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2007年6月26日 (火)

ぎそう

牛肉の味を正確に認知出来るかどうか(他のものが混ざっている物と弁別出来るかどうか)と、偽装(擬装?)する事というのは、別の問題ですよね。尤も、日本人の平均的な味覚認知を推測した上で、そこを巧妙に利用する、という意味では、関係しているのでしょうけれど。そういう点を見ると、大変狡猾である、と言えるでしょう。全く、微塵も、社長に同情の余地は無いと、考えます。完全に故意で、計画的ですから。

見分けられない消費者の方にも…(※色々な主張がある。社長の言い方にも一理ある、とか、見分けられないのもダメだろう、とか。一理あるが、社長を擁護するものでは無い、とかも)という言い方は、ちょっと腑に落ちない所がありますね。ダイヤモンドと言って、超精巧な人造ダイヤを売ったらダメだろう、とたとえると、アナロジーとしてどうでしょうか。

finalventさんのブログ(極東ブログ: ミンチ偽装事件にボケたツッコミでも)を読んで、ぼんやり考えた事です。主旨は多分、日本人の、牛肉の味に対する感性についてなので、ツッコミ、という訳では無いです。finalventさんの書き方は、相変わらず、ややこしいですね。あ、そうそう、

 話を戻して、私はこの事件にまるで関心を持ってないのは、ふつう日本人が食べているハンバーグの肉は合い挽きですよ、というあたりだろうか。つまり、日本人の牛挽肉の味覚は豚を入れて調整されているはずですよ、と思うからだ。

ここは、日本語としてどうかと思う。

そういえば、いわゆる「食べ物の味」を感じると言った場合には、嗅覚も、かなり関連しているのですよね、確か。

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随想」カテゴリの記事

コメント

食品の場合、宗教的な問題や、アレルギー等の医学的な問題も絡むので、偽装は、極めて重大ですよね。

投稿: TAKESAN | 2007年6月26日 (火) 13:28

確かに。
ひそかに豚肉が混ぜられた牛肉をイスラム教徒が食べちゃったら大変だ。

投稿: pooh | 2007年6月26日 (火) 13:58

poohさん、今日は。

とある所で、イスラム教徒が食べたラーメンのスープが、実は豚でも出汁を採っていた、という話を見ました。こういうケースがどのくらいあるかは知りませんけれど、論理的には、充分起こり得る事ですよね。

投稿: TAKESAN | 2007年6月26日 (火) 14:37

嗅覚と食味について。
知人が交通事故(歩いていて跳ねられた)で嗅覚を失いましたが、いわゆる五味の強弱しか感じなくなったそうです。つまり、細かい違いはわからなくなるようです。本人は「味の大半は嗅覚だったのだと痛感した」と言っていました。
食いもんとか酒の本をたくさん作っていた、食に深い知識と体験を持った編集者だっただけに、痛々しかったし、残念なできごとでした。

で、ちょっと触発されたのだけど長くなったので、自分ちに投下しました。いや、嗅覚は関係ないけど。

投稿: 亀@渋研X | 2007年6月26日 (火) 15:56

亀@渋研Xさん、今日は。

テレビ等で、目隠しをして鼻を塞いで料理を食べさせると、殆ど判らなくなる、というのを、結構やっていますね。それ程に、人間の感性は、複雑で繊細、見方を変えると、曖昧と言えるのでしょうね。

finalventさんは、恐らく全部解った上で書いていると思いますが(それくらいの知性をお持ちでしょうから)、ああいう切り口のエントリーには、ちょっと違和感を覚えました。勿論、擁護している、という風ではありませんでしたけれど。

 >で、ちょっと触発されたのだけど長く
 >なったので、自分ちに投下しました。
読みました。参考になります。ししゃもの話とか、コピー食品の話は、結構見聞きしますね。カニかまの様な、もう完全に別の食べ物として認知されているものはともかく、中には、とても紛らわしいものも、ある様で。安い寿司で、カニと言っといて、実はアヤシイものも、ありますけれど。

こういう問題って、エスカレートする段階で、認知的不協和の解消の様なメカニズムが、働くのでしょうね。他の所もやっている、食べても死ぬ訳じゃ無い、やらなきゃ従業員を食わせられない、等々。合理性が、自分の内側で閉じてしまっているのだと思います。

投稿: TAKESAN | 2007年6月26日 (火) 16:19

こんにちは、TAKESANさん。

>見分けられない消費者の方にもという言い方は、ちょっと腑に落ちない所がありますね。

考え方を変えてみれば良いのですよ。あの社長だって、毎日飯を食っていた訳です。そのたびに「この米はコシヒカリだというが、袋を代えた別な品種ではないか?」と疑い、確認して喰っていただろうか。たぶん自家用車にも乗っていたと思うけど「この自動車は3000ccというが、実際は2000ccのエンジンしか積んでいないのではないか」と疑い、確認して乗っていただろうか。家にも住んでいたと思うけど「この家の断熱材は難燃性という事になっているが、本当は燃えやすいのではないか」と疑い、確かめて住んでいたのだろうか。なんてね。

世の中には確かめようの無いことがたくさんあり、飯を喰い、服を着て車に乗り、家に住む時に、「周りは嘘を付かないで居てくれる」という事が前提に成っている社会で生きる訳です。自分が稼いだ金を使って、人が嘘を付かずに提供してくれる物やサービスを受け取るのでなければ、なりたた無いわけです。

