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2008年2月29日 (金)

努力

作品でもパフォーマンスでも何でもいいのですが、それについて批判なりをすると、「一生懸命やっているのだから」、とか、「現場は本気なのだ」とか、そういう風に反論する人が、時折見られます。

でもそれって、全然違うのではないかと思うのです。

「その人がいかに努力したか」、というのは、作品なりを評価する「参考」になる事はあるけれど、それは決して、出来の悪さを正当化したりするような使い方をしてはならない。

学芸会じゃ無いのだからね(そういう文脈ではあり、という事)。子どもに対して、「努力した事そのもの」を褒めるという場合ならいざ知らず。

もちろん、当人が開き直り的に言うのは、全くもって論外ですが、近しい人が、庇うためにそういう事を言うのも、ダメだと思います。

もし当人が「本気」だった場合、その人に対しても、物凄く失礼になるかも知れない。

その人が何をしてきたか、というのも確かに大切でしょうけれど、人からは離れた作品として、評価するべきでしょう。見る方も、それを心掛けるべきだと思います。

別の文脈では、「善意」がある事をもって、駄目な活動なりを擁護する人がいます。これも妥当では無いと考えています。

poohさんがよく仰る事ですが、ある行為を、「善意」によって免責・正当化するべきでは無い。特に、医療に関わる分野等の場合、それは即、命に関わる問題になる訳ですから。

テレビ番組なんか観てると、結構、そういうのを目にします。「いかに努力したか」をドラマティックに伝え、「良い結果は得られなかったが、努力をした所は評価する」、的な。そうで無くて、努力の方向性は妥当だったか、とか、パフォーマンスのどこが良くなかったか、等を論ずるべきだと思うんですけどね。「間違った方向への努力」というのは、いくらでもある訳で。「努力したという事実」ばかりを重んじてはいけないんじゃないかな。

ちょっと極端に思える意見かも知れませんが、もちろん、全くそういう事をしてはならない、というほど強い主張をしたい訳でもありません。物事によっては、密接不可分な場合もあるでしょうから。

ただ、「心情」にばかり思いを馳せるのは、客観的な評価の目を曇らせる事がある、というのは、念頭に置くべきだと考えます。

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「随想」カテゴリの記事

コメント

おはようございます。
具体的にどのような事例を想定されているのか分かりませんが、人間ではなく、その成果を評価する場合は全くその通りですね。市販の薬を買う場合にその会社がどれだけ努力して開発していても、危ない薬を買うわけにはいきません。

あと、勝負の世界では人間を評価する場合でも同じ程度の実力なら努力型より天才型の方が将来性を評価されることもありますね。努力型はすでに完成していると見られて、「努力しても、そんなものか」と、非情なようだけど勝負の世界だから仕方ない。

投稿: zorori | 2008年2月29日 (金) 07:25

私は「努力」というのは非常に重要な才能のひとつだと思っています。天才と呼ばれる人の多くは、超人的な努力を行える人のことだと思っています。
「この子はやれば出来る子なんやから」なんていうオカンが偶にいますが、その「やれば」が「出来ない」子にはとてつもなく難しいことが理解されていないようです。

ただし、「努力」そのものを評価する気にはあまりなれません。あくまでも「努力」の「結果」を評価すべきだと思います。「結果」の伴わない「努力」は(TAKESANさんが仰っていることとほぼ同じだと思いますが)、結局のところ方向性が間違っているとしか言いようがありません。
私が考えている「努力は才能」というのは、そこまで含んだものです。

投稿: Noe | 2008年2月29日 (金) 10:52

こんにちは、皆さん。

 なんていうか、「再チャレンジ機会」みたいな概念との兼ね合いがあると思うんですね。努力したけど結果が悪かった時に、その努力を買うなら、目標を下げた形で「再チャレンジ機会」を提供すべきでしょうね。その方が「適材適所の人材を失わなくて済む」という意味で、社会全体には良くなる訳です。

 一つの事の結果評価をしているのに努力というプロセス評価軸を入れるのは、基本的に「再チャレンジ機会は与えない」という日本のシステムと関係していると思うわけです。努力してうまく行きそうだった部分とか、努力してもうまくいかなかった部分、努力が足りなかったり、本人の能力でどりょくしようにもできなかった部分の解析をするのは、「どういう再チャレンジ機会を与えるか」のためであって、今やったことの結果評価のためでは無いわけですね。

