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2007年8月に作成された記事

補間

ブログとか掲示板への書き込みを読んで、いつの間にか、書き手の属性を推測して、パーソナリティを作り上げている事、ありますよね。

こういう文章を書く人は、こういう素性だろう、とか、この趣味の人は、女性/男性だろう、とか。文体によって、年齢や性別を推測したりもしますね。

もちろん、私もそうで、某氏の事を男性だと思っていたら、女性だというのが判明して、ちょっと驚いたり。

で、そうやって、ある種の人物像を作り上げると、その像に対するステレオタイプから、その人の思考を予測したりします。

過去の書き込みのパターンから、認識の状態を読み取るのは、整合性があると思いますが、たとえば、年齢や性別等の属性を知った場合、それに対するステレオタイプが働いて、バイアスを掛けてしまう事が、あります。書かれていない部分についても、要らぬ憶測を巡らせてしまうのですね。

私が一切の属性を明かさないのも、そういう理由ですが、読まれる方は、私の過去の書き込みを見て、性別や年代等の見当を、つけているでしょうね。場合によっては、はっきりとしたイメージも、抱くかも知れません(私は、性別も年齢も、一度も書いた事ありません。年代については、何となく書いてますが)。はっきり書かれていなければ、イメージが完全には固定されないので、都合が良いのですね。

いくら、属性を知った所でバイアスは掛けない、と考えていても、なかなかそれは、難しいですからね。

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何か凄いタイトル

わけまけ - Wake up, Make up. - いい女はパッとしない男に惚れるらしい。によると、澤口氏が、新刊において、ゲーム脳やマイナスイオンに言及している模様。

「マイナスイオンが脳にいい」と書いてあるとすると、相当なものですし、ゲーム脳については、何をかいわんや、です。

とは言え、どの様な文脈でどう書かれているかが、ちょっと解らないので(最近は、ゲーム脳については、完全に懐疑的な言及をしていたので、確認の必要あり)、今度本屋に行った時に、調べてみましょう。

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高級技の汎用性

覚え書きより。修正あり。

○術の汎用性

充分な闘気で向かってくる敵に対して、触れ合気の様な術技がどこまで通用するだろうか。

生理・心理学的反応がメカニズムの大部分を占めるのだから、相手の状態によって、技の効果も変わってしまうのではないか、という疑問が出てくる。我を忘れる程怒り狂っている敵に対して、そっと触れただけで(力学的に小さいエネルギーで)動きを止め、或いは体勢を崩す、というのは、やはり難しいのではないか。

○考えられる答え

  • 練習時の様な、ある程度の協調的な関係があり、お互いに平静な状態である場合にのみ通用する、(非協力な”敵”を制する目的からすると)汎用性の低い技術である。
  • 相手の状況に左右されない(つまり、ごく敏感な生理学的・心理学的メカニズムに働きかける)。という事は、誰にでも、どの様な時にも、相手が反応するだけの刺激が与えられるならば通用する、極めて汎用性の高い技術である。

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端的に書くと、こうです。

「軽く触れる程度の力で相手を制すると言われる技には、どれくらいの汎用性があるのですか? こちらを殺そうとする相手にでも、出来るんですか?」

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ダメダメ

PCがトラブりまして、クタクタです。

何か一つの症状の原因を追求するのに、凄まじい労力を使うんですよね。問題の切り分けに、めちゃくちゃ時間が掛かるし、上手くいったかな、と思ったら、全然駄目だったりするし…。

結局、最短なら35秒くらいでクリア出来るトラブルの解決に、300分くらいかかりましたよ。ええ、駄目駄目ですよ。

しかも、Windowsをリカバリーしましたよ。アプリとか、インストールし直し、ですよ。後ちょっとで、HDDをフォーマットする所だった…。メールのデータなんて、一年以上前のバックアップしか無いのです。最悪です。もちろん、バックアップをこまめに取ってない自分が。今日電器屋のUSBメモリのコーナーの前で、「バックアップ取っとかないとなあ」、と思った直後なので、悔しさも一入なのです。

勉強に時間を費やした、と、自分を慰める事にしましょう。これを、認知的なんちゃら、と言うとか言わないとか。

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瓶とレッテル

apjさんのアナロジーをお借りします⇒ニセ科学批判はレッテル貼りではなくレッテル剥がし :: 事象の地平線::---Event Horizon---

実際の、主なニセ科学批判――「科学的」という「レッテル」が貼られた瓶から、レッテルを剥がす。もしくは、上からレッテルを貼り直す。レッテルを剥がす、というのは、何故そのレッテルが駄目なのか、どこがおかしいかを説明する、という意味。レッテルを貼り直す、というのは、どこがどうおかしいか、という説明と、「ニセ科学」を書いたレッテルを貼る、という事。場合によっては、「ニセ科学」そのものについての説明も、書かれている。

レッテルに書かれた「ニセ科学」の文字は、説明書きより大きいし、目立つ。説明書き、読まない人は読まない。どんなに注意深く、説明を書いたとしても。

とはいえ、「ニセ科学」というレッテルが貼られた瓶に関心を示しているのだから、多くの人は、「何故そうなのか」、という所にも、興味を持っているのではないか、という推測も出来る。「ニセ科学」を論ずる場合には、「科学」そのものについて、考えざるを得ない。「ニセ科学というレッテルが貼られている」事実だけを欲しがる人が、どれ程いるのだろうか。いるとして、何の目的で欲しがるのだろう。

最も基本的な事として、「科学的」というレッテル自体が、「科学の手続きによって実証された」という意味を示す記号である。

「科学的」というレッテルを貼った側にも当然、何故それを貼ったのか、という事が、説明出来なくてはならない。それは、科学的に妥当だと認められた手続きによって実証された、という「事実」に基づかなければならない。本来、相当厳しい審査をクリアしなければ貼る事が許されないものを貼っているのだから、説明出来て当然のはずなのである。

そもそも「科学的」というレッテルを貼った人が、「ニセ科学」というレッテルを貼り直されているのを見て怒るのは、当たり前。確信を持って、「科学的」レッテルを貼ったのかも知れないのだから。当然、何故「ニセ科学」レッテルを貼ったか、という事が、説明出来なければならない(その説明には、色々なパターンがあるだろう。それは、瓶の中身による)。レッテルを貼り直すには、それ相応の、リスクがある。

