« 2007年6月 | トップページ | 2007年8月 »

2007年7月に作成された記事

2007年7月31日 (火)

メンテなんすよ

お知らせココログ: (再掲)7/31 ココログフリー メンテナンスのお知らせ

 ココログをご利用いただきありがとうございます。

 ココログフリーにつきまして、バージョンアップを目的としたメンテナンスを2007年7月31日(火)21時から、翌8月1日(水)15時までの18時間で実施いたします。

よろしくー。

ココログ、ココログユーザー以外には、いつどの時間帯でメンテするか解りにくいアナウンスをするので、エントリーを上げてお知らせした方がいいんですよねえ。

| | コメント (1) | トラックバック (0)

アップデートされない知識

ニセ科学を信用する理由の一つに、何年も前に学んだ知識がそのまま残っていて、それが正しいと思い込んでいる(から、それを利用したニセ科学的言説に傾き易い)、というのがあるでしょう。経験と合致していたり、マスメディアの情報だからと信じていたり、という事もあると考えられます。知識を更新しないのですよね。たとえば、現在の日本の水道水の質の高さを知らずに、過度に不安を持ったり(水道水の「不味さ」という実感がきっかけだったりする)。水道水は不衛生、もしくは危険、という信念を持っていれば、そこにつけ込まれる虞があります。農薬にしても保存料にしてもそうなのでしょう。技術が未熟であったり、研究が不足していた頃に言われた危険性等に関する知識は、たとえ当時は事実であったとしても、現代も、それがそのまま通用するとは、限らないのですね。

で、知識をアップデートするには、コストが掛かる訳ですね。時間的にも金銭的にも。しかし、今の時代、WEBという、とても便利なツールが普及していて、相対的に、掛けるコストは低くて済む様になっているのですよね。それを使わない手は無い。でもまあ、脳を使うという意味でのコストには、あまり変わりが無いので、そういう「面倒」な事が嫌いな場合、古い知識をそのまま用いるのでしょうね。

あれですか。10年前に友人宅で、ダイヤルアップでインターネットに繋いでWEBをやった事しか無い人が、今の時代に、「ネットって、画像が一枚表示されるのに、3分くらい掛かるんでしょ? そんなのやってられないよ」、と言う様なものですか。一体いつの話してんだよ、という。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

選んだのは

横綱を選んだ人達が、横綱の「品格(とか品位とか)」についてあれこれ言うのは(私が見たのは、一人か二人だったと記憶しています。内一人は、横綱審議委員)、ちょっとおかしいと思うのですが、どうでしょうか。だって、横綱に品格が無いのが事実だとすれば(仮定ですよ)、その、「品格の無い」人を、審議した上で横綱に昇格させたという事実は、どうなるのでしょう。「ああいう品格の無い人間を選んでしまった責任は自分にもある。申し訳無い」、と言うのなら、まだ解りますが(そう言っている人、いるのかな?)、自分で選んでおいて、その人の人格の問題点を批判するというのは、自身の「見る目」が無かったと宣言している様なものだと思います。

あ、後。

歴代の横綱は、「品格」とやらを、備えていたのでしょうか。そして、本当に、朝青龍氏は、その「品格」とやらが、著しく欠落しているのでしょうか。昔の横綱のエピソードには、今それをやると大変な騒ぎになるものが、結構ある様に思います。昔なら、それが他に迷惑を掛ける様な行為であっても、「豪胆」とか「型に嵌らない」とか、ポジティブな評価を受けたのかも知れませんね。どちらが良い、という事でもありませんが。

これは余談ですが。個人的な語感からすると、品格を兼ね備えていると感じるスポーツ選手(武道も含む)など、見た事が無いです。私にとってそれは、威厳と謙虚さと自覚と強さと大胆さと優しさを併せた様な概念なので、それを持った人間が存在するかどうかも、怪しく思っているのです(笑)

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2007年7月30日 (月)

道具主義

某ブクマ経由⇒泣き言メイン(琴子のセンス・オブ・ワンダーな日々)

ちょっと気になった所。

私は、「道具主義」は、J・デューイだかの、「Instrumentalism」を指すんじゃないかなあ、と思ってました。tot-mainさんの書かれた内容だと、「実利主義」とかの方がいい様な。うーん、それでも一緒か…(言い換えになっちゃうか。その前に、「実利主義」は「功利主義」と同義だろ、って話になるか…)。遠い昔に勉強した事なので、的外れかもしれませんけど。いや、「似非科学も道具として有用なら良いんだよ!」という例と絡めて「道具主義」と言うと、哲学の人とかから突っ込みが入りそうだなあ、とか思ったので、何となく、書いてみました。どちらかというと、実在論とかに対置される概念なのではないかなあ、と。もちろん、哲学的に厳密な用法では無いのかな、というのも、エントリーの趣旨から考えましたが。良い機会なので、プラグマティズムの本でも読んでみようかな。

ご参考までに(広辞苑第五版より引用)。

【instrumentalism】 デューイの認識論の立場。人間の知的活動は環境に適応してゆくための方式であり、概念や真理などは生活過程での障害をとりのぞくための道具にほかならないとする。器具説。道具説。

tot-mainさんが書かれた所の道具主義な人達を表す言葉、他にないですかね。

書いてて、よく解らなくなってきた。

| | コメント (1) | トラックバック (1)

冒険?

痛いニュース(ノ∀`):TV番組製作者「今のテレビはつまらないとは思わない」…ネットの影響だという意見もテレビってどーよ?「つまらなくない!」とTVマン|Ameba News

自然と“人気者大集合”の番組が増えるのです。冒険がし辛い時代です

ああ、自覚はしているんですね。「冒険」が何を指すのかが、よく解りませんが。って、広告代理店の人の話か。

「ゴールデンの演出も出かける30代のチーフディレクター」氏の意見、頷ける所も(少し)ありますが、開き直りと取れなくもないですね。

どうでもいいんですが、最近の『めちゃイケ』、今一つだと思うんですよね。こちらが厭きたのか、番組が以前と変わったのかは、不明ですけど。

あんまり、「つまらないもの」を採り上げて云々するべきではありませんが、細木数子さんの料理を紹介して、周りにいる芸能人が感心する、っていう図は、どうにかなりませんかね。後、「○○流」とか言って、料理をする人なら当たり前の様に知っている基本技能を、さも画期的な方法であるかの様に紹介するのは、やめて欲しい。わざとらしすぎる。白々しい。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年7月29日 (日)

バイアスシリーズ

無自覚に形成してしまうバイアスについて考えたエントリーを、集めてみました。

Interdisciplinary: 批判対象に対する的外れな思い込みの形成

かなり微妙な日本語なので、簡潔に纏めます。

「数字が全てじゃない!」と発言する人の思考

  • 客観的データの提示を求める人間に、「冷たい」という印象を持つ。
  • 体験や実感を過度に重視する。
  • 実証科学的データは、現象の一面を切り取ったものだと考える(それは部分的に正しい)。そして、データに還元する事そのものを忌避する。
  • 実証データを重視する人に対して、「実感や経験の軽視」を見て取る。これは、飛躍である。

Interdisciplinary: 理屈を言う人は上達しないであろうバイアス、の形成

高度な実践が目的であるのに、理屈を言って、パフォーマンスが伴っていないのなら、それは、批判されて然るべきです。

しかしそれは、「理屈を言うべきでは無い(現象を分析的に捉えようとしてはならない)」、という事では、ありません。

果たして、自分が教えている事は、客観的に見て、合理的であるのだろうか、と考えるならば、直感・実感を、一旦相対化してみる必要性に、気付くはずです。

「擁護システム」というのは、高岡英夫氏提唱の概念で、上位者が自身の立場を守ろうとするシステムの事です。それが、無意図的に形成された場合には、「潜在的擁護システム」と呼ばれます。要するに、「理屈を言うな」、という「教え」が、上達の対象(武術等)に対する分析的・探求的思考を失わせる機能を持つ場合がある、という事ですね。「理屈はいいから取り敢えずやってみろ」、というのは、全くの初学者には有効ですが、それをいつまでもやってはならないのです。上達の機会を逃す事に、なりかねないのですから。

Interdisciplinary: そんなもんやってて何になるんだバイアス

つまり、「社会の役に立つか」、という観点が、偏見の基になるのではないか、という話です。「やる事によるメリット」が認識しにくいので、「有害性」を論ずる事に躊躇しない、という。サブカルチャーは、恰好の攻撃の的、なのではないでしょうか。

自分が嫌いなものは、「社会に益をもたらさないもの」だ、と考えれば、「自分の正しさ」を確信出来る訳です。

Interdisciplinary: 科学者は適当だバイアスの形成

テレビに出る「科学者」を、「科学者の典型」と看做してしまうバイアス。「専門知識を持っている訳では無いが、直観的認識力に優れている人」が、「テレビで適当な事を言う科学者」を観て、「科学者は適当なのだ」、というステレオタイプを形成してしまうのですね。

たとえば、心理検査もどきを用いて芸能人の人格を云々する「心理学者」が、いたとしましょう。賢い人は、「そんなんで、人の心が解るの?」という、尤もな疑問を持つ訳ですね。実際、心理学者は、そんな単純な方法で人の心をどうこうしない訳ですが、そういう事情を知らない「賢い人」は、「心理学(者)は胡散臭い」と結論する訳です。過度の一般化を行ってしまうのですね。理想的には、心理学を勉強するのが良いのですが、なかなかそうもいかない。

で、その「賢い人」が、言動の及ぼす社会的影響が大きいと推測される、たとえば、有名な芸能人であったり、作家であったりすると、「あの人が言う事はある程度妥当だ」、と考える同調者が、「科学者は適当だ」というバイアスを共有してしまう、というメカニズムです。「適当だ」の部分には、「頭の固い」でも、「融通が利かない」でも、「理屈ばっかり言う」でも、何でも代入出来ます。「同調者」は、「誰が言った」かを、重視しているのですから。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

舌禍

Yahoo!ニュース - 時事通信 - 麻生氏こそアルツハイマー=批判しつつ発言-田中元外相

知識が不足していて、想像力が欠如しているのかなあ。どう発言したかを、正確に知りたいものです。

聴衆は、どういう反応をしたのでしょう。普通、引くと思うんですけどね。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年7月28日 (土)

無知の知

これは、何度か書いた事があるのですが。

(あくまで思考実験ですので、細かい所に突っ込まないで…)たとえば、今の時代に、現代科学について全く勉強をせず、観察と思弁によって、アリストテレス的な自然学の体系を作り出した人がいたとします。
その人は多分、天才と言って良いのだと思います。とんでもない認識力を持っている訳ですから。でも、現代という、数え切れない人が長い年月を掛けて積み上げてきた、科学という知の体系が存在する時代に、アリストテレス自然学の論理を持ってきて、「自分は、自然がこうなっていると考えている」、と言ったって、「勉強してこい」、と突っぱねられるのは、あまりに当然の話なのですよね。その場合に、自然科学を勉強せずに、「科学者は頭が固い」と言うのは、駄目過ぎるのです。

子どもの頃は、「発見」の連続です。でも、その「発見」が、実は、ずっと昔に知られた事だったりするのを、教えられる訳ですね。そして、積み上げられた知識の膨大さに驚嘆し、また、その一端に触れる事が出来たという事実に、嬉しくもなるのです。

だから、重要なのは、「知る事」。そして、「知っている人」がそばにいるのが、望ましいですね。凄く乱暴な事を言うと、「自分の馬鹿さ加減を教えてくれる人」がいた方が、ありがたいのです。

でもまあ、知らないまま、独自の論を展開させるのが、「楽」ではあるのですね。で、その「楽」さを維持する、また、自身の無知を認めないために、聞く耳を持たなくなる。大人だと、「自分の馬鹿さ加減を教えてくれる人」が、「自分の画期的な考えを認めたく無いがために攻撃を繰り広げる、愚か者」、とか、「旧来の思考に凝り固まり、柔軟な考えを持てない可哀想な人」、等、自身に都合良く変換される訳ですね。こうなると、厄介です。ある意味、完璧な論法ですから。

前、こんな事を書きました⇒Interdisciplinary: 無知の知と既知の知と未知の知

| | コメント (2) | トラックバック (1)

タブー

Book 黒人アスリートはなぜ強いのか?―その身体の秘密と苦闘の歴史に迫る

著者:ジョン エンタイン
販売元:創元社
Amazon.co.jpで詳細を確認する

これは、実に興味深く、考えさせられる内容でした。オススメです。

日本に生まれ、育っていると、人種差別というものを、実感として捉える事が出来なかったりします。正直、「そういう発言まで問題になるのか」、と驚かされるくらいで。

日本人の会話では、「黒人はバネが違うから」、とか、「元々身体能力が違うんだよ」、といった評価が、よく出てきますよね。多くは、特に差別的な意味合いでは用いられないと思うのですが、その様な言明でも、問題になる場合があるみたいです。

非常に難しく、根の深いテーマですね。自分の無知さを痛感し、もっと勉強すべきだと、反省しました。

とても面白い本なので、是非お読み下さい。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年7月27日 (金)

ウラミハラサデオクベキカ

文系白書ブログ: これはひどい(その2)経由⇒日本未来学会ほか、「ロボット化」をテーマにしたパネルディスカッションを開催~筑波大学・山海教授や作家・瀬名秀明氏らが対談

たとえばエンハンスメント技術を使って暴力的事件があった場合、「ロボットがやったんだ、俺がやったんじゃない」となったら誰が責任をとるのか。BMI技術がはるかに進めば、「念じる」ことでロボットに誰かを殺すことも可能かもしれない。そうなった場合、どのように立証して立件するのか。

元の文章が変ですが、これは、ロボットの所有者の「念」が「命令」になって、ロボットに殺害を実行させる、という事ですよね。

で、その様な現象が実現するには、

  • 「念じた」際の脳活動を精密に計測する――「念」が前提なのだから、音声や画像情報は使えない。記事にも「BMI技術」とある。
  • その脳活動が、「対象を殺す」命令を表している事を、デバイスに認知させる――これ、無理でしょう。脳を覗いて思考を悟る、という事と等価ですから。脳の構造機能を完全に解明しないと、不可能ですよね。出来たとして、それを情報処理するデバイスは、どうする?
  • その命令(情報)を、信号に変換する。
  • 信号を伝達する――遠隔操作でロボットに命令を与えるなら、電波ですね。
  • ロボット側で、信号を処理する。
  • 所有者の送った信号である事を認知する。
  • ロボットが、送られた信号を処理し、それが「対象を殺す」という情報である事を、正確に認知する。
  • 殺人を実行する――まあ、対象の近くに行ったら爆発する、というのでも良いですが。それでも、あまり変わらないです。「念じれば」、というのがポイントなので。

というプロセスが必要なのですよね。

少なくとも、脳活動を計測するデバイス、計測された信号から、命令者の「思考」を読み取り、送信可能な信号に変換するデバイス、その信号をやり取りするデバイス(これは、一般的な通信機器でいいのかな)、ロボット側には、信号を制御する機構、そこから、命令を正確に認知する機構、等々が必要な訳で(実現可能かは置いといて)、それら全ての証拠を隠滅するのは難しいし、出来たとしてもそれは、JosephYoikoさんが仰る様な、時限発火装置を用いた場合と変わらない気がします(これをどう立証するのかは、よく知らないのですが…)。結局、遠隔操作可能な武器を用いて殺傷するという現象なので、ロボットがどうとか、あまり関係無いんじゃないかなあ。

大体、知的なロボットに何かやらせるなんて、何で、そんなめんどくさい事させるんでしょうかね(ロボットのせいにする、というのを想定しているので、単なる人形じゃ無いでしょうから)。人間の「念」という複雑な概念(しかも、特定の人間を殺すとか)を、殺害の実行という単純な行為で実現せしめるというのは、恐ろしく難しいと思うんですよね。ロボットに人間の知能があるのと、殆ど同義じゃないかな。上にも書いた様に、対象に近づいたら爆発、という様なものだったら、まさに、遠隔操作の爆弾と同じになります。

元村さん、念が直接ロボットに働きかけて、何の経路も残らない…なんて想定をしている訳じゃあ、無いですよねえ。水伝じゃあるまいし。そもそも、人間も情報処理機構であるという事を、考えていないのかも。まあ、ディスカッションの流れで、思わず言ってしまったのでしょうけれど。

細かい事を言うと、対象を他の存在からどう区別するか(JosephYoikoさんの仰る、「敵と味方の判別情報」)とか(カメラ? どうやって、複雑な3次元情報と照合する? これはまあ、その内、技術的に可能になりそうですが)、色々あるのですよね。

ど素人でも、これくらい、考え付くんだけどなあ。

※タイトルの元ネタは、「魔太郎」です。知ってる人、いるのか?

