« 方向性 | トップページ | メモ:美容整形を嫌う心理についての考察 »

2007年7月25日 (水)

滑り板…じゃ無くて、「滑り坂」論法

追記:タイトルで、恥ずかし過ぎる間違いをしました。痕跡は残して、タイトル修正しました。

内海さんがpoohさんの所で紹介なさっていた本を、今読んでいます。

脳のなかの倫理―脳倫理学序説 Book 脳のなかの倫理―脳倫理学序説

著者:マイケル・S. ガザニガ
販売元:紀伊國屋書店
Amazon.co.jpで詳細を確認する

まだ半分弱しか読んでいませんが、大変面白い。神経科学者としての立場から倫理的諸問題について言及する、という内容ですが、とても考えされられます。文章も平易で読み易く、するする読み進められます。

本の主旨とはちょっとはずれるのですが、面白い記述があったので、引用します。

 私がとくに実現したいと思っているのは、脳神経倫理の議論から「滑り坂論法」をなくすことだ。評議会の報告書を見ても、この論法に基づく考察がいかに多いことか。Aという行為を行なえば、坂を滑り落ちるように非倫理的な行為であるBに行き着くにちがいないから、Aを行うのは倫理上許されないと説く。倫理学者はこんな極論をふりかざして市民の不安を煽り、少しでも科学者のわがままを許せばどこまでもつけあがると匂わせている。はっきり言って、こうした論法はほとんどが飛躍のしすぎで、現実を超えたサイエンス・フィクションの領域に入っている。(P18)

この、「行き着くに違いない」という論理展開は、何らかの害悪を云々する際に、用いられる方法ですね。本来、実証データに基づいて議論されなければならないのに、直感や経験を過度に信頼して、論理を飛躍させる。気をつけなければならないと思います(それを用いる論者にも、それを自分が用いてしまうのではないかという可能性にも)。

|

« 方向性 | トップページ | メモ:美容整形を嫌う心理についての考察 »

「社会論」カテゴリの記事

「科学論」カテゴリの記事

コメント

こんにちは、TAKESANさん。

>この、「行き着くに違いない」という論理展開は、何らかの害悪を云々する際に、用いられる方法ですね。本来、実証データに基づいて議論されなければならないのに、直感や経験を過度に信頼して、論理を飛躍させる。気をつけなければならないと思います

私に言わせるとこういう論理展開はかなり人間の文化の一部をなしているものだと思います。なんていうか、人間は基本仕様として「近視眼的」であり、往々にして目先のことにとらわれ、ずるずると長期的にはよくないことでもやってしまうわけですね。同じように、そういう近視眼的な利得は認識しやすいために、社会そのものが全体的にそういう近視眼的行動に向かう可能性はあるわけです。おそらく人類はさまざまな試行錯誤の中で、最初の行動を制限することで近視眼的な利得を見ないですむ文化を発展させたのだと思うわけです。つまり、滑り板論法というのは、経験的な人類の文化の一つに見えるわけです。経験的なものだから、「今の状況はそれとは違う」という形で厳密な証拠を求められたらそれは出せないことが多いわけですけどね。だからこそ、「人間の仕様は昔と今で違うのか」に立ち戻った議論をしなくてはならない気がするわけです。

投稿: 技術開発者 | 2007年7月25日 (水) 04:27

 滑り板論法は使う側も批判する側も明確な論拠を持たない場合にこそ問題になりそうです。長期的視点には滑り板論法的なものが必要ですし、それを滑り板論法であるということと、根拠が不明確であるということで否定してしまうと、短期的視点しか持てないことにもなりかけない。
 しかし、だからといって無条件に滑り板論法を受け入れるわけにもいかない。ここら辺は予防原則に関する議論と同じようなものになるかもしれないなと思います。

 まだよく考えていませんが、私は滑り板論法であっても、短期的な利益にもなる場合は受け入れてもいいかな?と思ったりします。もちろん、肯定できる根拠も否定できる根拠も殆どない場合の話です。

投稿: newKamer | 2007年7月25日 (水) 10:51

技術開発者さん、今日は。

newKamerさんもお書きになっていますが、こういう議論では、予防原則的な論点が、重要になってくるのでしょうね。こうなったらこうなるに違いない、と考えるのは、慎重に物事を捉えるという点で、肝腎だと思います。しかし、それを主張し過ぎると、科学や技術の発展を阻害するし、享受されるかも知れないメリットを蔑ろにしてしまいかねない。

私が思うに、「滑り板論法」というのは、「何となく」を論拠にする場合に、問題になるのだと思います。こうなるに違い無い、という所を、科学的・論理的に考えなくてはならないのに、直感を重んじてしまう、という。

当然、どういう場での議論か、というのも考慮する必要があるでしょうね。有識者が集まる、社会的意思決定に大きく関わる場であれば、やはり、科学的・合理的根拠に基づいて議論を進めるという観点が、不可欠だと思います。