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聴衆の前で、瓶からレッテルを剥がす、あるいは、上から新しいレッテルを貼っている、という行動をしている人がいる。どうやら、新しく貼られたレッテルには、「ニセ科学」という文字が書いている様だ。他にも文字が書いてある様だが、上手く読み取れない。レッテルを剥がしたり貼ったりしている人は、一所懸命何かを説明している。時には、瓶の中身を取り出し、それを見ながら説明を続ける。

聴衆の一人が、「ニセ科学のレッテルをきちんと貼ってくれるのを求めていた。ごまかさずに貼って欲しい」と言った。

成る程。「瓶にレッテルが貼られるという事実」を求めているのか――。

参考:技術系サラリーマンの交差点: 私が問題性を感じた理由(聴衆の一人――のくだりは、引用文を参考)

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アナロジーを正確に用いようとするのは大変です。厳密にたとえようとすればする程、辻褄が合わなくなってきます。当然ですね。異なる現象なのですから。

瓶の中には、ある纏まった知識について書かれた説明のコピーが入っている、とでもして下さい。

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XYZ

チョン・ウソン、日本ドラマ『シティーハンター』主演へ

やっぱ冴刃役は、沢村一樹さんでしょ。

でも、チョン・ウソンさんが冴刃役とは、どこにも書いてないんですよね。原作が同じ、ってだけで、全然別物なのかも知れないし。

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答えを貰った子は…

はてブ経由⇒全国こども電話相談室[にんげん・せいかつ]

…。

2002年かあ。出始めの頃ですね。

他に色々な質問がありますねえ⇒全国こども電話相談室[にんげん・せいかつ]

素晴らしい問いばっかりだ。

答えるに相応しい人を、ちゃんと選ばないとね。

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咀嚼

 科学によって解明されていないことはたくさんあるし、未解決の謎も多い。何百億光年もの広がりをもち、百億年ないし百五十億年の時を経た宇宙にあっては、すべての謎が解き明かされる日は永遠に来ないのかもしれない。われわれ科学者は毎日のように、予想もしなかった驚くべき事実にぶつかっている。ところが、ニューエイジ思想や宗教の本のなかには、「科学者という連中は、この世には自分たちの発見したものしか存在しないと信じ込んでいる」などと書かれたものがある。たしかに科学者は、神秘的な啓示を否定するかもしれないが、それは、啓示を受けたという本人の申し立て以外には、何の証拠もないからにすぎない。だからといって科学者は、自然界についての自分たちの知識が完璧だなどと思ってはいないのである。

 知識を得るための道具という点では、科学はとうてい完璧などと言えた代物ではない。ただ、人間が手にしている道具のなかでは、いちばん“まし”だというだけのことだ。この点一つをとってみても、科学には民主主義と似たところがある。科学は人間の進むべき道を教えてはくれないけれど、どの道を選べばどうなるかは、はっきりと示してくれる。(カール・セーガン著 青木薫訳『カール・セーガン 科学と悪霊を語る』より引用)

この、示唆に富んだ文章を、噛み締めましょう。自身の持っているステレオタイプ的認知を、相対化してみましょう。大切なのは……科学者は、科学はどうこうだ、というのを聞いて鵜呑みにする事では無く、科学者が書いたものを読み、言う事に耳を傾け、科学という知の体系について理解する事、なのではないでしょうか。

自分が好きなもの、積極的に関わっているもの、職業に対して、ちゃんと中身を考えない、ステレオタイプな事を言われているの見聞きするのは、嫌ですよね。誰だってそうでしょう。そしてそれは、科学や科学者も同じ、です。

色眼鏡をはずしてみましょう。そうすると、今まで見えていなかったものが、見えてくるかも知れません。自分は色眼鏡を掛けてしまっているのではないか、というのを、常に意識しましょう。気付かぬ間に、誰かがそっと、掛けているのかも知れないのですから。

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期待

論宅さんへ。ここをお読みかどうか判りませんが。

一度、社会学の専門用語をなるべく排した上で、社会学的にニセ科学問題を論じたエントリーを、読んでみたいです。

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もどかしさ

技術系サラリーマンの交差点: 「ニセ科学」関連・最終記事

津村さんの仰る事に感じる違和感は何だろう…。上手く纏まらないので、引用しつつ、検討してみます。

意図(理念)は私も十分納得しています。納得していることを繰り返し強調していただいてもこれ以上納得できないので話が進展しません。

これは、ここまでの議論を見ていて、そう感じますね。津村さんがどの様に「納得」なさっているのか、今一つ解りませんけれど。

「レッテルを貼ってほしい」という一般の人からの熱い期待がある中、専門家としてその期待に応えることに注意が向いてしまうのは人間的に自然なように思います。

「レッテルを貼ってほしい」という所の解釈が、難しい。たとえば、テレビなり新聞なりで、「ゲーム脳はニセ科学だと言える」、と主張するのは、「レッテルを貼る」、と言えるか、とか。「ニセ科学批判者は、色々な説にニセ科学のレッテルを貼って満足する集団である」、と「レッテルを貼っている」様に見える、と言うのは、幼稚な物言いかな。

私が「現実の困難さ」を感じた材料は、菊池さんのウェブログよりもむしろ「ニセ科学批判」を展開するその他の掲示板やブログ群です。それと、菊池さんと柘植さんの氏名で検索すると出てくるページ群です。

これはもう、具体的に論じて欲しい、としか言い様が無いです。直前にも書いてある様に、津村さんは、それを示して批判する、という事は、なさらない方針の様ですが。「菊池さんと柘植さんの氏名で検索すると出てくるページ群」、って、曖昧な表現だなあ。ググって上の方に出てくる、という意味なのかな。まさかとは思いますが、吉岡氏のサイトの事ではありませんよね。

内容的に、理念を説くものよりも個別の「ニセ科学」をめぐる論争(あるいは批判される側との確執)を多く目にしました。そして、書き手側の熱の入れ方や記事数の多さは、個別の論争や確執に関わるもののほうが理念的なものよりも勝っていると感じました。