※JosephYoikoさんのエントリーにTB送ろうと思ったのですが、上手くいかないみたいです。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

ほんわか

PSJ渋谷研究所X: うぎゃあ(><)で、何となく、記事のイラストが気になったので、描いた方のサイトを探してみました⇒スモカ

うーん、凄く良いですねえ。素晴らしい。動きがありますね。個人的に、かなりヒットしました。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

血液型性格判断

私の、現時点での、血液型性格判断(及び、それをニセ科学と看做す論拠)に関する認識を書きます。ご意見を頂きたいです。

血液型性格判断と性格相関の違い。

関連はあって良い、傾向もあって良い。しかし、それと、ABO式血液型の情報のみから性格を当てるというのは、全く別の事だ。

多くの研究で、血液型間の性格差について有意差が見られない、つまり、「差が無いという仮説を否定するだけの充分な根拠が見出されなかった」、という結果が出ているのだから、血液型から性格を当てられるだけの関連は無いと看做すのが、論理的に当然の帰結である。

ステレオタイプの問題がある。社会的に、「○型は△だ」、という認知が形成されていて、それが実際の性格形成に影響を与える、という理論。もしそうであれば、性格形成に環境要因が大きく寄与している事を意味するから、「血液型と性格との間に、(生物学的な)強い関連は無い」という事の論証になる。これは、「ある血液型の人には、特定の性格の人が多く見られる」、という主張とは異なるが(後者は、メカニズムを棚上げにして、分布に言及しているだけだから)、これ自体、上に書いた様に、反証されている。そもそも「ニセ科学」として批判されているのは、「血液型”性格判断”」だという事を忘れてはいけない。否定されているのは、「血液型が性格と生物学的に関連する」という言明では無い。

では、もし今後、多くの研究で、血液型間で、性格の分布に有意差が見られ、それが強く関連する事が見出されればどうするか。その場合には、血液型性格判断が、信頼の置ける科学的理論だというのが示されたという事になる。それだけの話だ。ニセ科学というのは、科学的に実証されていないにも拘らず、実証されたかの如く主張されたり、周知されたりする説の事だから、現時点での「ニセ科学」という評価には、何の関係も無いのである。ところで、上で仮定した、今後の研究で強い関連が見出される、というのは、1)ステレオタイプの効果の強さを認める 2)それまでの研究にことごとく不備があった(ので、生物学的な関連を見落としていた) のどちらかを意味するので、そもそも起こり得るのかは、疑問である。ステレオタイプが性格形成に影響を与えるとして、それが、性格判断が出来る程のものになるかどうか、というのも、難しい問題だが。

実は、ABO FAN氏も、興味深い論点を出してはいるのである。それは、「どの様な研究で、どの様な結果が出れば、”血液型から性格を言い当てる程の強い関連が見出された”と言えるのか」、という事だ。これについては、そもそも、血液型性格判断を主張する人、あるいはその支持者が、統計学的・心理学的にまともなデータを出していないので、批判者がわざわざ出す事でも無いのだが、科学的考察としては、大変興味深いものではある。

ABO FAN氏のロジックはこうです、多分――ABO FAN氏:ある程度信頼のおける心理学的研究において、性格特性と血液型の分布について、有意差が見られた。これは、「関係あるデータ」と言えるのではないか→批判者:少ない項目について有意差が見られただけで、しかも結果が安定していないので、強い関連があるとは言えない→ABO FAN氏:では、「血液型から性格を言い当てられる程の関連」とは何か? どう定義されるか→批判者:そもそも、有意差すら安定的に見出されていないので、強い関連がある事自体、否定出来るのだ→ABO FAN氏:いや、だから、「血液型と性格に関係あるデータ」を示しているのだ……以下ループ

以下、追記

分布に偏りが出る場合、次の三つの理由が考えられる。

  1. 血液型と性格に、生物学的な関連があり、それが現れている。
  2. 血液型と性格に、生物学的に強い関連は無いが、偶然偏っている。
  3. 社会的認知(ステレオタイプ的な)により、自己成就現象が起こり、分布が偏っている。

上記のいずれの理由であっても、大きな偏りさえあれば、「血液型から性格が当てられる(逆も)」という現象は、起こる。血液型性格判断を肯定する主張をする場合、上記のどの論理を根拠にするか。それをしっかり分けて考えているか。一般的には、1.を想定していると思われるが。

思考実験。たとえば、悉皆調査をして、日本に住む全ての人に、信頼性・妥当性の高い性格検査を行い、血液型と性格についての分布に関するデータが得られたとする。その場合、データをどう解釈するか。記述統計の範疇なので、検定などの問題では無くなる。尤も、論理的には可能だが、実際的には不可能な調査であるけれども。

本質的な問題。「性格から血液型を言い当てられる」という現象を、どう定量化するか。難しい。

| | コメント (13) | トラックバック (0)

2007年7月26日 (木)

天使と…

kikulogに投稿しようと思ったのですが、どこにコメントすればいいのか判らなかったので、こっちに。

ニセ科学と繋がるのかどうか、よく解りませんが、ノルウェーの王女が、「天使と話す能力がある」と、公表したそうです⇒ノルウェー王女、天使と話す特殊能力あると公表 | 世界のこぼれ話 | Reuters世界の三面記事・オモロイド | エンジェルとお話することができる北欧のプリンセス

王女は、代替医療にも興味を持っている様ですね。関係者は、どういう心境なのだろう。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

メモ:美容整形を嫌う心理についての考察

身近の人の話を聞いたり、マスメディア経由で得た情報を総合して、推測。

  • 「自然」、或いは、「手を入れていない」ものに対する志向。たとえば、「親から貰った顔に…」、「顔に異物を入れるなんて…」、「顔にメスを入れるなんて…」、「自然のままがいい」等
  • 「必要性」についての認識。上に書いた様な事を言う人でも、事故によって損傷を受けた顔を手術する事には、反対しないだろう。つまり、同じ様な行為でも、「美容」と「治療」という目的の違いによって、線引きを行う。
  • 部位。「顔」に手を加える事を忌避する。上記にも繋がるが、骨折の治療の為に、体内に金属を埋め込む事に、反対はしないだろう。二重瞼の手術や鼻を高くする手術には反対でも、審美的な歯の矯正等は許容する人もいる。どこに手を入れるのを許容するかという線引きは、恣意的である。たとえば、ピアス(耳)、刺青(全身)等。耳へのピアスを許容する人でも、鼻やヘソへのそれは、忌避する場合がある。刺青は一般的(日本では)に、許容されにくいだろう。これは、刺青が、反社会的認識の象徴と看做されるからではないか。
  • 「元に戻せるかどうか」。整形には眉をしかめる人でも、元に戻す事の出来る、いわゆる「プチ整形」は許容する場合がある。
  • 「親と似ているかどうか」。たまに、「整形した人に子どもが出来、親と似ていなかったらどうする」、という論法で、整形を非難する人がいる。これも、人工的なものに対する忌避と、繋がっているのだろう。ちなみに、その様な非難に対しては、「親と子の容姿は似ていなければならないのか?」という反論が考えられる。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年7月25日 (水)

滑り板…じゃ無くて、「滑り坂」論法

追記:タイトルで、恥ずかし過ぎる間違いをしました。痕跡は残して、タイトル修正しました。

内海さんがpoohさんの所で紹介なさっていた本を、今読んでいます。

脳のなかの倫理―脳倫理学序説 Book 脳のなかの倫理―脳倫理学序説

著者:マイケル・S. ガザニガ
販売元:紀伊國屋書店
Amazon.co.jpで詳細を確認する

まだ半分弱しか読んでいませんが、大変面白い。神経科学者としての立場から倫理的諸問題について言及する、という内容ですが、とても考えされられます。文章も平易で読み易く、するする読み進められます。

本の主旨とはちょっとはずれるのですが、面白い記述があったので、引用します。

 私がとくに実現したいと思っているのは、脳神経倫理の議論から「滑り坂論法」をなくすことだ。評議会の報告書を見ても、この論法に基づく考察がいかに多いことか。Aという行為を行なえば、坂を滑り落ちるように非倫理的な行為であるBに行き着くにちがいないから、Aを行うのは倫理上許されないと説く。倫理学者はこんな極論をふりかざして市民の不安を煽り、少しでも科学者のわがままを許せばどこまでもつけあがると匂わせている。はっきり言って、こうした論法はほとんどが飛躍のしすぎで、現実を超えたサイエンス・フィクションの領域に入っている。(P18)

この、「行き着くに違いない」という論理展開は、何らかの害悪を云々する際に、用いられる方法ですね。本来、実証データに基づいて議論されなければならないのに、直感や経験を過度に信頼して、論理を飛躍させる。気をつけなければならないと思います(それを用いる論者にも、それを自分が用いてしまうのではないかという可能性にも)。

| | コメント (19) | トラックバック (0)

2007年7月24日 (火)

方向性

痛いニュース(ノ∀`):たった1年で一変したゲーム産業…重厚ゲームから、手軽な実用ゲームやパーティーゲームばかりに

たった1年で一変したゲーム産業、E3は規模縮小 (nikkeiBP on Yahoo!ニュース)

「グラフィックが綺麗」云々という極り文句について、もっと深く考えた方がいいんじゃないですかね。

個人的に、グラフィックを「グラ」と略すのだけは、何か嫌だ…。

しかし、元ネタの記者さん、ゲームを普段、よくやる人なのかな。よく判りません。プロフィールを見ると、やってそうですが。「重厚」の使われ方が多義的過ぎて、はっきりしない。ストーリーなのか、グラフィカルなものなのか。大体、グラフィックが精緻であるだけでは、普通「重厚」とは言わないので、フォトリアルな方向性のものを、言っているのでしょうね。後、ストーリー的な事で言うと、登場人物がどんどん死んだり、裏切りがあったり。悲劇的な内容は、「重厚」と評価され易いのかな。まあ、凄く解り易いイメージを使うと、『タクティクス・オウガ』は重厚だが、『ぷよぷよ』は重厚では無い、という感じなんでしょうね(←解り易いのか?)。

ところで、痛いニュースの方、引用が、

例えるのは難しいが、重厚なCG映像にどっぷりとひたるゲームが食通向けの豪華ディナーだとしたら、「Wii Fit」や「Scene It?」「ROCK BAND」のような大勢でワイワイと楽しむソフトはラーメンのようなものだ。
これまで豪華なディナーを並べていたレストラン街が、突然ラーメンを売る屋台ばかりになった…と言っていいかもしれない。

で終わってますが、元記事を見ると、

(略)これまで豪華なディナーを並べていたレストラン街が、突然ラーメンを売る屋台ばかりになった…と言っていいかもしれない。もちろん、ラーメンでも、豪華なディナーを凌駕する味の逸品は存在しうる。どっちがいいという味覚の満足度の話ではない。スタイルが変化したのである。

って書いてあるんですよね。細かい事ですが。

売れるゲームを作る、というのは、健全な事だと思います。求める人が多くて、作り手がそれに答える。売れなきゃ作られなくなって、衰退する。そういう話だと。

超ゲーム好きの金持ちがいて、私費を何億も投じ、有能なクリエイターを使ってゲームを作らせる、なんて事があっても全然構わないのですが、起こりそうも無いですね。

色んなゲームがあれば、それでいいと思うんですけどね。やる側からすると、つまらんものはやらないし、面白いものは遊ぶ。それだけです。何が「ゲームらしい」とか、そんな事は、どうでも良いのですね。やる前からあまりそういう事を考えると、視野を狭めてしまうので。もちろん、やった後の評価として、「ゲームらしい/らしくない」と言う事は、ありますが。いわゆる「ゲーム性」ってやつですか。でも、それはあくまで、作品を評価する一要素でしかありません。歌の下手な歌手が売れる様に、画の稚拙なマンガが売れる様に、作品の価値というものは、様々な要因が絡み合って形成されるものなので。無理に分解して、重要な要素を決めなくとも良いですね。

なんて事を書いていますが、グラフィックとかには煩かったりします(笑) でも、グラフィックが駄目でも面白いゲームはある。当たり前ですが。それはそれで、認めればいい。一本道ストーリーで、自由度が低くても、美麗グラフィックで感動し(映像の効果は大きい)、高い評価を与える事もある。評価というのは、そんなものです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年7月23日 (月)

区別出来ないのはどっちだろう

PSJ渋谷研究所X: ドリームガールズと霊能捜査官

子どもだったぼくは「そんなもんを本気で現実と混同するバカな子どもなんかいない」「マンガと現実の区別がつかないマンガ読みなんかいない」なんて思ったものだった。

それと共に、「そんな混同をする奴なんて、本当のマンガ読み(今だとゲームとかも)じゃ無い」、という考えも持ったりしますね。要するに、愛好者同士でそういう共通了解を持つ事が、そんなアホな読み方するなよ、という要求にもなる訳です。

もちろん、フィクションに触れて、「そういう事はあるかも知れない」、と思うのは、大いに起こり得ます。しょっちゅう、と言ってもいいでしょうね。でもそれは、「混同」とはちょっと違う。思う事と、それを現実の生活で実行する事は、違うのですね(もっと正確に言うと、「区別が出来なくなって」実行する、という事です)。で、「そういう事はあるかも知れない」、という子どもの疑問に答えるのは、オトナの役割でしょう。でも、そのオトナが、現実と仮構を区別出来ないのだ、と騒ぎ立てたり、フィクションの、現実には起こり得ない部分についてちゃんと説明出来なかったり。時には、オトナ自体が、コロッと行っちゃう訳ですね。

バーチャルと現実との区別が出来なくて云々…と言うその口が、ニセ科学的な健康グッズについての効能を嬉々として語ったり、超能力捜査の可能性を強く信じて、その手の番組に、現を抜かしている(←敢えてこう表現)のです。これって結構、滑稽でしょう。果たして、ありそうも無い事を信じ切って、現実と混同しているのはどちらか。

私達は、知っています。フィクションにどっぷりと浸かってきたから、どんな話があるか、どういうパターンか、そういうのを、類型として捉えています。いかに現実と乖離したものを尤もらしく見せるか、というのが、クリエイターの腕の見せ所である、というのも考えます。要するに、現実を知っていないと、話にならないんですね。メタなんですね。メタで無いと、対象に振り回されているというネガティブな評価を、受けちゃいますから。そういう意味で、子どもの頃から、鍛えているのですね。

| | コメント (22) | トラックバック (0)

