« 本質はそこには無い | トップページ | エピ »

2008年1月12日 (土)

私が意味を勘違いしていた日本語達

煮詰まる→考えても考えても、いいアイデアが浮かばない事、だと思っていた。

情けは人のためならず→甘やかすと相手のためにならない事、だと思っていた。

押っ取り刀→物事にゆっくり取り組むさま、だと思っていた。おっとり+刀 って事ですね。

役不足→定番ですね。人が役に見合っていないという意味だ、と思っていた。

憮然→不服・不満な様子、だと思っていた。

……早くも、思い付かなくなった。何十個も思い浮かぶだろうと、書き始めたのに。

近年、間違いやすい日本語云々といって、色んな本が出たりしてますよね。それは、結構いい事なんじゃないかな、と。「間違った言葉」を使っている人を、無知だと非難するんじゃなくて、自分が正しいと思っていた言葉でも、こんなに勘違いがあったのだ、と自覚すれば、いいんじゃないですかね。後、言葉の柔軟さを認識するのが重要かと。

|

« 本質はそこには無い | トップページ | エピ »

「随想」カテゴリの記事

コメント

「確信犯」なんて、今じゃ誤った意味の方が日常的に多く使われてますよね。
まあ、私も長い事その意味で理解してましたが(^^;)。↓
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A2%BA%E4%BF%A1%E7%8A%AF

投稿: OSATO | 2008年1月12日 (土) 01:40

OSATOさん、今晩は。

おおっと。
真っ先に書くはずだったのに、忘れてました。確信犯…。
誤解されている方を正確に書くと、やっぱり、「故意犯」とか「計画犯」になるのかな。

投稿: TAKESAN@イイ小説を読了して頭がぽわー中 | 2008年1月12日 (土) 02:41

言葉の持つ意味、って云うのもうつろっていくものではあるので、正しいとか勘違いとか云う部分にあまりこだわるのも、と云う部分もあると思うんですけどね。文脈次第でいくらかは変わるものでもあるし。
でも、「もともとどう云う意味だったか」と云うのを押さえておくのは大事かも、です。

投稿: pooh | 2008年1月12日 (土) 07:09

poohさん、お早うございます。

▽▽▽引用▽▽▽
言葉の持つ意味、って云うのもうつろっていくものではあるので、正しいとか勘違いとか云う部分にあまりこだわるのも、と云う部分もあると思うんですけどね。
△△引用終了△△
私は多分、ここら辺を強く自覚している側の人間かも知れません。←なんか日本語が変(笑)

でも、語形から考えるとその語意を当てはめるのはどう考えてもおかしいよなあ、というのもあったりして、面白いんですよね。

投稿: TAKESAN | 2008年1月12日 (土) 11:11

誤用…とはちょっと違いますけど、「青田買い」と「青田刈り」の混同もありますよね。
「青田刈り」じゃ、収穫できないんですけどね。
もっとも、「青田刈り」も、早期に人材を確保する、という意味で使われるようになっていますが。

投稿: たこやき | 2008年1月12日 (土) 11:22

たこやきさん、今日は。

あー、それもよく例に出ますね。
音が似ていて別の字を当てはめ、そこから誤解していく、というのもありますよね。

投稿: TAKESAN | 2008年1月12日 (土) 11:30

こんにちは。

ネット上のこの手の議論を見ると「正しい言葉を使う”べき”だ」論か、「言葉は変化するものだから何を使っても良いじゃん」論の極端に分かれることが多いのはなんでだろうなあ、というのが常々疑問だったので、こちらのコメント欄のような冷静なやりとりを見るとほっとします。

「煮詰まる」については数ヶ月前にうちの研究室でも話題になりましたよ。後から出てきた方の意味で使う人の方が多かったです。僕もそうでした。
確信犯についてはもう誤ってると言われる意味の方で一般的に使いますね。目上の方や言葉にこだわりのありそうな方の前では自重しますけど(^^;

投稿: dlit | 2008年1月12日 (土) 15:08

dlitさん、今日は。

実は、私には「変遷」? がありまして。

10年くらい前までは、「”べき”論」な人だったんですよね。物凄く硬直的な認識で、「間違った言葉」を使う人とかに不寛容でした。で、それから色々考えたり読んだりして、シフトしてきたんですね。
「何でもあり」もダメだし、「こうしなくてはならない」というのも、慎重に考えるべきだと思っています。コンテクストも考慮しなければなりませんしね。
「言語は変化していくものだから、その柔軟性を認めなければいけないし(「正しくない」と判断した人に極度に不寛容になる)、自分が正しいと思い込んでいても、それは、語彙のほんの一部についてなんだから、思い上がっちゃダメだな」、という考えに至った次第です。

「確信犯」・「煮詰まる」・「役不足」とかは、代表的ですよね。この内、初めから、元々(”正しい”とされる)の意味で憶えていたものは、一つもありませんでした(笑)

投稿: TAKESAN | 2008年1月12日 (土) 15:51

追加。

姑息→卑怯・狡猾 的な意味だと思っていた。

投稿: TAKESAN | 2008年1月12日 (土) 21:04

現在、主に校正で糊口をしのいでいる人間です。正直悩ましいです。
一応、気づいた場合は「本来はこういう意味ですが……」などと余白にメモ書きして注意を促すようにはしています。で、書き直すにしてもママにするにしても著者や編集者から返答があると良いのですけど、完全にスルーされている場合がたまにあって結構悩みます(当然、校正者には勝手に原稿を書き換える権限などないわけですし)。
逆に、「この言葉をこういう(本来の意味とは違う)意味で使う人がいる」ということを知らずに(そのことに気づくこともなく)、「なんだか違和感のある文章だなぁ」と思いつつスルーしてしまって、あとから大恥をかくこともあったりします(いや、実際に恥をかくのは著者なんですけど)。

ほとんどの校正者は、原則的に「本来の意味しか知らない人が(著者の意に反した)誤読をする恐れがなければ、許容する」という姿勢だと思います。
ただ、その言葉がどのような意味で使われうるのかを知っていないと、そういった判断もできないわけで、校正者としては、「この言葉はこういう意味だと思っている人がいる」という情報に飢えているところがあったりします。このようなエントリはとても有り難いのです。

