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2007年8月 9日 (木)

きっかけの泡

思うに、殆どの人って、ビリーバーだった経験を持っているんですよね。そりゃそうですね。子どもの頃からオカルト系の情報に触れず、フィクションにも親しまず、徹底的に自然科学の勉強をしてきた(もしくは、養育者が徹底的に懐疑的で、オカルト本等を「教材」として用い、懐疑精神を叩き込まれた)、という人は、そんなに多くはいないでしょうから。

だから、「いつ懐疑に目覚めるか」、という事なんだと思います。当然、懐疑的精神を身に着けず、ビリーバーのままの人もいるでしょうし、徹底的にオカルトを排撃する様な所まで行く人も、います。それを両極として、色んな考えの人間が、分布しているのでしょうね。

きっかけも様々でしょう。何気無く、セーガンやガードナーの本を手に取って、書かれてある事に痺れたり、ニセ科学についてWEBで調べている内に、色々な考えを知ったり。

私もそうですが、ある程度の年齢になって、懐疑論者に「転向」した人が、結構いるのだと思っています。ホント、上にも書いた様に、些細な「きっかけ」なんですよね。

私のブログを読んで懐疑的精神に目覚めた、という人はいないとは思いますが(殆どの読者の皆さんは、そもそも懐疑的にものを考えていらっしゃる方々でしょうから)、そういう事について積極的に情報を発信して、少しでも興味を持って貰えればいいな、と考えています。

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「随想」カテゴリの記事

コメント

ぼくはそもそも、「信じる」ためにこそ懐疑主義は必要だ、と思うほうなのですが。懐疑によって鍛えられていない「信じること」なんて、「信じる」と云う言葉を使うに値しない、と思います。
その意味ではぼくは多分「懐疑主義者」ではないです。ぼくは多分、信じるためのツールとして懐疑を胸に抱いているので。

投稿: pooh | 2007年8月10日 (金) 00:31

poohさん、今晩は。

このエントリー、「懐疑」って何だろうな、とか思いながら書いたものだったりもします。それは、科学の知識を用いる事が前提なのか、それとも、ただ単に、物事を徹底的に疑う事なのか。もちろん、前者の意味合いで使っていますけれど。

そういった意味で、私は、「懐疑主義」という語は、滅多に使わないんですよね。相対主義に繋がるので。もちろん、個人的な語感の問題ですが。

何か、激しく話がずれちゃいました。

と、ここでちょっと、相対主義者になったつもりで考えてみると、意地悪な質問を思いつきました、ちょっと書いてみますね。
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 >「信じる」ためにこそ懐疑主義は必要だ

では、「信じる」という概念は、どの様に、何によって根拠づけられるのでしょう。物事を徹底的に疑った先に残るものは、一体何があるのでしょう。疑えば疑う程、何も信じられなくなるのでは? 何かを信じるとすれば、「信じていい」というラインがあるはずで、それは一体、どこにあるのでしょうか。
「疑う」と「信じる」、この相反する概念に、どう折り合いをつけていくのでしょう。
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と、こういう問いを掛けられた場合、poohさんでしたら、どう返答なさるでしょうか。
もしかしたら、poohさんの書かれた「信じる」という語の意味を、掴めてないかも知れませんが…。それだったら、的はずれになっちゃいます。
自分ならどう答えるだろうか、と考えて、ちょっと悩ましくなったので、意見を頂戴したいな、と思いまして、書いてみました。

投稿: TAKESAN | 2007年8月10日 (金) 01:15

子供に「ビリーバー」という概念が当てはまるかどうか、よくわからないですが、僕は中岡俊哉の本をよく読んでいたし、超能力実験もしたし、その手の話はひととおり通過しました。
たしか、超能力実験は渋研Xの亀さんと一緒にやったこともあるです。小学生の頃ですけど(^^

投稿: きくち | 2007年8月10日 (金) 01:25

きくちさん、今晩は。

 >子供に「ビリーバー」という概念が当てはまるかどうか

あ、これ、敢えて使ってみました。読まれる方に印象付けようと思いまして。一般的な用法とは、ニュアンスがありますよね。

 >僕は中岡俊哉の本をよく読んでいたし、超能力実
 >験もしたし、その手の話はひととおり通過しました。
おお、きくちさんもそうでしたか。実際、そういうのに触れた事の無い人、というのは、ちょっと考えにくいですよね。

私なんて、幽霊が出ない様に、自分で想像(創造)した神に祈ったりしてましたしね。←文章にすると、何か凄いなあ…。

投稿: TAKESAN | 2007年8月10日 (金) 01:33

どうでもいいですけど。

このエントリーを読んで、「何だこのタイトル」、と思われた方、多いでしょうねえ(笑)

投稿: TAKESAN | 2007年8月10日 (金) 01:41

おっしゃるとおり、ぼくの発想は相対主義につながります。単体としての個人がなにを信じるかは、どうしてもその個人の外に出ることは物理的にない。そこにクオリアみたいな何らかの「絶対性」を想定しない限り。
だから、「信じること」はつねにゆらぎます。大事なのは、その「ゆらぎ」に対してどう向きあうか、だと考えます(「ゆらぎ」と云うとなんか外的な要因から生じるもののように感じますが必ずしもそうじゃなくて、自分で発生させコントロールする「ゆらぎ」もあるわけです)。
ラインはつねに個体としての「自分」のなかにしか生じ得ないので、常時「なんとかして折り合いをつけようとする」状態にいることになります。で、ぼくは(自分が)そこにいるべきだと思っています。
って、抽象的で分かりづらいですね(^^;。ごめんなさい。