さて、ここが今一つ解りません。個別の論争や確執があるというのが、それ程問題なのでしょうか。そもそも「確執」とは、どの様な事を指すのでしょうね。具体的に示してくれればなあ…。いや、他人のやり方にとやかく言ってはならない、というのは、思うのですが、津村さん自身が、ニセ科学批判者に批判を加えておられる訳ですから、何だかすっきりしないのです。

そのような材料を「科学とは何か」を伝える目的に使うことの困難さを感じました。

あれ。ニセ科学についての議論、”「科学とは何か」を伝える目的に使う”、のですか。私は、ニセ科学を論ずる際には避けて通れないので、考えざるを得ない、という認識に至る事はあっても、初めから、「科学とは何か」を考える際に、ニセ科学を題材にする、というのは、積極的に主張されているものでは無い、と考えていました。限り無く黒に近いもの、とか、多くの専門家によって誤っていると判断されている過去の事例なんかは、ニセ科学の典型として、「材料」として用いられる、というのは、あるのかも知れませんけれど。頭蓋計測学とか。でもまあ、これは、論者によって異なるものでしょうね。

問題なのは批判対象がピックアップされる手続きと考えます。批判されて当然なものが批判されるのはいいとして、批判されるべきなのに運良く対象にならないものが発生するのは不公平でしょう。

これは違うでしょう。優先順位問題ですから。きくちさんも強調されている事だし、そもそも、ニセ科学的なものを網羅するのは無理です。大体、「批判されるべき」とは、どういう観点から決めるのですか? 私自身は、ゲーム脳を率先して批判していますが、それは、自身の利害も絡んでいるからです。それと、ゲームに関する知識が、それなりにあるから、ですね。そもそも、何らかの「科学的な」説を主張しているのですから、それは、批判的に検討されて然るべき、でしょう。そういう意味で、

個人がボランティアでやっている段階では仕方ないかもしれませんが、多数の科学者の同調を得て進む場合、しかも「被害防止」でなく「科学の啓蒙」が目的であるなら、公平さが求められると思います。

これは、的外れにも思います。もう一度同じ事を書きますが、ここで言う「公平さ」とは、何を意味しているのでしょうか。

ニセ科学は蔓延しているか、という疑問についての自分なりの考えは、別のエントリーのコメント欄に、書きました。これについては、論者によって、考えは異なっていると思います。少なくとも私は、「ニセ科学が社会に広まっているのは、社会全体の科学リテラシーが低下しているからだ」(左巻さんなんかは、こういうお考えに見えますが、どうなんでしょうね)、という主張には、今の所、与しません。個人的に「病理」という語を使わないのも、コメントに書いた意図からですが、そういうのも、解釈の問題ですからね。自身の語感を一般化するものでも無いでしょう。

まとめ部分は、何だかなあ、という感じです。「コミュニティ」と形容し、一括りにして批判なさったのに、最後はそれですか、って。これ、偽らざる感想です。

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思う

「思う」の応酬だけじゃ、議論は進まないんですよね。「根拠」を出さないと。

その、「根拠」そのものにも、様々な解釈の可能性があるのだし、突き詰めて考えていかければならないのに、それ以前の所で立ち止まっちゃあ、全然駄目ですよね。

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ホリスティック

文系白書ブログ: ホリスティックを標榜しているのに。。。

確かに、ホリスティックな医療などを謳っておいて、めちゃくちゃアトミスティックな事(←システマティックに考えない、という意味)を言っていたりするのを、見る事があります(色々調べた訳では無いのですが)。波動とかの原理を用いて、それによって何でも説明する、というのも見かけますが、これは結局、ホリスティックという事を、誤解しているんじゃないかなあ、と。

私は、「ホーリスム」というのを、高岡英夫氏の著作で知ったので、その影響が大きいのですが(哲学的には、クワインなのかな)、高岡氏は、ホーリスムに当たる日本語の概念として、一般的に用いられる「全体論」では無く、「関係主義」という言葉を用いています。これは、要素間の連関、システムとしての全体性、というものを意識させる、という意図があると思うのですが(他にもあります)、それを踏まえると、全体を見渡しつつ、細かい要素もきちんと見ていかなければならない、というのが、認識出来ると思います。ソシュール言語学も眺めたので、より、そう思うのかも知れませんね(高岡氏も、ソシュールの影響を受けている)。

ですが、ホリスティックなものを勘違いしている人の中には、総てに通底する原理とか、そういうのを求め過ぎて(高岡氏にも、そういう所があるんじゃないかと思います)、基礎的な科学の論理を蔑ろにしてしまう人も、いるのではないかと。

床に網を広げているとします。

で、網の結び目を一つ摘んで、ちょっと動かします。

そうすると、全体の網の目の形が、変わりますよね。

ホリスティックに考えるというのは、こういう所に目を向ける事、なんだと思います(哲学的には、色々難しい議論があるのかも知れませんが…)。そんなに大袈裟な事じゃ無いんですよね。

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ゲーム脳は何故ニセ科学か

社会学玄論 : 疑似科学批判の基準のコメント欄で、きくちさんが、ニセ科学のパターンを、4つ挙げておられます。(Commented by きくち at 2007-08-22 23:11)

基準が多様になってしまうのは必然的で、たとえば擬似科学には(1)反証不可能でポパー的に見て科学ではないもの(2)反証可能なだけではなく、すでに反証されてしまっているもの(3)反証可能で直接には反証されていないが、他の科学知識と整合しないので反証する必要のないもの(4)反証可能だが実証も反証もされていないにも関わらず実証されたものであるかのように詐称しているもの、などさまざまなパターンがありうるからです。

さて、この例に照らすと、ゲーム脳は、どれに当てはまるでしょうか。

まず、「(1)反証不可能でポパー的に見て科学ではないもの」です。森氏の主張は、ゲームを長時間すると、前頭葉の機能が低下し、認知症と同じ様な状態になる、というものですね。その仮説に矛盾する命題は、簡単に導かれるので、反証不能であるとは言えないでしょう。長時間ゲームをやって、脳機能が低下しない事が観察出来れば、反証されます(論理を単純化すると)。

