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2007年7月18日 (水)

瓦重構造

Yahoo!ニュース - 産経新聞 - 柔道部員投げ続け重傷負わす 中学教諭を送検

武術・格闘技を行う者は須らく、それらが、「かつ暴力」というあり方をしかしない事を、肝に銘じておくべきでしょう。

教師がいかなる認識を持とうとも、柔道の投げ技というものは、実体的には即暴力なのです。本質的に、相手を攻撃するものなのです。「こう思っていたから」という理由で言い訳する、免責を求めるのは、あまりに身勝手です。その様な行為には、やる側の意味付けと、やられる側の意味付けに、ずれが生ずる事があります。だから、「やる側」は、自分の意図が伝わっているか、独善的になっていないか、という事を、常に心掛けなくてはなりません。「躾」と称した行為が、相手を服従させる装置になりかねないのですから。社会的立場、肉体的優位性を利用した行為ですからね。ちょっと間違えると、大変な事になる訳です。

他の人にこうやって上手くいったから、この人にもこうやれば良いだろう、とか、自分がこうされて良い経験になったから、他の人にもそうしよう、というのも、よーく考える必要があります。自分が信じている機能が常に発揮されるとは、限らないのですから。

こういう論理は、様々な所に見られます。「フザケかつイジメ」とかですね(下記文献を参照)。だから、自分が何をやっているか、それがどう受け取られているかを、常に考えるべきなのです。「善意かつ不寛容」なんてのも、あるかも知れません。

参考文献:光と闇―現代武道の言語・記号論序説

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コメント

ちょこっと、ニコニコのあれ関連で。

いじめ/ふざけ(他にも、いじりととか)は本質的に、瓦重構造。いじめは、受けた側がどう感じ、考えるか、というのが最も重要だから、外から観察した現象を分析して評価を下すのは不可能。受けた側の認識いかんによって異なる。それこそ、日によってもそれは違う。

いじめられている、というのは、言葉を受けた時の身体的な反応なのか、それを色々解釈した後の価値付けの問題なのか、それも複雑。

少なくとも、どういう状況だったから、言う側はこういう気持ちだったから、というのを、「ある現象がいじめでは無い」根拠とするのは、全くナンセンスであると言える。これはいじめでは無いのだから気にする方がおかしい、というのは、人によっては壮絶なプレッシャーにもなる訳だから。

言葉を柔軟に解釈出来る素地は作っておいた方が良いとは思うけどね。でもそれは、言ったり眺めたりしている側が強いる事じゃ無い。そっち側の人は、自分のいかなる言動もいじめとして機能し得る、というのを認識して、コミュニケーションに臨まねばならない。

投稿: TAKESAN | 2008年7月 7日 (月) 12:35

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