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2007年6月 8日 (金)

誰に走らせるか

Yahoo!ニュース - オリコン - 24時間テレビに黒木瞳、新庄剛志、タカトシ

そういえば、今年は、萩本欽一氏が、マラソンのランナーでしたね。

あのマラソンに関しては、まあ、色々な見方がありますですね。批判的に見る人は、「どういう選び方」をしているか、という所を、突っ込みますね。私もそうです。

途方も無い距離を走るのですから(ここにもツッコミあるでしょうけれど、置いときます)、本人の達成感は凄いだろうし、近しい人の感動も、ひとしおでしょう。観て、元気付けられる人も、多いと思います。そういう感情の動きは、否定出来ないし、する必要も無いです。

でも、ですね。何かちょっと、引っ掛かる訳です。色んな考え方を、してしまうのですよね。

個人的な話をしても、しょうが無いのですけれど、私は、感動を演出する事に、抵抗感があるのですね。もっと言うと、嫌悪感を覚えます。事実に関する事を、いかにもドラマティックに飾り立て、見る者の感動を誘う。そこに、何とも言えない気持ちを、覚えるのですね。「作意」の跡を見出すから、かも知れません。

…あー、回りくどいですね。顰蹙買うかも知れませんけれど、はっきり書いちゃいましょう。あのマラソンのランナー、いかにも「走れないだろう」という人を、選んでませんか。ある程度知名度があり、(ここ数年は特に)到底走れないだろうと視聴者に感じさせ、体力的にも平均より低いと思われる、そんな人を選んでいる様にしか、私には、見えないです。そういう人が走っているのを観せて「感動を誘おう」、という作意を、感じるのです。何か変だと思うのですよ。当然これは、制作者の意図の問題です。基本的に、走る本人がどうこう、という事では無いです。

こういう考え、変ですかね? もしかしたら、そんなひねくれた考えでどうする、とか、折角の感動を台無しにする様な事を言うな、とか言われるかも知れませんね。でもやっぱり、何か引っ掛かるのです。

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コメント

TAKESANさん私も同感です(^-^)
なんて言えばいいんでしょうか、チャリティー番組としての24時間TV自体にも疑問があるんですけど、あのマラソンを初めとする「年齢、性別や病気などのハンデを持つ人に厳しいチャレンジをさせて、達成させる事で盛り上がる」企画が凄く違和感があるんです。
そもそも、24時間TVでマラソンが始まったキッカケって、間寛平さんが阪神大震災の復興を願って神戸から武道館まで一週間かけて走った事だったはずなんですよ。
それ以前はやっていなかったはずです。で、なぜ間寛平さんがランナーだったかと言えば、ギリシャで行われている「スパルタスロン」という世界一過酷なマラソンレース(確か全行程200キロ近い距離を走るレースだったと記憶しています)を寛平さんが完走した事があったからなんです。
つまりそこには、長距離を走った経験を持つ間寛平さんを起用するという、完走させる為の戦略がまだあったはずなんです。
ところが、マラソン企画自体がそこで終わらずその後も、素人目に見ても完走する能力を持たないであろうタレントを起用してドンドン継続されてきている訳です。
なぜマラソンなのか?
なぜ100キロ走るのか?
なぜランナーはその人なのか?
こういった疑問は全て無視されたまま。完走なんてとても出来なさそうな人間が、ボロボロになりながらも根性や気合いで頑張ってゴールする。
こういった「頑張って何かを成し遂げる」というわかりやすい「感動」を欲する人達が少なからずいるんでしょうね、社会全般に。

投稿: 内海 | 2007年6月 8日 (金) 23:01

内海さん、今晩は。

私もそう思います。
マラソンも、最初の方は観ていたんですよね。おお、何か凄い事やってるなあ、という感じで(そう、走れそうもない人が走っているのを観て感動、じゃ無くて、元々走れそうな人が凄い距離を走ったので、「何か凄い」と思ったのですよね)。でも、段々、何か違うな、と思う様になりました。

チャレンジの精神は尊いものだけれど、そこに作意が介在すると、少し引いてしまいます。色んな人の、思惑が見えてくるようで。

投稿: TAKESAN | 2007年6月 9日 (土) 02:36

>TAKESANさん
>>チャレンジの精神は尊いものだけれど、そこに作意が介在すると、少し引いてしまいます。色んな人の、思惑が見えてくるようで。

ええ、わかります。
その作為がマラソンより見えてくるのが、毎年必ずある、あの身体障害者の人達に遠泳や登山やトライアスロン等をやらせたりする企画でしょう。
どう考えても障害者の人達がチャリティー番組の限られた時間枠の中でゴールするのが困難なものです。
それでもなお番組がこうした事をやる背景に、上でも書いた「年齢、性別や病気などのハンデを持つ人に厳しいチャレンジをさせて、達成させる事で盛り上がる」事があるのではないかと考えます。
こういうのは障害者の人のチャレンジ精神を尊重しているのでは無くて、何か障害で身体や頭脳の能力にハンデのある人を、健常者の立場から「試す」ような、そんな視点が垣間見えてくる気がするんです。
要するに、障害者に支援をと訴えているような番組が、差別や偏見の目を持って彼等に接しているようにしか私には見えないんですよ。

投稿: 内海 | 2007年6月 9日 (土) 03:56

まだ起きてたりします(笑)

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 >健常者の立場から「試す」ような

ああ、私の感じてる違和感も、これかも知れません。

難しいのですよね、こういう問題って。決して、一所懸命何かにチャレンジする事を否定はしないのですが、それでも、制作者の意図として、色々なものを、感じ取ってしまいます。はっきり言ってしまうと、「~”なのに”出来る」、という視点から「感動を演出」している、という作意、ですね。

24時間テレビの時期が来る度に、こういう事を考えるのですよね。かなり、悩ましいですね。

投稿: TAKESAN | 2007年6月 9日 (土) 04:47

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