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2008年3月29日 (土)

メモ:武道禁止?

ちょっと物騒な話も入ります。ご了承下さい。

【ネタ】犯罪防止のために禁止にすべきものリスト :: 事象の地平線::---Event Horizon---(Niimiさんのコメントです)

ネタエントリーで質問したりするのも激しく無粋なので。て言うか、コメント自体ネタなのかも知れないし(本当にネタじゃなかったら、ちょっと…)。

柔道、剣道、弓道、相撲、空手、拳法などの古武道の流れを汲むものは「人殺しの技術を向上するのが目的」なため、全面禁止すべきでしょう。

これは面白い。色々な意味で。

特にNiimiさんご自身に何か言う、とかでは無く、本気でこの類を主張する意見があった場合、それをどう評価するか、というのを考えるのは興味深い(類似の主張は、よく見かける)。

以下、走り書き的。思いついたままに書きます。

ポイントは、「人殺しの技術」という所かな。ここをどう捉えるか。

柔道だと、衣服を掴んで投げる、極める、剣道だと、棒状の物体で叩く、等の競技構造ですね。これらを「人殺しの技術」と呼ぶのが、果たして妥当であるか、と。

実体としては、投げ技をコンクリートの上でちょっと「工夫して」使ったり、堅い木の棒で「思いっ切り」打ちつければ、人間に肉体的に危害を与える、という事は出来る訳ですね。だから、その意味では、「人を殺す事の出来る技術の訓練に”結果的になっている”」、というのは言える。少なくとも、書道や華道、キーボードタイプよりは、確実にそう。

で、それを、「人殺しの技術を向上するのが”目的”」と言って良いか。

たとえば弓道の場合、道具があれば、弓を触った事も無い人と較べれば、「矢で人を射抜く」技術は、圧倒的に高いですね。

でも、ここで、「弓道は、弓矢で人を殺害する技術を鍛える事になるから禁止するべきだ」、という論を出しても、多くの人は、首を傾げるのではないでしょうか。

何故なら、弓道というのは極めて記号化された競技構造を持っており、道具立ても複雑で、様式美を求めるシステムになっている事が、広く了解されていると思われるからです。

つまり、一口に、「古武道の流れを汲む」と言っても、その実相は複雑なのですね。

次に、心理面に目を向けると。

ほとんどの格闘技や武道をやっている人は、「人殺しの技術が由来である」事は知っていても、実際に学んでいる体系は、それとはかけ離れているし、少なくとも積極的に人に危害を加える事を目的とはしていない、と思います。一般的には、大会に優勝するとか、そういう目的意識でしょう。尤も、喧嘩に強くなりたいから、等の動機で始める人もいるでしょうから、そういう人にとってはまさに、暴力のスキルを磨く、という目的なのですが。軍隊で用いる、というのもそうですね。

細かい所。

ボクシングはどうするべきなんでしょうね。あれは古武道由来じゃ無いけれど。後、拳法は古武道由来? 日拳なんかはそうだろうけれど。少林寺拳法はどうだっけ。

知ってる事と、それを使う事は別か? 人体の急所を知識として持っている人は、そうで無い人よりは、どうすれば危害を有効に加えられるか、知ってる訳ですね。で、武道だから、攻撃する技術もある。それを身に着ける事自体を問題と考えるか。「そこに包丁があったから殺した」、という場合と同じに考える? 武器になるようなものが存在しなければ殺害には至らなかった、というのを考えて、肉体を武器にして他者に危害を加える可能性を低める、という。

統計的な観点もありますね。

現代武道をやっている人は現実にどうであるか、という見方。いつやったか、というのもね。どういう指導者についたか、という所も考慮したいです。

仮に武道を全面禁止にした所で、暴力は無くなるかな。また、無くならないとしても、総体としてスキルが下がる訳だから、別にそれで、人を殺す事がより出来なくなる、というのも無さそう。

こんな感じ。

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「武術・身体運動」カテゴリの記事

コメント

おはようございます。

これは、目的や動機と手段ということに係っているのじゃないでしょうか。人殺しの手段として使われるのは何も武道に限ったわけではなく、学問もそうですね。むしろ大量破壊兵器製造の基礎となる学問の方が人殺し手段としては効果的です。人殺しには高度な技術が必要で、それは人が生きるためや人を生かすことにも使えます。私は入院中なので特に感じるのですが、医療技術はほとんど人殺し技術と一緒です。というよりも、技術そのものに区別は無いと思います。人殺しにおいて高度な技術は人助けにおいてはダメな技術というわけではなく、やはり高度な技術でしょう。