ちなみに、私がこれまでに一番たくさん悩まされてきたのは、たぶん「おもむろに」か「すべからく」のどちらかです。数えてないけど。

投稿: 田部勝也 | 2008年1月13日 (日) 00:18

田部勝也さん、今晩は。

「糊口をしのぐ」の意味を確認した、というのは、ここだけの話であります。

なるほど、校正の現場では、そういう感じなのですね。大変参考になります。

▽▽▽引用▽▽▽
その言葉がどのような意味で使われうるのかを知っていないと、そういった判断もできないわけで
△△引用終了△△
ああ、確かに。理解のされ方のケース、という事ですね。

「すべからく」は、最初に読んだ時に意味が解らなかったので、辞書で調べた記憶があります。今、ちゃんと使えているかは、解りませんけれど(笑)

投稿: TAKESAN | 2008年1月13日 (日) 01:00

なんと云うのか、ぼく自身が「言語のゆたかさ、多彩さ」と云うものを信じながら文章を書いている部分があるんですね。だから、あんまり硬直的には捉えたくない、と云うのもあったり、でもそのゆたかさの源泉にある「ある言葉の持つ歴史」みたいなものを軽視するのも言葉を殺すよなぁ、とか考えたり、です。

投稿: pooh | 2008年1月13日 (日) 07:10

poohさん、今日は。

「言葉はこう使わなくちゃいかん」、と言うのと、「別にいいじゃん、”言葉は生きてるんだし”(←何かからの受け売りな発言)」と言うのは、両方ダメなんだと思います。程度問題でもあるし、どういう風に主張するかにも、よりますけれど。

投稿: TAKESAN | 2008年1月13日 (日) 12:18

こんにちは。

僕は「正しい言葉を使うべき」というのは文脈やその人の生き方に依存するのでそんなに簡単に言い切れないと思うのですが、「正しい言葉を知っているべき」という考えには一理あるかもしれない、と考えています。
ちなみに今の僕の立場は「知っていると有利なので知っている方が良い」です。

なぜかというと、知っているということは選べるということだからです。場合によっては、きちんとした選択肢を知っていないと致命的な状況もありますしね。

poohさんも上で触れていますが、言葉のダイナミックな特性をより有効に利用することと、「何が正しい/誤っていると考えられているか」ということを知っているということは特に矛盾しませんよね。
むしろ「何が正しいとされているか」を知っていていることで、表現の幅が広がったりすると考えています。例えば、「確信犯」や「煮詰まっている」に同時に二重の意味を込めたり。知っている人だけが気付けるというやつです。
僕は自分の文章の中で規範的逸脱も文法的逸脱も時々使います。由来や仕組みを知っていてなおそこから外れるのは結構楽しいです(ちょっと読者にとっては悪質かもしれませんが)。

投稿: dlit | 2008年1月13日 (日) 13:25

dlitさん、今日は。

「知っているかどうか」、という部分については、まさにその通りだと思います。

私が挙げた例だと、「何でもいい」というのは、ものを詳しく知っている訳では無いけれど、という場合ですね。そういった意見と、色々な知識を持っている人が、同じ様な事を発言するのとでは、まるで「重み」が違うのだと考えます。前者の場合、ある種の「開き直り」、あるいは、薄っぺらい相対主義になってしまう可能性が、ありますしね。

私も、「解る人には解る」言い回しを使う事が、結構あります。ずれを楽しむ訳ですね(あまりやると、釣りだと認識されて、アレですが)。ずれを楽しむには、正確な知識と、思考の柔軟性の、両方が必要ですね。それも含めて、「知性」というのかな、なんて。←同じ様な事を、どっかで書いた気がするのだけど、思い出せない…。お笑いについて書いた所だったかな。

そういう意味でお手本にしているのが、森博嗣さんの文章だったりします。


投稿: TAKESAN | 2008年1月13日 (日) 15:14

私がよく、記号論は若い頃に勉強した方が良い、と言い、また、自然科学の知識も身に着けるべきだ、と言うのは、ここら辺の認識を踏まえています。記号論や言語学によって、言語の恣意性、柔軟性、文脈依存性を知り、自然科学を勉強する事で、科学における、概念の厳密な定義を重んじて、それを基に精密な論理体系を築く、という知的活動をも知る。
これも、「色々知っていた方が良い」、という事なのかも知れません。

投稿: TAKESAN | 2008年1月13日 (日) 15:20

こんばんは。
ちょっとお聞きしてみたくなったのですが、みなさんは国語辞典を使い分けるというようなことはされるのでしょうか。使い分けないまでも、辞典ごとの編修方針の差のようなものは、意識されますか?
田部さんが校正をお仕事としてされているというお話と、「いろいろ知っているといいよね」というお話を読んで思いだしたのですけど、たとえば三省堂は現状追認型というか「今どう使われることが多いか」を重視してるんですが、岩波書店は伝統墨守型というか「今のところどう使うのが正しいとされているか」が重視されているんですよ。だから、どの語釈を第一義としているかが、辞書によっては違うことがあるんです(このため、ぼくのいた会社では、通常は岩波が基準とされていました。三省堂の『大辞林』の編修にも関わった会社なんですけど(^^;;)。
こんなん常識なのかな、それともあまり知られていないのかな、って気になったというのが正確かな。

いや、確かに「言葉は生き物」でして、そのために扱いによっては早めに死ぬ(その言葉の寿命を縮める)んじゃないかと思っていまして。

投稿: 亀@渋研X | 2008年1月14日 (月) 01:14

亀@渋研Xさん、今日は。

私は素朴な使い方をしているので、あまり参考にならないとは思いますけれど…。

私の場合、自分が書く際には、日本で最もスタンダードだと思われる広辞苑を参照しています。基本的に、そこからはずさない様な語義で、使っています。書かれたものを読む場合には、複数の辞書で調べて比較するかなあ。ちなみに今、「編修」を、三つの辞書で調べました。使う時は厳密に、読む時には柔軟に、という感じですね。

