どこまでも
トラックバックの質問には一部答えようと考えたが、答える前に、内輪ですでに答えをだしているのである。答えは、これすべて、自己のうちにあるのである。
む。これは、私の質問の事なのでしょうか。私が問うた質問については、自分の所では、特に答えを出した憶えは無いので、違う話なのかな? 答えなど、出しようも無いし。まさか、「推測」について、「答えを出した」、などと仰っている訳でも無いでしょうし。poohさんが、「ブーメラン」という喩えを用いられましたね。論宅さんは、そこをちゃんと考えてみた方が、よろしいですね。
それにしても、どこまでも、ご自身に都合良く、論理を展開なさいますね。
私も含めてニセ科学批判批判をする人たちは、よく見れば孤立化しバラバラなような気がする。
この事実を整合的に説明出来る理由は、他にも考えられるでしょうに。
それで、私の質問には、答えては下さらないのかな。もしかしたら答えてくれるかも、と、お待ちしているのですが。
ちなみに、論宅さんが疑似科学批判者を批判なさった動機については、よく解りません。Kumicitさんの分析が当たっているかも、知りようがありません。ですが、その後の、ニセ科学批判者を批判する言説が、全く論になっていないのは、周知の事実です。具体的な事を、全く書いておられないのですからね。
それと、コメントに、論外の事を書いている方が、おられますね。ニセ科学論から、飛躍している。
左巻さんがおかしな事を書いた、というのであれば、そこを、科学的論理的に批判すれば、よろしいのですよ。※ちなみに、私は、書かれている事について、どれほど妥当かは、解りません。しかし、明らかに、左巻さんに対するかなり強い批判ですので、事情をご存知の方は、なんらかのフォローをした方が良いかも知れません。
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コメント
コメント欄が見事に「敵/味方」観いっぱいに見えるのは気のせいでしょうか。(^^;
投稿: みづ | 2008年1月18日 (金) 01:03
みづさん、今晩は。
あ、思いっきり、そうなってますねえ…。なんだか、典型的な科学批判で、ニセ科学議論に便乗してる、としか見えなかったり。
投稿: TAKESAN | 2008年1月18日 (金) 01:13
皆さんこんばんわ。Kumicitさんの推理に乗っかってエントリーを上げてみましたが、どうも相手の出方を視る限りやっぱりそういうことだったのかな、という気がしますね。
他人の批判を一切相手にする必要のない論理を堂々と開陳して、「オレ社会学至上説」を一方的に発信する口実にしておられて、見事に「喧嘩に負けない道」を貫いてらっしゃいます。
投稿: 黒猫亭 | 2008年1月18日 (金) 01:38
私は(おそらく氏が主張したいだろうように)社会学は自然科学よりも「上」だと思っています。以下は昔、黒木掲示板で山形浩生さんが書いたことですけども、まあそういうことだろうと。(^O^)
「あるインド系の経済学者は「いいかおまえたち、善行を積んだ経済学者は、物理学者に生まれ変われるけれど、行いの悪い経済学者は生まれ変わったら社会学者になっちゃうんだぞ」と言って、生徒たちに善行を奨励しているそうです。いい話ですね。
誤解をなさらないように言っておくと、これはなにも、社会学者がろくでもない悪徳の固まりだということを言いたいわけではないそうで、「社会学は経済学にくらべて、とてつもなくつらくてむずかしいぞ」ということを言っているのです。」
そう思うからこそ、頼むから社会学を騙ってアホな言説を垂れ流すなよ、と思います。
少なくともあれが「社会学」なら、社会学は自然科学の足元に及びもしません。
投稿: みづ | 2008年1月18日 (金) 02:39
>みづさん
はじめまして。うーん、仰る意味としてはわかりますが、それでもちょっと学問同士の間で上だ下だというのはあんまり好きではないですねぇ。それは当然、自分の属する学問領域が最高だというくらいの自負は内心あるもんでしょうけど、別の学問領域の研究の苦労というのは本当の意味ではわからないものでしょうし。
投稿: 黒猫亭 | 2008年1月18日 (金) 06:07
>TAKESANさん
>>それにしても、どこまでも、ご自身に都合良く、論理を展開なさいますね。
この方が唱えているのは社会科学なんかじゃないというお話は、みづさんやpoohさんが仰っていますけど、それ以前に学問的な誠実さがないのが一番不愉快です。学問というのは、喧嘩に負けなきゃそれでいい、言い張り続ければそれでいいというもんじゃないでしょう。
勝ち負けや敵味方なんて捨象してるんだと仰っていますが、どこからどう読んでも「勝手に勝利宣言」ですよね。そのくせやっていることは己の解釈を左右して、誰とも戦わずに脳内で自分が優位に立てる理屈を捻り出しただけ。こういう人が学問を詐称すると学問が泣きます。
投稿: 黒猫亭 | 2008年1月18日 (金) 06:34
真なる識者、って言い回しが愉快です。
負けないために「負ける主体」としての自分を明らかにしないようにふるまってたら、「勝つ主体」がなんなのかもわかんなくなっちゃった、ってところですかね。なんか血液型性格診断支持者の誰かとそっくりです。
投稿: pooh | 2008年1月18日 (金) 08:04
あいかわらず、ターゲット不詳な攻撃をする"merca論宅"氏ですが、もうひとつ大きな特徴に気がつきました。
22回ばかりURLをテキスト文字列で書いた例が見られますが、163個のエントリにはひとつもリンクがありません。どうも、「Aタグを知らない」かつ「exblogエディタの"リンク"ボタンを有効化させるために、IE7の"スクリプト化されたウィンドウを許可"する方法がわからない」ようです。
"merca論宅"氏はまずリンクの書き方を学ぶべきでしょう。
投稿: Kumicit | 2008年1月18日 (金) 09:51
>黒猫亭さん
こんにちは。
確かに「上下」というものの言い方は適切ではないですね。撤回します。
言いたかったのは、社会学など、いわゆる「文系」というものが、どうやら世間では「理系に行けなかった人」みたいなイメージがあるような気がしていて、で、実際それが正解という側面もあって(^^;、しかしながら本来、社会科学というのは自然科学の素養がもちろんあった上で、さらに複雑なものを相手にする分野のはず、という気持ちがあるわけでした。(「文系」の研究者の中にもそれに無自覚な人が多すぎるのも事実で)
まあだから、「べき論」として「上」と思うのはいいとしても、外に向かって「上」と表明するのは不適切でしたし、実際、そんな問題じゃないですね。失礼しました。
投稿: みづ | 2008年1月18日 (金) 09:57
おはようございます。
>私ごときに過剰反応
論宅さんは、本心から「私ごとき」などと思っていないでしょうね。思っていたら、最初からもっと慎重な発言になったはずで、当然こんなに批判も受けなかったはずです。
最近は、情報発信の一歩目が手軽になっている分、このように、事が起きて初めて、自らが行使した力の大きさに気付いて慌てる人を、よく見かけます。
投稿: A-WING | 2008年1月18日 (金) 10:38
皆さん、今日は。
>みづさん
他所で、技術開発者さんが仰った事とも繋がるかと思います。
社会学は、その対象から考えても、他の実験科学等とはまた違った難しさがあり、しかも、何かを解ったと思ってしまう、となりがちなのかも知れませんね。
------
>黒猫亭さん
みづさんは、ある種の皮肉も込められたのでしょうね。「上」というと、優れた、という意味が連想される場合がありますね。社会という恣意的に構成された概念を対象にする、という意味で、上即ちメタ、と考える事も、出来るかとは思いますけれども。
>黒猫亭さん(2008年1月18日 (金) 06:34)
まさに、poohさんが仰る、「ブーメラン」だと思います。行っている批判が、ほぼ自分(論宅さん)に当てはまるので、なんだかなあ、ですね。
------
>poohさん
ですね。なんだか、どんどんおかしな方向に突っ走っているようです。しかも、ああいうコメントには、レスするんですよねえ。
------
>Kumicitさん
あ、確かに、そうなってますね。なんでだろう。
ところで、Kumicitさんの分析は、凄いですね。あの膨大な(中身はほとんど空疎な)テキストを読むというのは、なかなか…。
------
>A-WINGさん
あの発言には、ちょっと苦笑しました。自分のような影響力の乏しいであろう発言者に対して、ああいった反応を示したという事は、過剰反応せざるを得ない「何かが」あったのではないか、と書いている訳ですよね。そしてそれは、「自身が絶対視している科学を相対化される事への虞」、とでも仰りたいのでしょう。
------
本当に、ABO FAN氏みたいに見えてきましたね。
投稿: TAKESAN | 2008年1月18日 (金) 11:55
たとえば、「HTTPはTCPよりも上のレイヤーである」という意味の「上」でしたら、単にHTTPとTCPの関係を述べているだけで、どっちが偉いという話ではありませんよね。みづさんの「上」がそれと同様の「上のレイヤー」を意味しているなら、ひとつの主張として理解できます。不適切とは思いません。私は賛同しませんが。
なぜ賛同しないかの説明を始めると長くなるのでここでは遠慮します。必要になったら(たぶん、ならないと思うけど)、自分のところでやります。
投稿: かも ひろやす | 2008年1月18日 (金) 13:26
かも ひろやすさん、今日は。
私は、自然科学的論理を前提しなければ論を展開出来ない、という意味で、「上」と表現されている、と読み取りました。土台の上に乗っているイメージ、と言うか。
他に、「高い」が用いられる事もある気がします。高次、とか。
見方を変えると、自然科学を基礎として考えないと、どんな論でも導けてしまうので、注意すべきである、という意味も含んでいるのかな、と。
投稿: TAKESAN | 2008年1月18日 (金) 14:08
えと、みづさんご提示の喩えは、輪廻の話に喩えたのだと思うのですが、そうだとすると、最終目的は解脱だと思われるので、どちらの学問が上、ということはないんだと思います。
ただ、現在のインドは仏教やらヒンドゥーやらイスラームやらいろいろあるので、その経済学者の方がどの宗教に属しているかで、意味がかなり変わってきますけども。
投稿: A-WING | 2008年1月18日 (金) 14:26
私自身は、「上」という語は、「ある基盤の上に成り立っている」、とか、「何かを前提としなければ存在し得ない」、と直感的に解釈しました。もちろん、「優劣」という意味は、読み取らずに。
うーんと。
「鏡餅の上に乗っているみかん」は、鏡餅が無ければ存在し得ないけど、みかんは鏡餅より偉い訳では無い。そして、「鏡餅の上に乗っているみかん」について、鏡餅の存在を無視して語る事は出来ない。
という感じかな…。
↑
誠に稚拙な喩えなので、無視しちゃって下さい。
投稿: TAKESAN | 2008年1月18日 (金) 14:36
>上下問題の皆さん
どうもです。オレが上だ下だという言い方が好きでないと言ったのは、やはり「上下」という方向性には圧倒的多数の人々の間で「優劣」というニュアンスが拭いがたく共有されているのではないかと思うからです。
勿論、知的考察の特定の局面では客観的に甲乙の間で「優劣」を定めなければならない場面もあるのでしょうし、位置関係としての「上下」を特定すべき場面もあるでしょう。
そこで気を遣うのは意味がないんですが、そうでない場面で単なる比喩として十分な注釈抜きで「上下」という表現を遣ってしまったら、第三者に「優劣」という意味にとられても仕方ないですよね。で、人間というのは他人から優劣を判定されると理屈抜きに情熱的に反撥するわけで、そういう意味で「上下」という表現には「強燃性」があるわけです。
だから、本当に客観的な位置関係を詳述する為に必要な場面以外の、たとえば人間の営みに関しては、それ以外に表現しようのない場合を除いて上下という位置附けを比喩に用いるのは危険かな、と思うわけです。
もっと言うと、たとえば本当に位置関係上の「上下」という意味合いで遣ったとしても、「自身の属する立場のほうが上だ」と言い切る場合、無意識裏に多義的な意味性において優越感を感じていたりはしないんですか、という話にもなってくるわけで、意味内容の特定とは別次元で、たしかに「オレのほうが上だ」という言葉自体を発することは、何となく気持ち良いというのは否定出来ないと思うんですね。でも、そんな深層心理論みたいな話で発話者の気持ちまで忖度したりされたりするのって不毛じゃないですか(笑)。