次に、「(2)反証可能なだけではなく、すでに反証されてしまっているもの」 どうでしょう。これには当てはまるでしょうか。ゲーム脳仮説そのものの検証は、長時間ゲームをやらせ、その際の脳活動のイメージングのデータを採り、認知機能のテストを行う事によって、行えると考えられますが、そういう研究は、恐らく無いと思います。松田剛氏の研究は、ゲーム中・ゲーム後の脳活動のイメージング研究ですし、その他の社会心理学的研究等も、ゲーム脳説の論証では無いので、「反証された」とは言い切れないのだろうな、と思います。間接的な反証の材料にはなるかな、とも考えますけれど。もちろん、森氏がまともな論文を出していないので、それをわざわざ検証する必要など、無い訳ですが。

「(3)反証可能で直接には反証されていないが、他の科学知識と整合しないので反証する必要のないもの」、はどうでしょう。ごく慎重に考えると、ゲームを長時間して脳機能が低下する、というのは、全く他の知識と矛盾する、とは言い切れないのかな、とは思います。ただ、現在の神経科学・心理学等の知見から、長時間の光刺激やらの悪影響を整合的に説明する仮説が、構築出来るのだろうか、というのは、疑問です。もちろん、乳幼児期に、ゲームばかりやらせていると、他の刺激が抑制され、双方向的なコミュニケーション能力が育たないため、発達に悪影響を及ぼす、という主張もある訳ですが、それが、森氏の言う「ゲーム脳」説と同じものなのか、という疑問も出てきます。そもそも森氏は、まともに概念を定義してすらいないので、ここら辺は、ややこしい所です。

「(4)反証可能だが実証も反証もされていないにも関わらず実証されたものであるかのように詐称しているもの」 これが、ゲーム脳をニセ科学と断言して良い理由の一つですね。上にも書いた様に、「反証されている/いない」は、どう判断すればいいか、ちょっと悩ましい所ですが、「実証されていない」というのは、はっきり言えます。それは、・ゲーム脳説に関するまともな論文が無い事 ・『ゲーム脳の恐怖』の内容が、論理的な矛盾、データの恣意的解釈、経験による印象の過度の一般化に満ちている事(ゲーム文化そのものに対するまともな考察も、皆無) ・森氏が、各所で、ゲーム脳説が実証されたものであるかの如く(講演会や、マスメディアのインタビュー等で)触れ回っている事――等から、導けます。

血液型性格判断は(2)、水伝は、(1)もしくは(3)ですね。マイナスイオンは(4)でしょうか。ゲーム脳は、最も慎重に考えると、(4)になりそうです。そもそも定義がはっきりしない、というのも、押さえておくべきですね。

ニセ科学と一口に言っても、色々なものがあるのですよね。もちろん、現在(4)の理由によってニセ科学と判断されているものであっても、今後、科学的知識として認められるという事は、起こり得ます。現在実証されていないにも関わらず、それがなされたかの様に主張され、流布されたものが、ニセ科学なので。

という訳で、ニセ科学と科学の間に、明確な線引きを行う事は出来ない。それは、社会状況とも関わってくる問題である、というのは、よく認識しておくべきだと思います。

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意味

Interdisciplinary: 信じるの、コメント欄からの続き。

ある程度纏まった気がするので、エントリーとして。ほとんど、FREEさんとの対話なので、何の事やら判らない方が多いと思いますが、個人的には、かなり有意義なやり取りだと感じていますので(議論の進め方そのものも)、読んで欲しいなあ、なんて。元々コメントのつもりで書いたので、FREEさんへの語りかけ、というかたちです。

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私の主張を再度書くと、「信じるという状態に至るには、経験や学習がきっかけとなる」、という事ですね。たとえば、FREEさんの仰る防衛反応が働き、「信じる」という状態に至るのだとしても、それは結局、知識や経験に依存する、のではないでしょうか。

私は恐らく、FREEさんの仰る意味での「信じる」を、認識出来ていると思います。これは確認なのですが、FREEさんの仰る「信じる」は、「状態」の様なものですよね? 顕在意識において、より整合的な知識体系を受け容れる余地が無い、他人に耳を貸さない。或いは、体験を重視する、という様な。
で、そうであるとして(また、勝手な前提すみません)、私は、そういう現象は、あると思います。

私が言いたかったのは、「過程として」、知識や経験と「信じる」は連続的である、または、顕在的に意識していなくとも、無意識的に(直感的・直観的に)は関係しているだろう、という事です。だから、乳児の例を出したのですね。「言語的では無い」、と言うべきかも知れません。

私が思うに、FREEさんは、顕在意識のレベルでの「信じる」を念頭に置いておられ、私は、直観的・直感的な論理をも含めて論じている。そこにズレが生じたのではないでしょうか。

適切な例かは判りませんけど、書いてみます。
SSFSさんは、「自分の正しさ」を「信じている」、と言えますよね。文章を読む限り。これは、FREEさんの仰る意味での信じる、だと思います。そして、知る事による態度の変化などとは、「断絶」している様に見えます。
しかし、SSFSさんは、他の方の投稿を読み、何が言われているかは「知っている」訳ですよね。「記憶している」、でもいいです。
で、私が言いたいのは、そういう経験でも、潜在意識へ落とし込まれはするだろうけれども、SSFSさん自身の顕在的(自覚的)なものの考え方には、「絶対に影響している」だろう、という事です。

どうでしょうか。結構、上手く説明出来た様にも思えますけれど…。

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「脳トレで」、か?

