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2008年1月30日 (水)

一般論風

最近、疑似科学に肯定的な人と疑似科学批判者の立場とを相対化しようとしている論考を、幾つか見かけたけれど、何か、ちょっと掴み損なっているんじゃないか、という気がした。

上手く言葉に出来ないから、こんな書き方をしている訳だけれど。

「疑似科学側」の人も、色々な人がいるのだしね。積極的に主張している人から、何となく信じている人まで。言うまでも無く、「批判者」にも、色々いる。批判の態度も、相手の主張の仕方によって、変わってくるものだろうし。

やっぱり、実態は知っておいた方が良いのでは無いかな、と。一般論めいた事を書いてあるけど、実は具体的な部分を知らないんじゃないか、と思われるものも、たまに見かける。語の使い方が凄く曖昧だったりね。誰のどの意見を指しているの、とかも。要するに、「ホントに解って言っているの?」という、ね。

と、そんな事を、考えたのでした。

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科学論」カテゴリの記事

コメント

玄倉川さんのエントリーが参考になるので、貼ります⇒http://blog.goo.ne.jp/kurokuragawa/e/ccdfc842d3c6f3f4f11791aab0b66709

私も以前から言っているのですが、科学がいかに社会に「浸透している」かを自覚する事が、かなり重要なのではないか、と思っています。

投稿: TAKESAN | 2008年2月 3日 (日) 01:23

黒猫亭さんのご意見が、まさに的確であると思ったので、ご紹介⇒http://kuronekotei.way-nifty.com/nichijou/2008/01/post_d362.html#comment-17376650

つまり、あるテーマ(ここではニセ科学や疑似科学批判)についての言説があるとして、読者に、そこでクローズアップされている事柄(いわゆる政治系ブログでのニセ科学言説の採り上げ方と、それに対する批判)が「典型例」として捉えられる虞がある、という事なのだと思います。一般論をも同時に語っている訳ですから。

投稿: TAKESAN | 2008年2月 3日 (日) 12:55

Genさんと庄内さんの、様々な方に言及された後の姿勢が対照的だ、と思ったのは、私だけでは無いはず。

ただ、Genさんのコメントには、謝罪の言葉がちょっと多いかな、などと、余計なお世話的な事も考えたりします。Genさんが真摯に考えておられるというのは、伝わっているのではないかと思います。謝罪の言葉は、使い所が難しいですよね。多く使うと薄まってしまうかも知れないですしね。

庄内さんの最新エントリーを読んでの感想。
ああ、やっぱり、全然知らなかったのね。それならああいう書き方になるわ。
http://tak-shonai.cocolog-nifty.com/crack/2008/02/post_7620.html

コメント欄で、田崎さんの文章を紹介なさった方がおられるので、お読みになる事を期待したいですね。

投稿: TAKESAN | 2008年2月 3日 (日) 13:47

>TAKESANさん

ご賛同戴きまして有り難うございます。庄内さんの最新エントリーを読みましたが、彼が「科学の立場からの水伝批判者の方」とやらにご高説を垂れながら、検索で最初に出てくる田崎さんのところすら読んでいなかったのなら大笑いですね。田崎さんのページすら識らないんだから、彼にとって「ニセ科学批判者」というのはやっぱり正月の件で批判していた人たちでしかないんでしょう。

今回含めて何を言っても激しくガイシュツという辺りにその辺の取材不足が露呈しているわけで、典型的な「水伝にうっかり関わって引っ込みが附かなくなった人」の一人で、その意味で正月の件で批判された人とよく似たポジションでよく似たリアクションだと思います。

この辺が潮時だというのに、poohさんの指摘にモゴモゴ言っている辺り、ご立派な論客としてはかなり見苦しい引き際ですね。

投稿: 黒猫亭 | 2008年2月 3日 (日) 16:18

あまり真摯では無いなあ、というのが、率直な感想でした。

田崎さんの文章を、庄内さんが既読か未読かは、まだ判りませんけれど、もし読んでいてああいう主張を展開なさったのだとしたら、それはそれで微妙な所ですので、いずれにしても、黒猫亭さんも仰るように、引き際としては、あまり良いものでは無いように思いました。

