います。
実際の臨床の場では、おそらく、精神科医として現実的な対応をしているのではないかと思うのですが。
投稿: a-gemini | 2008年4月12日 (土) 08:58
ついでに。
香山リカもラカン派のはず。言説上は、あまり表れていない気もしますが。
投稿: a-gemini | 2008年4月12日 (土) 09:05
こんにちは。
私も、テキストになったものを読んで「あれ?」と思いました。でも、後半の話までしっかり聞いて理解した人ってそれほど多くなさそうですから「自説補強の為に都合の良いところだけ引用する」というワザは使えそうです(←悪人)。
良い子は真似しちゃダメですよ。
投稿: PseuDoctor | 2008年4月12日 (土) 12:00
亀@渋研Xさん、a-geminiさん、今日は。
まず、私は、斎藤氏の言説として、例のゲーム脳批判や往復書簡、あるいは、『心理学化する社会』を読んだ事がある程度で、著作等を多く参照している訳では無いので、それまでの言説に関してはあまり知らない事を、お断りしておきます。
後半の部分については、様々な仮定をおき、「その仮定が概ね正しい場合に」妥当と言える、という主張になっていますよね。つまり、そういう意味では、ゲームが心理に悪影響を与え…という仮説を語るのと、論理的にあまり変わらない。前半では、ゲームとかでは無く複合的な要因がある、と言っているのに、後半では、その要因として社会システムと心理との関係についての仮説を展開する。
この論理展開が妥当か否か、といえば、私は「妥当では無い」、と捉えます。これは当然、「言っている事が的外れで全然当たっていない」、という意味では無く、「あくまで仮定・仮説としてみれば興味深いかも知れないが、あの場で語るのには論拠が乏しい」、という意味ですね。
個人の心理形成を、社会システムの構造「故に」と説明する事は、興味深いものではありますが、語る際には慎重になるべきと考えます。
投稿: TAKESAN | 2008年4月12日 (土) 12:14
「あいろにかるな没入」、「あえて」なんでしょうね(笑) 前提で「わかってるよ」とやっておいて、後半同じ穴に入っていくっていう言説の作り方って、慣れると引っかからないんですけど、言説の論理構成を無効化するので、好きじゃないです。「まだやっとんのか」というのが正直なところの印象でしょうか。
>本人を診ないで経験に基づく憶測を語ってるんだから話半分に聞いてね、ぐらいなエクスキューズが必要でしょうかね。
ちなみに浜井先生に「殺人事件がおきたら、(こんなような)コメント求める取材来ませんか?」と以前お伺いしたら、浜井先生は臨床心理士でもあるので、「本人診ないでいえないので断ってます」っておっしゃってました(診たからってほいほいと出せるものもないのですが)。
犯罪と精神分析の関連での本ってなかなか良書が少ないですが、手軽なところでは林幸司さんの「ドキュメント精神鑑定」、最近読んだ本では「犯罪と司法精神医学」中島 直著がすごくよかったです。「刑務所の風景」は統計の専門家の浜井先生がメインではなく、臨床心理士の浜井先生の本ではないかと思います。いわゆる「参与観察」のその記述方法を比べてみるとおもしろいかもしれませんね。
投稿: 安原 | 2008年4月12日 (土) 12:20
PseuDoctorさん、安原さん、今日は。
ああいう類の言説というのは、「色々言えてしまう」、という所があるのでしょうね。
斎藤氏は、明らかに解ってやっておられると思います。
安原さん
▼▼▼引用▼▼▼
「本人診ないでいえないので断ってます」っておっしゃってました(診たからってほいほいと出せるものもないのですが)。
▲▲引用終了▲▲
ここが物凄く重要なのですよね。ワイドショーなんかで見る「専門家」は、早計過ぎると思う…。
浜井氏の本は、「必ず読む本」リストに入ってます(笑)
投稿: TAKESAN | 2008年4月12日 (土) 12:31
みなさま、勉強になります。
特に前段で批判した構造を後段でやっちゃってるというのは、自覚的なのだとすると、悪質やなあ……。
安原さんご指摘の「診ないで言う」ですが、ふと思ったのですが、医師の場合は「診ちゃったら守秘義務があるので患者その人についてはナニも言えない」ってことはないんでしょうかね。言える範囲で言うというワザが使えるのかしら。
投稿: 亀@渋研X | 2008年4月12日 (土) 13:52
お久しぶりのNo.4560です。
2つほど。
今朝ここを読んだときに、ちょうど「心理学化する社会」を引き合いに出して書こうかなぁと思ってたんですけど、こういう件に関してはp.145-p.147あたりで断ってますよね。
ちょっと引用します。
--
コメントを出す際、「このコメントをあまり信じるな」というメタメッセージを同時に表明すること。たとえば、香山リカ氏の場合、ペンネームで露出することがそうしたメッセージの代わりになるだろう。それでは、すでに本名で露出してしまった僕はどうすればいいか。僕は「精神分析」という、たいへんうさんくさい立場からコメントする。精神分析家ですらない僕が精神分析的に語ることで、「真実の語り手」という立場を、常に免れることができるはずだ。
--
斎藤環「心理学化する社会」(PHP研究所)p.146より引用。
僕の率直な感想を書くと、「免れていない」と思いますが、分かっていてやっているのは間違いないです。
もう1つ。
どこだったか忘れましたが(ので、以下の文章はきちんとした要約になっていないです)、現状におけるメディア露出に関しては、
「自分が断った場合は、別の誰かに依頼が行くのだろう。それが町沢静夫や森昭雄だったらどうするのか?それなら自分がコメントした方がまだましだろう」
ということを書いていたと思います。
現状において、「より駄目なコメントを防ぐために、あえてまだましなコメントをする」という考え方は、個人的にはありです。
もちろん、その「まだましなコメント」もどこかで批判、もしくは修正されるべきですが。
(斎藤環自身も書籍でやっていますが、他の人によっても。)
斎藤環氏の書籍に関しては、良いのもあれば、悪いのもある、という印象です。
投稿: No.4560 | 2008年4月12日 (土) 14:06
もちろん、どこまで解ってやっているか、というのは、なかなか判断しづらい所ではありますね。
心理学者やお医者さんの講義を受けた事があり、事例も紹介されましたが、守秘義務に関しては、かなり気を遣っているようでした。
