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2007年11月21日 (水)

当たり前、に

ドラゴンさんのコメントへのレスも兼ねて。

私は、典型的な、学校の授業が嫌いな人間で、「微積分なんかやって何の役に立つのだ」、という考えを持っていました。

で、後になって、数学の凄さとか、面白さに、気付いてきたのですよね。それと、「役に立っている」という事に。

そういう経験から、自分が子どもの頃に、どういうものがあれば良かったか、とか、養育者や、学校の教員に、どういう教えられ方をすれば、興味を持てただろうか、というのを、よく考えます。

それにはまず、「嫌わせない」のが重要かな、と思っています。これは、経験的な、感想ですが、社会一般的に、「わざわざ嫌わせている」、という所が、ある気がしています。別に出来なくてもいい、とか、ああいうのは一部の「アタマのイイ」人がやるものなのだ、とか。

頭の体操とかパズルとか、そういうのを好きでやる人は、結構いるのに、数学という抽象的な知識の体系になった途端に、尻込みしてしまう。そんな事がありますね。具体的な現象と結び付けられるかどうか、というのが、ポイントなのかも知れません。前にも書きましたが、学校用のテキストって、綺麗過ぎるのですよね。解る人が見れば、すっきり良く纏まっているのは解るけれど、今から学ぼうという人が読むと、恐ろしく難しい。もちろん、教科書というのはそういうものだ、という見方も出来ますけれど。でも、特に数学なんかでは、あまりにも抽象的ですよね。一般化・抽象化した概念の汎用性とか凄さを本当に「解る」には、もっと身近の現象に結び付けるなり、した方が良いと思うのですよね。学習科学なんかで研究されている教材等は、そういう風にデザインされていますよね。

真面目な話、今の、ヨガやらピラティスやらの教室みたいな感じで、大人に算数から教える教室が、広く普及すればいいのにな、とか思っています。通信教育とか社会人向けの大学とかだと敷居が高いし、そもそもある程度の知識が要求されるので、ライトな感じのがあっても良いかな、と。大人になってから、「やっていれば良かったなあ」、と後悔する人は、いると思うんですよね。私もそうですが。しかし、よしやってみよう、と思い立っても、なかなか。独学より、他人と一緒にやったり、教師に教えて貰う方が、圧倒的に合理的ですものね。大人の場合には、一応、語は憶えたりしている訳だから、「あー、そういう意味だったのね。」となって、理解も早いでしょうし。

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コメント

たとえば。

今はそうでも無いかも知れませんが、一昔前には、主に男子は、キャッチボールくらい出来るのが当然、だったのですよね。
でも、ボールを「普通に投げる」のって、かなり難しいんですよね。野球が普及していない国では、男女ともに、腕を綺麗にスイング出来ない投げ方しか出来ない。
そういう意味で、多分に「文化的」な事です。もちろんこれには、テレビで野球中継があったり、というのが影響しているのでしょう。

そういうのを踏まえて、記号の操作とかを憶えたり、というのが普通になれば良いのにな、と思います。

※余談。数学的に厳密な知識はともかく、ある程度抽象的な記号を操作する能力という面を見ると、現代の人は、圧倒的に優れていると考えています。もちろん、ケータイ、PC、コンシューマゲーム、家電の電子化、等々の影響で。で、それが社会に浸透しているから、「影響」などとは考えない訳ですね。比較的若い人たちは。一部の世代が、それに「色んな感想」を持つようですが…。――そういえば、柳田氏が新刊を出したとか。後藤さんとかが採り上げそうですな。

投稿: TAKESAN | 2007年11月21日 (水) 00:18

「何でも生活に結びつけて教えるべし」を強引に徹底させたカリキュラムが、戦後すぐのころに行われた生活単元学習であり、それに対する批判として遠山啓の水道方式だったという歴史は、ごぞんじでしょうか。「身近な現象に結びつけて」というのは、一見もっともらしいけど、いざ実行しようとするとあちこちでほころびが出てくるスローガンの典型なんです。

投稿: かも ひろやす | 2007年11月21日 (水) 10:09

TAKESAN こんにちは。

キゴウでの内海さんの指摘も含めて、耳の痛いところもあります。
ただ、言い訳にもなりますが、社会を含めて、学力への認識が違っているのも大きな要因だと思っております。
それで、浜井氏の引用をしました。「認識と現実の乖離による問題」です。

例えば、「式」です。多くが、計算のための道具ぐらいだと思っているのではないでしょうか。本来は、計算(思考)のプロセスや結果を表現するものとして理解してもらいたいのです。
ところがそういう学習は結果が見えにくいんです。その結果、保護者からもっと計算練習をしてくれ、となるんです。

実際は、算数・数学の計算問題の学力は低くないんです。問題があるのは演算決定です。どのように式を立てたらよいかが分からない。
東京理科大の高校生の学力調査でも、「問題が解けた」ことは自信をもっているんですが、その「解き方を説明する」ということになるとほとんどが自信がないという結果が出ています。
手順が分かっているから解けるけど、なぜそうなったのかは分からないということでしょう。

なぜ、こういう話をするかというと、「学習の楽しさ」には、ゲームのような楽しさもあるかと思いますが、根本は「分かることの楽しさ」だと思います。知らないことが知った快感、疑問が解決した快感、クイズやパズルでも、そういう快感がありますね。そういう「分かることの楽しさ」を授業で実現しなければいけないと思っているんです。式を使って自分の解き方説明する。他人の考え方を見て理解する。そして、「なるほど」と思える場面がある。ひたすら計算練習をするのではなく、そういう授業がよいと考えております。

