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2007年8月11日 (土)

信じる

FREEさんのコメントへのレスです。

私の書き方が多分に抽象的で、読み取りにくい所がありますね。私自身が、信じるという概念を、捉え損なっているのかも知れません。

理解したと感じたものを正しいと判断し、自らの判断に依って立つことの土台とすることを「信じる」という言葉の意味に使われたのでしょうか?

私が言いたかったのは、「知る」事が、「信じる」事の根拠になる、というものですね。経験が信念を強化する、と言ってもよいかも知れません。
従って、FREEさんの出された例全てに、当てはまると考えています。一つ一つについて、具体的に書いてみます。そうすれば、私の認識はどうなんだ? というのが明らかになると思うので。

  1. 省略。
  2. 幽霊を信じる。――様々な体験談を見聞きし(知り)、また、自身で「心霊現象」と言われているものを経験し(その様な現象が起こり得る事を知り)、幽霊が存在する事を信じる。幽霊が存在すればこの様な現象が起こるであろう、という仮説から、その現象を体験し、この様な現象が起こったのは、幽霊が存在するからだ、と結論付ける。というロジックでしょうか。当然、後件肯定の誤謬の可能性は知らないか、無視する訳ですね。
  3. 超能力を信じる。――これも、上記と同様です。超能力があれば、指先を軽く動かすだけでスプーンが曲がる、という仮説があり、スプーンが曲がったという体験から、超能力があるに違いないと信じる。力学的に不思議でも何でも無い現象なのに、科学の知識を「知らない」事が、超能力を信じる要因になる、という。
  4. 科学を信じる。――これは、現象の制御・予測・再現、等を、高い精度で可能にする知識体系であるのを「知る」事によって、外界は科学のメカニズムに従っているに違いない、と考える訳ですね。私はそれも、「信じる」に含めて考えています。たとえば、唯物論的一元論は、全て物質の振る舞いに還元出来ると「信じている」、とも言えるのではないかと思います。
  5. 友人を信じる。――友人の行動のパターンを観察し、自分を助けてくれる、思いやってくれる、裏切らない、という事を、確信する訳ですね。それは、論理的には飛躍ですけれど、取り合えず、「今までこうだったから今後もそうだろう」、と考える、と。「友人を信じる」と言うより、信じられる(他の、諸々の条件を併せて)人を「友人」と表現する、とは言えないでしょうか。

1についても、他と同じ様なものなのだと思います。神という概念そのものが多義的なので、色々なパターンがあると、考えられますけれど。

たとえば、発達心理学の実験から明らかになった様に、乳児でも、「物体が一瞬で消失する」というのは、「信じていない」訳ですよね。それは、「物体は一瞬で消失しない」のを「信じている」、とも言えます。当然それは、知覚経験を元にして形成された信念ですね。そこを通ってきた人間が、たとえば、自称超能力者の物体消失ショーを観て「本物だ」、と思うのは、世界に対する自身の知識からは説明出来ないから(そして、具体的なマジックの技法を知らないから)、ですよね。つまり、自分の知識からはずれた現象が起こる事を「知る」。世界についての知識を再構成するのだと思います。それが、「信じる」という事だと考えます。

あらゆる信念は、知識と経験から切り離す事は出来ないのではないかな、と思います。

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「随想」カテゴリの記事

コメント

こんばんは

少しだけ「信じる」という言葉でのずれが掴めました。おそらく「信じる」という言葉に含まれる範囲が私の考える意味のほうが狭いのだろうという印象はあります。

「信じる」という状態と「理解している」という状態の差はどこにあるのでしょうか。そこがいまいち掴めないでいます。「信じている状態」はどのようなものを思い描いていますでしょうか。

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>知る行為は、演繹的には第一原因となるものの正しさは系の内側では証明できないし、帰納では「絶対に正しい」とは言い切れない。あくまで正しい可能性が高い・現在は破綻していない、などのことから選択している訳で、意識するしないにかかわらずリスクテイクをしていると見れるのではないでしょうか。
---------------------------------------------
 
自分のコメントの引用でなんなのですが、超能力や幽霊は認識や推論の不確実な部分で「はやとちり」して、正しいという選択をしたと見れると思うのです。逆に後から知を追加し再修正するという論理的な操作で認識や推論が変化するものは理解すると言う範疇のものではないでしょうか?
 
