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2007年12月26日 (水)

メモ:ニセ科学の定義とか

ニセ科学の定義と判定について考える :: 事象の地平線::---Event Horizon---

熟読玩味の事。

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触発されて、ちょっと考えてみた。以下、走り書き。相当カオス。青文字は補足。apjさんが書かれている事とは ずれてくる所もあると思う。

「ニセブランド品」の喩えをお借りします。

ニセ科学について論じる際、「出す側」と「出回り方」の、二つの視点があるように思った。

つまり、売る側賛同者、流布する人達が、ブランド品であると謳って科学的であると主張する販売するか。この場合、解っていて売る場合←故意と、信じ込んで売る場合←確信がある。大元には、「作る」立場の人間←主唱者。新奇の説の提唱者なりがある。

「出回り方」、もしくは、「受け取り方」。ちょっとアナロジーが不正確になるが、そのまま続ける。

「ニセブランド品」を、「ブランド品と信じ込んで」買ったり使用したりしているか。←科学的と感じているか。受け取る側には見分けが付かないいかにも高級な店構えの、「それっぽいショップ」←大学教授、○○研究所、「科学的に実証」などの文句で売られているもの。

それとも、「胡散臭い店」で売られているものか。←肩書きの無い人。専門の研究機関で無い組織誰にでもニセモノと判るのか。←科学的とは感じない。それまでに蓄積した知識によって、科学的では無い、あるいは、信憑性が低い、と看做す

どちらにアプローチするかで、批判の内容は異なる。「売る側」・「作る側」についての言及の場合、それを売ったり作ったりする事自体←科学的な手続きに則って検証していないにも拘わらず、検証されたと言う。故意かどうかは問わないを批判。「受け取る側」についての場合、ニセブランド品をブランド品だと信じ込んで買う人が多いという事を問題視。←「”科学で無いもの”が、”科学的である”と、多くの人に思われている」状態。つまり、社会的認知の問題「そんなもの、誰でもニセモノって判るだろ。」←ニセ科学など批判するもんでも無いだろう、という非難と主張する人は、「どうせ誰も本物だとは思ってないんだから」、と考える。←社会一般に、「科学的」とは認識されていないんだから、と主張する

ニセ科学は、科学の手続きに則られていないのに、それがなされたと主張されれば、成立する。喩え――「元祖・○○」的なお菓子があるとする。それは、ちゃんと製法を守って作らなければ名乗れない。製法を守っていないのに、「元祖・○○」とラベルを貼って売ってはならない。製法を守ったと思い込んでも、実は誤ってしまっていた、という事もあり得る。そして、売ったという事実そのものが、批判の対象となる。必ずしも、それが沢山売れたという事実が要る訳では無い。つまり、「多くの人が」という量的な評価を問題にするのでは無い。「これが出回ってしまってはまずいぞ」的な批判もある、という事。そして、批判対象の、批判の優先順位は、批判者の問題意識や興味関心のある分野によって、異なってくる。かなり出回ってしまっているから駄目だ。あれはニセモノだと知らしめないと、というのもあれば、まだ広まって無いかも知れないけど、影響力が大きいメディアが採り上げているから何とかしないと、というのもある。量的には少ないかも知れないが、ある程度広まる事自体が、他の文化に対する不当な先入観を植え付ける虞がある、と判断する場合も。

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取り敢えず、こんな感じで。

ふう…。何か、脳をフル回転させたから、爆発しそうだ(笑)

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コメント

私の考えは多分、newKamerさんのご意見(apjさんのエントリーのコメント欄参照)に近いと思います。

投稿: TAKESAN | 2007年12月26日 (水) 10:52

酔うぞさんのコメントに、何か違和感を覚えたのですが、纏まらないので、こちらに。

私は、「ニセ科学」であるという判断は、「現代の実証科学的方法のスタンダードに則っているか」、という所を基準として用いるものだと考えています。
ですから、被害の実態や、予見される被害の程度、というのは、「ニセ科学であるかどうかの判断」そものもには反映させる必要は無く、それは、「批判の動機の根拠」として位置づけられるものでは無いかと思っています。

で、ふと思った事。
私は、心理学や社会科学的なニセ科学も念頭に置いているので、こういう考えなのかも知れない、と。酔うぞさんの論理だと、臨床心理におけるニセ科学等を押さえ切れないと感じるのですが、どうでしょうか。

投稿: TAKESAN | 2007年12月26日 (水) 12:00

 酔うぞさんが「ニセ科学批判」批判者と同じになるかどうかの分かれ道ですね。

 さらに言えば、被害を基準に考えるにしても単純ではなくて、非合理蔓延という長期的被害をどう考えるか?なんてところも考慮する必要があるのだと思います。
 短期的被害が全くないところの議論が長期的な考え方の改善(クリティカルシンキングの普及)に繋がるということは、十分あることなので。

投稿: newKamer | 2007年12月26日 (水) 13:18

newKamerさん、今日は。

仰る通りだと感じます。
「絶対的な評価」(by酔うぞさん)が出来ないからこそ、科学的に標準の方法に則っているか、という所が重要になるのだと思います。これが、ニセ科学とされている主張が、実は正しくても構わない、今後実証されたとしても、現在のニセ科学という評価は覆らない、という論理に繋がってくるのかな、と。

酔うぞさんの主張は、ちょっとよく解りませんでした。

伊勢田さんの本を読んでいるかどうか、というのは、結構重要に思います。※読むべきだ、という意味では無く、本に書かれてある事を押さえているかどうか、という意味。で、本に書かれてある事を押さえるには、実際読むのが最も効率的。

投稿: TAKESAN | 2007年12月26日 (水) 15:04

 本題とは関係ないのですが、ちょっと思ったので書かせてください。こういった場合に自戒として気をつけたいのは(私もたまに忘れてしまう)、私達の常識は、世の中の常識とは全くかけ離れているということです。