そこに思いが至るなら、自分が提供した偽物を人が見抜けないという事はなんの免罪符にもなりはしないのですよ。その金で、「人は嘘を付かない」という事を前提とした物やサービスを買っていたのですからね。

投稿: 柘植 | 2007年6月26日 (火) 17:01

柘植さん、今日は。

▼▼▼引用▼▼▼
世の中には確かめようの無いことがたくさんあり、飯を喰い、服を着て車に乗り、家に住む時に、「周りは嘘を付かないで居てくれる」という事が前提に成っている社会で生きる訳です。
▲▲引用終了▲▲
まさにそうだと思います。件の社長は、そういう認識力が、決定的に欠落していたのでしょう。様々な正当化によって、自分がやっている事は構わないのだ、と考えていたのかも知れません。
社長の、消費者の側にも云々というコメントを見て、呆れ果てた(というのとも、ちょっと違った感情でしたが)のでした。

投稿: TAKESAN | 2007年6月26日 (火) 17:22

 私は「業界の体質」とかいう話を聞いて↓こんなの思い出しました。

「テレビのどこが問題か──「あるある」外部調査委員に聞いた(下)」
http://www.ohmynews.co.jp/news/20070428/10570

投稿: newKamer | 2007年6月26日 (火) 17:55

newKamerさん、今晩は。

「業界の…」というのは、あるでしょうね。

当人は、現在どういう心境なのでしょうね。反省しているのか、自責の念にかられているのか。それとも、もっと他の感情なのか。

投稿: TAKESAN | 2007年6月26日 (火) 20:28

以前ぼくのところのコメント欄で柘植さんの示唆がありましたけど、「ビジネスである」と云うことが「一定度合いで倫理的に免責になる」と云うことだと認識しているひとは実際にけっこういるようで。kikulogにもそういった感じの水商売系の方が登場したりしてましたね。

でもそれはほんとは(法律上も)嘘なんですけどね。

投稿: pooh | 2007年6月27日 (水) 08:01

こんにちは、poohさん。

>でもそれはほんとは(法律上も)嘘なんですけどね。

人は「仕事をして居るとき」というのは、それ以外の「生活しているとき」の5倍は、真面目で誠実で無くてはならないと考えています。なぜ5倍なのかというと、人生の1/5を「人に物やサービスを提供する(つまり仕事する)」事で過ごし、残りの4/5を「人に物やサービスを提供して貰って」過ごすからです。生まれてから仕事ができるようになるまでの期間、老いて働けなくなってから死ぬまでの期間、そして働いている年代も飯を食い遊び寝ている時間というのは人から物やサービスの提供を受けている時間なんです。それをザックリと考えると、だいたい人生の1/5くらいしか仕事をしていないで、残りは人の仕事の成果で生きている訳ですね。みんなが人生の1/5を出し合って仕事をし、その成果を人生全てに使うように分け合っていると考えるなら、仕事の持つ「真面目さ、誠実さ」はそれ以外の時の5倍は必要だということになるわけです。

金というのは、この人生の1/5と4/5の間を円滑にするための介在物に過ぎません。どれほど金を貯めても、無人島で生きるなら、誰も自分に物やサービスを提供してはくれない訳ですからね。金を見ずに、自分が提供し、そして自分に提供される物やサービスを考えるなら、人生の1/5をどのように過ごすかを考えられると思うんですけどね。

投稿: 柘植 | 2007年6月27日 (水) 08:15

poohさん、今日は。

 >「ビジネスである」と云うことが「一
 >定度合いで倫理的に免責になる」と云
 >うことだと認識しているひと
そうですね。そして、怖いのが、周りにいる人が、おかしな事だと気付いていても、やってもいいのかな、と思い込んでしまう可能性が、あるのですよね。当然、上の人間の権威を恐れて何も言えない、という事もあるでしょうね。

投稿: TAKESAN | 2007年6月27日 (水) 12:03

柘植さん、今日は。

やっぱり、想像力が大切かなあ、と。それも、狭く、閉じたものではなくて、広く、全体的な。
中にいると、特に抵抗無い、習慣の様になってしまっている、という事も、一歩引いて見ると、物凄くとんでもない事である、というのもありますよね。

投稿: TAKESAN | 2007年6月27日 (水) 12:18

社会性を意識せよ、と云うのは柘植さんの持論でしたよね。そういう視点を失うと、金と云うものに妙に近視眼的な価値観を置いてしまう、と云う部分はありますよね。

投稿: pooh | 2007年6月27日 (水) 20:30

金に執着するのと、金儲けを過度に忌避するのと、両極端に分かれそうな気もしますね。

投稿: TAKESAN | 2007年6月27日 (水) 22:06

柘植さん、この様な辺境の地にもお越し下さり、色々とご教示を頂いて、大変ありがとうございます。
きくちさんも仰っている様に、kikulog等への、HNでの書き込みを、期待しております。

こんな、適当な事を書いているブログに、経験豊かで知性に溢れる皆さんからご意見を頂けて、それだけで、ここを開設した甲斐があったというものです。
柘植さんの書き込みを頂いた時も、何故こんな所に、と、不思議に思ったくらいで(笑)

投稿: TAKESAN | 2007年6月28日 (木) 12:04

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