キャッチボール

キャッチボールを試みる。

こちらは、相手の胸の辺りに、真っ直ぐボールを投げる。

相手は、どうも上手く捕球出来ない。グラブの先に当たったり、つかんだと思ってもポロリと落としたりする。

今度は、相手が投げる。

とんでもない所に投げる。どう考えても捕れない。こっちに届く前に落ちてバウンドし、コロコロ転がる。

相手は、「何で捕らないんだよ」、と怒っている。

しょうがないから、ジャンプしたり、バウンドした球を捕ろうと、工夫する。それでもなかなか捕れない。

もうちょっとコントロールをしっかりさせて投げてくれないか、とお願いする。聞いているのか聞いていないのか判らないが、投げ方は変わらない。捕れない方がおかしいんだろう、と言わんばかりだ。

相変わらず、こちらが投げる球は、ちゃんと捕ってくれない。

グラブをしっかり構えて捕ってくれないか、とお願いする。でも今度は、ちゃんと捕れる様に投げてくれないと困る、と言われた。

どうやったら捕ってくれるのかな、と考えて、遅めのスピードで投げたり、ちょっと山なりに投げたり、工夫してみる。それでも捕ってくれない。

向こうが投げる球は、やっぱりはずれたままだ。

どうしよう。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2007年7月22日 (日)

できる子

こんな本が出てたんですね⇒アスコム:できる子は10歳までに作られる

七田式も採り上げられているんですね。もちろん、一般の養育者向けの内容なんでしょうけれど。

【楽天市場】できる子は10歳までに作られる:楽天ブックス

↑ここを見ると、ゲーム脳の話が書いてあるみたいです。どんな扱われ方しているのかな。

話は替わって、いつも思うのですが、篠原氏、テレビにしても何にしても、安易に出過ぎじゃないですかね(この本は読んでいないので、内容解りませんが)。氏は「科学者」ですから、望むと望まざるとに拘らず、ある程度の権威付けがなされると思うのです。それを視聴者や制作者の責任だ、と言ってしまえばそれまでですが、もう少し、どう捉えられるかを、考えた方がいいんじゃないかなあ。川島氏にも、同じ様な印象を持つ事がありますが。

| | コメント (3) | トラックバック (0)

考えられない

Yahoo!ニュース - 産経新聞 - 中越沖地震の避難所、テレビ局が隠しマイク仕掛ける

尋常じゃ無いよね。

| | コメント (4) | トラックバック (0)

2007年7月21日 (土)

ネタバレ

えっと、WEBでニュースを見ていたら、『ハリー・ポッター』の作者が憤慨、という見出しがあったので、記事を読んでみたんですよ。

で、ですね。内容は、「ニューヨーク・タイムズの書評(しかもフラゲ)でネタバレがあって、それに対して作者が、怒りをあらわにしている」、というものだったのですが、なんと、その事を紹介した日本の記事自体に、ネタバレの内容が書いてあったんですね。おいおいおい、という感じです。私は、読んだ事も無いし、特に興味を持っている訳でも無いので、別に構いませんが、ファンは、えーっ、となったでしょうね。

で、昼にこのニュースを読んで、今改めて確認したら、その部分が、仄めかし程度になっていました。クレームを受けたか、内部から指摘があったか…。

しかし、どう考えても、ネタバレ助長でしたよねえ。興味が無い私でも、ちゃんと何が書いてあったか憶えてるくらいですから、本を手に取る人は、その部分を気にしちゃうでしょうね。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年7月20日 (金)

ゲーム感覚

リウエン亭のおつまみ : 「頭がいい」って何だろう

実感に基づいて、私も同じ様な考えを持っています。

頭の良さとか「知能」とかは、科学的にも色々な議論がある事と思いますが(知能の定義だけでも複数ある)、そういう所を改めて検討せずに、独自の「頭の良さ」概念で考えている人は、結構いる様に思われます。元々多義的で、はっきりとした定義の無い、日常的に用いられている語なのですから、それを改めて論ずる際には、概念の内容を、ちゃんと考えていかなければならないのですよね。

教科書に関して。後から改めて教科書を読むと、見事な完成度だったりするのですよね。無駄が無くて。どこかのブログだったか、教科書は完璧過ぎる、という表現をしていたのを見かけた事があります。書かれてある事そのものに関心を持てれば、とても参考になる本として捉えられると思うのですが、実際現場で使っている生徒にとっては、いかにも面白みの無いものとしてしか、見えないのでしょう。これには、周りの、「勉強は面白く無い。面白く無いが、それに耐えて続けなければならない」、という「教育」の効果があるんじゃないかな、などと、憶測していますけれど。

また、記事内にも出てきている森昭雄さん、
前は「ゲーム脳」って騒いでましたけど、
それじゃあ何かい、私のやってる通学中の読書は嘘だとでも?と。
それに、「ゲームするから頭が悪くなる」って言うんなら、
最近出てきたDSの「知育ゲーム」はどう説明するつもりなのかと。

ここは、森氏の巧みな所で、そう反論すると、「ゲームが全部悪い訳では無い」と、返されると思います。ゲームを批判する際には、多様性を無視して語り、引用文の様な反論があると、「そういうゲームが”出てきた”」と返す、という。

私は中学の頃は勉強大好きで、そこそこにいい点数も取ってました。
それはなぜかというと、学校でやる授業や、
問題集で出される問題が、まるでクイズのように思えたから。
解けたら「勝ち」、解けなかったら「負け」で、
「勝ち」の数がもっともっと増えて、
問題集に対して自分が勝つ数が増えていって、
「勝ち」の数が圧倒的になっていくのをすごく喜び、
快感に覚えていたことを今でも記憶している。
これは、「勉強」を「ゲーム」として捕らえていたからこうなったんだと思う。
点数が低ければ、「残念だったなぁ」。点数が高ければ「よっしゃ勝った!」。
これが勉強の醍醐味だった。

これは、私も殆ど同じでした。自分の場合には、中一まででしたね。そう、「面白い」んですね。尤も、テストに出ている事、教科書に載っている事そのものに関して面白さを感じるという部分は、それ程無かったのですが。

ゲーム感覚、なのです。もちろんここには、世間でよく使われる所の揶揄する様な意味合いは、全く含めていないです。世の中に、ゲーム程集中して取り組むものが、どれ程あるだろうか、というのは、森博嗣さんだったかが、書いておられましたが(うろ憶え)、私もそう思います。

で、中二頃から、「何でこんな事やってるんだ?」とか、「何の役に立つんだ?」という考えが、頭をもたげてきて(うーん、中二病)、全く意欲が消えてしまいました。もちろん、習う事の意味が解らない、という理由がきっかけですが、ともかく、残念な事に、勉強(と言うか、学問)そのものの面白さには、気付けなかったのですね。本当に残念。勿体無い事です。

それを「勉強とゲームは相反するものだ」って決め付けてしまっては、
余計に勉強において非効率的な進め方を、
意図的に推奨しているようにしか思えないのですが。

そう思います。相反するものだと「教えて」いる訳ですよね、わざわざ。「面白いものと相反する」と言ってしまっているのです。これ、どう考えても逆効果じゃ無いかなあ。むしろ、「勉強はゲームと同じくらい面白い」、と言うべきではないでしょうか。実際そうだし。

記憶力なんて最低限あればいい。
問題は知や情報をどう扱うかだと思う。

これも同意。記憶力(をどう捉えるかという議論はあるけれど)というのは、状況によっては必要となる事もありますが、たとえばそれを、ケータイのメモリに頼っているなんて事と結び付けて論ずるのは、いかにも単純なやり方だな、と思います。あれです。○○が起きたのは何年か、という知識をバラバラに憶えるよりは、出来事の前後関係を知っていたり、どういった事情でそれが起こったのかを知っている方が、本質的に重要ですよね。それと一緒なのではないかと。年号を憶えていたりって、クイズ番組やゲームで役に立ったり、ものを知らない人に知識をひけらかすくらいしか、意味が無いですよね。尤も、それはそれで、結構な能力な気もしますけれども。

人間力ってのは、どんな技術が出来ても削がれないから、
人間の力と書くんだと思う。

素敵ですね。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

モバイル社会

遊鬱さんの所のコメント経由で⇒モバイル社会の現状と行方 : 書評 : 本よみうり堂 : YOMIURI ONLINE(読売新聞)

追記:本の内容について、コメント欄で教えて頂きました。是非ご覧下さい。

ホント、こんなに批判的な書評というのも、あまり見ないですよね。面白い。

 携帯電話の普及がもたらす社会の変化も気がかりだが、携帯に対する偏見が生み出す闇もまた心配になってきた。携帯はあくまで道具。解釈よりまず取扱説明書をきちんと読んで、私もせめてメールぐらい打てるようにならねば。

素敵ですね。

しかし、何でもかんでも、「心の闇」とか言わんで欲しいですね(本にそう書いてあるのかは判りませんが、括弧で括っているので、書いてあるのかな、と思います)。

ケータイでのメールの平均が18件/日なんて、異常に多いと、直観的に思います。はずれ値がありそうな予感。サンプリングも、どうやったのだろう。「送受信件数」だから、メルマガとかも含むのでしょうか。詳細がわからないので、その内、読んでみようかな。ちなみに私、携帯電話でメールするなんて、数週間に一回とかのペースです(笑)

もちろん、このエントリーは、書評についての感想なので。本そのものについては、読んでいないので、何とも言えないです。心理学の専門家が書いた本だから、心理統計についても適当な事は書かないだろう、と思いたいのですが、著者に正高氏が入っているので、むむ、と思ったのでした。これも一つのバイアスですね。

モバイル社会の現状と行方―利用実態にもとづく光と影 Book モバイル社会の現状と行方―利用実態にもとづく光と影

著者:小林 哲生,天野 成昭,正高 信男
販売元:エヌティティ出版
Amazon.co.jpで詳細を確認する

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2007年7月19日 (木)

出し方

MORI LOG ACADEMY: 台風は来ず

 エッセィなどを読んでいると、弱みを見せない強がりな人と、弱みばかりを誇張して書いて人を笑わせようとする人がいる。たいてい、どちらかのスタンスをとり、これらが混ざることはあまりないだろう。

私の文章は、どう読まれているのかな。一応、どちらも綯い交ぜにして書いているつもりですが。何事も、偏らないのが好きなんですよ。

話は替わりますけど、ツチヤ先生の本は、面白いですよねえ。傑作。

| | コメント (4) | トラックバック (0)

きおく

はてなブックマーク - J-CAST ニュース : 電話番号覚えられない!携帯は「バカ量産」の主犯か

J-CAST ニュース : 電話番号覚えられない!携帯は「バカ量産」の主犯か

携帯電話ユーザー、数字の記憶力が低下傾向に=調査 | 世界のこぼれ話 | Reuters

そもそも、「自宅の電話番号や家族の誕生日など単純な情報を記憶する能力が低下」(ロイター)という書き方自体が、結構微妙だと思うのですよね。「能力が低下」というのが。こういうのって、注意資源を他人の生年月日や電話番号の記憶に割く事に、重きを置くか、という問題なので。興味のある分野について、膨大な知識を持っている人がいますが、そういう人は、記憶の能力は高い訳ですよね。J-CASTで言及されているNTT-BJの調査(プレスリリース PDFファイル)の、「デジタル化による記憶力の低下」という表現も、微妙。記憶力の低下、というのは、いかにも一般化が過ぎる書き方ですし、これはむしろ、「憶えなくともよくなった」、という話だとも思います。他にも、首を捻ってしまう様な記述がちらほらと(前、別の記事で採り上げられた時に、言及しました⇒Interdisciplinary: むりやりじゃー)。

しかし、

また、読売新聞夕刊(7月10日)コラムで鈴木美潮記者は、かつては支局や警察署の電話番号を手帳を見る必要もなくプッシュボタンで押すことができたが、「今や携帯のメモリーに頼っりぱなしの自分に驚く」と明かした。「機械の記憶に頼りっぱなしのままでは、『人間力』は落ちる一方ではないだろうか」と不安をもらしている。

って(J-CASTの記事より引用)。何でここで、「人間力」なんて言葉が、いきなり出てくるんですかね。これは論理的に、「人間力」とやらには、高い記憶力が必要条件だという事になりますね。しかも、電話番号の記憶が。何だかよく解らんです。

J-CASTの記事、後段が…。何故に森昭雄氏が。”「携帯はバカを増やしているのではないか」”と発言する、「ある元大学関係者」って。わからない漢字があれば、それを調べるのは、むしろ健全だと思いますけれど。もしかして、ケータイ使ってるから、という事なのか? 国語辞典なら良いとか、それも、紙媒体の方が電子辞書より良いとか、そういう話ではありませんよねえ、さすがに。

大体、記憶を外部の媒体に頼っても、全然構わないと思います。重要なのはむしろ、記憶をどう扱っていくか、という事じゃないかなあ。

それに、記憶力そのものについて論ずるなら、心理学的な研究を行うべきでしょうね。そういう分野でも、無意味綴りを記憶する実験が、生態学的妥当性を欠く、という批判がなされていたりして、興味深いのですが。

私に言わせると、好きな歌手の詞を諳んじている方が、よっぽど凄い記憶力だと思います。そんな人、いくらでもいるでしょう? いないかな。

| | コメント (7) | トラックバック (0)

2007年7月18日 (水)

メモ:蔓延する、「科学を知らない人による反科学的言説」

それは、善意に訴えかける。公害・戦争・人間性の喪失・モノ至上主義・身体性の喪失 等々を説き、科学による弊害を強調する。その際、現代の犯罪の凶悪化(これ自体、言えない事)等を持ち出す場合もある。

科学知識を持たなくても、主張を展開出来る。つまり、「楽」。知らない人に対して、詳しく説明しようとしても、聞かれない可能性がある。当然。「知らない方が良い」と考える事すら、あるのだから。

自然信仰。科学の成果を忌避する。それを「人工物嫌悪」に結びつけ、自然物を過度に信頼する様になる。

これらは、部分的な正しさを含んでいる訳だから、それが完全に的外れであるとは言えない。だが、それが一般化され、科学や技術、科学者に対する敵意が広まる場合がある。

当然これは、ニセ科学の蔓延にも繋がる(私は、何度か書いていますが、リテラシーが劣化したというより、充分に普及していないのだと考えています。これは推測です)。科学知識に対して積極的に学ぶ事をしないし、科学に対して嫌悪を覚えていながら、科学技術の産に頼り切って生きている訳である(例外もあるだろう)。だから、科学的知識の欠如・論理的思考力(これは、科学知識とは、相対的に独立である)の脆弱さにつけ込まれる余地がある。何が何でも科学に頼らない、というのは、現実的には難しいから。アンビバレンス。

| | コメント (5) | トラックバック (0)

何のせい?

