解説――或る親子の会話:水伝編
どの様な事を含ませながら書いたのか、というのを記してみるのは、かえりみる、という点でも、書き手の認識を正確に伝える、という意味でも、有効かも知れません。
Interdisciplinary: 或る親子の会話:水伝編
「今日学校で、先生に、面白い話聞いたんだけど。」 想定は、小学校高学年から中学生にかけて。中学で水伝話があったという事例は、あまり聞きませんが。水伝のおかしさを簡潔に纏めようという趣旨なので、特に決めていません。
「どんなの。」
「えっと、水に何か言って凍らせたら、それの形が変わる、とかいうやつ。」
「へえ。」
「で、なんか、水が入ったビンに、字を書いたシール?を貼っても、そうなるんだって。」
「ふうん。変わるって、どんな風に。」
「ありがとうだったらキレイになって、ばかやろうだったら、汚くなるらしいよ。」
「そうなんだ。で、その話聞いて、どう思ったの。」
「え、どうって?」
「うん、いい話だなー、とか、何かおかしいな、とか。」
「え、いい話だと思ったけど。だって、ありがとうって、いい言葉でしょ。それに、言葉で水のかたちが変わるなんて、なんか凄いよね。」 一応、あまり深く考えずに何となく信じた、というパターンを想定。
「ホントに、そう思う?」
「うん。」
「うーん、じゃあ、ちょっと考えてみて。日本語でありがとう、って書くんだよね。」
「うん。」
「だったら、他の言葉は。英語とか、中国語とか。」 ある意味を示すのに、厳密に決まった語形がある訳では無い事を示唆。
「あー、それなら、サンキューもキレイになる、とか言ってたなー。」
「でも、それって、変じゃない? だって、ありがとうとサンキューって、全然違うじゃない。聞いた感じもそうだし、同じ記号だと認識されても、物理的には全く異なる場合がある、という事を気付かせる。大体、字が違うよね。書いた字でも、キレイになるんでしょ。書く字は、人によってかたちが全然違う、というのを教える。」
「うーん。」
「それに、同じ言葉でも、人によって違うよね。声も違うし、日本語を習ったばっかりの外国人だと、発音が違うでしょ。”アルィガトゥオウ”、って感じで(笑)」 いわゆる、「片言の日本語」を具体的にイメージさせるための仕掛け。
「そだね(笑)」
「字もそうでしょ。だって、”ありがとう”って言っても、漢字もひらがなもカタカナもあるし、ローマ字だってあるじゃない。それに、字が下手な人と上手な人がいるでしょ。それを、どうやって分けてるのかな。」 記号の多様性。漢字でも、様々な書体があります。書の専門家で無ければ判別出来ない、という文字もあるでしょう。象形文字は、大概の人は読めないと思いますが、使っていた人は、意味が解っていたのですよね。当たり前ですが。
「確かに。でも、何かあるんじゃない? 言ったり書いたりした時のこころとか。」 いわゆる「波動」の様な概念に、子ども自身に発想して貰う。
「でもそれだと、字を書いたり声を出したりする意味が無いよね。」 たとえば、文字を書いたり読んだりした時の「心」や「気持ち」(想念波動とかでも)がどうこう、と言うなら、声を掛けるとか、文字を書いた紙を貼って見せるとかとは、矛盾する。そんなものは、要らなくなるから。
「こころが、字とか声に乗っかってる、とか。」
「それだったら、何の字を書いてもいいし、どんな音でもいい、って事にならない?」
「そっか。うーん…じゃ、ありがとうのこころは、ありがとうって言葉にしか乗らない。どう?」 想念等が、ある語形と緊密に、必然的に結び付いている(恣意的で無い)、という考え。
「それだと、さっき言ったのは? 外国語はどうなる、とか。音だって全然違うのに。どうやってそれを、見たり聞いたりしてるのかな、水が。」 水伝は、自身で、外国語だろうが水に変化が起こる、と言うので、恣意性を否定している、とは考えられない。もしそうならば、多数の言語が存在するという前提を、否定しきらなければならない。
「そっか。うーん、じゃあ、ありがとうって言ったら、キレイに見えるんじゃない? なんか、気分がよくなるとかで。」 心理学的に、「キレイに見える」、という可能性に言及。
「それじゃ、最初に言った、水がキレイに”なる”って話とは、違ってきちゃうよね。先生、人は水で出来てるから…とか言ってなかった?」 水伝はそもそも、氷という実体が言葉の影響を受けて変化する、という主張だから、キレイに「見える」などという話は、全然違う。