辞書の編修方針は、そういうのがあるのだろうな、とは思いましたけれど、はっきりと意識した事は、あまり無かったですね…。

そういえば、広辞苑の次の版では、最近の言葉も色々追加されるらしいですね。

投稿: TAKESAN | 2008年1月14日 (月) 11:58

どもです。オレも日本語を扱う仕事の末席に連なる身ですが、腹立たしいのは日本語の大本の語義を無視した所謂配慮語の類ですね。たとえば「子供」という用字は「大人のお供」を連想させるから「こども」もしくは「子ども」と表記するとか、「片手落ち」は「片手が落ちる」を連想させて身体障害者差別だから遣うなとか、何というか蒙昧窮まる暴論が幅を利かせている。

念の為に講釈すると、「子供」の「供」というのは「○○ども」同様に集合名詞を意味する言葉で「お供」という意味はないし、「大供」という対語もちゃんとありますよね。「片手落ち」のほうは「片手・落ち」ではなく「片・手落ち」でこの場合に言う「手」とは手段の意味で、身体の一部としての手を意味するニュアンスはない。つまり、手段が偏っていたという意味です。

元々のお話とは論点がズレますが、言葉狩り一般というのは、社会的弱者がその当事者性において不当に不快や不利益を蒙るとか、大衆の差別意識を助長するという原義に照らして理不尽な理由で語られがちだと思います。

たとえば「めくら」とか「きちがい」という言葉も、語の成り立ちから考えれば言葉自体に差別的なニュアンスはない。就中「気が違う」という言葉なんか、心の病気や常軌を逸した状態についての一般的な知見を考慮すれば窮めて適切な言葉で、「異常」という言葉よりよっぽど婉曲で配慮がありますよね。

もっと言えば、それらの差別語とされる言葉には、歴史的な過程において言葉を遣う者がその言葉の指し示す対象に対して抱く包括的な感情がしみついているわけで、勿論差別感情もあるだろうけれど、社会的弱者に対する労りという公衆感情も勿論一体不可分に結び附いていたわけです。

言葉狩りというのはそういう考察や合理的な配慮抜きの、不合理且つ画一的な決め附けに基づいて行われてきたんじゃないかという不快感がありますね。

投稿: 黒猫亭 | 2008年1月14日 (月) 13:20

黒猫亭さん、今日は。

以下は、差別用語に関する議論を押さえていない人間の素朴な感想、と捉えて頂けると、ありがたいです。

差別語に纏わる議論を見ていて感じるのは、語に意味を無理矢理結び付けたりする場合があるのではないか、という事です。ある語を使う事そのものを「差別的」だと断じるのは、基本的に不寛容であると思っています。もし、議論を突き詰めるならば、原義を調べたり(片手落ちがそのような由来であったのを、初めて知りました。不勉強ですね…)、意味の変遷を考慮するべきだと考えます。

言葉には、そもそもの原義があり、また、用いられる状況において、その時点で社会一般に諒解されている意味と、発信者が込めた心情なりが言葉に乗っている、という事を、念頭に置くべきなのだと思います。ある、差別語とされるものがあるとして、それを使う事そのものが、社会常識に関する知識の度合を測る尺度として捉えられる場合もあって、そういう時には、原義を考慮するという視点は蔑ろにされて、「今どのように社会で使うべきか」、という点が、重視されているのかも知れません。成り立ちからして差別的な意味を込められていたものなのか、原義は違うが、その言葉が差別の道具として用いられたものなのか、というのも、考える必要があるのかも、と考えています。

原義が異なるのに、字面から、「差別が連想されるから」用いるべきでは無い、というのは、私もおかしな事だと感じます。

ただ、これは社会心理学的な観点だと思いますが、ある言葉が「差別語だ」という情報が流布される事によって、実際にそれを差別的に用いる(差別的だと解っているから使う、という人間は、残念ながら存在するでしょうから)人間が一定数現れ、それが、語から連想されるイメージを規定する、という事もあるのだろうな、と推測しています。

私が今の段階ではっきりと言えるのは、差別語に「分類」されている語を「使う事自体」が「差別」だとするのは、合理的では無いだろうな、という事ですね。差別語だと分類されているのを知っているかどうか、とか、そういう語をその場で使うのは適切か、とかを、考慮すべきだと感じます。もし、そういう言葉を使う人がいたとして、自分が、それが差別語だと知っている状況があるとすれば、頭ごなしに否定するのでは無く、柔らかく指摘するのが良いと思っています。発信者の意図するメッセージを無視して、出力された記号だけを評価するのは、適切では無いでしょうから。

私はよく、言葉に力を過度に持たせてはならない、という事を書くのですが、それは結局、言葉は変化し得る事を理解しなければならない、という意味ですね。かと言って、元々の意味を蔑ろにして良いという事では無いのは、上で書いている通りですけれど。

私自身は、差別を連想させるから用いてはならない、とされる語は、どうしてもその語で意味を表現したいという時以外には、なるべく使わないようにしています。

投稿: TAKESAN | 2008年1月14日 (月) 14:26

どうもです。仰る通りで、言葉狩りの腹立たしいところというのは、差別語として一旦流布してしまえば本当に差別語になってしまうというところにあるんじゃないかと思います。それが差別語と視られていることに自覚がなく、差別的な意味合いなどなしに遣っている人でも、差別意識がある人と見做されてしまうわけです。

私見ですが、それは言葉狩りで差別語を炙り出す過程において、言葉には差別意識を無意識の制度として固定する力があるという考え方があるからなんじゃないかと思います。たしかに差別語とされている言葉にはそれを遣う人の差別意識もニュアンスとして内包されていますから、それを差別語と見做して公に訴えることは一種の気附きの機会になるという考え方もあるでしょう。

しかし、それこそTAKESANさんのご意見に似たような話ですが、人々の無意識の差別感情を意識化する為に個々の言葉自体を差別用語として排除していくと、単に日本語の語彙が痩せるというだけではなく、言葉に差別の咎を被せて祓え流すという呪術的なプロセスにしかならないのではないかという不合理を感じます。