クルマ高齢社会:脳トレで認知力改善 川島教授ら実験、自動車業界が教材に-家庭:MSN毎日インタラクティブ

この内容だと、「脳トレで」という見出しの書き方は、ちょっと違うんじゃないかと思うけどなあ。色々な専門家が集まって、それぞれの知見を出し合い、トレーニング(かなり盛り沢山に見える)を開発し、テストした訳ですよね。こんな感じで、「つかみ」の様なタイトルをつけるのは、どうなんでしょ。気にし過ぎかな。

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メタ

社会学玄論 : 疑似科学批判が流行る理由

具体的な対象を考えずにメタ論を展開したのだとすれば、それを正直に仰れば良いと思うのですよ。それ自体は批判されるべき事ですが(「疑似科学批判の流行り」という社会現象を対象にしておきながら、それに関わる人物に関する言及が出来ないというのは、おかしい。初めから、単にメタ論をぶつための材料として、「疑似科学批判」を持ち出してきた、とすら考えられる)、それを認めれば、そこから具体的な議論に入っていく事が出来る。そうすると、有意義なやり取りを行う可能性も出てくる訳で。もちろん、それが出来る人は、そもそもああいう書き方はしないよ、という事も言えるかも知れませんが(他のエントリーの書き方からも、それが推測出来る)、それは一応置いといて。

で、質問にまともに答えようともせずに、とにかく他人より一段階メタレベルであろうとするかの様な事を、いつまでもやっていたら、全然駄目ですよね。お話にならないです。

これは、このエントリーを執筆している時点での感想です。論宅さんが今後、実名を挙げて批判なさる可能性も、無いとは言えませんが、それは、望み薄、でしょう。apjさんときくちさん、とのやり取りにおいて、それを仄めかしてすらいないのですから。あまっさえ、2007-08-21 00:41のコメントの様なレスをしています。当然、今から、どんな人間がニセ科学批判を展開しているだろうか、というのを調べ、ニセ科学批判批判を論じても、駄目ですね。調べれば調べる程、代表的なニセ科学批判者が、科学の絶対視などしていない事に、まともな認識力があれば、気付くのですから。

未だによく解らないのですが、「科学を絶対視」って、どういう意味なんでしょうね。

※「擬似科学批判の流行り」について。

「流行る」と表現しているので、一定の期間、多くの人の話題に上っているという現象を指しているのは、明らか。そして、最近、WEBや新聞、新書等でニセ科学批判をしている人は、限られている。その方々を、「流行りを担っている」、代表的なニセ科学批判者だと考えると、きくちさんや左巻さん、あるいは、こなみさんやapjさん、田崎さん、『メディア・バイアス』を書かれた松永氏、等々が、まず挙げられる。特にきくちさんは、NHKの番組に出演なさった事もあり、ニセ科学批判者の筆頭として挙げられる。ニセ科学でググってみると、よく解る。

とすると、疑似科学批判者として、上に挙げた方々を想定していないというのは、明らかにおかしい。ニセ科学が話題になったのは、田崎さんの水伝関連の文章と、きくちさんの番組出演が、大きなきっかけだから、「言及出来ない」事自体、考えにくい。そうだとしたら、「疑似科学批判が流行っている」という知識だけを持っていて、誰が何を言ったかは具体的に知らない、という事。要するに、「流行り」については、具体的な認識を持っていない、と結論出来る。

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科学者人形をサンドバッグにする人

前にコメント欄で紹介したのですが、改めて、言及してみます。※強調等は、原文ママ

科学者の常識の欠如 - アルスブルグの研究室

「自分は特別な存在だ」と勘違いし、虚構の正義を振りかざして悦に入っている彼らを、私は「ニセ科学者」と呼んでおります。

”「自分は特別な存在だ」と勘違いし、虚構の正義を振りかざして悦に入っている”科学者をニセ科学者と呼ぶのは、別に構いませんが、具体的に、「彼ら」と、きくちさんや他の方々を指して用いておられますね。他人の心性について憶測を巡らせ、それを基に非難を繰り広げるのは、あまりよろしくないと思います。

この後に氏は『マイナスイオンの商品が多く売れたのは、消費者がマイナスイオンの健康効果に科学的な裏付けがあることを信じたからだろう』と主張していますが、そうでしょうか。そんな馬鹿なことありません。消費者は、科学的な裏付けなど求めておりません。そんなことを気にするのは神経質な科学者だけで しょう。

「科学的な裏付けがあることを信じ」るというのは、必ずしも、具体的に、「この商品は、科学的にきちんとしたテストを行った上で市場に出回っているのだろうか」、と思惟する事を、意味しません。「この商品にはちゃんとした効果があるのだろうか」、と考える際に、「企業は科学的に根拠の乏しいものは出さないであろう」、という前提を持っていたり、テレビショッピングで「科学者」や「データ」が出てくるのを観て、「ふーん、科学者が色々やってるんだ…」と認識する事等も、含んでいます。いわば、「何となく」信じている、というのを指している訳です。

洗剤が汚れを落とすのに、化学的メカニズムが働いている、というのは、ほとんどの人間は知ってます。「効果がある」ものを求めるという事は、直観的に、科学者や企業によって研究なされたものである、というのを、認識している訳ですね。市場に出回る製品に対する信用というのがそもそも、科学に対する(何となくの)信頼を含んでいる、と考えられます。「科学的な裏付けがある」と認識するのは、「科学者がお墨付きを与えた」とか、「新技術!」とパッケージに書いてあるのを信頼する、という意味も含めてあるのですね。

科学が証明できなくても、我々の体は現に 健康になっているのです。それで十分なのです。ゲルマニウムも然りです。

「現に健康になっている」というのを、どの様にして評価しているのでしょうか。体験談?

