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2007年7月11日 (水)

ゲーム脳の恐怖(3)´

Interdisciplinary: ゲーム脳の恐怖(3)

A-3:2.に関連して、データの恣意的な解釈、見落とし、あるいは意図的な無視が見られる。

A-4:主観的印象・既成観念の過度の一般化、つまり、そもそもゲームは良くないものだと思い込んでおり、それを正当化するために論述をすすめている。

について、です。(森昭雄:『ゲーム脳の恐怖』,2002 参照)

これらについては、各所で痛烈に批判されています。

例えば、まえがきにおいて、ゲームのキャラクターと同じ格好をしている(コスプレ)人をみて「ショックを受け」(5頁)たことや(しかも、何故か「無表情で歩いている」(5頁)という表現をしている)、(その経験を基にしての)日本の未来に対する危惧が書かれています。その後も、「異様な雰囲気」(5頁)等の、極めて主観的な、「印象」が語られています。即ち、ある特定の文化に対するネガティブな評価が先にあり、それを正当化するために論述が進められている、ということです。森氏の論、びっくりする様な記述ですよね。要するに、自分が知らない世界の人を見て、「異様」だと言っているに、等しい訳です。というか、実際に書いているのです。ある印象を持つ事自体は、好き嫌いの問題にも関わるので構わないのですが、それを科学と結びつけようとする所が、よろしくないです。

経験的な認識を基にして、仮説を構築すること自体は、特に問題はありませんが、その仮説を検証(あるいは反証)する際に、著者は、とても科学的妥当性が充分とはいえないプロセスを踏んでいます。

例えば1章には、

「高齢者における痴呆を、おでこに相当する前頭前野領域の頭皮上から記録されるα波とβ波の比を求めることで、約85(引用者註:原典は漢数字)パーセント判定できる機器とその方法を確立してきたのです。」(21頁)

とあります。ここで、痴呆(認知症)を「約85パーセント判定できる」としていますが、まずその主張が妥当であるかどうか、という問題があります。脳波から認知症であることを判定出来るということは、認知症の人に特異的にその脳波のパターンが現れることを実証しなければならないはずですが、そのことについては言及されていません(この主張の妥当性については、各所で批判されています)。大友氏との共著論文には書かれているのかな。「85%」というのは、何に対する割合なのでしょうね。もし、この様な簡便な方法で、高い確度で認知症が判定出来るなら、広く普及していても良さそうなものですが。

更に、この主張を前提として、ソフトウェア開発者(8人)の脳波を測り、「痴呆者と同じ脳波を示した」(21頁)と言っています(どの様な状況で脳波を測定したかは書かれていない)。研究のとっかかりとして、ある興味深い現象が見られたから仮説を立ててみた、というのは、妥当だと思います。しかしこの場合、前提となる認知症判定の方法が、そもそも疑わしい訳で。ちなみに、21-22頁では、開発者(の仕事)に対して、「ひらめいたり、集中しているのはわずかな時間で、ただ画面をみている時間のほうが圧倒的に長いのです。」と評価しています。この記述は、仕事の「慣れ」等について全く考慮されていません。常識的に考えて、毎日数時間する仕事には、創造的な思考を働かせる場面や、殆ど何も考えずに身体を動かす時間もあるでしょう。そしてそれは、どの様な仕事でも同様です。常に強力に集中し、創造力を働かせる、ということ自体が、かなり特殊な状況でしょう。もし、ソフトウェア開発者(プログラマー等)の仕事が、他の仕事に比べて集中力も創造力も少なくてすむ、と主張するのであれば、それを社会科学的に研究する必要がありますが、それもありません。著者は、脳波を計測して、良くない(と著者が主張する)波形が見出されたから、開発者の仕事は、脳をあまり使わなくても出来るのだろう、という誤謬をおかしたのではないでしょうか。一日の大半の時間を占める労働の内、大部分を創造的な作業に費やすという事自体、考えにくいと思います。ルーチンワークもあるでしょう。「馴れた」作業で、脳が最適化された活動を行っている、と考えれば、それは合理的だと考えるのが、妥当です。そもそも、こんな書かれ方をすれば、プログラマー等は、憤るでしょうね。