診ないから色々言えちゃうし、診たら軽々しく言えない、という事なんじゃないかなあ、と。
投稿: TAKESAN | 2008年4月12日 (土) 14:09
No.4560さん、今日は。
私自身は、『心理学化する社会』は、大変面白く読みました。ゲーム脳批判のインタビューも知っているので、斎藤氏に対しては、比較的好印象を持っています。
今回のものに関しては、斎藤氏の意図(斎藤氏に悪意のようなものがあるとは考えていないです)と受け手(テレビを観た、WEBで読んだ)の取り方が果たして合致するだろうか、というのを考えました。率直に言うと、受け手がそんなにメタな見方をするだろうか、という疑問を懐いた訳ですね。
構造的には、前段で否定した論理展開と似たようなものを後段で主張しているので、やはり妥当とは思えないのですよね。
投稿: TAKESAN | 2008年4月12日 (土) 14:17
>個人の心理形成を、社会システムの構造「故に」と説明する事は、興味深いものではありますが、語る際には慎重になるべきと考えます。
その「社会システムの構造」っていうのも、斎藤の場合、雰囲気的でアイマイなのが問題なんですよね。
日本の社会が匿名化している、と言われても、「まあ、そうかもしれないけど」って言う程度でしかないし。
「社会のインフラがネットワーク化、システム化されると、社会全体の匿名化が進みます」と言われても、「どうしてそうなるんですか?」って訊きたくなるし。
投稿: a-gemini | 2008年4月12日 (土) 14:25
TAKESAN さんの一連のゲーム脳説批判に関連する言説として、リンクを辿って読んでみました。最初一読した際は皆さんと同様、後半の展開には「をいをい」と苦笑混じりのツッコミを入れてしまったのですが、皆さんのご意見を拝見して斉藤氏が自身の言説の論理矛盾に無自覚ではないという前提で読むと、また違ったふうに見えてきました。
皆さんが問題視されている後段の前置きとして、
>>それらの解釈が正しいものかどうかについては、私はあまり関心がありません。
(中略)
メディアの勝手な解釈とは別に、精神鑑定なども含めて、事実関係がきちんと解明されることを希望します。
に続けて、
>>ただし、このような犯罪には、それに対するメディアの反応も含めて、さまざまに象徴的な意味を読み取ることはできると思います。私がこれから述べるのは、個別の事件についてというよりも、事件の持つ象徴的な意味についての解釈です。この点をまずご了承下さい。
と語られていますが、ここが重要なんでしょうね。タームの厳密な運用が為されているという前提で読み解くと、非常に周到な論理に基づいて自身の言説をメタ化することによって、言説の流通に付随する毒を無効化していると言えそうです。
つまり、斉藤氏は「メディアの勝手な解釈」には事件の実相に迫り得る意義なんてないんだよ、という警戒を促した上で、でも今自分に求められているのはまさしくそのような「勝手な解釈」だよね、と受けて、「解釈」である以上事件の実相になど迫り得ないのだから、自分は自分が個人的に事件から読み取れる「象徴的な意味」についての「解釈」を語るだけだ、だからそういう前提で以下の話を聞いてね、そういう非常にロジカルな規定に基づいて毒にも薬にもならない一般論を語ったのだとすれば、メディアに接する姿勢としてナイーブどころの話ではないですね。
この言説が流布することで、たとえばゲーム原因説(含むゲーム脳説)に対する一定範囲の対抗言説に成り得るわけだし、斉藤氏自身の本論と規定された「象徴的な意味についての解釈」が流通したとしても、「社会システムを恣意的に問題視する」という雑駁な姿勢に与するというデメリットがある一方、「名前のないテストケースとして解釈するのではなく、個人の具体を視ていくべきだ」というメッセージは伝わるわけで、そういうデザインに基づいた言説とすれば、非常にメタ的な視点に基づいて、言説の流布の末端まで周到且つ現実的に設計されていると言えそうですね。
その意味で、この前置きが亀@渋研Xさんが仰っているエクスキューズに相当するのかなと思わないでもないです。また、そういう解釈で視るなら、斉藤氏は自身の言説の意図が正確に読み取られた上で他者に働き掛けることを期待しているというより、自身の言説が、そのメディアに接する平均的な受け手に対して、どのように流通し、どのように扱われ、どのような影響を与えるのかという戦略的な視点でテクストを考えておられるのかな、と思います。
つまり、受け手のリテラシーに対してシニカルな見極めがあるのかな、と。一種論壇全体の水準的な知性や議論のインタラクティブ性を期待出来るネットの言説とは違って、TVや書籍という形でマスコミに露出し一方的に不特定多数へ向けて情報発信する以上、非常に低いレベルで平均的リテラシーを想定し、そこに自身の言説が届いた場合に起こる影響の実態にも考慮を払う意識的な身振りが必要になるわけで、そのような低リテラシーを想定した上での発信として、このような戦略・戦術にも一理があるのかな、と思います。
投稿: 黒猫亭 | 2008年4月12日 (土) 18:20
簡単に言っちゃうと、事件自体を解釈して理解したいわけじゃなくて、事件をダシにして自分の言いたいことを言ってるだけということじゃないかなと思う。
投稿: a-gemini | 2008年4月12日 (土) 19:05
黒猫亭さん、今晩は。
>a-geminiさん、黒猫亭さん
この話題、まず、斎藤氏の主張そのものは妥当か、というのと、氏が自身のロジックのトリッキーな所にどこまで自覚的であるか、という論点があるかと思います。
主張そのものに関しては、特にきちんとした論拠を挙げずに社会の構造との関係を論ずるという所が、妥当では無い。論理的には、ゲームが心理に影響を与えたのだ、と言うのと、さほど変わらない。
だから、主張自体を検討すると、後段で斎藤氏が言っている事は妥当では無い、と結論するのが適当であろうと思います。
で、斎藤氏が自覚的であったか、というと、恐らくそうであっただろう、と推測します。で、その意図を考えると、私は、黒猫亭さんが推察されているような事情があったのではないか、と考えます。
斎藤氏に好意的に見れば、かなり周到に練られた言説である、と言えるかも知れないが、それは、「そもそも注意深く読む」層にしか伝わらない訳で、そういう意味では、私はあまり妥当では無かった、と判断します。
黒猫亭さんが示して下さった前置きの部分、結構な念押しとも取れるのですよね。しかるに、後段の内容そのものが、首を傾げざるを得ないものになっている。
