瓶とレッテル
apjさんのアナロジーをお借りします⇒ニセ科学批判はレッテル貼りではなくレッテル剥がし :: 事象の地平線::---Event Horizon---
実際の、主なニセ科学批判――「科学的」という「レッテル」が貼られた瓶から、レッテルを剥がす。もしくは、上からレッテルを貼り直す。レッテルを剥がす、というのは、何故そのレッテルが駄目なのか、どこがおかしいかを説明する、という意味。レッテルを貼り直す、というのは、どこがどうおかしいか、という説明と、「ニセ科学」を書いたレッテルを貼る、という事。場合によっては、「ニセ科学」そのものについての説明も、書かれている。
レッテルに書かれた「ニセ科学」の文字は、説明書きより大きいし、目立つ。説明書き、読まない人は読まない。どんなに注意深く、説明を書いたとしても。
とはいえ、「ニセ科学」というレッテルが貼られた瓶に関心を示しているのだから、多くの人は、「何故そうなのか」、という所にも、興味を持っているのではないか、という推測も出来る。「ニセ科学」を論ずる場合には、「科学」そのものについて、考えざるを得ない。「ニセ科学というレッテルが貼られている」事実だけを欲しがる人が、どれ程いるのだろうか。いるとして、何の目的で欲しがるのだろう。
最も基本的な事として、「科学的」というレッテル自体が、「科学の手続きによって実証された」という意味を示す記号である。
「科学的」というレッテルを貼った側にも当然、何故それを貼ったのか、という事が、説明出来なくてはならない。それは、科学的に妥当だと認められた手続きによって実証された、という「事実」に基づかなければならない。本来、相当厳しい審査をクリアしなければ貼る事が許されないものを貼っているのだから、説明出来て当然のはずなのである。
そもそも「科学的」というレッテルを貼った人が、「ニセ科学」というレッテルを貼り直されているのを見て怒るのは、当たり前。確信を持って、「科学的」レッテルを貼ったのかも知れないのだから。当然、何故「ニセ科学」レッテルを貼ったか、という事が、説明出来なければならない(その説明には、色々なパターンがあるだろう。それは、瓶の中身による)。レッテルを貼り直すには、それ相応の、リスクがある。
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聴衆の前で、瓶からレッテルを剥がす、あるいは、上から新しいレッテルを貼っている、という行動をしている人がいる。どうやら、新しく貼られたレッテルには、「ニセ科学」という文字が書いている様だ。他にも文字が書いてある様だが、上手く読み取れない。レッテルを剥がしたり貼ったりしている人は、一所懸命何かを説明している。時には、瓶の中身を取り出し、それを見ながら説明を続ける。
聴衆の一人が、「ニセ科学のレッテルをきちんと貼ってくれるのを求めていた。ごまかさずに貼って欲しい」と言った。
成る程。「瓶にレッテルが貼られるという事実」を求めているのか――。
参考:技術系サラリーマンの交差点: 私が問題性を感じた理由(聴衆の一人――のくだりは、引用文を参考)
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アナロジーを正確に用いようとするのは大変です。厳密にたとえようとすればする程、辻褄が合わなくなってきます。当然ですね。異なる現象なのですから。
瓶の中には、ある纏まった知識について書かれた説明のコピーが入っている、とでもして下さい。
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コメント
はじめてお邪魔します。apjさんのレッテルの話は見事だと思いました。「にせ」という「レッテルを貼る」作業をするというと、何の権威で、どういう基準で貼っているんだ、と必ず聞かれることになります。でも「科学」というレッテルが間違えて貼られているなら、それを剥がすのはもとにもどすだけなので別段権威の必要もないでしょうし、基準もすでにある個別の専門家集団が合意できるレベルとすればいいので、「にせ」ごとに色々調査する必要もないでしょう。
これが詭弁じゃないのは、apjさんが実際の活動で経験されたことにもとづいているからだろうと思います。逆に「ニセというレッテルを貼る」という裏返った見方は、自分の中心に置いた視点からしか見ないせいではないかと思います。「いわゆる環境ホルモン」も、当時の混乱の一部からしか見ず、何が問題の本質か、どんな人がどのような点で誤ったといえるかを見てない場合には裏返った見方にしかならず、今後の化学物質の健康影響を考えるのに役立たないと思います。
