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2008年3月31日 (月)

疑う事は、楽しい事

信じるな疑え! 「ニセ科学」批判の菊池教授に聞く

おおっ、画像でかっ。

書かれてある事は、言わば「基本」、ですね。とても大事な部分だから、繰り返し言い続けるべき所。

kikulogの説明をなさっている部分↓

「ひとりでに動いてくれるようになったので、ニセ科学を議論する場として機能していると思いますね。かなり見識と良識のある人たちがいてくれますから」

全くそうですね。kikulogとニセ科学論を知らなければ、私の認識は、かなり低い所に留まっていた事でしょう。

渋滞論文の話もありますね。確かに、「そんなの当たり前だろ」、という反応が多かった。私自身の感想は、「全然意味が解らなかった」、です。きちんとした所に採り上げられたんだから、多分興味深い事実が発見、あるいは確認されたのだろう、と考えて、そこで止まりましたね。説明を読んでも解らなかったので。で、解らないなら解らないままで置いとくのがいいんじゃないかなあ。ほんと、見出しと記事の一部分を見ただけで適当に言ってるだろ、という意見がありましたからね。いや、大した事無い、と言うのだったら、きちんと論文にあたって科学的論理的に批判すればいいのに、という感じ。

まあ、あれです。

重要なのは、鵜呑みにしない事と、解らない部分は置いておく、という事。「解りたい」ならきちんと調べなくちゃね。「解らなさへの耐性」というのが、ニセ科学論で出てきますが(技術開発者さんが初めに使われたのかな)、私としては、これはつまり、「解らなさを楽しめる」事なのではないか、と思っているのであります。未完成のジグソーパズルを見てワクワクするのと、根っこは一緒なんじゃないかな。

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コメント

こんにちは、TAKESANさん。

>「解らなさへの耐性」というのが、ニセ科学論で出てきますが(技術開発者さんが初めに使われたのかな)、私としては、これはつまり、「解らなさを楽しめる」事なのではないか、と思っているのであります。

たぶん、きちんと言葉にされたのはapjさんの方が最初だと思いますが、いわゆる共通認識として私にもapjさんにもあった感覚ですね。なんて言いますか、私のやっているような技術開発というのは、できあがった技術を後で見ると「なんともつまらない」面があるんですね。半年とか一年とか「なんでうまく行ってくれないんだよ~~」と泣きながら考えた部分が、後から見ると「当たり前じゃないか、こういう現象が起こっていたのだからうまく行かなくて当然だよね。こうやってその現象を防いだから今はうまく行って当たり前だよね」なんですね。正直言って、1年とかそれ以上の時間、「なんでだよょ~」と悩んだことがあまりに自分の馬鹿さ加減を示しているとすら思えるくらいです。でも、そこで投げ出しはしなかっただけなんですね。私の様な技術屋はそういう「解らなさへの耐性」というものだけが取り柄なのかも知れないんですね(笑)。

投稿: 技術開発者 | 2008年3月31日 (月) 09:52

技術開発者さん、今日は。

あ、apjさんでしたか。記憶違いだった…。

「解らなさに耐える」というのは、「解っていく過程を楽しめる」のと、「自分が無知である事を受け容れる」というのがあると思います。前者は、物事の仕組みを解き明かしていくプロセスに快感を覚えるという事だし、後者は、技術開発者さんが仰る「自分の馬鹿さ加減を示しているとすら思える」、という所を受け留められるか、という事なのだと考えます。

それに耐えられない人は、他人が言っている事を、ただ噛まずに飲み込む訳ですね。構造を把握しないでも、表面の形だけ知っていれば、「理解しているように」他人からは見られたり、自分で自分をそう思ったりしますしね。

投稿: TAKESAN | 2008年3月31日 (月) 12:54

こんばんは。
「解らなさへの耐性」に似たようなことは心理学の分野で研究されているようです。
「無責任の構造ーモラルハザードへの知的戦略」(岡本浩一著、PHP新書)、第三章の権威主義的人格と認知能力の項に次のような記述があります。

(引用)
最近になって、権威主義的認知傾向は、複雑なものごとの認知能力の欠如と関連しているという考え方が強くなってきた。
(中略)
 認知的複雑性の低い人は、複雑な情報を複雑なまま処理することが苦手であるため、教条や権威など単純で明瞭な概念によって自分の認知を割り切る傾向が強く出るので、権威主義的になりやすいのだといわれている。
 認知の個人差としてあげられているもう一つの要素に「あいまいさへの耐性」というものがある。あいまいさへの耐性の低い人は、複雑な事象をあいまいなまま認知することが苦手である。典型的には、ある行為が善か悪か、ある行為が職務上の義務違反かそうでないかというような判断にあいまいさが入っていることが耐えられない。そのため、二分法的に強く割り切る認知方略をとることになりやすい。この傾向は、物事を権威や教条など、明示的な基準によって考えようとする傾向と類似している。
(引用終わり)

