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2007年12月 4日 (火)

メタはスタート地点

物事を俯瞰して捉える、というのは、実は、始まりなんじゃないかと思います。

いつまでも、メタ的な論をいじくって、ものを解っている風な認識を懐いてしまって、自己満足に陥っても、しょうがないかな、と。

もちろん、一歩引いて見るという観点は、絶対必要だし、身に着けるべきだけれど、それで満足しては、ダメだと感じます。

ある程度のメタな視点というのは、早めに身に着けておいた方がいいですね。そこから具体的な勉強をすると、より良くものが見えてくる。

メタな認識を持つと、強い「解った感」を得られるのかも知れません。それは容易に、「優越感」に結び付く…。

なんとなく、そんな事を思ったのでした。

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「随想」カテゴリの記事

コメント

 私は「行ったり来たり」するべきものかなと思っています。詳細でドロドロとやっていないと、メタ視点はズレたものになりますし、メタ視点でやっていると、詳細に落とし込むことができなくなってしまう。

 答えがあるものなら、最初からメタ視点をおさえるというのは、理解のための時間短縮に繋がると思います。ただ、明確な答えがあるというのが例外かもしれませんね。

投稿: newKamer | 2007年12月 4日 (火) 09:37

newKamerさん、お早うございます。

 >私は「行ったり来たり」するべきものかな
 >と思っています。
まさにそうですね。
「物事を引いて見る力を身に着ける事が第一歩」、と言い換えた方がいいかも知れませんね。ちょっと立ち止まって俯瞰して、情報を更新していかないと、認識が埋没してしまう可能性があるのだと思います。

投稿: TAKESAN | 2007年12月 4日 (火) 10:15

newKamerさんとTAKESANさんに同感します。

議論の質の違い、と云うのもあると思っていて。最終的にベタに落とし込むことを目的とした議論なのかどうか、と云う点で。

前に書いた気がしますけれど、ある程度メタな視点から考えないとそもそも議論不可能な事柄もたくさんあると思うんです(すべての要素を考慮しながら進めようとしても、重み付けの時点で手間取ってしまって議論の開始にさえ至らないこともありうるでしょう)。そういう場合に、おっしゃるようにメタな視点と云うのは「出発点」としてとても有効でしょう。

でも、それをベタに下ろしてこないと、議論の帰結が実効性を持ち得ない。場合によっては議論そのものがゲームに留まってしまいますよね。
それでいい場合もあるんでしょうけど、少なくともその場の議論がなんらかの実効性のある結論に向かうことを目的としているときには、メタなレイヤーから降りてこない(ベタへの視点を踏まえない)主張はあまり意味のないものとしてノイズ化してしまう可能性が高い、なんて考えます。

投稿: pooh | 2007年12月 4日 (火) 12:19

poohさん、今日は。

議論の質、あるいは層があるというのは、常に意識すべきですよね。メタぶった人の書いたものを読んだり、直接やり取りをした際に、その前提のずれを感じました。
ある意味では、メタにものを見るというのは、「当たり前」と考えるくらいの方が良くて、それをあまり、「レベルの高い認識」と考えてしまうと、まずいと思っています。メタな認識というのは、一般論であるから、色々な分野について適用出来て、それなりにものを言う事が可能ですから、「解った気になりやすい」。だから、その認識を得るのは「当然」として、早めに身に着けるべき事として捉え、それを前提にして、もっとクローズアップした視点からの議論なりに取り組んでいかなければならない、と考えます。そうで無いと、降りてこなく(こられなく)なってしまうので…。

