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2008年3月22日 (土)

テキスト真っ白

私は、学術書とかを読む時、傍線を引いたりとかしないんですけど、これって、珍しいんですかね。

いや、以前は、ノートとったり赤線を引いたりしてたんですよ。

線を引くって、重要な語句だと認識したから、そこを強調する訳ですよね。でも、その時点で憶えようという認知が働くから、敢えて視覚的に目立つようにする意味が、どれくらいあるのかな、と、疑問に思ったりするのです。

中学生の頃だったか、先生が授業中に、線を引く場所を指示するんですよね。ここはとても大切だから二重線、とか。まあ、試験の答えにするような所に引かせる訳です。

重要度によって色分けして線を引く、という方法もあるみたいですが、私には、効力のほどがよく理解出来ない。本というのは、著者が注意を払って、一文字一文字を工夫して書いてあるはずだから、文脈や前後の語との関係をちゃんと考えながら読むのが、適切じゃないのかな、と思うんですね。で、読みというのは、読むごとに変化していったりしますよね。読みの深度が違う、と言うか。そういう時には、以前に引いた線とかは、邪魔になったりします、私は(ほう、前はこんな読み方してたのか、というのもあるかも知れないけれど)。

今は、(それもほとんどやらないけれど)「テキストに書かれていない事を付け加える」とか、「自分の感想を書き込む」、とかをしています。

憶えるには、繰り返し読む、というのがいいんじゃないかな。線を引く場所を探す時間があるなら、書かれている事をビジュアル的に展開させようとします。そうやって、概念同士の関係を構造的に把握した方が、記憶の定着も良くて、全然別の分野の概念との関係もつけやすい気がします。気がするだけですけど。基本的には、そうやって、脳に刻み込むような感じでやってます。

子どもの頃って、教科書に線引いたりするのが、「勉強した証」になったりしますよね。どう、教科書赤だらけでしょ、って感じで。でもそれは、他者へのアピールにはなっても、知識や認識力の向上には全然寄与しなかったりしますね。

そんな事を考えたのでした。

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余談。

若かりし頃に懐いた、「本音」。

「ノートとるって、教科書に書いてあるのを写すだけじゃない。読む事じゃ無くて書く事に意識を割いたら、憶えられなくなるんじゃないの?」

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本には文字が印刷されてるんだから「テキスト真っ白」ってのは無いだろ、というツッコミは無しの方向で。

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「随想」カテゴリの記事

コメント

あ、とてもいいきっかけが出来ました。というのは、オレ、学生時代は全然教科書に傍線やマーカー附けなかったんですけど、大人になって文章関係の仕事に就いた時、何でもいいからマーカーで色分けすると物凄く頭に入るということに気附いたんですよ。

もう殆ど全体中の重要度とか規則性とか関係なく、一繋がりのセンテンスや文脈をマーカーで色分けすることでリズムが出来て、物凄くわかりやすくなる。ですから、お客さまからお預かりした一点物の資料とかだと、あとで返却しなければいけないのでマーカーが引けないのがイライラするわけです。なので、枚数の少ないものならわざわざゼロックスコピーをとってまでマーカーで色分けしてしまいますね。

思うに、重要なところを強調するとか、そういう理屈じゃないんだと思うんです。色を塗ってあるところと塗っていないところが、センテンスや文脈単位で別れていて、視覚的に構造がわかりやすくなることがオレの場合重要なのかな、と。つまり、銀行の出納明細なんかで、行がわかりやすいようにアミカケと白のだんだらになっていたりしますよね、ああいう理屈なんじゃないかと思うんです。

書面を読むときは、文章が表す意味と実際に紙の上に印字された文字列の位置関係を照応させてマッピングしながら読んでいくわけですが、オレの場合視覚情報を文章的意味性に変換して処理する能力が弱いので、意味性に則って面的に色分けされているということが視覚ー意味変換の処理能の弱さを補って、書類の読解を助けるのかな、と思います。その一面では、白くて綺麗な紙を汚すのに抵抗があるという感覚もありますし、不器用なのでまっすぐで綺麗な線が引けないというネックがありましたので、子供の頃は教科書に線を引くのが嫌いだったんですね。

