前にコメント欄で紹介したのですが、改めて、言及してみます。※強調等は、原文ママ
科学者の常識の欠如 - アルスブルグの研究室
「自分は特別な存在だ」と勘違いし、虚構の正義を振りかざして悦に入っている彼らを、私は「ニセ科学者」と呼んでおります。
”「自分は特別な存在だ」と勘違いし、虚構の正義を振りかざして悦に入っている”科学者をニセ科学者と呼ぶのは、別に構いませんが、具体的に、「彼ら」と、きくちさんや他の方々を指して用いておられますね。他人の心性について憶測を巡らせ、それを基に非難を繰り広げるのは、あまりよろしくないと思います。
この後に氏は『マイナスイオンの商品が多く売れたのは、消費者がマイナスイオンの健康効果に科学的な裏付けがあることを信じたからだろう』と主張していますが、そうでしょうか。そんな馬鹿なことありません。消費者は、科学的な裏付けなど求めておりません。そんなことを気にするのは神経質な科学者だけで しょう。
「科学的な裏付けがあることを信じ」るというのは、必ずしも、具体的に、「この商品は、科学的にきちんとしたテストを行った上で市場に出回っているのだろうか」、と思惟する事を、意味しません。「この商品にはちゃんとした効果があるのだろうか」、と考える際に、「企業は科学的に根拠の乏しいものは出さないであろう」、という前提を持っていたり、テレビショッピングで「科学者」や「データ」が出てくるのを観て、「ふーん、科学者が色々やってるんだ…」と認識する事等も、含んでいます。いわば、「何となく」信じている、というのを指している訳です。
洗剤が汚れを落とすのに、化学的メカニズムが働いている、というのは、ほとんどの人間は知ってます。「効果がある」ものを求めるという事は、直観的に、科学者や企業によって研究なされたものである、というのを、認識している訳ですね。市場に出回る製品に対する信用というのがそもそも、科学に対する(何となくの)信頼を含んでいる、と考えられます。「科学的な裏付けがある」と認識するのは、「科学者がお墨付きを与えた」とか、「新技術!」とパッケージに書いてあるのを信頼する、という意味も含めてあるのですね。
科学が証明できなくても、我々の体は現に 健康になっているのです。それで十分なのです。ゲルマニウムも然りです。
「現に健康になっている」というのを、どの様にして評価しているのでしょうか。体験談?
事実は、こうではないでしょうか。「ゲーム脳説を聞 いた親や先生は、ゲームが脳に与える負の影響を心配し、子供にゲームを止めるように言った」。ただ、それだけなのです。親や先生は、ゲーム脳説におけるα 波やら何やらという根拠など、考慮していません。ゲームは脳に害を及ぼすようだ。だから、止めさせなければ。それだけです。心配だから、 止めさせる。ゲーム脳説を受け入れた親や先生が、子供にゲームを止めるように言うのは、躾の根拠を科学に求めた結果ではないのです。
意味が解りません。ゲーム脳の提唱者が「科学者」だという事を、忘れていませんか。森氏の講演会では、脳波のデータや、神経科学の専門用語等の、「科学を仄めかす」ものが用いられる事は、ご存知ですか。隣に住む中学二年生の子どもが同じ事を言えば、「同じ様に」信じるでしょうか。情報を解釈する際、発信者の属性を考慮する事は、ありませんか。そもそも、脳の働きと心が密接に関連しているという考え自体が、「科学的」なのです。
何にせよ、科学者の代表である氏と我々の間には、日常生活における認識のずれがあることは間違いないでしょう。
きくちさんが「科学者の代表」である、とする根拠がよく解らないし、「我々」が誰を指しているかも解らない。恐らく、「科学者以外」の集合を示しているのだと思われますが、それを「我々」と言われても、という感じです。私は科学者ではありませんが、きくちさんの仰る事に、大いに賛同する者です。無茶な一般化を行うべきではありません。
「いくら科学が発達しても将来的 に解明されることは絶対にない」、ということではないと、氏に代わり弁解しておきます(氏は後者のつもりで主張していることは明らかですが)。氏は、続い て極めて危険な発言をしています。
