批判の姿勢
私はゲームユーザーで、ゲーム脳説が流布された事で迷惑を被る当事者になり得る人間な訳ですが、そういう人間が批判活動を行う際には、えてして感情的になりがちです。
だから、それはかなり抑えて、批判を行っています。森氏に対しても、出来る限り丁寧に、人格批判に向かわないように、気を遣っています。
本当は、あれほどの説を流布した人なのだから、ある程度罵倒されても仕方が無いんじゃないか、と思うんですよね。本音としては。やっぱり、そういうのは考えます。
でも、それでは、批判としての効果が薄れる可能性があるので、自制しています。かなり強く。
当事者が批判をすると、見てる人が引くかも知れないんですよね。何でここまで? っていう感じで。私の今の態度ですら、そう受け取られる事はあると思います。でも、私としては、これくらいが限界です。これ以上感情を抑えた書き方をすると、今度は淡々とし過ぎてしまうんじゃないかな、って。
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話は替わって。
一昨日の、川端さんのブログに言及したエントリーに関して、ちょっと付け加えます。
書くべきが迷いましたが、書いてみます。
私は、元村氏が、あれほど言われる(た)のは、期待をされている(た)から、だと思います。
もっと言えば、「もし今からゲーム脳についてきちんとしたものを書けば、賞賛します」、という含みがある。少なくとも、私はそうでした。後一歩踏み出してくれたとすれば、けじめをつけたその勇気に、敬意を表したい。そして、あの連載が始まった時には、今書けばまだ間に合う、という、そういう思いがあったんじゃないかな、と。
何故、(た)と書いたか。
もはや、元村氏に強い期待は抱いていないから、です。川端さんは、数日前に、私が言及したエントリーを書かれた訳ですが(だから言及した。今更元村氏に感情的に思う所がある、と推測されると、誤解を生む虞もあるから)、元村氏が期待されていたのは、昨年の話な訳で。
そういう意味ではもう、遅きに失した、のかも知れない。
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