最近おもしろいと思っているのは「たけしのコマネチ大学数学科」です。番組の最後に、問題の答を式を使って美しく説明しています。その場面で「なるほど」と快感を感じている人はたくさんいるのではないでしょうか。

ところが、社会は、なかなかそれを受け入れてくれないという現実があるのです。
教育の目標というのは、人によって様々です。大学合格を目標としている人にとっては、手順を覚えて解決していく方が効率的な場合もあります。

アメリカでも同様な議論がおきました。math warと表現されています。全米数学教育者協議会が出した授業改善が、数学者と保護者によって反対されました。カリフォルニアでは、保護者の力によって州議会で否決されました。「もっと計算練習をしなさい」ということです。

ちょっと愚痴モードですが、こんな現状です。

かもひろやすさん
生活単元学習の大元は、奈良女子大附属小学校の奈良プランですね。ご指摘もわかりますが、相反するものとは思いません。それぞれのよいところが必要なのではないでしょうか。
例えば、幼児でも「半分」ということは認識できますね。ところが算数の学習では4年生まで分数にふれません。もう少し生活実態に即しようという動きもあります。次の指導要領では、そういう配慮もされるようです。
水道方式も理解できますが、○○式というのは、なかなか定着しません。水道方式もつまずく子どもには有効でしょう。でも、子どもの実態は、もっと複雑なんです。いろいろな方法、考えを取り入れ、子どもに応じて使えるのがいいんですが、現在の教師の力量では、どうなるでしょうか。

投稿: ドラゴン | 2007年11月21日 (水) 13:03

かも ひろやすさん、今日は。

いえ、その歴史的経緯については、よく存じません。

ところで、
 >「何でも生活に結びつけて教えるべし」

という意味合いの主張は、私はしていないですよね。一連のエントリーで、そこまでの強い言い方はしていないつもりです。
私が言いたいのは、どちらかといえば、社会一般における、学術的知識に対するイメージについてが、主ですね。こちらが圧倒的に重要であると思っています。
で、教科書やカリキュラムについては、あまりにも、抽象的な知識の教え込みに終始している、という印象です。とっかかりと言うか、敷居を下げる意味でも、ある程度は、身近の現象と結び付けたやり方をシステムに組み込んで欲しいな、という気はします。
追記:これについては、私が受けた当時のものを基にしているので、あまり良くない書き方かも知れませんね。ちゃんと、歴史を押さえてから言うべきですね。

ちょっと伺ってみたいのですが。

私は、
現在の数学教育のカリキュラムや、「教え方」が、抽象的な記号の操作などを「嫌わせている」事がある。また、それが、社会一般における、やってもまるで役に立たない知識だというステレオタイプを、形成してしまっている。
というのが主張なのですが、かも ひろやすさんは、この主張については、どう思われるでしょうか。

------

ドラゴンさん、今日は。

基本的には、私が書いているのは、今まで授業を受け、教科書を読んで得た印象から、もっとこうなって欲しい、こうだったら楽しく取り組めたかな、という事で、そういう意味では、とても幼稚な発言なのですよね。社会総体として見れば、また別の考え方をすべきなのかも知れない。ただ、個人的には、「社会への”浸透の仕方”」は重要だと思っています。これはつまり、俗に言う「数学アレルギー」的な人が少なくなる様な教え方をすべきであろう、という事ですね。
そういう考えを持っているので、ドラゴンさんがいつも仰る教育論に、賛同です。

武道でもそうなのですよね。型を表面的になぞった、手順だけ憶えたものは、それなりに、かたちになっている。昇段審査も、クリアする事が出来る。でも、型の「機能」になると、まるで解っていない場合があります。

「社会への浸透の仕方」。上のキャッチボールの喩えでも書いた通り、どれくらい普及していて、それがどういう印象を持たれているか。野球なんて一部の人間がやるもので云々という社会的認知があれば、子どもの頃当たり前のようにキャッチボールをしていた風景、などというものは、消え去るかも知れません(最近は、大分見られなくなった感がありますが)。
そういう感じでしょうか。

投稿: TAKESAN | 2007年11月21日 (水) 13:41

はい、TAKESANさんが、かつて生活単元学習を推進した人々と同じ考えの持ち主だとは、私も思ってはいません。「身近な現象に結びつけて」が言うは易し行うは難しの典型であることを言うために、極端な失敗例をあげただけです。

数学は抽象的だからこそ汎用的なんです。「数学」のカリキュラムとしては、数学が役に立つことを伝えるためにこそ、抽象的に教えるべきです。その意味で、1970年代のいわゆる現代化カリキュラムは、「数学」に限っていえば、完成度の高いものでした。(高度すぎてすべての高校生に適するものではないとの批判は当時からあって、それはそれで正当な批判でしたが、それについてはここで論じていることとは別問題です。)その後は、学習指導要領の改訂の度に、小手先のつじつまあわせがその度に裏目に出て、数学のカリキュラムは劣化し続けています。

数学の応用性については、「数学」を名乗る科目よりも応用している側の科目で伝えるのが効果的です。現行の高校のカリキュラムでは特に「物理」と「情報」ですが、残念ながら、どちらも学習指導要領の内容がボロボロです。TAKESANさんのおっしゃる「数学の凄さとか、面白さ」を伝えるには、そっちをなんとかすることのほうが重要です。「物理I」で「加速度は変位の二階微分係数である」とはっきり書くだけで、どれだけ違うか。