ああいう段階で、興味が無いとか関心が無い、という意味合いの事を言ってしまうのは、だから詳細に調べなかった、という事の理由付けなのでしょうけれど、それをさらっと言えてしまうのは、何だろうなあ、と。

投稿: TAKESAN | 2008年2月 3日 (日) 16:51

>TAKESANさん

この一連のエントリーで目に附く庄内さんの姿勢というのは、要するに「それはオレには関係ない」という責任回避のそれだと思うんですよ。科学に対する当事者意識に触れた部分でも、poohさんが仰っているのは科学の恩恵を受ける人間には、たとえそれに意識的でなくても科学の規範に対する当事者性が発生するという、非常に真っ当なご意見であるわけですが、「オレは科学以外の規範も採用しているから関係ない」というのは全然話が通じていない。

科学以外の規範も採用しているというなら、その規範に対しても当事者性が発生するというだけのことであって、特定の規範に対する非当事者性を保証する免罪符では在り得ない。この論を延長すると、社会なんてオレが頼んだわけでもないのにオレの周りにあるだけだから、オレには当事者性も責任も発生しないという理屈で、好い歳した大人の言うことではないでしょう。

というか、そういう当事者意識や責任を引き受けることもなしに、社会に対して社会を語っているという自己矛盾をどう捉えておられるのか、大変不思議です。単に自分がブログというツールを使って無責任な独り言を言っているのをおまえらが勝手に聞いているだけだと言うのなら、わざわざブログで公開される以上、そんな無責任な独り言に不特定多数の赤の他人が耳を傾けるだけの価値があると無根拠に信じておられるわけで、なんでそんなに自信満々なんだか不思議に感じます。

投稿: 黒猫亭 | 2008年2月 3日 (日) 17:54

今、庄内さんのブログを覗いたら、やっぱり田崎文書をご存知無かったようです。

あの、水伝論における代表的なテキストを知らなかった、という事は、やはり、水伝に纏わる議論として、あの騒動(政治系ブログ云々)をクローズアップし、それを典型例として捉えておられたのだろうな、と思います。

結局、よく知っている訳では無いが一般論を語ってしまった、という事なんでしょうね。うん、そうなんでしょう。

投稿: TAKESAN | 2008年2月 3日 (日) 20:28

こんばんは。
黒猫亭さんの分析もまだちゃんと咀嚼できていないんですけど(オレ、そんなことばっか言ってる(;_;))、ひとつ気になっているのが「そんな、どうでもいいことに目くじら立てなくてもじゃない」という、以前からあるスタンスです。

人が「論者」と呼ぶような人が「調べない」「知らなくても断定できる」と思ってしまうのは、彼らにとっての問題の軽さがあるんじゃないかと考えています。
「水伝」に関して、「論者」が田崎さんの「『水からの伝言』を信じないでください」の存在さえ知らないというのは、「別に難しい問題なんかじゃないじゃん」というような気持ちがあるんだろうと思うんです。「これはややこしい問題をはらんでいそうだ」と思えば、論者と呼ばれるような人は、少しは調べるんじゃないかなあ。

たとえば「事実としては正しくないっていうのは自明じゃないか」みたいなところを出発点にしちゃって、だから「そんなことをいうなら、イソップ童話もニセ科学かよ」みたいな誤った敷衍の仕方につながっていくという図式は、もう何度も何度も見ているわけですよね。ただ、それをそれなりに知的な人でも繰り返すっていうのが、この問題の足をとられやすいところ、みたいな……軽いと言っても、社会との関連を軽視するというよりも「わかりやすい問題」と考えちゃうというか。

一方で、こういう素朴な勘違いみたいなものがあるからこそ、問題設定に「科学(事実)と誤認されるか否か」が持ち込まれたという側面もあると思うのですが、ここら辺で「科学的な誤りに関する論議と、社会への悪影響や道義に関する論議が混乱してるんじゃないか」というようなねじれも誘発されやすくなるというリスクもあるんじゃないかとか。

