そうなのだろうか?
Yahoo!ニュース - 産経新聞 - 相次ぐホームレスら襲撃… なかなか生かされない教訓
「最近の少年は他者へのやさしさと、“こうされたら人が困り、大変なことになる”との想像力が欠如している。だから、犯行がエスカレートする」
私は、違うと思う。「“こうされたら人が困り、大変なことになる”との想像力が欠如している。」のでは無くて、「この人達が困り、大変なことになっても構わない」、といういびつな認識があるのではないか。それは明らかに、差別心だろう。その心性が、どの様にして形成されたのか、私には、推測する事しか出来ない。しかし、「想像力が欠如」しているのでは無く、想像力が歪みきっている、というのは言えるのではないだろうか。(尤も、広い視点をとれていない、という意味で、相対的に想像力が欠如している、とは言えるのかも知れないが)
あなたの周りにもいないだろうか。ホームレスが人生の落伍者であると看做し、その概念そのものに、侮蔑の言葉を投げかける人が。自身より下層の存在であると位置づけ、優越感に浸っているのであろうか。
その様な言葉を聞いている子ども達は、どう思うだろう。それを考えるのが、「想像力」だ。
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コメント
×ホームレス
○経済難民
でしょう。そういう意識の人は少ないかもしれませんが。
差別の対象ではなく救助の対象のはずなんだが。
ってか他所の国の難民救済に金出す余裕があったら自国内の難民をどうにかしろと。
投稿: apj | 2007年8月14日 (火) 23:05
apjさん、今晩は。
そう思います。
実際、差別的と言うか、見下す様な言い方を、聞いた事があるのですよね。年配者の。
想像力が無い、じゃ無く、変な方向へ想像力を誘導してるんじゃないかな、と考えています。知識の問題でもあるでしょうけれど。
投稿: TAKESAN | 2007年8月15日 (水) 00:05
例の事件を知って,いちばんに思い出したことはネオナチのことでした。
皆たたかう相手を間違えています。想像力豊かにという程度の生易しい問題ではないのですよね。正義とは,公正であるとは,平等とは何か,差別とは何か,貧困とは何か,挙げればきりがありません。
投稿: 中猫 | 2007年8月15日 (水) 01:14
こんばんは。
以前、柘植さんがkikulogで、人間の基本仕様の中に「差別したい」があって、それを乗り越える文化として「差別は良くない」がある。と仰っていてすごく腑に落ちたのを思い出しました。
そうすると、自分も油断すれば「差別したい」の方に想像力を働かせてしまうんじゃないかと思ったりしています。
うーん気を付けねば。
投稿: tank | 2007年8月15日 (水) 02:27
中猫さん、お早うございます。
ああいう事をしでかす人間というのは、自分達は差別等していない、或いは、制裁を受けて当然の人間がいる、と考えているのだと思います。本質的には同じ認識なのでしょうね。
差別をする人間というのは、ある意味で、想像力が豊かなのかも知れません。もちろん、それがずれているのだと思います。
投稿: TAKESAN | 2007年8月15日 (水) 11:21
tankさん、お早うございます。
>そうすると、自分も油断すれば「差別したい」の方
>に想像力を働かせてしまうんじゃないかと思ったり
>しています。
本当に、そう思います。
私も、ふと自分の認識を覗いてみて、これは駄目なんじゃないか、と感じる事があります。今考えると信じられない様な差別的認識を持っていた事も、あります。
中猫さんも書いておられますが、考えるべき事は沢山あるのですよね。
「自分は差別など絶対にしていない」、と嘯く人間にはなりたくないな、と思っています。
投稿: TAKESAN | 2007年8月15日 (水) 11:26
何て言うか「安全な差別」てのがあるような気がしてきたんですが。
つまり、差別意識の表面化の仕方が例えば「施しをして優越感に浸る」であった場合、ホームレスに対する行動は、食い物を投げてやるとか100円くれてやるといった行動にはなっても、殺して排除する、にはいかないんじゃないですかね。やられた側は情けないかもしれないし、プライドも傷つくかもしれないけど、多分命の危険まではない。
