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2007年9月 9日 (日)

適当な分析

いわゆる「はっきり喋らない人」というのは、頭の中で、物凄く内言が飛び交っていて、そこから、「自分が納得する」言葉を選択するのに、時間が掛かるんですね。言葉を発する前に、自分の発しようとしている言葉を、「自分で聞く」訳です。そして、自分で自分の言葉を検討するんですね。で、そうすると、ある程度認識力の高い人、完全主義的な人は、なかなか「納得出来ない」訳です。その不完全なものを出してしまう事によって、自尊心が傷付く感じがするんですね。だから、なかなか言葉が出てこない。

それで、そういう人の行動が観察されると、結構、ネガティブな評価を受けます。何か変わっている、とか、はっきりしない人だ、とか。考え過ぎる人だ、とか、頭の固い人だ、とか。で、そう評価されるというのは、本人も自覚しているので、益々、積極的に言葉を発しようとは、しなくなります。

子どもの頃から、強力に拘束的に、言葉の使い方を注意された人は、そうなりやすいのかも知れません。つまり、適当に言葉を発する事が、出来なくなるのですね。ある意味、教育のたまものです。強い内省を促すのですから。物事を批判的に検討する訓練を、自分自身の言葉を使って、行っているのです。

で、色々勉強して、幅広い知識を得、見識豊かな人とやり取りしていくと、「開き直る」事が出来るんですよね。ある程度の所まででいいから、それを出そう。間違っていたりすれば(程度問題ですけど)、後で修正すればいい。個人の人間の能力なんぞ、たかが知れているので、他の人の知恵を借りて、高めていけば良い。誰も、自分の認識に完璧など求めていないのだから、そんなに気にする事も無い。と、こんな感じで。良い意味で「適当」。力が抜けている。

そうで無く、狭い知識しか持たず、色々な分野について勉強せず、他人を見下す様な認識が形成されたままだと、かなり苦しむんですよね。ちょっと間違うと、自分を天才だと思い込んだり、他者を見下す態度がどんどん強化されたり。自分が考える事が正しいのだ、と考えるのでしょうね。そこまで行かない、極度に内省的かつ言葉に拘る人は、自身の言葉を縄にして、自縄自縛に陥るんですね。で、他人の言葉と言葉の「間」とかに、異常に敏感になります。凄まじい深読みをする。その「間」に、ネガティブな意味を読み取ってしまうと、途端に、締め付られる様な感覚を覚えたりするのですね。相手は自分を駄目人間だと思っている、とか、要らん事を考えたり。

何が言いたいか。結局、あまり力む必要は無い、という事です。その時点でおかしな事を言ったとしても、後で改めれば良いし、そういう機会はある。言葉というのは、ぎちぎちに固められたものでは無いし、そんなに拘らなくても良い。最善は尽くすべきだけれど、完璧はあり得ないという「開き直り」も、大切だよね、という。そうじゃないと、とってもきついです。心が持たなくなってしまう。

聞く側としては、あ、色々考えているんだな、と、温かい心で接したいものです。一所懸命ものを考えていて、その人自身は、「誠実」なのでしょうから。聞く側の態度が、大変重要なのです。

なんか、よくわからん文章ですね。

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随想」カテゴリの記事

コメント

ぼくは「はっきり喋らないひと」です。
多くの場合、「その相手に話がどこまで通じるのか」を見極めるのがあまりうまくないからなんですが。

でも、それってネットでのテキストベースのコミュニケーションでは結構致命的なことにもなり得て。うまくできるわけではないですが、自覚がある分留意はしています。

投稿: pooh | 2007年9月 9日 (日) 09:01

poohさん、今日は。

相手に対する信頼度の高低によって、はっきり喋る度合いは、違ってきますね。自分の言う事を柔軟に、適切に読み取ってくれる、信頼出来る人に対してなら、結構安心して言葉が出せたり。

はっきり喋らない(文字通りの意味で)人が、テキストコミュニケーションになった途端に饒舌(比喩)になる、というのも、あるかも知れませんね。私は、テキストベースでは、なるべくはっきり喋っている様に見える書き方をしている(つもり)ですが、書き上げるまでに、アホみたいに時間掛けたりしています。WEBの場合は、公開している文章という、普段の会話とは、異なった意味合いもありますしね。

投稿: TAKESAN | 2007年9月 9日 (日) 11:36

コメントしようと思って文章をいじっているうちに話がどんどん流れていって,結局何もコメントしない,ということがよくあります.あと,たくさん書いてみたのだけどなんかまとまらなくて,結局全部削って3行コメント,みたいな.
自分の作文能力のなさにはガッカリです orz
コメント欄あけてブログなんてできる気がしないので,いまだにHTML直書きで生存証明的な1行日記を某所でひっそり書くばかりなのです.

投稿: たかぎF | 2007年9月 9日 (日) 13:08

コメント全破棄は、結構あります。それだとあまりあんまりなので(笑) 自分の所に書いたり。

書きながら、「ずれていってるぜー」、と感じつつ、更に書き続け、どうしようも無くなって結局破棄、という、イタい流れに。

文章を破棄出来るのも文章力なのだ、と考えられなくも無いですが、それは、認知的なんちゃらのなんちゃらだ、という噂も。

 >某所でひっそり書くばかりなのです.

実は、読者だったりするのです。

投稿: TAKESAN | 2007年9月 9日 (日) 14:19

たかぎFさんに共感です^^

よりハッキリと言いたい事を定義しようとして
その説明が長くなり過ぎ、何を自分で言っているのかよく解らなくなる事が多々あるような無いような...。

なんか英語の文を見て すご~いスッキリしている気がして、自分の文章力の無さを日本語になすり付けたい感がしばしばw

なんかフランクというかinformalな方が気が楽ですねやっぱ。

たかぎFさんへのコメントだけ
「今日は たかぎFさん。」
が無いのが逆にInformal、フランク ムードな
感じがして逆にいいなぁ~と^^

あ、無い方がイイと言ってる訳ではないのでやりやすいスタイルでどうぞw

投稿: 骸 | 2007年9月12日 (水) 07:14

骸さん、今日は。

ここ数日、コメントを書く時は、書いては消し書いては消しで、頭がぐるっぐるであります。なかなか難しい問題なので…。

 >「今日は たかぎFさん。」
 >が無いのが
あー。これ、理由がありますです。一日一回挨拶、という感じなのです(笑)

投稿: TAKESAN | 2007年9月12日 (水) 11:58

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 Interdisciplinary(by TAKESAN)のエントリ「適当な分析」を読んで。 見下すとかそういう話じゃないんだけど、ある所から先は「他人の理解力まで責任は持てない」「他人の読解力まで責任は持てない」と言うしかないんじゃないか。コミュニケーションの [続きを読む]

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