面白い構造だな、とは思います。これが面白いと感じ取れるかどうか、というのがポイントになるのでしょうね。
投稿: TAKESAN | 2008年4月12日 (土) 19:17
発信者の意図は、もう、推測するしか無いです。
言えるのは、「本気」だとすれば、分析が妥当とは言えないし、「意図的」だとすれば、戦略的に良いとは思えない(むしろ不誠実とも言える)。
こんな感じかと。
投稿: TAKESAN | 2008年4月12日 (土) 19:21
こんばんわー。
>「診ちゃったら守秘義務があるので患者その人についてはナニも言えない」ってことはないんでしょうかね。言える範囲で言うというワザが使えるのかしら。
ご紹介した本とかはそのあたりに気をつけて出してる本ですから、記述方法見ていただくしかないという説明しかできなくてすいません><
あと、そうですねえ・・90年代の少年犯罪分野の言説はこういうパターンなんです。「少年犯罪は減っているが、だがしかし・・・」みたいな。だがしかしからは、完全に社会変動論と結びついちゃってます。結局「だがしかし」からが発言者のいいたいことと、オーディエンスはおもにそこしか聞いてないわけです。つまりこの前提部分をちゃんと検証しなかったからこそ、結果的には青少年凶悪化言説になってしまったのではないでしょうかね(前提部分が聞ける人はいいんですが)。だから「戦略なら」、負けたやり方だと思ったほうがいいんじゃないかなあと。
>TVや書籍という形でマスコミに露出し一方的に不特定多数へ向けて情報発信する以上、非常に低いレベルで平均的リテラシーを想定し、そこに自身の言説が届いた場合に起こる影響の実態にも考慮を払う意識的な身振りが必要になるわけで、
ということを考えると余計
「このような戦略・戦術にも一理があるのかな、と思います。」
とは私はぜんぜん思えないんです。前半だけでコメントをすることは可能ですしね。斎藤さんが言われてる匿名性の社会どころか、ネット上で実名がすぐ公開されてしまうことのほうが困ったものだなあとおもいますし。
新聞も取材するなら例えば「診てないものをとやかく言えません」というコメントをそのまま載せればいいのではないかと(それはなぜなのかというところもあわせて)。酒鬼薔薇のときは精神鑑定を公開しました。社会の「知りたい」という欲求にこたえたことで、結局は、余計社会をびびらせたことになりました。結果的には「理解する」という方向には行きませんでした。私は家裁は出すべきではなかったのではないか(どうせ出すならもう少し時間がたってから)思っています。
少々お口が悪く申し上げますと、本当に申し訳ありませんが、「小賢しいのも馬鹿も大差ない」というふうに見ております。
「ゲーム脳批判」とかはすばらしいお仕事だと思いますが。
投稿: 安原 | 2008年4月12日 (土) 19:46
>a-geminiさん、TAKESANさん
オレは斉藤環氏のことをまったく識りませんでしたし、リンク先の書き起こし以外は発言や著作を読んだこともないので、確信的なことは何も言えませんが、こちらで挙げられたご意見に基づいて、斉藤氏が意識的に修辞的な発話を行っていると想定した場合、どういう計算が考えられるだろうか、という観点で考えています。
そうすると、多分この人は論理構造の整合性や妥当性によって水準的なリテラシーの受け手を説得する言説を発しているのではなく、窮めて低いレベルのリテラシーの受け手を主に想定して、言説の流通の結果から逆算してテクストを設計される人なんではないかという印象を覚えたわけですね。
おそらく、こちらで書き込みされているような方は、論旨の展開や論理構造、状況分析の妥当性等を以て言説の価値を判断するという、窮めて真っ当な論者ばかりだと思うのですが、多分この発話のメインターゲットはそういう受け手ではないのではないかという気がするんです。
結果から逆算するということは、つまり結果次第で意義が決まる言説であるという不確定性を含んでいるわけで、その結果の見積もりは人それぞれでTAKESAN さんのように剰り効果的ではないという判断も在り得るでしょう。そこが面白いと謂えば面白い部分であって、結構効果的なんではないか、という見方もやっぱり成り立つわけですね。
たとえば、オレの個人的な判断としては、後半の社会批判みたいなものは斉藤氏自身も真に受けていないでっち上げの詭弁ではないかと思っているんですが、この種の番組において「専門家」的な立場にある方がこのように言明することで、低リテラシー層に対しては一定範囲で受け容れられるわけです。それはつまり、言説それ自体の論理構造がどうとかではなくて、「誰が言っていることなのか」という要件で物事を判断するような受け手ということですね。
で、ニセ科学批判に携わっておられる方々なら骨身に沁みて感じておられると思うのですが、ニセ科学問題の根幹にはこの種のリテラシーがあるわけで、「専門家が言っているんだからそうなんだろう」という天下りの受け取り方をする受け手のマッスというのは、かなり大多数に上るわけです。われわれがネットで発話する場合、こういうリテラシー自体を批判することは自由であり、何のしがらみもないわけですし、異論があれば徹底的に議論を尽くすことが出来るわけですが、マスメディア上でリテラシー批判をすることはおそらくタブー中のタブーでしょう。
つまり、「偉い人の発言を鵜呑みにする受け手」のマッスを大前提として受け容れる必要があるわけです。リテラシー批判や「常識を持て」式の批判というのは、オレやpoohさんがよく語るわけですが、TVにおいて識者がリテラシー批判をして「今これを観ているあんたらのことだよ」とは言えないわけですね。
斉藤氏の言説というのは、多分そこを織り込んで設計されているわけで、結果から逆算されている以上、考え得る限りの受け手に届いた「結果」が全体で最良になるように調整されているんではないかという印象を覚えました。それこそ詰め将棋とかゲームのような考え方ではないかと思うんです。トータルで結果がポジティブならよしとする、というような。
たとえば識者の言明を鵜呑みにするような層に対しては、「殺人にはいろいろな原因が複合的に絡んでいて、単純な原因究明は出来ない」「ゲームをたくさん持っていたからゲームのせいだなどという推測は馬鹿馬鹿しい」「事件の実相に迫るなら、無名のテストケースとしてではなく、個人の実態に即して考えるべきだ」という一連の主張が届くわけで、それを理論附ける社会分析なんてのは牽強付会の修辞で構わない。要するに、この領域の受け手にとっては妥当な分析であるか否かというのは重要な判断要件ではないわけで、一応のストーリーが立っていれば印象論でも何でもいいわけです。