投稿: TAKESAN | 2007年12月 4日 (火) 14:07

こんばんは。
TAKESANさんは「メタ」について時々書かれていますが、今回も大いに共感できる内容です。何と言うか「メタ的な視点を手に入れること」をゴールだと思っている人もいるような気がします。「メタな視点」って、気持ち良いんですよね。超越感覚というか、麻薬的な快感が得られるので、なかなかそこから戻ってこれなくなる。それは暗黒面というか「魔境」に近いようにも思います。
なので、意識してベタに引き戻すクセをつけておかなくては、とも思うんですが、個人的に最近はメタ的な議論「しか」振り回さない人達に対してかなり嫌悪感を抱いていますので、逆に自分がメタな視点を持ち難くなっているかも、と心配なのでした(笑)。

以下余談です。
喩えるなら、メタって「鳥の視点」ですよね。例えばスペースコロニーの中心軸付近は無重力なので、全く羽ばたかなくても悠々と浮遊している事が出来ます。そうした視点を一旦手に入れてしまうと、コロニーの壁に張り付いているところの「人々は、そこで子を生み、育て、そして死んでいった(永井一郎さんの声でお読みください)」なんて事は意識しなくなってしまうんでしょうね。

投稿: PseuDoctor | 2007年12月 4日 (火) 22:39

PseuDoctorさん、今晩は。

論文の読み方のコメントの方も、ありがとうございます。さりげなく、二重猛犬砲が入れてありましたね(笑)
余談ですが、私が初めて、プラセボや盲検法(こっちの説明は無かったかも…)を知ったのは、特命リサーチシリーズで、だったのですよね。観て、ほほー、と思ったのを、憶えています。

しかし、解りやすい文章をお書きになりますよね。あまりに見事なので、ちょっと唸ってしまいます。

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私が初めに「勉強しよう」と思い立った時に好んで読んでいた本で、メタとかホーリスムとか、そういうのが徹底的に説かれていたのですね。なので、とても思い入れがあって、また、それの重要性も、強く意識しています。
しかし、メタな視点を手に入れたと思い込んだ時点で、ベタな見方を、放棄とは言わないまでも、軽視する事があるのを、身をもって経験したのですよね。このブログに書いている、「こうなってはいけない」というのは、ほぼ、自身の経験を基にしています。

だから、時々、「自然科学の知識体系を身に着けるべき」だという事を、強調しています。身近の現象へ目を向ける見方、また、具体的で、誤魔化しが通用しない、精緻で巨大な体系ですから、そこを理解すると、おいそれとは、メタぶった物言いは、出来なくなると思います。

空を飛んでいると、気持ちが良いのかも知れません。私は飛んだ事はありませんが、一旦その気持ち良さを味わうと、ハマっちゃうのかも…。

投稿: TAKESAN | 2007年12月 4日 (火) 23:09

こんにちは、皆さん。少し私の場合の話を書きますね。

私は良くたとえ話をします。このたとえ話というのは、その時に問題になっていることとは全く異なる状況を描きながら、同時にその共通点を認識させようとする試みです。そうすることで、視点を一旦、その時に問題になっている事象から引き離して、俯瞰性を持たせたいという意識が私にはつねにあります。

例えば、ニセ科学批判をすると「それが科学的で無いと言うことを納得出来るまで説明してくれ」といった要請を感じて違和感を覚えたりするわけですね。その違和感を突き詰めて行ったときにできた話が「火事場で2階から助けを求める人に、たまたま行き会わせたハシゴを持つ人に『ハシゴを掛けるだけでなく、昇っていって助けおろせ』と要請する」という話でした。

こうやって、目の前の事象と異なる話をこさえることで視点を変えて見ることから、「じゃあ、どう考える」という「より意味のある」考えが出てくることを期待しているわけです。