たぶん、以上のような当たり前の話ではなくて、その技術の由来を気にする人もあるかもしれないということかもしれません。そういう意味では武術と医術は違います。しかし、武術も病的な殺人鬼の技術として発達したわけではないでしょう。歴史的には生き延びるための正当な良い技術として生まれ出たわけです。それは戦争も同様でしょう。そして、殺人はなぜいけないかという議論につながりますが、それは脱線ぎみなので保留します。

実は由来を気にすれば、日用品も戦争のための技術の応用であることが多いわけです。考えようによっては世の中のことはすべて繋がっているわけで、良いとも悪いとも言えます。従って、現在、それがどの程度害を及ぼしているか定量的に判断すべきで、単に由来やその他の思いつく事項を羅列してもだめじゃないかなと思います。トンデモ論はそういう無意味な事項を手当たり次第に探し出すエネルギーがものすごいですね。

投稿: zorori | 2008年3月29日 (土) 08:03

おはようございます。
少なくとも「柔道」の目的は、「精力善用、自他共栄」ということですから、元ネタは単なる(よくある)「個人的な勘違いを声高に主張」しているだけではないでしょうか。
http://www.kodokan.org/j_basic/history_j.html

投稿: ちがやまる | 2008年3月29日 (土) 10:03

zororiさん、ちがやまるさん、お早うございます。

武術というのは、発生は、他人を殺傷する技術だと思いますが、時代が進むにつれて、様々な理念と結合して、各流派が発展してゆき、単なる殺人術から変容してきた、と理解しています。いわゆる活人剣・殺人刀なんかの概念が出てきたり。
近代では、合気道が出てきて、戦わずに勝つ、といった境地を説く達人が出てくる訳ですね(現代の達人特有では無いだろうけれど)。
実体的にはまさに、他者を傷つけ得る道具となるものですが、その観点だけで論じられるような単純な文化では無いのですよね。

とは言え。

実体的には全く暴力であるので、「教え方」に工夫をし、また、優れた指導者につかなければ、大変な事になる可能性は、あります。以前、武道必修化の話題がありましたが、私はその時には、懸念を表明しました。
ちがやまるさんが、柔道の理念を紹介して下さいましたけれど、実際競技に取り組んでいる人の中には、それも知らない人はいるのですよね。その場合には、いわゆるスポーツとして捉えていて、それはそれで悪い事でも無いですが、武術とはまさに「術」であり(「武」の意味を考えると、暴力を止める術)、それは武器にもなり得るのは、心に留めて置きたい所ではあります。

たまに、K-1やボクシングも禁止しなければならない、と主張する人を見かけるんですよね…。

投稿: TAKESAN | 2008年3月29日 (土) 11:29

あー、やっぱ、元コメントはネタかな。判らんけど。

一応、再度説明。

このエントリー、ああいった内容そのものについての検討なので、ネタかどうかはどちらでも良いのです。

投稿: TAKESAN | 2008年3月29日 (土) 12:33

私は武道そのものに詳しくないので、ちょっと形式的に考えてみました。

先ず「暴力」という言葉は「暴」が付いていることから分かるように、悪い意味合いがあります。これは、単に「力」と言えば、良いものも悪いものもあるという前提があるからでしょう。「力」が必ず悪いものなら、「力」はできるだけ小さいほうが良いことになります。そうすると、筋力、持久力、知力もすべて小さいほうが良いことになります。これは明らかに変です。
このように考えていくと、「武道は実体的には暴力であるから禁止すべき」という言い方は、粗雑な論であることが分かります。武道が暴力であるかどうかは具体的事例に即して十分検討すべきでしょう。たとえば柔道をしている人は、暴力だとは思っていないでしょう。少なくともルールに従った「力」です。

