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2007年12月28日 (金)

分けて考えてみる

皆さんのご意見を、是非伺いたいです。批判歓迎。

私は、「ニセ科学」には、「一般の多くの人が”科学的”だと誤解する知識」と、「誰か主唱者がいる、科学を装った」言説の、二つを考える事が出来るのではないかと思いました。

まず後者から。

これは、たとえば、ゲーム脳や水伝など、ある主唱者がいて、著作や講演などで、自説を開陳している場合です。当然これは、その言説を評価すれば良い。もちろん、実際に被害が出ているかどうか、というのは、考慮する必要は無い(それは、批判対象として採り上げる際の根拠、と考えるのが妥当)。つまり、科学の方法によって実証されていないにも拘わらず、それがなされたかの如く主張している訳ですから、それだけで、「ニセ科学」と判断される事になる。また、学術的専門概念を、本来の定義を無視して誤用する言説なども、対象となるでしょう。

次は前者。

これは、多くの人に、「科学的根拠がある」と思われているにも拘わらず、実はそういった事実は無い知識、といった所でしょうか。

これは、初めには、誰か科学者なりが主張したのかも知れないが、それが社会に広まった結果、常識的な知識として、かつ、「科学的に根拠があるもの」だと誤認されている、というものです。一般に浸透したもの、ですね。

この場合には、当然、「一般の人が思う”科学的”」とはどういう事か、などが、問題になってくるでしょう。また、「多くの人が誤解する」、という主張が妥当である事を示すには、定量的に評価なされなければならないでしょう。ここでは、心理社会的な観点が必要とされます。端的に言って、非常に難しい。

さて、これらを踏まえて。

ニセ科学を批判する人、また、その活動そのものを批判する人の両方に、何かを「ニセ科学」と判断する場合に、「社会一般に、科学的であると誤認されている」事が、必要条件だと看做している人が、いるように思われます。

論理的に言えば、”ある程度の科学的知識の理解を前提としているが、実は科学的には妥当では無い、人口に膾炙した「俗説」”も、”誰か主唱者がいて、科学的に実証されたと「言い張っている」説”も、両方が(もちろん、排反するものでは無い)、「ニセ科学」と考えられると思いますが、そこを踏まえずに、後者をニセ科学だと判断する人に対して、「いや、社会一般に誤認されていないではないか」、と反論したりする、というのがあるのではないかと。

ごくシンプルに纏めると。

・科学的で無いが科学を装っているものが、ニセ科学

・主唱者がいるものは、著作なりを参照し、それを現代科学の基準に照らせば、判断は、比較的容易。科学的概念を誤用したり、「実証・検証された」と言ったり、実験を行った、などが主張されているのを指摘すれば良いのだから。

・科学的に検証されていないが、社会一般に科学的であると誤認されている説、の場合には、その立証は難しい。多くの人が、という所は、量的な評価だから、調査なりを行うべきだし、「科学的だと誤認する」というのがどういう事か、というのも問題になる。

・もちろん、両方を満たす説もあるだろう。

・「ニセ科学である」と判断する事そのものには、多くの人に広まっているとか、実害が出ているか、というのは、考慮する必要は無い。

と、こんな感じでしょうか。

こう考えると、多少すっきりするようにも思いますが、どんなものでしょう。文そのものが解りにくいという突っ込みが入りそうですが、私もまだ整理し切れていないので、コメントなりでご指摘頂ければ、ありがたいです。

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コメント

だいぶご無沙汰しておりました。
さて読んで気になったのですが、「一般の多くの人が”科学的”だと誤解する知識」と言う文面では、TAKESENさんご自身もおっしゃってますが、素直に〔”科学的根拠がある”と誤解する知識〕でよろしいのではないでしょうか。
「科学的」という語だけではそれこそ範囲が広がりすぎる気がします。