投稿: 技術開発者 | 2007年12月 5日 (水) 08:27

おはようございます。
実は「メタ」とか「ベタ」とかよく分かっていない人間です。
類推するに、絵を描くときには良く似た方法をとっているのかなというところです。三次元の空間を二次元に変換するということは、情報としてこぼれ落ちるものが多数あります。
しかし、そのこぼれ落ちた情報をこぼれ落ちたままにするのか、それとも見えないけれども描き込もうとするのかで、圧倒的な違いが生まれます。
正面から見ているだけなら、舞台の書き割りが並んでいるだけでも空間に見えるかもしれませんが、ひとたび俯瞰するとそれが嘘っぱちであることがばれてしまいます。
絵の中で俯瞰するということは出来ないことですが、常に描く側は意識しておかないといけないと僕は思っています。
こういった視点からなされる芸術教育を大切にしてほしいなあと常々思っています。やっぱり「メタ」と「ベタ」ってよく分からないです。

投稿: corvo | 2007年12月 5日 (水) 09:47

技術開発者さん、今日は。

喩えを用いる事で、視点を相対化・俯瞰させ、一段高い所から考えるように導く、という進め方ですよね。大変よく解りますし、いつも参考になります。

異なった事柄間の共通性を考えようとすると、物事を一般化せざるを得ないですものね。巧みな方法だと思います。

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corvoさん、今日は。

改めて「メタとは何か」と考えると、なかなかに、難しい所がありますね。それ自体が、視点の取り方によって、相対的に変化していくものだとも、言えると思います。

喩えを用いるとすると、ある作品に接する際、その世界観にどっぷり浸かり、登場人物に感情移入する読み方がベタ、作者の意図を読んだり、他の作品との関係を類推したり、歴史的にどう位置付けられるかを考えたりするのがメタ、といった感じでしょうか。ニセ科学論の文脈では、科学史や科学哲学の概念を多用して一般論を展開するのがメタで、具体的な方法等を考えたりするのがベタ、といった所ですね。で、メタ論ばかりぶち、具体的な科学の営みを無視して「降りてこない」のを、私は「メタぶる」と表現しました。議論の階層のレベルを常にずらした物言いをされると、進みようが無いから、ネガティブな意味合いを込めて、そう書いた訳ですね。

ヘリコプターで、上空から森を眺めるのがメタ。降りて、木や動物を観察するのがベタ、とか。ベタ過ぎる見方をネガティブに表すのが、「木を見て森を見ず」、という言葉ですね。

投稿: TAKESAN | 2007年12月 5日 (水) 12:16

ちょっと余計な事を書いてみます。

たとえばここで、「じゃあ、あなたの見方はどうなの?」と問われるとします。
それは当然、メタであり、「絶対に間違えない意見」である、と言えます。つまり、引いた見方とクローズアップした見方の「両方」が必要と言っているのだから、間違えようが無い。これ自体がメタで、一般論なのですから。

なので、そういう風に議論が進むと、いくらでもメタな方向へ逃げていく事が出来て、やり取りが空虚なものになってしまう可能性があるのですね。いわゆる、負けないための方略。具体論に持っていかないと、そうなって、ほとんど無意味になるという。

自分はメタな事を言っているのだ、という自覚の表明は、自身がメタぶる可能性を意識しているという表明でもある訳ですけれど。

…と、メタメタメタに考えると、こういう訳の解らない文章になるんですねえ。

投稿: TAKESAN | 2007年12月 5日 (水) 12:36

こんばんは。
うまく説明できるかどうか解りませんが、私もcorvoさん向けにちょっと書かせてください。

「メタ」というのは「それ自身について述べる」というような意味です。ですから「メタ論理」といえば「論理について述べた論理」となります。でもこれじゃ全然解りませんね。
では芸術論でやってみましょう(素人なので芸術論の内容自体には突っ込まないでください)。例えば「良い絵とは何か」という話をするとします。ここで、皆が構図とか色使いについて議論していると、たまに「そもそも芸術とは何か」とか言い出す人がいますよね。それが「メタ的な物言い」といえるでしょう。