その上で、「物理I」と「情報B」は必修にする必要がありますね。

蛇足ですが、個人的な意見としては、水道方式が特に優れているとは考えていません。ただ、生活単元学習があまりにもひどかったので、その対抗勢力として(当時は)存在意義があったのだろうと思うだけです。現時点での水道方式の有効性には懐疑的です。

投稿: かも ひろやす | 2007年11月21日 (水) 15:13

ああ、なるほど。

▽▽▽引用▽▽▽
数学の応用性については、「数学」を名乗る科目よりも応用している側の科目で伝えるのが効果的です。
△△引用終了△△
確かにそうかも知れませんね。

私も、数学を抽象的に教える事自体は、必要だと思います。私が考えているのは、上手く表現出来ないのですが、階段の一歩目は、もっと低くしても良いのではないかな、という感じでしょうか。抽象的なものと、身近な現象的なものとの結び付きを理解した上で、抽象化の度合を高めていく、と言うか。仰るように、他の科目で伝えるというのも、有効かも知れません。
ただ、これは別の所に書いたのですが、私は情報処理系の勉強をしていて、プログラミングも齧ったのですが、それでも、「数学」は嫌いだったのですよね。これが、再三言っている、印象であるとか、俗に言う数学アレルギー、という事で、そういうのを解消するためにはどうすれば良いのだろうか、というのは、いつも考えています。

自身が数学を積極的に学ばなかったのは、「役に立たないという情報を鵜呑みにしていたから」、「公式なりが何を示しているのかが、まるで理解出来なかったから」、ですね。もっと言うと、「面白く無かったから」、という。これは、出来なかった人間の事例として考えて頂ければ良いかと思います。

先にも書いたように、社会一般に広まる数学や理科へのイメージとか、そういうのが、とても重要だと考えています。ですから、「当時どういう状況であったら、自分は積極的に学習しただろうか」、という書き方をしてみています。当然、それが一般化出来るか、というと、それはまた、別の問題かと思いますけれども。

------

これは、超余談ですが。
私自身は、大人のリテラシーをなんとかすべきなんじゃないかな、と思っています。子どもにものを教えるのは、大人ですしね。そういった意味で、本文に、カルチャースクール的なものがあっても良いのではないか、という事を書いてみました。ドラゴンさんが出された、コマネチ大学の様なものが身近にあれば(より浸透すれば)いいな、と。

投稿: TAKESAN | 2007年11月21日 (水) 16:28

たけしのコマネチ大学数学科
なんかエミー賞にノミネートされたみたいですね。審査する人たちは日本のバラエティーも見てるんでしょうかね。

紅白の司会に中居、つるべーを起用した
???なNHKですけど
NHK高校講座とか いい意味で硬さをくずして 上手い番組つくりになってるとおもいます。

ジョージ・ウイリアムズから和希沙也まで
やったNHKと感じさせない英会話講座は画期的だったとおもいます

あの感覚で、ホント、ヨガやフラダンスを習う感覚で数学講座やって欲しい気がきます同じく。

それにしてもタモさんのジャポニカとは対称的ですねコマ大数学科は。

投稿: 躯 | 2007年11月21日 (水) 21:58

躯さん、今晩は。

 >たけしのコマネチ大学数学科
 >なんかエミー賞にノミネートされたみたい
 >ですね。
おー、それは凄いですね。ああいう番組、もっと出てきて欲しいです。

NHKの講座って、よく出来ていますよね。夜中に再放送やっているのをたまに眺めたりしますけれど、いいですよね。
民放もやってみれば、結構観る人はいそうな気もします。テレビならではのエンターテイメント性を付加したりして、上手く作れそうだと思うんですけどね。あんまり柔らかくしないように配慮はして。平成教育シリーズなんかは、いい番組だと思います。

スカパーでも、サイエンスチャンネルとか放送大学(これは、バリバリに硬いですけれど)とかあって、コンテンツとしては、結構あるんですよね。そういうのを使うのもいいですね。

投稿: TAKESAN | 2007年11月21日 (水) 23:09

あのう。
つまらんことかもしれないんですけど、ひょっとするとTAKESANさんが書いておいでの話は、1970年代の中学を念頭に置いたもので、ドラゴンさんが書いておいでの話はいま現在の小学校中学年を念頭に置いたものだったりしませんか?

先入観でもいいから「あの頃に小学校で受けたこういうやり方は」とか、「いま中学校で行われているらしいこういう指導は」とかって、ある程度前提を限定してくれるとうれしいです。そうでないと、なんとか主旨だけでも汲み取ろうとしても、読み取れるかどうか、はなはだ不安です。

投稿: 亀@渋研X | 2007年11月22日 (木) 09:29

みなさん、こんにちは。

ちょっと愚痴モードで、恥ずかしい限りです。
そうですね、私の議論は現代です。
私のは総論的な話ですね。TAKESANさんは、ご自分の経験からの各論でしょうか。

かもひろやすさんご指摘の70年代の現代化カリキュラムは、今でも評価が高いです。40を越えている人たちは、これで習っているはずです。
ただ、これも失敗と言われているんですが、その理由は、教師がついてこれなかったということだそうです。その反動からゆとり路線が始まりました。
私は、そのカリキュラムで習った世代に入りますが、まわりを見ても数学が良い世代とは言えないように思います。
要は、教師の力量なんでしょうか。