事実は、こうではないでしょうか。「ゲーム脳説を聞 いた親や先生は、ゲームが脳に与える負の影響を心配し、子供にゲームを止めるように言った」。ただ、それだけなのです。親や先生は、ゲーム脳説におけるα 波やら何やらという根拠など、考慮していません。ゲームは脳に害を及ぼすようだ。だから、止めさせなければ。それだけです。心配だから、 止めさせる。ゲーム脳説を受け入れた親や先生が、子供にゲームを止めるように言うのは、躾の根拠を科学に求めた結果ではないのです。

意味が解りません。ゲーム脳の提唱者が「科学者」だという事を、忘れていませんか。森氏の講演会では、脳波のデータや、神経科学の専門用語等の、「科学を仄めかす」ものが用いられる事は、ご存知ですか。隣に住む中学二年生の子どもが同じ事を言えば、「同じ様に」信じるでしょうか。情報を解釈する際、発信者の属性を考慮する事は、ありませんか。そもそも、脳の働きと心が密接に関連しているという考え自体が、「科学的」なのです。

何にせよ、科学者の代表である氏と我々の間には、日常生活における認識のずれがあることは間違いないでしょう。

きくちさんが「科学者の代表」である、とする根拠がよく解らないし、「我々」が誰を指しているかも解らない。恐らく、「科学者以外」の集合を示しているのだと思われますが、それを「我々」と言われても、という感じです。私は科学者ではありませんが、きくちさんの仰る事に、大いに賛同する者です。無茶な一般化を行うべきではありません。

「いくら科学が発達しても将来的 に解明されることは絶対にない」、ということではないと、氏に代わり弁解しておきます(氏は後者のつもりで主張していることは明らかですが)。氏は、続い て極めて危険な発言をしています。

何故にきくちさんの代わりに弁解なさるのか、さっぱり解りませんが、それは置いといて…。ここの直前の文章も併せて、説明が、よく理解出来ませんね。後者というのは、括弧の中だけを指しているのか、「ことではない」まで含んでいるのか。

曰く、『水に心はない』、と。繰り返しますが、これは極めて危険な発言です。「危険な」という言葉は以下の意味で使用し ています。すなわち、「心(意識)」というものがどのように生じているのか、現代脳科学を以ってしても解明されていないのに(ニューロンの活動が精神活動 に対応していることは分かっていますが)、軽々しく「水に心はない」と言ってしまうことです。

ここで言われる「心」とは、自己意識(色々な概念があると思いますけど)の事だと思いますが、それが神経細胞の活動に対応しているのは、認めておられる訳ですよね。科学的には、その通りです。それを前提にすると、「水に心は無い」という言明は、全くおかしくありません。ここを否定すると、科学の話では無くなってしまいます。

氏は、小学校の教師が「水に関する説」を道徳の授業で紹介したのは、道徳の根拠を自然科学に求めたからだと思い込ん でいますが、そんな馬鹿なことはありません。小学校の教師は「水に関する説」を、言葉遣いについて考えるための単なる題材として取り上げたのであり、そこに根拠(~だから・・・するべし)など求めてはいません

TOSSの授業実践の例とか、それに対する児童の感想とか、見た事ありますか。「何故」題材として用いたのですか。つまり、選択した根拠は?

恰も、科学者以外の人間がニセ科学批判を展開していないかの如く看做しているのが、根本的な思い違いですね。むしろ、科学者ステレオタイプを強固に形成していて、それを前提にしてしまっている、という印象。

科学者の常識の欠如~再来 - アルスブルグの研究室

彼らはゲーム脳説の最も重要な主張、「脳が壊れる」ことを恐れた。根拠はわからないが、なんだか危ないという話だから、ゲームをやめさせた。科学的根拠の存在がゲーム脳説受容の決定打になったのではなく、彼らは根拠から切り離された主張だけを受け入れたのだ。

意味が全く理解出来ません。上にも書きましたが、「誰が言った」という情報は、考慮しないのですか。「大学の先生が言ったのだから」、という認知が働くというのは、ありませんか。「大学の先生が言っている→大学の先生は、専門的な科学の知識を持っている→この先生の言っている事は、科学の知識に基づいて認められているのだろう」、という認知は、認められませんか? 一応言っておきますが、これは、一々顕在的・分析的に思考する、という意味ではありませんよ。

誰がどう考えても、2.のように親は考えた、とする方が自然ではないか?この点について反論があるなら聞いてみたいものだ!

「何だか危ないようだね」と発言する事は、科学的根拠を意識しない事を、意味しません。既有知識や直観的認識というものを、もうちょっとお考えになった方が、よろしいでしょう。

例えば、人は風邪をひいたら薬を飲むが、なぜ薬を飲むかといえば、それが効くからだ。決して、薬物の分子的作用機構を気にしてはいない。しつこいようだが、一般市民が信じているのは効果であり、根拠の存在ではない。

どうも、「科学的根拠を信じた」というのを、「ある程度分析的に考え納得した」、と考えておられる様ですね。そう読めます。大部分の人が、薬の具体的な生化学的メカニズムを気にしていない、というのは、その通りでしょう。で、そんな事は、多分、誰も言っていません。

科学者である氏と一般市民の間には相当な認識のずれがある。疑似科学を論じる前に、まず、市民に歩み寄るところから始めてはいかがかな?

kiklogで聞けばいいのにね。私も一般市民ですけど、ブログ主さん(お名前が解らないので、失礼します)と、相当な認識のずれがあります。一般市民も色々、って事かな。

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昔の考え

ずっと前に書いた覚書から、ちょっと引っ張ってみます。細かい部分は修正。日付を書いてあるのに、何年に書いたものかが解らない…。特定のテーマを設定している訳でも無く、走り書きしたものなので、かなりばらばらです。

”頭の良い人”というのは、自分が何を知っていて、自分が何を知らないかを解っている人。事象の構造を、分析的、或いは直観的に見抜いている人。

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自己と他人の「認識のずれ」を認識する。

自分と他の人の考え方が違うのは当たり前なのに、自分の考えを押し付けたり、人の言う事を自分勝手に解釈し、勝手に腹を立てたりする。そして、仲違い・喧嘩・悪口等の、ネガティブな現象が起こる。

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肉親が死んだ、という演技をする時に、他の事を考えて感情を昂らせ、涙を流したとして、それは果たして、「本当の演技」を言えるのか。

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相手の言った事に反応する前に、少し立ち止まる。相手が何を考えているのか、同一の言葉に対しての、双方の認識のずれ。

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自分の頭の良さを自覚している人は、他人の考えが浅薄なものに感じ、相手を見下す事があるかも知れないが、それは、まだまだレベルが低い、という事。

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自分の事を、「頭が悪い」と言う人がいるが、使わないものが、良くなる筈が無い。これは、自動車の免許を持ってない人が、「自分は車の運転が出来ない」、と、当たり前の事を言っている様なものである。

うーむ。ここに書いている事と、共通しているかな。同じ人間だから、当たり前かも知れないけど。でも、すっごく偉そうですね(文体を、ちょっと変えました)。調子に乗ってる感がある。他人の意見をそれ程積極的に調べず、思弁を巡らせて書いたものなので、自分は結構賢いかも、とか思ってたんでしょうね。なかなか恥ずかしいですなあ。

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おとなのリテラシー

ちょっと不機嫌モード。

森昭雄氏に講演を依頼したり、説を肯定的に採り上げてるのって、マスメディアじゃないんですよね、今は。教育委員会だとかの、直接、教育に携わる人達なんですよね。TOSSもそうでしたね。

はっきり言って、「そっち」の人達のリテラシーはどうなっとるんだ、と思います。学力低下がどうこうとか言っときながら、ゲーム脳を(肯定的に)採り上げるなんて、噴飯物だとは思いませんか。 科学リテラシーを向上させるべきは、若い者だけか?