投稿: 技術開発者 | 2008年2月29日 (金) 11:57

皆さん、今日は。

「努力した」という事実ばかりを重んじる、というのは論理的には、その方向性を検討せずに、「熱意」とか「頑張り」だけを褒める、という事ですね。
Noeさんが仰るように、努力出来る、とは、ある物事に真剣に取り組む、没頭する、集中する、という能力である訳ですね。でも、それだけでは駄目で、「何に能力を注いだか」を、問わなくてはならない。

具体例として、武道の話を出すと。
剣術を極めんと生活のほとんどの時間を修行に費やしている(←まずこれが努力)人が、毎日毎日7・8時間を、瞑想に割いているとします。で、型等の稽古は一日15分。その人は、瞑想すれば、超越的な存在が奥義を授けている、と信じている訳ですね。
で、これが、身体運動のレベルを上げるという目的を考えると不合理である、というのは明らかですね。

私が言う「努力した事実ばかりに注目する」、というのは、この人が、「やるだけの事はやったが剣は極められなかった」、と言ったり言われたりするようなものな訳ですね。
もっと他にいい方法があったのでは、とか、そんなに時間を割いたら逆効果なんじゃない、とか、本当は、そういう所を試行錯誤しながらやっていくべきだと思うんですよね。でも、熱意過剰でプロセスから目を逸らしてしまう場合がある。

そんな事を考えて書いたのでした。

近道があるかもしれないのに、わざわざ曲がりくねった道を遠回りして、時間内に辿りつけなかった。それを、一所懸命歩いたんだから良いじゃない、と慰めたり努力を称えたりするようなもので。
もちろん、上に書いたように、そういう一切を認めない、という主張ではありませんので…。

投稿: TAKESAN | 2008年2月29日 (金) 12:46

捻れた自然保護活動ならぬ愛護ならぬ愛玩活動,増殖ばらまき。子供たちが一生懸命とか,子供たちが喜んでいるとか,子供を人質に取るような物言いで正当化する状況によく遭遇します。PTAもそれなりに投資しちゃっていると,問題があってもなかなか止められません。
 なんとなく,アナロジーを感じてしまいました。

投稿: complex_cat | 2008年3月 1日 (土) 21:59

complex_catさん、今晩は。

 >子供を人質に取るような物言いで正当化する状況

確かに、そういうケースもありそうですね。

たとえば、自然現象に関わる事だった場合には、「思う」だけとか「気持ちがある」とかだけでは、どうしようもなかったりするのですよね。いくら熱意があっても、それを注ぐ方向性が妥当で無ければ、何にもならない訳で。水伝の議論にも敷衍されると思います。すなわち、自然現象の構造を知る事に関心を持たずに「思い」を過度に重視する見方。これも、ベクトルの方向が違う例ですね。

このエントリーを書く際には、色んな事を念頭に置いていました。そこに共通するのは、「”いわゆる”日本的な」心性、だったりします。

投稿: TAKESAN | 2008年3月 2日 (日) 01:22

こんばんは。
このエントリーについては、コメントせねば!と思いつつ数日たってしまいました。
特に「芸術」の分野では大きな誤解や、ステレオタイプな「努力」がまかりとおっているかもしれません。僕はよく「枚数を描く事が大事」と言う事がありますが、ただ単純に枚数を重ねても駄目で、やはり目的を持って積み上げていかねばなりません。
絵を描くのは、ものすごく面倒くさいことでもあるので、長時間集中して、さらに質を高めようとすると、大変な労力が必要になります。そこまでして枚数を重ねられるかどうかというのは、明確な目的と方向性のある「努力」が重要な要素の一つであると思います。
また、本質的な「努力」に耐えるにはそれ相応の精神力と体力が必要なので、誰にでも出来る訳ではないし、その分野に対する情熱や愛情も必要です。
毎日、絵を描いていて思うのですが、常にベストで描けるという事はないです。いい時もあれば、悪い時もあります。でも、仕事で描いている以上、常に求められる水準をクリアしなくてはなりません。常に良いパフォーマンスで描けるよう準備はするのですが、人間という生物である以上、マシンのようにはなれないです。
いくら準備をしていても、ある一定の水準を満たせなければプロ失格だし、表現として評価に価する物ではないです。そして、いくらその準備に「努力」を重ねていたとしても、それは水面下のことであり、表にだすものではないです。決して、評価の対象にするべきではないでしょう。あくまでも、プロであるならという注釈つきでですが。
でも、本当に積み重ねられた「努力」は裏切らないと思います。過去の自分の嫌いなところや後悔するところは、それこそ星の数ほどありますが、これまで枚数を重ねてきた過去の自分には、今感謝したい気持でもあります。
とはいっても、僕が思い描く理想にはまだまだ遠いです。精進せねば。