で、この斉藤氏の「主張」の部分には根拠や筋道が明示されていないわけですが、その内容が妥当であることは概ね良識的な受け手は肯定し得るわけですね。今ここで問題になっているのは、前段で問題視した方法論を後段で用いている循環的なメタ構造の矛盾ですから、主張の内容自体が批判されているわけではない。斉藤氏が合目的的にこの主張を低リテラシー層にも届かせようと考えて言説をデザインしたのであれば、それは一定範囲で効果的だという見方は出来るわけです。
一方、比較的リテラシーの高い層においては、斉藤氏の言説のメタ構造や社会分析のいい加減さに目が行くから、これも大した悪影響はない。寧ろ自己言及的にでっち上げの部分をでっち上げですと断ってから始めているわけで、その内容も胡散臭いジャーゴンがこれでもかと鏤められているわけで、高リテラシー層に向けたジェスチャーとしては十分ですから、論理的に言えば文句を言う筋合いはないわけです(笑)。
こういうことを意識的に考えているんだろうな、というのは、たとえばNo.4560 さんのコメントに引かれた二つの引用からも見て取れるわけで、たとえばTAKESAN さんやこの界隈の論客の方々が、一定のリテラシーの論者を想定し、相互信頼の原則に則って真っ正直に論理を尽くすやり方とは、別種の身振りを考えているのだろうと推定出来るわけですね。
それはまあ、たしかに欺瞞的であったり詐術であったりという胡散臭い部分は不可避的に伴うわけですが、オレたちネットワーカーは基本的に言説を届ける相手に水準的なリテラシーや対話を要求することが出来るのに対し、斉藤氏の立場では桁違いのマッスの不特定多数へ向けた一方的発話という制約がある。そこでは一種の自覚的な戦略性を持つ必要はあるんだろうな、ナイーブに真っ正直を貫くことが必ずしも言説に責任を持つ姿勢であるとは言えない局面はあるのだろうな、とは思えるわけです。この辺、poohさんや技術開発者さんが屡々語っておられる、言説の到達距離と戦略・戦術の問題とリンクしてくるんではないかと思います。
ただまあ、poohさんのところでも語ったことですが、相互信頼の原則を放棄して戦略的な身振りを採用するということは、その言説が招来する結果に対して功罪共にすべて引き受ける必要があるわけで、まあ難しい立場ではあると思います。
投稿: 黒猫亭 | 2008年4月12日 (土) 20:35
>安原さん
>>少々お口が悪く申し上げますと、本当に申し訳ありませんが、「小賢しいのも馬鹿も大差ない」というふうに見ております。
多分、安原さんのお立場では、そのように受け取られるのが妥当なんではないかと思います。多分、多分ですね、斉藤氏の言説というのは、それ単体で考えたら、実にくだらない話をしているんではないでしょうか。で、それを肯定的に視るならば、「莫迦を相手に小賢しい知恵を凝らす」のが斉藤氏の選択した立場なんではないかな、とか思ったりするわけです(笑)。まあ、精神科医だそうですし。
こういう言い方をすると「ニセ科学批判者は傲慢だ」という話になるんでしょうけど、やっぱりゲーム脳を主張するとか、殺人事件のゲーム原因説なんてのは、「莫迦の考えること」なんですよ。で、莫迦の考えることに対して利口な情報発信が直接有効かというと、そこはかなり難しい問題になってくるわけで、ニセ科学問題一般というのは、「この種の莫迦をどうするのか」という問題に行き着いてしまうわけで、その戦術として小賢しさも有効なのかなと思わないでもないわけですね。
投稿: 黒猫亭 | 2008年4月12日 (土) 20:51
>黒猫亭さん
とても面白いんですけど、やっぱり深読みのし過ぎかな、と思います。
斎藤が、「実存の不安」とか「システムの中で、自分だけの固有の名前を持つことができる人と、匿名のまま名前を持つことができない人の格差です」とか書いているのを見て私が思い出したのが柄谷行人なんです。前の方で斎藤がポストモダン思想の影響を受けていると書いたのですが、柄谷という人は日本のポストモダン思想の中心人物だった人です。
で、柄谷の発言をちょっと引用してみます。ハイデッガーがどうとかレヴィナスがどうとかいうのは気にせずに、字面だけ眺めてほしいんですが。
▼▼▼引用▼▼▼
イポスターゼというのは実詞化と訳されています。それは、いわば名前をもつことですね。ところが、イポスターゼというのは、もともとは実体化という意味でしょう。ハイデッガーは、こういう実体性を批判して「実存」と言ったし、「共同存在」と言ってきた。それは、西田哲学でもそうだけど、主語ではなく述語を優位におくことですね。意識主体ではなく、存在あるいは西田のいう「場所」を優位におく。レヴィナスが言うのは、そういう考え方は「暴力の哲学」になるということです。レヴィナスは、そのことをあとでは「顔」という言い方で言ってますけど。
(略)
たとえば、犬は殺せてもポチと名付けた犬は殺せない。(略)顔はまだ無視できるんですね。名前は殺せないですね。ぼくは歴史は固有名なしにありえないと思う。(略)
▲▲引用終了▲▲
斎藤の発言との類似性は明らかだと思います。
斎藤という人は、例の往復書簡の文章を読めばなんとなく分かると思いますが、一般の人達に対してでも、内輪でしか通用しないような知識を前提にして発言してしまう人で、その”内輪でしか通用しないような知識”というのが、ラカンや柄谷に関する知識なわけです。
実は、恥ずかしながら私は斎藤と同様に、柄谷らポストモダニストと呼ばれる人達の影響を過去に受けてしまっている(今では全く興味ありませんが)いわば”内輪の人間”なので、斎藤が何故こんな妙なことを言うのかというのが理解できてしまうんです。
それで、『視点・論点』の発言を読んで、ああ、またいつものヤツだな、と思ったわけです。
投稿: a-gemini | 2008年4月12日 (土) 22:23
ひとまず、斎藤氏が「解っていて」あのような言説を主張した、と前提します。
で、そのような戦略・戦術は果たして妥当か、という観点になろうかと思います。
当然、結局それがどのような効果を及ぼすかは推測するしか無い、というのは押さえておきたい所です。※という訳で、斎藤氏の言説がいかなる効果を及ぼし得るか、というトピックは、頃合を見て打ち切るかも知れませんので、よろしくです>皆さん
で、それを踏まえて、私自身の考えを書きますと、私自身は、いかなる戦術であれ、きちんとした論拠を示さずに展開するのは妥当では無い、という立場で、安原さんに近いと思います。