まさしく論宅さんの場合は、メタというのは上方にあるから下より偉いんだ的な感じ方なわけですし、Kumicitさんが「高見に立つ」と仰ったのもその辺の弁別のなさを揶揄されたんでしょうけど、やはり「上下」という方向性は結構人間のコミュニケーションにとって曲者なんだと思います。
投稿: 黒猫亭 | 2008年1月18日 (金) 15:05
追記:別エントリーへのコメントで言葉狩りに対する反撥を表明しておきながら、これも一種言葉の規制に繋がる考え方なんじゃねーの?と感じられた方には、一応説明が用意してありますが、長くなりそうですので、ご要望があったらお答えするということでよろしいでしょうか。
投稿: 黒猫亭 | 2008年1月18日 (金) 15:10
皆さんへ。
文脈によっては、「高次」や「上位」が、必ずしも「優位」を意味しない、というのは、色々勉強をしている人にとっては、ある程度共通了解な訳ですね。しかし、より一般に対してそう取られるか、というと、そうでも無い。
という訳で(どういう訳?)、このコメント欄自体が、「”上”即ち”優位”、では無い」という言葉の遣い方を示す機能を果たしている、と見る事も、出来ると思います。
後、これは重要なポイントで、みづさんは、「このブログのこのコメント欄」に、お書きになったのですよね。これはつまり、「このエントリーのコメント欄を読む人は、含みや皮肉を読み取ってくれるだろう」、と期待して書いた下さったのだと、推察しています。これも、ある種のコンテクストですね。
ただ、誤解される虞も、確かにあるかも知れない。そこについては、みづさんが補足して下さいました。これ肝腎。
という訳で(どういう訳?)、「上」論については、この辺で。
投稿: TAKESAN | 2008年1月18日 (金) 15:32
すいません、つまらない拘りで話をややこしくしてしまったようですね。このお話については、そのような結論で諒解させて戴きます。
投稿: 黒猫亭 | 2008年1月18日 (金) 17:19
あれ、「上」論について考えているうちに終わってしまった(笑)
というわけで、社会学的な科学論へのアプローチの具体例について読める本として伊勢田哲治『認識論を社会化する』をオススメしてみます。一応昔レビューも書いたのですが↓
http://d.hatena.ne.jp/dlit/20060826/1156621195
言語学やってる人向けに書いてあるので、あまり役に立たないかもしれません…専門書なので決して易しく読めるとは言えませんが、お勧めです。
「科学を社会学する」とはこういうことなのか、ということを僕はこの本で学びました。
apjさんのところでも文系/理系話が出ましたし、自分自身も書きたいことは多いのですが、最近トンデモ言語学の毒に当てられて若干思考力とやる気が落ちているようで、なかなかエントリの形にできない状態が続いています。(^^; 頑張って回復します…
投稿: dlit | 2008年1月18日 (金) 19:08
>黒猫亭さん
あ、いえいえ。
日常的な用法と誤解されるかも、という視点は、とても重要だと思います。
ただ、書かれている場を考慮すると、「みづさんは、他の場では同じ言葉遣いはなさらないだろう」、とも考える事が出来る訳ですね。
------
dlitさん、今晩は。
あ、言葉遣いに関する議論はこの辺で、という事なので、自然科学と社会学の関係とか、そういうのは、全然書いて頂いて構わないですよー。
伊勢田さんの本、面白そうですね。なかなか難しそうでもありますが(笑)
投稿: TAKESAN | 2008年1月18日 (金) 19:31
あ、すみません。
一応、書いたので、投稿させてください。
これで終わりますので。m(_ _)m
削除していただいてもかまいません。>TAKESANさん
>かもさん
そこまでは考えていなくて、この考えの念頭にあるのは
「私、文系でしてそういうことはさっぱり……」
的な、「文系/理系」構造の中での「文系」の立ち振る舞いなんです。
こういう発言で発言者が「免責」されると想定しているのは、「自然科学/論理的思考」あたりっぽいわけで、しかしよくよく考えれば、そんなもん「文系だから免責」になんてなるはずないわけですよね。
ですから、意図としてはTAKESANさんにくみ取っていただいたのが一番近く、ただ、それに加えて、社会科学は自然科学を超えるべきであって、逃避すべきではない、という「べき論」としての意味も込めて「上」という言葉を使ったのです。
ただ、黒猫亭さんのお話もよく分かりますし、あえて「上」という言葉で表明する必要もない問題かとも思いますので、撤回させていただきました。
投稿: みづ | 2008年1月18日 (金) 21:03
>みづさん
いやどうもすいません、オレの心配が杞憂だったようで、そういう性格のお話はこれきりに、というお話だと思います。
>>社会科学は自然科学を超えるべきであって、逃避すべきではない
この辺、全然知識のない者からすると理解しづらい部分ですが、単純に考えると、自然科学の領域の知や手法を、社会学の対象の研究の為に横断的に用いるという理解でよろしいんでしょうか。
そこの部分を少しお伺い出来れば、と。
投稿: 黒猫亭 | 2008年1月18日 (金) 21:22
TAKESAN、こんばんは。私は最近論宅氏の事を、すっかり忘れていました。というのも、私は有意義で無い話だと思ったら、繰り返しては読みません。
今、TAKESANさんが言及した論宅氏のサイトの項目を見ました。論宅氏のサイトの項目の、コメント欄も読みました。やはり論宅氏は、論客の話をまともに聞き入れてくれる相手では無いです。
論宅氏は、新しい知見を取り入れる様子も無く、反対意見にも耳を貸さない。田部さんの真意も伝わってはいない。論宅氏は、論宅氏に同調する人の意見だけを受け入れています。
これ以上論宅氏に関わるのは、時間を無駄に消耗し、精神的にも良くないと、私は思い至りました。そういう訳で、私はもうよほどの事が無い限り、論宅氏のサイトについて、直接感想を述べる事はしない事にします。ただし論宅さんが、「昨日、ニャントロ星人見ました。」と言い始めたら、その時はまた考えます^^)。
投稿: TAKA | 2008年1月18日 (金) 21:27
>黒猫亭さん
特別な含意があるわけではないんです。
TAKESANさんが読まれたとおり、社会学だろうが何だろうが科学的思考/手法抜きには存立し得ないでしょうというだけの話でなんです(でないと、「学」の文字がつかない)。
ところが自然科学と違い、社会科学は科学的思考/手法だけでは全く太刀打ちできない問題を相手にしている。(いや、自然科学もそうかもしれませんが)
だからそれに立ち向かう手法を見つけるべく社会科学者は苦労するわけですが、その手法はやはり科学的思考に片足をつっこんだものでないと、ダメダメになってしまう、と。(でもそれは決してソーカルが揶揄したような、自然科学の概念をガジェットのように取り込むことではないですよね)
例えて言うなら、「宗教」には科学的思考は必要ではないかもしれないけれど、「宗教学」には必要で、しかしそれだけでは宗教はさっぱりわからん。科学的思考を超えたモノサシが必要になってくる。かといって科学的思考のない宗教学は、そりゃやっぱり宗教そのものか、あるいは単なるゴミでしょうと、そんな感じのイメージです。
メタな話っぽくて、恐縮です。m(_ _)m
投稿: みづ | 2008年1月18日 (金) 22:44
TAKAさん、今晩は。
そうですね。(私が言う事でも無いけれど)論宅さんのブログは、知識を得たり議論を建設的に進めたり、という場では無いので、積極的に読む必要は無いかな、と思っています。敢えて言えば、詭弁のケーススタディ、という感じでしょうか。
------
>みづさん、黒猫亭さん
みづさんは、「科学」という語の用い方に、苦心なさっていますよね。それ自体が、かなり広い範囲を含み得る概念なので、難しいですね。
私自身の考えとしては、社会科学は、自然科学の方法をそのまま用い、「当てはめて」よしとするのでは無く、かと言って、実証的方法を蔑ろにするでも無く、という姿勢が大切なのかな、というものです。思弁でもいけないし、単純な応用でもまずい。だから、質的研究法と量的研究法の、両方が重視される訳で。
という事は、自然現象のメカニズムを追究するのとは、また異なった論理を考察すべきなのですよね。人間の心理などをどう考慮するか、とか。
そういう感じではないかな、と。
投稿: TAKESAN | 2008年1月18日 (金) 23:05
>みづさん
いえいえ、そういう現実的な意味でみづさんが「自然科学を超える」と仰っていることがわかりましたから、やはり対話が大事なんだと思います。オレの周りには一応自然科学に近縁の職業人が何人かいますから、自然科学回りのことはそういう人に聞けば何とかイメージ出来るんですが、社会科学に関連した人がいないので、その方面はよくわからないところがあります。
自ブログの記事でも、ナイーブに「社会科学が自然科学の方法論を採り入れるのは」とか書いてしまったりするわけですが、実感的にイメージ出来ない領域ですから、本当にそういうことなんだろうかという疑問はやはりあるわけです。そういう書き方をした場合、社会科学の現場で研究されている方はどういうふうに感じるんだろうかということに興味があります。
そういう興味の連続上にみづさんの「自然科学を超える」発言があったので、本当のところはどうなんだろうと聞いてみたいというのが主要な関心です。
手続論として、たとえば自然科学が採用しているようなステディな正しさの検証の手法を社会科学にもアダプト出来ないか、というのはわかるんですが、一歩踏み込んでヴァン・ヴォクトのネクシャリズムみたいな話になると、それって人間に可能なのかなという気がするわけなんです。
たとえば社会科学で相手取る対象が、多彩な領域を横断する多種多様な要素の絡み合いによる複雑系だとしたら、それらの要素群を学際的な部分にバラして個々の領域で必要とされる自然科学的手法を横断的に用いるということになったら、現実問題として物凄いことになるでしょう。
多分、そういう意味で社会科学が自然科学を超克すると言ってる人も世の中にはいるんじゃないかと思うんですが、どうやったらそういうことが出来るのかな、というか、ホントにそんなことが出来たら凄いな、という野次馬的興味があるんですね。
その場合、たとえば「文系/理系」的な教育面の問題が出てくるわけで、みづさんが仰るような意味で社会学が自然科学を超えたとしたら、教育面における意味合いの「文系」人間の学問上の値打ちが益々下がるんじゃないかという予感がします。もう、人文系の学問か宗教・芸術以外の分野で文系の人間が人類の知の蓄積に貢献出来なくなるんではないか、と。
つまり、TAKESANさんが解説してくださったような意味で自然科学が社会科学を支えるとしたら、学問的な基礎教育として理系の分野の基礎訓練が必須になってくるわけで、実際オレもこれからの学問は人文系だろうが社会系だろうが、所謂「理系」の訓練がないと新しい地平を拓けないんじゃないかと漠然と予想しています。
そういう意味で、自然科学的な基礎訓練や方法論が大半の学問のファンダメンタルなベースになるんじゃないかと思っているんですが、それがつまりみづさんの仰る「社会科学が自然科学を超える」ということなのかな、と。
ちょっと纏まりがないですが、「文系/理系」という議論軸の立て方に関しては、これは本当に価値的に対称な二項なのかという疑問があることはたしかなんですね。オレ自身、数学や物理化学がダメで文芸に関心が行った文系人間なのですが、逆に言うと自然科学系の基礎訓練に附いていけなかった人間に可能な学の在り方とは、どんなものなんだろうという疑問があるわけです。
投稿: 黒猫亭 | 2008年1月18日 (金) 23:25
黒猫亭さん、お早うございます。
お書きの事は、大変難しい問題だと思います。それこそ、科学の哲学などにも関わってきますね。
必ずしも、社会科学者が、自然科学の論理構造をしっかりと知っておくべきだ、とは言えないが、ある程度は押さえておく必要はあるし、方法についての知識も持っておいた方が良い、と考えています。そうで無いと、方法を盲目的に採り入れたり、人間も自然科学的論理に従う存在だという事を無視して空論をぶつ事にも、なりかねませんので。
投稿: TAKESAN | 2008年1月19日 (土) 11:27
そもそも、「理系・文系」というのは東アジア的な発想で、世界的なものではありません。たぶん、急な近代化のための技術官僚と法務官僚の促成栽培に必要だった発想でしょう。そんな黴のはえたもの、もう捨てちゃいましょうよ。
投稿: かも ひろやす | 2008年1月19日 (土) 23:46
かも ひろやすさん、今晩は。
あれ、文/理の区別に拘っている様に見えました?