 うぬぼれでは無くて、ベースの知識として知っていることが違いすぎるため、私達は「ある程度の合理性さえ持っていれば、当たり前にまともな判断できるはず」と"間違った"判断を下しがちです。

 例えば、伊勢田氏の本を読んでいる人(または1度さらっと読んだのと同じぐらいの知識を持ち合わせている人)なんて、かなり例外的な人のはずなんです。また、ニセ科学問題を追っており、その批判についてどういった問題があって今のところどういった結論が出ているのかなんてことを知っている人はさらに少数かもしれません。

 共有できていないのは、合理性や知性ではなく、ある特定分野の(特殊な)知識である場合が多いというわけです。私達は、この分野については常識人ではないというのが現実です。

投稿: newKamer | 2007年12月26日 (水) 15:35

ありがとうございます。

仰る事は、重要な視点だと思われます。

私はよく、ニセ科学を見分けるには、いわゆる論理性や合理性のある無しだけではなく、科学に関する専門の知識(中学校で習うのも、専門的な知識)が必要なのでは、というのを書いたりしています。また、このエントリーのように、喩えを用いて、身近の現象に当てはめて考えてみたりしています。
これは、newKamerさんが仰るような事を念頭に置いているから、かも知れません。

やはり、何かを対象化して、それについて、色々な人が、色々な事を書き、言ってきているのだから、それは蓄積されて、ある種の専門的な話になり、そいういった議論に不案内な人にとっては、すぐには呑み込めないと思います。
FAQを纏めたり、喩えを用いて説明するのは、理解のために階段を作る作業なのかな、なんて考えています。

上のコメントに、長い(笑)補足を書いたのは、意図がありました。つまり、ニセ科学について論ずるには、伊勢田さんの本に書かれてある事の知識、及び論理を押さえておいた方が良い。だけれど、必ずしも読むべき、とは言えないし、そもそも、読んでいる人自体少ない(特に、「ニセ科学」と結び付けて読む人は)。だが、ああいった本に触れずに、そういう本に書かれているような認識を持つのは難しい。
という感じですね。

…なんか、newKamerさんがお書きの事と、随分ずれたような。

これは、私の意見として取って頂ければ。

投稿: TAKESAN | 2007年12月26日 (水) 17:57

被害の有無と可能性を基準に入れられてしまうと、『知の欺瞞』系は困ってしまうんですけど。あれが問題としている科学用語の濫用は、ニセ科学とは別のカテゴリーということにしてしまうのでしょうか。水伝な人が「波動」がどうたらというのとファッショナブルナンセンスな人が「量子力学」がどうしたというのは、同根だと思うんですけど。

いや、私も時々、不完全性定理濫用系を批判している一人なもので。

投稿: かも ひろやす | 2007年12月26日 (水) 20:48

私もそう思うんです。

「被害」の評価を判断基準に含めてしまうと、科学用語の濫用系とか、そういう所が押さえられなくなってしまうと感じます。

「ニセ科学」と判断する基準は、実証科学の方法に則っているか、とか、既存の学術的専門概念を誤用していないか、とか、そういう所にあると思います。
上にも書いたように、被害というか実害というか、そういうものは、ニセ科学を判断する事そのものとは、異なる文脈として捉えるべきではないかと考えます。

投稿: TAKESAN | 2007年12月26日 (水) 23:46

TAKESANさん

遅ればせながら・・・

「被害が出てから対応しよう」では、最近の警察の初動捜査等に対する批判を見ている限り、社会的にも受け入れられないと思います。

投稿: Noe | 2007年12月27日 (木) 08:35

Noeさん、お早うございます。

酔うぞさんが、レスを下さったので、読んでみました。で、酔うぞさんが仰る「判断」には、Noeさんが書かれた「対応」の意味も含まれているように、思いました。
私は、「ニセ科学と判断する」という文にはそういう意味は含まないと思っていたので、そこら辺にずれがあるのではないか、と感じた次第です。

投稿: TAKESAN | 2007年12月27日 (木) 11:18

ううむ、何だか混乱してきた…。
いや、元々このエントリー、apjさんのエントリーがすっきり理解出来なかったから、起こしたものなのですが、その理由は、「判断」や「判定」の多義性にある気もしてきました(←こっちが勝手に多義的に読んだ、という)。

投稿: TAKESAN | 2007年12月27日 (木) 11:31

(向こうで酔うぞさんに直接コメントはしませんが)

apjさんのところで言っているのは、「科学でないのに科学を装っているもの」ですが、酔うぞさんは「科学だなどとはいっていない」というような後付けの言い訳にまで配慮してしまった結果、「被害」という価値判断を基準として追加しているように見えます。批判の対象としての妥当性は増すのかもしれませんが、逃げ道を増やすだけのようにも見えます。

実際の被害があろうがなかろうが、人を騙す行為は(故意であろうとなかろうと)批判されても文句は言えないと思います。

投稿: Noe | 2007年12月27日 (木) 12:46

なるほど。納得です。

批判の妥当性を補強、正当化する根拠として、被害の評価が重要、といった所でしょうか。

私も、実害がなかろうが、言説それ自体が批判の対象になるし、批判されて然るべきだと考えています。

この、「言説それ自体」の評価、というのが、ポイントになる気がします。
水伝の場合には、江本氏の一連の著作等で、科学的方法によって検証されたと誤認させるに充分な記述の仕方をしている。森氏のゲーム脳本にしてもそうですね。
もし、「ファンタジーだ」、などという、言い訳めいた事を発言したとしても、変わらず科学的概念を用いていればニセ科学と判断される、と。