「あー、言ってた。人は沢山水で出来てるから、ありがとうを言えば、体にもいい、って。」 人体の数十%は水で…という話が出る事からも解る様に、実体としての水に働きかける、という主張なのですね。そもそも。
「でしょ。それって、キレイに見えるとかとは、全然違うよね。」
「あー、そうだね。…あれ、何で、人が水で、とか、そんな話、知ってんの?」
「結構有名な話だからね。知ってたよ。」 水伝話を知っている親が、子どもが水伝についての情報を得た事を知り、子どもに自ら考えさせる事によって、認識を深めさせようとする方略。
「えー、そうなんだ。」
「で、言葉ってね…一つ言葉があったとしたら、ちゃんと意味が決まってる、とか思ってない?」 言語の恣意性について理解させるための準備。
「うん。」
「でも、違うんだよね。うーん、何があるかな……りんごって言葉あるよね。果物。」
「うん。」
「あれって、”りんご”って言わなくてもいいんだよね。アップルって言ってもいいし、なんでもいい。別に、テキトーに言葉作って、明日からそれを使っても。りんごを明日から”ロンギ”って言います、って決めても、別にいいし。」 語形と語義の結び付きの恣意性。「ロンギ」って、「ringo」のアナグラムです。単純だなあ(笑)
「でもそれじゃ、知らない人は、困るんじゃない。ロンギ食べる? って言っても、何それ、ってなるよね。」 言語は恣意的体系だが、個人が自分勝手に体系を変える事は出来ない、という所への気付き。
「そうそう、だから、みんなが知らなくちゃいけないんだよね。日本語でも英語でも、今使ってる言葉は、みんな一緒にこう使いましょうって、約束してるだけなんだよね。」 恣意的だが、社会の成員の約束によって、言語の体系は維持され、変化される、という論理。
「じゃあ、言葉は何でも使っていい、てこと?」
「というか、この言葉はこうで、他の使い方はしちゃいけない訳じゃない、ってこと。でも、みんなが自分勝手に決めちゃったら、何も通じなくなっちゃうから、これはこういう意味で使いましょう、って、とりあえず、決めてるんだよね。ほら、ロールプレイングに出てくる魔法とか呪文とかって、知らない人には訳分かんないけど、同じゲームやってる人には、ちゃんと分かってもらえるよね。そんな感じ。RPGやる人にとっては、解りやすい喩えかと…。あと、方言ってあるでしょ。何々弁ってやつ。あれもそうだよね。他の所に住んでる人には、通じなかったりするよね。ニュースとかでもやってるよね。事件があった場所に住んでる人にインタビュー、とかで。一応、ゲームに明るく無い人に対しての、補足説明。統語の構造は共通していても、語形が著しく異なるので、理解が難しくなる。」
「あー。」
「だから、大事なのは、この言葉を聞いたら相手はどう思うか、とかをちゃんと考えよう、ってことだね。自分はこうだ、と思っても、相手は違うかも知れない、ってね。」 ちょっと、纏めが早いですね。相手はどう思うか、というのはつまり、同じ語を用いていても、意味がずれている可能性があるから、それを常に意識しましょう、という事。リジッドに考えてはいけませんよね。脳内辞書は、一人一人、違っている訳です。
「相手のことを考えましょう、ってことだね。」
「そうそう。水がどうなる、とかじゃなくてね。だって、変でしょ。水がキレイになるからいい言葉使おう、って。いい言葉って何かとか、ちゃんと考えようね、って話。こういうことってない? 自分が言ったことを勘違いされて、そんなつもりじゃなかったのに…ってなったこと。」 言葉というのは、人間と人間との関係性によって、用い方を考えていくべきもので、水がどうなるから、という問題では無い、という事です。相手が言った言葉を誤解してしまって、不愉快な気持ちになる事、ありません? それって、お互いにとって、良くないですね。もちろん、言葉の厳密な定義を重んじる、科学的議論などは、また別です。そういう事も含めて、「(社会的な)文脈」を考える必要が、あるのです。
「うん、ある。」
「そういうことなんだよね。同じ言葉使ってても、ちょっとズレちゃう。だから、どんな意味で言ったんだろうなあ、とか、そういうのを考えないとね。」
「そっかー。」 そうだよー。
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