私は特に、そういうつもりも無かったのですけれど…。
投稿: TAKESAN | 2008年1月20日 (日) 00:16
こんばんは。
きっと、かも ひろやすさんは一般論として仰ったんだと思いますよ。TAKESANさんが拘っているという事ではなくて。
>TAKAさん
推測ですけど、おそらくTAKAさんは現在真面目に勉強に取り組もうとなさっている時期なのだと思います。気持ちに多少余裕が出来て「悪い見本を鑑賞してみるか」くらいの心境になれれば別だと思いますが、今の段階で論宅さんのような詭弁に触れるのは「毒」になってしまう方が大きいかもしれませんね。
さて「社会科学が自然科学に立脚している」という話については(門外漢の勝手な感想ではありますが)私は自然科学そのものが「道具」だと思っていますので、社会科学が自然科学を道具として使う事(「依存している」でも「基礎にしている」でも言い方が違うだけで本質は同じですね)に違和感はあまり感じないです。この辺は物理学と数学の関係に似ているのではないかとも感じています。
この辺は本職の物理学者の方に教えて頂きたいところではありますが、私の理解では、物理学は数学を道具として使っている(あるいは数学は物理を記述するための言語であると言っても良い)わけです。ですから物理学者は道具としての数学の使い方には精通している。しかし道具そのものをバージョンアップしたり、新しい道具を作り出したりする事は行わない。それは数学者の仕事だと思います。
ですから、社会科学が自然科学の方法論に基づくとしても、社会科学者はそれを道具として使いこなせれば足りるのではないでしょうか。直ちに社会科学者がいわゆる「理系」の知識全般に精通すべきという事にはならないだろうと思います。
投稿: PseuDoctor | 2008年1月20日 (日) 21:56
PseuDoctorさん、今晩は。
PseuDoctorさんがお書きの事は、数理統計学と統計のユーザー、とか、数学と物理学、とか、そういう関係のように思われます。もちろん、ユーザーの側からフィードバックされて、新しいツールが生み出されたり、という事もあるだろうとも思います。基礎科学と応用科学(あるいは技術)、という観点でも、同じようなものなのかも知れませんけれど。
もしかしたら、的外れかも…。
投稿: TAKESAN | 2008年1月20日 (日) 22:35
私も、どこまで敷衍して良いものか解らないんですね。この場では「優劣」の議論には繋がらないと思っているから、ある意味不用意に学問同士の関係を推測している部分もあります。
ただ、私の感触では「社会科学が自然科学の方法論を取り入れる」というのは、あまり大上段に構えて考えるのではなく、もっと自然に取り入れても良い(だから「道具」と書いているのですね)ような気がしています。
投稿: PseuDoctor | 2008年1月20日 (日) 23:33
もしかするとこれは、論点が、ちょっとずれてくるかも知れませんが。
私が、社会科学は自然科学を基盤としている、という風な発言をした場合に、それは具体的には、「人間の行動は、解剖学的構造・生理学的機能等の、自然科学的・実体的な基盤によって規定されている」、という意味なのですよね。なので、自然科学的論理を押さえておかないと、とんでも無い飛躍を起こしてしまう可能性がある、と。
だから、心理・社会現象について考える際には、自然現象に関する基本的な知識も身に着けておくべきだろうな、と考えています。
これは、「方法」の観点とは、また別なのかも知れませんけれども。
なんだか、思考が錯綜しちゃっています(笑) 全然纏まらない…。
投稿: TAKESAN | 2008年1月21日 (月) 00:12
>PseuDoctorさん
>>ですから、社会科学が自然科学の方法論に基づくとしても、社会科学者はそれを道具として使いこなせれば足りるのではないでしょうか。
学の実践の問題としては、その程度で構わないのかなと思います。そうすると今度は教育訓練の問題になってくると思うんですが、日本の場合、文系/理系という二項の立て方は、学問の問題以外だと大雑把な教育上の区分けだったりしますよね。
で、多分世間で俗に言われている「文系人間・理系人間」というのは、学問的もしくは職業的専門分野という意味も具えつつ、教育の次元の実感で雑駁に語っている部分があると思うんですよ。要するに、文系コースなら数学とか物理とかやらなくていい、理系コースは文芸的な科目をやらなくてもいい、みたいな。
でも、たとえば社会科学で道具としてでも自然科学の方法論を用いるのだとすれば、少なくとも自然科学の分野で必須とされる基礎訓練は通過する必要があるわけですよね。そうすると、教育面で謂う文系/理系的な二項の立て方は、教養的教育と学問的教育という意味に純化されてくるのかな、と。
早い話、TAKESANの所謂「実証科学」に類するものの範囲が今後拡大していくに連れて、理系の教育を受けないと学問が出来ないという状況にどんどんなっていくんじゃないかと思います。
投稿: 黒猫亭 | 2008年1月21日 (月) 00:16
黒猫亭さん、今日は。
物凄く素朴な書き方でアレなのですが…。
道具を用いる時、道具の仕組みについてどれくらい知っておくべきなのだろう、というのは、いつも考えています。
投稿: TAKESAN | 2008年1月21日 (月) 11:51
>TAKESANさん
その比喩で言えば、たとえばPCの仕組みを識らなくてもPCは使えますし、飛行機の仕組みを識らなくても飛行機は使えますね。PCを使って何か学問をやるという場合に、PCの仕組みから学ぶ必要はないと思います。
ただこれが学問の方法論ということになると、比喩の次元で当てはまることが具体的に当てはまるのかな、という疑問はありますね。多分、OSやソフトウェアの基本操作に当たる次元のことで理系的な基礎訓練が必要なんじゃないか、という気がするんですが、勿論これは社会科学者が同時に自然科学者でもあるべきだ、という話ではなく飽くまで教育の次元のお話です。
投稿: 黒猫亭 | 2008年1月21日 (月) 12:13
多分、プロフェッショナルなパイロットであるとか、コンピュータのエキスパートとかは、仕組みも知っているはずだと思うのですよね。これは、「使える」という概念をどう捉えるか、という事でもあるかも知れませんけれど。モータースポーツのプロで、基本的な自動車のメカニズムを知らない人は、多分いないでしょうし(以前、A-WINGさんに教えて頂いたお話を、参照しました)。
たとえば、料理人は包丁を使う訳ですが、包丁を上手く研ぎ、素材を美しく切るには、直感的にしろ、金属の物性とか、刃物が物を切る仕組みとかを、把握していなければならないのですよね。
と、あんまりアナロジーばかり用いると、却ってややこしくなりますが。
投稿: TAKESAN | 2008年1月21日 (月) 12:29
>TAKESANさん
回転の速いレスですいません。そういうアナロジーで言うと、たとえばF1ドライバーなんかはコンマ一秒の世界を争うなら自身もメカニックの資格を持っていたほうがセッティングの煮詰めに有利だとか、オートレースの選手は自分でマシンを整備してそれが勝敗に直結するとか、旅客機のパイロットや宇宙飛行士はメカニズムやシステムについて体系的な専門教育を受けているとか、そういう話がありますね。
ですから、学問に携わらない職種なら、たとえばF1やオートレースの観客とか旅客機の利用者というポジションになるだろうけれど、学問に携わる職種において客観的妥当性を担保する道具としての操作性を考えると、ドライバーやパイロットのような専門職としての性格が強くなる。だとすれば、基礎を置いている自然科学に関する体系的な基礎知識の習得は必須になっていくんだろうな、というイメージです。
投稿: 黒猫亭 | 2008年1月21日 (月) 13:00
そうですね。私も、そういうイメージを持っています。と言うより、実感に基づいた感想でもある訳ですね。心理学なんかでも、基本的な生理学的知識が必要ですし、方法の観点では、ある程度の確率論・統計学の知識が必須であったりしますしね。
そういう部分を重視していないと、本を開かずに中身が読めるようになる、とか、あり得ない所に飛躍してしまったりするのですよね。
投稿: TAKESAN | 2008年1月21日 (月) 13:39
遅くなりました。
TAKESANさんが「文系・理系」にこだわっていらっしゃらないことはわかっていますが、みずさんや黒猫亭さんのコメントに「文系」がでてきて、そっちに話が流れると嫌だなと思って書きました。杞憂でしたらごめんなさい。
数学と数理諸科学の関係については、いろいろといいたいことがありますが、すみません、今は書く時間がありません。とりあえず、数学者が数学の生産者で物理学者が消費者という単純な関係ではないとだけ書いておきます。
投稿: かも ひろやす | 2008年1月21日 (月) 18:32
こんにちは。
亀レスで有名なdlitです(笑)
論点が色々あるのでレスが難しいのですが、自分がずっと抱えている問題意識(というか危機感)に近い話題が出ているので、いくつか思うことを書いてみたいと思います(どちらかというと黒猫亭さんが言うところの「教育」の話題が中心です)。
まず、社会科学に関する技術の話題で統計が挙げられていますが、例えば(論理学+)数学というのは、モデルや理論そのものを高度に抽象的、厳密に構成する非常に強力なツールとしても使えると考えています。
もちろん、ソーカルが批判したような、自然科学の概念を適当に輸入してしまうというのはダメですが、人文社会科学の知見がどのぐらい形式的に構造化できのかというのはできるだけやってみるべきだし、おそらく理論社会学のような分野ではすでに試みがあるのでは、と思います。
そういう方向に進むのであれば、黒猫亭さんが推測しているように、人文社会科学系の研究をするのにも、いわゆる理系的な知識、技術の習得が必須という事態になるでしょうが、僕は徐々にそうなっていくだろう、またそうなるべきだと考えています。
なぜかというと、例えば言語学ではもう実際にそういう状況を迎えていると考えるからです。言語学の状況と僕の危機意識については以前こんなものを書きました↓
http://d.hatena.ne.jp/dlit/20070820/1187608267
同じテーマについての研究であっても、それが高度に抽象的な理論を用いるような場合は、面白く有益な研究を提示しているにも関わらずそれが理解できない人々が多いためにあまり参照されない、というような不幸な状況がすでにあるのです。
もちろん実際の教育のことなどを考えると色々難しい問題はあるのですが、僕はこれは学問としては大いに問題があるし、遠い先の話ではなく、差し迫った問題だと考えています。