数学の勉強法に、分からないことは保留して、とりあえず先に進むというのがありますね。後で元に戻ってきて再トライすると理解できるというものです。これは、いろんなことが関連している複雑な体系の理解は、行ったり来たりせざるを得ないということかなと思います。

投稿: zorori | 2008年3月31日 (月) 20:57

わからなさへの耐性、みたいな話はいろんな人が独立に言ってると思うんですよ。二分法問題とかグレーゾーン問題とかも。
やっぱり、「時代が要請する問題意識」なんじゃないですかね。

投稿: きくち | 2008年3月31日 (月) 23:48

zororiさん、きくちさん、今晩は。

解らなさを楽しめて、「解っていくプロセスをめんどくさがらない」のが大切なのだと思います。

zororiさんが例に出して下さった、勉強の仕方、というのもそうですね。行ったり来たりして、体系の構造、概念同士の関係を把握していく。
で、そういう時の、解った時の快感というのは、格別なものですね。初めは、何が解らないのかさっぱり解らない、という状態であったのが、段々靄が晴れていき、次第に全体像が明らかになってくる。

私は、何故か知りませんが※、子どもの頃から、「仕組みが解らないと落ち着かない」性向でした。ちゃんと「構造」を掴めないと、「解った気になれない」のですね。で、雑多な情報をきちんと整理して関係付けるまでに、凄く時間が掛かっていました。そして、いつの間にか、そういう過程に耐えられる、楽しめる、という考え方になったのではないかな、と。

とは言え、関心が、「科学」という、最も面白く、巨大な体系に向けられたのは、ほんの10年前くらいから、ですが(自然科学は、ここ3・4年)。

※私個人としては、子どもの頃に変形もののおもちゃでよく遊んだり、RPG系のゲームに早い頃から触れたり、親が推理小説好き(西村京太郎、森村誠一、和久俊三 等)だったり、というのが影響しているのかな、なんて考えています。

投稿: TAKESAN | 2008年4月 1日 (火) 00:14

こんにちは、TAKESAN さん。

>解らなさを楽しめて、「解っていくプロセスをめんどくさがらない」のが大切なのだと思います。

 実はこの部分に循環型の問題があるんですね。私は「スルメのおいしさは噛みしめないと分からない。噛みしめないと分からないから人は硬いと口にも入れてくれない」なんて言うんですけどね。別な所に「流動食国家」なんて事を書いたこともあるんですが、「分かり易い」と言うことが過度に重用視される流れがあるんですね。本来は、その分かりやすさは「入り口を広げる」役割のハズなんですが、流動食のように簡単に飲み込める事で本来「噛みしめる味」があるという事すら分からない人が多くなっている気がするんですね。

でありながら私の持ち芸である「たとえ話」なんてのは「分かりやすさ」が特徴だったりするのが悩ましいんですけどね(笑)。

投稿: 技術開発者 | 2008年4月 2日 (水) 16:05

技術開発者さん、今日は。

ですね。やはり、よく噛んで味わう事の良さをどう伝えるか、というのが重要なんだと思います。

なかなか難しいですね。世の中には、文字が多くを占める本、というだけで、難しいと感じたりする人もいますし。そういうのを考えると、小さい頃から慣らさせる、というのが肝要ですね。子どもの頃からPCやゲームを触らせていれば、電子機器の扱いにも抵抗が無くなる(と言うか、抵抗感を形成させない)、というのと同じで。
小難しいものを忌避するという考えを持ってしまった人には、技術開発者さんの仰る流動食的なものも、時には効果的なんだろうと思います。導入としては。階段を嫌がる人に坂道をこさえてあげる、と言うか。
問題は、それをどう、よく噛んで味わう面白さに繋げていくか、という所なのでしょうね。そういう場合には、相手の興味を持つ分野に絡める、という手なんかがあるのかも知れません。技術開発者さんの得意とされる喩え話なんかも、有効でしょうね。

子どもの頃には誰しも、なぞなぞとか頭の体操とかを楽しんだはずだと思うのですよね。でも、何やら複雑そうだな、というものを避ける。こういうのって、「毛嫌い」があるかも知れません。「印象」ですよね。好き嫌いというのは、結構重要なんじゃないかと思っています。無理やり口に放り込んで、「さあ、噛め」、と言っても、益々嫌いになるだけなので、なかなか難しいです。