痛いニュース(ノ∀`):フジテレビ「ゴールデンタイムの視聴率が悪いのはゲームのせい」

イギリス生活情報週刊誌 - 英国ニュースダイジェスト - 英国における日本報道

「ゲームのせい」と書くのは、いかにも印象誘導的ですが、それはまあ置いといて(痛いニュースのタイトルは、そんなもんです)。

フジテレビの専務氏の分析、つまり、視聴率低下について、Wiiが主たる要因である、というのが正しいかは、よく解りません。テレビ以外のものに関心が分散されている、というのは、当たっているでしょうけれど、その主な対象がテレビゲーム、というのは、どうなんでしょうね。もし正しいとしても、それがどうした、という感じですよね。相対的に、テレビのコンテンツがつまらないというだけの話なので。

で、何故Wii云々という話が出てきたのかと考えると、それが、最近の流行り物を代表する商品の名で、いかにも流行に敏感であるというのを象徴する語であると認識していたから、ではないかと思います。要するに、「使ってみたかった」だけではないかと。

ソースは未確認なので、細かい意味合いが解らない所もありますが、

テレビそのものに問題があるというよりは

これはどうなんでしょうね。仮に、Wiiに関心が移ったというのが正しいならば、それは論理的に、「テレビそのものに問題がある」事になりますよね。ゲームより面白いコンテンツが作れていない、という意味で。そうでないと、テレビより面白いものがあれば、それにユーザーが流れていくのは仕方が無い、という事になりますしね。

で、2ちゃんねるの反応は、ゲームのせい云々については、ちょっと過剰な所がある様な気もしますが、他の部分には、結構賛成です。

要するに、ディスカバリーチャンネル(←スカパーの無料放送の日に観るくらいですが、素晴らしいですよね。面白い)レベルの番組を作ってみれば? という感じです。視聴者がどんなものを求めているか、というのを、マーケティングしているのかな。私はバラエティも大好きですけど、他人を見下したりして視聴者に優越感を味わわせたりする番組とか、そういうのは多いですよね。尤も、昔からなのかも知れませんが、ちとうんざりもしますよね。たとえば、芸人の身体的特徴とか家庭環境とかを貶して笑いをとる、というのは、程々にしないと。後、感動の演出。これは勘弁して欲しい。

| | コメント (14) | トラックバック (1)

瓦重構造

Yahoo!ニュース - 産経新聞 - 柔道部員投げ続け重傷負わす 中学教諭を送検

武術・格闘技を行う者は須らく、それらが、「かつ暴力」というあり方をしかしない事を、肝に銘じておくべきでしょう。

教師がいかなる認識を持とうとも、柔道の投げ技というものは、実体的には即暴力なのです。本質的に、相手を攻撃するものなのです。「こう思っていたから」という理由で言い訳する、免責を求めるのは、あまりに身勝手です。その様な行為には、やる側の意味付けと、やられる側の意味付けに、ずれが生ずる事があります。だから、「やる側」は、自分の意図が伝わっているか、独善的になっていないか、という事を、常に心掛けなくてはなりません。「躾」と称した行為が、相手を服従させる装置になりかねないのですから。社会的立場、肉体的優位性を利用した行為ですからね。ちょっと間違えると、大変な事になる訳です。

他の人にこうやって上手くいったから、この人にもこうやれば良いだろう、とか、自分がこうされて良い経験になったから、他の人にもそうしよう、というのも、よーく考える必要があります。自分が信じている機能が常に発揮されるとは、限らないのですから。

こういう論理は、様々な所に見られます。「フザケかつイジメ」とかですね(下記文献を参照)。だから、自分が何をやっているか、それがどう受け取られているかを、常に考えるべきなのです。「善意かつ不寛容」なんてのも、あるかも知れません。

参考文献:光と闇―現代武道の言語・記号論序説

| | コメント (1) | トラックバック (0)

2007年7月17日 (火)

理解が出来ない行為

Yahoo!ニュース - 読売新聞 - 1歳半の二男を畳に投げ落とす、母親を傷害致死容疑で逮捕

私には子どもはおりませんけれど、親戚の子や友人の子と接する機会はあります。で、そういう経験からすると、小さな子どもを畳に投げ落とすとか、認識不能の行為です。想像自体出来ない。かっとなってとか、そんな問題では無いです。どんな心理状態であっても、それは絶対に出来ないという、そういう行為ですから。

各家庭の事情とか、母親の心理状態とか、いかなる理由も、この行為を正当化する事は出来ません。

子どもを投げ落とすんですよ。あんな壊れ易く、尊い存在を。私には理解出来ないし、しようとも思えないです。

| | コメント (11) | トラックバック (1)

2007年7月16日 (月)

印象

finalventの日記 - 以前に書いたけどネットで言う「印象操作」の概念は基本的な間違いではないの

一般の用法から考えると、「印象誘導」が適切な気がするんですが、どうでしょう。「印象管理」だと、日本語の語感としては、何となく違和感がある様な。印象を誘導するために情報発信の仕方を管理する、というか。

個人的には、別に「印象操作」でも、あまり違和感は覚えませんね。もう、かなり浸透している言葉ですしね。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年7月15日 (日)

操作´

Interdisciplinary: 操作

ゲームにおける重要な概念として、「操作」が挙げられます。

操作とは、「(機械などを)あやつって働かせること。また、自分に都合のよいようにうまく運用・処理すること。」(『広辞苑』第五版)ですが、ゲームがテレビ等のメディアと異なるのは、画面上のキャラクターや、流れてくる音声を、直接的に操作出来る、という事でしょう(その自由度は、ゲームによって異なりますが)。テレビや映画等は、基本的には、画面上に現れる映像や、聞こえてくる音声を受け取るだけです。アクションにしろ何にしろ、キャラクターを、直接操作する訳ですね。アクションでは、かなり自由な操作が可能です。一般的なコントローラでは、動かせる自由度が大きい程、操作性が複雑になります。ゲームの特徴は、インタラクティブであるという事ですね。

操作出来る対象は、パズルゲームのピースやテーブルゲームの駒、人格を与えられたキャラクター等です。この内、後者がより重要であると考えます。

ロールプレイングやシミュレーション、アクションやアドベンチャー等では、ユニークな人格をもった主人公を操り、ストーリーを進めていきます。そこでは、プレイヤーが、物語に極めて積極的に関る、という、ゲームに独特の展開が見られます。それは恰も、プレイヤーが、観客であると同時に脚本家である様なものです。自分の判断が、主人公の行動をコントロールし、物語の展開を左右する。しかし、プレイヤーは物語の全容を知っている訳ではないので、次に何が起こるか確実には解らない、というシステムです。没入感、というやつでしょうか。自分の行動に応じてストーリーが展開する、というものですね。応じて、といっても、ソフトによって、その自由さは、様々である訳ですが。

ゲームのこの様な特徴に注目し、研究する事は、とても重要ではないでしょうか。

私は、ゲームが、「良くも悪くも認知に大きな影響を与える可能性がある」と考えています。ゲームには、クリエイターの思想が込められており、それはプレイヤーの悩みを癒す事もあれば、それを増幅し、よりネガティヴにさせるかも知れません。ゲームの「操作性」を考えれば、他の文化より大きな影響を与える事も、可能性としてはあるでしょう。ゲームの影響云々と言う人は、(ゲームに)否定的な論者も肯定的な論者も、当該文化を正しく認識しようという努力を怠っているのではないでしょうか。これは、よく感じる事です。下にも書いている様に、ゲームには大した影響は無い、という意味合いの意見を言う人もいますが、それは、認識不足なのだと思います。ゲームのインタラクティブ性が、それにどう関わってくるかは、よく判らない所ではありますが。

例えば、「ゲーム脳」を否定する学者の中には、どうせゲームなど、人間に大した影響など与えないのだ、という様な事を主張する人がいますが、これは、ゲームという文化を過小評価していると考えられます。ゲームは、映画や小説や音楽と同じく(それらを包含し得る)、思想を表現出来る文化です。そしてこの文化には、数え切れない程の人が関わり、創造力を発揮しているのです。その様な文化が、人間に大した影響など与えない、と主張するのは、「ゲーム脳」論等の単純な還元主義的理論を主張する事とは違う意味で、ゲームというものを正確に捉えていない、と言えるでしょう。つまり、文化として複雑であるという意味です。極端に言うと、何だって表現出来る。そういう豊かさを、よく考える必要があります。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

思ひ出

痛いニュース(ノ∀`):【オリコン】 思い出のファミコンソフトランキングTOP10!

ランキングに入って無いもので、個人的に心に残っているソフト。

  • KARATEKA
  • チャレンジャー
  • ボコスカウォーズ
  • ソロモンの鍵
  • レリクス暗黒要塞
  • バンゲリングベイ
  • ドルアーガの塔
  • スパイVSスパイ
  • 戦いの挽歌
  • ハイドライドスペシャル
  • テグザー
  • アーバンチャンピオン
  • オホーツクに消ゆ
  • さんまの名探偵
  • 燃えプロ(←何故か略称)
  • 新・鬼ヶ島
  • キン肉マン

あー、キリ無いなあ…。多分、何百も出てくる。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年7月14日 (土)

ゲームとは何か(2)´ 寿司とゲームのアナロジー´

Interdisciplinary: ゲームとは何か(2)

前回は、私達が日常的に「ゲーム」と呼んでいるものの定義を試みました。しかし、これだけでは充分ではありません。今回は、「ゲーム」という文化が、具体的にどの様な在り方をしているか、について考察します(以下、特に断らない限り、「ゲーム」は、「コンピュータ・ゲーム」を指します)。

ゲームには、様々なジャンルがあります。以下列挙してみましょう(コンピュータゲーム - Wikipediaより引用)。

※引用文は省略

実に多数の種類が挙げられます(勿論、必ずしも峻別出来るものではありませんが)。

ゲームは、テレビと同様に、専ら光と音を媒体とするので、芸能・スポーツ・経済・軍事・政治等の、様々な文化に関する情報を伝達する事が可能です。要するに、何でも表現出来る、という事です。ゲームはマルチメディアなので、大変豊かな表現が可能です。テレビと異なるのは、一つのコンテンツ内で、人間の信号の入力に応じた結果が出力される、ということでしょう※。つまり、操作出来る、という事。インタラクティブなメディア。自分が思う様にキャラクターを動かす事が出来たり。下に書いていますが、テレビのチャンネルを替えるのとは、ちょっと違います。

※テレビで、「チャンネルを変える」という操作がありますが、これは、コンテンツを選択する操作です。又、ビデオの早送りや巻き戻しの機能は、「(広義の)ゲーム」には当てはまらないでしょう。

私は前回

「ボウリング」や「パチンコ」、「麻雀」や「将棋」、「メール」や「チャット」は、「コンピュータ・ゲーム」とは言えない、となります。

と書きましが、例えば将棋では、ディスプレイ上に盤面を表示させれば、それは「(コンピュータ)ゲーム」と認識される事になります。他のゲームも同様です※2。将棋や碁等は、本質的に、駒や石の位置関係等の構造が重要であって、駒や石の材質等は、何でもいいのですね。だから、目隠し将棋というものが成立し得る訳です。もちろん、ディスプレイ上に表示されたドットの集合でも、構わない。デジタルなんですよね、将棋とかって。まあ、ホリスティックに考えると、駒の手触りがどうとか、そういう所を重視する場合もあるでしょうけれど、それは置いておきます。対して、パチンコゲームとかドライブシミュレータとかは、いかに現実の挙動を再現するか、というのが重要なのですね。だから、元々模擬なので、本物を知っていて、それと比較するという面があります。

※2ボウリングやパチンコのゲームは、広義の「シミュレーション(模擬)ゲーム」と言えるでしょう。対して、将棋やオセロやチェス等は、元のゲームそのもの(の媒体を換えたもの)と言う事が出来るでしょう(駒や盤は、木でも紙でも金属でも、何でも構わない。音声のみで進める事も出来る)。

この様に、「ゲーム」とは、様々な文化の要素を含む、とても複雑な文化現象である、と言えるでしょう。これは、無限の「ゲーム」が創造され得る、という事でもあります。論理的には、色々出来ます。教育的なゲームとかも。シリアスゲームですね。最近、DSで、そういうジャンルのソフトが結構出ているのは、興味深い所です。

何度も書きますが、ゲームの悪影響を主張する論者には、この視座が決定的に欠けているのです。そもそも多様で複雑であるものを、無理矢理一括りにして(あるいは、ごく小数の例をもって)、その影響云々を論ずるのは妥当ではありません。もし「ゲーム」が悪影響を及ぼすと言うのであれば、多様な在り方をしているゲームに共通する論理※3を明らかにし、それがどの様に悪影響※4を及ぼしているか、そのメカニズムを解明しなければならないのです。もし大部分のゲームに好ましく無い影響があるとすれば、ゲームが、ある程度一様な性質を持っていなければならない訳ですね。それは、全てのゲームに共通の構造がある、また、悪影響を与える因子を含むゲームが多く普及している、のどちらかです。

※3私は、「ゲームに何が含まれないか」を考察する事が重要であると考えています。例えば、全身的な身体運動を伴わない事、等です。勿論これは一般論ではありません。現状では比較的少ない、と言える程度です。ただ、これを基に、ゲームをやり過ぎると運動不足になる、という程度の事は言えると思います(生活の時間配分の問題なので当然です)。ですが、飛躍して、これ以上の事は言うべきではありません。一般的なゲームは身体を大きく動かさないからといって、ゲームをすると身体に悪い、と主張するのは言い過ぎだ、という事です。勉強をやっている人に、あまりやり過ぎると、運動不足になるよ、と言う事はあると思いますが、それは別に、「勉強の弊害」を述べる、という意味合いでは無いですよね。相関関係(擬似相関)と因果関係との違いも考える必要があります。

又、ゲームの特徴としては、「対象を直接的に操作出来る」という事が挙げられると思います。例えば、ゲームの世界に積極的に参加(映画等は、受動的)して、「英雄」や「支配者」を演ずることが出来ます。勿論、「大量殺戮者」でも「聖者」でも、です。この積極性というのは、小説や映画とは異なった性質と言えるかも知れません。こういうインタラクティブ性というのは、結構重要な部分だと考えています。もちろん、良くも悪くも影響する事がある、という意味ですが。

※4そもそも「悪影響」とは何か、という問題もあります。「ゲーム脳”派”」の人達は、脳の前頭前野の機能低下を主張します。ゲーム脳系。ゲームを薬物と同一視したりして、生理・生化学的論理に強引に結びつけようとする。「認知」を対象に含めている研究者は、例えば、「暴力性を高める可能性(ゲーム脳派は、前頭前野の機能低下の結果による暴力性の高まり、あるいは抑制の低下を主張します。そこに「認知」の視点は見られません)」を言います。前者は論外として、後者については良く考える必要があります。何故ならば、「暴力とは何か」という事まで考察しなければならないからです。後者は、坂元章氏等の研究の事ですね。

これは勿論、特定のジャンルのゲームをした場合に、心理学的にどの様な効果を及ぼすか、といった研究を否定するものではありません※5。寧ろ、この様な研究は、積極的に行われるべきでしょう。ただ、この様な研究を行う際、結果について安易な解釈を施すべきではないでしょう。常に、別解釈の可能性や、他の環境の影響の検討、実験環境そのものが与えるバイアス等を考慮すべきです。

※5ゲームの与える影響、についての心理学的研究としては、お茶の水女子大学の坂元章氏の社会心理学的研究が、評価出来ます。ただ、「暴力とはそもそも何か」という視座や、実験環境の与えるバイアス、他の環境の与える効果との比較、といった観点が足りない様に思われます。2006年9月24日追記:この指摘は的外れですね。坂元氏の著作を全て検討した訳では無いので、こう判断を下すのは妥当ではありませんでした。「攻撃」や「暴力」等の構成概念については、心理学的に様々な定義が為されているので、それに従って研究を進めるのは、当然の事です。定義や心理測定尺度が妥当であるかとか、それらの語が世間でどの様に使われているかという社会言語学的問題は、取り敢えずは切り離して良いと思います。ただ、研究結果を世間に公表する際には、この問題が深く関わってきますから、良く考えねばならないでしょう。追記は、茶色に変更。