また、上でみづさんも指摘されていたように、人文社会科学という分野が、「科学」と冠するにはあまりにも難しい分野であるという自覚は、残念ながらこの分野の全ての研究者によって共有されてはいないと思います。
突然の長文ですいません。
投稿: dlit | 2008年1月21日 (月) 18:33
>かもさん
私もその点については留意しているつもりです。
-------------------
「私、文系でしてそういうことはさっぱり……」
的な、「文系/理系」構造の中での「文系」の立ち振る舞いなんです。
-------------------
の中で 、「文系/理系」「文系」とカッコ内に入れたのはご指摘の点を意識したものでした。
ただ、とはいえ↑のような「私、文系でして……」という意識や言説は存在するわけで、その点について指摘するためには、こうなったというわけです。
ということで、ひとつ。m(_ _)m
投稿: みづ | 2008年1月21日 (月) 19:58
>TAKESANさん
-------------------
みづさんは、「科学」という語の用い方に、苦心なさっていますよね。それ自体が、かなり広い範囲を含み得る概念なので、難しいですね。
-------------------
汲んでいただき、ありがとうございます。ほんとそう思います。
たいていの「科学至上主義」批判(^^)が「科学」の語をあまりに無頓着に使ってしまい、自分でわけがわからなくなっている、という現状もありますよね。
投稿: みづ | 2008年1月21日 (月) 20:06
皆さん、こんばんわ。しつこくかき回してすいませんが、あと一点だけ皆さんに伺いたいところがありまして、それは「科学」というタームに関するニュアンスの問題です。
poohさんのところでも少し触れさせて戴いたんですが、辞書的な意味では「科学」というのは単に「学問」というほどの意味と「自然科学」という二つの意味がありますよね? だから、人文科学とか社会科学とか自然科学という場合、学問の区分を示すというだけの意味しかなくて、この局面における「科学」というタームには「自然科学」というニュアンスはないと理解していました。
だから人文「科学」だから、社会「科学」だからと言って、必ずしも自然「科学」と共通する方法論を具えている必要はない、これがオレの理解だったわけで、今ここで交わされている「社会科学も自然科学的方法論を採り入れよう」という話は、学を進歩させる為の実態論という理解なんですね。
その辺、実際に研究活動に従事しておられる方々の認識はどうなんだろう、というのがずっと伺いたかったことでした。
投稿: 黒猫亭 | 2008年1月21日 (月) 21:18
TAKESANさん。(やっと正式にお名前をいれることができた!)
dlitさん。
黒猫亭さん。
みずさん。
こんばんは。
横から乱入する失礼をお詫びします。
科学とは何か、というなんだかありきたりのテーマで記事を書こうと思っていろいろ調べていました(1月の初め)。
その折、こんな記事を見つけました。
「小・中学生に科学者ってどんなイメージ?」と尋ねたところ、もっとも多かったのは白衣に試験官を手にしている人たち」だったそうです。
子どもたちの中では科学者=理系研究者のイメージが強いそうです。
では、このイメージは子どもだけのものかと言われると大人もそうである、何故なら科学離れという言葉は即理科離れに結びつくと言うのです。
科学=自然科学というイメージが作られる中で、
では実際、自然科学に従事している人(主には大学教員)に「あなたは科学者とご自分を思うか?」と尋ねたら多くが「研究者」と答えるそうです。
大学の教員でさえ自分を科学者と言うには忸怩たる思いがあるのが現実です。
これは、科学技術とも不可分だと思うのです。
つまり科学リテラシーの十分な発達のないまま今日にいたっているのでは、と考えます。
(とくに国立大学が独立法人化して、さらに顕著に低下していきました)
自然科学とか社会科学とか定義をつける前に、
「科学的な思考とは何か?」「論理的には考えるとは如何なる事か」の論議が待たれるのが現実です。
途中から割り込み、空気を読まない発言で失礼をいたしました。
投稿: せとともこ | 2008年1月21日 (月) 21:59
こんばんは。
まず、知識の習得とか教育とかに関しては、TAKESANさんと黒猫亭さんがお話になっているイメージに同意します。具体的にどのレベルまで、という話になるとまた非常に難しいので、取り敢えず「文/理の別に関わらず誰でも基本的な部分は知っておくべきだし、その上に自分の専門分野と関連している知識を積み重ねていくべきである」という言い方に留めておきます。
次に「自然科学と社会科学」に関しては、前々回の私の発言でTAKESANさんが多少混乱されたり、かも ひろやすさんに誤解させてしまったりしたかもしれませんので、ちょっと追記させてください。と言いますのは、読み返してみると私の発言には「優劣を別にしても、自然科学と社会科学、数学と物理学との間に何らかのレイヤー構造がある」と思わせるような節があったからです。やはり、大きなテーマに不用意なコメントをすると言葉足らずになってしまいますね。反省です。
そこで、大急ぎで私の「科学」に対する考えを簡潔に述べますと「科学とは、対象の観察→仮説の立論→検証による仮説の採用or棄却、というサイクルを回し続ける事によって成立する学問」であり、その対象が自然界であるか人間界であるかによって自然科学と社会科学に分けられると理解しています。ですから、自然科学の上に社会科学が成り立つ訳ではないし、自然科学が基礎で社会科学が応用という訳でもありません(でも「社会科学の方が複雑である」という意見には大いに納得できる部分があります)。無論、数学と物理学に関しても同様ですし、ついでに申し上げるならば、私としてはいかなる学問分野間においても優/劣、上/下、主/従の関係を認めません(但し、これがかなりデリケートな問題である、というのは承知しているつもりです)。
ただ、自然科学の方が社会科学よりも古くからある学問であり「科学といえば自然科学」である状態が長く続いていた訳ですから「科学」そのものの方法論も自然科学の発展と共に洗練され研ぎ澄まされてきたといえるでしょう。その意味で、社会科学が「科学」を名乗る以上は、これまで長年に渡って自然科学と共に培われてきた「科学の方法論」を無視すべきでなく、積極的に取り入れていく必要があるだろう、という事を言いたかった訳です。
あくまでこれは私の個人的な考えであり「科学」や「自然科学」という用語を私とは異なった意味で使われる方もいらっしゃると思います。しかも私は職業科学者ではありません。しかしそれでも、丁度御質問がありました黒猫亭さんに対しても、わたしなりにひとつの答えを示せたかな、と思っています。
投稿: PseuDoctor | 2008年1月21日 (月) 22:32
皆さん、今晩は。
>かも ひろやすさん
あ、私の誤解でしたね。すみません。
▽▽▽引用▽▽▽
数学者が数学の生産者で物理学者が消費者という単純な関係ではないとだけ書いておきます。
△△引用終了△△
ありがとうございます。私は具体的な所については明るく無いので、教えて頂けて助かります。
------
>dlitさん
お書きの「記号アレルギー」、凄くよく解ります。実感として(笑) 真面目な話、教育が及ぼす最悪の弊害だと思います。一般化はしにくいですが、記号を嫌わせるような教え方というのは、ある程度ある気がします。
言語学における事情、参考になります。なかなか
難しいのですね。
------
>みづさん
事実として、「文系」という語を用いて、自身の理解力不足を説明する人が、いるのですね。かなり問題であると思います。自分をステレオタイプに当てはめてどうする、と言うか。もちろん、(kikulogにも書いたように)自分が勉強してきた分野、しなかった分野を明らかにして、議論を円滑に進めるための情報として知らせるなら、良いと思うのですが、「小難しい事は解らない」というのを正当化するために、用いられるのは、ダメですよね。これは、「文系」に対する社会的な認知の反映なのかも知れません。
------
>黒猫亭さん
私自身は、科学という語を用いる場合には、概ね、実証科学を指しています。それ自体が、曖昧な使い方ですが、少なくとも現代では、社会一般的には、「科学」といえば、専ら自然科学を指し、もしくは、もう少し広く、心理学等も含まれるように、「仮説を、実験や観察によって得られたデータの統計処理等によって検証していく学問」、というように捉えられている、と考えているので、そういう風に用いています。哲学と科学の比較も意識しています。
私の認識は、上でdlitさんがお書きの内容に近い、と思っています。
------
>せとともこさん
名前のtypoは、お気になさらずに・・。
世間で捉えられている「科学者像」はやはり、物理学や化学や生物学の研究者的なものなのでしょうね。
これには異論もあるでしょうけれど、個人的には、高校生くらいまでに、「科学とは何か」というのを、ある程度教えるべきだと思っています。
------
>PseuDoctorさん
同意です。私の科学観も、PseuDoctorさんが仰るものに近いと思います。人文・社会・自然科学という区別も、研究対象による区別だと考えています。
「上」論に戻ると、「社会科学は自然科学を前提にしている」、と言うより、「社会現象は自然現象のメカニズムに規定される」、と言った方が良かったかも知れませんね。
投稿: TAKESAN | 2008年1月22日 (火) 00:47
流れをぶった切るようですみません。
文系・理系のイメージは、大学の卒論の書き方から来ているんだと思います。
文系=文献調査等でまとめた内容を総括
理系=実験結果をまとめて総括
ここから、以下のような区別がされている気がします。
文系=情緒的
理系=論理的
(情緒的と論理的が対立する概念かどうかは分かりませんが)
これは何も外野の人に限った認識ではなく、既に大学を卒業されて、ご自分で卒論を書いた人にもある程度広まった認識のような気がします。
最終的には事実を拾い集めて、そこから何らかの新しい結論を導き出すという部分は共通なので、論理的思考という点では同じはずなのですが、「文系は論理を重視しなくても良い」みたいな認識が蔓延り、それをexcuseとしている方も見かけます。
(「理系は理詰めで冷たい」という非難も見かけますけど)
それはそうと、「自分は理系だから」と「理系」であることを何かのexcuseとしている方はあまり見かけない気がしますが、気のせいでしょうか?