あの頃、オレ個人の認識力の傾向として、とにかくマーカーで文章ブロックを色分けすればもっと教科書の内容が頭に入るんだということを識っていれば、今頃もっとマシな人間になれていたかもしれません(笑)。ぶっちゃけ、オレが子供の頃にはオレの郷里の田舎町に蛍光マーカーなんか売っていなかった、ということはさておくとしての話ですが(笑)。

投稿: 黒猫亭 | 2008年3月22日 (土) 16:44

テキストのに線を引くとそれだけで覚えた気になってしまうように思えます。
再び見直したときに下線部分以外を読まなくなってしまいそうで・・・。

大事な事はノートに取ってテキストはなるべくまっさらな状態にしておく。
後日復習するときに、まっさらなテキストからどの部分が大切なのかを再び抜き出す作業も勉強になると思います。
効率悪いと言われればそれまでですが。

投稿: sagenobe | 2008年3月22日 (土) 21:56

黒猫亭さん、sagenobeさん、今晩は。

ありがとうございます。他の方がどういう風にやっているのか、ご意見を伺えれば、と思っていたので、嬉しいです。

なるほど、面白いですね。色々な方法があって。

私は、黒猫亭さんとは逆のパターン、なのかな。真面目に勉強しようと思った当初は、線を書いたり重要な語句を余白に書いたりしていたんですよね。で、本文に書いたような理由から、そうしなくなりました。
私はsagenobeに近くて、今は、余白には「テキストに書かれていない」事を書き加えたり、概念の関係を外部に出力して把握する時には、別の紙に纏めます。私は何度も同じ本を読み返すので、前に引いた線が邪魔になってしまったりするんですよね。ここに二重線引いてあるけど、実は他の部分がもっと重要だった、とか。

だから、私の本は、すっごく綺麗です(笑)

黒猫亭さん
▼▼▼引用▼▼▼
色を塗ってあるところと塗っていないところが、センテンスや文脈単位で別れていて、視覚的に構造がわかりやすくなることがオレの場合重要なのかな
▲▲引用終了▲▲
なるほど、興味深いですね。書き込みに持たせている機能が違っている訳ですね。

私の心は移ろいやすいので、数年後には、本が書き込みだらけになっているかも知れない…。方法に拘らない事に拘りたいですね(某工学博士作家のインスパイヤ)。

投稿: TAKESAN | 2008年3月23日 (日) 00:39

私は、本に書き込みをするなどもってのほかという価値観が身に染み込んでいるのが原因で、書き込みは一切しません。メモはノートにとります。

それで不便はありません。数学の本は手を動かさないと読めないものです。つまり、省略されたものを復元しながら式変形や論理展開を再現する作業をしながら読まないと、議論を追っていくことができません。身につくかどうか以前の問題です。そして、その作業に必要な紙面は、本の余白では全然足りません。どのみち、本の内容を再構成したノートができあがるのですから、メモもそっちにとっちゃったほうが楽ちんです。

投稿: かも ひろやす | 2008年3月23日 (日) 00:59

かも ひろやすさん、今晩は。

なるほど、参考になります。

数学の本に関しては、まさにそうなのだろうな、と推察します(そうですよね、と同意が出来るほど勉強している訳では無いので…)。

ところで、話は「ノートを取る」に替わりますが。
本来、ノートを取るという作業は、かも ひろやすさんが仰るようなやり方だからこそ、意味がある訳ですよね。
振り返ってみれば、高校生くらいまでは、「板書をノートに写す」、「作業」になっていた、という感があります。で、高校を卒業して大分経ってから思い返して、本文にある「若かりし頃」のように考えました。

テキストの内容を再構成したノートを作るには、概念同士の関係や論理構造を把握しながらやらなければいけないので、思考の整理が必要になる訳ですが、板書を写す(あるいは、テキストを切り出してそのまま写す)、というのは、文字通りの複写に終わる場合があるのですよね。文字を写すのは、何も考えなくても出来ますからね。

もちろん、上に書いたのが、一般的にそうである、と言いたい訳では無いです・・。どちらかと言うと、「勉強が大嫌いだった人間の実際」、という感じかな。

投稿: TAKESAN | 2008年3月23日 (日) 01:23

みなさま、こんにちは。
ぼくも書き込みは特殊な場合以外はしません。特殊な場合とは「訂正原本」をつくるとき、つまり「自分が制作に関わった本に、重版訂正用の赤字を入れるとき」です。活かされることは滅多にありません(泣)。