そういう人に「芸術とは何か?自らの中から抑えきれずに溢れ出すものを表現するのが芸術ではないのか?構図やら色使いやらに囚われ過ぎると、真に表現したいものを見失ってしまうぞ!」なんて言われると「なるほど!そうだったのか!」なんて思う人もいるかもしれません。
しかし気を付けなくてはいけないのは、このような「メタ的な視点」というのはとても大切なのですが、実は絵に詳しくなくても言えてしまう、という点です。もっと言えば、別に絵には全く詳しくないけれども、偉そうに威張りたい為に「メタ的な物言い」だけを覚えて悪用する人もいる、という事です。
ですから「芸術とは何か、自分が表現したいのは何か」という視点は常に必要なのですが、それを踏まえたうえで「では、それを表現する為にはどのような構図・色使いが適切なのか」という話に戻ってくるべきなのです。戻れなければ、現実には使えない議論になってしまいます。それが「ベタに戻ってくる」という事です。

ですから、いつも「芸術とは何ぞや」みたいなメタ的な議論ばっかりしている人がいたら、時々は「で、貴方は構図とか色使いについてはどう思うの?」と訊いたりして、ベタに引き戻してあげるべきでしょう。そして、そう言われたにも関わらず全くベタな話が出来ないようであれば、単に偉そうにしたいだけ(つまり「メタぶりっこ」)である可能性が高いですから、あまり真剣に相手をしてあげる価値は無いように思います。

投稿: PseuDoctor | 2007年12月 5日 (水) 22:32

PseuDoctorさん、今晩は。

心理学なんかだと、メタ認知ってありますね。「自分が何を考えているかを考える」、という感じかな。

▽▽▽引用▽▽▽
このような「メタ的な視点」というのはとても大切なのですが、実は絵に詳しくなくても言えてしまう、という点です。もっと言えば、別に絵には全く詳しくないけれども、偉そうに威張りたい為に「メタ的な物言い」だけを覚えて悪用する人もいる、という事です。
△△引用終了△△
ここは、凄く大切ですよね。まさに、私が主張したい所でもあります。何にでも適用出来てしまうから、メタに考えた事の無い人には凄さをアピール出来たりするのですよね。「賢さを思い知らせる」、と言うか。

投稿: TAKESAN | 2007年12月 5日 (水) 23:36

TAKESANさん、PseuDoctorさん、ありがとうございます。随分分かってきました。最初に僕が挙げた例は、どちらかというと「メタ・メタ」ですね。
得意分野である「絵画」で考えるのが分かりやすいのですが、絵を見るときに距離にの取り方によって、様々な楽しみ方があります。離れて見る、近づいて見る、斜めから見る、色々な表情を見せてくれます。中には近づいても、離れても印象が変わらない絵もあるのですが、それはとりあえず置いておきます。
離れた状態の絵姿や構図というのは、印刷物でもそれほど変わりはありません。実物であっても、画集であっても、メタ的な視点ではそれほど変わりはないと思います。
しかし、その絵の絵の具やタッチ、テクスチャを見たり感じたりしようとすると、本物の絵を見る経験に勝るものはありません。ここがベタ的視点と言えるでしょうか。僕の場合は、自分でも描くので、ある程度はどういった手順で描き、どんな絵の具を使っていて、どういった手の動きか、といったことが分かります。また、そういったことを観察することが楽しかったり、頭の中でイメージして追体験することも楽しみです。また、作家同士でそういった話をすることも、とても興味深いことです。
僕の絵の場合だと、虫のように対象の至近距離を這い回るように観察して、鳥のような視点で画面に描くという感じですね。

投稿: corvo | 2007年12月 5日 (水) 23:51

凄くシンプルに表現してしまうと、メタとは、「一般論」と言えるかも知れませんね。
っと、Wikipediaに、そのものずばり、「メタ」という項目がありました。全然気付かなかった…⇒http://ja.wikipedia.org/wiki/メタ

ネガティブな意味で、「評論家的」、と表現する事がありますね。具体的な事を解らないのに一般論ばかり語る、という感じでしょうか。これだと、イメージが捉えやすいですね。