でも、それはある種のFAQだということは、認識しづらいのが現状で。

Genさんなんかは、ある種のベタな問題意識があって、「知的弱者(というと言い過ぎだけど)の排撃」「知らないヤツを蔑む」みたいな風潮のことを問題にしたかったのかなあ、とか。

まだ断片的な思いしかないんですが。

投稿: 亀@渋研X | 2008年2月 4日 (月) 04:39

こんにちは、皆さん。最近儒教解説に走ってしまっていまるので、その続き風に書いてしまいますね。

孟子は「無惻穏之心、非人也」なんていう訳です。ヨチヨチ歩きの幼子が落ちると死ぬかも知れない井戸の方にヨチヨチと歩き始めた時に、それを止めようとしない者など居ないだろうというわけです。

ただね、このたとえ話をデフォルメすると、その井戸に幼子が寄りかかっても壊れそうにない様に見える柵があったら、あわてて止めようとした人に「何をあわてているの、柵があるから大丈夫でしょ」という感想もでるよね。それは、決してそういう人たちが「惻穏之心」を持たない訳では無いよね。

でもって、あわてて止めようとした人は、その柵がしっかりして見えるだけで実は根本が腐っていて、幼子でも寄っかかれば倒れてしまう可能性があることを知っていて止めたとすればどうでしょうね。そのことを理解して貰えば、「何をあわてているの」と言った人たちも、「それは、よくぞ止めてくれた」と成るんじゃないかな。そうなるということが「惻穏之心」というのが、失われている訳では無くて、皆の心にあるという事なんですね。

問題は、その柵が本当に腐っているかどうかが、なかなか見えにくくなっているという事の様なきがします。それゆえに「あわてて止める」者と「何をあわてているの」という人の間の溝が埋まらないのかも知れません。

投稿: 技術開発者 | 2008年2月 4日 (月) 08:35

亀@渋研Xさん、今日は。

私の場合は、元々血液型性格判断やらゲーム脳やらについて調べたら、水伝の話も出てきて、こりゃひどいな、と思ったんですよね。いつも書く通り、その理由は、言語に対する認識をめちゃくちゃにしてしまうから、ですね。弊害とか一瞬で考え付くような、ある種「解りやすい」話です。
なのに、仰るように、凄く「軽く」見ている人が、いるのですよね。ぱっと見た印象で、そう思ったのでしょうね。で、それならそれで、ある程度批判論者について批判を加えるようなものを書くなら、批判論者がどういった所を問題にしているか、というのは、調べるはずなのですよね、普通。私も、田崎さんの書評を読んだり、kikulogの水伝関連のエントリーをほぼ読んだりして、批判者はどういう認識で、今までどんな議論が起こってきたか、というのを、調べました。すると、反証実験の問題も、散々既出だった訳ですね。

仰るように、論点が交錯しているように思います。どの議論で水伝を知ったか、という所がポイントなんでしょうね。例の騒動を通じて知って、「何をめくじらを」、となったのでしょうね。

今ググったら、「水伝」でも「水からの伝言」でも、田崎さんの文章は、上位でヒットしますね。それくらい調べてみればいいのに、というのは、率直な感想です。

どこまでもメタに論じたい、という認識が、あるのかも知れませんね。

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技術開発者さん、今日は。

一般論風な事を仰る人は、「幼子でも柵が腐ってるかどうか解るだろう」、と考えているのかな、という感じですね。

水伝を軽く見るのは、不思議です。
ニセ科学である事、それを道徳教育に使うという事実がある事、そして、言語観をめちゃくちゃにする事、という、物凄い主張なのに、それを感じられないのかなあ。

投稿: TAKESAN | 2008年2月 4日 (月) 12:24

>亀@渋研Xさん、TAKESANさん

>>なのに、仰るように、凄く「軽く」見ている人が、いるのですよね。ぱっと見た印象で、そう思ったのでしょうね。

オレが水伝に関して「迂闊に関わると引くに引けなくなる厄介さ」と語っているのはまさにそこで、一見して水伝が具えている「幼稚なくだらなさ」の印象に油断して、相当な論者でも深く考えずに引っ懸かってしまうというところがあると思うんです。