私は、katsuyaさんの、
▽▽▽引用▽▽▽
私としてはむしろ、「科学でない」という判定を哲学的なメタな議論ではなく、実際の科学者集団がどのような判断をしているかという(社会学的な)認知を基盤とする、ように議論を形成すべきだと思うのです。
△△引用終了△△
このご意見に賛成です。で、ここに対する酔うぞさんのレスが↓
▽▽▽引用▽▽▽
これは相手が「科学であるとは言っていない」となったときに対応出来なくなるんじゃないですかね?
△△引用終了△△
私が思うに、ここに、(別の所にコメントを下さった)技術開発者さんが仰る「未必の故意」が関わってくるのだろうな、と。

投稿: TAKESAN | 2007年12月27日 (木) 14:03

遅ればせながら、かつピンぼけ承知で。

ぼくは「ニセ科学であるかどうか」と「社会的な被害があるか、または懸念されるか」については本質的には弁別されるべき議論だと思っています。と云うか、前者は後者を招きうる要因を持っていますが、結果として後者に至らなくてもそれゆえに容認されるべきではない、と思います。

もちろん前者と後者は無関係ではなくて、そのあいだの関連も問題にされるべきです(と云うか、ぼくのアプローチは多くの場合そこに向かっています)。ただ、そもそもスコープの違うなかで後者の要因から前者の是非を問うのは話の順序が混乱しています(これを利用して議論そのものに混乱をもたらそうというのが、「ニセ科学批判」批判者の典型的な手法です)。

投稿: pooh | 2007年12月27日 (木) 14:15

TAKESANさん
>酔うぞさんの論理だと、臨床心理におけるニセ科学等を押さえ切れないと感じるのですが

こうかな?
本当にあったニセ科学による被害
自分が勉強のつもりで読んでた本は、実はよく出来たニセ科学の本でした。
自分が勉強のつもりで見ていたサイトは、実は誤解だらけのデタラメ理論でした。
自分が教えを請うていた人は、実は人の意見を聞かない頑固なビリーバーでした。

どう考えても「ニセ科学被害」です本当に時間の無駄でした。
酔うぞさんと違い、瞬時に判別がつかないんです。
時間を有限と認識し、無駄を省ける人には理解できないでしょうね。
酔うぞさんは優秀な人だけに囲まれて幸せなのでしょう。
「あほが引っかかったところで自己責任」という感じかな。
(「ニセ科学は有限の時間を無駄に使う」ことがやっと分かったTAKA)

投稿: TAKA | 2007年12月27日 (木) 19:53

TAKESANさん、被害の度合いについて、私も考えてみました。

ニセ科学は時間を無駄に消費する。
存在するニセ科学すべてを瞬時に判別するのは不可能。
ニセ科学が広まると時間を無駄にする人も増える。
その社会全体が時間を無駄にする事になる。
その社会の健全性が失われる。
健全性を取り戻すのも容易でない。
社会の発展が停滞する。
モラル破壊。
日本破産。
脱出。

よってニセ科学は存在するだけで悪である。
(どこか間違ってるかも)

投稿: TAKA | 2007年12月27日 (木) 20:28

poohさん、今晩は。

そう思います。従って、酔うぞさんの仰る(このコメント欄では、引用文は基本的に、本文でリンクしたapjさんのブログからの引用)、
▽▽▽引用▽▽▽
社会的に影響がないのであれば「ニセ科学もヘチマも無い」ということですね。
考えることすら必要ない。
△△引用終了△△
このご意見には、賛同しかねますね。

たとえ、言っているのが一人であっても、それをニセ科学だと指摘する事は、全く妥当だと思います。

------

TAKAさん、今晩は。

そうですね。そもそも、ニセ科学を科学と信じる人は、科学の素養、もしくは専門外の知識に欠けている訳ですものね。
で、考えてみると、ニセ科学による被害とは、科学だと誤認させる事そのものである、とも言えるのだと思います。

投稿: TAKESAN | 2007年12月27日 (木) 20:47

私自身は、「社会の健全性を破壊するから」、という意見は、基本的には主張しないという立場を採っています。これは、戦略的なものでもあるのですが、あくまでニセ科学批判を論ずる場合には、「間違った事を広めてはならない」、という程度に限定しています。これはapjさんが仰る、ニセブランドの喩えに近いかと思います。

社会の「健全」性という概念を用いると、「では”健全な社会”とは、科学的合理的な認識を成員が持つ事であるのか?」となって、かなりメタで、問題の論点が拡大してしまうようにも思います。それを避けるような論じ方を心掛けています。
これは、「科学ファシズム」などという批判を受けないようにするための方略、とも言えるかな。

この私の姿勢は、良く言えば慎重・穏当、悪く言えば臆病なのでしょう。

投稿: TAKESAN | 2007年12月27日 (木) 21:00

TAKESANさん、課題として考えました。

ニセ科学を広めないためには

正しい科学を多くの人が知っていれば良い。
見抜ける人が、はびこるニセ科学を積極的に批判する。
正しい科学を知ってる人は知識を惜しむことなく広く公開する。
これら二つを同時にかつ手広くやれる人が多ければ多いほど良い。
だんだん知識を持つ人が増える。
知らない人に教える機会が増える。
ニセ科学商品やニセ科学言説をすぐに見分けられるようになる人が多くなる。
企業やマスコミ、政治家もうかつな事が出来なくなる。
よってニセ科学が広まる余地が無くなる。

ニセ科学がはびこってから行動開始しても個々のニセ科学の批判で精一杯となる。
また科学者の本来の研究時間が少なくなり、時間を無駄に使ってしまう。
研究開発が停滞し、結果的に市民の不利益となる。
日本破産。
世界経済混乱。
世界戦争勃発。
人類滅亡。

よって目に見える被害が無くとも、正しい知識を広めると同時に、ニセ科学を批判する事は、社会にとって重要である。


この位が限度でした。次はこの課題かな。

「今は被害が少ないから大した事無い。引っかかる人の自己責任だ。そんな些細な事にまで付き合ってられない。私は社会の大悪と戦っているんだ。」という知識人は日本に存在するか?