これまで、「ゲーム脳」論の妥当性から、そもそも「ゲーム」とは何か、というまで、私なりに論じてきました。概念の曖昧さや、論旨の不明確な所等はあると思います。ですが、「ゲーム」というものが、そもそも複雑で、多様な文化であるという事、そして文化を解くには、広く人文・社会科学的な考察が必要である、という私の主張には、同意して頂けると考えています。同意して下さいました? 何だか解りにくいかもですが(笑) でも、ゲームをよくする人にとっては、当たり前の話を書いているだけなんですよね。

研究者は、もっと文化の複雑性というものに目を向けるべきです。複雑なものを、必要以上に単純化せず、その複雑さを充分に認識して、研究に当たるべきではないでしょうか。何らかの化学物質の影響といった話ならともかく、様々なコンテンツを表現出来るメディアについての話なのですから、これは当然の事です。

------------

Interdisciplinary: 寿司とゲームのアナロジー

学者が、「寿司が身体に与える影響」を研究する、と言って、トロだけ食べさせて、体調の変化等を記録し、その結果をもって、「寿司が身体に与える影響を解明した」と主張したら、皆さんはどう思われるでしょうか。

とても滑稽だとは思いませんか。

森昭雄氏等の研究は、これに似たものです。

この喩え、結構気に入っています。多分、寿司に共通するのは、「酢飯を使う」事なのだと思います(由来とか知らないので、適当)。だから、どんなネタを使うか、によって、味も違うし、栄養価も全然異なるのですよね。で、ネタを一つ用いてそれを食べさせた所で、寿司一般がどうこうとは、言えない訳です。寿司が身体に良い、というのは、結構言われる事だと感じますが、それは恐らく、寿司には魚が多く用いられる事、シャリには酢が含まれる事、等の事実から、総体的に見て、栄養学的にどうだ、というのが言われているのだと思います。なので、ゲームに関しても、同じ様なアプローチをすべきなのですよね。あるジャンルのゲームがどうこうと言うなら、それがどのくらい分布しているか、とか、ゲーム一般に共通する因子があるというなら、それを示すとか。寿司で言う「シャリ」に当たる部分は、ゲームで言うと、入出力装置ですね。「ネタ」に当たるのは、ゲームのジャンルや、各ソフトで用いられる具体的な表現方法(グラフィック。サウンド)や、コンテンツに含まれる、クリエイターの思想的な部分等でしょう。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

無関心?(※消去済みです)

※言及先のブログの管理者様のご依頼により、本エントリーは、消去いたしました。

理由は、私が、誤読をした上で、的外れな批判をしてしまった事により、大変ご不快な思いをさせてしまった為です。

改めて、言及先のブログの管理者様、及び、閲覧者の皆様に、お詫び申し上げます。申し訳ありませんでした。

コメント欄も、一部非公開とします。

| | コメント (6) | トラックバック (0)

何故売れない? 何故売れる?

痛いニュース(ノ∀`):ピーター・ムーア氏「なぜ日本でXbox360が売れないのか…皆さんに聞きたいくらいです」

売れる・売れないに関しては、マスメディアの力は大きいと思う。

別に、ワイドショーとかで流行り物を紹介したり、というのだけでは無くて、たとえばバラエティ番組の商品で出てきたり、芸能人が、「これおもしろいんですよ~」と言ったり。
そういう効果というのは、大きいんじゃないかなあ、と。
もちろん、そこに至るまでに、何かツカミが要る訳ですが。DSだと脳トレで、Wiiだと、あのゲームスタイルそのものが、インパクトを与えたのでしょうね。バラエティのコーナー自体で使う事も出来ますし。PS3の場合、基本的には(ある程度の知識が無いと、認識出来ない)ハイスペックなのが売りなので、超強力なキラーコンテンツが出なければ、ユーザーを惹く事は出来ないのだと思っています。そして、事実、掴めなかった。BDの求心力など、全く小さいものでしょうしね。

さて、PS3、このままでは、始まる前に終わる可能性があります。それを回避出来るか。いや、もう終わっているという評価が、多数かも知れませんが。MGSやFFに、起死回生に至る程の求心力が、望めるのか。まあ、難しいですね。ハードが売れていない→メーカーが、ソフト開発を渋る→ハードの売り上げがのびない→他のハードは売れる→他のハード用のゲームを作る。PS3用のソフトには慎重になる→売り上げに差が開く……のスパイラルなので。

360については、「雰囲気」と言うか、匂いと言うか。文化的な異なりと言ってしまえばそれまでですが、合わない、というのがあるのかな。もちろん、外見のデザインや、広告の仕方、日本のメディアでの紹介のされ方等、色々な因子が絡み合っているので、これが原因、とは言いにくいものがありますが。

あ、子どもが欲しがるゲームが出ないのは、大きいでしょうね。ドラゴンボール系とかね。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年7月13日 (金)

フィットネス

ITmedia +D Games:宮本茂氏が「Wii Fit」を高らかに掲げる――「任天堂メディアブリーフィング」 (2/2)

今なら、ビリー隊長監修のフィットネスゲームを出せば…。

或いは、「Wiiで始めるゆる体操」とか…(←こっちは無理。身体を細かくゆする情報を入力するのが、出来ないから。カメラで捉えた画像の変化と重心位置の変化程度では、細かい情報がフィードバック出来ないので、上達の判定(筋肉が弛緩したりする)も不可能)。

こういうのって、早く出したもん勝ち、そして、タイミングがポイント、ですからね。やっぱり任天堂は、上手い。最近流行のフィットネスを結びつけるなんて、なかなかじゃないですか。で、フィットネス系のゲームというのは、前からあった訳です。でも、ある程度本体が普及して、「簡単そう」、「とっつき易そう」なイメージを世間に定着させた上で、こういうのを出すのが上手いのですね。たとえば、今PS3で出したって、ダメダメでしょう。要するに、「印象」の力です。また、より性能の高いデバイスが安価で開発出来たり、それをワイヤレスで作れたりする時期である事も、良いタイミングなんでしょうね。

イメージを見ると、材質がよく判りませんが、耐久性はどうなんでしょうね。なんか、興奮した人が暴れて、ぶっ壊しそうな予感も(笑)

前、こんな事を書きました⇒Interdisciplinary: 展望

現在バイオメカニクス研究や3DCG制作で用いられているレベルのモーションキャプチャが安価になり、ゲーム用のデバイスとして採用されるかも知れません(場所の問題あり)。フォースプレート(圧力板)を用いて、荷重を入力信号とするものが、現れるかも知れません(より精緻なものが、という意味です)。その様な入力機器と、それらからの信号を充分に処理出来るハードウェアが安価で供給されれば、極めて多様な情報を入力出来るゲームが、誕生する事になります。

この流れだと、次は、身体にマーカーを付けて、その位置情報をカメラで取り込むデバイスが出てくるんでしょうね。たとえば、ここを参照⇒ジースポート

ゲームって、面白いですね。

追記:こんなブログ見つけました⇒任天堂がWii FitとWiiバランスボードというすごいものを発表:[mi]みたいもん!

このインターフェイスでどういうゲームが出てくるか今から楽しみです。つーか、ビリーは今すぐビリー in Wii Fitっていうのを開発すべきですね。

あっはっは。やっぱりこれ、思いつきますよねー。

動画もありますね。重心位置が可視化出来るのは、便利だなあ(ゲーセンにありましたね、こんなの)。武術家はこれを買って、自分の正中線の未熟さ、重心制御の下手さを、客観的に知りましょう。

| | コメント (7) | トラックバック (1)

ゲーム脳の恐怖(5)´

Interdisciplinary: ゲーム脳の恐怖(5)

B-1:そもそも「テレビゲームとは何であるか」という視座が無い。(「テレビゲームの心身に与える影響」等を論ずる際に、最も重要である視座)

について、です。(森昭雄:『ゲーム脳の恐怖』,2002 参照)

「ゲームが脳に悪影響を与える」とか「ゲームは人間を暴力的にする」といった主張を見聞きした時、ゲームを良くする人は、次の様に考えるでしょう。他に、ゲームは暴力性を高める、とか、ゲームをやると頭が働かなくなる、とか、色々あります。

「”ゲーム”と一口に言っても、色々なジャンルがあるし、同じジャンルでも違いがあるのに、それらを一括りにして”ゲームの影響”と短絡するのはおかしい」と。ゲームの多様さ。

これは至極もっともな反論です。しかし、この様な反論にはお構い無しに、ゲーム否定論者は、「ゲーム」の悪影響論を展開します。ゲーム批判者も、「全てのゲームでは無い」と一応断りを入れる事もありますが、それにしては、批判の仕方が扇動的であると、私には思えます。

「ゲーム」が脳に与える影響を確かめるためには、先ず「ゲームとは何か」ということを明らかにし、それがどの様な特有の性質をもっているか、を明らかにしなければなりません。即ち、「ゲームを定義する」という事です。これは重要です。そうで無いと、何について調べているのかが、判らない。

そしてその上で、ゲームのどの特性が、どの様なメカニズムで脳に影響を及ぼすか、ということを論証する事が必要なのです。詳細なメカニズムはまあ、後回しでも構わない訳ですが。言い換えると、その様な検証を行うことなく、ゲームの悪影響等を論ずる事は出来ないのです。そうであるのに、ゲーム否定論者は、「ゲームとは何か」を明らかにせず、概念を曖昧にしたまま、悪影響が云々と言います※。『ゲーム脳の恐怖』でもそれは同様です(本書を通読すれば、「書かれていない」事が解ります)。そこでは、「ゲーム」という語が、学問的に措定されていません。著者は明らかに、「コンピュータ・ゲーム」や「テレビゲーム」を念頭においていますが、「”ゲーム”脳」という語を用いています。著者の研究内容からすると、「コンピュータ・ゲーム脳」や「テレビゲーム脳」とすべきです。にも拘らず、「ゲーム脳」という語を使用するのは妥当とは言えません※2。前にFREEさんが、ゲームなのかコンピュータゲームなのか、という事に関してコメントを書いておられましたが、「”ゲーム”脳」という表現は、学術的には、あまり妥当では無いですよね。もちろん、学術的概念では無い訳です。そして、学術的専門概念であるが如く、看做される場合があるのですね。

※勿論、「ゲーム(テレビゲーム)とは何か」を定義、あるいは社会科学的に詳しく論じた研究者もいるかも知れません。私が調べた限りでは、その様な論文等は見出せませんでした。ちゃんと調べて無いんですね。ゲームに関して研究している人自体、少ないでしょうけれど。ゲームの影響について調べたと称する研究のことごとくが、森氏の様な科学的妥当性を著しく欠く研究や、ゲームの特性そのものについては詳しく論じていない社会心理学的研究(坂本章氏の研究等)でした。これは別に批判では無く、坂元氏が行っているのは社会心理学的な研究である、という事実の提示です。

※2「ゲーム」では概念の内容が広すぎます。例えば『広辞苑』(第五版)では「ゲーム」は、「1.遊戯。勝負事。2.競技。試合。」、又、ゲーム - Wikipediaによれば、「ゲームとは、勝ち負けを争う遊戯、競技もしくは賭博のこととして一般には認められているが、「ゲーム」という言葉が実際に使われている範囲は幅広く、万人に通じる定義付けは難しい。」とあります。これでは、著者がゲーム脳改善に効果的と紹介している「お手玉」等も含まれてしまいます。(それどころか、あらゆる文化が含まれてしまいます)日常的に「ゲーム」と言えば、それは、コンピュータゲーム、特にコンシューマゲームを指すとは思います。

私がこれまで、「テレビゲーム」や「コンピュータ・ゲーム」とせずに、「ゲーム」としてきたのは、この様な言語論的事情からです(テレビゲームやコンピュータ・ゲームを含めた「代名詞」として我々は「ゲーム」という語を日常的に使いますが、私もその様に用いました。勿論、学術的概念に安易に用いるべきではありません)。メール等も含めるのであれば、「テレビゲーム」や「コンピュータ・ゲーム」という概念では狭すぎます。パソコンのディスプレイや携帯電話のディスプレイを、「テレビ」と言う人は少ないでしょう。「テレビ」は、日常的には、放送の受像機、といった所でしょうか(もっとも、この境界も曖昧ですが)。「テレビ」を一般化すれば(パソコンのディスプレイ等も含むとする)、それらを含める事も可能ですが、それでも、メールやチャットを「ゲーム」には含められない、という問題があります(コンピュータ・ゲームでも同様)。著者もこの事には気付いている筈です。わざわざ(別著で、ですが)「メール脳」なる語を生み出したのですから。この様な場合、より一般的な概念を生み出す努力をすべきですが、それをしていません。これは非科学的態度であると言えます。ここら辺、概念の内容と名前の結びつきにどう整合性を保つか、という観点ですね。つまり、森氏が主張するのは、コンピュータゲームやメール(携帯電話・PC含む)、チャット等の影響な訳で、それを「ゲーム脳」と表現するのは駄目だろう、という事です。人によっては、何を細かい所をくどくどと…と思うかも知れませんが。

という事で、実は「ゲーム脳」という概念を提唱しておきながら、メール等の悪影響についても書いている時点で、論理的に整合性を欠いている訳です。森氏の『ITに殺される子どもたち 蔓延するゲーム脳』でもそれは同様です。寧ろ、苦し紛れに(ご本人はそう思っていないでしょうけれど)新しい語を生み出しだという点では、『ゲーム脳の恐怖』よりも問題であるのかも知れません。「ゲーム」に拘っているのでしょうね、森氏。ゲームを毛嫌いしている層には、インパクトを与える概念ですし。メールでも同じ状態になった、というのが見出されたとすれば(研究が妥当かは置いておいて)、じゃあゲームとメールの共通性は何だろう、という所に目を向けるのが、当然の筈なのですが。わざわざゲーム脳とメール脳という語を作ってしまっています。じゃあ、その上位概念は何だ、と疑問が出るのは、当たり前ですよね。

次回は、「ゲームとは何か」という事について具体的に考察します。ゲームという文化が、他の様々な文化を部分的に含みうる、超複雑な、総合的文化現象である、という事にも言及したいと思います(『ゲーム脳の恐怖』の内容からは殆ど離れてしまうでしょう)。次回以降も、かなり思弁的な事を書いていますが、まあ、そんなにはずれてもいないと思います。ゲームをよくする人間の、経験による考察の一つ、とでも考えて頂ければ。

続きは⇒ゲームとは何か(1)

-----------------

Interdisciplinary: ゲームとは何か(1)については、Interdisciplinary: コンピュータゲームの定義で、言及しています。

ここまで無理をして定義を試みずとも良い様な気もしますが、一般的にどの様に認識されているか、というのを考察するのも、無意味では無いかな、と。

しかし、「コンピュータゲーム」の定義の中に「ゲーム」が含まれているのですから、「ゲーム」を定義しないと駄目なんですよね、本質的には。

ちなみに、世の中には、グラフィックが表示されないゲームもあります。また、(上記リンクにも書きましたが)視覚障害者の為のゲームの様に、音のみを手がかりにして進めるものもあります。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年7月12日 (木)

ゲーム脳の恐怖(4)´

Interdisciplinary: ゲーム脳の恐怖(4)

ここら辺、思いついたまま書き散らしているので、かなり解りにくく、冗漫ですね。

--------------

B-2:「ゲーム脳」という表現の問題―メールやパソコンのディスプレイの長時間の注視でも症状?が出ると主張しているのに、「ゲーム」脳という表現をするのは妥当性に欠ける。強い光刺激の恒常的な受容とでもすればよいのに、ゲームやメール・チャットなどを出してくるのは何故か。