言葉を指弾し排除するという方法論では、人々の無意識の差別意識を撃つことは出来ないというのは、つまり排除された言葉は遣われなくなるだけだからですね。人々の差別の咎を乗せて祓え流してしまったんですから、今現在人々の目の前にない。言葉と一緒に差別がなくなったような錯覚をもたらすわけで、でも意識の改革はそれとは剰り関係がないから、「○○が不自由な人」という言葉がそれに替わって人々の差別意識を担う。言葉狩りという方法論は、虫送りと何ら変わりのない呪術的儀式にすぎず、無限連鎖なんですね。

一応差別語とされた個々の言葉には歴史的なダイナミックな経緯があって、概ね何かを指し示す言葉としての経験則的な妥当性があるわけです。しかし、差別語を指弾して排除した後に、それに替わる配慮語として何かを考える場合、その言葉を遣う人々の意識からのフィードバックもなしに、極短期間に一部の人の主張だけを容れて恣意的に発案されるわけで、その不自然な屹立が突出して新たな差別意識の器として恰好の不細工さを具えているわけですね。

そういう意味で、オレも事実において差別語を公に用いることは、遣うほうと受け取るほうの双方に差別語としての諒解があるわけですから、敢えてその言葉を選ぶ意志を勘ぐられても仕方がない、そういう理由で差別語は公には口にしません。

しかし、言葉狩りが差別意識の啓蒙という目的に対する手段として不合理であり、結果として公には用いられない穢い罵倒語のマッスを着々と増やしているだけだと思います。

たとえば「きちがい」という言葉が日常的に遣われていた時代には、その言葉にそこまで尖鋭に差別的な意味はなかったのに、それが極め付けの差別語とされることで、極め付けの差別的意志表明の言葉と成り得る。要するに、言葉狩りは結果において日本語における罵倒語の数を増やし罵倒の程度を拡張しているだけだと思います。

投稿: 黒猫亭 | 2008年1月14日 (月) 15:22

差別というのは、社会的な概念であり、また、心理的なものでもあるのですよね。いくら、「差別語とされている」語を「使わないように」した所で、それ自体が、排他的な認識を失くす方向に社会を誘導するとは、必ずしも言えないのだと思います。むしろ、仰る通りに、他の語に差別的な意味合いが付加されて、それが代わりに使われ定着する、という事もあり得る。
だからこそ、言葉は表現と内容ががっちり緊密に対応している、とは、見るべきでは無いのですよね。ある言葉の集合を排除したからといって、それで差別が無くなる、とはならない。

そういう感じなのかな、と思っています。

投稿: TAKESAN | 2008年1月14日 (月) 17:39

TAKESANさん
ありがとうございます。素朴な使い方なんてとんでもない。複数の辞書を当たるなんて、その道の人のようです。やっぱり意識されているんですね。

黒猫亭さん
はじめまして。poohさんのところでのコメントはいつも拝見しています。ブログも、ときどき拝読しております。
田部さんといい黒猫亭さんといい、緻密な文章から間違いなく腕の立つ、閲読までお願いできるような方とお見受けして、自分の書く物やザルの目の粗さを思い返しては「きゃっと叫んでろくろ首」になっております。

いわゆる「差別表現」については、とりまく状況の苦さもさりながら、反差別運動や解放運動が、あるいはデモクラシーが「差別」という言葉の意味さえも比較的短期間に変えてしまったのではないかということに、最近改めて気づかされています。日常お目にかかる使い方は、ほとんど例外なく「合理的な根拠なく扱いに差をつけたり、おとしめ、侮辱したりすること」のような意味ですよね。でも、比較的最近まで単に「違いに基づいて区別すること」が中心的な語義だったわけで。

今、青空文庫で検索してみたところ、たとえば芥川龍之介の「東西問答」などは、伝統的な意味で用いているようです。一方で、芥川と同時代やもう少し前でも、現代と同じ意味合いで用いられている作品が少なからずあります。おかげで、どっちのつもりで書かれているのかわからないことも、しばしばあります。この辺(昭和初年ごろ?)が過渡期なんでしょうか。

今のところは多くの国語辞典で、まだ「区別」型の語釈が第一義のようですが、よくぞ持ちこたえているとさえ思います。

投稿: 亀@渋研X | 2008年1月14日 (月) 18:08

>TAKESANさん

何だかTAKESANさんが端的な言葉で仰ったことをgdgd引き延ばしたようで恐縮です(笑)。オレももう四十路半ばなので、変な日本語運動の真っ直中で教育されたわけで、その辺のルサンチマンがこのような感じ方の動機としてあるかもしれません。

>亀@渋研Xさん

こちらこそ、poohさんのところのコメ欄や自分のエントリーでお名前を挙げておきながらご挨拶が遅れて失礼致しました。

仰る通り、今は「差別」という言葉自体が配慮を要する言葉に「されていて」、元々の原義を残した「差別化」という言葉がプレゼンなどの場で遣えないという気持ちの悪い状況になっています。言葉には多義的な側面があるというのは当たり前の話で、差別という言葉にも単なる「区別」という原義を留めながら現在の「差別」に相当するニュアンスも担わされて遣われているという事情があります。

その用法が一般化すれば語義自体がダイナミックに変化して、所謂「差別」としての意味合いに一本化されるというのも仕方のない事情かとも思いますし、たとえば谷崎の「文章読本」などを読みますと、高々一〇〇年に満たない時間経過のうちに、芥川よりも後代の作家が共有しているニュアンスが現代には伝わっていないことに愕然としたりします。

その意味でたしかに言葉はダイナミックに動いていくものではあると思いますが、イヤなのは戦後民主主義における妙なカツドウ欲求のお陰で、本来的なダイナミズムを超えて語義がねじ曲げられるということで、言葉狩りなんてのは完全にカツドウの方便でしかないですよね。つまり、目的の為に何某かの戦略や戦術を積極亭なアクションとして社会に起こしたことのアリバイみたいなのが不愉快なんですよ。