投稿: pooh | 2007年8月10日 (金) 08:18

poohさん、お早うございます。

こういうアポリアって、どう考えればいいのかなあ、という感じですよね。実在をどう捉えるか、というのとも、繋がってきますし。

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たとえば、価値の普遍性、絶対性を考えるとすると、観測出来る脳の振る舞いにその根拠を求める、というのも、一つの考え方ですね。ポジティブな価値感(←敢えて)を、普遍的な感覚質として考える。そしてそれは、脳の活動に還元出来る、と。一部の神経科学者は、そういう方向に行くのでしょう。poohさんのエントリーとも関わってきますね。

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価値観とかの問題を別にして、世界がどうなっているか、という所を考えると、やはり、科学の知識を拠り所にするのがポイントなのかな、と思います。本文に書いた「懐疑」は、明らかに、現代科学の体系を規矩として考えるというのを、想定しています。もちろん、素朴実在論者ではありませんけれど。

投稿: TAKESAN | 2007年8月10日 (金) 09:04

こんばんは

「信じる」という行為というか決断は無条件なものだではないでしょうか。知る行為からの決断は「おそらく正しいであろう」ということで、リスクの選択だと思うのです。

知ると信じるは明らかに違うレイヤーだと思います。信じるという行為は正しいとか正しくないとかを超越しなければ、成り立たない面があって、知るからは段階が踏めない境界があると考えます。知る行為は、演繹的には第一原因となるものの正しさは系の内側では証明できないし、帰納では「絶対に正しい」とは言い切れない。あくまで正しい可能性が高い・現在は破綻していない、などのことから選択している訳で、意識するしないにかかわらずリスクテイクをしていると見れるのではないでしょうか。
 
ある意味信じるという行為は無条件な分、自分を不条理なことにさらさなければならない局面が発生すると思います。なればこそ他者間で信じたものは対立しうるものなわけだと思うのです。
 
蛇足ですが人を信じる・宗教を信じる・神を信じる・価値観を信じる・美を信じる・善を信じるという意味においての信じるであって、儲け話を信じて騙されたではありません。

投稿: FREE | 2007年8月10日 (金) 22:11

FREEさん、今晩は。

私は、知ると信じるは、連続的と言うか、絡み合っているのではないかと考えています。

知識が不充分な内に(或いは、信じる事を意識せずに)信じた、という経験があって、その後、色々知る事によって、「信じなくなる」、という現象が起こる、と言うか。なかなか上手く表現出来ませんけれど。

何かを「信じていて」、それを「信じなく」なる、という事は、ありますよね。だとすると、「信じなくなる」のは何故か、という疑問が沸きます。「信じる」が無条件の行為であるならば、「信じなくなる」という現象が、何故起こるのだろうか、と。何かを「信じなくなる」というのは、他の何かを「信じる」、という事になる気がします。そして、そのきっかけとして、「知る」事がある様に思います。

論理的には、「無条件に信じる」という現象は、ちょっと考えにくいのではないでしょうか。
生まれて直ぐからの、周りの人間の教育であったり、外界とのやり取りから受ける刺激から、何らかの信念を形成する事であったり、というのが、高次の認知としての「信じる」という現象に、繋がるのではないかと思います。

もしかすると、私がFREEさんの文意を掴み損ねているのかも知れませんが…。

何だか、書いてて、自分で何を書いているのかが、解らなくなってきました(笑) 大変難しい議論なので。でも、勉強になるし、凄く面白いです。

投稿: TAKESAN | 2007年8月11日 (土) 00:34

こんばんは

どうも「信じる」という言葉の指す意味少しずれているような気がします。そこのところをあまり気にせずに書き込んでしまいました。
TAKESANさんの文を読み直した所、以下のように読めました。
この場合の知るは「理解したと感じた」という意味ですよね。で、理解したと感じたものを正しいと判断し、自らの判断に依って立つことの土台とすることを「信じる」という言葉の意味に使われたのでしょうか?
 
もし私が読み取らせていただいた言葉の定義でお使いになったとすると、以下のものの中にはTAKESANさんがお使いになる「信じる」という言葉が当てはまらないものがあると思うのですが。
すべてに当てはまったら、まだ私はTAKESANさんの使う意味においての「信じる」が全く掴めていないことになります。いや「神を信じる」は「信仰とは何か」でずれる可能性もありますね。

①神を信じる。
②幽霊を信じる。
③超能力を信じる。
④科学を信じる。
⑤友人を信じる。

「信じる」が概念的かつ日常語としても広い適応範囲があるので難しいですね。
 

投稿: FREE | 2007年8月11日 (土) 02:05

FREEさん、お早うございます。

レス書いてたら、余りに長くなったので(笑) エントリーを上げますね。

投稿: TAKESAN | 2007年8月11日 (土) 10:49

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