ちなみに私が追いかけているものでは、「科学的だと誤認する」という事は、「『○○さんの説は本当なのだ』と信じてしまう」という事に当てはまりますね。

投稿: OSATO | 2007年12月28日 (金) 02:07

すみません、打ち間違えました。「TAKESEN」ではなく「TAKESAN」でした。
大変失礼致しました(汗)m(_ _)m。

投稿: OSATO | 2007年12月28日 (金) 02:13

OSATOさん、今晩は。

ご指摘の部分は、なかなか難しい所でして、私は、「”科学的である”と誤解する」のと、「”科学的根拠がある”と誤解する」のは、一応別に考えるのが良いのではないかと思っています。「根拠があると誤解」する、という事は、ある程度、「意識している」のを意味しますよね。大学なりの研究機関による実証とかに、思いを馳せている、と言うか。それを「一般の人」と呼んでいいものか、という風にも考えます。
それに対して、私が書いた所の「科学的であると誤解する」という部分は、必ずしも科学という概念を意識しない、というのを想定しています。科学的知識と「常識」との関係、と言うか。現代社会では、科学によって見出された知識が一般に浸透し、「常識」を形成している訳ですよね。そこでは必ずしも、科学という文化的な営みを、意識させるものでは無いのではないかな、と。

結局の所、何かの説を吟味する際に、「科学的根拠を意識する」ような「科学的な人」がどれくらいいるか、という事になるかと。

すみません、この話題の関連エントリーとコメントでは、特に文章がごちゃごちゃしてしまっていますね。

投稿: TAKESAN | 2007年12月28日 (金) 03:01

 必要に応じて分けて考えるのがいいと思います。ひとまず、TAKESANの言うように分けて考えた上で、文脈によって分ける必要があるかないかを考えると。

-----

 おそらく、私達が「これぐらいだと普通の人が科学的だと誤解してしまう」と思う基準というのは、かなりはっきりと科学的根拠然とした話を出している状態だと思います。

 そこら辺の意識の違いが、私とapjさんの「温泉の効能書きはニセ科学か?」という問題に対する見解の違いに表れていると考えています。

 で、それについて具体的な基準を提示したのが、apjさんのニセ科学の定義エントリですよね。「例えば、公正取引委員会がどのような表示を優良誤認と判断したか、薬事法でどんな表示を規制しているか、といったものになる。」といったように、基準として法律で使っているようなものを想定しようと。私もこれに賛成です。

 私は、この「温泉の効能書きはニセ科学か?」というのは、他の人が考えているよりも、いいサンプルケースだと考えています。だから拘っているのですが、スルーされる傾向で寂しい。

投稿: newKamer | 2007年12月28日 (金) 11:44

newKamerさん、今日は。

あ、そうか。

なるほど、確かに、温泉の効能書きは、大変興味深い事例になる訳ですね。
温泉の場合には、私が分けたものの両方を兼ね備えている、とも言えるかも知れません。一般の人は、漠然と、温泉が健康に良いという信念を持っている。そしてそれは、「科学的」である事を前提としている。何故なら、効用書きで、なんちゃらという成分がなんとかいう病気や症状に効く、と謳っているからである。

ここでは(※すみません、newKamerさんのご意見を例としてお借りします。この文脈だと、その方が書きやすいので。私は温泉についての知識に乏しいので、それがニセ科学的であるかどうかは解っていません。)、

温泉の効能書きが、主唱者の著作や発言に当たるもので、
「効能書きを信用する事」が、OSATOさんが仰る「”科学的根拠がある”と誤解する」事に当たり、
そして、漫然と「温泉は健康に良い」と考えているのが、私の言う、「一般の多くの人が”科学的”だと誤解」している知識、
であると、整理出来るでしょうか。

 >だから拘っているのですが、スルーされる
 >傾向で寂しい。
確かに、興味深い対象ですね。私は、一連のエントリーは、血液型性格判断を意識して書いていたのですが(kikulogで、ずっとやってますしね)、温泉の例の方が、すっきり理解しやすいかもです。
(あ、温泉の件、SSFSさんは、スルーしていないみたいですね。ちゃんとは読んでいないですが。あの方、yahoo!掲示板でも暴れてますね。いい加減にすれば良いのに。)

