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2008年2月10日 (日)

一般化が足りない?

ニセ科学批判批判をする人が主張する、「ニセ科学批判者が、ビリーバー及びその周辺に対する言及の仕方は問題である」系の言説について、ちょっと考えていて、思いついた事が。

多分、相手を罵倒する、とか、自分より無知な人を見下す、というのは、ニセ科学批判とかそういうのじゃ無くて、もっと根本的な心性に関わる事なんだと思う。

つまり、別にニセ科学の話じゃ無くても、音楽でも、マンガでも、アニメでもゲームでも、どんな文化でも、そういう風に、「知らない人を叩く」、というのはある訳で。

それは、対象が何であるか、という以前の問題かな、と。

だから、ちょっと変な言い方になるけど、実は、「一般化が足りない」のでは無いか、とか思ったり。

たとえば、「ものをあまり知らない人を頭ごなしに否定してはならない」、とか、「嘲笑したり罵倒はほどほどに」、と言うだけなら、それを意識する人は、「うん、そうだよね」、となる。そしてそれを、ニセ科学批判なりの文脈に適用していけば、それで良い訳で。

なので、「ニセ科学批判者は~」というような言われ方をされると、違和感と言うか、ちょっと待って貰いたい、と思う。もし、ニセ科学批判者が、という主張が妥当であるためには、それ(批判者の横暴な態度)が、かなり普遍的に見られないといけない訳で。

でも、批判者というのは、様々な立場の人が、色々な角度から、批判を行っている。つまり、「ニセ科学を批判する」という共通項で結ばれる集合であって、「批判の仕方がおかしい」集合では無い。特定の組織に属しているとか、そういう事でも無いし。

だからこそ、私達は、反論する時に、「具体例を出して欲しい」、と言うのだと思う。批判者同士の相互批判は厭わないし、駄目な批判は、「批判者」の印象を下げてしまうので、止めて欲しいと思っているのだから。

だから、

「ニセ科学批判は駄目だ」、と読める主張をするより、

「こういう”批判”の仕方は駄目だ」、と書くべきなんじゃないかな。そして、ニセ科学批判者にそういう人がいれば、駄目な批判の例として、それを批判すれば良いのかな、と。

と、そんな風に思ったのでした。

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「科学論」カテゴリの記事

コメント

「一般化が足りない」というより、「抽象化が足りない」んじゃないですかね。つまり、「いくつかの個別例から共通の論理を抽出できないから、印象のみに頼って過度に一般化している」という感じ。具体例が出せないのは、本人の頭の中には「科学を根拠にバカにしている」という印象のみが残っていて、元の具体例の方は消え去っているからじゃないかなと思います。なぜ、具体例が消えてしまうかというと、それは「抽象化」ができていないから。

投稿: a-gemini | 2008年2月10日 (日) 12:21

a-geminiさん、今日は。

仰るように、過度の一般化、というのがあるのだろうと思います。一般化というのはもちろん、人間が色々考えていく上で、不可欠な事でもあるのですが、それを相対化しなければならないのですよね。

罵倒とか誹謗中傷は、インパクトの強いものですから、それを敷衍してしまう「気持ち」は、解らないでも無いです。だけれど、それを元にして批判すると、的外れになる場合があるのですよね。

投稿: TAKESAN | 2008年2月10日 (日) 16:56

ニセ科学批判批判がなぜ「的外れ」になるかというと、さっき書いたことの言い換えになるけど、「内在的な批判になっていない」から。批判の対象の論理をつかんでないから、「人をバカにするのは良くない」とか、外から道徳的な根拠を持ってきて批判する。で、批判された側は論理で反論しようとするけど、向こうは無論理だからかみ合わない、という感じだと思います。

投稿: a-gemini | 2008年2月10日 (日) 17:33

こんにちは。

僕が以前同じような問題についてエントリを書いた時は、もっとなんというか戦略的な問題点を考えていました。

どういうことかというと、「ニセ科学批判者は~」という呼びかけだけでは、本当に批判したい対象にその声が届かない場合が多いんじゃないか、と。
ただ他人の意見に便乗して誰かを叩きたいだけの人なんて、もしかしたら自分がニセ科学批判者だという自覚どころか、具体的な自分の行為についてさえニセ科学批判をしているという意識を持っていないかもしれませんし。

そうすると、真面目に批判の仕方について考えたい人たちにとっては具体的な内容を教えてもらえないのに「ダメだ」とは言われるので思考や対応に四苦八苦する一方、過剰な叩きや人格批判までやってしまうような人たちにはその声が届かず野放し、という色んな人にとって不幸な状態が生まれてしまうんじゃないかと思うのです。

杞憂かもしれないですし、もしエントリの目的自体が批判というよりは普段の鬱積の発散だったなどと言われてしまったら、などと思うと、言及する方としては難しいんですよね。色々反省も込めて。

投稿: dlit | 2008年2月10日 (日) 20:20

dlitさん、今晩は。

>a-geminiさん、dlitさん

「ニセ科学批判をする人は、対象の人格や価値観そのものをも否定したりする」、という言い方は、論理的には、ニセ科学を批判する人の集合の「部分」へ向けられた批判、ですよね。直接的には、その「部分」に向けられているメッセージだけれど、そうで無い人、あるいは、そうなりかけている人などに、「釘を刺す」、という意図もある。