しかし、メモも取らず、書き込みも線も入れずに本を読む……となると、記憶に残りにくいとは感じています。で、学生時代に勉強するときはレジュメを作りました。自分では作ると気が済んで見返しもしないのですが、友人には好評でした(なんじゃそりゃ)。

黒猫亭さんのお話で思い出したことがあります。ちょっと逸れるので自分のところのエントリにしました( http://shibuken.seesaa.net/article/90510284.html )が、下記はそれを下地にお読みいただいたほうがいいかな。

人それぞれに適した読み込み方があるのだろうな、と思うんです。
まず、「読む」という行為を疎外しないでできる行為の範囲が人によって違う。これは自動化できる範囲と言ってもいいのかもしれない。それから、「読む」という行為を深めたり確かにしたりする行為がまた、人それぞれに違う。両者のバランスやらなにやらも、人によって違う。そんなことがありそうです。

たとえば、黒猫亭さんの方法だと、ぼくはおそらくアウトです。読みながらそれをできない、という点でも、いくつかの理由がありますが、塗り終えられたものは、余計な情報が多すぎて読み進めることさえできなくなりそうです。もしもそんな指定を入れる編集者がいたら呼びつけて説教します(爆)

と書いていたら、それでも長くなってしまったので、以下は再び自分ちに投下してトラッックバック!(すいませーん m(_ _)m)

投稿: 亀@渋研X | 2008年3月23日 (日) 02:31

あ、TBありがとうございます。

レスは、エントリーも拝読してからつけますね。多分明日(って言うか今日)になります。

投稿: TAKESAN | 2008年3月23日 (日) 02:39

数学や物理学や情報科学の本については、何も考えずに書き写しても、なんらかの効果はありますよ。幸か不幸か、ヒトの脳は意味処理をまったく行わずに情報処理をすることができないようにできているので、厳密に「何も考えず」に書き写すことはできないからです。本人が無意味な単純作業だと思っても行なっても、どうしても「何か考えて」しまいますので、その過程で何かは得るでしょう。

あと、数学などを学ぶ時には、自分が何を理解していないかを正確に把握した上でとりあえず先に進むことが必要になることがしばしばあります。とりあえずわからなくても書き写しておく作業は、自分の無理解を把握することに役立ちます。

投稿: かも ひろやす | 2008年3月23日 (日) 03:21

私は他人の例を提出しておきます。キノホルム、水俣病、イタイイタイ病の訴訟の弁護をなさった松井さんという方ですが、専門外の化学の古い(ドイツ語で書いてあったりする)雑誌などまで閲覧して資料を用意しておいて、自分とは専門の異なる科学者の証人を尋問する準備をしておられました。

その本にあったのですが、傍線は引いてはいけない、はじめに読む時点で自分にはどこが大切か判断できないからである、読み進むうち次第にどこが大切かがわかってくる、したがってノートを取りながら読んでいくことになる、というような話でした(引用でなくてすみません)。

投稿: ちがやまる | 2008年3月23日 (日) 04:32

>TAKESANさん

そうなんです、オレの場合、普通一般の方とはマーカーを引く意味が全然違うんだろうと漠然と考えています。で、これは多分一般的に敷衍出来ない、オレの個人的な認識の傾向に関係しているんだろうな、と思います。

普通は傍線を引くとかマーカーで塗るというのは、その部分が重要だから強調するという意味合いだと思うんですが、オレの場合、重要性とか全体中のバランスを深く考えずに意味の繋がり毎に適当に塗っていくんですね。まさに塗り分けているだけなんです。

で、これは多分、「流れで読まない」ということと関係しているんだと思います。よく受験勉強なんかで煮詰まっている時に、テキストを読んでいる最中は意味がわかっていて、その意味の流れに沿って読み進められているはずなのに、読み終わった後に「では何が書いてあったのか」を想い出そうとすると、サッパリ想い出せない、という経験はなかったですか? いや、オレは頻繁にあったんですが(笑)。