何か「こんなくだらないネタ」に真剣に反応するのは沽券に関わると思わせるところがありながら、その実物凄く厄介な性格を抱えている。ニセ科学としてのヌエ的な性格や悪影響の複雑さ、また批判的ではない論者にとっては無害性・有用性の印象や事実だと思わせる錯視を誘う部分など、見かけの単純なくだらなさに比べて水伝はかなり知的トラップとして悪質で複雑な説話構造を具えていると思うんです。

おそらくコアにいるビリーバー層とは別の問題になると思うんですが、ブログ言説に関してはそこが問題の核心になっているのかな、と。正月の騒動を語るのであればそこをこそ問題にしなければ的外れなんじゃないかと思っていて、あの時騒いだ人は殆ど水伝なんかどうでもよかったと思うんですよ。

らんきーさんにしても、深く考えずに「いい話だよね」と紹介して、それは多分小学校の校長先生が朝礼の講話のネタを拾うような気軽な感覚だったんだと思うんですが、仲の良くない人から「莫迦でもなければこんなインチキに引っ懸からない」的なニュアンスで水伝の欺瞞性を指摘されたら引くに引けなくなる。勿論、指摘したほうにそんな侮蔑的な意図がなくても、水伝の種明かしには迂闊に関わった人を虚仮にするような子供騙し的な性格が不可避的にある。子供騙しでありながら、相当の大人でも油断して引っ懸かる辺りが悪質なわけですが、種明かしだけを視たら単純すぎて物凄く恥ずかしくなってしまう。

そこからの連続で庄内さんやGen さんの問題も出てくると思うんですが、水伝に詳しくない論者にとっては、どうしても「こんなくだらないネタ」を真剣に批判している側のほうが常軌を逸しているように見えてしまう。いつもならきちんと事実関係を確認してから言及するような慎重な論者でも、今自分の目に映っている状況の意味が剰りにも自明なように見えて(つまり「科学を絶対視」式のステロタイプ解釈)確認を怠ってしまう。

その結果、これこれしかじかの経緯があってあんたの考えているような簡単な問題ではないんだと逆ねじを喰う、そうするとそれは確認抜きで軽率に批判した自身の言論者としての姿勢に関わってくる問題だから、これも引くに引けなくなる。

そこでオレが「編集者」としての亀@渋研X さんに期待するのは、こういうブログ言説版の水伝問題に関してFAQのようなものが用意出来ないか、ということなんですね。水伝の説話構造の悪質さを経験として思い知った今なら、たとえばこれからも未知の論者が何度でもその知的トラップに引っ懸かる虞れがあるわけで、そういう無理もない機序に対する理解があれば、一々個別の論者の言論姿勢を批判して殲滅的な論陣を張る必要がなくなると思うんですよ。寧ろそういう論者もどんどん取り込んで理解を深めて戴くほうが有効なのではないかと思います。

この問題を通過することで、オレはどうも社会問題に対して言及するブロガーが水伝でこのパターンの引っ懸かり方をするのは、不可避的な部分があるのではないかと思うようになりました。だとすれば、一概にそれを批判するのではなく、「それが水伝の怖いところなんですよ」と個々の論者に理解を浸透させる戦略を採ったほうが妥当なのではないかと思う次第です。

投稿: 黒猫亭 | 2008年2月 4日 (月) 16:18

あと、附言するとすれば、対象を「軽く」視ることでトラップに引っ懸かったブロガーの言説は、概ね「ニセ科学批判批判」という形で表出するわけですから、ニセ科学批判の側でもこの種のニセ科学批判批判に対して、一種の寛容性を持つ必要性があるのかなとちょっと思いました。ニセ科学批判の側から視ると、それはどうしても知的に不誠実な言い懸かりとしての側面があるわけですから、対抗的な姿勢で応じざるを得なくなるわけですが、それをやってしまうとそのブロガーの言論者としての姿勢を根本的に批判することに直結してしまう。