算数=計算学習と捉えている教師に「集合」の学習は無理でしょう。そして今もそう考えている教師や保護者が大部分です。
そういう意味で、教師や保護者の数学観が変わらないと、授業を変えていくのは難しいと思うのです。

応用している科目で対応するというのは大賛成です。小学校でも理科や社会科で早い時期からグラフを使いますが、算数の方があとなんです。
授業時間も少なくなっているので、こういうところをうまくやりたいです。

投稿: ドラゴン | 2007年11月22日 (木) 11:15

>亀@渋研Xさん

ああ、確かにそうですね。凄くぼやけた書き方をしていました。配慮に欠けていました。

私が念頭に置いているのは、1980~90年代前半の頃です。ゆとりカリキュラムの頃、でしょうか。
で、印象としては、一連のエントリーで書いている通りで、記号の表面的な結び付きを暗記したり、しっかりと意味を理解させようとしないもの、でした。

------

ドラゴンさん、今日は。

私の主張は、社会全体で、数学なりが、どういう印象を持たれている状態が望ましいか、という部分を考えているもので、その対比として、好ましく無い状態の例を出そうと思い、自身の経験を書きました。亀@渋研Xさんがご指摘下さったように、あの書き方では、いつの頃の話をしているのかが全く解らないので、よくありませんでした。

私の考えは、カリキュラムそのものを評価する視点と共に、社会で(世間で、と言った方がいいかも知れない)どういうイメージを持たれているか、という視点が重要なのではないか、というものです。

これは、自分の経験から…。
やらない人は、いかなるカリキュラムであってもやらない、という感想です。だから、まずやらせるには、という視点から書いています。これはもう、下位から数えた方が早いような成績だった人間の、自分勝手な書き方です。濃密なカリキュラムと関心を持たせるやり方は両立するのでは? という考えを持っています。

うーむ。激しく曖昧な書き方ですね…。これだと、何を言ってるかさっぱり解らん、という感じだなあ。

投稿: TAKESAN | 2007年11月22日 (木) 14:34

民法は数字とれないとまったくやる気しなさそうなんで Gyaoとかネット配信してるような所からやってくれると嬉いですね。

きくちさんが視点論点にでて その動画がYouTubeに上がった消えた ワーワー言わないで いっそのこと自分で撮ってGyaoにだすとかしたほうがいいのかも

ニセ科学関連のシンポジウムに かなり日と集まるならそれらをデジカメでとってGyaoに載せても 結構見る人いるかもしれないし。

サイエンスチャンネルは日テレでスクランブル解除されてOAされてるんでしたっけ でも知らない人がおおすぎますよね

放送大学は堅いといったら堅いですねがNHKの影響をうけて欲しいです^^

投稿: 躯 | 2007年11月22日 (木) 14:43

あー、GyaOなんかでサイエンス系のチャンネルをやるのは、良さげですね。確かに地上波だと、なかなか難しそうです。もちろん、テレビの威力というのは凄いのですが。

サイエンスチャンネルは、日テレプラス&サイエンスと、子育て支援・サイエンスチャンネル ですね。WEBでも観られますけれど。

放送大学は、バラツキがある気がします。めちゃくちゃ面白いものもあれば、テキストを読んでいるだけのようなものもあって。

投稿: TAKESAN | 2007年11月22日 (木) 14:54

このエントリーに、ちょっと関係するかな⇒http://takekuma.cocolog-nifty.com/blog/2007/11/post_b18b.html

小飼さんのブログ経由で読みました。

何と言うか、典型的、って感じかなあ。「すべての人間が学者になるわけではない。」って言い方はね…。
私は学生時代、竹熊氏と同じ様な過ごし方でした。で、すっごく後悔してるんですよね。だから、「微積分なんて何の役に立つの?」と思った経験を、批判的に捉えている訳ですね。「役に立たない事、役に立っていない事、が解り切るくらい勉強したの?」ってね。「自分にとって」、なんて、あまり良くない書き方ですしね。それはちょっと、視野が狭いかな、と。

大泉氏の、「素晴らしい」という発言、何がどう素晴らしいのでしょうね。引用部だけでは、何とも言えませんが。

受験勉強の面白く無さを否定するものでは無いのですけれどね。でも、小学6年までの内容で充分であるとか、そういう話に持っていくのは、どうかと思うのです。
私がこの手の論を書く時に、常に念頭に置いているのは、「充実した内容を、興味を持たせて教えるにはどうすれば良いか」、という事です。内容を減らすとか、そういう事では無くてね。

エントリーには続きがあるみたいなので、アップされたら、また何か書くかもです。それを踏まえて書きますが(後で、タイトルに込められた含みが判明する場合があるので)、「独学に勝る勉強はない」という意見には、反対です。

独学については、corvoさんがお書きになったエントリーが、参考になるし、深く賛同します。
http://www.studio-corvo.com/blog/karasu/archives/2007/08/post_338.html
http://www.studio-corvo.com/blog/karasu/archives/2007/08/post_340.html

