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2007年4月 6日 (金)

色眼鏡

「この人はおかしな事を今まで言っていたから、又おかしな事を言うだろう」、も、「この人はまともな事を今まで言っていたから、又まともな事を言うだろう」、も、どちらも違いますよね。論理的には、飛躍です。

勿論、コミュニケーションにおいては、そういう判断をする事は、ままあります。(元々信頼を置いている)家族や友人が言う事は、それ程吟味せずに信用する、とか。テレビで、以前おかしな事を言っていた人が出ていたら、「どうせこの人は…」と判断するとか。まあ、それ自体は、ある程度は、仕方無いとは思います。コストを節約するという意味も、あるでしょうし。

でも、主張の内容について、真摯に議論する場合には、そういうバイアスが、邪魔になる場合があります。「誰某が言っている”から”」、というのを、判断の根拠にする訳ですね。内容をちゃんと検討せずに。

これは、どれ程冷静な人間でも、ある程度はあると思います。だから、常に、先入見で考えてしまってはいないだろうか、というのを、気に掛けておかなければなりませんね。

私は、少しは出来ていると思いますが、それでも、発言者の属性を根拠にして判断してしまいそうになる事が、あります。その時は、「おっと、いかんいかん。」となります。

省みると、大分、マシになりました。以前と較べて。前は、自分が支持している人の論が批判されていたら、その事実のみを根拠にして、反感を持ったりしました。不健全な批判精神です。それではいけないのですね。前に進めない。

いませんか? 「この人が言ってるんだから間違い無い」、という対象が。

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「随想」カテゴリの記事

コメント

こんにちは、TAKESANさん。

難しい部分なんですよね。私は「初めての街でハンバーガーが食いたくなったときマクドナルドの看板をみたら」なんて言い方で説明するけど、入ったことのないそのマクドの商品なり店員の対応まで頭に浮かぶわけですね。なんていうか、人はこういう風に「統一的イメージで物事をみなす仕様の生き物であり、そして、人類の文化はその仕様もまた利用してきた」訳ですからね。フランチャイズにおける統一的商号の使用ということ、フランチャイズの本部が加盟店の営業を統一的になるよう監督する権限などは、その人間の仕様を「良い方向に利用する」という事が前提にあるわけです。

>常に、先入見で考えてしまってはいないだろうか、というのを、気に掛けておかなければなりませんね。

なんていうか、「先入観で見てしまって良い範囲」というのがある気もするわけです。それを全てぬぐい去る事は基本的に人間の仕様としてできるものではないし、また、その仕様を利用する様に作り上げてきた文化をも壊してしまうことだからね。

私は「社会の健常な保守性」なんて事をいうけど、今までに知られていない物質というのは「無い」という先入観で見て貰って構わない訳です。今まで知られていない現象は「起こらない」という先入観から始まって貰ってかまわない訳です。今までできなかったことは「できない」と思うところから始まって欲しいわけです。

そこから始まって貰っても、私などの研究者というのは、その先入観と戦って壊すだけのスキルをもっているものだからね。

投稿: 柘植 | 2007年4月 6日 (金) 08:53

柘植さん、今日は。

このエントリー、実は、タミフルに関しての浜氏の発言と、それに対しての評価を念頭においています。その中で、「浜氏が言った事だから」批判する、というのも、見られました。

勿論、過去の言動の積み重ね等から、今後の行動の予測をする事は、基本的な思考様式だと思いますし、それを完全に排する事は、不可能ですね。

疑ってかかる、といっても、そこには、発言の内容を論理的・科学的に吟味する、という意味が含まれる訳ですよね。勿論、「なぞる」事も含まれます。

一応、このエントリーでは、ある人物の言っている事を判断する、という所に絞って書いていますが、個人のやる事には、知識に偏りがある分野、何らかの「拘り」を持っている所等、色々ある訳ですよね。だから当然、「Aについてはまともな事を言っているが、Bについては的外れだ」、というのは、ありえます。
それを常に、念頭に置いておくのが大切かな、と思います。

ちょっと上手く表現出来ないので、柘植さんに倣った喩えを出してみると、

以前食べにいった事のあるレストランが、新しく、店を出すらしい。そういえば、何年か前に行ったけど、余り美味しくなかったなあ…。今度出来る店も、あんまり期待出来ないかな。

といった感じですね。もしかしたら、オーナーや料理人が代わって、とても美味しい料理を出す様になったかも知れないのに、以前食べた経験だけで、判断してしまう、という。

社会制度と個人の言動との違い、というのも、あるかも知れませんね。

柘植さんの仰る事を認識しつつ、それでも、常に、健全な懐疑が出来ているかを考えなければならない、といった所でしょうか。
狼少年がウソをつき続けたからといって、今後言う事がウソとは、限らない訳ですしね。

投稿: TAKESAN | 2007年4月 6日 (金) 13:09

こんにちは、TAKESANさん。

なんていうかな、これもまた2分法では無い部分なんですよ。一度、何か大きなヘマをやらかした時に、再チャレンジは「ダメ」でもなく「一度目と同じほど容易」でもないくらいにするべきなんですね。ヘマの種類や規模にもよるんだけどね。

なんていうかな、例えば研究で「トンデモ」を発表してしまったら我々は「研究者生命を失うよ」なんていうけど、しっかり反省して次はきちんとした発表をするなら、そうね、チョンボの前なら10人くらい「その内容なら認めよう」という人がいる内容でも、チョンボの後なら、そうやって認めてくれる人が3人くらいになり、後の人は「あいつが言うのなら怪しい」となるくらいの事は有って良いと思うわけです。「内容が別なんだから10人が認める」でもなく、「あいつが言うのだからと誰も認めない」でもない所で、チョンボのペナルティが働くという事かな。