投稿: ちがやまる | 2007年8月31日 (金) 01:39
ちがやまるさん、今日は。こちらではお初、ですね。
「元々”科学的”というレッテルが貼られている」ものに、という所が、ポイントですよね。そもそも、科学的というレッテルを貼る事に、専門的な手続きが必要なのであって、それを検討するのは、ある程度はっきりした基準がある、と思います。なので、きくちさんも、ニセ科学のパターンを出され、それについて、「すっきりしている」(poohさんのブログにて)と仰った訳ですね。
最近、サイエンスカフェにいがたで、井山弘幸氏が、予知夢やらツチノコやらミステリーサークルやらも含めて「ニセ科学」と称していた、という話がありましたが(具体的にどう話されたかは不明)、意外と、ニセ科学と言うとそういうものも含むのだ、と前提してしまっている事が、あるのだと思います(セーガンなんかは、含めている様ですけれど)。きくちさん達が主張なさる「ニセ科学」とは、ちょっとズレがあるのですよね。
だから、今回のapjさんのアナロジーは、大変解りやすく、適切に表現しているものだと思います。
投稿: TAKESAN | 2007年8月31日 (金) 12:44
某ブクマを見て。
確か、『化学』のニセ科学特集を読んだ際、一つの記事に、違和感を覚えたのですよね。恐らく、井山氏のものだったと思います。手元に無いので、記憶をもとにしていますが。今度、図書館に行った時にでも、バックナンバーを見てみるかな…。
で、どういった違和感だったかを、ちゃんと憶えて無いのですね。他の方の記事と、明らかに「ニセ科学」の概念にズレがあった、という所だったかなあ。
記憶違いかも知れませんので、調べたら、後で追記します。
投稿: TAKESAN | 2007年8月31日 (金) 14:28
サイエンスカフェにいがたの事を書いたブログなどもちょっと探して見てみましたが、ツチノコをはじめとする「未科学」や「ファンタジー」などもニセ科学に含まれるように紹介していたようですね。
井山さん(面識のない方ですが、さんで呼ばせていただきます)は外国で発表された本を訳す過程で考えを深めるやり方をとっておられるように思います。「科学」の内側からの見方、特に実践でどこが問題になったか、などについてはどうしても間接的な知見をもとに考えざるを得ないのだと思います(その分冷静に見ることはできるかもしれません)。
「レッテルはがし」の他には、きくちさんの「その時点で」の判断である、という事も大切なポイントだと思います。そういう「科学」の内側からの見方を、早いうちに人文系の方々にも引用してもらえるようなところに発表しておくことも必要かもしれないと思いました。英語にしておくことも、日本発、ということで大切かもしれません。
投稿: ちがやまる | 2007年8月31日 (金) 20:05
ちがやまるさん、今晩は。
「その時点での」、という見方は、ニセ科学を考える上で、大変重要な視点だと考えています。そこを押さえると、「未科学を実証されたかの如く扱う」と、それはニセ科学と判断される、と、すっきりと整理出来ますね。ニセ科学批判批判をする人で、ここを見逃している方も、おられるかも知れません。
それを考えるのに適切な題材の一つが、血液型性格判断ですね。きくちさんも、「練習問題」と位置づけておられますね。
▽▽▽引用▽▽▽
早いうちに人文系の方々にも引用してもらえるようなところに発表しておくことも必要かもしれないと思いました。英語にしておくことも、日本発、ということで大切かもしれません。
△△引用終了△△
確かに、それは重要ですね。論宅さんの所に書かれたニセ科学のパターンなどについても、広く知って貰う必要がありますよね。
投稿: TAKESAN | 2007年8月31日 (金) 21:04
グッタイミン⇒http://shibuken.seesaa.net/article/52939434.html
宝くじで一等当選も、かなり奇跡ですよねえ。
「間違った科学」と「未科学」が、押さえておくべきポイントですね。
投稿: TAKESAN | 2007年9月 1日 (土) 14:57
『化学』、貸し出し中でした。
図書館で、『化学』と『科学』、どっちか判らなくなったのは、ここだけの話…。