投稿: TAKESAN | 2007年7月25日 (水) 11:51

newKamerさん、今日は。

いずれの論拠もはっきりしない場合には、安全側に設定するのも、重要ですね。

ただ、ガザニガも書いていますが、遺伝子治療等の生命倫理に関わる問題の場合、大変難しくなりますね。メリットの大きさも計り知れないだけに。とても悩ましい話です。信念が関わってきますしね。

投稿: TAKESAN | 2007年7月25日 (水) 12:01

上でご紹介した本、とっても面白いので、一読をオススメ。

内海さん、ありがとうございます。

投稿: TAKESAN | 2007年7月25日 (水) 12:03

http://ep.blog12.fc2.com/blog-entry-598.html#more

成る程、こういう読み方もあるか。私は、一つのスタンスから倫理を説こうとした本だから、そこに特に、引っ掛かりは感じませんでしたねえ。ガザニガが自文化中心主義的な思考に凝り固まっている様にも、見えませんでしたし。初めから、相対化した視点で読んでいるから、なのかなあ。

投稿: TAKESAN | 2007年7月25日 (水) 12:20

いや、挙げられたURLの方は、お書きのことが見事にブーメランしていらっしゃるように思えるんですが(^^;。

ガザニガは「単体の脳のなかに生じること」と「複数の脳の間に生じること」をいちおう峻別してると思うんですけど、そこに対して特定の文化圏の倫理をぶつけて反論してどうするんだろう。

投稿: pooh | 2007年7月25日 (水) 12:42

私は、本がどういうスタンスで書かれているか、というのを重視するので、そもそも神経科学の知見を基にして倫理を語る、というものなら、本がああいう内容になるのは当然なんじゃないかなあ、と。比較文化的な観点から、「命とは」とかの倫理的問題を考えるのなら、それをテーマにした本で書かれればいい訳で。
もちろん、リンク先の感想そのものには、肯ける部分はありますけれど。

投稿: TAKESAN | 2007年7月25日 (水) 13:03

いや、この方が云う「西欧的文化」と「東洋的文化」と云うのがよく分からなくて。便宜的分類どころじゃなくて、ちょっと一面的過ぎないか、みたいな。この方の云う「命」の概念は東洋的と云うよりはむしろプロテスタント的に見えてしまうし。

と云うよりそもそもガザニガのスタンスからすると文化も倫理も「複数の脳の間に、それらの相互作用に基づいて生じるもの」であって、彼が語るのは「その根源を個別の脳の仕組みに求めうる可能性」なんだと思ったんですよ。前提として「(単体としての個別の)脳」と「(複数の脳の間に生じる)倫理」を対置して議論しているので、「人格を個別のものとして重んじる発想が偏ってる」と云われてもなんだかなぁ、みたいな。
それこそこの方の内部にある「幻想の東洋文化」に発想が偏ってしまっていて、お書きのことがブーメラン化してるように見えました。

投稿: pooh | 2007年7月25日 (水) 14:09

あ、そもそも私が、宗教的概念に疎いので、そこら辺は、上手く掴めていないという所もあります。なので、リンク先で書かれている東洋/西洋的宗教観についての分析が妥当なのか、よく解っていないです。

で、ガザニガの主張に関しては、poohさんが仰る通りだと思います。

うーん、考えていく内に、何だか、頭が混乱してきた…。自意識に対する価値付けが、ポイントなのだとは思いますけれど。

---------

リンクはこっちでしたね⇒http://ep.blog12.fc2.com/blog-entry-598.html

投稿: TAKESAN | 2007年7月25日 (水) 15:53

呼ばれているような気がしないでもないので、…混じったほうがいいでしょうか、お呼びでないのであれば退散いたします。
(ココログは自分のブラウザから書き込むとバグるので申し訳ない)

投稿: あまさき(そのネタ元) | 2007年7月25日 (水) 19:33

あまさき(そのネタ元) さん、今晩は。

いえいえ、言及したのはこちらですし、書き込みは歓迎ですので。上にも書いてある通り、そもそも私が、あまさきさんの仰りたい事を掴めているか解らないので、教えて頂ければ、ありがたいです(図々しい言い方ですが)。

もちろん、議論の場として使って頂いても構いませんので。

投稿: TAKESAN | 2007年7月25日 (水) 21:55

私の主張を書いておきます。

ガザニガは、神経科学の知見を基にして倫理的問題を語る、というスタンスであの本を書いていて、そういう前提なら、あの内容で特に問題は無い、と感じました。

あまさきさんは、ガザニガの論理展開が自文化中心主義的だと捉えられ、本来なら、そもそも倫理に関わる概念そのものを相対化し、そこから論じていくべきだ、とお考えな訳ですよね?