オレの場合、どうも流れで読んでしまうと、読んでいる間は理解出来るけれど、読み終わった後に全体の文脈が全然頭に残らないらしいのですね。なので、マーカーで塗り分けてセンテンスを切り出すことで、「流れではなく意味ブロック単位で構造を読む」という読み方が出来るようになるらしいんですよ。そういう読み方をしないと、文意が頭に残らないんですね。

だから、比較的「お勉強」を離れた自発的なモチベーションのある対象に関しては、そういう作業をしなくても自然に頭に入ります。つまり、こういうプロセスを踏まないと頭に残らないのは、全然興味はないけれど必要があって頭に入れないといけないから読んでいるテクストに限られますね。

これは教科書や参考書などの書籍を読む場合というより、ゼロックスコピーやワードの出力を綴じたような或る程度視覚的に不細工に感じる業務用資料や、お勉強で読む概説書の場合の話と謂ったほうがいいようです。

>亀さん

>>読みながらそれをできない、という点でも、いくつかの理由がありますが

オレだって熟読しながらマーカーを引いたりはしません(笑)。まず機械的にマーカーで塗り分けてしまうんですね。最前語ったように、読んでいる最中は文章の意味が読み取れますので、一度流して読みながら機械的に塗り分けてしまうんですね。塗り分ける為に読むわけです。で、塗り終えてからもう一度頭に入れる為に読み直す、という形になります。二度手間っぽいですけど、オレの場合こういうやり方のほうが無駄がないらしいです。

>>塗り終えられたものは、余計な情報が多すぎて読み進めることさえできなくなりそうです。

ああ、亀さんならそうかもしれません(笑)。以前語ったことですが、亀さんの文章というのは、ゴツゴツと切り分けられた意味要素のパーツがカッチリ噛み合って全体構造を作っているというものというより、スムーズな流れで全体を作っているところがあるので、文章を読み解く場面でも流れを重視されるのかな、と思います。そういう意味で、流れを阻害するような引っ懸かりを忌避されるのかな、と。

オレの場合、流れで読むとリーダビリティは確保出来るのだけれど、読み終わった後に何も頭に残らないので、全体的な流れを適宜堰き止めて部分を切り出す為に塗り分けるんですね。まあ、オレが亀さんの部下の編集者であったとしても、他人への指定でそんなことはしませんからご安心ください(笑)。これは飽くまでオレが資料を頭に入れる為の下作業ですから。

これはたとえば仕事で原稿を書く場合でも同じことで、資料としてワードファイルやプレーンテクストを受け取った場合なんかでも、一旦意味要素毎に改行を入れて部分にバラしてしまいますね。で、そのパーツ毎にドラッグアンドドロップで構造を組み立ててから、読み易い日本語の流れになるように細部を調整したり言い回しを変えるというやり方をします。こういうやり方をすることで、資料に盛られた意味性が割合漏れなく最終原稿に盛り込めるんですね。

頭から文案を書き起こすと失念して漏らしてしまう情報があったりするわけですが、こういうやり方でとにかく最初に構造を作ってしまうと、文言を削る場合にはその情報を削って良いかどうか検討する必要がありますから、情報のオチのない原稿作成に向いています。

まあこれは、オレの元々の畑が企業広報分野だったことと関係あるのかな、と思うんですが、企業広報の場合、資料を読み込んで自分の中で咀嚼してからその大意を酌んで新たに文章を書き起こすというやり方だと、意味要素のロスが多いんですね。資料に盛り込まれた意味性の、ここは必ず活かしてくれとか、ここは強調してくれとか、ここは軽くて良いとかいろいろ注文がありますから、資料の原テクストと連続性のあるテクストを作って整形するというやり方で原稿を作成したほうが、シュアで間違いがないんですね。

なので、そういう職業的な慣習があったという理由もあって、流れで意味を解釈しないという習慣が染みついているということもあるかもしれません。要素群単位で意味を把握してしっかり頭に入れるには、部分にバラしてゴツゴツ読むという読み方が向いているということはあると思うんですね。多分、こういう読み方というのは受験勉強にも向いているだろうから、学生時代に気が附いておけば良かったな、と(笑)。