その当時の人々は社会参加欲求が満たされて満足したんでしょうが、その後の影響を考えると傍迷惑なカツドウだったな、と思います。

投稿: 黒猫亭 | 2008年1月14日 (月) 18:35

>亀@渋研Xさん

実は…。
レポートを提出して、「赤だらけ」で返ってきた事があったのですね。それまで、そこそこ言葉には気を遣っていたつもりだったので、ちょっとショックを受けたと共に、言葉遣いがまるで甘かった事を、思い知らされたのでした。
そういう経験もあって、意味が曖昧な言葉は、なるべく調べるようにしています。
そういう習慣があると、電子辞書(WEB版含め)はありがたいですねー。アクセスが速いので。

------

>黒猫亭さん

いえいえ。大変参考になりますので、ありがたいです。
教育を受けた年代とか、そういうのは、結構大きな要因なのかも知れませんね。

------

なるほど。確かに、「差別」という語にネガティブな意味を含めるのが、当たり前になっていますね。今だと、黒猫亭さんが出しておられる「差別化」が、辛うじて、「差別化を図る」などの用法でニュートラルに使われている、というくらいでしょうか。

少し話は逸れますが。
私は、社会的な活動に積極的にコミットする事があまり奨励されないような時代(と言うか、家庭環境がそうだったのですけれど)に生まれ育ったのですが、それは、良い面も悪い面もあったのかなあ、なんて思っています。

投稿: TAKESAN | 2008年1月14日 (月) 19:50

私は小さい頃、軽い言語障害があったので、言語による意思疎通に関して嫌でも小さい頃から意識せざるを得なかった──という事はあったかも知れません。

他の校正者がどうかは分かりませんが、私の場合、国語辞典については基本的に広辞苑で、場合によって他を参照します。語釈というよりは用例を調べるほうが多いかも知れません(広辞苑はわりと用例が少ない)。
私の仕事上のスタンスとして、「この文章だと(著者の意に反した)こういう誤解・誤読をする読者がいるかも知れませんよ」ということを指摘するのも、校正者の仕事だと考えています(もちろん単純な誤字脱字や事実誤認や論旨の矛盾などの指摘の他に……という事です)。ですので、やはり基本は広辞苑という事になります。これは伝統墨守型だからというよりも、今現在最も一般的で信頼性があるとみなされているという理由のほうが大きいと思います。広辞苑の語釈通りに用いているのならば、差し当たって誤解・誤読は心配しなくても良いだろうという判断です。余談ですけど、私は「新解さん」は大好きです、いろんな意味で(笑)。

ただ、普通の人は、辞書による語釈の違いといった事はまったく意識していないと思います。国語辞典が複数ある家庭なんて、どれだけあるのか疑問ですし。そもそも、「(意思疎通ツールとしての)言葉」に対してその程度に敏感な人が「常識」と言える程度までいるのだとしたら、これほどヒドイ状態というのも有り得ないんじゃないかと思いますよ(何の状態を指して言ってるのかはともかく……)。

──えーと。だいたいこんな感じなんですけど、お仕事の依頼は、メールでどうぞ(笑)。>亀@渋研Xさん

投稿: 田部勝也 | 2008年1月15日 (火) 01:23

私は校正者でして、「正しい日本語を守る」という事よりも「著者の意に反した誤解や誤読を防ぐ」事に対して報酬が支払われている人間なわけです。もちろん、本来の意味ではない意味で言葉が使われていれば、それだけ誤解や誤読の懸念は増えるわけで、その点は気になりますけど、職業上、「正しい言葉を使う“べき”だ」論という立場でもなければ、言葉狩りを擁護したり非難したり(ましてや推進したり)する立場でもないという事は、分かっていただいていると思っています。

とは言え、差別語などについて何も思うところがないわけでもないので、ちょっとした感想というか印象論ですけど……。

「水伝」を善い話だと惹かれたり、「ゲーム脳」に飛びついたりしてしまうのと同様、黒猫亭さんの言ういわゆる「言葉狩り」に熱中してしまうのも、きっと人間の本性(「人間の基本仕様」)に根差した、抗いがたい誘惑なんだろうなぁ……という事を感じますね。みんな、善意や正義感に突き動かされてやっているのは間違いないわけで。
黒猫亭さんも指摘していますけど、poohさんがよく言われる「無知や知的不誠実」に根を持つ問題として、私は受け止めています。だからといって、校正者が勝手に著者の原稿を書き換えるわけにもいかないですし、具体的にどうしたら良いのかもまったく分からないのですが……。

余談ですけど、逆に、「やばい」みたいに、悪い意味だったのが良い意味で使われるようになってきてる言葉もあったりして、言葉って本当に面白いなぁ……と思います。その時代のその社会の人たちが、どういう想いを込めてその言葉を使ったのかとか、そういう想いを込めてその言葉を選ぶような人たちがどんなメンタリティの持ち主なのかとか、上の黒猫亭さんみたいに、見る人が見れば、すぐに見抜かれてしまいますから、自分も気をつけよう……と。

投稿: 田部勝也 | 2008年1月15日 (火) 01:26

>TAKESANさん

多分、社会的活動に対する忌避感情のようなものが影響するとすれば、合目的的な行動に対する許容度に響いてくるような気がしますね。今話題の連帯共闘とか(笑)、社会的活動というのは集団による合目的的行動ですから、妥協とか調整とか決裂が附き物ですし、所詮同床異夢ですから自分の思惑が純粋な形では実現されないものですよね。

それでも好いからということで生臭い人間同士の営みに参入して、社会を動かしたり社会の動きに参入したりすることに魅力を感じられるかどうかという違いがあるんじゃないかと思います。ちなみにオレも、そういう意味での社会参加欲求というのはあんまりないですね。

>田部勝也さん

はじめまして。実はですね(って、おまえはどんだけ「実は」が好きなんだって話ですが)オレも昨年から校正の仕事をメインにやっていますので、田部さんの仰るジレンマみたいのはよくわかります。自ブログや書き込みではこんな感じですが、仕事となると機械的に朝日の用字用語だの記者ハンドブックに合わせて文章のルールを指摘していくわけですが、別段朝日や共同通信のルールが良いとも何とも思っていないですね、その辺は仕事と割り切ってやっています。