これは恐らく、体感治安悪化言説や俗流若者論(後藤和智氏による)に関心を持っている、というのが関係しているでしょう。
私としては、社会現象なり自然現象なりの論理構造について、マスメディアによって発信する場合、修辞を無闇に用いるのは、「してはならない」に近い認識を持っています。そういう意味では、ある種の潔癖さと保守性を求めます。これは、マスメディアに対して基本的に不信感を持っているからですね。ネットほどの双方向性が無いが故に、「事実に基づく情報発信」を行うべきである、というのが、今の所の、私の持論です。
斎藤氏のテクニック(であるとして)が上手く作用させるようなメディアであるとは、私には思えないのですよね。むしろ、ネットで色々検討されて批判されて…というのに向いている気も。
投稿: TAKESAN | 2008年4月12日 (土) 22:25
>a-geminiさん
引用文、難解ですね…。
▼▼▼引用▼▼▼
実は、恥ずかしながら私は斎藤と同様に、柄谷らポストモダニストと呼ばれる人達の影響を過去に受けてしまっている(今では全く興味ありませんが)いわば”内輪の人間”なので
▲▲引用終了▲▲
ああ、なるほど。そういう事情もあるのですね。
私は、現代思想を入門書レベルで勉強していて、ポストモダン辺りであまりにも意味が解らなかったのでさようならをした、という経験があります。
自分自身、科学的根拠を蔑ろにしてロジックを組み立てて社会問題を分析する、的な言説に親しんでいた時期があり、その時の自分の認識を憶えているから、やはり批判的に見てしまいます。「説得力」を持つのですよね。物事を解った気になってしまう。これはなかなかの魔力を持つと思います。
上にも書いたように、私は、事実に基づいた発言をするべきだし、推測や仮説であるなら、それを「くどいくらいに」事前に説明すべきである、と考えています。マスメディアによって自説を発信する場合には、そうすべきだと。
ある現象の要因なりを主張する際には、それまでに得られたエビデンスを紹介すべきだと考えます。
投稿: TAKESAN | 2008年4月12日 (土) 22:36
どっちかいうと、誰にでもわかるように語ってほしいと考える人間なので、単純に「前半でやめときゃいいのに」(視点・論点だし、ワイドショーでもないわけなので、編集方針に迎合する必要もないし、へんな編集はしないでしょう?)。内容的には「ネット君臨の匿名社会がいかーんみたいな柳田さんと何が違うのか」と。品はいいかもしれませんが。あと「馬鹿と小賢しい」は論者に向けたもので読者に向けたものではないです。お口悪くてすいません><
そういった「ひとりやふたりのお話」が「政策」動かしましたから。「戦略」で「あえて」やって、負けたんだと思います。斎藤さんの立場で「戦略」とするなら、「勝ち」たいわけですよね。そして、内容は事実でもない。そしたら、反省したほうがいいのかなと。やり方変えようかなと考えたほうがいいんじゃないかと思います。せっかく場が与えられているなら、フォーク投げる前にストレート勝負してよみたいなかんじですね。(ストレートを最初に練習するかどうか知らないんですがなんかそんなかんじってことでお許しを 笑) ようするに、 a-gemini さんがおっしゃってるように、たったふたりの犯罪者から社会変動論に広げないでほしいってことですね。それだったら、メディアでわあわあ戯言いってる犯罪者のみを精神分析してる「犯罪精神医学者」のほうが、研究に対してはまだ誠実かと(困ったもんですが)。
あと、TAKESANさんのブログにきてる方だから、前半部分のみちゃんと聞けてるという気もしまする。
投稿: 安原 | 2008年4月12日 (土) 23:13
私も、「ストレート」を投げて欲しい、という考えですね。
やはり、ここで斎藤氏の主張のアンビバレンスな所が話題に出たりするのは、そういう所に敏感な方々が集まっているから、というのもあるのではないかな、と。私なんかは、マスメディアの情報は、相当にフィルタに掛けますし。
って、黒猫亭さんは、別に斎藤氏のやり方に賛同している訳では無く(多分、ここは凄く重要だろうと思います)、斎藤氏はこのような戦略を意図して発信し、それには一定の効果があるかも知れない、と分析されているので、その効果の見立ての部分以外には、特に意見に大きな齟齬がある訳でも無い、と思っているのですが、どうでしょうか。
私自身は、上に何度か書いたように、シンプルに、ストレートに、誠実に、というのを求めます。マスメディアの情報には。
投稿: TAKESAN | 2008年4月12日 (土) 23:40
予想よりも深入りしてしまったので、もう少しだけ語らせて戴きますと、オレがここで語ったことは、勿論斉藤環氏をよく識っていて言っていることではないわけですから、この場で挙げられた材料だけでこしらえた単なる推測です。詳しい人が「それは違う」と仰るのであれば、それに反論するような材料はありません(笑)。
このような推測を語るモチベーションとしては、たとえば「ニセ科学批判者は科学主義者だ」とか「ニセ科学批判者は傲慢だ」とか謂う感情的な論難を受けたり、たとえばニセ科学ビリーバーとの対話を臍までどっぷり泥水に浸かりながら続けておられる現場の方から「ネットのニセ科学批判はメタ議論だ」というご指摘を頂戴したり、その流れで黒影さんのモノサシ論などを拝読したりしたことが影響していて、こういう一連のプロセスはニセ科学批判の歴史の中で何度も繰り返されてきたことでしょうし、皆さんそういう経験をお持ちだろうなと思うわけです。
で、その一連の批判批判のサイクルの終端として、ニセ科学批判の論者が自身に問い直すべき内省とは「ニセ科学批判の言説は、莫迦に届く言葉を持ち得ているのか」ということだと思うんですね。
そういうことを考えた場合、オレは斉藤氏が選択したと思われる立場はたしかにフェアではないし、今現在のオレがその方法論を採択することは決してないけれど、それを一概に否定出来ないな、と思うわけです。少なくとも、TVに映って物を言うということは、大勢の莫迦に向かって直接発話する行為です。われわれネットワーカーは、情報発信のツールを手に入れただけで、そのような大勢の莫迦に直接発話するメディアを持っているわけではないですし、その義務を負っているわけでもない。
