社会学玄論 : 後藤和智の宮台批判への疑問
論宅さんのブログに、後藤さん(後藤和智さん)を批判するエントリーが上がってますけど、なんか、「統計主義的実証主義」とか、ちゃんと意味を考えずに適当に使っている、という風にしか、見えないんですよね。多分造語でしょうし(他に、学術的にきちんとした使用例があれば、教えて頂けるとありがたいです)。たとえば、「統計主義的実証主義」って何? って訊いたら、「統計的方法を絶対視する実証主義的立場だ」、とか返されそうな…。※ググると、「統計主義」という語が用いられているのは、いくつか見つかります。物凄く多義的ですが。
当たり前ですが、統計的方法が有効かどうか、あるいは、どのような統計解析法を選択すべきか、というのは、研究対象、主張の内容、データの種類等によって、変わってくるでしょう。そこを吟味して、有用なツールを用いて分析しているか、等が、評価されるのだと思います。
社会学者の「鈍い/鋭い」を見分けるのは、どうするんでしょうね。私には、よく解らないです。
相変わらず、「ニセ科学批判の前提」と言って、的外れな事書いているし。必ずしも、「多くの人に”信じられている”」という条件が要る訳では無い、と。
論宅さんは、社会調査云々とよく書かれるけれど、それにしては、調査法について、とても素朴な認識に見えるのだが、気のせいなのだろうか。たとえば、
調査者の視点から質問して切り込めるので、調査対象の恣意性は統制しやすい。
の部分とか。まず、読解が難しいし。質問者に掛かるバイアスを考慮しなくて良い、って事なのかな。そして、被面接者も、「ありのまま」に答える、とか?
※補足
私は、宮台氏の言説を知らないので、後藤さんの批判が妥当かは判らない。
よって、後藤さんの用いた「ニセ科学」という表現が妥当か、それも判らない。難しいですしね。
そもそも、社会科学的に「実証」と言った場合、統計的方法によって集団の性質を推測したり、面接によってケースを収集したり、というのを、相補的に用いて進めていくものでしょう。後藤さんは、宮台氏の言説の根拠には、そのようなものが不足している、として批判しておられるのですよね。それが何故、「統計主義」と、他の方法を蔑ろにしているかの如き表現になるのでしょうかね。後藤さんが、そう取れる主張をされたとか? もしそうだとするならば、ちゃんと言及すべきだろうな、と思います。無ければ、相手は藁人形、って事ですが。
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