ちなみに、多分ジャンル毎に向き不向きはあると思うのですが、オレが信頼しているのは大辞林のほうですね。広辞苑はけっこうな確率でホームラン級のトンデモ解説があるというふうに先輩に習いましたので、電子辞書なんかも大辞林で選んでいます。少なくとも広辞苑を楯にクライアントと争うほどの信頼を覚えていないというのが正直なところです。

亀@渋研Xさんのお話だと大辞林は現状追認型だということですから、それはおそらく元々のオレの畑がCCやSPの分野だったことと関係があるのかなと思います。つまり、何だかんだ言っていてもやっぱり資本主義社会のマスプロダクトシステムの末端に連なっているわけで、オレにも出来る社会参加と言えばやっぱり仕事くらいですかね。だとすれば、それは合目的的行動ということになるんでしょうから、そこはオレ個人の信条とは分けて考えています。

田部さんと同じような話になりますが、CCやSPの分野では、一定のリテラシーを想定するのではなく、とにかくフールプルーフが基本ですから、誰にでも漏れなく誤解なく意味が通じなければならない。つまり、原義に照らしてどうこうというのではなく、現状の言語コードとして個別の言葉がどのような意味として最大限受け取られているのかが重要になってきます。

そういう意味で、歴史性とか正しさよりもコミュニケーションツールとしての割り切った機能性を重視すると大辞林になるのかな、とちょっと思いました。でも、割合無批判に大辞林を信用していたことは事実なので、亀@渋研Xさんのご意見を伺ってかなり認識が変わりましたね。

投稿: 黒猫亭 | 2008年1月15日 (火) 05:34

皆さん、今日は。

このコメント欄だけでも、私が知らなかった言葉が、十数個はありました(笑) 自身の語彙の乏しさを思い知りますね。これだから、WEBでのやり取りは面白いし、有意義です。

------

>田部勝也さん

私は、WEBで調べてみる事も多いですね。ググってみると、「どう誤解されているか」とか、「実はどういう原義だったか」、というのを紹介している記事や、誤解の経験談などが見つかって、それを参考にして、辞書を調べて確認してみたり、という。

新明解は、手許にはありませんが、紹介されているのを見かける事があります。実に面白いですよね。ファンが多いのも頷けます。

一般的には、「辞書で調べる習慣」そのものが、あまり無いのかも知れませんね。私は調べる方でしたが、それでも全然足りなくて、常に傍らに置いておくようになったのは、成人してからでしたし。

ニセ科学にしても言葉狩りといわれるものにしても、大部分は恐らく、善意によるものなのですよね。水伝の場合は、語義と語意が緊密に対応しているかの如く看做して、それに科学の装いを施した。そこには、「世の中を良くしたい」という思いと、「言葉を大切にしたい」という思い、そして、「それを普遍的な真実として確認したい」という思いとを結び付けたかった、という認識が垣間見えます。それを素朴なかたちで行ってしまった訳ですね。言葉に対するナイーブさ、自然科学的知識の無知、実験科学的方法の誤解、等々が、絡み合った結果なのでしょうね。

------

>黒猫亭さん

私は、いわゆる「連帯」というものに、感情が先走って合理性を軽んじる、的な印象を持つ場合があって、一歩引いて見てしまうのですね。それが行き過ぎて、何事にも無関心になったり、妙に斜に構えてしまったり、という(「中二病」的な)、負の面が表れる事もあるので、バランスが重要かと思います。私の中には、協調・連帯・共感 よりも、合理とかを重んじる(別に、矛盾するものでは無いけれど)認識が、早い内に備わっていたのかな、と思っています。子どもの頃からでした…。

投稿: TAKESAN | 2008年1月15日 (火) 12:21

>TAKESANさん

自身の関心の在り方とは別に、民主主義の実践において「活動」に生臭い妥協や野合が附き物なのは仕方ないかな、というのがオレの感じ方です。非力な庶民が社会を動かす為には、総論一致各論バラバラでもたくさんの人々が協力し合って働く必要がありますから、いろいろ人間同士の間の不純な調整や面倒くさい駆け引きがあるというのは、現実論として認めるしかないということですね。

でも社会というのは力を行使しようとする人ばかりでは成り立たないのも事実でして、TAKESANさんやオレのように活動に魅力を感じない人間は、せめて知的に誠実に言及し論じるのが役割論というものかなと思います。その場合でも、たとえば活動を実践するよりそれを論じることのほうが楽だから、誰も実践に加わりたがらないということになったら話は変わってくるわけで、イヤでも少しは社会参加するのが社会人の責務だろうという話にもなってきます。

そこは社会の具体的なダイナミズムの問題で、心配しなくても社会に力を行使する活動に最大の魅力を感じる人々がいつの時代にも一定数存在しますので、自然にバランスがとれているものだと思いますけど、飽くまでそこは社会の動きとのバランスとして留保しておきたいところです。

たとえば政治系ブログをやっておられる方々にはかなりの割合で社会参加欲求が旺盛な方もおられるわけで、現実の活動に乗り出しておられる方も多いようですから、ネット上のニセ科学批判と現実社会の接点になる鍵を持っているのがその領域の方々なのかな、というふうにも思います。

そういう場合に、具体の次元に降りていくことで批判の理念的側面が骨抜きになる虞れもあるとは思うんですが、具体の次元で理念が劣化するのはある程度仕方がないことなので、実効として何が優先的に成し遂げられるべきなのかというポイントがブレないようにコメンタリーしていくことが重要なんではないかと愚考致します。

投稿: 黒猫亭 | 2008年1月15日 (火) 17:12

仰るように、役割であるとかバランスであるとかを、考えるべきなのでしょうね。いずれかに偏ってしまうと、良くないですしね。

ニセ科学を批判する事自体、ある種の活動と見る事も、出来なくは無いのですよね。誰でも見られる場に意見を発信する、という意味では(批判にも、色々な形態がありますけれど)。ただ、やはりそこには、科学的合理的な根拠が求められるので、それははずせない。ある種の「解りやすさ」がある、と言っても構わないのかも知れません。だから、ニセ科学批判について「運動」と表現されたりするのを見ると、違和感を覚えたりするのですよね。尤もこれは、語感の問題でもある訳ですが。