投稿: TAKA | 2007年12月27日 (木) 21:26

 私は「知的倫理観」を尊重する(できる限りすべきである)という"信念"を持っているわけですが、それが特殊なんだろうか?なんて疑問も浮かんできました。

 「間違ったことより、正しいことを知った方がよい」という素朴な信念なんですが。

投稿: newKamer | 2007年12月27日 (木) 22:27

こんばんは。

大分出遅れましたが、私の感覚は、poohさんやnewKamerさんに近いです。要するに「ニセ科学は(たとえ意識しなかったとしても、結果的に)ウソである事が問題だ」と思っています。

そしてこれはapjさんが仰る様に、別に科学に限った事でもないし、被害の有無とダイレクトにリンクさせるべきでもありませんよね。
例えば、たとえそれが善行を成す意図でもってなされ、実際に結果が善であったとしても「ウソをつく」事が「ウソである」事は変化しないのであり、「目的も結果も共に善であった」という「価値判断」がウソを真実に変換するわけではありません。

投稿: PseuDoctor | 2007年12月27日 (木) 23:02

>TAKAさん、newKamerさん

もちろん、私の信念は、社会に、正しい科学的合理的知識と、高い論理性を広める事が必要である、というものです。で、TAKAさんが書いて下さったものは、概ね妥当だと思うし、同意します。上に書いたのは、まず「健全な社会」というのを出してしまうと、いわゆる「科学の絶対視」的な論拠で批判をする人が出るだろうから、それを回避するために、そういった言葉の使用は控える、といった感じです。
極端な相対主義者からの批判をかわす方略、と言うか。

私達の社会は、科学技術に支えられているのですよね。それはもう、否定しようの無い事実です。だから、その基盤となる知識や考え方を涵養するのは、社会を維持・向上するために、必要な事であろうと思います。

------

PseuDoctorさん、今晩は。

apjさんのブログのコメント欄を読んで感じたのですが、やはり、ニセ科学の捉え方は、人によってずれがあるな、という。私は、上に書いているように、こちらにコメントを下さった皆さんと同意見です。

------

ちょっと、皆さんにご意見を伺いたいと思って、ここに書こうとしたのですが、改めて、エントリーを起こします。

投稿: TAKESAN | 2007年12月28日 (金) 00:16

「ウソ・大袈裟・紛らわしい」は JARO へ…じゃなくて

「間違ってる & 紛らわしい」ものを「"ニセ科学"と呼ぶ="間違ってるし紛らわしい"と判断する」ことに何の問題があるのかよくわからないのですが…
えーと,例によって端折りすぎているのでしょうか,私は (^^;

現実問題として,それはニセ科学だよね,と判断できる人のところまで話が届いている時点で,ある程度広まっていることになるのでしょうけど,それ(判断できる人まで届くこと)を判断の基準に入れるのはヘンですよね.

投稿: たかぎF | 2007年12月28日 (金) 11:20

たかぎFさん、今日は。

私もそう思います。て言うか、私が最初にニセ科学論に触れた時に、そういう事だと理解してたのですよね。

で、apjさんのブログで酔うぞさんにレスを頂いたのですが、どうやら、ニセ科学と判断する事自体については、私の考えとは ずれが無いみたいです。でも、やっぱり、影響の度合であるとか被害の状況というのを、重視しておられるように思います。なんでしょう、ニセ科学批判を「運動」と捉える所に、見解の相違があるのかも知れません。

▽▽▽引用▽▽▽(酔うぞさんのコメントより)
社会的に全く影響がない一人だけの思索というのもあるでしょう。
△△引用終了△△
これって、論理的に成り立つのでしょうか。一人だけの思索なら、他人に知られようが無い気がするのだけど…。

私の考えは、とってもシンプルに言うと、「ニセモノとか紛らわしいものなんだから、それは”ニセ”だと指摘していいよね」、というものなんですが(たかぎFさんが仰る事と同じですよね)、それじゃいけないのかなあ。

投稿: TAKESAN | 2007年12月28日 (金) 12:06

こんばんは

長文&亀レス失礼します。

「科学」「科学的」「ニセ科学」などと考える前に少し立ち戻る地点があるのではないでしょうか?

科学という意味するものに結び付けられているものは不明な現象や予備仮説があり、現象の再現性があって、理論化され、理論から予測がされ、予測が観測・再現され、定説へと進んでいくプロセスそのものです。
 
つまり不完全・全能でない「人」が自らの不完全さを把握した上でそれでも世界を正しく認識したいという欲求に対して現在使われている技法です。
そこには本来人のありのままの姿を認識する事と、世界を正しく知りたいという知を愛する欲求が根底になければ維持され得ないものがあると考えます。
 
そのうえで科学が現代の人の知的認識の方法とし、て唯一に近いものとして認知されているのは自分の観測したものが同じ環境・条件を与えれば他者でも観測できる
という本来主観的な経験でしかないものを他者への拡張できる点です。
 
ところが知的体系として成立させるには科学以外のものであっても、そして科学的であると明言しなくても、科学という言葉に結び付けられた方法・プロセスの一部を組み込まなければ理論的な体系として体裁をなす事ができません。
個人的な思弁を超えた他者との共通認識の上で成り立つには説明する事でしか伝達できないからです。
というより、他者が正しいと納得できる説明・方法・条件の模索が現在の科学的方法となっていった事を考えると当然といえば当然ですが。