投稿: TAKESAN | 2008年4月 2日 (水) 17:15

こんにちは、TAKESAN さん。

>無理やり口に放り込んで、「さあ、噛め」、と言っても、益々嫌いになるだけなので、なかなか難しいです。

前にkikulogで「痩せたブタを太らして食べるためには太ったブタの味を覚えなくてはならない」なんて事を書いたのを思い出しました。これも変な例えなんですけどね。ある村に毎年一頭の痩せたブタが届けられる。村人は痩せたブタしか食べた事が無いので、そのブタでも「おいしい」と直ぐに食べてしまう訳です。でも、太ったブタの味を覚えさせる事ができたら、たぶん、太らせる時間は食べるのを我慢して太らせてから食べるようになるだろう、なんてね。

なんていうか、きくちさんは本の中で「難しさに挑むことがファショナブルになれば」なんて事を書かれていたと思うんだけどね。なんていうか、例えば旧制高校の学生なんかには、「難しい本を読んで居るぞ」とかっこつける話なんかもあるわけですね。「君は『禅の研究』を読んだか、俺は読んだぞ」「うん、読んだ『絶対矛盾の自己同一』である」なんてね(この話を誰が書いていたか忘れたけど「実のところ読んでも何も分からなかったけど互いにミエを張って言い合っていた」なんてね)。これなんかもその時代の旧制高校生のファッションだった訳です。分からないけどミエのために一応は齧り付いているわけで、そんな中には哲学に齧り付く面白さに目覚めるものもそれなりにはいたんだろうと思います。

投稿: 技術開発者 | 2008年4月 2日 (水) 18:00

みなさん、こんばんは。

取り急ぎ、2点。
「疑うことは楽しいこと」はとても重要ですね。
ただ、以前も書いたかと思いますが、疑うこと、批判する、こういう言葉はネガティブで、教育現場には向かないんです。なんか良い言葉がないですかね。

ちなみに、先週告示された新しい学習指導要領を読んでおりますが、該当するような表現が見あたりません。
教育現場はまだまだでしょうか。

ちょっと拡大解釈すると、小学校国語高学年に
「考えたことや伝えたいことなどから話題を決め、収集した知識や情報を関係づけること」
「話し手の意図をとらえながら聞き、自分の意見と比べるなどして考えをまとめること」
「自分の課題を解決するために、意見を述べた文章や解説の文章などを利用すること」
このような内容が新しく盛り込まれました。つまり、小学校でこれができるようになりなさい、ということです。
結構難しい内容です。自分でもできるか不安です。
中学校については、これから読んでみるつもりです。

もう一点。
「解らない」という点について、以前から気になっていることがあります。
クイズ番組や街頭でのインタビューなどで、若い人たちが、解ってないのに「解った」ということです。
例えば、「アメリカの首都は?」「解った!ロンドン」なんて具合で、その珍回答を笑うような場面です。
Kikulogさんの血液型で新規参入された方も、「解った」と思いこんでいるように思います。
このモヤモヤ感は、表現しにくいですが、「解ることの安売り」というか、きちんと「解ること」が理解されていないというか、そんな感じです。
算数の問題でも、「解ける」ことと「解る」ことが大きな隔たりがあることもよくあります。そこをきちんと「解る」ようにしなければいけないと思っております。
まとまりがありませんが、そんなことを思っております。

投稿: ドラゴン | 2008年4月 2日 (水) 18:04

>技術開発者さん

 >きくちさんは本の中で「難しさに挑むことがファショナブル
 >になれば」なんて事を書かれていたと思うんだけどね。
ああ、これは全くその通りですね。

私自身は、世の中が「難しい事そのものを避ける」傾向にある、とは思っていないのですよね。それよりも、「何やら難しそうなもの」を避けているのではないか、と推測しています。その中には、「科学」や「哲学」が含まれる訳ですね。上に「印象」と書いたのもそういう事で、それらの文化に対する毛嫌いがあると思っています。

以前にも似たような事を書いたのですが、たとえば、日常会話で数学の問題を考える、なんて状況があってもいいのですよね。そういうのが「当たり前」になると、良いと思います。
最近、テレビで、学校で出るような問題を解かせる番組が増えていますよね(ヘキサゴンの影響もあるのかな)。私はこういうのは、好い傾向だと思っています。「抵抗感」を失くさせるというのは、重要(考えられる問題点については、ドラゴンさんへのレスで)。