ありがとうございます。お陰様で、認識の整理が進んだ気がします>OSATOさん、newKamerさん

投稿: TAKESAN | 2007年12月28日 (金) 12:30

こんにちは。

広まっているとか、実害が出ているとかは、ニセ科学かどうかの判断を開始するかどうかの基準であって、ニセ科学かどうかの判断基準とは関係がないと思います。

また、ニセ科学かどうかを考える始める基準は、個人(または社会)の事情によると思います。危機意識とか、コストとか。

なので、「ニセ科学批判」にとって有用な「ニセ科学批判批判」のやり方のひとつとして、コストの話をすること、と言えるかなと思います。

投稿: A-WING | 2007年12月28日 (金) 12:47

A-WINGさん、今日は。

そうだと思います。前にも書いたように、被害や影響の評価というのは、「批判対象として採り上げる」動機の一因、と言えるかと思います。

たとえば、私はゲーム脳を積極的に批判している訳ですが、これはもちろん、かならずしも「広まっているから」では無く、教育に関連する組織などが森氏の講演を主催したりしている事が、質的に重大である、という理由からです。尤も、マスメディアが肯定的に紹介したという事実から、ある程度流布されているだろう、という、量的な評価に関する推測もしています。
ここら辺の切り分けをせずに、批判活動を批判する人が、時折見られる訳ですね。

当然、「ゲーム脳はニセ科学である」と判断する事そのものには、科学的方法に則っているか、などに照らせば、比較的容易に言えるし、そこには、情報の流布の程度は、条件としては必要無い、と言えます。

あれなんですよね。被害をどのように予見するか、というのは、とても難しい。取るに足らないものだ、と静観していたら、とんでもない事になる事もある。A-WINGさんもそうだと思うのですが、私は、ゲーム脳に対しての業界の黙りっぷりと、その後のゲーム脳系の採り上げられ方を見て、それを痛感しました。ゲイムマンさんのような業界関係者は、まさに稀有の存在だった訳で。もしゲイムマンさんが批判活動を行っていなければ、と思うと…。

投稿: TAKESAN | 2007年12月28日 (金) 13:03

ここと関連するかも知れないので、過去のエントリーを貼っておきます⇒http://seisin-isiki-karada.cocolog-nifty.com/blog/2007/03/post_6e2a.html

今読むと、論理展開が甘い所もあるような気もするけれど、基本的な主張は、変わっていないかな。

投稿: TAKESAN | 2007年12月28日 (金) 13:46

newKamerさん
TAKESANさん

個人的には「温泉」の場合は、「ニセ科学」というより「漢方薬」に近い扱いが良いと思っています。

突き詰めれば「温泉」は科学の手続きを踏んではいないケースが多い(ほとんど?)と思いますが、効果については民間伝承などもあるでしょうし、科学を詐称しているというより口コミのようなものが広がったと解釈したほうがいい気がします。

なにより日本人は温泉好きが多いと思いますので、現段階で「温泉はニセ科学」といってしまうと、一気に「敵」を増やしそうです。

世の中に「ニセ科学」という言葉が認知されるまでは、「ニセ科学」という言葉を聞き慣れている人たちの間でこっそりと「温泉の効能書きもニセ科学だよね」といっておく位が無難かと。

投稿: Noe | 2007年12月28日 (金) 15:20

 温泉の効果は口コミのようなものという意見についてですが、私がニセ科学だと判断しているのは"表示されている"効能書きのことです。

 なぜ、温泉は薬でも医者でもないのに効能を書ける(効果があるという主張ができる)かといえば、「環境庁自然保護局長発(昭和57年5月25日)環自施第227号」というお墨付きがあるからと考えて問題ないはずです。これは、温泉の成分と、それに対して表示して良い効能をリスト化したものです。