私が考えるニセ科学は主観的な知に対してではなく、「共同化された知」への背信行為であると考えています。
おそらくそこには科学的であるという明言は必要ないのではないか、正しさを他者に対して保証し、共同化した時点で発生するものでないかと思います。


ただ、宗教やオカルトなどの位置づけはどのようにしていくのかが悩みどころではあります。
ただ物理現象として現実の世界に干渉する事柄でなければ少なくともこの考え方に矛盾する問題はないのかなとも思います。

書き終えてから言うのは何ですが、いま少し考えがまとまっていませんね。
反省反省。

投稿: FREE | 2007年12月28日 (金) 21:54

TAKESANさん、こんばんは。

>一人だけの思索なら、他人に知られようが無い気がするのだけど

死んだ後、部屋の押入れからフロッピーと暗号のメモが見つかるとか。「タイムマシン理論を考えついたのだが、当局の圧力で今は発表するのを控えている」人が言っているのかな?

>影響の度合であるとか被害の状況というのを、重視しておられるように
>科学批判を「運動」と捉える所に、見解の相違があるのか

実はapjさんとこ、まだ全部読んでいません。あくまで想像です。酔うぞさんは「優先順位問題」をニセ科学の定義に入れたいのでは。もしくは「優先順位問題に対する話を先にしたい。定義の話はその後ね。」かな。
まさか、「定義の話と優先順位の話を区別できてない」わけじゃ無いでしょうし?私の考えすぎか。とりあえず続き読んでみます。(なんか気になってきた)

投稿: TAKA | 2007年12月28日 (金) 22:27

FREEさん、はじめまして。
>「共同化された知」

「大勢が認めても私達はまだ認めない」と主張する人が出てきそうですね。
法律がその概念に近いのかな。

>おそらくそこには科学的であるという明言は必要ないのではないか

つまり呼び名を「科学」から「共同化知」に変えたら良い、という事ですね。
名称なしだと不便ですし。「科学」を「正しさを他者に対して保証し、共同化した時点で発生するもの」でもしんどいかな。

「科学的」の「的」の部分を良く知らない人がニセ科学商品などに引っかかるのでしょうね。
私は「的」の部分を勉強してから、ニセと本物の区別が少しできる様になりました。

投稿: TAKA | 2007年12月28日 (金) 22:50

FREEさん、今晩は。

うーむ。そこまで立ち戻ってしまうと、議論の層が異なってしまうような気も…。

ちょっと、ご主張の趣旨を、掴み切れないでいます…。いや、多分、書かれている内容そのものには、同意出来るとは思いますけれども。

------

>TAKAさん

酔うぞさんのご意見は、ちょっと理解し切れていないです。コメントによって、用いている語の意味が、異なっているようにも思います。被害とか影響という所を、非常に重視しておられるようです。

私自身の認識は、apjさんの所のコメント欄で言うと、newKamerさんやkatsuyaさんのご意見に近いと思います。ちなみに、ふじさんのご意見には、ちょっと違和感を覚えます。

投稿: TAKESAN | 2007年12月28日 (金) 23:55

>被害とか影響という所を、非常に重視

まさか私の嫌な予感は当たっていたのかな?あそこのコメントまた伸びてますな。読み終わったら、しばらく考えてから感想を書きに来ますです。

投稿: TAKA | 2007年12月29日 (土) 00:05

酔うぞさんの新しいコメントが入っていますが、未だ、ご主張の趣旨が掴めないでいます。なぜ、「=共同行動」なんだろうか…。
酔うぞさん@2007/12/29 11:33:57のコメントは、意味自体がよく解らないですけれど。

投稿: TAKESAN | 2007年12月29日 (土) 12:36

読みました。TAKESANさんとnewKamerさんの意見に同感です。最新のコメントは今見ましたが、印象は昨日と同じです。酔うぞさんのコメントを分析。

酔うぞさん
>これは「社会的視点を(ニセ科学)批判に持ち込む必要はない」ですよね?
>自分だけの視点からでは「批判」ではなくて反論でしょう?
>批判というのは社会的な共同行動そのものだと思ってましたが。

今は「ニセ科学」の定義ついて話をしている。「ニセ科学批判」については別の話である。ここで言う「社会的視点」とは複数の人が見聞きして、「良くない嫌だ」と判断する事柄。「良くない嫌だ」と判断する事柄は人によって違う。違う物を定義に入れるのは不適切である。

ニセ科学批判について。
反論とは相手の主張の内で自分の見解との相違があった場合に述べる意見。批判はさらに相手の間違いを正す目的も含んでいる。
最終的に損害を被るのは一人一人の個人である。ニセ科学が広がる前に先に批判しておいた方が余計な手間が省ける。個人でやるより複数が協力して批判した方がより効率的。
ニセ科学の広がりがごく狭い時期ならば一人でも批判は可能。必ずしも共同行動を取る必要は無い。

一人で思索していた場合のニセ科学の影響とは。
自己批判できる人は突飛なアイデアも、「ちょっと筋が悪いな。後でまた考えよう」と判断し保留する。
できない人は、「画期的だ。ノーベル賞も夢じゃない。」となり永久機関に嵌まって時間を無駄に消費する。
時間は有限である。後悔しても取り戻す事はできない。


酔うぞさん
>「歴史なんて関係ない」と考えれば、ニセブランド品が出てくる
>「技能(工作技術)を盗む」のは業界内では一般的な常識としてある程度以上許されて

合意も無く勝手に他人の技術を盗むのは悪い事。
新人が先輩の技を受け継ぐのが目的ならば良い。

よって「ニセブランド品と技能(工作技術)を盗む」話は同列で無い。
業績を上げるにはライバルを出し抜く必要がある。業界内での競争は厳しい事が伺える。

被害や影響を重視しているのは、このあたりが関係していそうです。もしかしたら、「私は毎日虚虚実実の駆け引きをしている。少々の事は目をつぶる。事が大きくなってから考える。」とう事かも。