投稿: Noe | 2008年1月22日 (火) 09:05
Noeさん、こんにちは。
>文系・理系のイメージは、大学の卒論の書き方から来ているんだと思います。
それもあるのかもしれませんが、ぼくは「高校の進路指導」、とくに進路別クラス分けと、ぼくが行っていたような三流私大での文系学科のぬるさが「わし文系だから難しいことはわかりませんねん」というような自己卑下的弁明を生んでいるのではないかとにらんでいます(どっかで、同じようなことを書いている方もいましたが)。
言うまでもないような気もしますが、少なからぬ数の私立高校で「国公立志望クラス」「私立理系志望クラス」「私立文系志望クラス」といったクラス分けが行われ、しかもそれが成績順と同義だったりします。つまり、数学や物理・化学・生物等々を受験科目にできる人とできない人というのが、勉強ができる人とできない人の違いと認識されるわけです。
また、20年ほど前の三流私大の文系学科では、卒論提出の義務がなかったり、学問的訓練と言えるようなことは、ほとんど行われない例さえ少なくありませんでした。自分のいたところだけではなく、他大学の卒業生で「同じ同じ!」と言う人も、一人や二人ではなく、会ったことがあります。
原書購読もろくにせず、ゼミで岩波新書の輪読をしていたり、定期試験では記述式の設問も出ますが、事前に問題をある程度示し、ノートや教科書が持ち込み可だったりするので、講義に出ていさえすれば単位が取れると言っても過言ではなかったり(そういえば、スーダラな大学ほど一般教養でも出席点を重視する講義が少なくなかったような……)。
調べたことはありませんが、かなりの数の私大で同じような状況だったのではないかと推測しています。
こうなると、高校から大学にかけて、受験期を除けばほとんど勉強らしい勉強なんかしていないわけです。自分なりに読書などして考えるとか、自分から先生や勤勉な先輩に食い下がったりした経験もしないままに学部卒で終わってしまえば、そりゃあ「難しいことはわかりません」なわけです(実のところ、そういう知人がそれなりにいます(-_-))。
投稿: 亀@渋研X | 2008年1月22日 (火) 11:24
あ、あわてて補筆。
ぼく自身は学部卒どころかドロップアウトしちゃった人間なんで、自分を棚に上げた話です(汗
あと、いくら三流私大でも、学科によっては文系でもそれなりの訓練はされていました。特に、その大学の看板学科みたいなものが実証科学的な性格をもっていた場合に顕著だと考えています(というか、在籍している教員のスキルないし性格によって、なのかもしれませんが)。
たとえば某大は文学部のとくに歴史学が伝統的に看板で、史学科では文献史学を徹底的に叩き込まれ、考古学科で発掘にあちこち引き回され、別の某々大学では心理学科に名物教授がいて学生を被験者にした実験ながら統計からなにからかなりしごかれ……ただし、ほかの学科はそういう厳しさはなーんにもない、なんていう具合です。
また、ある程度の鍛えられ方をした人たちは、謙遜することがあっても「学部卒で院には進まなかったから、とても学問をしたとは言えない」なんていう調子で、「文系だから」なんていう卑下はしないことが多いという印象をもっています。
ちなみに、「理系や芸術系の鍛えられ方と比べると、しょせん文系はぬるい」などと考えている文系学部出身者は一定数いるだろうと思います。しかし自分の周辺で考えると、それはまあ個人個人の感じ方ってやつで、例外扱いしちゃっていいんじゃないかと。頑張った自覚がある人はプライドもありますんで、思っていてもなかなかそうは言わないですね。
長々&連投すいませんでした。
投稿: 亀@渋研X | 2008年1月22日 (火) 11:41
Noeさん、今日は。
「論理」と「記号」を結び付けたりする認識があるのかも、とか思ったりします。見慣れない記号を操作するのを「論理的」と看做す、とか。
確かに、「理系だから」、という言い回しは、あまり見聞きしませんね。あの人は理系だから、と、他の人からの評価で用いられる事はありそうですが。理系だから冷たい、とか。
------
亀@渋研Xさん、今日は。
高校の進路指導というのは、大きいと思います。
やっぱり、理系に進学→数学や物理必須→数学は記号操作→記号操作は論理的→理系は論理的 のような認識が形成されるのかなあ、と。
自分は文系だから…というのが、単純に、数学や物理をやってきていない、という程度の意味なら、まあ、仕方が無い部分もあるのかな、と思っています。事実、文系に進学する時は数学とかやらなくてもいい、というように成っている訳ですしね。
------
という訳で、「文系/理系」についてはこの辺で。
投稿: TAKESAN | 2008年1月22日 (火) 12:16
>黒猫亭さん
僕も、上でTAKESANさんやPseuDoctorさんがお書きのような、「反証可能な仮説を立てる→検証」という形式を中心に研究を進めていくような営みを指して科学と読んでいます。その意味で、自分の文章の中では「学問」と「科学」は明確に使い分けています。
もちろん、そういった形式を採用しない「学問」に意味が無いとは思っていません。
>TAKESANさん
色々難しいです。でも、言語学に限って言えば、このままのんびりしていては、認知心理学、脳科学、情報科学などの分野に多くのテーマでアドバンテージを取られることになると思います(いや、もちろん本当は共同で補いながら研究していくのが理想なのですが)。
これはせとともこさんのコメントに関係してくるのかもしれませんが、僕は自分が「科学者」であるように常に意識しています。あなたのやっている言語学とは何ですか?と聞かれたときも、"Study of language"ではなくて、常に"Science of language"だ、と答えるようにしています。
ただ、むしろこれは、おそらく言語学という分野にまだ科学的な研究方法がきちんと根付いていないというところに起因していると考えています。仮説をたてると、時に「予断は良くない」など批判されてしまうこともあるような分野ですから。
門外漢の印象論なのですが、自然科学の分野ではむしろ、科学的な研究方法があまりにも当然であることから、特に個々の研究者が「科学」ということをそこまで強く意識しなくても研究活動自体はまわっていく、というようなことがあったりするではないでしょうか。
投稿: dlit | 2008年1月22日 (火) 20:20
せとともこさんに補足というか質問というか。
「あなたは科学者とご自分を思うか?」という問いを、大学で医師薬理工系ひっくるめた大学の理系の先生にしたならば、「科学者」と答える人が少ないのは分かる気がします。しかし、理学部の教員なら、多分その多くが「科学者」と答えるのではないかと。でもって、日本の大学での理学部の占める人口は、工学部や理工学部に比べてずっと少ないのですよ。
投稿: apj | 2008年1月22日 (火) 22:58
間違えた(汗)
× 医師薬理工系
○ 医歯薬理工系
です。
投稿: apj | 2008年1月22日 (火) 23:00
dlitさん、今晩は。
▽▽▽引用▽▽▽
仮説をたてると、時に「予断は良くない」など批判されてしまうこともあるような分野ですから。
△△引用終了△△
なるほど。そういう事もあるのですね。
「科学とは」、「科学者とは」、というのをどう考える(考えた)か、という所が大事なのでしょうね。
私は基本的に、科学を実証科学の意味で用いますが、それは、単に理論を組み立てるだけでは無くて、「仮説構築→仮説のテスト(凄く単純化)」というサイクルによって、仮説の妥当性を確認していく知的営為を、科学と呼びたいから、ですね。実証的観点を蔑ろにして、思弁によって、めちゃくちゃな論を立てる人も、見受けられますしね。
------
apjさん、今晩は。
ああ、どういう所からサンプルを採るかによって、答えは変わるのかもですね。
どうでもいいんですが、ジャンプの最新号に載ってる『BLEACH』で、涅マユリが、「科学者論」を開陳していました。お、結構良い事言ってるんじゃない? って思いました(笑)
投稿: TAKESAN | 2008年1月22日 (火) 23:23
皆さん、こんばんわ。なるほど、「科学」という言葉を「百科の学」という意味以外で、たとえば自然科学とか社会科学というふうに遣うなら、TAKESANさんやdiltさんが仰るような「実証性」が鍵になるということですね。
これは一つ後のエントリーに附けるべきコメントかもしれませんが、「科学」の辞書的解説に共通しているのもその実証性ですし、それともう一つ「体系性」というのも共通していますね。実証性に関しては常に「経験的に」という形容が添えられているのが気になるところですが、これが必ずしも自然科学的な意味での「実証」とは限らないという留保に当たるのですかね。
とまれ、皆さんの意見を伺って、ちょっと「科学」というタームに対する理解が深まったような気がします。
あと、亀@渋研Xさんが仰っているようなことも言いあぐねていたんですが、思い切って暴論を吐くとするなら、教育面の意味における「文系」というのは「体系的な基礎訓練」に向かない人のエクスキューズになっているのかな、というのがオレが思っていることです。いや、自分がそうだからというだけの理由ですが(笑)、必ずしも数学や物理とは限らなくても、「文系」コースというのは嫌いな訓練を忌避して好きなところだけをつまみ食いする恣意的選択の余地を残していると思うんですね。
自然科学の隣接職種の人に聞くと、勿論数学や物理が好きという人もいますけれど、あんなのはつまんなくて当たり前だという人もいます。つまんないけれど、それを習得しないと自分が面白いと思う学問が出来ないから、基礎訓練として受け容れているんだということで、これはスポーツなんかにも通じることですよね。地道な基礎トレが好きな人もいるけれど、まあ早く競技をやりたいというのが人情で、でもその為には基礎トレをこなす必要がある。
亀@渋研Xさんが仰る「自分は文系だから」という卑下というかエクスキューズというのは、大抵の「文系」コース的な進路を採った人間は、内心自分が知的な分野で嫌いなことを忌避してきたという欠落感があるんじゃないでしょうか。
投稿: 黒猫亭 | 2008年1月22日 (火) 23:38
TAKESANさん、こんばんは。
これが2008年になってからの初コメントになるんですが(^_^;)
>>どうでもいいんですが、ジャンプの最新号に載ってる『BLEACH』で、涅マユリが、「科学者論」を開陳していました。お、結構良い事言ってるんじゃない? って思いました(笑)
私も読んでいてこれ良いこと言ってるなと思いました(^_^)
というか、かもさんがkikulogなんかでよく同じような事を書かれているので、マユリが一瞬「卍解出来るかもひろやすさん」に見えました(^^)
投稿: 内海 | 2008年1月22日 (火) 23:49
黒猫亭さん、今晩は。
科学という語は、由来としては、百科の学、とか、個別諸科学という意味で付けられたのだと思いますが、 現在どう使われているか、というのを、常に念頭に置いています。
そうすると、専ら、実証的方法によって仮説を検証していく営みと考えるのが、妥当だと思いました。
これは、私自身の経験なのですが、
前に、心理学のテキストとか読んでいて、統計の説明が出てきたら、読み飛ばしていたのですよね。これは別に知らなくてもいいや、という風に考えて。
で、これは全く間違いとしか言いようが無い認識であるのを悟ったのは、随分後になってからでした。統計的方法、実験計画法等は、まさに、料理人の包丁に当たるものだったのですね。思弁を巡らせて理論めいたものを構築するのは、頭の中で料理を思い浮かべるだけで、作らない事、そして、材料の切り方等を知らない事に、等しいのですよね。
で、初めに何故、「読まなかった」かと言うと、やっぱり、「嫌いだったから」、とか、「記号を見ても訳が解らない」から、とか、「別に理系の科目じゃ無いし」、という認識があったから、なんですね。
ここにしつこく、実証とか統計とかについて書いているのは、そういう経験があったから、だったりします。
後になって、数学やらを勉強し出してから思ったのは、「なんでやっとかなかったんだろう」、という事ですね。
------
内海さん、今晩は。
おおっ、内海さんも、そう思われましたか。私も、「あ、かも ひろやすさんが仰る事みたい」、なんて感じたのでした。まあ、マユリの台詞なので、言い方はアレですが(笑)
投稿: TAKESAN | 2008年1月23日 (水) 00:35
先にはトピずれの話題と知りつつ長文を失礼しました。このところ、魚の骨のようにノドに引っかかっていて、出すチャンスを待ってたような思いだったもので、ついつい(汗
ところで、このところの本題になっている「科学観」ですが、コメントを投稿しようと思ったら例によって長くなりすぎまして、自分ちのエントリにしてトラックバックしました。ていうか。いつにも増して長くなりまして、誰も読む気になれんかも(汗
ところでところで。TAKESANさん、内海さん、そのマユリのセリフって、引用していただいても文脈がないとわかんないようなものですか? ちょっと興味が(^^;;
投稿: 亀@渋研X | 2008年1月23日 (水) 05:30
TAKESANさん。
皆さん。
おはようございます。
今からでかけるので書き逃げごめんですが、
apjさんの質問に対して、
資料というか情報の出所を書いておきます。
日本の科学者(本の泉社)発行、日本科学者会議
vol.42 No.7 July 2007 p28-29
「科学者とは何ものか」宗川吉ひろ(字を拾う事が出来ませんでした)を参考にしました。
私も、この内容を受けて、もっと調べている所なので、ここで、コメントという形でかかせていただきました。
故に大学の教員と言っても学部が、専門が何かなどは言及するというか考察する必要は確かに感じています。
ここで卑近な例ですが(一例のみでごめんなさい)apjさんとは同業者である(多分、名前はご存知と思いますが)夫に予断を与えず尋ねたんですよね。同じ質問を。
すると夫は何のためらいも無く「研究者」と申していました。
apjさんはご自分を科学者とお思いですか?