投稿: TAKESAN | 2007年9月 5日 (水) 19:02
井山さんは(僕も面識ないです)ハインズ博士の訳者なんですが、「現在のニセ科学事情」とは違う文脈で話されていると思います。
まあ、別にいろいろな立場があっていいので。ただ、「反証可能性」に頼りすぎかという印象を受けましたが。
投稿: きくち | 2007年9月 6日 (木) 01:47
きくちさん、今晩は。
そうですね。
サイエンスカフェでは、「これも含めるの?」と感じるものまでニセ科学として紹介していた、というのを、聴講者のブログとかで見たので、ちょっと気になりました。混乱してくる人も出てくるかな、と。ニセ科学という語の響きは、頭に残りやすい、インパクトのあるものですしね。
もちろん、興味のある側が、色々調べてみれば、良いのですけれど。
投稿: TAKESAN | 2007年9月 6日 (木) 02:47
ただ、「ニセ科学」という言葉はハインズ博士本の邦訳帯に書かれているのです。帯を誰が書いたかはともかく、そういう意味では、井山さんは「現在のニセ科学」以前から「ニセ科学」という言葉に関わってこられたわけ。
投稿: きくち | 2007年9月 6日 (木) 09:20
追記
「ニセ科学」という言葉を僕はシャーマー本の邦題から取りました。でも、シャーマー本とは範囲が違うと思います。シャーマーが「ニセ科学」と呼んだわけではなくて、題をつけたのは早川の編集のかたですが。
その後、ハインズ博士の邦訳帯に「ニセ科学」と書いてあるのを発見しました。いや、もちろん、出たころから持ってる本なんですが。
だからこそ、「ここではニセ科学という言葉をこういう意味に使う」という宣言をするのですけどね
投稿: きくち | 2007年9月 6日 (木) 10:34
きくちさん、今日は。
結構前の本で、本文に「ニセ科学」と出てくるものは、ありますよね。ガードナーの本だったかな…。そういう意味で、似非科学やえせ科学、疑似科学と共に、何となく聞いた事はあるかな、と思っている人も多いでしょうし、井山氏は、より専門的な立場で関わってこられたので、「ニセ科学」という語について、しっかりした考えを持っておられるのだと思います。あ、ハインズの本は、既読です。シャーマーは未読。
で、私が考えるのは、「今の状況」です。ネットなんかで、ニセ科学という語が踊る様になり、講演や新聞記事等も、多くなってきた。そして、そういう活動の中心的役割を担ってこられたのが、きくちさんを始めとした方々であるのは明らかです。
で、サイエンスカフェの聴講者等には、そういう事を、噂程度のレベルで知って、興味を持って聴きに来た、という人も、結構含まれるのだと思います。
ですから、希望、ですよね。確かに、ニセ科学の語自体は、色々な本で、昔から用いられているのだけれども、最近話題になっているニセ科学批判では、どういう意味で用いられているか、というのを押さえておいて、説明なりをするのがベターかな、と。もちろん、詳細は解らないので、井山氏が説明した可能性を、否定するものでは無いですし、敢えて使っているとしても、それを批判しようと思っている訳でも無いです。
きくちさん達が使われる「ニセ科学」は、他の用法より、「意味を狭く」捉えていますよね。ですから、反証可能なニセ科学もあるし、反証されたニセ科学もある、という事が、すっきり整理され、オカルトや迷信への言及は、ニセ科学の問題とは、ある程度きちんと分けて考える事が出来る。私はこれは、語の意味が洗練されている、と捉えています。ですから、その様な用法を普及するのも、大切じゃないかなあ、と。
もちろん、「じゃあ、造語すれば?」なんてツッコミも、受けるかも知れませんけれど…。
繰り返し。
たとえば、(超心理学的説明をしていない)超能力とか、ミステリーサークルは地球外生命が云々…というものとか、ツチノコ関連の話等を、「ニセ科学」と称しているのを見て、「いやいや、それは”ニセ科学”じゃ無いでしょ」、と思う、という訳では無いです。ただ、「ちょっと押さえ方が足りないんじゃ無い?」とは思います。何か、似た様な事ですが(笑)
「ゲーム脳」なんかもそうなのですが、主唱者と、他に同じ語を用いる人で、意味がバラバラになる事があります。それは、混乱を起こす場合もあるんですよね。当然、ニセ科学の場合、元々使われていたものなので、厳密には、ちょっと異なりますけれど。
投稿: TAKESAN | 2007年9月 6日 (木) 12:48