差別はダメと言い続けた結果、「相手を最初から人間と思わない」方向に行ってしまったように見える。差別ってのは、あくまでも相手を人間と自覚できるところから出発するので……。
投稿: apj | 2007年8月15日 (水) 13:16
apjさん、今日は。
>「安全な差別」てのがあるような気が
そうかも知れませんね。あ、もちろん、「結果的には(身体的に)安全である」、という意味ですよね。差別と安全という語を繋げると、差別を正当化する、と誤読なさる人もいそうなので。
で、ホームレスを襲撃する様な心性というのは、たとえば、「いる事そのものが駄目だ」、というものですよね。積極的な排除、と言うか。もちろん、後付けの、正当化の理由として使われる場合もあるし、確信犯の場合もあるでしょうけれど。
それはある意味で、人間を「モノ」化してしまっているのだ、とも、言えるかも知れません。差別はいけない事を知っている。差別したくも無い。だけれども、自身の「軽蔑」の認識は、正当化したい。そうすると、自分のやっているのは差別で無く、正しい事なのだと考える様になる、と。誰しも(ほとんどの人)、間違った事だと解って、それをしたくは無い。だから、自分がやっている事は正しいのだ、と結論する。人間では無い、と考えてしまえば、差別でも無い、となるのでしょう。認知的不協和の解消の一種、とでも言うか。
上に書いた、”「自分は差別など絶対にしていない」、と嘯く人間にはなりたくないな、と思っています。”というのは、その事を、念頭に置いています。「差別しよう」と思ってしている人は、多分、ほとんどいないでしょうから。
投稿: TAKESAN | 2007年8月15日 (水) 13:34
社会が生産に寄与しないものは悪であるという認識が根底にあって、正しいか正しくないか葉別にして、容認している空気があるという面があるのではないでしょうか。産業化された社会では働かない人に対する軽視が産業革命以後存在していると考えます。フーコーは怠惰な人やかつては町の変わり者で現在は精神疾患を持った人とされる人が犯罪者と同列になり治療矯正を受けなければならない人へと変化したことから心理学が生まれたと論じています。
なぜ差別という思考が皆にあり、無くならないかと昔考えました。差別への言語的なアプローチはないか、なんて学生時代は考えていました。
「言語で思考している以上言語の制約に縛られる、影響される面がある。言語が差異である以上、区別しないで思考する事は出来ないので、常態としてシンボル化・カテゴリー化している習慣が存在している事から、区別はある意味言葉で考える事の副産物として位置づけられる。区別に価値判断が、つまり上下がつくと差別になる。差別は人の定性である」
今考えると青臭くて練りが足りないことこの上ないなぁ。ただ差別という思考はなくなるものではないという認識は今も昔もあります。
ですが、それに対してどう向き合っていくかということとは別なわけで、差別をなくさなければならないという方向への運動をし続けることが人としての矜持としなければならないのではないかと思います。
少なくとも差別なんて思ったこともしたこともないなんていう軽率な態度だけはしたくはないです。おそらく無意識に差別する意識を持つ事はあると考え、且つそれが間違えであるという事も意識する人でありたいと思います。
投稿: FREE | 2007年8月15日 (水) 23:17
FREEさん、今晩は。
▼▼▼引用▼▼▼
社会が生産に寄与しないものは悪であるという認識が根底にあって、正しいか正しくないか葉別にして、容認している空気があるという面があるのではないでしょうか。
▲▲引用終了▲▲
まさに、そういう事なのだと思います。いわゆる、働かざる…というやつですね。
> 今考えると青臭くて練りが足りないことこの上な
>いなぁ。
いや、成る程なあ、と思いました。人間が、差異を認識する存在である以上、差別が無くなる、というのは、論理的にあり得ないのかな、というのは、私も以前から、考えています。もちろん(FREEさんも書いておられる様に)、無くなりえないのだろうか、と考えるのと、無くそう、と行動するのは、別の話ですけれど。
▼▼▼引用▼▼▼
おそらく無意識に差別する意識を持つ事はあると考え、且つそれが間違えであるという事も意識する人でありたいと思います。
▲▲引用終了▲▲
全く同感です。差別していないと認識する、という事は、変化の可能性が無い、という事でもありますしね。
投稿: TAKESAN | 2007年8月16日 (木) 00:03