ちょっと今回の件に関しては、オレも庄内さんを過剰に批判しすぎたかなという反省がありまして、敵視して攻撃するより巧く適切な理解に誘導する術があれば、こういう一定範囲に影響力を持つ論者の力も得られたのに、と思います。そういう意味では、水伝とは無関係なのでここで論じるのも筋違いですが、finalvent さんのような絶大な影響力を持つアルファブロガーの個人性に附き合うことにも、戦略的な意味はあるのかなと思わないでもないです。そこに、個人性から遡って普遍に繋がるような問題性があれば尚良しというところで。

…いや、たった今思い附いたことですけど(笑)。

投稿: 黒猫亭 | 2008年2月 4日 (月) 16:38

今、コメントを公開にしました。

今回の議論は、まさに、「疑似科学批判者」に一般化された所に、問題があったのだと思います。

あの騒動において、水伝を好意的に紹介していたブログが批判された。で、水伝自体は、少し考えれば馬鹿馬鹿しい主張だというのは解るから、「何をそんなに拘っているのだ」、という反応が起こった。そして、その「態度」に対する批判を、疑似科学批判者一般に敷衍した。と、そういう流れなのだと推測しています。

そうされると当然、ニセ科学を実際に批判している人は、違和感を持つ訳ですね。批判の仕方には様々あるのだから、一般的に語られても困る。また、水伝はかなり広まっていているし、そもそも水伝の主張の構造自体、物凄く大きな問題を抱えている。教育現場で用いられる、というのは、その一例ですね。その点を考慮せずに水伝に言及し、更に疑似科学批判者を一般的に批判するのは、非常に危うい。
それどころか、疑似科学、あるいはニセ科学と言えば、決して水伝だけでは無く、色々なものもある。で、それぞれの対象に言及する論者も、バラエティに富んでいるのですよね。

だから、一般化されると、率直な言葉を用いると、「困る」のですよね。言い方が汚い、声の大きい意見は、どうしても目立ってしまい、穏当で誠実な批判を心掛けている者が蔑ろにされてしまう虞もある。

批判の仕方が妥当だっただろうか、というのは、私も常に考えます。今回のGenさんに対する問い掛けのトーンは強過ぎなかっただろうか、とか。批判と誠実さのバランスを取るのは、なかなか難しいものですね。
とは言え、対象によっては、徹底的に批判しますが。でも、その態度を見て、「疑似科学批判者は…」と取られる可能性もあるので、色々考えて、地道にやっていくしか無いと思っています。
そのためには、出来る限り丁寧な言葉を用いて、相手の人格性に踏み込む事は避ける、というのを心掛けています。ここで、過剰なくらい慎重なのは、そういう理由もあります。

余談。
古くからの読者の方はご存知でしょうけれど、私は以前、言及したブログに的外れな批判をしてしまった事があります。誤読に基づいたものでした。言及先の管理者の方から削除を依頼されて、それに応じました。そのエントリーの痕跡は、残っていますけれど。

投稿: TAKESAN | 2008年2月 4日 (月) 17:43

TAKESANさん。
亀さん。
黒猫さん。
開発者さん。
こんにちは。

ちょっぴり耳の痛いせとです。

私もあの正月騒動の最後をかき混ぜた悪行を行った者として、忸怩たる思いで読ませていただきました。
実は私の件が終わってなお続く批判者のシリーズ化を拝見していてますます混迷している私です。
ただ、あの一件は、当事者の方々のいろんな思惑が絡み、私は既に手放しているのですが、
ニセ科学批判の有り様については考えています。
以前もTAKESANさんにも申しましたが、
検体の鮮度や検証のあり方なども考察していくうえで、あくまでそれは「サンプル」であって、サンプルには人格は含まれないことを、批判側は認識する事が大切なんでしょうね。
人格を批判、攻撃しているのではないから、
その事実を伝えれば、あとは相手の判断に委ねるしかないと、このごろ思うのです。
大切なことは相手を折伏することでも謝罪を求めることでもなく、「伝える」ことだと思います。
そして、その方法は、やはり言葉だと私も思います。こんな書き方するとまたpoohさんに叱られるかな?
ここでpoohさんについでに謝っておこう〜〜
poohさん、私は別にあの問題を矮小化するつもりはなかったのですが、結果としてそうなってしまいました。
反省しています。
また、いろいろ教えてくださいね。
では、、、