ある現象を見る・聞く・知る事から理解する事は連続性があると思います。ただ理解する事が進んで、正しいと判断をすることも連続していると思います。

ですが、信じるという現象にまで連続しているかというと、漸近線のように近づきはするが、交わることはないように思えるのです。

たとえば①の神を信じるですが、いくら教義を理解しようと、そこから現れる世界観を掴もうと、信じるには繋がらないのではないでしょうか。理解はその根底に「なぜ?」から出発する部分が大きい行為だと考えています。問いに対する答えがあって答えを是とするということは、問いの範囲を認識し、全体像を把握する面も含まれていると思います。少なくとも対象に対して問う行為が含まれる内は信じているとは言えないのではないでしょうか。

飛行機が飛ぶことを理解している、とは言いますが、飛行機が飛ぶことを信じている、とは言わないと思います。同様に神を信じている、とは言いますが、神を理解しているとは言わないと思います。
 
なんだか収拾がつかなくなってきました。私が過分に誤解している可能性があります。
大丈夫か、私(笑)

投稿: FREE | 2007年8月11日 (土) 23:59

FREEさん、今晩は。

すみません、引用・言及する部分は、前後します。後、超長文です…。

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ここにズレがあるかもです。
 >飛行機が飛ぶことを信じている、とは言わないと
 >思います。
私は、「飛行機が飛ぶことを信じている」、と「言う」と思います。

たとえば、神の概念は、ア・プリオリに形成されているものでは無いですよね。それは多分、経験と結び付けて教えられる事によって、確信に至るのではないでしょうか。

むしろ、信じると、知る・理解する、とが交わらない、という部分が、実感出来ないと言いますか…。

▼▼▼引用▼▼▼
「信じる」という状態と「理解している」という状態の差はどこにあるのでしょうか。そこがいまいち掴めないでいます。「信じている状態」はどのようなものを思い描いていますでしょうか。
▲▲引用終了▲▲
ここが核心ですね。なかなか思考が纏まらないですが、整理してみます。

経験・理解した事を、1)経験出来る事の外に敷衍・類推した時、或いは、2)現象の予測に用いる 際に現れる概念を、「信じる」、と言えば良いでしょうか。
知るとか理解するとかは、経験によって、つまり知覚(まさに「知る」)による体験であったり、概念の関係を論理的に認識したり、ですよね。で、

1):その経験を統一的に説明する概念を立てて、それによって経験が引き起こされるに違いない、と考えたとき、その認識を、「信じる」と呼ぶのだと思います。科学や神を信じる、と言った場合は、こちらでしょうか。そして、

2):その経験から、誰かの行動を予測し、こうするに違いない、と考えた場合、それも、「信じる」と言う事が出来ると考えます。友人を信じる、と言う場合は、こちらですね。もちろん、「あいつは裏切るに決まっている」、という認識も、「信じる」に含まれると思います。

※便宜的に分けましたが、峻別出来るものでは無いと思います。

また、「この試合に勝つと信じている」、という様な用いられ方もありますが、この場合は、「願望」を示しているのだと考えられます。表示的な意味での「信じる」とは、ちょっとずれますね。これは余計かな…。