それから、「武道は人殺し由来だから禁止すべき」については、前のコメントに書いたように、「由来」というのは根拠にならないと考えます。さらに「人殺し」が悪いものかは保留にしますと前に書きましたが、突っ込んで行けば、考えざるを得ないのではないでしょうか。「人殺し」と言っても実に様々な場合があります。一言「人殺しだから」で片づけるのは、これまた粗雑な論だと思います。すぐに思いつくところでも正当防衛はどうするのかとなります。

apjさんのところのネタも、どこが粗雑な論であるかを考える事例集として面白いと思います。一見して、それが分かるのが笑えるネタとして上出来ということかと。

投稿: zorori | 2008年3月29日 (土) 14:53

こんにちは。

私もzororiさんに近い考えですね。
元は、そのようにして始まったとしても、長い歴史を通して、変容していったものでしょう。
陸上のやり投げなんかも、何で「やり」なんだ、と考えれば、元は戦士としての資質を問うことだったとしても、今では誰もそんなことは思わないで見てますよね。

こんな本がありましたので、ご紹介。
http://www.meijitosho.co.jp/shoseki/tachiyomi.html?bango=4%2D18%2D336527%2D9

第三部の課題文が興味深いですよ。
世間ではこのような考えはありがちなんでしょう。

この書籍は、なぜ「議論の技術」ではなく「反論の技術」なんだろうと疑問に思います。その意味で、買いたくはない本ですね。
私は、お互いによりよい結論を出すのが議論の目的だと思いますので、「反論」は必ずしも必要ではないと思いますので。

投稿: ドラゴン | 2008年3月29日 (土) 15:35

ドラゴンさん、今日は。

>zororiさん、ドラゴンさん

こういうのを突き詰めると、色々な論点が出てくるんですよね。「暴力とは何か?」とか。zororiさんも仰るように、暴力というのは、価値判断を含む概念ですね。ある論者は、没価値的な概念として、「闘作(”格闘的動作”を縮めた語)」という語を提唱しています。暴力とは即ち、「許されざる闘作」であり、それは社会的コンテクストに規定される概念である、という事ですね。※高岡英夫氏の著作参照

また、護身の観点もあります。他者から危害を加えられる場合にどう身を護るか、という。もちろん、全ての格闘技・武道を禁止すれば世の中から攻撃や暴力は消滅する、というのは極めて素朴な認識な訳ですね(さすがにそこまで極端な思考の人は、そうはいないでしょうけれど)。

ドラゴンさんご紹介の本、なかなか興味深いですね。レトリック道場って、なんか凄い。

これとか面白い。ちょっと乗ってみよう。
▼▼▼引用▼▼▼
3 反論のポイントと反論例

 たしかに、電車内における「騒音被害」は避けられたほうがよい。しかし、「携帯電話を使用しての会話」と「乗客どうしの会話」には、会話として「差異」があることに注目したい。そこから、例えば次のような反論が考えられよう。

 (1) 「携帯電話の使用」と「乗客どうしの会話」は、いずれも他の乗客にとって「騒音」にすぎず、不愉快なものである。しかし、「携帯電話による会話」は話し手の片方のみが車内にいるため「やりとり」の一部しか聞き取ることができず、会話が完結しないことへのいらだちが募るものとも考えられる。一方、この点において「乗客どうしの会話」は「やりとり」がその場で完結していて、大声であっても、それほどいらだちを感じることはない。したがって「携帯電話の使用」を「制限する」のは理解できるが、「乗客どうしの会話」を制限するのはおかしいのではないか。
▲▲引用終了▲▲
そもそも「騒音」に類するものとして捉えているのだから、やり取りが完結するかどうか、という「内容」の観点から区別するのは妥当性に欠けるのではないか。差異を考えるとするならば、「一人で喋っている」という現象が、「独り言」を想起させ、「違和感」を覚えさせるのではないだろうか。携帯電話を手にしているという情報があっても、無意識に、「会話とは一般に、その場にいる者同士でなされるもの」、というスキーマが形成されており、観察によって得られた情報がそれと矛盾するために、「違和感」を覚えるのではないか。

と再反論、なんちゃって(適当です)。その前に、「車内で携帯電話で会話するのはマナー違反」という認識があるから、というのが先にある気がするけれど。ところで、ケータイの使用って、騒音になるから制限されてるんでしたっけ?

投稿: TAKESAN | 2008年3月29日 (土) 17:02

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