独学とそうで無いものを、どう分けるか、という話もありそうですが、ノータッチ。

投稿: TAKESAN | 2007年11月28日 (水) 15:39

たけくまメモはチェックしているので、このエントリは読んでました。で、ううむ、困ったなあなんて思っていました。

竹熊さんのように高校の頃からなにか没頭していた人間にとっては、きっと、ほんとに高等学校ってなんのためにあるのかわからなかったんだと思います。しかもサブカルにどっぷりだと、学校で習うことって鼻持ちならなくてしょうがない、なんてよけいな感情もわいてしまうに違いなくて。
実はぼくも似たようなものでした。高校を飛ばして大学に行く方法はないものかと考えたりしました。大学に行く段になると、今度は編集実務を学べるところだったら行きたい、なんて考えてて。いや、ボクの場合は受験から逃げているという部分も多々あったに違いないのですが(汗

まあおおざっぱに言えば、なにかを学ぶのに学校しかないなんてことはない。だから「ナニが何でも、誰でも高校から大学だ」ってのはおかしいってのはわかる。でも、だからと言って学校はいらないというのもおかしい。極論に過ぎる。そんな感じ。
独学の限界についても、TAKESANさん(ていうかcorvoさん)のおっしゃる通りだと思うし。

んで、さっきたけくまメモのコメント欄(ていうか、コメント用掲示板)を見て、No.23で伊藤剛さんが書いている意見に共感しています。
http://www2.atchs.jp/test/read.cgi/takekumamemo/82/

まあ、その後の26の竹熊さんの話を読むと、続きのエントリを見てみないとなんとも言えない部分もありますけど、いまの段階では乱暴すぎる意見ですよね。

投稿: 亀@渋研X | 2007年11月28日 (水) 17:30

 私も、「勉強なんて役に立たない」という言葉にはよく引っかかってしまいます。

 昔、検索で偶然たどり着いたページにあった雲和広という先生の講義資料に書かれていた言葉に共感して、たまに引用しています。

「死ぬ気で勉強したこと無いうちに「勉強なんて役に立たない」とか言わないでね」

 勉強に限らず、「○○なんて役に立たない」という言説は、かなり限定的にしか使っちゃいけないような気がしています。

 ちなみにこの言葉って、

「死ぬ気で勉強したこと無いうちに「科学なんて役に立たない」とか言わないでね」

 と、トンデモさんたちに言ってしまいたくなることが、よくある。(^O^)

投稿: みづ | 2007年11月28日 (水) 18:10

亀@渋研Xさん、今晩は。

あ、掲示板は読んでいませんでした。ありがとうございます。
伊藤剛さんのコメントには賛同しますね。

竹熊さんのエントリー、ちょっと極端に見えるのですよね。もちろん、真意としては、掲示板での伊藤剛さんへのレスの通りなのでしょうけれど、エントリーの書き方としては、軽く首を傾げてしまいました。なんでしょうね。学校教育システム批判の典型に見えてしまう、と言うか。

言いたい事は解るし、大いに肯ける所もあるのだけれど、もう少し、体系的な知識を教える場としての学校の役割、という部分についての記述を練って欲しかったな、と。続編があるみたいなので、そこでフォローされるのかも知れませんけれども。

------

みづさん、今晩は。

▽▽▽引用▽▽▽
「死ぬ気で勉強したこと無いうちに「勉強なんて役に立たない」とか言わないでね」
△△引用終了△△
ああ、これは素晴らしい言葉ですね。

私も思います。役に立たない、なんてのは、それを極めた人が、何らかの含みを持たせて言ったりする事で、初めて説得力を持つのだ、と。

写真で建物を見て、テキトーな事を言う様なものでしょうか。
私などは、「科学」という建物の構造を知りたいと思い、いざ近くに立ってみたら、その余りの巨大さ、精密さに、「ははは……こりゃ凄いわ。」となった様な感じです(笑) この話、poohさんの所でも、何度も書いていますけれど。

トンデモな人達とかニセ科学な人達に、「じゃあ、科学を勉強してみて下さい」、と思う事は、結構ありますですね。

------

私は、「勉強なんか役に立たない」と言う人に、ここで役に立ってるんだよ、と言えるくらいは、勉強しておきたいですね。

投稿: TAKESAN | 2007年11月28日 (水) 18:46

こんばんは。

>写真で建物を見て、テキトーな事を言う様なものでしょうか。
私などは、「科学」という建物の構造を知りたいと思い、いざ近くに立ってみたら、その余りの巨大さ、精密さに、「ははは……こりゃ凄いわ。」となった様な感じです(笑) 

 あー、その感覚、分かります。(^O^)

 そうだとすると、トンデモは半日で組み立てた映画のセットみたいなイメージかなあ。
 (そのように作ってるんだから)魅力的に見えてしまうのは仕方ないけれど、奥行きがないものだからちょっと別の方向から見ると裏が見えちゃうし、風が吹くとすぐに倒れてしまう。
 それを「こっちの方がきれいに見えるもん!!!!!!」と言われてる感じかなあ。(^O^)

投稿: みづ | 2007年11月28日 (水) 19:22

こんばんは。なんだかタイムリーに、こんなエントリーを見つけてしまいました。
http://blog.goo.ne.jp/rinne_1991/e/f198b7c83eca5569077240a661ef0a52
僕自身、高校で勉強に挫折したので、今それが大きなネックになっています。古生物を理解するための基礎的な学力が、決定的に不足しているという自覚があります。人間、どこで何が必要になるかわかりません。
古生物に出会わなければ、今も喰えない絵描きか、絵を辞めていたかもしれません。