もしかすると、FREEさんの仰る意味では、私は、「何も信じていない」のかも知れません。経験と、信じるという概念は、連続的であると認識しているので。

たとえば、私は、世界が自然科学的論理によって振舞っていると「信じて」います。それは、そう考えた方が、色々の現象を整合的に説明出来るし、未来の現象を高精度で予測出来るし、制御する事さえ可能だ、というのを「知った」からです。ですが、それと同時に、「結局、人間の認識には限界があるから、本当の所は解らないだろう」、という考えもあります。そういうプラグマティックな認識です。多分、死んだら自我は消滅してそれっきり、だろうけれど、実際どうなるかは、死んでも解らんのだから、決める事は出来ないよね、という感じですね。実在論よりだが懐疑主義的でもある、と言うか。

そういう前提を持って、日常的に「信じる」という語を用いるので、それは、経験や知識とは切り離せないんじゃないかなあ、と。

話がショットガンの弾みたいに飛んでますね…。

投稿: TAKESAN | 2007年8月12日 (日) 01:16

こんばんは
 
時間を少しかけて考えてみました。 言葉にするのが難しいですが、もう少し整理してみます。意味がわかり辛かったら申し訳ありません。

おそらく、私の「信じる」は過分にナイーブで意味領域が狭いのです。
私が信じるという言葉に冗長的な解説をするのならば

信じている状態は、信じている事がその世界に前提としてあり、問うことが無い物として存在する状態です。正しいとか正しくないとかではなく、あって当たり前、暗黙のうちに自らに了解されている事です。つまり信じるは「OOを信じる」ではなく「OOを信じている私の世界観のあり方」の状態そのものを含んだ認識だったわけでした。もしかしたら自らの信じているものは、外から問いかけられなければなぜ信じるのかという疑問が生じないばかりか、自分が信じているという事も意識されることがないものかも知れません。という事で、信じていたものが信じられなくなるという現象は、相当な衝撃がある出来事であると。
 
ですので、理解と信じる断絶があったわけで、理解をしても信じられない事は存在します。また信じるということが世界観・態度も含むことから「科学の未来を信じる」はあっても、「科学を信じる」は私にはなかったり、「飛行機を飛ぶことを信じている」はないけれど、「飛行機が飛ぶのが信じられない」はある訳です。
 

信じることとは無条件だという書き方が軽率な書き方でした。「信じているという状態は、信じている事に対して無条件だ」というのが正しい書き方でした。修行がたりないなぁ。

投稿: FREE | 2007年8月15日 (水) 22:22

すみません、長文コメントを書いたのですが、読み返してみると、FREEさんの文章を誤読していると感じました。というより、掴みきれていないです…。

以下、最初に書いたコメントです。自身の考えの表明にもなっているので、載せておきます。FREEさんへの問いかけ、或いは、FREEさんの文章に対する解釈の部分は、的外れであると思います。

----------

私の読みが、ずれているかも知れませんが。

もしかすると、FREEさんの仰る「信じる」というのは、「信念の内、信じた経緯を想起する事が出来ないもの」、という意味なのでしょうか。もちろん、ここで言う「経緯」とは、言語的な認識だけでは無く、乳幼児期に受けた刺激も含みます。

私は、言語獲得以前の、体性感覚的・視覚的・聴覚的刺激(言語では無く、音の物理的特性の認知)によって世界を認識していく過程で得た信念をも、「信じる」という概念に含めています。当然、外界からの刺激によって信念を形成する事は、広い意味での「理解」だとしています。ですから、信じると理解の連続性を主張した訳ですね。

 >「飛行機が飛ぶのが信じられない」はある訳です。

あ、ここが…。えっと、これは、巨大な物体が飛行するという伝聞を得た、という意味では無くて、飛行機が飛んだのを見た事がある、或いは、飛行機に乗った事がある、というのが前提ですよね? だとすると、私の語感では、「飛行機が飛ぶのが信じられない」というのは、「あり得ない」です。「あんなでかいのが飛ぶなんて、信じられないよねー。」という会話がありますが、それは決して、「信じていない訳では無く」て、日常の経験からは想像出来ないよね、という意味だと思います。

「信じる」という行為は、必ず、他の知識や経験からの類推を経るのではないかと考えています。

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やっぱり的はずれだなあ。
私の認識は、多分に心理学的な気がします…。

