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2007年5月20日 (日)

視覚的イメージと身体構造と体性感覚的意識

良い動きを実現する場合に重要なのが、身体の構造を正確に把握する事、ですね。

ちょっと例を出します。先ず、掌を見て下さい。指を一番根元で曲げる時、どこから曲がるでしょうか? 取り敢えず、曲げずに考えてみましょう。そして、実際に曲げてみて、比較してみて下さい。

いわゆる「指の股」の所から曲がる、と思っていた方が、結構おられるのではないでしょうか。でも、実際には、関節は、掌の中にあるのですね。又、視覚的に、掌は一枚の板の様な物体で、そこから棒の様に指が出ている、というイメージを持っている人も、いるでしょう。しかし実際は、手には、かなり多くの骨があって、多様に変形するのですね。こういう「イメージ」というのは、大切です。試しに、「指の股の」部分から、指を曲げようとしてみて下さい。絶対出来ません。当然ですよね。そんな構造をしていない訳ですから。

こういった勘違いというのは、よくあります。脚でも、骨盤の下にあるぐりぐり(大転子)が関節だと思っていたり、下腿や前腕に、一本しか骨がないと思っていたり。体幹に至っては、骨格のイメージ等、殆ど無いかも知れませんね。恐らく、そういう視覚的なイメージと、実際の身体運動は、密接に関係していると思われます。身体運動のスキーマが、解剖学的構造の合理性と、かけ離れる場合があるのでしょう。理由は色々あるでしょうね。最も一般的に言えば、「文化」に規定される、という事でしょう。身体の各部に「意味付け」をする訳ですね。「ここはこう運動する所」、と。勿論、無意識に構造化されるの考えられます。そしてそれは、人体に持つ視覚的認知も、関係するのでしょう。

で、人間の持つ解剖学的構造を合理的に使えている人が、達人とか名人とか言われる訳ですね。スポーツ選手なら、オリンピックのメダリストになったりします。その中でも、殆どの人は、解剖学的知識が無い(具体的では無い)が、「出来てしまっている」、のだと思います。そういう人は、「天才」と呼ばれます。だから、自分のやっている運動を、他人に説明出来なかったりするのです。視覚的なイメージより、体性感覚的なものを、より重視するのですね。視覚的な情報を手掛かりにして、パフォーマンスを向上させようとすると、どうしても、フォームの正確さ等に、拘りがちです。解剖学的構造から考えて不合理であっても、無理やりフォームに合わせてしまおうとします。或いは、外形が同じ様に見えても、実は全然違う運動であったりします(勿論厳密には、外形は異なる場合もある訳ですが、それを視覚的に捉えられない、という事です)。それが即ち、「型に嵌める」、という事です。

この様な論理を踏まえて、スポーツや武術では、体性感覚的な情報を手掛かりとして、高級なパフォーマンスを伝達する為の、言語装置を生み出しました。それが、「センター」であったり、「正中線(解剖学的概念とは別)」であったり、「肚」や「丹田」です。或いは、「気」の概念の一部を為している場合も、あります(「気の流れ」を、「身体の感じ」と捉える)。

ところが、そもそも、体性感覚を「感じる」というのは、個人的な認知であって、外部から観測するのは困難ですから、ズレが出てくる訳ですね。要するに、「出来ている気になる」という事が、起こってしまいます。そこが、難しい所です。

だから私は、先ず、正確に、人体の構造を認識すべきだと考えています。そうすれば、身体の「感じ」と、解剖学的構造を照らし合わせる事が出来ます。そして、合理的な運動が出来ているかどうかを、チェックする訳ですね。そうしないと、前述した様に、「出来た気になる」危険性が、あります。何も考えなくても(←人体構造について分析的に捉えない、という意味です)出来てしまう、いわゆる「天才」で無い人は、そうやって、地道な作業を積み重ねていくべきではないでしょうか。

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