 私は、このリストがそもそも科学を装ったもの(なぜならば、臨床的な実験を根拠に成立したものではないにも関わらず、効能を主張しているから)だと考えているわけです。結果として、温泉の効能書きがニセ科学になっているという主張です。

 「民間伝承のようなものだから批判したり、問題にするまでもない」という意見ならば、そういう考え方もあるだろうと思いますが、「ニセ科学ではない」という主張には、違和感を感じるというわけです。

投稿: newKamer | 2007年12月28日 (金) 17:27

 一応、おさらいとして書いておくと「ニセ科学」の定義は以下ということで進めます。温泉の効能書きが科学でないというのは、臨床試験をクリアして決められたわけではないので、ちゃんと満たしています。今回の話は1)についてですね。

1) 科学を装う
2) 科学でない

 最初に、あるある大辞典の捏造問題を思い出してみるといいかもしれません。

 納豆が「~という効果が期待できるかもしれない」という根拠を元に、科学の雰囲気を漂わせる用語を用い「~に効果アリ!」と主張していたら(していましたが)、この問題に関わっている人ならば、誰だってニセ科学だと判断するだろうと思います。そして、未来の研究で、本当に効果があるということが判明したとしても、現時点でのニセ科学性には関係ないと言うでしょう。

 温泉の効能書きも全く同じ構造を持っているというのが私の主張です。効能書きには効果の根拠となる成分が書いてあり、この成分に対して書いてよい効能が決まっており、実際に書かれています。

もちろん違うところもあります。
1. 温泉の効能の話には歴史があり、昔は科学的根拠ではなく、俗説として信じられていた。(納豆の効果は、あるある自体が作ったものだ)
2. 効能書きが暴走し始めた(ガンに効果的!など)
3. 効能書きの規制の意味で、書いてもいい効能が限定された。それが今のリストの起源。
など

 こう考えてみたときに、温泉の効能書きがニセ科学の定義(科学を装う)から外れるための条件を満たす違いはあるか?ということです。

 私は1.が、その条件になりうる可能性があるというapjさんの意見(明確にそう主張されたわけではないのでこう書いちゃうのもどうかと思いますが)は一理あるかと思わなくもないですが、3.がそれを打ち消して余りあると考えています。

投稿: newKamer | 2007年12月28日 (金) 17:56

Noeさん、今晩は。

>Noeさん、newKamerさん

私の見る所、お二人のご意見は、特に矛盾する事も無く、視点が異なっているのではないか、と感じました。
Noeさんのご意見は、どちらかと言えば、戦略的(この語を用いるのが良いかは判りませが)なもので、あまりにも一般に普及した温泉について、それをニセ科学と言ってしまうと、逆効果(「ニセ科学」という概念に対する印象形成において)の場合がある、という主張に見受けられました。もちろん、温泉の効能書きのニセ科学性を否定しておられる訳では無いですよね。

私は、ここら辺の知識には疎いので、一般的な事しか語れませんけれど、もし、効能書きが、明らかな効用を謳っていて、かつ、それが臨床的に確認されていなければ、それは、ニセ科学と判断して良いのだろうと思います。私としては、今の所は、このくらいしか、主張は出来ないですね。

投稿: TAKESAN | 2007年12月28日 (金) 18:59

 最近、私は自分のblogで、「装う」について、

通常人の常識で見ると科学(あるいは科学的根拠がある)と誤認することがある、という程度で足りる。

のように絞り込んで考えています。この書き方は、法解釈学的なものです。これでいくとすると、温泉はグレーゾーンになりそうです。本当にケースバイケースで考えるしかない。

 つまり、温泉は、科学的に調べる云々ということをみんなが考え始める前からなにがしかの効果を謳っていたし、成分表示は分析という方法がポピュラーになってからの後付けの面があるわけです。
 効能書きがなにがしかの効果を謳っていて、その効果の表示の仕方が従来から(=科学的に調べることが一般化する前から)受け入れられてきた範囲を逸脱し、その逸脱した部分について、臨床的に確認されている等の科学的根拠があると誤認させるものであるならば、ニセ科学と判断する、といった具合になりそうに思います。
 つまり、一応効能書きはあって、効いた人も口コミレベルでは居るけど、臨床試験までやっているとはそもそも思われていない、昔から俗説扱いだった、という状況が生じうるわけです。その場合の効能書きの意味は、他のものにくっついた時とは受け止められ方が違ってくるはずです。