私としては、そもそも、西洋科学の枠組みから人間の生を捉えるならば、認知と言うか、自意識を重要な概念として用いるのは、ああいうテーマの本なら妥当かな、と考えました。ガザニガ自身、ある種の割り切れなさも自覚している様に思えましたし。そういう意味では、あまさきさんのガザニガに対する批判は、別の文脈で語るべき事の様に感じた訳です。

投稿: TAKESAN | 2007年7月25日 (水) 22:12

アレはだいぶまえに書いたエントリで、今の自分が当時の思いのままを解説できるかどうかは心もとないところですが。以下「たぶん」…

「西洋科学の枠組みから人間の生を捉え」る彼らのゲームの中でだけ完結してくれるならあの路線でかまわないけれど、ガザニガらの提起をヒューマンユニヴァーサル(人類が営む社会文化すべてに通用する原理)として、まっこうかつぎあげるのはごめんしてくれ、という個人的な愚痴です。
 東洋/西洋の対比は、単にその手の構図を描くと話が便利なゆえにかつぎだしただけの、便宜的な表象です。単純に”ああ、これ以外の、違う文化っぽいのがあったっけ”と想起させる(ほかの在り方があるよと示す)わかりやすいフラグ。
 日本のニューロエシックスは、欧米とは距離と独自性を保てているのか、という胡乱な問いかけです。

「ニューロエシックスはある意味で新しい樽に盛られた古い酒にほかならない」〜ジョナサン・モレノ
 (香川知晶「ニューロエシックスの新しさ」より 『現代思想』2006年10月)

 ほかの古い酒では、海外と日本のスタンスの差はさまざま指摘されている。脳死移植でも彼我の文化間では大きな断絶があるし、中絶でも性慣習でも… その中、脳神経倫理学だけが海外さまの受け売りでござい、みたいな展開を見せるんじゃないよ、ちゃんとしてよ、と、そういう遠吠えです。

投稿: あまさき | 2007年7月25日 (水) 23:05

あぁ、お気に障る書き方だったらすみません>あまさきさん

ぼくの見解はぼくの見解でこちらのwebmasterであるTAKESANさんとの合意があるわけではありませんので、それだけ書き添えさせてもらいます。

当該書物に対するぼくのレビューはこちらになります。
http://blog.so-net.ne.jp/schutsengel/2007-07-08
ご案内まで。

投稿: pooh | 2007年7月25日 (水) 23:08

…ところで、表題の件、「滑り板(いた)」じゃなくて「滑り坂(さか/スリッパリー・スロープ)ではないかと・・・

投稿: あまさき | 2007年7月25日 (水) 23:12

ああ、成る程。

▼▼▼引用▼▼▼
ガザニガらの提起をヒューマンユニヴァーサル(人類が営む社会文化すべてに通用する原理)として、まっこうかつぎあげるのはごめんしてくれ、という個人的な愚痴です。
▲▲引用終了▲▲
ここが、主旨だという事ですね。

私の感想は、神経倫理学について殆ど知識が無く、どの論者がどの様に布置されるかを知らない者の、素朴な読みだったのかも知れません。ただ、その無知な者の一人からすると、ガザニガの展開する論が、自身の属する文化の優位性(と言うのか何と言うのか)を主張するものには見えなかったのですね。個人的な感情としては、「ふーん、そういう考えもあるか」、という様なものでした。自然科学の論理に従えば、そういう所にいくのかな、という。当然、私の個人的な倫理観と一致しているという訳でも無いです。ある程度近いかな、という気はしますが。

もちろん、ガザニガの書いたものを読むのは初めてですし、他にどういう主張があるかもよく知らないので、ガザニガ自身が(異文化の倫理について)どういう認識なのかは、何とも言えない所です。

何だかまとまっていませんが、そんな感じです。

投稿: TAKESAN | 2007年7月25日 (水) 23:22

poohさんへ。

あ、すみません、わざわざ。

------

あまさきさん
 >「滑り板(いた)」じゃなくて「滑り坂(さか/スリッ
 >パリー・スロープ)ではないかと・・・
げげげっ。なんちゅう間違いを…。「”滑り板”って何の事だろう?」とか思いながら書いていたんですよね(笑)
ご指摘ありがとうございます。電光石火で修正します。めちゃくちゃ恥ずかしいので。

投稿: TAKESAN | 2007年7月25日 (水) 23:32

こちらを読まれた方の何人かが、「すべりいた」という音を記憶されたかも…。

ホント、すみません…。

投稿: TAKESAN | 2007年7月25日 (水) 23:37

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.f.cocolog-nifty.com/t/trackback/13103/7265360

この記事へのトラックバック一覧です: 滑り板…じゃ無くて、「滑り坂」論法:

« 方向性 | トップページ | メモ:美容整形を嫌う心理についての考察 »