たけくまメモも読みました。勢いでトラックバックも打ちました。才能ある人間というのは数多くいます。その中から一握りの人間が成功するのが現実であるのは確かです。では、なぜたくさんいるはずの才能ある人間を成功に導けないのか。ここに大きな問題があると思います。社会的な損失でもあると思うのですね。
たくさんの才能ある人間の中から一握りしか成功者が出ない社会は、決して豊かではないと思います。

投稿: corvo | 2007年11月28日 (水) 22:28

>みづさん

この流れでニセ科学を形容すると、「張りぼて」が、ぴったりですね。ちょっと小突いたら、ガラガラ崩れそうな感じ。でも正面から見ると、本物かな、と一瞬思ってしまいそうな。プロフェッショナルが見ると、正面からでも、直ぐに見抜ける訳ですね。

------

corvoさん、今晩は。

リンク先、読みました。「気持ちは解る」、のですよね。もう、物凄く解る。ある程度賢ければ、やらされてる感とか、記号を憶え込むだけの勉強の無意味さとか、そんな事を考えてしまう。
でも、そういう状況も解るけど、学問の大切さというものに後から気付いた者としては、そのままではとても勿体無いよ、と感じるのですよね。

私は、武術を勉強する過程で、バイオメカニクスが必須だという事が解り、それを理解するには、解剖学や力学(という事は、数学が必須)が絶対要るのが解り、という流れでした。そういう時には、自分が築いてきた土台の脆弱さに、愕然とします。言い換えると、土台を築かなかった事に、ですが。
本当は、時間を貰って勉強出来るのは、とてもありがたい事なのだと思います。そして、その事に早く気付くのは、重要ですね。

お節介にも、あちらにコメントしてみました。投稿してみたら、めちゃくちゃ長かった……アイタタ。

後段の部分、その通りだと思います。

竹熊さんが、「独学」をどういう意味で使っているか、とか、続きで、もっと明らかになるかも知れませんね。

------

思うのは、こちらにコメントを下さる皆さんや、私、の意見みたいなものが出るのは(勝手に、同じ様なものと看做して、ごめんなさい)、「科学」を意識しているから、かも知れません。もちろん、科学を騙るもの、についても。

投稿: TAKESAN | 2007年11月29日 (木) 00:45

よく書く事だけれど。

「相手の将来にとって役に立つか」、という観点より、「役立てられている」事を知らしめる方が、重要な気がする。あなたが使ってるパソコン、どうやって動いてるか解ってる? とかね。

それで、でも自分には関係無いや、と思うのなら、まあ、それでいいかな、と。しょうが無い。

私は、面白いと思わずに物事に取り組むのは、どうなんだろうな、と思う人間です。

一応補足。
「面白さ」と「きつさ・苦しさ」は、相反しません。

投稿: TAKESAN | 2007年11月29日 (木) 01:54

私も皆さんと同様に勉強が嫌いでしたが(この言い方は失礼かな)、そのときの気持ちを素直に表現すると、「勉強した方がいろいろなことが判って面白いのは分かってるけど、役に立つことも分かってるけど、勉強すること自体がどうしてもいやなんじゃ~」という感じです。でもこれを人に話そうとすると、「こんなの役に立たない」と、言い訳めいた感じになることが多いですね。

勉強にしてもスポーツにしても(私は経験ありませんがおそらく武術にしても)入り口は我慢になってしまいますね。我慢できない場合はしょうがない気もしますが、一旦は我慢して続けてみる癖をつけることが出来ればなあと思います。

(そうは言っても、ゲームで退屈な経験値稼ぎに時間を費やす我慢は出来ても、英語を聞く我慢は出来ない自分がいますが。英語のゲームだったらどうだろう?なんかいけそうな気もする)

投稿: Noe | 2007年11月29日 (木) 09:25

みなさん、こんにちは。

竹熊氏のような話は、よくあって世間一般の認識なんでしょうか。そしてこれも大きな誤解だろうと思っています。

学習というのは、一対一の対応ではなくて、様々なものの積み重ねで培われるものなんです。
Aの練習をしたらAだけの結果が出て、Bについて学習したらBだけの学力がつくというわけではありません。役立たないようなものの小さな積み重ねがあってその能力なりが発揮されるのです。
画家でも、文学や数学や理科や社会など、いろいろな積み重ねで、その人の作品世界ができあがっているんだろうと思います。

役立たない学習の典型として分数のわり算や因数分解が出ますよね。分数のわり算の学習では、わり算の手順を覚えることだけが目的ではなくて、わり算を通して、数の性質を理解したり、本来は複雑な手順を「ひっくり返してかける」というシンプルな手順におきかえるという数学的な思考も身につけてほしいのです。そこには帰納的な考えもありまし、演繹的な思考もあります。
そういうわけで、例えば議論の中で、複雑になってきた事項を整理して一般化しようという手順の中に、分数のわり算で身につけたことが役立っていることもあるでしょう。

みなさんが、ここで書かれているコメントも、国語の学習の成果ではないですよね。漢字などの文字はもちろん、振り返ってみれば、いろいろな学習の積み重ねの成果だと分かるかと思います。

ただ、日本の児童生徒は、国際調査でも学力は上位ですが、勉強が好き、勉強が役立つと考えているのは、ずっと下の方なんです。もっと上手く説明して、竹熊氏のような意見が出ないようにしなければいけないんですが。