投稿: TAKESAN | 2007年8月16日 (木) 00:45

ROMの方々は、私の文章、訳わかめ、だと感じておられるでしょうね…。

突っ込み歓迎であります。

投稿: TAKESAN | 2007年8月16日 (木) 00:49

長文になります。

>もしかすると、FREEさんの仰る「信じる」というのは、「信念の内、信じた経緯を想起する事が出来ないもの」、という意味なのでしょうか。もちろん、ここで言う「経緯」とは、言語的な認識だけでは無く、乳幼児期に受けた刺激も含みます。
 
うーん、なんて表現したらよいのか悩みますが、「信じる」というのは信じた対象が信じている自分にとって自明である状態である事で、信じている状態になってしまった場合、信じた過程と信じている現在の関係性は必ずしも必要でなくなるんだと私は思っています。最大のずれはおそらく、TAKESANさんは「信じるに至る過程」を重視しているのに対して、私は「信じている現在」を見ているからなのではないかと思います。そして信じている現在に対して経験や認知が現在の「信じる私」を支えていると見ているTAKESANさんに対して、経験や認知が信じる過程にあったとしても、(論理的な整合過程を経て相対的に)是とするという論理的行為から逸脱し、まさにそれが正しいという事を前提に認知過程が再構築されるという断絶を経たものが「信じている」状態だと私は思うのです。極端な言い方をすれば信じている現在は信じるに至った経験や認知を再構成してしまった状態である、と。

TAKESANさんの信じている状態が論理的で信じている対象を動的で且つ変更可能と見て折れれると思いますが、私は静的でその世界観そのものと同化したものだと考えています。信じているものが信じられなくなった場合は自己同一性に傷がつくような衝撃があるものであると思っています。


なんだか余計にわかり辛くなったような。
ただ、TAKESANさんと私とでずれている点は「信じる」に至った過程への視点と、信じている状態が、正しいという確信が論理的整合性の帰結が信じているという状態か、認知構造まで食い込んで世界観を再構成させるまでに至った状態を指しているのかという点であると思います。TAKESANさんの「信じる」は世界観の変容まで含んでいないと思いますが、どうでしょうか?

 
飛行機云々の話は想像できないではなく、経験的・論理的には正しいと認識していても、それが正しいと受け入れる事の出来ない例として出してみましたが、余計混乱させてしまったようで申し訳ありません。

投稿: FREE | 2007年8月16日 (木) 01:31

私の文章のほうがより・・・(笑)
 
でも「信じる」って事を他の人がどう考えているのかを知りたいと思います。概念的な事って思ったよりずれが大きいですね。シニフィアンとシニフィエが一対一対偶していない水伝の反証によい例です(笑)

投稿: FREE | 2007年8月16日 (木) 01:44

 >認知構造まで食い込んで世界観を再構成させるま
 >でに至った状態
ここの所が、上手くイメージ出来ないでいます。具体的に、どの様な現象なのかなあ、と。

引用は前後します。
▼▼▼引用▼▼▼
経験や認知が信じる過程にあったとしても、(論理的な整合過程を経て相対的に)是とするという論理的行為から逸脱し、まさにそれが正しいという事を前提に認知過程が再構築されるという断絶を経たものが「信じている」状態
▲▲引用終了▲▲
やはり私には、「論理的行為から逸脱し」という部分が、今一つ掴めないのですね。