われわれは、反論の書き込みとして表れた特定の論者との間で公正な議論を交わすのみであって、その反論に対して有効な言説を為すことで良識あるROMに対しての情報発信が可能だと考えるわけですが、それは一面では特定のリテラシー以下の読み手を切り捨てているということでもあります。われわれネットワーカーは、おそらくマスコミュニケーションのフィールドとは違って、相互信頼の原則が成立する対象しか相手にしていないと思うんですね。
或る種、そういうレベルのリテラシーにおいて持ち寄られた知の相互反応が、たとえば現実社会で一定の影響力を持つ人々の間に情報として伝播することで、間接的に現実世界の具体のレベルに降りていくことを期待しているんだと思うわけです。しかしそれと同じロジックを、マスコミュニケーションの文脈で適用出来るかと謂うとそうとも謂えない部分があると思うんですね。
ネットの発話の場合は、一定のリテラシーの論者同士の対話の成果が現実の具体に降りていくまでに、一定のリテラシーの読み手というインタプリタ的なワンクッションがあるわけで、そこで到達距離の問題も出てくるわけなんですが、基本的にわれわれは読み手の良識を信頼しているし、逆に謂えば信頼出来る良識を持つ読み手以外は相手にしていないという言い方も出来るわけです。
ニセ科学批判のネット言説が届くとしたら、おそらくそのように信頼可能な相手であろう、信頼出来ない相手はそもそも興味すら抱かないだろうし、理不尽な論難に対しては正面から反論することで第三者視点におけるフェアネスが確保されるであろうという、割合妥当性の高い期待を抱いている。
ところが、マスコミの発話の場合は、直接ドカンと不特定多数に言説が届いてしまうわけですね。ニセ科学批判者も批判批判者もビリーバーも中間層も無関心層もおかまいなしに、幅広い規模で直接言説が流通してしまうわけです。で、その場合、自身の言説に責任を持つということは、マトモな良識を持つ信頼可能な受け手ばかりではなく、最大マッスの低いリテラシーを基準に責任を持つという意味になるんではないかと思うわけです。これは、良い悪いではなくて現実にそういう特性があるのだから、何らかの意識的な戦略を持たざるを得ないわけです。
マスコミに露出した識者がほぼ例外なく電波芸者化するのは、その辺で躓いてしまうのではないかと随分前から考えているんですが、火の玉教授辺りも最初の頃は割合マトモなことを言っていたのに、やがて何でもかんでも「非科学的だ!」と切り捨てる一種の電波芸人になっちゃったわけで、それは「何でもかんでも非科学的だと切り捨てる電波芸人が言っていること」という留保を附けないと物が言えなくなったんではないか、もしくはそのような留保を前提に物を言う気楽さを覚えてしまったということではないかと思うわけですね。
そういう考えが前からあるものですから、そこにNo.4560 さんの挙げられた引用が結び附いて、斉藤氏もそのようなプロセスを経て「芸風」を確立されたのかな、と想像したわけです。で、安原さんが仰った「戦略であるならば勝ちたいはず」というのには少し異論があって、多分こういう場合の戦略というのは「負けない為の戦略」ということになるんじゃないかと思うんですね。勝っちゃいけないんです。
勝ってしまったらそれは負けたのと同じことで(わかりにくいこと言ってますが)、たとえば、合目的的に詭弁で主張を通すというのは、皆さんが仰る通り決してやってはいけないことでしょう。それでは何処ぞのコイズミさんと同じことになってしまうわけですから、声のでかい奴が勝つという理屈です。TAKESAN さんや安原さんが警戒しておられるのもそこだと思うんですが、まさにTAKESAN さんが仰る通り、マスコミというのはシステム的に受け手にとっても発話者にとっても決して信頼出来ないメディアであるわけで、そこで発話する以上、勝つか負けるかを迫られてしまうわけです。
で、ネット言説のフェアネスの基準で謂えば、マスコミの規範において勝っても負けてもダメなんですね。戦略を持たねば勝てないし、戦略の詐術において主張を通してもその主張自体に意味はない。また、負けてしまった言説にはマスコミを通じて発信される意義がないわけですし、公に負けることでその言説それ自体にデメリットをもたらしますから、これもダメな説ということになるわけです。
こういうダブルバインドのあるフィールドにおいてどう身を処すかというのは、言説を発信する立場として非常に悩ましいところで、大概の人は難しいから芸者化して日和っちゃうんだと思うんです。
で、オレがリンク先の斉藤氏の発言を読んで勝手な妄想を逞しくしたのは、もしもこれが戦略だとすれば、勝ちも負けもしない領域で留保し続けることなのかな、それってマスコミというフィールドで考えると結構面白い戦略だな、というふうに思ったからなんですね。ですから、本当に斉藤氏がそんなことを考えていたのかどうか、ということは割と捨象して考えていたことは事実です(笑)。
a-geminiさんが「一般の人達に対してでも、内輪でしか通用しないような知識を前提にして発言してしまう人」と仰ったディスクライブが、意識的な身振りだとしたら面白いな、という想像なんですね(笑)。そもそも柄谷行人なんてのは、オレの認識では「簡単なことを難しく言う人」の最右翼だし(笑)、レヴィナスの思想なんてのは、オレも二〇年くらい前に概説書で読んだ程度ですが、何を言っているのか殆どわからない。
で、そういう「通じること」と「通じないこと」の弁別を本当はわかっているんだと仮定したら、リンク先のテクストは大変面白く読めるわけです。ぶっちゃけ「本論」の扱いになっている社会変動論の部分というのは、斉藤氏に対して本来求められる言説ではありながら、何をどうしろとも具体的に言っていないわけで、ポストモダンだから当たり前だとツッコミを受けるかもしれませんが(笑)、それを言ってどうにかなる話ではないし誰かが迷惑する話でもないですよね。
a-geminiさんはポストモダンの洗礼を受けた方だそうですが、斉藤氏と文脈を共有していても、何をどうしろと言っているのかわかりませんよね。社会システムに問題があると言っていながら、何がどう問題だというのか、それを解決する為にどうしろというのか、具体的には何も言っていない。
>>果たして彼らを、匿名性から救い出す手段はあるのでしょうか。それはまだ、わかりませんが、ここでヒントとなりうるのは、哲学者カントによる「他者を手段としてのみならず同時に目的として扱え」いう言葉です。いかにしてこの定言命令を、社会システムの倫理に変換しうるかが、これから問われることになるでしょう。