投稿: TAKESAN | 2007年12月 5日 (水) 23:59

こんにちは、皆さん。最近何かで「『問題』と向き合う」という表現を読みまして、なるほどと思ったのです。

これだけ書いたら何のことか分からないと思うのですが、「悪徳商法と向き合う」という事と「悪徳商法『問題』と向き合う」という事のちがいは確かにあるわけです。

私は悪徳商法と向き合った時期があります。まさに一人一人の悪徳商法被害者の方の受けた被害と向き合いどのような解決法があるかを考え続けたわけですね。そんな中で世の中に怪しげな情報が蔓延して、さらにその蔓延自体を「まあ、良いじゃないか」と簡単に許容してしまう風潮が一つ一つの被害にかなり強い関連をしていることなども理解してニセ科学批判などに移ってきたわけです。つまりこの部分においては「悪徳商法『問題』と向き合った」結果としてのニセ科学批判であるわけです。

この個別と向き合う部分がベタであり、総合化された一般論として向き合う部分が「メタ」であるといえると思います。そして、その一般論からは、さらなる個別の解決法も出なくてはならないし、それが出ないなら「メタ化」する意味はないとも言えると思います。ずいぶん前に「どぶどろに落ちた人をどぶに漬かって押し上げる」みたいな話を書いたかも知れません。その意識のない一般化は実のところ何も生まないのかも知れないと思ったりします。

投稿: 技術開発者 | 2007年12月 6日 (木) 05:08

技術開発者さん、今日は。

一般論は、個別具体的な問題に適用したり、埋没しがちな視点を相対化するために有効に役立てるべきであって、それ自体を身に着けて満足してしまっては、ほとんど意味が無いのだろうと感じます。

 >「まあ、良いじゃないか」と簡単に許容し
 >てしまう風潮が
これが、ベタな見方を無視してしまったメタ、なのでしょうね。ニセ科学論でも、これに類似した主張が見られますね。ある意味で、メタさが足りない、とも言える気もしますけれども。

投稿: TAKESAN | 2007年12月 6日 (木) 11:50

こんばんは。
corvoさんや、ここを読まれている方々のお役に立てれば何よりです。

corvoさんの仰るように「視点の違い」を意識するのが大切ですね。そしてそれには「メタ」も「メタメタ」も「メタメタメタ」も、何重にも存在するわけです。
絵を描かれる例で言えば「虫の視点、人の視点、鳥の視点、神の視点」という風に喩える事ができますよね。つまり、一筆のタッチや絵具の盛り上がりに注目するのが「虫の視点」なら、全体の構成を考えるのが「人の視点」、描かれていないけれど存在する部分に注目するのが「鳥の視点」、描く動機や社会的背景にまで想いを馳せるのが「神の視点」とでもなるでしょうか。

そして大切なのは、これらの視点に優劣があるわけではなく、また相互に独立しているものでもなく、それぞれが絡み合っているという点でしょう。「メタであるほど優れている」ように誤解したり、メタな視点だけで完結させようとするのは間違っていると考えます。

投稿: PseuDoctor | 2007年12月 6日 (木) 22:47

PseuDoctorさん、今晩は。

 >「虫の視点、人の視点、鳥の視点、神の
 >視点」
これは、言い得て妙、ですね。一旦、物事を上から見渡す事を知ってしまうと、なかなかに、降りるのは難しくなるのかも知れません。

▽▽▽引用▽▽▽
そして大切なのは、これらの視点に優劣があるわけではなく、また相互に独立しているものでもなく、それぞれが絡み合っているという点でしょう。「メタであるほど優れている」ように誤解したり、メタな視点だけで完結させようとするのは間違っていると考えます。
△△引用終了△△
まさにここが、私も主張したかった事で、昨日のエントリーでも強調した所です。これについては、いくら強調しても、強調し過ぎる事は無い、と思います。