数ヶ月に一回のペースで、森氏の講演会が催されるなんて、どう考えても、おかしな話でしょう。主催者側は、なーんも調べて無いのでしょうね、事前に。調べた上で、「賛否両論だが…」なんて判断をしたのであれば、認識力が著しく欠落している、って事です。両論ある事だけ理解して、両論の中身を検討しないのだから。

ちゃんと理解しようともせず、直感を補強しそうだからと(これまた直感的に)飛びつく。そういう姿勢を見て、大人は解って無いな、と溜息をつく若者がいるって事に、気付いた方が良い。

ゲーム脳説を蔓延らせているのは誰だ?

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誰かと思った

えええええっ!⇒レコーディング・ダイエットのススメ: スタイル&顔の遍歴

知らんかった…。下の方の画像なんて、違う人じゃないですか。

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達人技

kikulogで、YMNさんが貼られた達人?の動画、ご覧になりました?

あれが武術だ、と思われるのはアレなので(笑) 本物の達人の動きを、ご覧下さい。武術に明るく無い方でも、「何かが違う」、というのは、感じる事が出来るでしょう 。

Aikido Journal Videos(「Gozo Shioda at Yoshinkan Aikido Demonstration c. 1980 (4 min. 20 sec.)」をダウンロード。動画が追加されると、ページが変わるかも)

でも、ちょっと画質が悪くて、何をしてるかさっぱり解らん、って事になりそうな…。YouTubeに上がってるのは、ことごとく著作権的にアレそうなので。ここくらいしか無かったんですよねえ。

『グラップラー刃牙』シリーズの、「渋川剛気」ってご存知ですか? 故・塩田剛三師範は、そのモデルになった方です。

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言語力?

Yahoo!ニュース - 読売新聞 - 「言語力」育成、脱「ゆとり」も…中教審が指導要領改定へ

能力が下がったのかどうかは、よく知りませんけれど、向上をさせようとする事自体は、良いのだと思います。

問題は、何をするか、ですけれど。

学校で指導がなされていない、と言うより、直感を重視して、物事を分析的に捉えようとする事が軽視されている(今も昔も)、というのが駄目なんじゃないかと思う、今日この頃。そしてそれは、近年、マシになってきているのではないだろうか、と思う、今日この頃。

国際的な学力調査で、ポイントだと感じたのは、無解答が多い所なんですよね。日本人的心性、というものがあるとすれば、「間違った意見を言うくらいなら、黙っている」、というのがあるんじゃないかなあ。良い悪いではありません。それは、内省を促し、より良いものに仕上げようとする方向へ行くかも知れませんし、完全主義的になって、自己評価を過度に下げるかも知れません。一概には言えませんね。

お互いの意見をぶつけ合い、相互批判する事に慣れさせるとか、そういうのが重要だと思います。批判=文句(ネガティブな意味での)・非難 と捉えられない様な認識を育てる、と言うか。

後、個人的には、中学辺りで、言語学(とか記号論とか)を学ばせるべきだと考えています。

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なまえ

Yahoo!ニュース - 時事通信 - 名前は「@」、読みは?=文字使用も多様化-中国

Yahoo!ニュース - サーチナ・中国情報局 - 【中国】何と読むのか?「劉@」君 奇妙な名前登場で困惑も

これは…。どうなんでしょうね。

そういえば(全然話は違いますけど、名前繋がりって事で)、日本で、子どもにとんでもない名前を付けようとした人が、いたなあ…。

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改竄

Yahoo!ニュース - 読売新聞 - 「石屋製菓」返品処理で期限改ざん…課長提案、部長が容認

頻繁に食べる訳ではありませんが、大好きなお菓子なんですよね。

こういうのって、ばれる事は無いだろう、という認識が働くんですかね。ばれても大した事は無いだろう、という認識では、多分あり得ないので。

石屋製菓アイスに大腸菌群、「白い恋人」賞味期限も改ざん : 社会 : YOMIURI ONLINE(読売新聞)

「深く反省している。今後も調査を進めるが、これ以上の問題はないと思う」などと話した。

「これ以上の問題はないと思う」って、何に対しての発言なんでしょうね。品質管理上の問題は改善したから、衛生的な問題は無い、という意味なのかな。それとも、今回以前に同様の問題があったという事実は発覚しない(ばれない、という意味では無いです)だろう、という意味か。後者の意味合いで発言したのだとしたら、「今回たまたま起こってしまったのだ」、というのを強調したかったのかな。たまたまでも起こしちゃいかん訳ですが。

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誰それの合気

佐川幸義師範の合気はどうだったか、というのを考えるのは難しいですね。まず、動画が残っていない。そして、そもそも受けた人しか、「感触」が解らない。だから、体験者の証言から、推測していくしか無いのですよね。

現象としては、手首を掴ませた老人が身体をちょっと揺すったら、掴んでいる人が吹っ飛ぶ、というものですね。前にも書いた通り、その様な現象が起こるには、色々な可能性がある訳です。

たとえ、「自分は本気で掴んでいた」、と主張したとしても、それは、そう「思って」いただけで、実際に、力学的に合理的な掴み方が出来ていたか、というのは、相対的に独立の話です。