投稿: apj | 2007年12月28日 (金) 20:42

 なお、温泉については「明らかにネタ」という場合もありますので……。日本じゃなくて韓国の釜山の近くの温泉場の場合ですが。
・哲学の湯←気むずかしそうな哲学者らしい爺さんの像の口から湯が出て湯船に注いでいるだけ。
・情報の湯←湯船の脇に防水のTVがあって見ながら湯に浸かれる。
・野生の湯←何か動物の像の口から湯が出ているだけ。
・森林浴の湯←湯船のまわりが檜の板で覆われているだけ。
とまあ、全てがこの調子の所に「発狂した時に効く」とか効能書きが書いてあったって、一体誰が本気にするのかと……。

投稿: apj | 2007年12月28日 (金) 20:52

私は皆さんの様に専門知識を持ち合わせている訳でもなく、「ニセ科学」に注目したのもつい最近の新参者で、その意味通りの「市井の人」(^^)です。ですから私の意見は、あくまで一般人からの視点に基づいたものと思って聞いていただければと思います。
その事をご理解いただきまして、温泉の効能書きについて私が感ずる事など。

効能書きに書かれている内容は大抵「打ち身・擦り傷・リウマチ・皮膚疾患」などなど、どこも皆似たり寄ったりです。
でも温泉に行った時など、あの効能書きがあって初めて「ああ、ここは温泉なんだなあ(或いは「温泉に来たなあ」)」などと思ったりします。逆に効能書きがなかったりすると何か物足りなさを感じます。

つまり私は「温泉」と「効能書き」とは〔セット〕として認識しているのです。その中身の科学的根拠などは考えた事もありません。
つまるところ、一般の人達にとっては効能書きとは温泉の【看板】というだけの意識なのではないでしょうか。それがあって初めて温泉「らしさ」を実感出来るツールとしての役割、それが効能書きであると私は思っております。

勿論中にはその効能を信じて、治療のために通っている人もいるでしょうが、それはあくまで例外なのではないでしょうか。

結局一般の人にとっての効能書きとは、温泉らしさを演出するための看板(「飾り」と言ってもいいです)としての認識でしかないと私は思います。

ただ、中には確かに「?」と思われる説明を見る事もあります。
曰く「この石からは遠赤外線が放出され云々」など。
つまり、今まで「看板」として認識してきた文面(効能の羅列)とは明らかに違った書き方や内容が書かれていて、
「ほう、こんな効果があるのか!」とか
「へえ? 知らなかった」
などと思わせる様な効能書き(つまり「”科学的な根拠がある”と思わせる」記述ですね)などは「ニセ科学」の【対象】になるかと思います。

温泉の効能書きについては確かに難しい(と言うより、微妙な)問題ですね。私はやはり、apjさんの仰る通りケースバイケースではないかと思います(と言っても、WEBサイトの広告の内容については、大いに批判されるべきだと思います)。

投稿: OSATO | 2007年12月28日 (金) 22:58

apjさん、今晩は。

まさにグレーゾーンであり、個別に考える必要がある、という事ですね。
実際、ある対象を採り上げて、それについて、多くの人が、科学的根拠があると誤認している、という所を評価するのは、法的な観点が重要になってくるのでしょうね。また、広く社会学的な問題でもあるように思います。

皆さんのお話を伺うと、論理的には、一口に効用書きと言っても、実は、白から黒にバラついている、というように感じます。

一般の多くの人が科学的だと信じるか、というのは、社会の平均的な科学的リテラシーのレベルにも、関わってくるものですよね。そこら辺をどう考えるかが、難しいようにも思います。

------

>OSATOさん

いや、私も思い切り、「市井の人」です(笑)