この喩えが適切かは判らないですが、
たとえば、超能力があると称する人が、空中浮揚を見せたとしますよね。それを見た観客が、「人が宙に浮くはずが無い」という知識と、「目の前の人が宙に浮いている」、という経験とを照合し、「タネもしかけも無い(実際は、思い込み)」という「経験(タネもしかけも無い事を確認したという経験。実際は、タネが見抜けなかっただけ)」から、「(特別な)人は宙に浮くのだ」、と信じたとします。そうすると、「人間は空中に浮く事は出来ない」→「特別な訓練なりを積めば、それが出来る」、と、スキーマが変容する訳ですよね。それは、全く同時に、世界観の再構成と言えると、私は思います。そして、新しく構成した世界観を基にし、物事を理解しようとする訳ですね。これは、今まで「信じていた」事が「覆された」のを目の当たりにし(つまり経験)、「信じているものが信じられなくなった」(FREEさんのコメントより)、と言えると思います。

この喩えの場合は、FREEさんが仰る意味での、「認知構造まで食い込んで世界観を再構成」には、当たらないでしょうか。もし当たっているとするならば(勝手な前提すみません)、やはり、経験や論理的認識と、「信じる」というのは、分かち難いのではないかと思います。ある衝撃的な経験が、世界観を覆し、その衝撃的経験を整合的に説明出来る様な新しい世界観を構築して、その世界観を「理解」している訳ですから。

---------

 >シニフィアンとシニフィエが一対一対偶していない
 >水伝の反証によい例です(笑)
まさに(笑) 一つの言葉についてこれだけ議論する様な事をめんどくさがる人は、ふら~っと、水伝に行っちゃうでしょうね。私にとっては、凄く面白いやり取りですけれど。物事が複雑な程、生きる楽しみが増えるので(笑)

投稿: TAKESAN | 2007年8月16日 (木) 03:02

こんばんは
少し長文です。
 
どうも伝えられる言葉が見つかりません。そしてなぜ食い違うのかがつかめません。
信じる状態が、信じる前と比べて信じるものを中心とした世界観が再構成されたものという状態であるという事は了解が得られたものとして話を進めます。

この再構成された状態では、信じているものが「まず正しく、在る」事が大前提で成り立っている訳で、水伝にしろ超能力にしろ陰謀論や宗教も第一原理として信じるものが「正しいこと・在ること」からはじまっていると思います。
つまり信じている対象は絶対的な地位を占めているし、不可侵な状態である筈です。

別のエントリーで話題になっている、ニセ科学批判批判な人への内容でTAKESANさんは「科学は絶対視」していない、つまり科学は方法であり、適応範囲があり限界もわきまえていらっしゃると私は理解しています。ですが「科学を信じる」は有りであるとおっしゃられている訳で、逆に私にはなぜだか判らない。他の方法に比べ物理的な世界を理解する方法として妥当なものだと判断しているという状態であるとしか、私には見えないのです。
 
信じている状態がもし論理的整合性をとるための世界観の再構成であるならばビリーバーと呼ばれる頑なな人がなぜいるのか、他から現実を突きつけられても、転向しないのはなぜなのでしょうか。私が信じている状態が、信じているものが第一原理になって「まず正しく、在る」ということがあると考えている事、論理的段階を断絶し、知ると信じるの間に断絶があると考える所以です。
 
もしかしたらTAKESANさんは信じている状態では、信じている対象が絶対化・不可侵化されていないとお考えでしょうか。だとすると、そもそも信じていると考えている対象が根本から食違っているので、うまくかみ合わないのも当然かもしれません。

 
なにか話がループしているような気もします。
言葉ってムズカシイ。

投稿: FREE | 2007年8月21日 (火) 22:10

FREEさん、今晩は。

うーん、難しいですね。

たとえば、

専門的では無いが、ある程度科学を勉強した人がいるとします(中学・高校で勉強した、という程度)。その人は、自然現象は、物質の振る舞いの結果である、という信念を持っています。人間については、基本的にそうなんだろうとは思っているが、霊的現象等の、超自然現象については、特に強い懐疑を持っている訳ではありません。