私は今、日本の大学が抱えてる環境を考えると、
大学教員は研究や学生指導ももちろんですが、あまりの雑用の多さに押しつぶされているのが現状と思います。
もっと考えてみますが、
出かける時間なので、またのちほど。
投稿: せとともこ | 2008年1月23日 (水) 08:59
亀@渋研Xさん、今日は。
あ、いえいえ。
エントリー、読みました。
難しいですよね。
私は、運が良かった、と言うか、初めに読んだ学術書的な本で、「科学とは何か」、というのが論じられていたのですよね。ちゃんと勉強をしようと思ってから最初に、ポパーやらクーンやらの名前を知ったのですね。なので、科学を勉強する人は、科学哲学やらを勉強するのが普通なのだ、とか思ってたくらいで。←今度、その本から引用してみようかな。なかなか良い事が書いてあるので。
マユリの台詞は、うーん、どうでしょうね。出来れば、話の流れを追った方が、いいかもです。テキストだけ抜き出すと、浮いてしまうかも…。マユリのキャラを知っていると、尚良いですけれど。
という訳で、いざ、本屋へ!
------
せとともこさん、今日は。
補足、ありがとうございます。
――この本ですね⇒http://www.honnoizumi.co.jp/cargo/shop/7663.html
------
話はずれて。
今読んでいる本に、フランシス・ベーコンが唱えた有名な、「4つのイドラ」の話が書いてあったのですが、改めてちゃんと見てみると、いい事言ってるなあ、と思いました。心理学・社会心理学・言語学・人類学的な論理によってもたらされる思い込みを、見事に的確に表しているなあ、と。
その本自体、良書なので、読了したら紹介しようかな。
投稿: TAKESAN | 2008年1月23日 (水) 12:12
>亀@渋研Xさん
補足です。
「科学とは」、については、野家啓一著『科学の哲学』が、コンパクトに纏まっていて読みやすいので、なかなかいいんじゃないかと思います。
投稿: TAKESAN | 2008年1月23日 (水) 12:24
PseuDoctorさん
>今の段階で論宅さんのような詭弁に触れるのは「毒」になってしまう方が大きいかもしれませんね。
私は過去、詭弁を弄する人の意見は何度も聞きました。インターネットの世界の詭弁家達の傾向も、ある程度は分かりました。これからは彼らを反面教師とします。
ここのコメント欄の感想です。私の意見は、PseuDoctorさんの意見に近いです。私はみづさんの最初の投稿(2008年1月18日 (金) 02:39)の、「インド系の経済学者の話」とみづさんによる解釈も、さほど違和感は感じませんでした。私の現状認識はこうです。「今の社会学の研究対象は、複雑すぎて一筋縄ではいかない。そこで自然科学の手法を上手く取り入れると、より研究効率が良くなる。」
例えるならば木を切り倒す時、斧や鋸よりもチェーンソーを使った方が効率が良い、という感じです。(ただし崖っぷちでチェーンソーは危険ですので、使用予定のお方はご注意を(^^。緩傾斜ならばハ-ベスタの方が楽です。私自身は実際に操作した事は無いです^^;。)
投稿: TAKA | 2008年1月23日 (水) 23:01
対象が社会事象の場合には、より「実感にひきずられやすく」、結論を早まってしまう、という事もあるかも知れません。
条件を統制して実験的に研究しやすいか、そうで無いか、というのもあるでしょうね。文脈がめまぐるしく変化する心理・社会事象は、また独特の難しさがあるのかも知れません。
投稿: TAKESAN | 2008年1月23日 (水) 23:54
「社会学と自然科学」についてもっと考えてみました。ただし私は社会学は知らないので、林業で考えました。
木を切るにしても、一本だけならば鋸の方が丁寧に切れます。しかし一日に何十本も切るとなると、大型の高性能機械には敵いません。そして急斜面では、手持ちのチェーンソーの方が効率が良いです。道具は使いようです。一概に「この道具が一番優れている」とは言えないです。
社会学は、使う道具しだいで、より洗練された学問となるのだと思います。
林業家は「山全体」を見て、採算が取れる様な事業計画を立てます。班長は地形を見て、作業員を配置します。作業員は、一本の木の周りの様子を見て、切り倒し方を判断します。
山から木を作業道まで出す時は、麓の機械班と現場作業員が協力します。(この後も色々ありますが長くなりますので省略します)
林業家は計画通りに作業が進んでいるかどうか、常に班長と打ち合わせをします。
私は「自然科学」が「班長」なのだと思います。
班長は長年の経験を生かした作業を心がけます。地形、作業員の技能、現場別の作業方法などすべて頭に入っています。一見、勘に頼っている様ですが、しっかりと合理的な作業方法を考えています。そうでなければ、利益を求めるうるさい林業家の期待に答えられません。
この時、林業家が現場経験の豊富な方ならば理解が早いのですが、班長の言い分を聞き入れず、「現場の事情を無視した林業家独自の理論」を押し通したりすると、どうなるでしょう。
私が聞いた実際の話では、余分な仕事が増え、作業員の不満は高まり、一日の搬出量は伸び悩み、最終的には当初予想した利益を下回ったそうです。
みづさんのコメントより
>行いの悪い経済学者は生まれ変わったら社会学者になっちゃうんだぞ」
>社会学者がろくでもない悪徳の固まりだということを言いたいわけではないそうで、「社会学は経済学にくらべて、とてつもなくつらくてむずかしいぞ」ということを言っているのです。」
皆さんがすでにお分かりの様に、ここに置ける「行いの悪い経済学者」が、「融通の利かない林業家」という事になります。
そんな林業家に班長は見切りをつけて、「みづから」(^^;)事業計画を作り始める様になり、やがて独立した林業家となります。
「善行を積んで生まれ変わった物理学者」の出来上がりです。
投稿: TAKA | 2008年1月24日 (木) 02:32
こんにちは。
もう収束だとは思うのですが……。
私のイメージ(あくまで「イメージ」にすぎませんが)は、皆さんとはちょっと違うような気がしています。
私の引用なども引き合いに出していただいているので、私も一応、書きます。私のイメージは
「自然科学的手法を取り入れれば」(なくてもできるけども)社会学がもっと効率よくなる/洗練される
といったものではなく、そもそも自然科学(というか、まあ「科学」でいいんですが)的な考察、手法が土台になっていなければ「学」として成り立たない、しかしそれだけでは社会科学として成り立たない、といった感じです。
必要条件ではあるが、十分条件では決してない(だから難しい)、という、これだけで言えることを私はウダウダと言ってきたのかもしれません。
まああくまでも私の引用はきっかけだったと思うので、盛り上がっていただいてよかったかな、とは思っております。(^O^)
投稿: みづ | 2008年1月24日 (木) 03:33
みづさん
>必要条件ではあるが、十分条件では決してない(だから難しい)、
私の現状認識もそうです。それだけにここまで話が盛り上がったのは以外でした。
皆さん、日頃から問題意識を持っていたようですね。一方私は、要点を飲み込めず「何が問題なの。」という感じで、置いてけぼりを食らっていたのでした。やっぱり「昨日、アマビエ見ました。」と言ってる方が楽です(^^。
投稿: TAKA | 2008年1月24日 (木) 04:33
TAKAさん、みづさん、お早うございます。
実は、私の思考も、あまり整理出来ていなかったりします。
ちょうど、黒猫亭さんの所で、apjさんのコメントを読んだのですが、あ、なるほどな、と思いました。(apj | 2008年1月24日 (木曜日) 午前 01時36分)⇒http://kuronekotei.way-nifty.com/nichijou/2008/01/post_74b5.html#comment-17234621
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ところで、科学主義というのが何なのか、未だによく解らんです。
投稿: TAKESAN | 2008年1月24日 (木) 06:07
>TAKESANさん
剰りにもティピシャルな「文系的」論者なので、同じ文系的理路においてその種の不合理に対抗可能かどうかのモデルケースになるかと思って、割と不毛な議論を続けております(笑)。
この手の論者に自然科学者が科学的理路に立って対抗すると、「科学の傲慢」とか「自然科学を絶対視」とか莫迦なことを言い出す輩が必ずおられますので、同じ文系人間がお相手するのが相応かな、文系人間にやり込められたら言い訳が利かんだろう、と(笑)。まあ、大体ゴールが見えてきましたけどね。
この議論を通じて、やっぱり自分から「文系人間」を言い訳として使うような論者は、その知的方法論の範囲内で可能な論理的考察すら尽くしていない、という確信が得られたような気がしますね。
それから「科学主義」というのは正式に定義されているタームではないらしいんですが、検索すると一定数ヒットしますから、一応流通している言葉みたいですね。「科学万能主義」みたいな俗流の表現でしょうかね。
投稿: 黒猫亭 | 2008年1月24日 (木) 16:12
こんにちは、TAKESANさん。
>ところで、科学主義というのが何なのか、未だによく解らんです。
私も良くはわからんのですが、黒猫亭さんのところのコメントなぞを読んでいると、「これが科学的であるぞよ」に対して「へへぇ~」と無条件に頭を下げてしまうような事に対しての反発から生じている概念の様な気がします。ただ、それなら、それはニセ科学批判よりもむしろニセ科学の方に向いて欲しいななんて思ったりします。
私が悪徳商法批判をしていて、一番困り、かつ一番激しく怒ったのが、やる気のない司法書士とか弁護士が、行政の無料法律相談で相談しに来た悪徳商法の被害者に「たいした被害じゃないから、諦めた方が良いよ」みたいな手抜き回答をする事なんですね。おそらく、消費者問題が得意でない司法書士や弁護士なんだろうとは思いますけどね。
答える方は「考えるのが面倒だ」くらいのつもりで回答しても、聞く方にしてみると「法律の専門家」が「諦めろ」なんて言ったら「法律的にも無理なのか」みたいに思ってしまう訳です。だから、そういう人への対処法説明は、そんな回答を聞いていない人に対するより遙かに大変になる訳です。「専門家なら責任を持て」と私が怒り狂う訳です。
でもって、多くの場合は「消費者問題に詳しい弁護士にもう一度相談してごらんなさい」という形でセカンドオピニオンを勧める事になるわけです。相続問題とか土地登記には詳しくても、消費者問題にはど素人に近い司法書士が、たまたま、当番で相談に出ていることもあるなんて話してね。
