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2007年7月13日 (金)

ゲーム脳の恐怖(5)´

Interdisciplinary: ゲーム脳の恐怖(5)

B-1:そもそも「テレビゲームとは何であるか」という視座が無い。(「テレビゲームの心身に与える影響」等を論ずる際に、最も重要である視座)

について、です。(森昭雄:『ゲーム脳の恐怖』,2002 参照)

「ゲームが脳に悪影響を与える」とか「ゲームは人間を暴力的にする」といった主張を見聞きした時、ゲームを良くする人は、次の様に考えるでしょう。他に、ゲームは暴力性を高める、とか、ゲームをやると頭が働かなくなる、とか、色々あります。

「”ゲーム”と一口に言っても、色々なジャンルがあるし、同じジャンルでも違いがあるのに、それらを一括りにして”ゲームの影響”と短絡するのはおかしい」と。ゲームの多様さ。

これは至極もっともな反論です。しかし、この様な反論にはお構い無しに、ゲーム否定論者は、「ゲーム」の悪影響論を展開します。ゲーム批判者も、「全てのゲームでは無い」と一応断りを入れる事もありますが、それにしては、批判の仕方が扇動的であると、私には思えます。

「ゲーム」が脳に与える影響を確かめるためには、先ず「ゲームとは何か」ということを明らかにし、それがどの様な特有の性質をもっているか、を明らかにしなければなりません。即ち、「ゲームを定義する」という事です。これは重要です。そうで無いと、何について調べているのかが、判らない。

そしてその上で、ゲームのどの特性が、どの様なメカニズムで脳に影響を及ぼすか、ということを論証する事が必要なのです。詳細なメカニズムはまあ、後回しでも構わない訳ですが。言い換えると、その様な検証を行うことなく、ゲームの悪影響等を論ずる事は出来ないのです。そうであるのに、ゲーム否定論者は、「ゲームとは何か」を明らかにせず、概念を曖昧にしたまま、悪影響が云々と言います※。『ゲーム脳の恐怖』でもそれは同様です(本書を通読すれば、「書かれていない」事が解ります)。そこでは、「ゲーム」という語が、学問的に措定されていません。著者は明らかに、「コンピュータ・ゲーム」や「テレビゲーム」を念頭においていますが、「”ゲーム”脳」という語を用いています。著者の研究内容からすると、「コンピュータ・ゲーム脳」や「テレビゲーム脳」とすべきです。にも拘らず、「ゲーム脳」という語を使用するのは妥当とは言えません※2。前にFREEさんが、ゲームなのかコンピュータゲームなのか、という事に関してコメントを書いておられましたが、「”ゲーム”脳」という表現は、学術的には、あまり妥当では無いですよね。もちろん、学術的概念では無い訳です。そして、学術的専門概念であるが如く、看做される場合があるのですね。

※勿論、「ゲーム(テレビゲーム)とは何か」を定義、あるいは社会科学的に詳しく論じた研究者もいるかも知れません。私が調べた限りでは、その様な論文等は見出せませんでした。ちゃんと調べて無いんですね。ゲームに関して研究している人自体、少ないでしょうけれど。ゲームの影響について調べたと称する研究のことごとくが、森氏の様な科学的妥当性を著しく欠く研究や、ゲームの特性そのものについては詳しく論じていない社会心理学的研究(坂本章氏の研究等)でした。これは別に批判では無く、坂元氏が行っているのは社会心理学的な研究である、という事実の提示です。

※2「ゲーム」では概念の内容が広すぎます。例えば『広辞苑』(第五版)では「ゲーム」は、「1.遊戯。勝負事。2.競技。試合。」、又、ゲーム - Wikipediaによれば、「ゲームとは、勝ち負けを争う遊戯、競技もしくは賭博のこととして一般には認められているが、「ゲーム」という言葉が実際に使われている範囲は幅広く、万人に通じる定義付けは難しい。」とあります。これでは、著者がゲーム脳改善に効果的と紹介している「お手玉」等も含まれてしまいます。(それどころか、あらゆる文化が含まれてしまいます)日常的に「ゲーム」と言えば、それは、コンピュータゲーム、特にコンシューマゲームを指すとは思います。