投稿: TAKESAN | 2007年12月 6日 (木) 23:43

みなさま、こんにちは。
激しく共感しながら読ませていただきました。
「メタであるほど優れている」という誤解って、ありがちですよね。最初はベタしか持ち合わせがないので、それを詳細化・緻密化する方に向きがちですよね。そこで、方向を変えて上に一段上がれると、万能感が得られて、なんだか完成したように思えるのでしょうね。
しかし、みなさんおっしゃるようにメタもベタも両方とも必要な別の視点という話であって、どっちが上ってことではないですよね(というか、メタとベタというだけでは言い尽くせないさまざまな視点があるわけですが)。
また、ぼくは10代後半に「SFとメタSF」とか「フィクションとメタ・フィクション」というような文脈で「メタ」という概念と出会ったんです。ですから、PseuDoctorさんが書いておいでの「神の視点」は、特にメタの魅力をよく表している言葉だなあ、と感じます。

最近、よくわからなくなっていることに「上から目線」があります。高いところから人を見下して、ものを教えるような論調のことだと思っていたのですが、そうとも思えない文章に対しても「上から目線なところがいやだ」という意見があったりして。あれはひょっとすると「メタぶってる」とか「当事者感覚がなさすぎ」とか、そういう意味だったのかなあ。

投稿: 亀@渋研X | 2007年12月 7日 (金) 08:57

皆さん、こんばんは。どうもありがとうございます。勉強になります。
>「虫の視点、人の視点、鳥の視点、神の視点」
これはとても分かりやすいです。芸術に携わる人間でありながら「神の視点」がすっかり抜け落ちていました。
僕のそもそもの疑問は、「メタ」と「ベタ」というふうに分けて考える事に対する違和感でした。絵画など何かを表現するときには、どちらか一方では成立しえません。ごく自然にどちらの視点も持つことになります。そこから一歩踏み込んだ表現になってくると、「メタ」、「メタメタ」、「メタメタメタ」といったことが表出してくるのかもしれません。
だからこそ、芸術教育は大事なのだよ、と我田引水してしまうのですが。

投稿: corvo | 2007年12月 8日 (土) 02:42

亀@渋研Xさんへのレスが抜けていました。すみません…。

メタというのは、ある意味で、「見なくて済む」事が出来るのですよね。結局一般論で、それは色んな事に適用出来るから、具体的に知らなくても、解った風な意見を言えてしまう。

上から目線って、普通は傲慢な態度とかを示す言葉ですが、確かに、メタぶった様な態度に対しても、使うかも知れませんね。よく知らないのに、とか、そんな感じで。

科学者とか、「上から目線な人達」ってステレオタイプを懐かれているような気もします…。

------

corvoさん、今晩は。

たとえば、社会学者なんかで、データを集めて実証的な方法で、というのでは無くて、思弁を巡らせて好き勝手にものを言い、解った風な態度でいる、というのが見られる場合があるのですね。データも無しに社会分析の様な事をするという。「それっぽい言葉」を貼りあわせて、いかにも「自分は解っているのだ」と思わせるやり方。
ちょっと前に言及した論宅さんなんかが、そういう典型です。「メタぶる」というのは、そういう主張なりを表現するために考えました。

メタという観点自体は、凄く大切なのですよね。私は武術に関心を持ってきたのですが、その過程で、どの武術が最強か、とか、やっぱりそういう事を考えるのですね。そうすると、一段高い所に立って考えないと、埋没してしまって、まさに、木を見て森を見ず、の状態になってしまいます。ですから、ものを相対化して見る事を意識せざるを得ない所がありました。

料理でたとえると、○○料理が一番優れているのだ、と言うのが、ベタ過ぎな見方。漫画とかで手に入れた知識を基にして、表面的で中身の無いような事を言い、「知ったかぶる」のが、メタぶる。といった感じでしょうか。知ったかぶるというのは、自分もちょくちょくやっちゃいますけどね…。

投稿: TAKESAN | 2007年12月 8日 (土) 04:16

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