投稿: corvo | 2008年3月 2日 (日) 04:08

芸術と武術には、共通する所があるのかも知れない、と推察しています。

ある目的について努力する場合、その努力の「質」が重要になってくるのだと考えます。果たしてそれが合理的であるか、他に工夫された方法は無いだろうか、と考察する事が、肝要だと。

努力のみを称える、というのは、「上達について、努力が十分条件である」、かのような見方なのではないかと思います。だから、努力して芳しい成果が得られない場合、即座に「才能の欠如」に原因を求めたり、「まだ努力が足りない」、と考えたりして、「努力する方向性の質の分析」について、目が行き届かなくなる。

本来、一定以上のパフォーマンスレベルに達するには、努力は必要条件でしか無い、と考えます。ようするに、「努力する事なんか当たり前なのだから、それを褒めてもしょうが無い」、という事なのかな、と。※論理的には、本当は、努力は必要条件ですら無い、と私は考えていますが、ちょっと複雑になり過ぎるので…。

尤も、上にも書いたように、これは、どういうパフォーマンスを求めるか、という所にも依存しますから、文脈による訳ですが。

イチロー選手は、自身がどれだけ努力しているか、というのを、自分ではほとんど言いませんよね。淡々としている。本来、血の滲むような練習をしているはずだけれど、それはプロであれば、他の選手も当たり前にやっているのだ、という考えがあるのかも知れません。本質的に重要なのは、努力の方向性なのだろうと思います。努力の「量」は、「当たり前」なのでしょう、ハイレベルになれば。

私がいつも頭に置いているのは、武術の世界の話なんですよね。一日何時間稽古した、とか、失神するまでやった、とか、そういう所を誇る人がいたりするのですね。じゃあ、それが技の「上達」にどれほど役立っているか、自分がやっている事の内容が、どういう意味を持っているのか、と問うと、果たしてどれくらいの人が、明確に答えられるか…。

投稿: TAKESAN | 2008年3月 2日 (日) 11:54

うう、この手の話題では、つい文が長くなってしまっていけない(笑)

芸術の分野に関しては明るく無いのですが、武術の世界では、「感覚」や「直感」を重視して、分析を忌避する意見を、時折見る事があります。

そういう場合、モデルとして想定しているのは、「達人」、「名人」な訳ですね。
ところが、達人というのはそもそも、平均から大きくはずれた所にいる人なのですよね。横軸に「パフォーマンスのレベル」を取り、縦軸に人数を取ったヒストグラムを描くとするならば、達人・名人と呼ばれる人は、その右端の方に位置する。

で、名人・達人ならざる私達は、ついつい、目指している境地にある人々が「何をしている(た)」かに、目が行きがちになる。もしかするとその人達は、他の方法を用いてもそこに到達出来たかも知れない訳ですね(論理的にはそう考える事は出来る)。あるいは、本当に重要だと思ったものは、実は隠されているかも知れない。
しかるに、我々は、「達人が何をしたか」をクローズアップし、より目立つ所を採り上げ、「これさえやっていれば」、と認識する。

そして、「これさえやっていれば」、の「量」を追求し、質には目が向かなくなる。直感や感覚を重視する、という前提が、質の分析について目を曇らせる、という可能性がある訳ですね。

そういう事もある、と考えています。

投稿: TAKESAN | 2008年3月 2日 (日) 12:14

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