私が思うのは(この一連のエントリーを書くきっかけでもありますが)、「効用書きそのもの」を対象とするなら、それ自体を評価し、科学的に妥当であるかを確かめる。「多くの人が科学的だと信じているか」、というのを問題とするなら、それは、量的な評価をすべきである、という事ですね。効用書きそのものを評価する場合には、黒に近いグレーは、科学的にも法的にも、比較的、判断はしやすいように思います。対して、科学的には黒と言い切れないグレーゾーン的な説明がなされており、一般の人が過度に信頼しているかも、という場合には、また別の視点が必要になるのだと考えています。

温泉の効用書きについては、一般的にそれがニセ科学である、と言う事は出来ないけれど(社会に浸透したものだし)、個別に見ていけば、黒に近いものも見られる可能性がある、といった所でしょうか。
「効用書き」という概念の広さも考慮するべきなのかも知れませんね。論理的には、数多ある温泉で掲げてあるものが含まれる訳で、その内容には、かなりバラつきがありそうにも思います。

投稿: TAKESAN | 2007年12月28日 (金) 23:35

>一般の多くの人が”科学的”だと誤解する知識」

詐欺師の言い訳「相手が勝手に誤解した。私はそんなこと言ってない。証拠でもあるの?」
騙されたT「証拠集めは大変。もう面倒だ。わたしさえ我慢すればいい。被害が広がろうと知ったことか」


>「いや、社会一般に誤認されていないではないか」

T「いやそれ騙されているのに気づいてないだけだから。勉強を怠って、正しい科学の知識が不足している人がいるから、こうやって注意喚起してるの。」


>科学的に検証されていないが、社会一般に科学的であると誤認されている説

T「十二支は迷信らしいけど、テレビやマスコミもみんな使ってるし、まあいいか?みたいな?」「と思ったら丙午に騙された。人生返せ!」

何も疑問に思わず、調べもせず、騙されても泣き寝入りしているかぎり、詐欺師と迷信は大手を振って世を渡り歩く。

とりあえずこんな所です。

投稿: TAKA | 2007年12月28日 (金) 23:38

newKamerさん、こんばんは。
>スルーされる傾向で寂しい。

しかたないですよ。他のニセ科学と比べるとほのぼのした印象ですし。
全国の温泉で多くの人が健康被害を訴えれば、注目して検討する人も出てきますよ。
ちなみに私は「熱い」風呂と犬が好き。(分かった貴方。ある意味仲間です)

投稿: TAKA | 2007年12月28日 (金) 23:57

そういう感じですね。

迷信についてはどう捉えるか、とういのは、難しいかも知れません。

投稿: TAKESAN | 2007年12月29日 (土) 00:02

apjさんの二番目のコメントにある、韓国の例に、噴きました(笑)

投稿: TAKESAN | 2007年12月29日 (土) 00:04

 OSATOさん、
 私も同じような認識です。
 ですから、例えば、
「この温泉は○○年頃に発見され、以来、××地方を中心に親しまれ、……××年には○○さん(歴史上有名な人物)も湯治に訪れ……云々。次の症状の方にお薦めします:打ち身・擦り傷・リウマチ・皮膚疾患。成分はアルカリ性で……湯上がりにはシャワーを……」てな具合ならば、温泉の看板の定番の書き方として認知されている範囲なので、効能が書いてあっても、臨床試験を伴う程度の科学的根拠があると誤認する人はいないでしょう。どこの温泉にでもある看板としてのアレ、という扱いになりそうです。
 ところが、
「この温泉は、高温の○○度のものは遠赤外線効果で打ち身やリウマチに効きます。湯船の××石がさらにその効果を増大させます。低温の××度の方からはマイナスイオンが出ていて、リラックス効果があるとともに擦り傷や皮膚疾患に効果があります」などと書かれていたら、ちょっと待てぇ、となるでしょう。