最初のほうでネットがどうしたとか匿名性がどうしたとか言っていますが、だからネットが悪いという話をしているわけでもない。ネット原因論ではないわけです。さらに言うと、斉藤氏のこの言及が俗流に曲解されて、卑俗な意味でのネットの匿名性が圧迫されたからと言って、実は誰が困るわけではない。困るとすれば、TAKESAN さんの所謂一人永劫回帰氏くらいでしょう。
つまり、斉藤氏の「本論」というのは、殆ど誰にも真意が通じないし、通じたとしても通じなかったとしても本質的には社会的デメリットが最小に抑えられている。で、これを言ってる本人が最初から通じないと思って言っているのであれば、それは可能な限りデメリットをもたらさない形に抑制されているということになるわけです。
一方、このテクストで最も重要なのは勿論前半の部分で、主要なマスコミにおいてほぼ初めてに近い形で「ゲーム原因説なんて馬鹿馬鹿しい」という主張が著名な識者によって為されたわけで、その部分に関してはきちんと具体的な論拠が示されている。というか、言ってしまえばそれだけの当たり前の理屈なんであって、それ以上掘り下げようがない。これまで誰も言わなかったのが寧ろ「不思議」なんであって、窮め附けの正論なわけですね。この単純な正論が、マスコミを通じて流通することそれ自体に大きな社会的価値がある。
故意か偶然か、このテクストは流通の結果としての社会的な価値の観点で視ると、メリットとデメリットのバランスが大変優れたものになっているわけです。皆さんのお話を伺うと、多分偶然そうなったんだろうと思いますが(笑)、これを意識的な戦略と視ることで、マスコミという巨大なメディアにおける発話のモデルケースが論じ得るのではないかな、と思った次第です。
不特定多数に直接ドカンと届いてしまう発話だからこそ、その言説が到達することで生じるメリットとデメリットのバランスを周到にデザインすることの必要性があるわけですね。以前dlitさんのところで、TVに出演する学者さんの発話の話をさせて戴いたんですが、やはりマスメディアにおいて真っ正直な議論や発話を展開することには有形無形の困難が附き纏うわけで、だからと言って専門家がマスメディアへの露出を忌避するというのでは、素人による俗流のオレ論ばかりが幅を利かせてしまう。
そういう意味で、マスメディアを通じた発話には、好むと好まざるとに関わらず戦略やデザインというのは今後大事になってくるんだろうな、ということを、斉藤氏のテクストをきっかけに考えたのでした。
投稿: 黒猫亭 | 2008年4月13日 (日) 02:03
>a-geminiさんはポストモダンの洗礼を受けた方だそうですが、斉藤氏と文脈を共有していても、何をどうしろと言っているのかわかりませんよね。
そうですね。
斎藤の言っていることに実効性がないということに関しては認識が一致しているわけで、私は単純に「実効性がないな」と思い、黒猫亭さんは、実効性のないところに斎藤の意図をメタ的に読み込んだわけですね。
斎藤にメタ的な意図があったかどうかは分かりませんが、大多数の人間はベタな読み方しかしないわけで、結果的には一緒かな、と思います。
投稿: a-gemini | 2008年4月13日 (日) 06:53
黒猫亭さん、a-geminiさん、今日は。
斎藤氏の主張そのものについての評価、マスメディアの捉え方、に関しては、特にずれがある訳では無いですね。
当然、私が求めているものは、ある種の理想論でもあるので、「現状のマスメディア」でいかに発言するか、という面に関しては、ある程度のテクニックを駆使した戦略、というのは、ありだとは思うのですね。しかしそれでも、NHKのごく短時間の番組である事、前段の主張との違い、精神科医であるという立場、等を鑑みると、やはり首肯はしがたい、という認識です。上にも書いたように、ストレートにやるべき、という感じかな。
とは言え、実際観た人がどういう感想を持ったのか、というのは、きちんと把握出来ないですが。ここにコメント下さる方は、若干特殊な層のような気もするので(笑)
という訳で、このトピックに関しては、これくらいにしましょう。
投稿: TAKESAN | 2008年4月13日 (日) 11:39
>TAKESAN さんや安原さんが警戒しておられるのもそこだと思うんですが、
声がでかいのはあんまり気にしてないですよ。内容ですね。
>多分こういう場合の戦略というのは「負けない為の戦略」ということになるんじゃないかと思うんですね。勝っちゃいけないんです。
論者の間では「少年犯罪は増えてもいないし、凶悪化もしていない」っていうのは別に共有されてますし、少年法改正が通ったときに国会でもメディアでもそういう話はしてるんです。でも変わったでしょう?そのときはこのへんの面々ではこの種の「実存語り」がメインでした。その間に犯罪被害者運動が地道な努力をしたからですね。その主張はもっともだし、まちがっているとも思いません。
>主要なマスコミにおいてほぼ初めてに近い形で「ゲーム原因説なんて馬鹿馬鹿しい」という主張が著名な識者によって為されたわけで、
えーっと、「ゲーム悪影響説」については、昔からあって、そのたびごとにふつうに批判はされています。これからも繰り返されることなら、そのたびごとにきちんと答えればいいんじゃないかな。みんな忘れちゃうからね。
>やはりマスメディアにおいて真っ正直な議論や発話を展開することには有形無形の困難が附き纏うわけで、だからと言って専門家がマスメディアへの露出を忌避するというのでは
別にしゃべる機会というのはいくらでもあって、それをきちんと載せない製作側のほうに問題があると思います。ただ「視点・論点」はストレート投げられる場所でしょう?ああーもったいないってかんじ。
哲学はそもそも「何をどうしろ」という言説ではないと思ってますし、「20代は人生を決める事柄が多い時代、悩み多きお年頃ですよね、そうそう“私とは何か”であることに悩んだあなたに、ちょっとしたヒントになるかもしれません。わかんないことあるかもしれません。難しい言葉を読んでるうちにクイズにはまるように、時間が過ぎていったほうがいいときもあるかもしれない。宗教に走るよりは、哲学もいいかもよ、でもこっちにもあんまりかぶれすぎないでね」って後ろ半分を犯罪に絡めず喋ればいいんじゃないかしら。ダシにしないで語ればいいんじゃないかしら。
私より口の悪い人が(笑)
http://newmoon1.bblog.jp/entry/425159/
投稿: 安原 | 2008年4月13日 (日) 11:41
安原さん、今日は。
▼▼▼引用▼▼▼
えーっと、「ゲーム悪影響説」については、昔からあって、そのたびごとにふつうに批判はされています。