投稿: 黒猫亭 | 2008年3月23日 (日) 04:44

自分で書いたものに訂正です。
松井でなくて「松波」氏でした。よろしく。

投稿: ちがやまる | 2008年3月23日 (日) 04:55

皆さん、今日は。

>亀@渋研Xさん

私は、テキストに書き込みしたら、元々のテキストに新しい情報が付加されるのだと考えています(そりゃそうだ)。傍線だと、語句の重要度を示すものだったり。なので、再読した時に、その情報が邪魔になってしまう場合があるんですよね。

それにしても、色々な方法があって面白いものですねえ。

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>かも ひろやすさん

あ、いえ。さすがに、そこを否定している訳では無いです。「何も考えずに」、というのは、語句の連関等を強く意識せずに、というくらいに読み取って頂ければ。

解らなくても書き写す事に意味がある、という部分は、それなりに意欲がある場合、ですよね。私が書いたのは、ほとんど意欲が無くても、「書き写す事は可能である」、という事ですね。なんかややこしいですが。

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>ちがやまるさん

ああ、私はまさに、そんな感じかもです。

今、昔読んだ本を読み返すと、書き込みだらけだったりする訳ですが、見てみると、当時は解っていなかったのに、「解っているかのような」書き込みがあったりします。それも、結構邪魔だったりします。当時の知識の程度を思い返す、というのはありますが。
結局、読んでいる当時の知識と認識力を駆使して読むので、読め方は、読む都度異なってくるのでしょうね。なので、今は私は、やるとしたら、メモを取っています(理科系は特に)。

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>黒猫亭さん

これは面白いです。なるほどそういうやり方があるのか、と。

強調とか付加、と言うより、整理、という感じでしょうか。学術書を読む時なんかは、役に立つかも知れませんね。

それをあまりしなくて済む文章が、「読みやすい」文章なのかな、なんて。

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>ちがやまるさん

ラジャア。

投稿: TAKESAN | 2008年3月23日 (日) 11:48

黒猫亭さん
思わず不躾な冗談まで書いてしまいまして失礼しました。もちろんそんな指定をするだろうなんて思ってませんからね! ていうか、そうですか、広報のお仕事もされていたんですか。家内が市の広報の原稿整理をやってるんですが、あれは大変ですね。ぼくがやったら、必要な情報を「字数制限がありますから」とか言って叩き切ってひんしゅくを買うか、悶着を起こして神経を病みますね。

マーカー方式の機序を説明していただいて、「ああ、これはボクのメモの取り方と似ている」と思いました。とくに「よくわからん」という文章を理解しなきゃならんというとき、要素に分解するようなことをするんです。要約し直して、関連づけ直す、みたいな感じかな。

>流れで読むとリーダビリティは確保出来るのだけれど、読み終わった後に何も頭に残らない

これ、わかります。というか、わかる気がします。「読めてしまう文章の拙(つたな)さ」というの、ありますよね。引っかかりが残っていないと、読者に考えさせないんですよね、きっと。誰か作家が「するすると書けてしまうときはペンを置く」というようなことを言っていましたが、似たようなものかなと思うことがあります。

文章を読んで理解するのにも、おそらくいくつものレイヤーがあるんでしょうね。たとえば流れを把握するレイヤーと、個々の要素を確認するレイヤーというような具合で。それを意識的に腑分けしてやっておられるのが、そのマーカーがしがしスタイルなのかな、なんてことも思いました。
ちょっと「哲学の本を読まねばならない、なんてことになったら、試してみようかな」と思いましたが、思い浮かべただけでくらくらしたので、やっぱりやめたほうがいいかも(^^;;

投稿: 亀@渋研X | 2008年3月24日 (月) 02:52

ちょっと話は替わっちゃうかもですが。
文字を追っていたはずなのに、書いてある内容を全く思い出せない、という事が、結構あったりします。で、読み返してみると、うん、こう書いてあったよな、確か、と感じたり。記憶には残っているけど把握出来ていない、みたいな。

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ん? と引っ掛からせる、というのは、大事なのかも知れませんね。

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ああ、今思い出しましたけれど。

あまりにも読めない文章があった場合、読点を足したりする事が、たまにあります。

投稿: TAKESAN | 2008年3月24日 (月) 12:15

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いや、本に線を引かない、書き込みしないどころじゃないんですよ。かなりダメって話かも。イヤ、違う.と思いたい。 [続きを読む]

受信: 2008年3月23日 (日) 02:33

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