投稿: apj | 2007年12月29日 (土) 00:05

TAKAさん、はじめまして。
>ほのぼのした印象ですし。

いやそう言ってしまってはミもフタもないかと(^_^;)。

私が怖いと思うのは、意外とそういう中にいつのまにか浸透してきている状態というのを危惧してる訳でして。

投稿: OSATO | 2007年12月29日 (土) 00:09

TAKESANさん
>教育に関連する組織などが森氏の講演を主催したりしている

この文を読んだ瞬間、腹が立ってきました。というのも、今まで実感していなかったのです。
TAKESANさんとこに初めてお邪魔した時は、「ああ、そんな事があるのね」という感じでした。
そんな話、おかしいですよ。絶対間違っています。

>それを痛感しました

伝わってきます。定着してからでは遅いんですけどね。波風立てたくないというか、負い目を感じて静かにしているのかな。

投稿: TAKA | 2007年12月29日 (土) 00:30

OSATOさん、はじめまして。
>いつのまにか浸透してきている状態

そうなのです。私の場合、「時間の無駄」に気づくのが遅いのです。金銭被害、健康被害に比べると。
「安易に受け入れない。知らない事は常に調べて考える。」という癖をつける事が大切ですね。

投稿: TAKA | 2007年12月29日 (土) 00:41

「科学的に検証されていないが、社会一般に科学的であると誤認されている説」については、ニセ科学とよくある間違いの区別はできるのでしょうか。私は区別できる(ただし、グレーゾーンは当然ある)ような気がするですがどうでしょう。

たとえば、不完全性定理を人間の知性の何かに対する優越性の根拠にこじつける類いはニセ科学、不完全性定理の「完全」と完全性定理の「完全」を混同して妙なことをいっている(cf http://taurus.ics.nara-wu.ac.jp/staff/kamo/shohyo/logic-2.html )のはよくある間違いと区別できるような気もしますが、迷惑さは一緒なので区別する必要がないような気もします。でも、被害はニセ科学性の要件ではないのだから、迷惑さが一緒なのは関係ないか。よくわかりません。

線引き問題はたぶん関係ありません。

投稿: かも ひろやす | 2007年12月29日 (土) 03:54

ちょっと気になったのですが、温泉のニセ科学性を語るときに、「温泉は」という表現を用いるのは、慎重になるべきかと思います。
なぜなら、「温泉は」という表現は、「ゲーム脳」での「ゲームは」と、同じレベルの曖昧さを持っていると思うからです。

もっとも、個別の温泉についてニセ科学かどうかを語ると、いろいろと大人の事情が絡みそうなので、アレですけども。

投稿: A-WING | 2007年12月29日 (土) 11:55

皆さん、今日は。

>apjさん

効能書きって、メディアですよね(←誤用かな…)。そこに何が書かれてあるかは、もしかすると、全体的に共通するものがあるかも知れないし、個別に見ていくと、かなり広がっているかも知れない。下にA-WINGさんがお書きのように、語の意味内容を考慮すべきかも。

------

>TAKAさん、OSATOさん

いつのまにか浸透、というのは、私がまさに、ゲーム脳の流布において、感じた事です。事前にどの程度広まるか、とかは、評価が難しいのですよね。だから、気付いた人が、個別の動機で批判するのも重要なんだと思います。

------

かも ひろやすさん、今日は。

私は、
▽▽▽引用▽▽▽
「科学的に検証されていないが、社会一般に科学的であると誤認されている説」
△△引用終了△△
これについて、たとえば、最近メディアに採り上げられた、これを念頭において書きました⇒http://www.asahi.com/science/update/1224/TKY200712240119.html

ご紹介の、「よくある間違い」については、主張の仕方によって、ある程度区別がつくでしょうか。でも、定義からすると、ニセ科学としても差し支え無い気もします。うーん、どうなんだろう…。