について、です。(森昭雄:『ゲーム脳の恐怖』,2002 参照)※B-1は後回しにします

まず、上に「メール・チャットなど」とありますが、それらの「悪影響」については、森氏の、『ITに殺される子どもたち 蔓延するゲーム脳『ゲーム脳の恐怖』の続編の様な感じです。において詳しく論じられています(チャットという語はこちらに出てきます)。『ゲーム脳の恐怖』では、仄めかす程度しか出てきませんが、『ITに殺される子どもたち 蔓延するゲーム脳』※2では、ゲーム脳を一般化して、コンピュータを使用すること自体が問題であるとしています(メール・掲示板・チャット等)。そして、「メール脳」なる語まで生み出しています。更には、テレビ観賞も問題であると論じています。(関連記事:携帯メールでも脳が壊れる? 拡大する“ゲーム脳”汚染結局、ディスプレイを用いるのは全部だめだ、という感じですね。

※2本書については、森昭雄研究所:ITに殺される子どもたち - livedoor Blog(ブログ)において、詳細に検討・批判されています。是非ご参照下さい。

「”ゲーム”脳」という語が術語であると主張するならば、先ず「ゲーム」の定義を明らかにし、その特性が脳にどのように具体的に作用し、悪影響を及ぼすのかを論証し、その上で、「ゲーム脳」という概念の定義を明確にしなければなりません。無いですよね、定義。曖昧も曖昧。メカニズムについては、ちょっと書き過ぎかな。実験的に論証されれば、当然、メカニズムについても検討すべきでしょうけれど、メカニズムを解明しなければ駄目だ、というのは、当たっていないですね。ところが著者は、その様なプロセスを踏まず、「ゲーム脳」という語を曖昧に用い、更には、ゲームをやったことが無い人間も同様の状態になり得るとして、わざわざ「メール脳」などという、これまたとても曖昧な語を造っています。以下、上記関連記事より引用。

「たとえば森教授が調べた携帯メール利用者のケースには、テレビゲームはいっさいやっておらず(強調引用者)、パソコンも所有していないが、携帯電話でメールを毎日1時間程度入力するという女子高校生がいる。この少女は、携帯メール利用時にβ波がほぼ半減しているという。」

常識的に考えても、ゲームを(持続的に)やっている人間に現れる状態が、ゲームをやったことの無い人間にも現れる、という事が明らかになった場合、「ゲーム脳」という語を破棄し、ゲームとその他のもの(メール等)に共通する部分を見出す努力をする、という事が妥当だと思われますが、著者はそれをせず、新たな語まで造っています。これはとても非科学的な態度であると言えます。色々なメディアに触れて共通の悪影響が現れるなら、それらのメディアに共通する特性を見出し、術語にもそれを入れるべきですよね。チャットやってもゲーム脳、掲示板やってもゲーム脳。メールやってもゲーム脳、て。しかも、メールやったらメール脳って、新しく語を作ってしまってるし。自分の言葉の使い方が曖昧ですよ、と言ってる様なものです。

ここで、「いや、”ゲーム脳”というのはあくまで便宜上つけた名前で、厳密な学術的概念ではないのだ。」という反論をする方がおられるかもしれません。しかし、その反論は妥当でありません。何故ならば、ゲーム以外でも同様の状態になる可能性があるのに、敢えて特定の文化の名を用語に含めることは、一般性に欠けるからです。のみならず、この様な科学的根拠の無い造語は、当該文化(ゲーム等)に関わる人々を不当に貶め、差別の対象にしてしまう可能性すら有るのです。これは、よく書く事。ゲーム脳の「ゲーム」の部分に、ご自分が好きな文化を当てはめて考えてみて下さい。「何を大袈裟な」と思われるかも知れませんが、現に著者は、『ゲーム脳の恐怖』において、

「子どもはテレビゲームをする習慣がつき、麻薬と同じようにやめられなくなっていきます。やがて、子どもの前頭前野の働きは低下し、動物脳と呼ばれる古い脳である大脳辺縁系に対して、常時動物的な行動に出ないようにする抑制がかけられなくなってくるのです。」(155頁)

「子どものころからテレビゲームをしている人は、やめようと思ってもやめられません。重症で、将来が心配です。」(158頁)

「テレビゲームをすることでは個性は生み出されません。まして幼児期にテレビゲームをさせておくのは、その子の個性や人間性がつくられないことになるのです。」(176頁)

等と書いているのです(同様の表現は、本書に無数に散りばめられています)。これ、差別的と言って構わないですよね。ゲームをさせておいたら”個性や人間性がつくられない”というのは、とんでも無い言いがかりです。

これらは、特定の文化に関わったことのある子どもやその養育者、或いは開発者等に対する極めて重大な差別表現であり、その文化に関わっていない人々に対する恫喝の表現でもあります。そして、「ゲーム脳」がその認識を助長する言語装置として作用するのです。いやしくも科学者たるもの、この様な、非科学的認識に基づいた造語をするべきではありません。未だ、その様な差別的とも言える表現は、ネットでも見られます。テクノラティ等で検索してみても、ゲームを絶対やらせちゃいけない、とか、そういう事を平気で書いてあるブログを、見たりします。

さて、ゲーム(をプレイしている状況)で見出された状態が、他の状況でも見出されたのであれば、

  1. そもそもその様な状態は、人間に、一般的に見出されるものである。どんな人間にも見出される、という事。
  2. ゲームに特有ではない条件が、その様な状態を作り出している。ゲームだから出るという事では無い、という意味。
  3. ゲームをプレイしている時間、常にその様な状態になるわけではない。ゲームと一言で言っても、色々な局面があり、種類も豊富なので、ずっと同じ様な状態になるという事自体、考えにくい。
  4. そもそも実験が間違っていた(実験器具の不具合、あるいは、脳科学(神経科学)的知識の不足等)。あるいは、統計解析における誤謬等。

等の、様々な解釈が出来るはずです(1.2.3.は、それぞれ関連する)が、著者はそう考えなかった様です。

森氏の一連の著作やインタビュー等を基に推測すれば、どうやら氏は、ディスプレイを注視する文化が、脳に悪影響を与えていると考えている様です。即ちテレビ・(コンピュータ)ゲーム・メール・チャット・掲示板等々。森氏の著作を読んだりすると、そう考えているとしか思えないです。もしそう考えているのであれば、(ディスプレイから発せられる)光刺激の生理・心理に与える影響とでも一般化すれば良いのに(これは重要な研究だと思われます)こういうのは、心理学的・生理学的な問題として、重要ですよね。3D酔いなんかは、そういった研究の一端なのでしょうけれど。 、何故か、複数の異なる文化を、「ディスプレイを用いる」という共通性で(他にもあるかも知れませんが)一括りにして、その影響を論じています。恐らく氏にとっては、メールも、チャットも、ゲームも、全部「同じ物」なのでしょう(それなのに、文化内の差異をある程度認めている様でもある。そうすると、前提と矛盾するはずなのだが…)。しかも、その「同じ物」によって引き起こされる(と著者が確信している)状態(これも著者が確信している)を、「”ゲーム”脳」と表現しているのです。結局、よく解らないまま、問題を切り分けないまま、「ゲーム脳」という語を作ったのでしょうね。ここら辺、森氏がどういういきさつでゲーム脳を発想するに至ったか、という部分の推測です。

ある文化の「影響」というものを考える際、その文化とはどの様なものであるかを詳細に考察するのが先決ですが、森氏や同調者は、それを全く行っていません。ここに、彼・彼女達の、ゲーム等にたいする「みくびり」が見てとれます。ゲームなど、真面目に考察するに値しない、単純な文化であると考えているのでしょう。もしかすると、文化ですらない、と考えているかも知れません。これも、よく書きますね。本質的に娯楽であり、社会に必要であるとは言えない文化。そして、当該文化の複雑さに対する無知。取るに足らない、と考えているのでしょう。

私は、その様な考えは間違っていると考えています。ゲームというのは途轍もない複雑さを持った文化であり、それを科学的に分析する事は、非常に困難な事であると認識しています。次回以降、この事について書きたいと思います。

殆ど資料も参考にせず、思いついたまま書いているので、かなり甘い部分もありますね。次回以降は、主に、ゲームとは何か、という事を中心に論じているのですが、そちらも同様です。今読むと、かなり駄目な部分もあります。それを自分で見ていくのは、意味のある事と考えます。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年7月11日 (水)

ゲーム脳の恐怖(3)´

Interdisciplinary: ゲーム脳の恐怖(3)

A-3:2.に関連して、データの恣意的な解釈、見落とし、あるいは意図的な無視が見られる。

A-4:主観的印象・既成観念の過度の一般化、つまり、そもそもゲームは良くないものだと思い込んでおり、それを正当化するために論述をすすめている。

について、です。(森昭雄:『ゲーム脳の恐怖』,2002 参照)

これらについては、各所で痛烈に批判されています。

例えば、まえがきにおいて、ゲームのキャラクターと同じ格好をしている(コスプレ)人をみて「ショックを受け」(5頁)たことや(しかも、何故か「無表情で歩いている」(5頁)という表現をしている)、(その経験を基にしての)日本の未来に対する危惧が書かれています。その後も、「異様な雰囲気」(5頁)等の、極めて主観的な、「印象」が語られています。即ち、ある特定の文化に対するネガティブな評価が先にあり、それを正当化するために論述が進められている、ということです。森氏の論、びっくりする様な記述ですよね。要するに、自分が知らない世界の人を見て、「異様」だと言っているに、等しい訳です。というか、実際に書いているのです。ある印象を持つ事自体は、好き嫌いの問題にも関わるので構わないのですが、それを科学と結びつけようとする所が、よろしくないです。

経験的な認識を基にして、仮説を構築すること自体は、特に問題はありませんが、その仮説を検証(あるいは反証)する際に、著者は、とても科学的妥当性が充分とはいえないプロセスを踏んでいます。

例えば1章には、

「高齢者における痴呆を、おでこに相当する前頭前野領域の頭皮上から記録されるα波とβ波の比を求めることで、約85(引用者註:原典は漢数字)パーセント判定できる機器とその方法を確立してきたのです。」(21頁)

とあります。ここで、痴呆(認知症)を「約85パーセント判定できる」としていますが、まずその主張が妥当であるかどうか、という問題があります。脳波から認知症であることを判定出来るということは、認知症の人に特異的にその脳波のパターンが現れることを実証しなければならないはずですが、そのことについては言及されていません(この主張の妥当性については、各所で批判されています)。大友氏との共著論文には書かれているのかな。「85%」というのは、何に対する割合なのでしょうね。もし、この様な簡便な方法で、高い確度で認知症が判定出来るなら、広く普及していても良さそうなものですが。

更に、この主張を前提として、ソフトウェア開発者(8人)の脳波を測り、「痴呆者と同じ脳波を示した」(21頁)と言っています(どの様な状況で脳波を測定したかは書かれていない)。研究のとっかかりとして、ある興味深い現象が見られたから仮説を立ててみた、というのは、妥当だと思います。しかしこの場合、前提となる認知症判定の方法が、そもそも疑わしい訳で。ちなみに、21-22頁では、開発者(の仕事)に対して、「ひらめいたり、集中しているのはわずかな時間で、ただ画面をみている時間のほうが圧倒的に長いのです。」と評価しています。この記述は、仕事の「慣れ」等について全く考慮されていません。常識的に考えて、毎日数時間する仕事には、創造的な思考を働かせる場面や、殆ど何も考えずに身体を動かす時間もあるでしょう。そしてそれは、どの様な仕事でも同様です。常に強力に集中し、創造力を働かせる、ということ自体が、かなり特殊な状況でしょう。もし、ソフトウェア開発者(プログラマー等)の仕事が、他の仕事に比べて集中力も創造力も少なくてすむ、と主張するのであれば、それを社会科学的に研究する必要がありますが、それもありません。著者は、脳波を計測して、良くない(と著者が主張する)波形が見出されたから、開発者の仕事は、脳をあまり使わなくても出来るのだろう、という誤謬をおかしたのではないでしょうか。一日の大半の時間を占める労働の内、大部分を創造的な作業に費やすという事自体、考えにくいと思います。ルーチンワークもあるでしょう。「馴れた」作業で、脳が最適化された活動を行っている、と考えれば、それは合理的だと考えるのが、妥当です。そもそも、こんな書かれ方をすれば、プログラマー等は、憤るでしょうね。

25頁には、以下の様な記述があります。

「前頭前野の機能低下と思われる身近な例も挙げてみましょう。たとえば、人目を気にせず電車内で化粧をしている人、公衆の面前で抱き合っているカップルなど。人間らしさを表現する場所である前頭前野が働かず、理性、道徳心、羞恥心、こんなことをしたら周囲がどう思うだろうということを、考えられなくなってしまっているのです。」

ここでは、著者や、著者に類似の主張をする人に共通する論理の展開がみられます。即ち、「価値」や「認知」の問題を、即座に「脳機能の低下」に結び付ける、という誤謬です。いわゆる「俗流若者論」者に共通する論理です。その中には、自己の価値観を正当化するために、安易に科学的概念を用いる、という論者もいるのですね。

価値観の違いを、脳機能の「異なり」に拠る、と看做すことは出来るでしょう。認知が脳の神経細胞の活動パターンであると考えれば、当然その様な見方をすることは出来ます。思考が脳活動によって生み出されるとするなら、当然の帰結ですね。しかし、「電車内で化粧をする」ことや、「公衆の面前で抱き合」うことが、脳の「機能低下」の結果である、と言うのは間違っています。各文化で構成された価値体系を、生物学的因子に結びつけるのは、どれ程妥当なのでしょうね。進化心理学等では、色々な議論があるのでしょうか。私は詳しくありません。ただ、少なくとも、脳が機能低下しているから電車内で化粧をする、という類の言明は、かなりおかしいと思っていますが。自分が「道徳的であると思う」ことを普遍的な価値だと決めつけ、それを他人に押し付ける、そして、その価値観に合わない言動を、「非常識」だと看做し、マイナスの評価を下します。あまつさえ、その根拠を、脳波(やMRIやMEGやPET)の測定結果に求めます。「非常識な行動をとる人は、脳がおかしくなっているのだ」と。脳科学者等が、この様な主張をしているのを見かけることがあります(森氏はその筆頭と言えるでしょう)。このような主張に、私は恐ろしさを覚えます。これは、水伝に通ずる所があります。即ち不寛容・排他的・過度の自尊。

価値観などというものは、相対的なものです。それは、文化毎に差異があり、どれが「正しい」とはそもそもいえないのです。森氏と同様の主張を展開する人々には、広い人文・社会科学的(記号論や文化人類学、社会心理学等の)認識が足りないのでしょう。これらの分野の入門書を何冊かでも読めば、自分の認識が、いかに狭い範囲で閉じてしまっていたかが、解ると思います。

26-28頁では、睡眠時間減少とテレビゲームの関係について論じられていますが、ここでも、睡眠時間が減少しているというNHKの調査が紹介されているだけで、それが、テレビゲームをやる時間が長くなったから、という主張と無理矢理結び付けられています。あるのは、テレビゲームをする「頻度」についてのデータで、睡眠時間減少とテレビゲームをやる時間との因果関係については、論じられていません。例えば、学校の勉強をする時間の増加と睡眠時間の減少に有意の関係が見出されたとして、「勉強時間を減らせ!」と、「テレビゲームをする時間を減らせ!」という時と同じ調子で、言うのでしょうか。恐らく言わないでしょう。初めから、勉強=役に立つもの、テレビゲーム等=役に立たないもの、という前提があるでしょうから。ここに書いてある「頻度」は、森氏の本からの引用です。ここにも書いていますが、勉強するから睡眠時間が減った、と言われれば、「熱心」だと評価される気がしますが、どうでしょうか。文化に対する評価の違いが、影響すると思います。