その人がある日、「お告げ」を聞きました。目の前に誰もいないのに、「声が聞こえた」訳ですね。その人は、誰もいなければ、声など聞こえるはずが無い、と確信しています。また、自身の脳に異常がある訳でも無い、とも確信しています。そら耳かと思ったが、何度も何度も聞こえてきます。そして、そのメッセージが、「神の声」等であった場合、何か霊的な存在があるのだ、と「信じる」かも知れません。そうすると、あらかじめ持っていた知識の体系を、経験を整合的に説明出来る様に、再構成させる。こういう事が、あるのではないだろうか、と考えています。だから、知識と信じる事は密接に関連しているし、必ずしも、「より整合的な体系」を求める訳では「無い」、という。

ちょっとFREEさんに伺いたいのですが、「ビリーバー」は、「ビリーバーで無くなる」事が、あり得ますよね? だとすると、ビリーバーで無くなるのは、何故なのでしょうか。また、有神論者が無神論者になったり(私はこれです)、その逆もあったり、という事はありますよね。それは、どうしてなのでしょうか。そこの所をどう考えておられるか、今一つ掴めないです。

初めの議論から時間が経っているので、私の論点がずれてしまっていたりする所もあるかも知れません。解りにくい部分があれば、仰って下さい。元々解りにくい、かも知れませんが…。

投稿: TAKESAN | 2007年8月21日 (火) 23:26

結局、私の考えを簡潔に纏めると、

神を信じていた人が無神論者になったり、唯物論者が唯心論になったり、という事があるとするならば、「信じる」という認識は変容し得る事を意味している。そして、それが変容し得るという事は、経験、あるいは知識が密接不可分なものとして関連している、というのを意味している。

という事です。

「人が信じなくなる(他のものを信じる)のは、どうしてだろうか?」という疑問に対する、自分なりの考えですね。

投稿: TAKESAN | 2007年8月21日 (火) 23:34

こんばんは
 
「信じていたものが信じられなくなる」は信じる対象が絶対性・不可侵性を失うというか維持できなくなる事だと思います。信じる対象を中心にして世界観が成り立っている為アイデンティティーに強い打撃を与えるものだと思います。
もしかして「断絶」という言葉がよくなかったかもしれません。
知る→理解する→妥当だと判断する→おそらく正しいと決断すると言うプロセスは存在していると思います。逆に知る→過去の認識が間違いだと理解する→・妥当だと思うものが変化する→新しくおそらく正しいと思うものを決断するもあると思います。ただ、この「おそらく正しい」という状態は無条件で成り立つとか前提が変われば正しさの度合いも変化するといった事を了解しての正しさだとではないでしょうか。「科学的に正しい」はこの正しさだと思います。

信じるという段階での正しさは100%の正しさがあると考えている状態だと考えています。『まず「正しく・在る」ことが前提として』という事がこの事です。私はこの二つの間に論理では乗り越えられない飛躍が存在していると考えている事を「断絶していると考えている」と使いました。
 
私はなぜこの飛躍が行えるのかが疑問です。おそらく論理的なものではなく感情的なもので判断を停止させるものがあるのではないかと考えています。おそらく正しいという揺らぎ続ける世界観を、結論を固定することで世界観を強固に・安定的にする防衛反応なのかとも考えます。そして信じていない状態から信じいる事より、信じた状態から信じない状態への移行のほうがハードルが高いと考えます。信じる状態から信じない状態への移行は、絶対的・不可侵的だと信じていた対象をを否定する事で、自らの過去の在り様を否定する事に他ならないと考えるからです。

以前にも書きましたが、おそらくTAKESANさんより、私が言うところの「信じている」という状態は狭いと思います。少なくとも疑問符がつく状態では信じている状態だとは見ていません。
日常で使う信じているって、本当に信じているのかって思っています。前提・疑問符・括弧付きの信じているはおそらく正しいという、正しくないリスクを見ないようにするために信じていると言っているのではないか、なんて見るのは捻くれているからでしょうか。
 
やっぱり「信じている」という状態の認識に齟齬があるような気がします。

投稿: FREE | 2007年8月22日 (水) 00:39

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受信: 2007年8月18日 (土) 23:30

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