私がこれまで、「テレビゲーム」や「コンピュータ・ゲーム」とせずに、「ゲーム」としてきたのは、この様な言語論的事情からです(テレビゲームやコンピュータ・ゲームを含めた「代名詞」として我々は「ゲーム」という語を日常的に使いますが、私もその様に用いました。勿論、学術的概念に安易に用いるべきではありません)。メール等も含めるのであれば、「テレビゲーム」や「コンピュータ・ゲーム」という概念では狭すぎます。パソコンのディスプレイや携帯電話のディスプレイを、「テレビ」と言う人は少ないでしょう。「テレビ」は、日常的には、放送の受像機、といった所でしょうか(もっとも、この境界も曖昧ですが)。「テレビ」を一般化すれば(パソコンのディスプレイ等も含むとする)、それらを含める事も可能ですが、それでも、メールやチャットを「ゲーム」には含められない、という問題があります(コンピュータ・ゲームでも同様)。著者もこの事には気付いている筈です。わざわざ(別著で、ですが)「メール脳」なる語を生み出したのですから。この様な場合、より一般的な概念を生み出す努力をすべきですが、それをしていません。これは非科学的態度であると言えます。ここら辺、概念の内容と名前の結びつきにどう整合性を保つか、という観点ですね。つまり、森氏が主張するのは、コンピュータゲームやメール(携帯電話・PC含む)、チャット等の影響な訳で、それを「ゲーム脳」と表現するのは駄目だろう、という事です。人によっては、何を細かい所をくどくどと…と思うかも知れませんが。

という事で、実は「ゲーム脳」という概念を提唱しておきながら、メール等の悪影響についても書いている時点で、論理的に整合性を欠いている訳です。森氏の『ITに殺される子どもたち 蔓延するゲーム脳』でもそれは同様です。寧ろ、苦し紛れに(ご本人はそう思っていないでしょうけれど)新しい語を生み出しだという点では、『ゲーム脳の恐怖』よりも問題であるのかも知れません。「ゲーム」に拘っているのでしょうね、森氏。ゲームを毛嫌いしている層には、インパクトを与える概念ですし。メールでも同じ状態になった、というのが見出されたとすれば(研究が妥当かは置いておいて)、じゃあゲームとメールの共通性は何だろう、という所に目を向けるのが、当然の筈なのですが。わざわざゲーム脳とメール脳という語を作ってしまっています。じゃあ、その上位概念は何だ、と疑問が出るのは、当たり前ですよね。

次回は、「ゲームとは何か」という事について具体的に考察します。ゲームという文化が、他の様々な文化を部分的に含みうる、超複雑な、総合的文化現象である、という事にも言及したいと思います(『ゲーム脳の恐怖』の内容からは殆ど離れてしまうでしょう)。次回以降も、かなり思弁的な事を書いていますが、まあ、そんなにはずれてもいないと思います。ゲームをよくする人間の、経験による考察の一つ、とでも考えて頂ければ。

続きは⇒ゲームとは何か(1)

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Interdisciplinary: ゲームとは何か(1)については、Interdisciplinary: コンピュータゲームの定義で、言及しています。

ここまで無理をして定義を試みずとも良い様な気もしますが、一般的にどの様に認識されているか、というのを考察するのも、無意味では無いかな、と。

しかし、「コンピュータゲーム」の定義の中に「ゲーム」が含まれているのですから、「ゲーム」を定義しないと駄目なんですよね、本質的には。

ちなみに、世の中には、グラフィックが表示されないゲームもあります。また、(上記リンクにも書きましたが)視覚障害者の為のゲームの様に、音のみを手がかりにして進めるものもあります。

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