で、その「部分」が「大部分」なのであれば、そういう批判というのは、有効に働く場合もあるのだと思います。ですが、そうとは言えない。「ニセ科学を批判する会」がある訳でも無いし、そういう解りやすい対象は、少なくとも今の時点では、規定出来ないと思います。

ですから、「部分」である事を明示して、こういう所があるから気を付けるべきだ、と主張するならば、それには賛同するかも知れないし、きっかけにして、色々議論が出来るかも知れない。

しかるに、「ニセ科学を批判する」という共通の部分を持っている人々に一般化するには、明らかに無理があるのですよね。もし一般化するなら、「妥当で無い批判を行う人々」とするべきであって、その中に、「妥当で無い批判を行うニセ科学批判者」が含まれると、そういう事なのではないかな、と。だから、「一般化が足りない」。

土台、「ニセ科学批判者は人格否定をするな」、というメッセージが、「人格否定をするニセ科学批判者」に届くか、というと、それはなかなか難しい訳で、しかもそれを、一般論として語られては、反応するのは、私達のような、それなりに考えている人間、あるいは、「議論をよく知らない人達」なんですよね。後者に対しては、ニセ科学を批判する人々は、とステレオタイプのような印象を与えてしまう訳で。

そう思った次第です。

投稿: TAKESAN | 2008年2月10日 (日) 22:33

批判の言葉を聴く側も様々なのでしょうね。
 理性との関わりで大まかにいえば人間の行動は非合理のかたまりみたいなものではないですか。一方ニセ科学批判は非合理を問題にする。すると、その時対象にされているニセ科学ととりあえずは関係ない人に、批判を聞いていてそれは自分のことではないかと思う人がいることもあるのではないでしょうか。ここでカチンと来た場合に、その人が意識するとしないとに関わらず自分を防御する形で批判に立ち向かう、というようなこともあるのではないかという気がします。
 今回の羊水発言事件で、「想像力の欠如」ということばが単なる誤りの指摘に比べてひじょうに厳しいことにあらためて気付きました。一般的事実として述べる場合には、的確簡潔に状況を表わすことばと思いますが、該当する個人にとっては「基本的能力の欠如」、ひょっとしたら努力では挽回できないくらいざっくりと欠落していることを言い渡されているわけですよね。これを聞いて発奮できる個人は、弟子として鞭撻をうけるくらいの覚悟をあらかじめ持った人など、もう半分助かっている人なのではないかという気がします。暗い情念を抱いて去っていく人、反射的にキバをむく人が出てくるのはわかるような気がしました。
 だからといってニセ科学批判をする人がそれを聞くあらゆる層の人のことを考慮する必要もないと思いますが。

投稿: ちがやまる | 2008年2月10日 (日) 22:48

この違和感というのは、多分、「若者は なっていない」、とか、「年寄りは頭が固い」、等の物言いに接する時と、同じ様なものなのかな、とも思います。その他の色々の要因を無視してそういうのを言われると、かなり困る訳ですね。
あ、文系/理系 論(の中の一部のやり取り)も、同じ様な事なのかな。

投稿: TAKESAN | 2008年2月10日 (日) 22:53

ちがやまるさん、今晩は。

「批判がどう響くか」、というのは、最も重要で、最も難しい問題なのだろうと思います。

ニセ科学を信ずる人に対して、論理的合理的科学的批判を徹底的に加えて、かつ人格的な非難をも行う人は、いるのだろうと思います。実際、WEB上で見つけようと思えば、それなりに見つかります。
ニセ科学批判というのは、ニセ科学を科学的に批判する行動なりの事を指す訳で、それは、必要条件ですよね。
で、上に書いたような人々がいる事によって、ニセ科学を批判する人は、対象の人格をも非難するのだ、と一般化されるのは、「困る」のですよね。批判活動そのものを否定する事になりかねないのですし。

前にも書きましたけれど、どのように丁寧な批判を心掛けようとも、相手が信じている対象を結果的に否定する事になるのですから、それは、人格を含めた色々なものを否定されている、と捉えられるのは、あり得る事なのですよね。これは、批判という現象に本質的について回る問題、だと思います。

だからこそ、安易に「ニセ科学批判者」と一般化されると、批判者が慎重に積み上げてきたものが蔑ろにされ、「ニセ科学批判とは、対象の人格その他も否定するものだ」、というステレオタイプが形成される可能性があるので、とても怖いのだと思います。

後段については、私も、色々考えました。かなり悩ましいです。

投稿: TAKESAN | 2008年2月10日 (日) 23:10

 私は、この問題(酷い内容の批判をする非合理批判者がいる)について「懐疑論者」の問題として捉えてきました。明確な具体例をあげないので説得力はないですが一応お話として聞いていただければ。