投稿: TAKA | 2007年12月29日 (土) 19:03

こんばんは
 
>うーむ。そこまで立ち戻ってしまうと、議論の層が異なってしまうような気も…。
 
わかりにくくて申し訳ありません。もしかしたら「分けて考えてみる」へコメントしたほうが良かったかもです。
 
つまり、現実の物理的な世界に影響力を及ぼす説明をする事に関しては「科学を装う」は不必要なのではないかと考えたのです。

現在科学の範疇にある事柄に対して、知を正しいものとして共同化する行為は、科学的な方法によるプロセスを経ないで説明する事はきわめて困難ではないか。むしろどのように行うのかが私には現在想像がつきません。

ロジカルに考えた場合は『現実の物理的な世界に影響力を及ぼす範囲においては「科学でない」』で十分でないかと。

投稿: FREE | 2007年12月29日 (土) 22:11

>TAKAさん

ありがとうございます。そういう風に纏めて頂くと、整理しやすいです。

酔うぞさんの、共同行動なり運動なりの語の用い方が、今一つ判然としないのでした。

------

FREEさん、今晩は。

えっと、やっぱり、ちょっと読み取れないです。
具体例があれば、理解が進むかも知れません。コメントを頂いておいてなんですが。
ごく一般的でメタな内容で、具体的な現象と結び付けて認識が出来ないのです…。

もしかすると、たとえば、暗い所で本を読むと目が悪くなる云々というような、世間に広まった間違った知識を、敢えて「ニセ科学」と呼ぶ必要は無い、といった事なのでしょうか?

もしそうだとすると(違ったらごめんなさい)、それはまた、違った論点のようにも思います。
私が書いているのは、ニセ科学をある程度きちんと定義して、それを適用すると、「ニセ科学と呼ぶ事は出来るよね」、という事です。

▽▽▽引用▽▽▽
ロジカルに考えた場合は『現実の物理的な世界に影響力を及ぼす範囲においては「科学でない」』で十分でないかと。
△△引用終了△△
これだと、オカルトと「科学っぽいもの」を、一緒くたにしてしまうような気もするのですが、そういう意味合いでは無いのでしょうか。現象の説明に形而上学的な概念を用いたりするものは、非科学ではあるが「科学っぽい」とは言えない、なんて思うのですけれど。もちろん、両方合体させたようなものもあって、それは「科学っぽく見せている」と考えられますが。

私に誤読があれば、ご指摘下さい…。

投稿: TAKESAN | 2007年12月29日 (土) 22:58

こんばんは。

うまく説明できていない・理解できるような書き方をしていないという事は、私の中で考えがまとめきれていないという事で、申し訳ありません。


たとえば物理現象に行き着く説明をある使用とします。
水伝でもゲーム脳でも酸素水でもホメオパシーでもよいです。
です。

水伝では
言葉・文字が現実の世界に物理的に干渉し水の結晶構造に変化を与える。
「ありがとう」という感謝の言葉は美しい結晶を作るように干渉する。
「ばかやろう」という罵倒の言葉は醜い結晶を作るように干渉する。

この事を他の人に正しい事として説明し広めようとするにはどのような説明をすれば
納得してもらえるでしょうか。不完全な形でも因果関係の説明や再現性・実験などを盛り込まなければ説明する事は不可能だと思います。

このような例から物理世界に干渉する現象の説明として使われる説明・方法を考えてみた時、科学的な言説を使用しないで他者に正しさ(本当に正しいかどうかは別です)を説明する事が可能ではないと考えたわけです。むしろ説得力を持たせようとすればするほど、それが真に科学的な方法であるかどうかは別にして科学的な方法・言説に頼らざるを得なくなるのではないでしょうか。

またオカルトや宗教などで事柄が思想や精神世界の範疇であるならばおそらく科学の対象外ですが、形而上が形而下に干渉するような言説はどこかでなぜそうなるのか、何がどう変わるのかといった説明をしなければいけない部分に科学的な方法や説明を使わざるを得ない場所が生まれると思います。

投稿: FREE | 2007年12月29日 (土) 23:36

大分掴めてきた気がします。

それで、先にも書いたのですが、「科学的論理に反し、科学的だと誤認される」というのを指摘する訳なので、「ニセ科学」という語を用いる事自体には特に問題が無いのでは、と考えます。

うーむ。
私自身の認識も、まだまだ整理し切れていないようです。もっと練らないと…。いや、ここが非常に難しいので、主唱者がいる説とそうで無いものを、分けてみた訳ですけれども。

投稿: TAKESAN | 2007年12月30日 (日) 00:07

みなさまこんにちは。横からご容赦。
全然整理できていない私が入るといかんかな、とも思いつつ、FREEさんのお話には「それだそれだ」と思うようなところがありまして、ついつい。

>科学的な言説を使用しないで他者に正しさ(本当に正しいかどうかは別です)を説明する事が可能ではないと考えたわけです。むしろ説得力を持たせようとすればするほど、それが真に科学的な方法であるかどうかは別にして科学的な方法・言説に頼らざるを得なくなる
>形而上が形而下に干渉するような言説はどこかでなぜそうなるのか、何がどう変わるのかといった説明をしなければいけない部分に科学的な方法や説明を使わざるを得ない場所が生まれる