投稿: せとともこ | 2008年2月 4日 (月) 19:05

せとともこさん、今晩は。

私が思うに、批判というものは、人格的な部分に、ある程度は踏み込まざるを得ないと考えています。ある人が信用し、肯定している意見について異論を述べるのですから、人格と主張を峻別をする事は、難しいのですよね。
それを念頭に置いているから、くどくなるくらいに、人格的な部分には触れないようにする、というのを書いているのですよね。どうしても、批判対象が何故あんな事を言ったか、と考えると、性格的な部分に原因を見出そうとする心の動きが出てしまうので、それを制御する意味合いもあります。

批判の印象を左右するのは、言葉遣いであったり、だと思います。いくら、「論」を切り取ってそこに批判を加えたつもりでも、相手は、そう取るとは限らないのですよね。

私は、かなり気を遣っているつもりですが、それでも、人格批判と受け取る人はいると思います(議論に慣れていない方が相手だと、起こり得ますね)。これをしょうが無いと考えるか、それとも、自身の書き方に配慮が足りなかったと見るか。まあ、それは、批判対象の態度にも関わってきて、とっても複雑なのだと思います。

------

あ、ところで。
poohさんに叱られたんですか?

投稿: TAKESAN | 2008年2月 4日 (月) 19:30

後、私が念頭に置いているのは。

ニセ科学の落とし穴には、誰でも転がり得る

という事です。

自分の知らない分野のニセ科学に騙される事なんて、充分ある事なんですよね。絶対に引っ掛かかりゃしない、というのは、とても言い切れない。

自分は幸い、色々な人の意見に触れる事が出来て、知識も蓄えられた。だけど、タイミングによっては自分も陥っていたかも知れないし、実際、疑似科学的な事を信用された時期もあった。

だから、一部で見られる、騙されるなんて馬鹿だからだ、なんて言い方はしたく無いし、出来ないのですよね。もちろん、「知識が足りないからだ」、という言い方はしますが。

という訳で、自分のやり方には、経験も関わっているのかな、と思います。

投稿: TAKESAN | 2008年2月 4日 (月) 19:37

>TAKESANさん

この一連の問題について新たにエントリーを起こしました。で、後から気附いたのですが、ここのブログでのオレのコメントを無断で転載させて戴いてしまいました。事後承諾ですいませんが、悪しからずご了承くだされば幸いです。

投稿: 黒猫亭 | 2008年2月 4日 (月) 21:09

TAKESANさん。
こんばんは。

まず誤解というか非常に分かりにくい文を書いてごめんなさい。
Poohさんは、直接、私に苦言を呈して下さったわけではなく、当該の批判者の方のブログにチラリと書かれていたのです。
ttp://taraxacum.seesaa.net/article/79492272.html
瀬戸智子さんのエントリについては、ぼくは正直云って立腹しました。ただ、ああ云う下世話な誤解を招かないように言説を行うことに配慮することにも、意義はあるんだろう、と思います。」
と。

だから、これを拝見して、私はPoohさんを立腹させたんだなぁ、、、と思ったのです。
あまり馴染みのな下世話なんて言葉で評されると、私としたらタジタジになりました。
が、
確かにPoohさんの言われるとおりと思い反省。
言葉が足りなかったんです。
だから、さらに勉強をしなきゃと思っている次第です。
poohさん>
こんな私ですが、また教えてくださいね(^.^)

と、言うことでTAKESANさん。心配なさらないでね(^.^)
それから、TAKESANさんの本当に言おうとなさっていた事については、また考えます。
つまり、
「ニセ科学の落とし穴には、誰でも転がり得る」
について。

では、とりあえず今日はおやすみなさい。
こんな私ですがこれからも宜しくお願いいたします。


投稿: せとともこ | 2008年2月 4日 (月) 21:14

>黒猫亭さん

あ、いえいえ。もちろん、ご自身のコメントなので、全然構いません。

エントリー、読みました。

中でも、水伝を評した、
▼▼▼引用▼▼▼
幼稚で無害そうな見かけによらず、寧ろそのアルカイックなイメージの故に過小評価して言及した論者に徹底的に言説の姿勢を問い質す試金石もしくは踏み絵としての凶暴な性格があるのである。
▲▲引用終了▲▲
この部分には、唸らされました。