------

ドラゴンさん、今晩は。

難しいですね。批判には、「非難」と同様の意味合いが感じ取られるのでしょうね。

指導要領の内容、基本として身に着けておくべき事柄ですね。それだけに、難しそうですが。

後段について。

私としては、「解る」というのは、「構造を掴む」事だと思っています。対して、○○は△△である、というのは、必ずしも解っていなくても、言う事は出来るのですよね。これはつまり、「知っている」、という事で、「解る」とは、微妙に異なっているのではないかと思います。
極端な話、システムの構造を把握していれば、「名前」は憶えていなくてもよかったりするのですよね。逆に、「知っている」だけで、他の概念と結び付けたりしていなければ、それはあまり役に立たないし、忘れやすいのではないかとも思います。

昨今、学校でやるような問題を解かせるクイズ番組が増えていますが、「知っている量」を競うような所もあって、どうなんだろうな、とも感じます。そういう観点から、平成教育委員会シリーズは、よく出来ているな、と思っています。

投稿: TAKESAN | 2008年4月 2日 (水) 18:49

今日のエントリーで、銀英伝の話が出て、ふと思いついた事。※作品を知らない方は、さっぱり解らないです

ステレオタイプの「科学者像」、オーベルシュタインみたいなイメージなんじゃないだろうか。冷徹・合理主義・無慈悲・感情を表に出さない・正論を並び立てる  的な。

投稿: TAKESAN | 2008年4月 2日 (水) 18:59

月並みで申し訳ないんですが、ドラゴンさんの「疑う」は「確かめる」(渡りはじめてからくずれるようなことがないように石橋を検討する)、「批判する」は「教え合う」(お互いの立ち位置から見える問題点を知らせ合う)とすればポジティブになるような気がします。
「解る」というのはTAKESANさんが言われるようにからまった糸がときほぐれる(もとは牛を解体することらしいですが)感じかと思います。「わかった!ロンドン」と言った子のは意識にイメージが浮かんだ(灯った)という感じで、そういうのもありなんじゃないかと思いました。もうすこしいろいろ聞いてあげたりしてロンドンやアメリカのイメージを豊かにしてあげておくと、やがて何かを「解る」ようになってくれるのではないでしょうか。

投稿: ちがやまる | 2008年4月 2日 (水) 19:48

ちがやまるさん、今晩は。

なるほど、確かめる、等なら、批判に含まれる攻撃的な意味合いが無くて、良いかも知れませんね。

解るというのは多分、「結び付ける事」なんだと思います。関係、ですね。前に、資格試験関係の勉強をしていた時、問題には答えられるようにはなったがその分野について体系的に理解出来なかった、という経験がありました(今全く思い出せない、という事)。

投稿: TAKESAN | 2008年4月 3日 (木) 01:04

みなさん、こんばんは。

ちがやまるさん。ポジティブなアイディアを有り難うございます。難しい問題ですね。結構、言葉のイメージは重要です。中身が大事なんですが。

「解る」ということに関しては、みなさんのご意見と同じです。
それが現れるのは、私は、「他人に上手く説明できること」だと思っております。
わり算を使うのは難しくないですが、わり算を説明するのは、結構難しいんです。大人でもできない人は多いのではないでしょうか。
あと、円周率も。「円周率って何?」と聞くと、「3.14」と答える人が結構います。
技術開発者さんが上手く比喩を使えるのも「解っている」からなんだろうと思います。

さて、私のモヤモヤ感は、うまく説明できないのですが、「解っていないのに、安易に解ったと思い込んでしまう人が多くいそうな気がする」ことです。

私たちは、例えば「ジンバブエの首都は?」と質問されて、知らなければ「知らない」となりますよね。
「光より速い物質はあるか?」と聞かれても「そういうのはあるような本を読んだが、解らない」と答えます。

ところが、ビリーバーさんたちの論調を見ていると「思いついた」がそのまま「解った」と思いこんでいるように思えるのです。それは、そのまま「ロンドン!」と叫ぶ若者と重なって見えるのです。
なぜ、その程度の思いつきで、確信をもったように「解った」と思えるのか、それがすごく疑問なんです。

授業をみていると、子どもから同じような「解った」が出てきます。でも、子どもは、まだ自信のなさがはっきりしているので、「きっと」なんて言葉がつきます。

なんていうんでしょうか。自信をもって間違ったことを言っている人のその自信の根拠ってなんだろうなということでしょうか。それがモヤモヤとしているんです。
私なんかは、こういうところで書くのも間違っていないかドキドキしながら、書くんですが。
すみません。本当にうまく説明できません。