だから、同じ様に見えても、実は違うのだ、という意見が出て、議論になり、しまいには、水掛け論になってしまう訳です。

一つの技法のメカニズムについて論じても、他の技法も同じとは限らない、というのもあります。手首を掴ませて行う技は、バイオメカニクス的説明とか、生理学的な反応を使っているのだろうか、等の仮説を立てられるけれども、柔らかいセーターの襟元を持たせ、そこから相手を吹っ飛ばす、というのは、どうしても、解らない。

じゃあ、どう考えるか。いくつかの可能性がありますね。もちろん、本気で掴んで、ちゃんと掴めている。それを軽く投げ飛ばす、というのを前提にするのですね。人文・社会科学的メカニズムの割合が大きい現象は、除外します。で、そういう技術が出来ているか、そして、何故出来るのか、というのを検証するのは難しい。何故ならば、出来る人が、いないから。

出来る、と言う人がいれば、その人に対して、誰かに本気で掴ませて、技が出来るかを確かめなければなりません。当然、同門の人等は、除外します。まあ、一番良いのは、「金を掛ける」事ですね。押さえつけられたら受けの勝ちで、手が上がったら(ここでは合気上げ)取りの勝ち。で、勝った方に5,000円進呈する、とかですね。受けには、古流や合気道を見下していて、かつ格闘技を経験している人がいいでしょう。力士とかプロレスラーがベターですね。強い人達に、本気を出させる訳です。20~30人も集めれば、色々解るのではないでしょうか。※この案は、高岡英夫氏が、本に書かれたものをヒントにしています。ソース失念。内容は、剣術に対する技を鍛えたいなら、金を払って、本物の剣術家に切りかからせれば良い、といったもの。ここで金を払う、というのは、剣術家側にもリスクがあるから、という理由。

そういう実験を重ねて、研究していくべきでしょうね。もしかすると、佐川師範が演じて見せたと伝えられる技法が、お手盛りを排した条件で実現し得る、というのは、永久に示されないかも知れませんね。真面目な話。もし、そういう技法があり得る、と言うのなら、自分がやるか、出来る人を連れてきて、厳しい実験条件の中で、技をやって貰わなければなりません。「いや、出来るんだ」、と言ったって、「じゃあ、見せて下さいな」、と返されるのが、落ちです。

受けと取りは、「手首を掴む/掴ませる」という協力関係を保ちつつ、「上げられまいとする/上げようとする」、という敵対的な関係でもあるのですね。そういう意味で、かなり特殊な条件です。そういう所も考えないといけません。

言及しない方がいいかも知れませんが、生体磁気云々について(多分、ほとんどの人は、何の事か、意味が解らないと思いますが…)。仮説を出すのは結構だと思いますけれど、科学的にこうなっている、と主張するなら、立証の責任は、言い出した側にあります。論文なりを出さないと、誰も相手にしませんよ。いや、実証研究をした、と言っているんでしたね。結構物凄い主張をしているのだから、相当しっかりした証拠を出さなきゃね。

あ、ちなみに。私は、別の所にも書きましたが、高岡氏の説の、「意識操作」には、全く賛同していません。何らかの心理学的な関係によって、離れた人間が吹っ飛ぶ(様に見える現象が起こる)、と言うならばともかく、他人の意識を直接操作出来る、というのは、飛躍が過ぎます。

透明な力―不世出の武術家 佐川幸義 Book 透明な力―不世出の武術家 佐川幸義

著者:木村 達雄
販売元:講談社
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そうなのだろうか?

Yahoo!ニュース - 産経新聞 - 相次ぐホームレスら襲撃… なかなか生かされない教訓

「最近の少年は他者へのやさしさと、“こうされたら人が困り、大変なことになる”との想像力が欠如している。だから、犯行がエスカレートする」

私は、違うと思う。「“こうされたら人が困り、大変なことになる”との想像力が欠如している。」のでは無くて、「この人達が困り、大変なことになっても構わない」、といういびつな認識があるのではないか。それは明らかに、差別心だろう。その心性が、どの様にして形成されたのか、私には、推測する事しか出来ない。しかし、「想像力が欠如」しているのでは無く、想像力が歪みきっている、というのは言えるのではないだろうか。(尤も、広い視点をとれていない、という意味で、相対的に想像力が欠如している、とは言えるのかも知れないが)

あなたの周りにもいないだろうか。ホームレスが人生の落伍者であると看做し、その概念そのものに、侮蔑の言葉を投げかける人が。自身より下層の存在であると位置づけ、優越感に浸っているのであろうか。

その様な言葉を聞いている子ども達は、どう思うだろう。それを考えるのが、「想像力」だ。

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何故?

書評:新井紀子『生き抜くための数学入門』(理論社YA新書)とか個別メモ【第816回】 6月になった(2007年6月1日)を読んで、新井氏の本を読んでみようかな、と考えたのに、その事をすっかり忘れていたのですが、図書館のサイトで本を探している時に、ふと思い出し、2冊借りてみました。

で、今、この本を読んでいます↓

こんどこそ!わかる数学 (岩波科学ライブラリー 128) Book こんどこそ!わかる数学 (岩波科学ライブラリー 128)

著者:新井 紀子
販売元:岩波書店
Amazon.co.jpで詳細を確認する

まだ半分ちょっとしか読んでいませんが、実に良い本だと思います。とても解り易くて丁寧。一通りの勉強はして、単語とか公式は何となく憶えているかな、という人には、うってつけなんじゃないかと。どうしてそうなるか、という所を、ちゃんと説明してくれています。

世の中には、「何故そうなるかは置いといて、取り合えず憶えておこう」、というのを、物凄く苦痛に感じる人がいます。結構多いかも。解らないと、気持ちが悪いんですね。で、何故、というのを考えている内に、授業がどんどん進んでいって、ついていけなくなる。

身の回りに、「何故」に答えてくれる「先生」(学校の教師だけではなくて)がいれば、色々アドバイスを受ける事も出来るのですが、そういう人がいなければ、悶々としてしまうんですよね。この本は、良い先生に、なってくれるのではないでしょうか。

他の本も、読んでみようと思います。

追記:上記の本は読み終わり、今、この本を読んでいます↓