又、そもそも睡眠時間が減ることが悪い事なのかどうか、についても何も語られていません。どの位睡眠をとれば良いのか、それはどの様なメカニズムに拠るものなのか、等についてです。これは、どうなんでしょうね。

以上の様な誤謬は、本書の到る所に見られ、枚挙に遑がありません。

それを、著者が意図的に(嫌いなものを攻撃しようとして)行っているのか、あるいは確信犯的に(正しいと信じて)行っているのかは、知る由もありませんが、著者に、社会科学的認識が足りないのは確かだといえるでしょう。「認知」に対する考察なくして、文化と行動の関係など、論ずることは出来ないのです。森氏はどちらでしょう。自分の正しさを、確信しているのでしょうか。社会科学的な認識は、不足しているとしか言いようが無いです。認知についても、ナイーブだと感じます。それを考えなくともよくする為に、「ゲームは脳を破壊する」という論を展開している、とも言えます。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

ゲーム脳の恐怖(1)´ ゲーム脳の恐怖(2)´

追記:日付を、7/11に変更しました。元々7/10付けのエントリーだったのですが、奇跡のメンテがあったので、変更。

私が以前書いた記事を採り上げ、それを自分で批評する、というシリーズをやってみようと思います。

今とは認識が違う所、論理的に不明確な所、知識不足故の的外れな意見もあるでしょうから、それを指摘するのは、意味がある事だと考えます。また、まだお読みで無い方もいらっしゃって、そういう方に、過去にこんな記事を書いていたのだという事をお見せするのも、面白いと思います。ログが膨大で、全部の記事を読んだ人は、多分私しかいないでしょうしね。

自分の記事なので、全文そのまま載せて(アフィリエイトリンクは除く)、それを読んだ感想を、青文字で書きます。

--------------

Interdisciplinary: ゲーム脳の恐怖(1)

さて、「ゲーム脳の恐怖」についてです。

その前に、お断りしておきます。

これから書く内容は、『ゲーム脳の恐怖』を読まれた方を対象にしています。従って、読んでいることを前提として論を進めていきますので、その点はご了承下さい。未読の方には、是非原典に当たられることをお勧めします。(私は、本書を初めて読んだ時に、目から鱗が落ちました。「この様な非科学的な本を公刊することが出来るのか。」と。何か凄い事書いてますね

閑話休題。本題に戻ります。

まず、本書全体に亘る問題点を列挙してみましょう。(類似の主張の殆どに当てはまることでもあります)

  1. 「ゲーム脳」という概念の学術的定義が為されていない。 これは、私がよく書く事ですね。未だ、明確な定義がなされているのを、見た事が無いです。
  2. 統計学的(社会調査的)妥当性に乏しい。 社会調査と書いてあるので、寝屋川調査の様なものを想定していたのでしょう。森氏の主張は、自然科学的なものですので、実験科学的根拠が少ない事を挙げれば、充分な批判になります。
  3. 2.に関連して データの恣意的な解釈、見落とし、あるいは意図的な無視が見られる。 これは、各所で指摘されています。
  4. 主観的印象・既成観念の過度の一般化、つまり、そもそもゲームは良くないものだと思い込んでおり、それを正当化するために論述をすすめている。これは、著作を読んだ上での推測です。

以下は、批判者もあまり指摘しない点です。

  1. そもそも「テレビゲームとは何であるか」という視座が無い。(「テレビゲームの心身に与える影響」等を論ずる際に、最も重要である視座) これも、よく書く事です。ゲームに関する研究なのだから、ゲームについて、ある程度考察すべき。
  2. 「ゲーム脳」という表現の問題―メールやパソコンのディスプレイの長時間の注視でも症状?が出ると主張している※のに、「ゲーム」脳という表現をするのは妥当性に欠ける。強い光刺激の恒常的な受容とでもすればよいのに、ゲームやメール・チャットなどを出してくるのは何故か。スポーツにおける肘の障害を、全て「テニス肘」と呼ぶ様なものか? 何か違うかな。森氏としては、最初にゲームで見出されたから、「ゲーム脳」という概念にしたのだ、という認識なのかも知れません。

等です。

※この主張は、『ゲーム脳の恐怖』の著者である森昭雄氏の、『ITに殺される子どもたち 蔓延するゲーム脳』等によって展開されています。

次回以降、上記について、一つ一つ具体的に見ていきたいと思います。特に、今までの批判者が余り具体的に論じていない、B-1の「そもそもテレビゲームとは何であるか」ということについて、又、その心身に与える影響について考察するには、どの様にすれば良いか、ということについては、詳細に書きます。

--------------

ゲーム脳の恐怖(2)

A-1:「ゲーム脳」という概念の学術的定義が為されていない。

A-2:統計学的(社会調査的)妥当性に乏しい。

について、です。(森昭雄:『ゲーム脳の恐怖』,2002,第3章を参照)

本書を通読すれば解りますが、「ゲーム脳とは何々である」という明確な説明がありません。あるのは、ゲームを普段、長時間している人に現れる特有の脳波パターンに対して、「ゲーム脳タイプ」と名付ける、という記述です(78頁)。そして、主観に基づいた「傾向」らしきものを、並べるのですね。

さて、ここで問題があります。

上に「特有の」と書きましたが、ゲーム脳タイプの脳波(と名付けられたもの)が、果たして著者が言う様に、ゲームを長時間する人間に、特異的に現れるものであるか、ということです。ゲームを長時間する人によく現れ、それ以外の人には現れにくいか、という事。

脳波のパターンが、脳活動を反映したものであることは当然ですが(著者が用いた脳波計が正確であったかどうか、という重要な問題はありますが)、それが果たして「テレビゲームを長時間(習慣的に)しているから」かどうかは、又別の問題です。仮に、計測機器がある程度正確だとしても、条件を統制して実験を行わなければならないですね。

脳波計測の際に用いられたゲーム(おそらく「テトリス」と思われる)に対する興味、ゲームに対する慣れ、実験に協力する際の取り組み方等を考慮せずに、無理矢理短絡されている様に読み取れます。様々な条件をコントロールして考えないと、変数の交絡を見過ごす場合があります。相関関係を見出して、そこから干渉変数の存在の可能性を考慮せずに、因果関係を論ずる等。

又、実験に協力した対象を、どの様にして抽出し、得られたデータにどの様な統計学的操作を加えたか、等については、殆ど書かれていません(「多くの大学生」(72頁)としか書かれていない)、サンプルサイズなど、書かれてすらいません。森氏に好意的に見れば、新書だからしょうが無い、となるでしょうか。もちろん、森氏は、まともな論文自体、出していない訳ですが。

社会調査において、これらについて明記することは必須の条件ですが、本書では、この点がとても曖昧です。社会調査に限らず、統計解析を行った場合には、記述すべきですね。せいぜい、サンプルサイズと採り方、母集団についての説明は欲しいものです。

仮に、(統計学的に)充分な妥当性を備えた研究によって、ある脳波と、テレビゲームをする時間との相関が見出されたとしても、テレビゲームが特有の脳活動を引き起こすメカニズムを、明らかにしなければなりません。これは言い過ぎですね。メカニズムが解らなくとも、統計学等の方法によって、ものを言う事は出来ると思います。問題は、どの様な方法を用いたか、という事。即ち、「テレビゲーム」という文化の、どの部分が、どの様に作用し、脳の特有な活動を生み出すか、ということの因果関係を、明確に記述する必要がある、ということです。同上。そして、その考察を進めるためには、「テレビゲームとは何か」という視座が欠かせないものとなります(このことについては、後日詳述します)。ここでは、単なる統計学的認識ではなく、広く社会科学的な認識が必要とされます。ここら辺は、ゲーム脳云々より、ちょっと視点を広げています。ゲームという文化にどう関わるか、という問題なので、社会科学的な視座も、大変重要です。

勿論、そもそも本書で「ゲーム脳タイプ」とされる脳波が、「悪い(という言い方もおかしいですが)」脳波であるかどうか、という問題もあります。この点については、斉藤環氏等が、批判を加えています。(参考:斎藤環氏に聞く ゲーム脳の恐怖1[www.tv-game.com]

森氏を初めとした、森氏と類似の主張をする人々は、物事を単純化し、複雑な「認知」の問題を棚上げにして、結論を短絡します。彼・彼女等は、行動主義的人間観を持っているのかも知れません。ここで行動主義という概念を持ち出すのは、ちょっとまずいですね。行動主義者が単純にものを見る、という様にしか読めない。ゲーム脳系の人達が、認知の問題についてあまり考えていない様に見えるのは、今も変わらないです。それはもちろん、単純な認知を想定する事も含みます。たとえば、ホラー系のゲームをやると、身を守ろうとしてナイフを持ち出すかも…等の、憶測としか言い様の無い考え。

| | コメント (3) | トラックバック (0)

2007年7月10日 (火)

暗記と言えば。笊蕎麦

私、資格試験をいくつか受けて、合格しましたが、それに関する知識、殆ど残っていないです。

そりゃそうですね。全体的な論理を把握する事無く、暗記していたのですから、それがいつまでも、残ったりはしないものです。

ここで、とっても面白い話を、ご紹介します。

わくわく発見Notebook 「ピーター流らくらく学習術」を読んで…

例えば記憶力のよいお父さんからコツを聞いて命名した「ざるそば」式記憶法。人間の脳はざるそばの「ざる」のようなものでつぶの小さい水みたいなものは流れるけど長いそばは残る。物事は小さい単位で覚えるのは大変だけど、いろんなものを関連させれば覚えやすいのです。と自分で暗記方法をまとめています。

私が資格を取るために行った暗記は、いわば、ざるの目を通り過ぎてしまう、断片の知識だったのですね。他の概念と関連させ、どんどん長くしていけば、落ちなくなるものです。

※この、ざるそば式記憶の話(前に書いた気もする)、永野重史氏の本で紹介されていたのですが、どの本だったか忘れてしまったので、ググってみて、紹介しているサイトを参照しました。便利ですなあ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年7月 9日 (月)

共通了解

コメント欄に書いてたら、また長くなったので、エントリーにします。最近、長文コメント書き過ぎ>自分

-------------

ありゃ、論点が、どんどんシフトしていってますね。もちろん、陰山氏云々の話から、という意味です。

ずれてしまってますから、論点を整理して、皆さん、何を主張して何を主張していないかを、明らかにさせた方が良いです。

じゃないと、「○○さんはこう言っていますが、私は△△を否定していません。」→「いや、□□さんが△△を否定していると言っている訳では無いです。」といったやり取りになってしまいますね。本当に観点が違うのか、それとも、誤解に基づくものなのか、検討した方がいいんじゃないかなあ。

たとえば、ドラゴンさんは(七田式幼児教育は、やっぱりまずいので:July 9, 2007 @01:25:05)、

やはり私たち(あえて複数系)の考えている算数教育観とみなさんとでは、大きく隔たりがあります。

と書かれています。で、この「みなさん」というのは、kikulog(七田式のエントリーや、円周率の話が出てきたエントリー)にコメントされている方々を指していると思いますが、果たして、本当に隔たりがあるのか? 私が読む限りでは、他の方は、ドラゴンさんが仰る意見を否定している様には、全く思いません。九九の暗記の様な部分と、ドラゴンさんが主張なさっている部分を併せてやった方が良い、という話ですね。こういうのって、どっちが先、と明確に分けられるものでは無いですね。

九九を憶えるというのは、「型」を憶える事に、似ていると思います。反復して、何も考えずに出るくらいまで憶え込むのと、その仕組みを認識するというのは、並行して行える事です。

ちなみに、kuritaさんが仰る(上記リンク参照:July 9, 2007 @09:52:58)、

ym さんの書いておられる「二分法のワナ」にはまってませんか。

とのドラゴンさんに対する評価、これも的外れだと思います。ドラゴンさんは多分、九九を暗記する事そのものを、否定している訳では無いと感じますので。

さて、ここで疑問が出てきますね。
「暗記」って、「仕組みを全く考えずに(または知らずに)憶える事」ですか? それとも、認知過程を経ずに答えが出るくらいまで憶える事そのものを指すのですか? 私は、社会一般的には前者を指すと、感じています。そして、そういう意味での「暗記」は、論理構造を認識していないという意味で、駄目だと考えています。でも、後者として捉えている場合は、「暗記そのものが駄目な訳じゃ無い」、という解釈も出来ますね。辞書的には、後者なのかな。

こういう言葉の使い方を、考えた方がいいんじゃないかな、と。文脈によって、意味合いが異なっている気がします。違うかな。

以上を踏まえると、kikulogで議論している皆さんは、それ程異なる主張をしている訳では無い様に、私には見えます。

もちろん、私の読みが甘いのかも知れません。余計なお世話エントリーです。

| | コメント (22) | トラックバック (0)

百貨店の包装紙2

同じ事でも、「誰が言っているか」で、その捉えられ方は、全く変わってくる訳で。

「当たり前過ぎてわざわざ言わない」内容でも、江原さんや細木さんが言う事によって、ありがたい言葉として、説得力を持つのですね。

別にこれは、必ずしも悪い事では無く、良い効果を持つ場合も、あるでしょう。憧れの人、カリスマ性の高いアーティスト、好きな人、等々の言葉で元気付けられ、勇気付けられて、人生の糧になるというのは、よくある事です。

ただ、それでも、誰が言っているか、とかは、一旦置いておいて、何が言われているかをちゃんと考えるのも、すべきですよね。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

確信

NATROMの日記:信仰と狂気~吉村医院での幸せなお産

何と言うか…。

色んな感情が渦巻きますね、こういうのを見ると。

少なくとも私は、笑わなかったし、怒らなかった。呆れるのとも、ちょっと違う。そういうのとは、ちょっと異なる気がします。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年7月 8日 (日)

わざとか

404 Blog Not Found:CO2削減に最も有効な方法

くっくっく…。小飼さん、おもろい。

森さんは、「食料品が5%値上がり」と、「食べる量を5%減らせば」、という異なる量を持ち出している訳で、それが、「最も素直な答」であると、書いています。ここで言う「素直な答」というのは、「素朴な答(であるし、重要な答えでもある)」というのも、含意しているでしょう。※多分。私の誤読かも知れませんけど。

まあ、これは、ちょっと読めば、解る事です。問題は、小飼さんが「わざと」書いたかどうか。マジレスにも見えるし釣りにも見える。もしかすると、後段の主張を書きたくて、ネタとして使っただけかもしれない。だから、「おもろい」。

今気付いたのですが、森さんは、一桁の数字は全角で、二桁以上は半角で、書いておられますね。これは、何かの分野の作法なのかな。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

色々な使われ方

「ゲームをよくする人間の心性」、という意味で、「ゲーム脳」という語を用いる人もいますね。特にネガティブな意味を含めている訳では無く、新しいタイプのものの考え方、という感じで捉えているのですね。もっと敷衍して、昨今の若者の心性、という意味で使う事もあるみたいです(「今の若い人は概ねゲームをやる」→「今の若い人のものの考え方を象徴する語として、”ゲーム脳”を用いる」、というロジック。「ケータイ世代」とか、「アニメ・漫画で育った世代」←こういう表現と、同様ですね)。って、これ、ブログが何かで見たので、一般的な表現では、全く無いとは思いますが。

ゲームをやっている人が、自虐的に用いたり、ゲームをやり過ぎた時に冗談ぽく使う事もあります。「あー、今週、ちょっとやり過ぎたなあ。もしかして、ゲーム脳か(笑)」とか、「ゲームのやり過ぎを注意された…はいはい、どうせゲーム脳ですよ。」とか。