------

A-WINGさん、今日は。

そうですね。語の持つ意味の広さを考える必要がありますね。

ゲーム脳概念の一番問題な所は、「ゲーム」脳という語の構成なんですよね…。

投稿: TAKESAN | 2007年12月29日 (土) 12:27

TAKESANさん、みなさんこんにちは
脇筋ですが。

>たとえば、最近メディアに採り上げられた、これを念頭において書きました>⇒http://www.asahi.com/science/update/1224/TKY200712240119.html

その元記事ではないかと思われる記事が、ネットで見られるようです。British Medical Journalのブログみたいなサイトです。

Medical myths
http://www.bmj.com/cgi/content/short/335/7633/1288

ぼくも、こういう都市伝説みたいなものでも、世間の人って「えっ、裏付けとかのある話じゃなかったの?」だと思うんですよ。別に、はっきりと「科学的な裏付けがあるんだろう」と考えていたわけではなくても。いや、ぼくがそう思っちゃうってだけかもしれませんが。

投稿: 亀@渋研X | 2007年12月29日 (土) 13:13

亀@渋研Xさん、今日は。

▽▽▽引用▽▽▽
世間の人って「えっ、裏付けとかのある話じゃなかったの?」だと思うんですよ。別に、はっきりと「科学的な裏付けがあるんだろう」と考えていたわけではなくても。
△△引用終了△△
私が一連のエントリーで、常に念頭に置いているのが、ここです。世間での捉えられ方、受け取られ方を考えると、ここら辺が問題となると思います。だから、基本的には、科学的であるか否かは、科学者集団の共通了解を基盤にして、言説そのものを判断する必要がある、と考えています。そして、世間の人、とか、一般の人が、というのを論ずる場合には、「世間の人が科学的だと認識するとはどういう事か」、や、「世間の人が科学的根拠があると誤謬するというのはどういう意味か」、という所を考慮しなくてはならない、という。

投稿: TAKESAN | 2007年12月29日 (土) 13:29

ふと思ったのですが。
偽りの記憶に関する論争も、この議論での、良い題材になるかも知れませんね。

投稿: TAKESAN | 2007年12月29日 (土) 13:34

テクノラティで検索してたら、こういうエントリーが(論宅さんの所)⇒http://mercamun.exblog.jp/7894989/

この手の批判が出ると思ったので、私は、このエントリーを書いた訳ですね。

相も変わらず、って感じ。

投稿: TAKESAN | 2008年1月 4日 (金) 12:42

あけましておめでとうございます
旧年中は大変お世話になりました。
本年も宜しくお願い申し上げ奉り、痛っ、舌噛んだ。

んーと、上記のリンク先を拝見して、ニセ科学の定義そのものについて、「どんなんが一般の人かわからん」とか「科学だと誤解させるとかさせないって、社会調査がないからわからん」とか混ぜっ返すばかりの人たちは、ひょっとすると蓋然性とかってもんを理解できないか、想定できてないか、無視しているってことなんではないか、なんて思いました。

もっとも、じゃあ「科学に関する専門教育を受けていない人の多くが、『科学的裏付けがある』であると誤解する蓋然性が高い言説」とか言い換えればいいのかというと、まあ自分でもよくわからないんですが。

投稿: 亀@渋研X | 2008年1月 4日 (金) 20:53

亀@渋研Xさん、あけおめです。
こちらこそ、昨年は、大変お世話になりました。
今年もよろしくです。

っと、ちょっと長くなったので、エントリーを上げますね。結構すっきり纏まった気もします。ニセ科学批判者に向けての問い掛けも、してみようと思っています。

投稿: TAKESAN | 2008年1月 4日 (金) 22:42

後藤さんが用いた「ニセ科学」という語、用法は妥当か否か。
その内、議論になるかも知れません。

鍵は、宮台氏の言説の分析でしょうね。論証は、他の分野よりも、難しいかも。

apjさんの所にも書きましたが、私は、ある対象を「ニセ科学」と表現する時、かなり慎重です。分野によっては、かなりややこしい話にもなるので。
そこら辺を念頭に置いているので、このエントリーを立てたのですけれど。

投稿: TAKESAN | 2008年1月18日 (金) 15:48

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