なんていうか、専門家で無い者が専門家(らしく見える者)の言うことを無批判に受け入れてしまうことは、自然科学に限らず起きることで、それによる誤りを避けたければ、セカンドオピニオンをできるだけ活用するとともに、専門家の間でのピアレビューを活発にするしか無いと思うわけです。
ニセ科学というのは、むしろそういう専門家(らしく見える者)の言うことを無批判に受け入れてしまうという事の悪質な利用であり、別な専門家が「それはおかしい」と言うことが、実はその無批判性によって生ずる害悪の抑止なんですね。
なんで、科学主義だなんて批判がニセ科学の方に向かわずにニセ科学批判に向くのかの方がよっぽど不思議な気がします。
投稿: 技術開発者 | 2008年1月24日 (木) 16:33
黒猫亭さん、今晩は。
とても興味深く読んでおります。
結局、地下に眠るMさんが「何を言いに来たのか」が、よく解らないのでした。「科学主義」という語に、科学以外の、宗教等の信念体系を排除する、という意味を含めているなら、「科学主義は積極的に批判すべき」と言われたら、そうですね、で終わると思うのですが、そこから何を主張したいのかが、判然としないな、と。誰かの批判なのか、単に一般論を述べただけなのか、コメントの文脈に沿っているのかそうで無いか、等々。
ブログとかやってると、たまに起こる事ですよね。「? そのタイミングでそのコメントは、どういう意図・主張から書いたのだろう。」という感じで。
詰まる所、ニセ科学を批判する事と、科学と他の文化をどう価値付けているか、という事は、また別の話なんじゃないかなあ、と。
なんだか、ぼやけた感想ですが。
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技術開発者さん、今晩は。
科学主義が、「科学万能主義」とも言われるとして、では、「万能とは何か」、とか、「何に対して言っているのか」、などの、素朴な疑問が湧くのですよね。
まあ、それは措いておいて、リンクされていたNATROMさんのページを読むと(実は既読)、うん、それはそうですよね、と、すんなり受け容れられる意見なのですよね。少なくとも私が知る限りのニセ科学批判者に、宗教的な信念体系などを排除するが如き主張をしている人は、ほとんど(憶えて無いだけかも知れない。そうだとすれば、いても、ごく少数だった、と)いませんでした。可能性で言えば、そういうニセ科学批判者も存在はし得るだろうけれど、それは、ニセ科学を批判する事そのものとは、また異なる問題であろうと考えています。
私は、科学に対して、「信頼」を置いています。現象のメカニズムを記述し、予測・制御に役立つ、という面で、やはり、他の文化とは異なった位置づけが出来るであろうと思います。だけれどそれは、主義であるとか、「科学教」であるとか、そういう言葉で表されるものでは無いですよね。
▽▽▽引用▽▽▽
なんで、科学主義だなんて批判がニセ科学の方に向かわずにニセ科学批判に向くのかの方がよっぽど不思議な気がします。
△△引用終了△△
黒猫亭さんへのレスにも書いたのですけれど、地下に眠るMさんが、「何を言いに来たのか」が、全然解らなかったのでした。
投稿: TAKESAN | 2008年1月24日 (木) 19:09
>TAKESANさん
あの方は、オレが一連のコメントで批判しているのは彼の「文脈をまったく無視してその時々に自分が言いたいことを放言しているだけ」という姿勢だということをまったく理解して戴いていないようです。
投稿: 黒猫亭 | 2008年1月24日 (木) 19:25
>黒猫亭
あ、嘘です。
>黒猫亭さん (^O^)
あの方は確か昔、kikulogでも同じようにオレ様ルールで入ってきて、それが非難されるとオレ様ルールを受け入れない狭量な奴め、と逆ギレした方ですね。本来ならそういう非難を受けるリスク込みであの態度をとっているはずだろうに……。(^^;
黒猫亭さんのあのエントリはとてもよく腹に落ちました。
本来、「科学」という土俵は、自らの権威づけのためにニセ科学側が持ち出したものであって、その非難がその土俵内で行われるのは当然のことなんですよね。その土俵では「科学」がルールになるのだから、少なくともその土俵の中では「科学至上主義」になるのは当たり前の話だと。
ところがそういう勝負に持ち込まれると絶対に勝てない人が今度は「科学至上主義」という、この言葉だけでは本来非難にも何も成り得ない言葉を持ち出して、ちゃぶ台返しをすると。
科学というのは自らの適用範囲をちゃんと規定していて、だから「正しい/間違っている」と語るときは、その言外に「この範囲内で」という留保が必ずついているんですよね。それをあたかも野放図に「普遍的に正しい/間違っている」と断言する(=科学至上主義)と読み間違えて非難するのは、自ら科学のことをさっぱり分かってないと言ってるようなものですね。
あのエントリで、かなりすっきりした気がします。
投稿: みづ | 2008年1月24日 (木) 21:17
こんばんは。
私もTAKAさんと同様に、みづさんのイメージは私のとそんなに違っているとは思わないです。まあ「イメージ」なので正確に伝えるのは難しいと言ってしまえばそれまでなんですけれど。
地下に眠るMさんは何をしたいんでしょうねえ。今のままだと単なる「祭り好き」で終わっちゃいそうですけど。
kikulogの時にも思いましたけど「相変わらず勿体無い事をしているなあ、もっと生産的な事にエネルギーを使えば良いのに」というのが正直な感想です。
投稿: PseuDoctor | 2008年1月24日 (木) 22:25
PseuDoctorさん、今晩は。
>皆さん
地下に眠るMさんの最初の投稿を読んで、あ、いつもより大人しめだな、なんて思ったのでした。後半は、いつもの通りですけれど。
せっかく怜悧な思考をお持ちなのだから、言葉遣いくらい、ちゃんとすればいいのにね。
自然科学とその他の科学(社会科学や行動科学等)については、長谷川芳典氏の論考の指摘が、解りやすいと思いました( 冒頭の、(1)~(6) )⇒http://www.okayama-u.ac.jp/user/hasep/articles/1998/9809Hasegawa/9809Hasegawa.html
特に、概念の定義の問題は、難しいように思います。たとえば、「暴力」とか。操作的に定義したとして、それが、社会的に認識される所の概念とどれだけ一致するか、とか、測定の信頼性・妥当性をどれくらい、きちんと確認出来るか、とか。人間は、高度に象徴的な言語記号を駆使する存在であるので、そこら辺を考慮する必要も、あるかと思います。
投稿: TAKESAN | 2008年1月24日 (木) 23:34
>TAKESANさん
たしかにこの方の問題点は「対立点が存在しないのに反論する」という「オレイズム」の部分にあると思います。
基本的にこの方が仰っていることは、わかりやすく言うと「科学万能主義の過ち」という莫迦でもわかるつまんない一般論なんですが、そのつまんない一般論の価値を高める為に、そういうつまんない一般論を出来るだけ高尚に語る言説を援用しているという、ただそれだけの話だと思います。
「科学を絶対視している科学者」なんていうマンガみたいな科学者像を一般化して問題視している論者の言説なんて、まあ基本的に無視して差し支えないモンだと思いますよ。
投稿: 黒猫亭 | 2008年1月24日 (木) 23:57
そういえば、apjさんの所にお出ましになった時にも、なんでそういう展開になるんだろう、という感じでしたね。kikulogの時も…。
いや、基本、地下に眠るMさんの投稿はスルーしているのですが、今回は、黒猫亭さんの文章が、あまりにも読ませるものだったので(apjさんの最新エントリーに同意)、コメント欄を、通読したのでした。
投稿: TAKESAN | 2008年1月25日 (金) 00:07
>TAKESANさん
あの方、とうとうキレちゃいましたね(笑)。こちらとしてはどっちでも好いんですが、都合の悪いところは基本スルーの面倒くさい人であることだけは十分理解しました(笑)。まあ、結果的にこちらが煽った形になるのかもしれませんが、空気読めてない人だなぁ。
投稿: 黒猫亭 | 2008年1月25日 (金) 19:16
黒猫亭さん、今晩は。
なんだか、またコメントをされるみたいですね。
議論を円滑に進める、という観点としては、あまり良いコメントの入れ方では無いですよね。
(黒猫亭さんはお望みで無いとは思いますが)まだ続くようなので、展開を見守らせて頂きます。
投稿: TAKESAN | 2008年1月26日 (土) 00:13
ということで、週刊少年ジャンプを買ってきました。なるほど。
投稿: かも ひろやす | 2008年1月26日 (土) 00:51
かも ひろやすさん、今晩は。
おお、読まれましたか。
なるほど、と思われましたよね、やっぱり。
なんか、読んでいない方に、「一体どんな内容なんだっ!」って思わせてしまっちゃってる気もしますけれど(笑) でも、実際に見ないと、雰囲気とかが味わえないからなあ…。
投稿: TAKESAN | 2008年1月26日 (土) 01:29
apjさんのブログのコメント欄を読んでいて、あ、かも ひろやすさんは、議論がああいった方向に行くのを懸念し、気遣って下さったのかな、と思いました。
私としては、ここにコメントを下さっている皆さんは、理系/文系の「対立」の構図を描くのでは無く、教育の過程や、文系・理系についての社会的な認知によって生み出される「相違」を、経験を交えて教えて下さっている、と認識していたので、特に心配はしていませんでした。「気を遣ってくれている」文章というのは、読んでいて、解るものですしね。
一応、理系「対」文系、という話に流れないように、気をつけてもいました。
という訳で、皆さん、お気遣い、ありがとうございます。
------
せっかくapjさんが、黒猫亭さんの見事な文章に敬意を払って、ああいうエントリーをお書きになったのに、(ごく一部の方の)あの無粋なコメントは何だろう、と思ったのでした。
※以下、個人の感想(感想は普通、個人のものだ)
エントリーのタイトルに、「楽しみ」って入ってますからね。そういう実感を皆さんに教えたい、っていう気持ちが出てるじゃないですか。そういう柔らかい印象のエントリーに、ああいうコメントはね。
投稿: TAKESAN | 2008年1月26日 (土) 02:41