▲▲引用終了▲▲
ああ、多分黒猫亭さんは、今回(最近のいくつかの事件)の現象に関するゲーム誘引説について、という事を仰りたかったのではないかと。
▼▼▼引用▼▼▼
ただ「視点・論点」はストレート投げられる場所でしょう?ああーもったいないってかんじ。
▲▲引用終了▲▲
そうですね。私も上に書きましたけど、ちょうど良い場だったのになあ、という感じで。むしろ、場としては、ああいったテクニックを用いると逆効果になりはしないだろうか、と思ったりも。
>私より口の悪い人が(笑)
毒舌の筆頭じゃないですか(笑)
えー、上にも書いた通り(このコメントは行き違いになっちゃいましたが)、このトピックに関しては、終了という事で、お願いします。
投稿: TAKESAN | 2008年4月13日 (日) 11:51
>TAKESANさん
>>このトピックに関しては、終了という事で、お願いします。
むう、こっちのほうの逸脱はどうも筋が悪かったようですね。良い球を抛れなかったのが悪いということで、諒解です(笑)。
投稿: 黒猫亭 | 2008年4月13日 (日) 15:04
ああ、いえいえ。
お互いの主張はある程度開陳されたかな、と判断しました。
私自身、黒猫亭さんのご主張にも頷ける所はありました。もちろん、その(斎藤氏の)方法に賛同する、という訳では無いですが、いずれにしても、後は、実際に受け手がどう認識するか、という所で、それは推測するしか無いので、そろそろ頃合かな、と思った次第です。
投稿: TAKESAN | 2008年4月13日 (日) 16:46
|///|ヽ(゚Д゚ )ノ|///|ヨバレター
終了しているということなので独り言だけ。
正しき現状認識なきまま言葉だけを弄する思想は、その生存領域を未来に移せばいいのではないかと思います(宗教と同様に)。
たとえば精神分析も心理学と混同されないよう、精神分析占いと言うとか、半径3m社会学ならぬ社会占いとか、その時点でこちらも野暮なツッコミをしたいとは思わなくなるかも、、、かも?
投稿: 遊鬱 | 2008年4月14日 (月) 01:25
遊鬱さん、お早うございます。
節度と良識を持って用いる、というのが重要なのだと思います。精神分析や社会学的分析は、何か言った気になる、という意味で、とても怖い使い方が出来ると感じるんですよね。
でも、良識ある分析家や社会学者は、マスメディアに出て何か言う事に慎重になるから、浮き上がってくるのは、適当な人達の言説。だから、斎藤氏の戦略的な所(上の方で引用して頂きました)は、理解は出来るのですね。ただ、賛同は出来ない。もし解ってやっておられるなら、もっとストレートな方法を試して欲しい、と、そういう気持ちです。
投稿: TAKESAN | 2008年4月14日 (月) 10:40
TAKESANさん、こんばんは。
余談です。
今、井上章一の「狂気と王権」というのを読んでおります。深入りすると誤解を受ける部分もありそうなので、思い切りかいつまみますと、昔の不敬罪を含め、天皇制に反対する行動に対して、体制側が執拗に精神異常と位置づけようとしてきたことが、詳しく描かれております。
例えば、虎ノ門事件の難波大助は、精神鑑定されて異常なしとされても、処刑後に脳を解剖したいという医師が現れるとかありました。戦後でも、今の天皇が結婚する際のパレードに少年が石を投げて馬車に飛び乗ろうとした事件がありました。不敬罪のない戦後の法律では、暴行未遂でしか裁けませんが、それでも期限ギリギリまで拘留され、さらに精神鑑定されます。
理由の一つには、皇室の威厳を守るためということだそうですが、何となく「精神異常」として安心しようとする社会もあるような気がしました。
もう一つ。
ゲーム脳以前はどうかなと考えました。詳しく調べておりませんが、連続幼女誘拐事件の宮崎なんかは、ビデオのようです。
西鉄のバスジャック事件は、少年が2chにはまりこんでいたというのもあったようです。
投稿: ドラゴン | 2008年4月15日 (火) 19:05
ドラゴンさん、今晩は。
興味深いお話、ありがとうございます。大変難しい話題ですね…。
何か社会にインパクトを与えた事件があった場合、その犯人なりが愛好していたと「思われる」「解りやすい」ものが槍玉にあげられる、というのがありますね。大して調べもせずに、原因であるかの如く言われる。
そして、その解りやすいものというのは、元々先入観が持たれる比較的新しい文化、なのでしょうね。
投稿: TAKESAN | 2008年4月15日 (火) 21:16
TAKESANさん
重い話題で恐縮です。
昔は天狗、それから精神異常、ビデオ、…、ときて今はゲームということですね。
昔から「見えれば安心」が続いているということで、次に新しいのが出ると、ゲーム脳も忘れられますよ。
ただ、本当の原因が何かを考えないと、そのほうが問題だと思うのです。
投稿: ドラゴン | 2008年4月16日 (水) 19:12
ドラゴンさん、今晩は。
あ、いえいえ、大変興味深い話題です。
ただ、私は年代的にも、そこら辺の所(思想的な所)の「実感」が伴わないのですよね。だから、軽々しくものを言えなかったりします。
ホントに、目を逸らせてしまう、という問題がありますね。それじゃダメなんですよね…。
投稿: TAKESAN | 2008年4月16日 (水) 19:20
今、apjさんのところのエントリに触発されて「子どもポルノ」絡みのエントリを書いているんですが、なかなかこれも難しい問題です。
今では人権擁護の観点から違法とされているような少女ヌード写真集も昔は合法だったわけですが、未成年相手の性犯罪に関しては悪者視されることが多いですね。そらまあ未成年相手に性犯罪を犯す人間が少女ヌードに関心を持っているのは当たり前なんですが、やはり世間ではそこに因果関係を視ようとする。
美少女愛好家の一人としては、そこにやりきれないものを感じます。
投稿: 黒猫亭 | 2008年4月16日 (水) 21:49
黒猫亭さん、今晩は。
児童ポルノにしてもゲーム規制論(前者とも関連)にしても、「自分達が嫌いだから」、という動機があるように思います(実証的な規制の根拠をまるで出さない事が傍証)。あるいは、「無くても自分達は困らない」、という認識。
ここら辺の表現規制の問題に関しては、かなり知識を持っていないので、要勉強です。自分の愛好するゲームやマンガとも関わるものですので。
投稿: TAKESAN | 2008年4月16日 (水) 22:34