何故にきくちさんの代わりに弁解なさるのか、さっぱり解りませんが、それは置いといて…。ここの直前の文章も併せて、説明が、よく理解出来ませんね。後者というのは、括弧の中だけを指しているのか、「ことではない」まで含んでいるのか。
曰く、『水に心はない』、と。繰り返しますが、これは極めて危険な発言です。「危険な」という言葉は以下の意味で使用し ています。すなわち、「心(意識)」というものがどのように生じているのか、現代脳科学を以ってしても解明されていないのに(ニューロンの活動が精神活動 に対応していることは分かっていますが)、軽々しく「水に心はない」と言ってしまうことです。
ここで言われる「心」とは、自己意識(色々な概念があると思いますけど)の事だと思いますが、それが神経細胞の活動に対応しているのは、認めておられる訳ですよね。科学的には、その通りです。それを前提にすると、「水に心は無い」という言明は、全くおかしくありません。ここを否定すると、科学の話では無くなってしまいます。
氏は、小学校の教師が「水に関する説」を道徳の授業で紹介したのは、道徳の根拠を自然科学に求めたからだと思い込ん でいますが、そんな馬鹿なことはありません。小学校の教師は「水に関する説」を、言葉遣いについて考えるための単なる題材として取り上げたのであり、そこに根拠(~だから・・・するべし)など求めてはいません。
TOSSの授業実践の例とか、それに対する児童の感想とか、見た事ありますか。「何故」題材として用いたのですか。つまり、選択した根拠は?
恰も、科学者以外の人間がニセ科学批判を展開していないかの如く看做しているのが、根本的な思い違いですね。むしろ、科学者ステレオタイプを強固に形成していて、それを前提にしてしまっている、という印象。
科学者の常識の欠如~再来 - アルスブルグの研究室
彼らはゲーム脳説の最も重要な主張、「脳が壊れる」ことを恐れた。根拠はわからないが、なんだか危ないという話だから、ゲームをやめさせた。科学的根拠の存在がゲーム脳説受容の決定打になったのではなく、彼らは根拠から切り離された主張だけを受け入れたのだ。
意味が全く理解出来ません。上にも書きましたが、「誰が言った」という情報は、考慮しないのですか。「大学の先生が言ったのだから」、という認知が働くというのは、ありませんか。「大学の先生が言っている→大学の先生は、専門的な科学の知識を持っている→この先生の言っている事は、科学の知識に基づいて認められているのだろう」、という認知は、認められませんか? 一応言っておきますが、これは、一々顕在的・分析的に思考する、という意味ではありませんよ。
誰がどう考えても、2.のように親は考えた、とする方が自然ではないか?この点について反論があるなら聞いてみたいものだ!
「何だか危ないようだね」と発言する事は、科学的根拠を意識しない事を、意味しません。既有知識や直観的認識というものを、もうちょっとお考えになった方が、よろしいでしょう。
例えば、人は風邪をひいたら薬を飲むが、なぜ薬を飲むかといえば、それが効くからだ。決して、薬物の分子的作用機構を気にしてはいない。しつこいようだが、一般市民が信じているのは効果であり、根拠の存在ではない。
どうも、「科学的根拠を信じた」というのを、「ある程度分析的に考え納得した」、と考えておられる様ですね。そう読めます。大部分の人が、薬の具体的な生化学的メカニズムを気にしていない、というのは、その通りでしょう。で、そんな事は、多分、誰も言っていません。
科学者である氏と一般市民の間には相当な認識のずれがある。疑似科学を論じる前に、まず、市民に歩み寄るところから始めてはいかがかな?
kiklogで聞けばいいのにね。私も一般市民ですけど、ブログ主さん(お名前が解らないので、失礼します)と、相当な認識のずれがあります。一般市民も色々、って事かな。
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