投稿: ドラゴン | 2007年11月29日 (木) 11:38

こんにちは。

よく「学生は勉強が仕事だ」なんて言いますが、これって「学生は勉強が遊びだ」にならないもんですかね。

あと、なにで読んだか忘れましたが、「嫌いならやらなくてもいいけど、苦手なら挑戦しましょう」というのを思い出しました。

投稿: A-WING | 2007年11月29日 (木) 12:12

Noeさん、今日は。

私も勉強は嫌いでした(笑) もう、物凄く。

なるほど、そういう考えの場合もあるのですね。私の場合は、「マジで役に立たない」、と思い込んでいました。やった事も無いのに役に立たないと考えるという、ダメダメな認識ですね。

やっぱり、初めの方は、つまらないものなんですよね。何でもそうだと思います。楽器練習しかり(やった事無いですが、一瞬で挫折した人とか、いますよね)、武術しかり。で、そのつまらないものをやるモチベーションとして、「先に何があるか」が判っているかどうか、というのが、重要なんじゃないかと思っています。好きな曲を弾きたい、とか、力を使わずに投げ飛ばしたい、とか(物騒ですね)。で、私が一連のエントリーで書いているのは、あまりにも先が見えないと、つまらないよね、という事なんですね。その「先」が、色々なものに役立てられている、という所だったり。

ゲームは、そういう部分が絶妙なのだと思います。動機付けの報酬を与えるタイミングと、何があるかという解りやすさのバランスが素晴らしい。言い方を換えると、そのバランスがいいのが、良いゲーム、という事なのかも知れません。
経験値溜めて(貯めて?)レベルを上げて、早くイオナズン覚えさせるぞ、とか(笑) そういう目的があれば、つまらないものも続くのでしょうね。もちろん、それ自体が面白くなる場合もありますね。

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ドラゴンさん、今日は。

私がいつも思うのは、抽象化され、整然とした纏まった知識を「役に立たない」と思わせる場合があるのではないか、という事です。
それを象徴的に表したのが、「型にはまるな」、という言い方であろうと思います。本来、そういうものは、柔軟で創造的な思考を促し、硬直的思考を戒めるための言い回しであったと考えられますが、それがいつの間にか、「型を否定・忌避」する言い方になってしまったのではないかな、と。多分に推測を含みますが。
あれです。「楽譜を読めない一流」がいるという情報から、「楽譜など読めなくても良い。むしろ、型にはまってしまう。」なんて考えるのと一緒、と言うか。

で、実際、学校での勉強が、「型の押し付け」に感じられる事が、あるのだと思います。これには大きく、「先入観」が作用しているのではないかと。

だから、再三、社会全体でどういう印象を持たれているか、という事を、書いてみています。極端な話、カリキュラムは全く変わらなくても、印象や、対象への「意識」が変わるだけで、学習の在り様も全然異なるのではないかと考えます。

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A-WINGさん、今日は。

ああ、わが意を得たり、ですね。

なんだか、マスメディアとかも協力して(しまって)、勉強は面白く無いものだ、という印象を、社会に形成している気がするのですよね。たとえば、受験戦争批判、偏差値批判→それに関わる、「勉強をする事」自体の無意味さを仄めかす  という感じで。気がする、と言うか、自分はそうだった、という話ですけれども。

投稿: TAKESAN | 2007年11月29日 (木) 12:41

独学は駄目ですよ。むしろ天才にとってこそ、独学は才能の浪費です。たしかに、歴史上、独学で何かを極めた天才は多数いますが、それは、独学で才能を浪費してもまだ才能が残るほどの天才であったということにすぎません。つまり、天才だから独学に耐えたのであって、独学が天才を作ったのではありません。

数学とか物理学とか情報科学とかだったら、教師につかずに良い教科書を読むだけで習得することも可能です。しかし、独学だと、良い教科書に出会うことができないんです。最初の段階で、「まず、この教科書を読むと良い」と言ってくれる助言者がいないと、良い教科書に出会えないのです。高校生でも、ドラゴンブック(Aho, Sethi, Ullman 共著のコンパイラの教科書の定番。表紙のドラゴンの絵からこう呼ばれる)を読んで理解できれば、ちょっとしたコンパイラを書くことはできます。それが可能な能力を持つ高校生は無視できない数いるでしょう。でも、「プログラミング言語を作ることに興味があれば、まず、コンパイラの教科書を読め。ドラゴンブックとか良いぞ」と助言してくれる大人が周囲にいなければ、高校生がドラゴンブックにたどりつくことはできないのです。

今になって思えば、子供のころの私の周囲に現在の私の立場にいる大人がいなくて適切な助言者を得ることができなかったために、いろいろと無駄な遠回りをしてきたと感じています。過去の自分に助言したいことがいっぱいあります。

少年のころの私にドラゴンブックを勧めてくれる大人がいなかった境遇を恨む気持ちがあるわけでは……ちょっと、あるかも。

投稿: かも ひろやす | 2007年11月30日 (金) 18:13

かも ひろやすさん、今晩は。

 >つまり、天才だから独学に耐えたのであ
 >って、独学が天才を作ったのではありま
 >せん。
私もそう思います。
独学だと良い教科書に出会う機会が無い、というのは、まさにそうですよね。
遠回りをした、というのは、私も実感している所です。
何と言うか、前にも似たような事を書きましたが、独学を正当化するために、誰かについて学んだり、体系的な知識を勉強する事に、「型にはまっている」と、ネガティブな評価を与える人が、いるような気がします。「独学であった方が」、という見方ですね。