ぼくが「ニセ科学の問題は、ぼくにとって必ずしも科学の知識や科学リテラシーの問題ではなくて、合理的な思考、論理的な思考ができるかどうかの問題」などと口走ってしまうのは、まさにその辺にあると考えています。
「ニセ科学とはなにか」がどうでもいいと考えているわけではないのです。しかし、おそらく「自然科学に由来する方法論抜きでは、まともに思考することさえ困難な現状」があって、ニセ科学的な言説のほとんどは、その部分で破綻していることをもって識別すること「も」可能だ、なんていう状況が話を見えにくくしている要因のひとつ(この話がややこしい要因の、ほんのひとつ)ではないかと疑っています。

投稿: 亀@渋研X | 2007年12月30日 (日) 01:42

おはようございます。
 
別に「ニセ科学」という言葉を使うなという話ではないです。
ただ現在科学以外の論理的で知的な体系として説得力を持った方法が発明されていないので、ニセ科学の「科学を装う・科学でない」は科学でないものを説得力を持たせるために必然として科学を装っているようにせざるを得ないのではないかと。
 ここから科学(少なくとも物理世界に干渉する現象)の範疇に含まれる内容については科学かどうかだけの判断でいけるんじゃないかなと考えを進めてみました。

-------------------

>亀@渋研X さん

ニセ科学は科学以外で説得力を持った論理的・知的体系を構築していないにもかかわらず、科学では正しさを保証できない知を正しいものとして扱う点に、「ニセ科学」と区分される知がそれを提唱したり正しいと考えている・信じている人が「だれも科学的だなんていっていない」「これは現代科学では証明できない」といったズレを生んでいるのだと思います。
 

投稿: FREE | 2007年12月30日 (日) 10:29

亀@渋研Xさん、今日は。

まず、ちょっと本題からはずれるかも知れませんけれど、なんか興味深いと思ったので、書いてみます。
▽▽▽引用▽▽▽
ぼくが「ニセ科学の問題は、ぼくにとって必ずしも科学の知識や科学リテラシーの問題ではなくて、合理的な思考、論理的な思考ができるかどうかの問題」などと口走ってしまうのは、まさにその辺にあると考えています。
△△引用終了△△
私は、ニセ科学について語る時には、合理的・論理的な思考が出来るかどうか、では無く(←否定にあらず)、具体的な、科学に関する知識の程度が重要なのではないか、という書き方を、よくします。ちょっと言及の順序が違うだけですが、視点や、現象の捉え方が異なっていて、面白いな、と思いました(もしかすると、実は、認識は似ていて、表現が違うだけなのかも知れませんけれど。直感を言葉にして出力するのは難しい…)。

---

ところで、私は、たとえば、水伝を信じる事は、全く「合理的な認識」だと思っています。水伝って、実験云々の事を知らなくても、信じる人がいる訳ですよね。いやむしろ、実験が、というのは知らないのに水伝を信じている人が多い、という可能性すらあるのですよね。

------

FREEさん、今日は。

 >別に「ニセ科学」という言葉を使うなとい
 >う話ではないです。
あれっ。そうでしたか。
いや、「使うな」とまで仰ったとは、私も もとより捉えておりませんでしたけれども、「敢えて使う事も無い」、というくらいの意味合いではありましたよね? もちろん、私は、使う事も出来るよね、という意見なので、特にここら辺の認識には、ずれは無いものと思います(の割りには、「あれっ。そうでしたか。」という文章はおかしいですが)。

えっと、変な話ですが。
私は多分、FREEさんの仰る事をある程度踏まえた上で、一連のエントリーを書いていたのではないか、と感じたりも…。

------

…我ながら、驚異的に散漫な文章。一つのコメント内なのに、内容が整合していませんね。直さずこのまま上げます、すみません。

投稿: TAKESAN | 2007年12月30日 (日) 12:29

これは、後のエントリー(「分けて考えてみる」)を書いたきっかけ的なものなのですが。

たとえば、ある知識が、主唱者が特にいる訳でも無く、民間伝承的に伝わってきて、一般に広く普及したとして、それが、血液型を知るだけで、性格をある程度言い当てられる、というものだった場合、それは「ニセ科学」と呼べるのだろうか、という事を想定しました。
また、水伝が、実験や科学を初めから謳わず、綺麗な言葉は綺麗な氷を作る、という主張だけであったら、それは「ニセ科学」と呼べるのだろうか、とか。

前者も後者もニセ科学と呼べるか、呼べるとすればそれは何故か、どちらかは呼べてもう片方は呼べないか、とすれば、それはどうしてか。

そんな事を考えていく内に、そもそも一般的な、社会的認知としての「科学的」とはどういう意味なのか、とか、それはどのように測られるのか、という所に、思い当たった訳ですね(考え自体は、ずっと前から持っていたのですが、ある程度、意識的に分析してみました)。それに照らして、個別の言説の論理構造を分析して、検討していく。

で、主唱者がはっきりしている説と、それがはっきりしないが一般に流布している説、という風に、分けてみたのですね。そして、ニセ科学批判で取り扱われているのは専ら前者だし、それ(を「ニセ科学」と判断する事)はある程度、はっきり評価出来るものだろう、と。で、もし後者を扱うとすれば、評価は格段に難しくなるだろうな、と考えました。

投稿: TAKESAN | 2007年12月30日 (日) 12:47

TAKESANさん、こんばんは。 「ニセ科学による言い訳」の対応を考えていました。結構良いと思うので書き込みします。

ニセ 「科学であるとは言っていない。批判は的外れだ。訂正しろ。」
科学 「はいこっちも『それは科学じゃない』と言ってます。お互い迷惑でしょ。勘違いされたら。」
面倒な時 「私も『科学だ!』とは言ってませんが、何か?」

主張 「客が勝手に誤解しただけだ。騙した覚えは無い。営業妨害だ。批判をやめろ。」
反論  「誤解を防ぐための批判です。その方が貴方も安心して商売できるでしょ。」
うんざり 「誤解が増えるとこっちが迷惑なの。だから『あれは科学じゃないよ』と言ってんの。鮎桶?」