おっと黒猫亭さんの所にも猫さん登場しましたか。もしかして猫繋がりという事かしら(まさかね^^)。
辛口の黒猫亭さんがどうお相手されるか注目しましたが、場内乱闘にならずに拍子抜け・・・では無くて、冷静な対処で私もまずは安堵です(^^。
さて地下に眠るMさんの目的は何でしょう。おそらく目の前の論客の言説を弄ぶ事による、自己満足と考えます。でなければもっと早くからあの態度を改めているはずです。なぜそう言えるのかと申せば、この私もあの方と「隣り合う穴のネコ」だからです。(ただし私はにゃーにゃー鳴きません^^)
投稿: TAKA | 2008年1月26日 (土) 03:07
TAKAさん、今日は。
うーん、どういう意図なんでしょうねえ。ちょっと読み返しましたが、よく解りませんでした。って、興味も特に無い訳ですけれど。
投稿: TAKESAN | 2008年1月26日 (土) 12:34
>TAKAさん、TAKESANさん
一応反論のテキストは用意しましたが、そんなモン、使わないで済むほうがいいんですけどねぇ。
投稿: 黒猫亭 | 2008年1月27日 (日) 12:54
>みづさん
ツリーを読み返していたら、「にゃーの人」がキレたどさくさで、コメントを戴いたのに、うっかりみづさんにお返事していないことに今頃気附きました。いや、別に「呼び捨てにされたことを根に持った」わけではないですから(笑)、そういうふうに思われていたらご容赦ください、一応洒落の通じる人間のつもりですので、そういうフリは大好きです(笑)。
poohさんのところでも言いましたけど、「すっきり」して戴くことが目的でブログをやっていますので、そういうふうに仰って戴くと嬉しいですね。「にゃーの人」への反論も、或る程度読む人の「すっきり」を念頭に置いて書きましたが、約束ですので試験が終わる明日まで書き込みは控えています。ああいう人の人生の失敗に責任を覚えるのなんていやですからねぇ(笑)。
投稿: 黒猫亭 | 2008年1月27日 (日) 13:02
黒猫亭さん、今日は。
あ、そういえば、明日以降に再びコメントをされる、という事でしたね。
なんか、またしばらく、やり取りが続きそうな予感…。建設的な議論になれば良いのですが(かなり難しい期待かもですが、そうなるに越した事は無いので)。
投稿: TAKESAN | 2008年1月27日 (日) 13:35
>TAKESANさん
一応予定では「議論が続く」ことはないと思いますし、これまで通り感情的に暴れるようなら削除で応じるつもりで、その根拠を明示するという目的もあります。どちらかと言うと「とても親切な最後通牒」みたいなモンですかね(笑)。
投稿: 黒猫亭 | 2008年1月27日 (日) 13:44
あ、なるほど。
それがベターかも知れませんね。
投稿: TAKESAN | 2008年1月27日 (日) 13:53
>黒猫亭さん
>別に「呼び捨てにされたことを根に持った」わけではないですから(笑)、そういうふうに思われていたらご容赦ください、
あ、いやいや、意図は重々承知しております。
だからこそ、こういう冗談も通じるだろうと。(^O^)
しかしさっき「反論」(になってないけど)を見ましたが、彼の人はそのまんまそう思ってるみたいですね。(^^;
これだけ他人の他人のリソースを費やさせても、こうなんですよねえ。
「ガキのように振る舞えば、ガキとして扱われる」
以外に思い浮かびません。_| ̄|○
投稿: みづ | 2008年1月30日 (水) 00:40
みづさん、今晩は。
あ、あの反応、本気だったのかな。いや、もはや、どちらでも良いのですが…。
何と言いますか。
黒猫亭さん、お疲れ様です、という感じであります。実際、なかなか真似の出来ない芸当です。
投稿: TAKESAN | 2008年1月30日 (水) 01:00
>みづさん、TAKESANさん
有り難うございます。「徒労だとは思いつつ可能性がゼロではないから真面目に語る」という心意気だけ認めて戴ければ報われます(笑)。FREEさんも同じように思われたんでしょうしね。
彼の数少ない仲間内では「長くてこんなモン読めるか」とか言ってましたが、そういう附き合い甲斐のない仲間しかいないんですねぇ。キミのオトモダチのことをこんなにたくさん書いてあるのに、興味ないんだな、と(笑)。
投稿: 黒猫亭 | 2008年1月30日 (水) 03:12
黒猫亭さん
>「長くてこんなモン読めるか」とか言ってましたが
読めないのでは?
という冗談はさて置きまして。黒猫亭さんお疲れ様です。私も某、自称ニセ科学批判批判者と対話を一瞬だけ試みましたが、私の時間がもったいないので止めました。会話にならないのです。あの傾向のお方達は。
ただし地下猫さんが、「昨日、にゃーにゃー鳴く人間を鏡で見ました。」と言い始めた時は、私も急いでコメントさせていただきます。
>「徒労だとは思いつつ可能性がゼロではないから真面目に語る」
黒猫亭さんもお体には気をつけて、程ほどにしてくださいにゃー。
投稿: TAKA | 2008年1月30日 (水) 03:28
>TAKAさん
豁然と大悟しましたが、ひょっとしてTAKAさんはあの方が嫌いなんですか?(笑)
>>黒猫亭さんもお体には気をつけて、程ほどにしてくださいにゃー。
ははは、あんなのは精々一人につき一度だけですよ、オレもそんなにお人好しじゃないんで(笑)。
投稿: 黒猫亭 | 2008年1月30日 (水) 04:50
長くて読めるか、という反応って、ある意味、思う壷的ですね。
地下に眠るMさんとは話は替わりますが。
話をしようが無い人というのは、見られますね。
ABO FAN氏やSSFSさんや論宅さんや。論宅さんは、直接やり取りした、と言えるのか微妙ですが、いずれにしても、こういう方々は、人の話を聞かない。しかし、それぞれに個性があって、味わい深いものもあります。
そうそう。一人永劫回帰氏は、色々な行為が判明してからすぐにコミュニケーションを拒絶したので、入れていません。
後。
SSFSさんって、ここ読んでるんですよねえ。
微笑ましくてしょうが無い。パーフェクトに私の文章を誤読してるしなあ。
投稿: TAKESAN | 2008年1月30日 (水) 12:27
>TAKESANさん
これは特定の誰かを想定する皮肉ではなく、誰にでも通用する一般論ですが、
・自分の言説を理解出来ない=相手の理解力が低かったり理解努力が足りないからだ
・他人の言説を理解出来ない=相手の表現力が低かったり内容が間違っているからだ
全部相手のせいにすれば大変便利ですね。今回の件は、本当にそうであるかどうかを逐次的に検証するといろいろ不毛で高コストだから、ちゃんと常識的判断力と内省力を身に着けないと決して実のある議論にはならないよ、という大変教訓的なお話であったかと思います(笑)。
それでは、TAKESANさんのような論者とTAKESANさんが名を挙げられた方々の違いは何処にあるのかと言えば、自分自身で客観的にそれを判定することが出来て、その判定に対して誠実に振る舞えるか否かということになるわけで、最終的には責任感や心性の問題になるのかもしれませんね。
ぶっちゃけて言えば、他人に言い負かされたくないという感情が一番に来る奴とは話が通じないというベタな結論になるわけですが(笑)。
投稿: 黒猫亭 | 2008年1月30日 (水) 13:21
前にどこかに書いたのですが、私は、「自分のせいにする」という立場を採っています。
と言っても、実際相手が間違っている場合もあるので、あくまで基本姿勢として、自分を律するための認識ですけれど。解らないのは相手の言い方がまずいからだ、と考えると、理解しようとする努力を怠ってしまう可能性がありますものね。何より、謙虚で無い。
私自身、議論の「勝ち負け」という部分は二の次のもので(ここに拘っていた時代もあったなあ…)、まず、「知りたい」、「解りたい」、という欲求があります。それが、今のような姿勢を形作っているのかな、という感じです。
あ、でも。
やっぱり負けるのは嫌いです(笑)
投稿: TAKESAN | 2008年1月30日 (水) 17:32
>TAKESANさん
>>やっぱり負けるのは嫌いです(笑)
本音を言えば、誰でも他人に言い負かされるのは癪ですよねぇ(笑)。誰だって、それなりに自分が正しいことを言っているという自負もあるだろうし、それを相手に認めて欲しいと思う欲もあります。そうでもなければ、他人と議論なんかしませんしね。
オレがブログを開設してから対人的な議論に消極的になったと言ったのは、昔から今回みたいなことばかりやってきてもうウンザリしていたというのもありますし、ブログ時代になってから議論の訓練を積んでいない人でも議論に参加することが多くなって、建設的な議論よりも不毛な口喧嘩に発展する例のほうが多いと思うようになったからです。
そういう意味で、今何の為に議論をしているのかということを容易く見失って、勝ち負け一辺倒になってしまう人とは好んで議論をしないことにしています。「識りたい」「わかりたい」という目的を飽くまで見失わず、人間観や世界観の部分でどうしても譲れない対立点が生じたら、互いに身を引くことが出来るような相手でないと、今はちょっと怖くて議論出来ないですね。
投稿: 黒猫亭 | 2008年1月30日 (水) 20:47
こんばんは。
>長くて読めるか、という反応って、ある意味、思う壷的ですね。
全くTAKESANさんに同感です。以前仰っていた「黒猫亭フィルタ」(勝手に命名しました)がリアルに作動している現場を目撃した気分ですね。
また「論者の資質」に関しては、TAKESANさんは既にご存知と思いますが、私は「態度」や「論理性」が不可欠と考えています。黒猫亭さんの仰る「責任感や心性」と本質的には同じものだろうと思っています。
投稿: PseuDoctor | 2008年1月30日 (水) 23:23
>黒猫亭さん
「負けないための論理展開はしたくない」
↓
だが、負けたくは無い
↓
しかし、強靭な論を構築するだけの知識が足りない
となると、やるべき事は一つで、「勉強をする」、なんですよね(笑)
だけど、これがなかなか出来ないんでしょうね。もちろん、場によっては、ある程度強引に行かなければならない事もあるのでしょうけれど、私はあまり、そういうのは好まないので、せめてWEBでのやり取りでは、ある程度理想的なやり方を採りたいと思っています。
------
PseuDoctorさん、今晩は。
そうですね。見事にフィルタが作用した、という印象です。
>私は「態度」や「論理性」が不可欠と考え
>ています。
同意です。なかなか難しいですが、追求していきたいですね。
投稿: TAKESAN | 2008年1月30日 (水) 23:39