うん、やはり、バランスが肝要ですね。改めて、色々な考え方や立場の人間がいて、社会は動いているのだと感じます。

投稿: TAKESAN | 2008年1月15日 (火) 17:59

>TAKESANさん

いつも微妙に論点をズラしてしまっているような気がして申し訳ないんですが(笑)、たとえば水伝なんかを例にとると、ニセ科学を批判する言説を発信する動機として「騙されないようなコモンセンスが社会に根付くこと」を望むわけですが、現実的な活動として可能なのは精々「六億五千万冊の絵本の配布を阻止すること」くらいになる。

そのような現実的な活動がもし実現されるとすれば、当然出発点となる批判的理念の賛同者だけではなく、その書籍が刊行されることで不利益を蒙る人々や水伝の生態的地位を横取りしようと目論む勢力も参入してくるわけで、大勢の人々が協力し合って社会に力を及ぼすということにはどうしてもそういう側面が附き纏うわけですよね。

だからまあ、現実的な活動には不可避的にそういう不純な側面が附き物なわけで、そこを「清濁併せ呑む」「清きに魚は住まず」の一言で許容出来るのか、どの程度までの不純さを許容するのか、それとも排除して理念寄りのポジションを回復するのか、そういうダイナミズムで動いているものだと思います。

投稿: 黒猫亭 | 2008年1月15日 (火) 18:32

 >いつも微妙に論点をズラしてしまっている
 >ような気がして
いえいえ。むしろ、論点の繋がりを示唆して下さっている、という感じかと。

そうなのですよね。活動がある程度知られてくると、「色々な人や考え」が出てきて、それをどうするか、という問題も考える必要がありますね。
やはり、ある活動を健全に保つには、批判に開かれた態度を持ち、同調している者同士の相互批判を厭わない事が大切かな、なんて思っています。

------

ところで。

自身の評価が落ちてしまう事を厭わずに、黒猫亭さんのブログを宣伝し、ニセ科学批判批判の論の脆弱さを示して下さっている、奇特な御仁の事ですが。
かの人は、かなり以前より、私や他の方のブログのリンクを、あちらこちらのブログや掲示板に貼り、精力的に、宣伝活動に邁進しておられます。もう、一年近くは経ちますでしょうか。経緯は複雑で、とても一言では説明し切れませんので、私のブログのこのエントリーを参照して頂ければ、ある程度、発端の事情が明らかになるやも知れません(もちろん、同じ方であるとは断定出来ませんが、そうだとすると、あの様な活動に関わる方が複数おられるという事で、それはそれで、大変興味深い事実でありますが)⇒http://seisin-isiki-karada.cocolog-nifty.com/blog/2007/02/post_93a6.html

もしかすると、事情をご存知であるかも知れませんが、一応、ご参考までに。

投稿: TAKESAN | 2008年1月15日 (火) 22:48

>TAKESANさん

あの方には本当に感謝していて、昨日のアクセスなどは通常の五倍にも達しました(笑)。一連のコメントはウチへも同じIDでマルチポストされておりまして、例のM氏であることが判明しています。つまり、「方々のブログにこういう一見敵対的なコメントがマルチポストされるけれど、自分がやっていることだから心配には及ばない」とお知らせくださったということだと思います。

普通ならこのような形で不自然にアクセスが急増した場合、反対勢力の監視のプレッシャーを感じるもののはずですが、今回の場合は悪意的な来訪者が集まらないように注意深くマルチポストする場所を選んでくださっているので、純粋にこの問題に関心を持っておられる方々の目に触れる機会を増やしてくださったわけですよね(笑)。

あの方が本当にオレの敵であるとすれば、やることなすことすべて利敵行為のオウンゴールとなっているということですから、ドロンボー一味並のマンガみたいな大莫迦者だということになりますが、そんな「底抜けの大莫迦者」が現実に存在するはずがありません。

今日もネットを覗いたら論宅さんのところにコメントしておられましたが、「そんなわかりきったことがわからないフリをしてまで仇役を演じなくとも、お気持ちは十分に通じているのに」と胸が痛みました(笑)。

TAKESANさんのご配慮も有り難いし、poohさんからもご心配戴いたようですが、そういう次第でオレはあの方のご真意を十分理解しているつもりですので、一見オレを攻撃したり揶揄しているように見える言動を視ても決して感情的になったりはしていませんのでご安心ください(笑)。

何より、現実に何の損害も被っていませんし、寧ろ利益を得ていますので、反撥を感じる理由がありませんから(笑)。

投稿: 黒猫亭 | 2008年1月16日 (水) 04:44

>TAKESANさん

というわけで、もう少し真面目な話を致しますと、オレは限定附きではありますが基本的に読み手のリテラシーというものを信じています。TAKESANさんのところでもアニメやゲームに関するカテゴリーがあるように、当ブログでも本来の表芸はトクサツや映像作品の批評ですから、割合莫迦を引き寄せる可能性が高いジャンルです。

申し訳ばかりに元々のエントリーの主題に付会して申しますと、たとえばオレのブログやコメントの文体というのは、一面ではスカしていて衒学的で複文や重文や並列文が多くて長いという欠点がありますが、言ってる内容は論理的に単純明快であるように心がけていますし、言葉の語義の選び方も大辞林式の現状追認ユニバーサル式です。

つまり、文章を読むという作業が苦にならない方には出来る限り簡単に意味が通じるように心がけているのですが、それは一定のリテラシーの読み手へ向けた言説であることのジェスチャーのつもりなんですね。驕った言い方をするなら、リテラシーの次元では常に一定の読解力と良識を具えた大人に向けて語っているつもりですし、それは文体に顕れるものだと思っています。

TAKESANのところの「文の長さ」というエントリーとも関連してきますけれど、たしかにオレに対して莫迦ユニバーサルデザインの文体を心がけたほうが好いのではないか、文章のボリュームももっと簡潔にしたら好いのではないかとご助言くださる方もいらっしゃるんですが、そうすると莫迦も読むし莫迦にもわかるようなことを書かねばならないということになります。しかし、オレは今現在莫迦であり莫迦であることにあぐらをかいているような知的に不誠実な人間に伝わることには相当低い限界があると思っています。