------

>せとともこさん

あ、なるほど、そういう事でしたか。了解しました。ご説明、ありがとうございます。

投稿: TAKESAN | 2008年2月 5日 (火) 00:03

昨年、と言っても、たった2ヶ月前ですが、こんなエントリーを起こしていたのでした⇒http://seisin-isiki-karada.cocolog-nifty.com/blog/2007/12/post_dc0f.html

コメント欄が興味深い(←自分のブログなのに)。

メタはスタート地点、というのは、かなり強く意識しています。

投稿: TAKESAN | 2008年2月 5日 (火) 01:02

>TAKESANさん

読んで戴いて有り難うございます。ご紹介戴いた過去ログを読むと、尚更「一個人の思い附きで論の総体に追い着くことは難しい」ということを痛感しますね(笑)。

自分が考えつくようなことは大概誰かが考えついているという意識は常に持っておかないと、思い附いた段階で満足してしまいます。一応、「こういうことはすでに何処かで語られているだろうから、今回のエントリーのキモは一種の具象論だ」というテーマは決めていました。何についての具象かと言うと、メタ議論の具象だったりする辺りがやっぱりメタだったりするんですが(笑)。

何というか、newKamerさんが仰ったように、オレのここ一連の論はやはりメタ議論についての議論ではあるのですね(笑)。

投稿: 黒猫亭 | 2008年2月 5日 (火) 01:25

過去のエントリーを読んでたら、お、これは、黒猫亭さんのエントリーとも繋がるかも、と思ったので、貼ってみました。

やっぱり、「メタもベタも両方」、ですよね。それに尽きると思います。

投稿: TAKESAN | 2008年2月 5日 (火) 01:56

せとさんの言説については直接言及しようとも思ったんですが、状況が微妙だったのでやめにしました(たんぽぽさんの論の進め方にもまずいところがあるように感じていたので)。

ニセ科学問題に関して浮き彫りになる「論と論者の関係」みたいな部分に関しては、黒猫亭さんのエントリに相当集約されているように思います。サイドストーリーではあるでしょうが、一面本質に関わる部分でもあるなぁ、とか感じています。

投稿: pooh | 2008年2月 5日 (火) 08:10

あの議論は、かなり色々、ごちゃごちゃしていたような印象があります。いくつか読んで、これは複雑そうだな、と思いました。文脈も、通常のニセ科学論と、ちょっと離れていましたし。

黒猫亭さんのエントリーを読んで、これは自分には書けない、と思い知りました。凄いですね。コメント欄の皆さんも凄いです。

投稿: TAKESAN | 2008年2月 5日 (火) 11:51

>TAKESANさん、poohさん

どうもです。たまたまオレがご両所との知遇を得てニセ科学問題に興味を覚えた時期に進行していたのが、論宅さんとのメタ論争だったり政治ブログの騒動とその影響だったり、ということもあって、専らニセ科学を巡るネット言論にばかり言及する形になっているのは、ちょっと心苦しいところですね(笑)。

実際にはベタなところの論争というのは剰り目にしたことがないわけですが、本来オレはニセ科学というより疑似科学一般を問題視しているわけですから、そういうベタなところにも意識を向けなければいかんなと思ってはいます。

投稿: 黒猫亭 | 2008年2月 5日 (火) 14:02

実際の、具体的なニセ科学についてのやり取りは、かなり多様なものですね。

丁度、「血液型と性格3」がkikulogに出来て、また、果てないループが続きそうですが、あれも一つのパターンですね。

ゲーム脳関連だと、ここでちょこっと多めに書いてあるので、少しは参考になるかも知れません。川端裕人さんが、森昭雄氏の講演に参加した記録なんかも、かなり話題になりました。水伝に関しては、この間出た、corvoさんのブログでのやり取りとか。
kikulogには、ドライヤーについてのエントリーとかもありますね。読むとクラクラすると思いますが…。

投稿: TAKESAN | 2008年2月 5日 (火) 16:28

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