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2007年11月18日 (日)

メタぶりっく

メタぶるのは何故か、というのを考えてみました。

一言で表現すると、「具体的な勉強をせずとも、解っているように思われる(と思っている)から」、かな。

色々な分野の、それぞれを概観した本なりを読んで、表面的な知識を得て、メタ的な事を言っていれば、「解っているかのような」表現は、出来るから。

「自分が解っていない事を他人に気付かれたく無い」、という心理でも働くのでしょうか。それで、クイズに答えられるような、知識の蓄積は進むけれど、それを「理解」している訳では無い、という。

言葉というのは、よほど統語が破綻していたり、まるで意味がはずれた使い方をしていなければ、読む事は出来るのですよね。必ずしも、書き手がちゃんと解っているので無くとも、それなりの文章が成立する事は、あり得る。

自分が以前に書いた文を読んで、「あの頃は、ちっとも解っていなかったはずだけど、結構良い事書いてるなあ。」と思った事、ありません? たまたま、用語の使い方とかが上手くいって、後から読んでも、まあまあの文章が書けているように見えるという。その対象に関する理解度はまるで違うのに、今同じテーマについて書いたとしても、同じ様な文になるだろうな、と思う、とか。

メタ的な内容であればあるほど、そういった傾向がありそうな気もします。具体的になってくると、誤魔化しが通用しなくなる。細かい所に突っ込まれると答えられないとか。

だから、なるべく一般論を書いていれば、よほどはずさない限りは、ある程度は読める、解っていると感じさせる事が出来るのだと思います。

具体的な事を、勉強しなくて済みますからね。楽と言えば、楽なのでしょう。

より「解っている」人は、簡単に見抜いたりするんですけどね。概念に対する注意深さのレベルが違うから。「解っている」人は、「解っていない人」が、文章なりに、「自分が解っていない事を気付かせるような含みを持たせている」事も、解ったりしますが。

なんか、取り留めの無い文章ですね。ホントに解ってるのかねえ。

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コメント

議論をメタなレベルに持っていく、と云うのは、その議論が含みうるこまごまとした無数の事象をある程度捨象して、整理して、抽象化する、と云う作業ですよね。

で、この作業をある程度しないと議論は形成できない。なんと云うか、縦横10,000個ずつ升目のある将棋盤で20,000個の駒を使ってやるチェスみたいになってしまうので、議論を行うこと自体が知力の限界を超えてしまう。
だから、注意深く事象を選択して、8×8の盤面でそのシミュレーションをするわけですよね。

でも、そこでどうやって事象を選択するか、捨てるものと取り上げるものを選ぶか、と云うのが大きな課題になるわけです。それは議論の実効性そのものを大きく左右する。そこのところがおざなりだと、なんと云うかどれだけ練られた議論もチラシの裏の大言壮語と変わらないものになってしまう。

これって、じつはぼくがしつこく云い続けている「紋切型の弊害」と繋がったりもします。紋切型で言葉の意味をとらえたり、事象の重み付けをしたりすると、もうなんと云うか言説そのものが壊死してしまうこともあり得るわけで。ネット上のテキストベースの議論において言説の崩壊は事実上論者の人格の崩壊に近い意味合いを持ってしまう(人格の崩壊を武器に荒らしを続けている希有な人間もいるようですが)。

メタな議論をメタなままで続けることには、そう云うリスクが常在している、と考えてもいいんじゃないか、と思っています。いま自分が議論しているレイヤーが下手なレイヤーとどれだけの距離を保っているか、と云うことをつねに把握するように努力していないといけないんだろうなぁ、とか思ったりします。

投稿: pooh | 2007年11月18日 (日) 10:01

poohさん、今日は。

喩えが妥当かは解らないですが、ちょっと書いてみます。
メタぶるというのは、いわゆる、「教科書丸暗記的」なものなのかな、と。
つまり、具体的な論理構造を理解するのでは無く、歴史における位置づけとか、そういうもののみを「知る」、と言うか。
教科書に書かれている知識は(分野にもよる)、古来、数多の人間が考え、蓄積してきたものを集積し、概観したものですよね。そこでは、細かい中身よりも、「位置づけ」が重視される場合がある。そうすると、その位置づけに関する情報をだけ、とり入れる訳ですね。だから、○○学では△△という方法を用いて、それは□□によって批判され、××という方法が提唱された…なんていう知識は得られる。で、そういう事を書いていると、ある程度はちゃんと読める文章になるのですよね。だけれど、書き手の認識は、実は全然足りていない場合があり得る。科学史を齧って(現場の状況を鑑みる事無く)現代の科学者批判をしたり、安易に数学等の理論を他分野に援用する、といった様に。

メタぶるのは、ブラックボックスをブラックボックスのまま、主張に絡めず措いておく事の出来る方略なんじゃないか、なんて思っています。それは当然、必要な事でもある訳ですが、議論が具体的になってくると、通用しなくなる。
で、通用しなくなるのが嫌だから、メタぶったまま、降りてこないのでしょうね。

と、話が凄くずれましたが、私は、そんな事を考えていたりします。

投稿: TAKESAN | 2007年11月18日 (日) 12:40

余談

私は、メタぶるという姿勢は、ワイドショーのコメンテーター等の発言に、しばしば見られるものである、と感じています。『美味しんぼ』のエピソードにあった、「知識の自転車操業」。ある程度の深さも追求する事無く、知識の網羅 的な方向へ進む、と言うか。これも、「知る」と「解る」の違いかな。

※美味しんぼに書いてある事が微妙、というツッコミは無しの方向で。

投稿: TAKESAN | 2007年11月18日 (日) 12:46

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