私としては、独学が成功したという人がいた場合、その人が超天才であったか、その人が取り組んだ分野のレベルが低かった(未成熟であった)かの、いずれかであると思います。知識も蓄積されて、取り組む人が多くいるのに、それを独学で極めようというのは、あまり合理的では無いかな、と。

もちろん、独学を否定するものでは無いのですけれども。膨大な情報を容易に手に入れられる時代でもありますし。ただ、時間的には無駄があるとは思います。

投稿: TAKESAN | 2007年11月30日 (金) 20:08

TAKESANさんと、かも ひろやすさんとの議論を引き継ぐかたちのお話しになりますが。pooh臭く云うと、独学は効率が悪くて不経済、と云う話になるかと思います。

以前corvoさんと同種の議論をしたことがあって。「自分固有のユニークな才能」で食べてらっしゃる方が独学を否定されていたので、その説得力たるや、って感じでした。

とは云えぼくもどれだけ勉強嫌いだったことか。学生のうちにもっと勉(以下略)。

投稿: pooh | 2007年12月 1日 (土) 08:54

poohさん、今日は。

効率が悪くて不経済、というのは、まさにそうだと思いますね。

 >「自分固有のユニークな才能」で食べてら
 >っしゃる方が独学を否定されていたので
なるほど。これは、大変な説得力を持ちますね。

投稿: TAKESAN | 2007年12月 1日 (土) 12:49

こんばんは。
竹熊さんのエントリを読んでの感想を今さらながら書きたいと思います。
まだ私の中でも考えが纏まっていない所があるので、長くなりますが(^_^;)

まず竹熊さんの考えや気持ちは個人的にはとても良くわかるんです。
ただ、その「わかる」はなんというか「オタク」としての竹熊さんに対する共感としてですが。
私もアニメオタクなので(^^ゞ論としては典型的なオタクの発想に見えます。
だから想いは伝わってくるんですよ、でもやっぱり「独学に勝る勉強は無い」や「読み書きそろばんだけで十分」は行き過ぎではないかと。
理由はいくつかあって、TAKESANさんや皆さんの意見と被るものもあるんですが、あまり被らないものをいうと、例えばkikulogでの最近のエントリにSFやフィクションにおける科学的なリアリティに関するものがありますよね。
ああいったフィクションにリアリティを持たせるための科学的知識を、クリエイターはある程度持たなければ、マンガであれアニメであれSFであれ深いメッセージ性を持った作品は描けないのではないかと思うんです。
学校で学ぶ体系的な知識は、サブカルチャー的な知識と対立するようなものでは無くて、相互補完的に扱えるはずなんです。
その視点が竹熊さんの記事には抜けているように私には見えます。

投稿: 内海 | 2007年12月 2日 (日) 19:06

内海さん、今晩は。

竹熊さん、続きのエントリーも書いておられますが、それも含めて、同意出来る所は、多々あるんですよね。選択肢を増やすとかは、特にそうですね。※個人的には、選択肢を増やすのも大事だけれど、現行の学校教育に対する「印象」とかを改善するのも大切かな、なんて考えています。

何でしょう、体系的な知識と、それを修得する事に対する、スタンスと言うか、重み付けが違っているのかも知れませんね。私は、それが、ベースとしてとても重要だと思っているのですよね。そこら辺が関係している気がします。

それと、思うのは、竹熊さんが仰る「独学」は、通常とは意味が異なるのかな、と。取り方によって、かなり多義的に解釈出来てしまう感じがします。

投稿: TAKESAN | 2007年12月 2日 (日) 20:33

こんばんは。
続きのエントリーも読みました。こういった議論になったときにいつも違和感を感じるのは、クリエイティブなことは教育できないといった論調です。もちろん個性を教育することはできません。でも、基礎の部分を学んだり教育することは出来ます。
実際の現場で学ぶ事や吸収できることは、学校教育とは比べ物にならないと思いますが、だからといって学校がその役割を放棄するのはどうかと思います。逆に、社会に出てからスムーズに適応出来るよう、学校の段階で準備することは出来るでしょう。
なんというか、社会にいる側が上から目線でいるように感じてしまうのですね。
アメリカの絵の教本なんかを見ると、必ずと言ってよいほど、契約書の書き方や契約の仕方などが書いてあります。仕事の上では必要不可欠な事です。日本ではこういったことを学校教育で教えずに、社会に出てからいきなり直面させています。これはあきらかなカリキュラムの欠陥だと思います。出来る準備をさせておかないで、社会は厳しいんだ、甘い物ではないんだ、という物言いには、とても反発を感じます。
非常にロスの多いシステムだと思います。

投稿: corvo | 2007年12月 3日 (月) 02:11

corvoさん、今日は。

 >なんというか、社会にいる側が上から目線
 >でいるように感じてしまうのですね。
これは感じます。なんでしょう、教えずにいて、いきなりそれを求める、と言うか。出来る訳が無いのに、という。不合理だと思います。

竹熊さんは、体系的な知を学ぶ事の重要さを実感しておられない、のでしょうね。その様な意味合いの事をお書きですし。
実感レベルの話に持っていくのは良くないかも知れませんけれど、恐らく修めて無いであろう人が、「不必要性」を主張しても、説得力は大きくはならないのでは、という気もしています。

投稿: TAKESAN | 2007年12月 3日 (月) 12:23

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