それよりは、リテラシーの敷居をもう少しだけ上げて、もっと踏み込んだ内容を論じたいという動機があります。

それは逆に言うと、形ばかり小難しげに装ったオレの文章の表面的な性格を意にも介さずに読める読者というのは、信頼可能なリテラシーをお持ちの方であると思っていますし、オレの言説と関心を共有しておられる方にとって、低リテラシーに基づく莫迦な言及は、それ自体の愚かしさによって恥を晒すことになっていると信じています。

ブログを開設したての頃、ウチのエントリーを全文読みもしないで揶揄した方と、相手のブログに乗り込んで議論したことがあるんですが、追い詰めすぎて別段炎上したわけでもないのにブログ閉鎖にまで追い込んでしまったことがありました。

正直言ってそこまで追い詰めたことを今では後悔しているんですが、その方がはてなのブクマクに今でもオレのところを入れて読んでくださっているのをたまに検索で見かけると、やはり少し気の毒な気になります。今考えれば、どうせ全文読んでいないことは心ある読み手、つまりオレが本当に相手にしている読み手には十分に伝わっているのだから、放置しておけば好かったことだと考えています。

まあ、ネット上の文章の長さの問題に関しては、スクリーンフォントのデザインの問題という避けて通れない別の問題があって、オレだって女子高生の踊り字みたいなデザインのMSゴシックで自ブログを読めと言われたら勘弁してもらいたいと思いますけどね(笑)。

投稿: 黒猫亭 | 2008年1月16日 (水) 05:19

コメント書いてたら消えた…。

黒猫亭さん、今日は。

あ、やはり杞憂でしたね。dlitさんもそうでしたが、冷静な方が多くて安心します。
私などは、ある意味慣れてしまっているのですよね。それもどうかとは思いますが…。

黒猫亭さんの文章のスタイル、なるほど、そういう方向性もあるのだな、とおもいました。意図的に敷居を上げている訳ですね。

投稿: TAKESAN | 2008年1月16日 (水) 13:21

>黒猫亭さん

はじめまして。
例のコピペ屋さん、なぜかうちみたいな辺境にもまめに遠征してくれています。
きくちさんやapjさんのところへのリンクは安心して放っておいたのですが(慣れていらっしゃるだろうし、むしろどんな過程を経てでも色んな人に行ってほしい)、黒猫亭さんはどう思っているのだろう、と思案していたところだったので、方針が拝見できて良かったです。
うちでは恥ずかしい書き込みは放置ということにしているので、このままにしておくことにしますね。

できれば色んな人に黒猫亭さんの文章が読んでもらえると良いなと思います。
うちに来てくれている方々にはニセ科学に興味を持つ人も、言葉や文学に興味を持つ人も多い気がしますし。

投稿: dlit | 2008年1月16日 (水) 18:52

>diltさん

はじめまして。

ホントにマメな方ですね、貼られた方にはお目汚しでご迷惑でしょうが、こちらにとっては自分が泥を被ってまでリンクを埋めて廻ってくださっている「有り難いエバンジェリスト」ということになりますね(笑)。おそらくコメ欄にapjさんが絡んでいるので、引くに引けなくなったんだと思いますから、何処まで踊るものやら、このまま放置して見物したいと思います。

昨日のエントリーを書いたのも、diltさんが仰るような「こちらの方針」が明示されれば貼られた方も対処しやすいと思ったからで、放置するにせよ削除するにせよご遠慮なく、ということです。オレが不愉快に感じているなら削除したほうがいいかな、という気遣いをされる方もおられるのではないかと思ったんですが、こんな面白い見世物を削除するなんて勿体ないですよね(笑)。随分後になってご覧になる方にも、その間の経緯がリンクで辿れる先にログの形で残っていればご不審はないかな、と。

これまでの発言を視る限り、相手を不愉快にするという効果しか狙っていないようですが、そんなモンはそれこそ相手の受け取り方次第で、不愉快に思わなければオシマイの話です(笑)。逆に謂うと、そういう主観を絶対視する世界に生きているからニセ科学批判が気に入らないんだな、ということがよくわかりました。

投稿: 黒猫亭 | 2008年1月16日 (水) 21:44

ちなみにぼくはきくちさんと「実は便利かもしれない」なんて会話を交わしたことがあります。

投稿: pooh | 2008年1月16日 (水) 21:59

>poohさん

本文のほうで「脇を空ける」とか「奇門遁甲」とか散々ヒントを出しているのに、一箇所だけ手薄な門に莫迦正直に突撃をかける人ですから、便利なことは便利かもしれませんね。これまでのところ、オレの意表を突くような意外な行動は一つもなかったです。

ここでこういうぶっちゃけた話をしているのも、これを何処かにコピペして自爆してくれないかなと期待していたりするからなんですが(笑)。

投稿: 黒猫亭 | 2008年1月16日 (水) 22:57

皆さん、今晩は。

貼られた先の管理者の皆さんには申し訳無いと思いつつ、概ね、冷静でニセ科学に関心を持つ方のブログ等に貼られているので、その点は良かったな、と思っています。
中には、論宅さんみたいに、同調と言うか何と言うか、な反応をなさる方もおられますが。論宅さんのブログでは、きくちさんが忠告なさったんですけどね。まあ、もうしょうが無いかな、という感じですね。エントリーもあの調子ですし、「うまが合う」のかも知れません。

投稿: TAKESAN | 2008年1月17日 (木) 00:21

朴斎さんの、実に示唆的なエントリーがあって、これは紹介せねばなるまい、と思いました。
言葉の使い方というのがテーマのここに、貼っておきます⇒http://puzhai.cocolog-nifty.com/zazhi/2007/12/post_e692.html

これは、水伝について考える際の重要な視座でもありますね。

投稿: TAKESAN | 2008年1月30日 (水) 13:16

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.f.cocolog-nifty.com/t/trackback/13103/9824040

この記事へのトラックバック一覧です: 私が意味を勘違いしていた日本語達:

« 本質はそこには無い | トップページ | エピ »