25頁には、以下の様な記述があります。

「前頭前野の機能低下と思われる身近な例も挙げてみましょう。たとえば、人目を気にせず電車内で化粧をしている人、公衆の面前で抱き合っているカップルなど。人間らしさを表現する場所である前頭前野が働かず、理性、道徳心、羞恥心、こんなことをしたら周囲がどう思うだろうということを、考えられなくなってしまっているのです。」

ここでは、著者や、著者に類似の主張をする人に共通する論理の展開がみられます。即ち、「価値」や「認知」の問題を、即座に「脳機能の低下」に結び付ける、という誤謬です。いわゆる「俗流若者論」者に共通する論理です。その中には、自己の価値観を正当化するために、安易に科学的概念を用いる、という論者もいるのですね。

価値観の違いを、脳機能の「異なり」に拠る、と看做すことは出来るでしょう。認知が脳の神経細胞の活動パターンであると考えれば、当然その様な見方をすることは出来ます。思考が脳活動によって生み出されるとするなら、当然の帰結ですね。しかし、「電車内で化粧をする」ことや、「公衆の面前で抱き合」うことが、脳の「機能低下」の結果である、と言うのは間違っています。各文化で構成された価値体系を、生物学的因子に結びつけるのは、どれ程妥当なのでしょうね。進化心理学等では、色々な議論があるのでしょうか。私は詳しくありません。ただ、少なくとも、脳が機能低下しているから電車内で化粧をする、という類の言明は、かなりおかしいと思っていますが。自分が「道徳的であると思う」ことを普遍的な価値だと決めつけ、それを他人に押し付ける、そして、その価値観に合わない言動を、「非常識」だと看做し、マイナスの評価を下します。あまつさえ、その根拠を、脳波(やMRIやMEGやPET)の測定結果に求めます。「非常識な行動をとる人は、脳がおかしくなっているのだ」と。脳科学者等が、この様な主張をしているのを見かけることがあります(森氏はその筆頭と言えるでしょう)。このような主張に、私は恐ろしさを覚えます。これは、水伝に通ずる所があります。即ち不寛容・排他的・過度の自尊。

価値観などというものは、相対的なものです。それは、文化毎に差異があり、どれが「正しい」とはそもそもいえないのです。森氏と同様の主張を展開する人々には、広い人文・社会科学的(記号論や文化人類学、社会心理学等の)認識が足りないのでしょう。これらの分野の入門書を何冊かでも読めば、自分の認識が、いかに狭い範囲で閉じてしまっていたかが、解ると思います。

26-28頁では、睡眠時間減少とテレビゲームの関係について論じられていますが、ここでも、睡眠時間が減少しているというNHKの調査が紹介されているだけで、それが、テレビゲームをやる時間が長くなったから、という主張と無理矢理結び付けられています。あるのは、テレビゲームをする「頻度」についてのデータで、睡眠時間減少とテレビゲームをやる時間との因果関係については、論じられていません。例えば、学校の勉強をする時間の増加と睡眠時間の減少に有意の関係が見出されたとして、「勉強時間を減らせ!」と、「テレビゲームをする時間を減らせ!」という時と同じ調子で、言うのでしょうか。恐らく言わないでしょう。初めから、勉強=役に立つもの、テレビゲーム等=役に立たないもの、という前提があるでしょうから。ここに書いてある「頻度」は、森氏の本からの引用です。ここにも書いていますが、勉強するから睡眠時間が減った、と言われれば、「熱心」だと評価される気がしますが、どうでしょうか。文化に対する評価の違いが、影響すると思います。

又、そもそも睡眠時間が減ることが悪い事なのかどうか、についても何も語られていません。どの位睡眠をとれば良いのか、それはどの様なメカニズムに拠るものなのか、等についてです。これは、どうなんでしょうね。

以上の様な誤謬は、本書の到る所に見られ、枚挙に遑がありません。

それを、著者が意図的に(嫌いなものを攻撃しようとして)行っているのか、あるいは確信犯的に(正しいと信じて)行っているのかは、知る由もありませんが、著者に、社会科学的認識が足りないのは確かだといえるでしょう。「認知」に対する考察なくして、文化と行動の関係など、論ずることは出来ないのです。森氏はどちらでしょう。自分の正しさを、確信しているのでしょうか。社会科学的な認識は、不足しているとしか言いようが無いです。認知についても、ナイーブだと感じます。それを考えなくともよくする為に、「ゲームは脳を破壊する」という論を展開している、とも言えます。

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