それはね、「抑止力」という事なのね。大きなチョンボしてもそういう再チャレンジに対して周りの対応が昔と変わらなかったら、「チョンボしたくない、下手をすれば研究者生命に響く」と怖がってチョンボしないようにするという「抑止力」が無くなってしまうわけ。でもね、「抑止力」が行きすぎると「再チャレンジ」そのものを無くしてしまうから、それも良くないのね。

だからね、感覚としては「一度チョンボすると、7割くらい信頼されなくなる」程度がちょうど良い気がする訳です。

投稿: 柘植 | 2007年4月 6日 (金) 17:09

一般的な心掛けというか、そういう所で、ちゃんと言っている事の内容を判断しよう、という主張ですね。

ふと自省してみると、「この人が言っているから正しい/違う」だろう、と判断している事が、あるのですよね。その時は、ちょっと立ち止まって考えてみよう、という感じですね。

勿論、先入見で判断して、どちらかにバイアスを掛ける事はありますし、ある程度は、それは必要(と言うか、そういうもの)だと思います。

私は、こちらにコメントを下さる方の意見は、恐らく妥当だろう、という側で捉えていたりしますしね。それは当然、過去の発言から、そう判断している訳ですね。

投稿: TAKESAN | 2007年4月 7日 (土) 01:51

柘植さん、TAKESAN、こんにちは。

金子郁容氏(慶大教授)が、コミュニケーション論で「コミュニケーションジャンプ」という概念で解説されたのがあります(これについては「空飛ぶフランスパン」というエッセイみたいな本に書かれたので、検索しても出てこない言葉です)。
人と人とのコミュニケーションは、相手が言ったことを確認しなければ、「本当」のことは理解できませんが、そんなことをしていては、コミュニケーションが成り立たないので、適当なところでジャンプしているというのです。
それには「あの人が言うことだから」ということもありますし「公平なコイン」なんていうのもあります。現実には、表裏が均等に出るコインなんて存在しませんが、確率について話をするときに、いちいち相手に了解するなんてしませんね。お互いにそのところをジャンプしてコミュニケーションしているというのです。
本来は、批判的な目をもって、いろいろな物事を見なければいけないんですが、ずっとそれでは疲れてしまうんで、適当にジャンプすることも必要です。柘植さんのコメントは安心して読めますし、某うま氏のコメントは、ジャンプできないので本当に疲れますね。
そういうジャンプをうまく使い分けることも大切だと思いますよ。

投稿: ドラゴン | 2007年4月 7日 (土) 12:08

成る程、「コミュニケーションジャンプ」とは、解り易い言葉ですね。

うーん、結局私が言いたかったのは、「誰が言う事でも鵜呑みにしない」、という事ですかねえ…(自分で書いといて、ですかねえ、も無いですが)。

具体的な事を書くと、私は、友人から何かを聞いて、「ふーん、そうなんだ。」となっても、家に帰って、ネットで調べたりします。これは勿論、友人に対する信頼とは、相対的に独立の話ですね。「もしかしたら、友人が勘違いしたのかも知れない」という可能性にも、思いを馳せる、と言うか。
後は、話題にも拠るでしょうね。話の深刻さの度合いによっても、変わってくるかと思います。

投稿: TAKESAN | 2007年4月 7日 (土) 12:40

JosephYoikoさんが言及して下さっていますね。ありがとうございます。
色眼鏡の効用、仰る通りだと思います。

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色眼鏡を、掛けたりはずしたり出来る様にすべき、という事ですね。自分が色眼鏡を掛けてしまっている可能性に目を向けないと、はずす事は出来ませんし。

投稿: TAKESAN | 2007年4月 7日 (土) 12:58

ようするに,「自分を過信してはいけない」ということではないでしょうか。

「信用できる人」というのも,相手を信用するかどうかの判断は,結局はその本人がしているわけで,つまり,「そう判断をする自分を信じるか?」で,それはつまり「過去に妥当な判断してきた自分」と「過去に判断を誤まった自分」を踏まえて,「ではこの件に関して自分の判断は信用できるかどうか」と考え,「信用できない」と判断した時に,「裏を取る」となるんだと思います。

だからつまり,「納得しやすさ」というのは,「自身に対する過信レベルが高い」と言い換えることが出来ると思います。

(もちろん,「『信用できない』という自身の判断を信用している」ことになるわけで,究極的には人は「自分を信用している」ということになるわけですけど)

・・・なんかテーマからズレたかな?(笑)

投稿: A-WING | 2007年4月 7日 (土) 14:50

A-WINGさん、今日は。

より一般的には、そういう事なのだと思います。

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自己も他者も、言動にはある程度の一貫性はあるが、必ずしも首尾一貫している訳では無いので、「誰が」というのも考慮しつつ、個別に見ていく事も必要かな、という、個人の行動としての次元の話でもあります(このエントリーの趣旨は、一応それですね)。

たとえば、自分が信頼している人が、どうもおかしな主張をしているみたいだ、という話を見聞きして、「あの人がそんな事言う訳無いよなあ…」と思って調べたら、実は、おかしな事など言っていなかったのが判明する、というケースもあると思いますが、これも一つのバイアスですね。

 >・・・なんかテーマからズレたか
 >な?(笑)
いえ、私自身、ちょっと頭がごちゃごちゃしてますし(笑)

投稿: TAKESAN | 2007年4月 7日 (土) 16:14

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