言い訳に一々付き合ってあげる事も無いです。淡々と「今やれる事をやる」で良いです。ただし裁判も視野に入れている場合は別ですな。

投稿: TAKA | 2007年12月30日 (日) 22:14

TAKAさん、今晩は。

やはりそうなってくると、技術開発者さんやapjさんのような視点が重要になってくるでしょうね。
で、法廷闘争になった場合には、科学者に意見を聞く事があったりするのでしょうね。それを踏まえて、科学を装った言説かどうか、というのが判断されるのでしょうね。

ものによっては、

ニセ:「科学であるとは言っていない。批判は的外れだ。訂正しろ。」

科学:「じゃあ、”実験”とか”研究”とか。”証明された”って書いてあるのは、どういう事よ?」

って感じですね。特にゲーム脳とか。あれは、かなり解りやすい例ですね。尤も、ゲーム脳の場合、「科学であるとは言っていない」という言い逃れは、不可能な訳ですけれども。

投稿: TAKESAN | 2007年12月30日 (日) 23:48

TAKESANさん
>科学:「じゃあ、”実験”とか”研究”とか。”証明された”って書いてあるのは、どういう事よ?」

そうなんです。しつこく食い下がるニセにはこう言えば良いのです。
「私の批判のどこが間違いなのか説明して。その証拠も見せて。その証拠を誰が保障しているのかも説明して。そして批判する事で社会にどんな不利益があるのかを説明して。」

これらをすべて相手に任せたほうが楽なはずです。でも自信の無い私は、「もしかして私が間違ってるかも。」と思い、わざわざ自分でやってしまいます。
今の世の中は、何事にも強気で押し切った方が、余裕で暮らせそうな気がしてきました。

投稿: TAKA | 2007年12月31日 (月) 01:50

TAKAさん、お早うございます。

ニセ科学側は、なかなか狡猾な所があって、流布する際に、二重構造的な情報の伝達を行ったりしますね。コアの部分と表面では、主張の「濃さ」が異なる、という。
コアの所の言説を分析すれば、科学を装っているかは、検討可能だと思います。そこで、法的・科学社会学的な見方が重要になるのでしょうね。

投稿: TAKESAN | 2007年12月31日 (月) 11:14

こんばんは

今回はうまく意図を伝え切れていないようで申し訳ありません。
 
ニセ科学の定義「科学を装う、且つ、科学でない」を考えた時に、それぞれの条件が必要かどうかを改めて検討してみようかなと言うのが発端でした。「科学でない」は必須だとしても、「科学を装う」って結構あいまいで人によって違いがあり判断が難しいと感じました。

そこで科学以前に知を検討してみて、次に他者へ拡張した共同化された知(科学だろうがなんだろうが)を考えてみたところ科学の範疇となるところでは科学を装うという条件はいらないのではないかと考えたという流れです。
 
ですので別にニセ科学と言う事を積極的に使わないとかという話をしたつもりはなかったのですが、間違った方向へ誘導してしまったようです。

投稿: FREE | 2008年1月 1日 (火) 00:01

FREEさん、明けましておめでとうございます。

------

もしかすると、「装う」という語の認識に、ずれがあるのではないか、と思ったりもしました。
私は、多くの人に「科学と思われる」ものも、「装う」という概念に含めています。

そういう話でもないのかな…。

投稿: TAKESAN | 2008年1月 1日 (火) 02:12

あけましておめでとうございます(今更ですが)。

>もしかすると、「装う」という語の認識に、ずれがあるのではないか、と思ったりもしました。

これは、重要な視点だと思います。
最近「ニセ科学の定義」について複数の場所で急速に議論が進んでいますので、私自身フォローしきれていない部分もあるのです(なので、温泉の話題にも参加し損ねました)が、この「装うの定義」という部分については、もう少し整理して考えてみたいと思っています。

投稿: PseuDoctor | 2008年1月 6日 (日) 23:41

PseuDoctorさん、あけおめです。
昨年は、色々教えて頂き、大変ありがとうございました。
今年もよろしくです。

装うという所は、別の言い方をすると、科学のように見える、という事ですね。もちろん、故意か過失かは関係無く。だけれど、「科学に見える」だと、また難しい。意味内容が広がりますしね。
なので、apjさんや技術開発者さんが仰る法的な観点や、科学者集団の共通了解を基準として判断する見方などを(これらは独立では無いでしょうね)、総合的に考察する必要があるのかも知れません。

投稿: TAKESAN | 2008年1月 6日 (日) 23:58

Jさんの所でのapjさんのコメント(PseuDoctorさんへのレス)を読んで思い出したので、上げます。

前半、実害をニセ科学の定義に含めるか、という問題。

後半、FREEさんのコメントにまつわる問題。読み返してみると、明らかに私の読み方が足りなかった。非常に重要な問題提起がなされているのに。

おそらく、ここで書かれている事は、wikiに反映されていると思います。

------

最近、FREEさんをお見かけしないな…。

投稿: TAKESAN | 2009年5月 2日 (土) 17:00

おはようございます。

確かに以前に比べると大分自分なりに整理出来てきたかな、という気がするんですが、そうすると逆にまだ不明確な部分があるのにも気がついたりして。

Wikiの記述に関しても、直したり追加したりしたい部分が出てきているのですが、なかなか全部は手が回りません。

投稿: PseuDoctor@出張中 | 2009年5月 3日 (日) 09:48

PseuDoctorさん、今日は。

整理が進むと、解らない事がまた解ってくる、というのはありますよね。

wikiに関しては、本当にお疲れ様です(たかぎFさんにも)。

投稿: TAKESAN | 2009年5月 3日 (日) 15:28

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