こんな風に、言葉は広がっていく訳ですね。それが良いのか悪いのか、今一つ判りませんが(ゲーム脳の出自と、それに関して起こった議論を考えると、あまり好ましく無い気もします)、少なくとも、森氏が使った意味からは、大分はずれていますね。と言うか、森氏自身、定義らしいものも書いていないし、どういう現象を「ゲーム脳」としているのか、全く判然としないのですが。

| | コメント (14) | トラックバック (0)

書く動機と書き方

So-net blog:Chromeplated Rat:見えない怪物

本文もコメント欄も、大変に興味深いので、是非お読み下さい。

poohさんのコメント(2007-07-06 23:10)を読んで、ああ、自分と同じ様なお考えだな、と、思いました(勝手に思っただけです)。

ニセ科学的な言説について自分なりに考えてみて、色々書いて、それを読んで貰えれば良いかなあ、と。 自分がkikulogやapjさんの所を読んで色々知る事が出来た様に、ここを読んで、こういう考え方もあるのだ、と知って欲しいのですよね。それは別に、より多くの人に読んで貰いたいとか、そういう事では無いです。ググってみたら、こういうサイトがあった。そういう感じでいいんですね。

元々、このブログを開設する目的の一つが、ゲーム脳について書く事でした。あの説にどういう問題点があるか。他の人が触れていないこんな論点があるのでは無いか、というのを、書きたかった訳ですね(ある程度出来ていると、自覚しています)。ニセ科学全般について論ずる様になったのは、その延長です。ニセ科学を信じている人は、どういう「信じ方」をしているか。それにはどういった問題点があるか――。で、基本的に、あるニセ科学的言説を信じていて、かつ、他の何かを非難している主張を採り上げて、批判しています。poohさんと同じく、殆どは、対抗言論ですね。つまり、「科学万能主義批判」や、「サブカルチャー非難」、「俗流若者批判(後藤和智氏による)」に対する批判です。

全然纏まって無いですが、ここに色々書いている動機は、こんな感じです。基本的に、他者に対する批判を行っているので、人格の否定や非論理的な非難に陥らない様に、言葉遣いに気をつけながら、書いています。エントリーでは、そこそこ出来ているかな、と思っています。コメント欄には、文句みたいな事を書いちゃう場合も、ありますが…。

| | コメント (6) | トラックバック (0)

2007年7月 7日 (土)

長期記憶

私は多分、ゲームやアニメを含めると、数千曲(←この曖昧さが…)の音楽が、何の作品に使われていたのかが判りますが、これって、結構高い記憶能力ですよねえ。ものによっては、聞く時間、1秒も要らないし。ビジュアルも展開出来ますしね。テキストを見た瞬間に、頭で再生されるのも、かなり早いですね(例:『スーパーマリオブラザーズ』の音楽→テレッテッテテッテ♪ ドラクエで、階段を上り下りする音→ザッザッザ… ドラクエで、レベルが上がった時→テテテテッテッテッテー♪)。で、こんな程度の能力、そっち方面に興味がある人は、大概持っていると思います。音楽を聞いて、それを聞いていた時に何をしていたか、まで思い出す事もありますね。状況を丸ごと憶えてるんですね。エピソード記憶的です。

まあ、好きな事は、別に「憶えよう」と思わなくても、勝手に脳に染み込んでいくのでしょうね。

| | コメント (3) | トラックバック (0)

2007年7月 6日 (金)

きっかけ

陰山メソッドについて採り上げたエントリーにTB下さった(TB受け付けに、何の制限もしていないのですが、何故か、頂いたTBが公開保留になる事があります。公開遅れてすみません>亀@渋研Xさん)、亀@渋研Xさんのエントリーが参考になるので、是非ご覧下さい⇒PSJ渋谷研究所X: 百マス計算の思い出

個人的に、

「意味が分からない作業は嫌い」

ここに、超激しく同意です。
私は、分数の割り算で意味が解らず、負数の演算で意味が解らず…という感じで、どんどん算数・数学が嫌いになっていきました。今振り返ると、その時に、誰かが(先生でも友達でも親でもきょうだいでも)、「計算の仕組み」を教えてくれていれば、算数や数学を、面白く思えたかも知れません。こういうのは、ちょっとしたきっかけです。

意味が解らない作業を反復でさせられたら、全体を嫌いになっちゃうんじゃないかなあ、という印象を持っています。

私は今、数学をちゃんとやらなかった事を後悔していますが(そして、今勉強している)、それは、「苦痛を我慢してでもやっておけば良かった」、という意味では「ありません」。「学校の勉強だから」、「何に役立つのか解らないから」、という理由で敬遠せず、ちょっとでも、数学そのものに関心を持つ事が出来ていたらなあ、という感情ですね。

πを憶えさせるより、直径と円周の比が、どんな大きさの円でも一定だという事を解らせる方が、よほど良い。そして、私がそれを知ったのは、20歳を過ぎてから。教えて貰えませんでしたしね(憶えて無いだけ、という可能性はある)。他の事では、「知りたい」という欲求が強くても、「嫌いな事」に関しては、どうでもいいやと思っていたのですね。とっても視野が狭かったです。今は、あらゆる分野に興味を持っています。色々なものが「繋がっている」のを知ったから、ですね。

上にも書きましたが、こういうのは、きっかけ、ですからね。押し付けるより、教えた方が良いと思います。

こういう考え、「甘い」ですか?

| | コメント (2) | トラックバック (0)

思いついたまま

ものすごーく内省的な文章です。しかも、纏まっていない(纏めていない。めちゃくちゃに飛躍している)ですが、あんまり気にしないで下さい。

-----------------

何か書こうと思っても、全然出てこない。

こういう時は、PCの前で、ボーッとして、言葉が出てくるのを待つ。

「捻り出す」、と言うより、「染み出る」、という感じ。じわりじわりと。ウンウン唸っても、あまり良くない気がする。

調子がいい時は、止まらなくなるくらい、どんどん出てくる。こういう時は、「湧き出る」感じかな。

あの事について、何か書けないかなあ、と考える。それで、ちょっと文章を、頭の中で紡いでみる。

でも、それをそのまま出すのには、抵抗がある。そこはこうじゃないの? こう反論されたらどうするの、と、自分で自分の思考を批判する。

多少の学術的専門概念を知っている場合に、それを使って説明しようとする。そうすると、自分はそれについて、ちゃんと体系的に認識しているか、という自問が始まる。そして、自身の知識不足を悟る。

で、知らない事は、結構気持ち悪いから、当該分野について調べてみる。知識が広がる。そして、自分の知識がちっぽけである事を、再び自覚する。

この事について、他の人はどう考えているのだろう、と考える。もしかすると、自分が知らないだけで、どこかで、遥かにレベルの高い議論が行われているのかも知れない。

井戸の中で跳ねている蛙になるのは嫌だから、色んな事を考える。声が大きいだけで、中身が空っぽな事も書きたく無いから、徹底的に、自己を省みる。

自分の認識力がどの程度か、他にどれくらい優れた人がいるのか、自分を位置づける。正確な理解。狭い見方になっていないか。常に俯瞰でチェックする。

近視眼的な認識に陥っていないか、他者を見下していないか。自身の正しさを印象付けようとしていないか。取り繕いをしようとしていないか。

基本的に、臆病なのだと思う。そして、自分が駄目なのを嫌う。完全主義者的。負けるのが嫌い。だから、武装する。論理の剣を構え、知識の鎧を纏う。

結局、優れた存在でありたいという願望。たまに、そういう所を自覚して、厭になる事がある。

そういう、自己の無意識的な部分すら、自覚したいと思う。欲張りな人間。自分の事を自分が一番知りたい、という欲求。

かと言って、完全を「目指して」いる訳では無い。そんな事は不可能であるのを、知っているから。人間は死ぬしね。そういう意味では、「諦め」ている。楽と言えば楽。

だから、行ける所まで行く、という感じ。どこまで行けるか、楽しみだ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

ちょっと余計な…

kikulogで、他の方へのツッコミコメントばかり投稿してしまった。

自重自重…。

そこの所は揚げ足取りなんじゃない? とか、文脈を考慮したらそうは読めないんじゃない、とか感じたら、つい口出ししちゃいます。いかんですね。

| | コメント (12) | トラックバック (0)

2007年7月 5日 (木)

史上最高のゲーム

痛いニュース(ノ∀`):【英国】 史上最高のTVゲームは「ゼルダの伝説 時のオカリナ」

ほう。英国の人は、なかなか見る目がありますですね(←何様だ、というツッコミは無しで)。

確かに、時のオカリナは、ゲーム史に残る傑作と言えましょう。あれを超えるものは、なかなか出ないと思われます。GC版もSFC版も、超傑作ですが。

しかし、哀しいかな。英国の人々には、『MONTER HUNTER』という傑作中の傑作がある事が、知られていないのでしょう(←半分冗談ですよ)。

マリオ64って、そんなに面白かったんですか? 私、やってないもので…。サンシャインは、かなり面白いと思いましたけど。

私としては、GC版『biohazard 0バイオ1のリメイク版』を推したいですね。あのゲームをやった時、これを作った人(三上さんかな?)は天才だ、とか思いました。

あ、でも、『METALGEAR SOLID 2』もはずせないなあ。いやいや、ドラクエ3とか4とか5とか8とか、バーチャ2とか…。『ストリートファイターZERO3』もあるぞ。あー、『ファイヤーエムブレム』を忘れてた。FFは、実は10が好きだったりします。ファイプロもあるなあ。おっと、『逆転裁判』も…。

キリが無さ過ぎ(笑)

| | コメント (11) | トラックバック (0)

2007年7月 4日 (水)

声の大きい人

声のデカさと主張の妥当性には、相関関係は無いと思うのですが、それがあるかの様に感じている人は、結構いそうです。

私なんか、負相関するんじゃないかと思ってるくらいで(そう信じている訳では無いですが)。声がデカい方が胡散臭い、なんて(笑) それはそれで、微妙ですけれど。

声の大きさ、と言っても、物理的なものだけではありませんが。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

ハルヒを実写でイメージすると、堀北真希さん以外に考えられないなあ、なんて、ふと思ったのでした。

| | コメント (5) | トラックバック (0)

2007年7月 3日 (火)

イメージ力などでは無い

七田 眞 ウェブログ: 七田の子ども達のイメージ力(1)

子どもにこんな事をやらせるか?

正直、ぞっとしますよ。もう、滅茶苦茶じゃないですか。

イメージが外界に直接的な影響を与える、という信念が、どれ程恐ろしいか、考えてみるべきでしょう。

こういう実験の様なもので「成功」した子ども達が、どういう認識を形成するか、想像すると、暗澹たる気分になります。

| | コメント (33) | トラックバック (0)

脳内藁人形批判者

ストローマン (straw-man argument) :: 事象の地平線::---Event Horizon---

そういえば、「藁人形論法」という言葉自体は、見た事ある気がする。

ストローマンの説明については、SSFSさんやABO FAN氏の強烈な論法を見せ付けられているので、ホント、そうだよねえ、と、実感出来ますね。変な言い方ですが、まさにお手本の様。

藁人形がリアルだと信じているのだから、「いや、それは藁人形ですよ…」と指摘したって、なかなか解っては貰えない。

何か、マヌーサ食らって、攻撃をミスってばっかりいるキャラみたい。

| | コメント (92) | トラックバック (1)

2007年7月 2日 (月)

猛者

Yahoo!ニュース - 時事通信 - ヒルトン関係のニュースの読み上げを拒否=米の女性キャスター

何か凄い。日本でこんな事をやる人がいたら、大顰蹙でしょうね。

しかしホントに、セレブがどうのこうの※って、どうでもいい話ですよね。わざわざ採り上げてどうすんの、と思ったり。向こうの事は知りませんけど、日本人は、興味持つんですかね。

※皮肉を込めると、”セレブ(笑)がどうのこうの”、になりますが。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

アニメや漫画やゲームが及ぼす教育効果についての論考……みたいな

※記憶を元に書いているので、詳細は異なっている可能性あり。

私が知っている、某ちびっ子。今小学2年生ですが、以下の様な漢字を憶えています(細かい形状を誤っているのもあり)。

悟  波  空  天  亀  王  気  人  砲

界  津  超  功  孫  拳  飯  仙  弾

幾つかの字について、「習ったの?」と、その子に訊くと、習っていない、との答え。

さて、ではこれらの漢字、どうやって憶えたのでしょうか。

そうです、ドラゴンボールのキャラクターと、技の名前ですね(カードとゲーム経由)。あの作品、人名としては一般的で無い漢字が入っているキャラクターが結構いるので、漢字の勉強になるのですね。

一々訊いていないですが、当人にとっては、「勉強している」、という意識は、微塵も無いでしょう。好きなものに関する知識を憶えるというのは、こういう事なんですね。

これは面白く、感心したエピソードなのですが、私が、「魔貫光殺砲の”ほう”は、”法”だっけ、”砲”だっけ…」と悩んでいると、早速カードを探し、「気功砲(ギャリック砲だったかも)の”砲”だよ」、と教えてくれたり、私が「龍」という字を教えたら、直ぐに憶えてしまって、こっちが舌を巻いたり、という事がありました。

これが、子どもの能力の素晴らしさ、そして、「漫画やアニメやゲームが与える影響」、の一端です。

| | コメント (4) | トラックバック (0)

表情から読む

認知の状態が表情にあらわれる、というのは、ある程度その通りなのでしょうけれど、だからといって、表情から心の状態を読み取ろうとするのには、慎重になった方が良いですよね。

目つきが○○だ、とか、ああいう顔の人は、△△だ、とか。たとえば、視力が低いから、眉間に皺を寄せて物を見る、という人に対して、「目つきが”悪い”」(←普通、ネガティブな意味合いを含みますよね)、と表現したり。

もちろん、社会的な認知と言うか、「□□は××だ」、というステレオタイプが広く形成されている場合、××な人が、□□な表情をよくする様になる、という事も、あり得るかも知れませんが。

いずれにしても、余り、そういうのに頼らない方がいいかな、と。「見かけによらず」、なんて事は、しょっちゅうありますしね。余り当てにならない気がします。それに、たかが表情くらいで相手の人格を決め付けて、先入見を持って接する、というのは、よろしく無いんじゃないかなあ。

と、こんな事を書いていますが、私自身、「あー、この人は、こういう性格かなあ」、なんて考えてしまう事、あります。で、いかんいかん…となる訳ですね。ですから、自戒も込めて、書きました。

※表情もそうですが、そもそもの、顔の造作でも、判断してしまう事は、ありますよね。これは、危険でもあると思います。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2007年7月 1日 (日)

はやさ

本を速く読むのにどんなメリットがあるのか、今一つ解らないなあ。

私は、前より遅くなったくらいで(笑)

文章の一文字一文字に気をつけて、何度も繰り返して読むから、あまり速くなりようが無いのですよね。勿論、既有の知識にも、左右されるのでしょうけれど。分野によって、速さに違いは出ますね。全く知らない分野だと、そもそも読めないし。

クオリティを落とさずに、速度を上げられるなら、それは優れた能力だとは思いますが。

| | コメント (6) | トラックバック (0)

ふざけるのも大概にしたほうが良いと思う

犯罪被害者の身内(遺族等)が、超能力に縋ってでも…という事を言い出したら、それを宥めて、考えを改めさせるべきだろう、どう考えても。

| | コメント (4) | トラックバック (0)

« 2007年6月 | トップページ | 2007年8月 »