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2007年12月 3日 (月)

メモ:内的状態の記号化の難しさ

主観:「力の充実感」←肯定的評価。別の表現では、「気力充満」、「呼吸力が漲っている」、等。

実態:生体力学的に不合理な状態。必要無いのに、拮抗筋の等尺性収縮による関節の固定を行う。この際の知覚に、上記の様な記号表現を与える。

本来、古来の達人・名人が、合理的な身体運動の際の知覚に与えた記号表現が、「呼吸力」等であるが、伝承の過程で、その中身が変容してしまったと考えられる。

それは、科学的方法が発達しておらず、従って当然、身体の状態を客観的に計測する事も出来なかったため。視覚的・聴覚的情報では無く、体性感覚的な、極めて内的な状態に関する情報であるから、記号化が難しい。簡単に言うと、力の入れ具合というものは、見えないし聞こえない(厳密には違うけれど※)。アナロジーを駆使したりし、極意歌伝書、口伝等で、なんとかその情報を伝達しようと試みたが、記号化の困難さを鑑みると、次第にずれが出たり、個人のセンスに依存する面が大きくなったりするのは、仕方の無い事なのかも知れない。

※身体表面の情報から、筋収縮の具合等を推測する事は出来る。また、身体各部のポジションから、どういう筋肉が働いているかを類推し、それを自身の運動に採り入れる。当然それは、ほぼ無意識的。いわゆる「センスが良い」とは、この様な能力が優れている事を言う。まさに、直感力がものを言う世界。

記号化しにくいから、フィードバックが難しい。自身の状態が果たして良いのか。これは、指導者にも言える。指導者自身が出来ているからといって、他者の状態を見極められるとは限らない。基本的には閉じている(内的な状態に関するものが大部分)ものだから、それを、他者の運動に照らし合わせて判断するのは、また異なった能力が必要であると考えられる。ちょっと極端な例だけれど、指導者が(良い運動を)出来ている、生徒も掴みかけている、しかし、指導者の指示をフィードバックする事によって(当然、指導者の善意は前提)、生徒がダメになってしまう事は、あり得る。簡単に言うと、綺麗な立ち方を出来ている人が、他人を綺麗に立たせる事が出来るとは限らない、という事。

そういう状況を打破するには、身体運動文化にも、科学的方法を採り入れる事が必要。当然、スポーツ等では、行われている。武術では、ちらほら見られる、といった所だろうか。

ただ、気を付けなければならないのが、人体の構造・機能の複雑性。たとえ、バイオメカニクス的に、優れた運動の論理が明らかになったとしても、それをそのまま吸収・実現するほど、人間はシンプルに出来てはいない。ある運動に○○筋が重要な役割を果たしている事が判明したとして、その筋肉を闇雲に鍛えれば良い、というものでは無い。数百の骨からなる骨格と、それを取り巻く数百の骨格筋によって、身体は運動する訳だから、システマティックに捉える必要がある。更には、人間は、複雑な認知機構を持った存在であるから、身体運動に関するある単純な情報を採りいれ、それを実現しようとしても、それが即出来る訳では無い。知識と体性感覚的な知覚が一致するとも限らない。それを行うためには、充分な科学的知識(身体運動の場合には、解剖学的知識は、持っておいた方が良いだろう)を蓄え、自身の内的状態を正確に把握する訓練が、欠かせない。後者には、いわゆる「身体の”感じ”」と、可視化された、自身の身体の状態に関する客観的データ(筋電図や圧力版から得られたデータ等)とを照合し、フィードバックしながら、より正確に自身の身体をコントロールするべく、努力すべきだろう。たとえば、ハンマー投げの室伏選手は、脊椎を、かなりの程度、任意にコントロール出来るそうである。(実際どの程度出来るかは不明。客観的に調べられたかも判らない。あくまで参考情報として)

たまに、武術等で、科学的方法を採りいれる事に対して、記号化に嫌悪感を示したり、「直感」の重要さを説いたりして、反論する人がいるが、そういう人は、想像力が不足している。即ち、直感で何とかなる人が、「天才」だった可能性。天才が、優れたセンスをもって真髄を捉え、高度な身体運動を実現した事実を基に、「直感に基づいてやる”べきだ”」、と解釈するのは、端的に言って、誤謬である。論理的には、現在のシステムが優れているのなら、達人・名人は、ある程度の人数いてしかるべきだが、果たして実態は、どうだろうか。※ここでは、達人・名人という概念は、相対的評価としは用いていない(たとえば、実力順に、上から何人を達人とする、という事では無い、という意味)。

…えっと、このカテゴリー、いつもこんな書き方ですけど、意味、解りますよね? 結構ややこしい事書いてるから、なんか心配です(笑) このカテゴリーに関しては、あまり、「解りやすさ」は重視していないので…。

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武術・身体運動」カテゴリの記事

コメント

 武術の記号論というと高岡英夫がありますけど、あれはちょっとどうかなと思います。動いている映像はもちろんのこと肖像写真さえない古の人物までDS理論で分析しちゃって結構トンデモの部分がありますし。。。(私はどちらかというと井桁術理の甲野善紀の方が好みですが)
 ただ「気の流れ」とか「勁道」なんていうのは、運動する身体意識の言語化としてある程度上手く行ってる方でから、広まったんじゃないでしょうか。

投稿: katsuya | 2007年12月 3日 (月) 19:03

katsuyaさん、今晩は。

高岡氏は、トンデモとまともが混在した主張をする、という感じですね。ちなみに、このカテゴリーの記事には、高岡氏の名前が、バンバン出てきます(笑) 一部のDS分析に関しては、私は、完全に科学とはかけ離れた主張だと考えています(つまり、参考にしてはならない)。主張の仕方として、疑似科学的な説明をする場合もありますね。そこは、注意しておくべきだと思います。
そういう部分を除いて考えると、凄く貴重な仕事をなさっている、と捉えています。身体意識の基本的な定義等にも、賛同しています。でも、いきなり論理がぶっ飛んでしまう所があるのですよね…。

特に初期の本は、他の分野の人にも重要な示唆を与えるものだと考えているのですが、なかなか、論評している人を見かけないのが実情です…。

投稿: TAKESAN | 2007年12月 3日 (月) 19:35

高岡氏は、身体意識を、ストラクチャ・クオリティ・モビリティの観点から捉えていたりしますね。こういう分析とか、「極意」の解釈とかは、見事だと思います。合気についての論考を見ても、高岡氏の論理に追随出来る人は、ほぼ皆無ですしね。←これは、武術と科学が親和しにくい(両方勉強する人が少ない)のを、物語っているのかも知れませんけれど。

投稿: TAKESAN | 2007年12月 3日 (月) 19:40

 既にご存知かも知れませんが、ニコライ・ベルンシュタインの「デクステリティ」なんていうのはTAKESANさんの持っておられる関心に引き寄せてみると面白いんじゃないでしょうか。

関連ページ:http://www4.ocn.ne.jp/~kameidob/intro/30/Dexterity_Contents.html

投稿: katsuya | 2007年12月 3日 (月) 20:23

ご紹介、ありがとうございます。

運動学関連の知識は、ちゃんと押さえておかないとな、と感じています。

ご紹介のベルンシュタインの本、興味深いですね。運の良い事に、近所の図書館にあるようなので、読んでみようと思います。

投稿: TAKESAN | 2007年12月 3日 (月) 23:03

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