 私から見ると「正しいことを言っているのだから、何が悪いのだ」といったような態度で、非合理を批判する人が相当数いると感じています。この人たちは非合理批判をしているというだけで「懐疑論者」という括りで見られているようです(実際のところ、自称している場合もあるし、していない場合もある)。
 あまりにも悪影響がばら撒かれているので、懐疑論者を自称するのをやめようかと本気で考えたこともあります。

 悪影響の実例ですが、現在は信奉者側にいるものの、きちんとした根拠があるのならばきちんと話を聞きたいという態度の人から、「懐疑論者が怖いので発言できない。だから、もし知ってたら教えて。」という相談と質問を個人的に受けたことが何度かあります。

 きちんとした話を聞きたいと考える信奉者が発言に躊躇してしまうような状況は、よくない状況だと思います。より適切な考えを持てる可能性がある人を信奉者側に押しとどめる力になりますから。

 そういうことがあったので、不適切な批判をする人に対する批判は必要だと感じています(し実際にしていますが、理解してもらえていません)。
 また、それに留まらず「どこまで、手取り足取りでなければ、逆効果になってしまいやすいか」まで、検討しなければいけない段階にあるのかもしれないとも感じています。

 ちなみにTAKESANの批判の仕方に問題があるとは全く思いません。しかし、なぜここで書くかといえば、Genさんのエントリがわら人形の形成を助長すると懸念されたように、Genさんのエントリの批判が、不適切な批判を助長する懸念もあると考えたからです。
 このことに言及したみなさんのエントリをよく読めば、注意深く書かれているので、不適切な批判をしている人を肯定するような傾向のエントリにはなっていません。しかし、おそらく不適切な批判をしている人は都合よく誤読するだろうなとも思えてしまうのです。

投稿: newKamer | 2008年2月10日 (日) 23:52

newKamerさん、今晩は。

丁度さっき書き上げたエントリーが、お書きの事と関連するかも知れません(0:00にアップされます)。

ご紹介の例で出てくる自称懐疑論者は、推測するに、「正義感」のようなもので動いているのでしょうか。だとすると、自身の行為の正当性を確信しているのですよね。うーん、難しいですね…。それはある種のビリーバーですし。

やはり、自分が丁寧なやり方を心掛ける事、丁寧なやり方をする所を案内する事、等を地道にやっていくのが重要なのでしょうね。基本だけれど、基本であるが故に、大切、だと思います。誘導する、和らげる、落ち着かせる、という方向性と言うか。

どのように読まれるか、という部分は、「読みの深度」の問題があるので、「深く読んでくれない」というのは、どこまでもついて回ると思います。どんなに注意深く書こうとも、どう読むかは、最終的には読み手の認識に依存する訳で。書き手としては、なるだけ多くの人に対して、解りやすく、丁寧に、というのを心掛けるしか無いですね。もちろん、「どうせ読まれ方なんか色々なんだし」、と考えるのは、いわゆる開き直り的で、激しく論外で、駄目過ぎますけれど。

投稿: TAKESAN | 2008年2月11日 (月) 00:07

 ニセ科学のうち、「商品の宣伝に登場するニセ科学」については、科学的判断を拒否した場合の効果が、消費者と事業者では大きく異なります。
http://www.cm.kj.yamagata-u.ac.jp/blog/index.php?logid=7937
 少なくとも、販売に使われるニセ科学については「批判で済むうちはまだ傷が浅い」と考えるべきです。人格否定を云々する余地はない。科学的判断を拒否したまま事業者をやったら、則違法という判断をされてしまいます。行政指導や排除命令が出るかどうかはもう確率の問題です(全てを取り締まるの人手がないだけで、いつ取り締まりの対象になってもおかしくない)。
 でもって、消費者の仲間のつもりで実は事業者をしてしまうケースというのが、まさに連鎖販売取引(いわゆるマルチ商法)のダウンラインの人達なんです。
 宣伝に使われるかどうかで、批判するときの態度を変えた方がいいのかもしれません。

投稿: apj | 2008年2月11日 (月) 00:17

apjさん、今晩は。

ああ、なるほど。

 >消費者の仲間のつもりで実は事業者をして
 >しまう
こういうケースもある訳か…。

批判の仕方は、対象によって変えるべきだと思います。

投稿: TAKESAN | 2008年2月11日 (月) 02:12

ぼくなんか多分「駄目なニセ科学批判」を目にしたらやっぱり噛み付くと思いますけどね(^^;。特にアファーマティブ・アクション的な動きをすることもないですけど。

いまのところあまりそう云う動きをしないのは、見かけるたいていの「駄目なニセ科学批判」が「人体の70%は水言説」と同水準にあるからなんですが。

投稿: pooh | 2008年2月11日 (月) 07:30

poohさん、今日は。

そうですね。ブログとか掲示板なんかで見かけるものは、駄目レベルが高過ぎると思います。そこから抽出して、「○○について、こんな批判の仕方はよくない」、というのを纏めるのはありそうですけれど。
駄目な批判も、理論的な部分の考察が甘い場合と、対象の人間性にまで言及してしまう場合、というのがあると思っています。前者は論外ですが、後者は、対象によっては、踏み込まざるを得ないとも考えています。

投稿: TAKESAN | 2008年2月11日 (月) 11:48

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