投稿: ドラゴン | 2008年4月 3日 (木) 19:03

すみません。追記です。

子どもの自信のない「きっと解った」からは議論が始まります。「じゃあ、みんなで確かめてみよう」と広がりやすいですね(ちがやまるさんの確かめるを使わせてもらいました)。
ところが、ビリーバーさんの自信に満ちた思いつきからは議論が始まらないように思います。そこで閉じてしまう。
このあたりのことが、クリティカルシンキングを教育現場に導入する鍵になりそうな気がしているんです。

投稿: ドラゴン | 2008年4月 3日 (木) 19:10

ドラゴンさん、今晩は。

構造がきちんと把握出来ているから、他の似た構造で馴染み深いものに喩える事が出来るのですよね。

えっと、後半の方に関しては、「わかった」を、「思いついた」と同義で用いている、という事のようにも思いますが、違っているかな・・。言葉遣い、と言うか。
具体的にどういうケースなのか、今一つ掴めないでいますけれど…(←これが多分、「解っていない」状態なのだと思います)。頭に浮かぶのは、つるの剛士さんだったりします。

投稿: TAKESAN | 2008年4月 3日 (木) 19:56

こんにちは、皆さん。少し儒教の話でも書きますね。

 儒教の修身の最終段階に「格物致知」というのがあるんですね。「物によりて知にいたる」なんて言っても今は意味が分かりませんが、ここでいう「物」というのは「法」とか「法則」の様な意味も含むんですね。つまり、法則を完全に身につければ、いかなる知も解るというか判断できる訳ですね。このあたり、数学と似ています。

 でもって、実はこの格物致知に達する課程の考え方に2つのアプローチがあります。一つは朱子学でして、一つ一つの「知」をきちんと身につけていくと「ある時、豁然と法則に思い当たる」とします。もう一つが「法則があるものと信じて、知の中の法則を探っていれば、法則が身に付く」とする考え方でこれは陽明学の考え方になります。

 私はこのことを説明するのに法学を身につけるのに、「様々な判例をひたすら解析」していくと、「ある日豁然と法学の基本が解る」という説明もしますし、「一つの判例であっても『この判決はどうしてこうなのか』を真剣に世の中の事を考えながら考えていけばそれだけで法学の基礎に至ることもできる」なんて説明したりします。

 実のところ、陽明学にかぶれている私にして、朱子学の方が取っつきやすいと思うんですね。最初から「法学の根底」なんて考えながら一つの判例に齧り付くより、様々な判例をきちんと見比べて身につける方が楽です。でもね、実はこの「とっつきやすさ」に落とし穴もまたあるんです。なんていうか、自分が知っている判例の数を増やすことに意識が行ってしまって、本来、数を増やしたら「ある日豁然と」起こるハズの「根底への理解」が起こらないまま、「自分は勉強したぞ」に成ってしまうという落とし穴なんです。陽明学というのは、そんな感じになってしまった朱子学への反省から生まれた面があるんですね。

投稿: 技術開発者 | 2008年4月 4日 (金) 09:53

これは実に面白いお話です。

メタとベタの話にも微妙に繋がりそうに思います。両方を常に意識しておきたいものです。

知識のコレクションに走ってはいけないし(科学は単なるトリビアの集合では無い、と喝破したのは田崎さんだったでしょうか)、かといって、一つの事だけに集中すると、様々なパターンを学習して一般論を導く、という所が疎かになる気もします。

投稿: TAKESAN | 2008年4月 4日 (金) 12:42

「科学は単なるトリビアの集合ではない」なら当然のことなんだけど、田崎さんは「(現代社会では逆に)科学が単なるトリビアの集合と思われている」という指摘をされたのだと思います。これは鋭い指摘で、いろいろなことが見えるようになった。

投稿: きくち | 2008年4月 6日 (日) 12:06

きくちさん、今日は。

そうでしたね。きくちさんが、こうださんのエントリーでも書いておられましたね。
私自身、どれだけ理解出来ているかは心許無いのですが、科学というものは、それぞれの分野が全く独立したものでは無く、繋がっているのだと認識しています。だから、全体としての整合性をきちんと考えないとならないし、その基盤となる体系(自然科学)の知識を身に着ける必要がある、と思っています。

前に何度か書いたのですが、何か一つの物事について徹底的に調べてみる、というのは重要かな、と。たとえば工業製品がどう作られているか、とか。車はどう製造されているか、とか、パソコンはどういう仕組みで動いているか、とか。
それらは、科学技術の結晶な訳ですから、それまでに蓄積された様々な分野の知識が総動員されているのですよね。だから、それらが「どうなっているか」、というのを突き詰めていくと、様々な分野にアンテナを向けざるを得ない。そうすると、頭の中で、「繋がっていく」のですよね。
これは、実体験なのですけれど。

投稿: TAKESAN | 2008年4月 6日 (日) 13:02

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