メモ:武術の言葉
- 「胸を張るべき」と「胸を張ってはいけない」、どっちが正しい?
- そもそも、同じものを指しているのか。
- バイオメカニクス的に同様の状態であっても、表現が異なる場合がある。
- 胸郭や肩甲部の構造と、言語の意味内容との関連。
- 「張る」の意味(参照:国語辞典 英和辞典 和英辞典 - goo 辞書)。
- (1)物の表面などを一面におおうように広がる。
「池に氷が―・る」「蜘蛛(くも)の巣が―・った廃屋」 - (2)木の根や枝が四方八方に大きく広がる。「四方に根が―・る」
- (3)ゆるみなくひきしまる。
- (1)物の表面などを一面におおうように広がる。
- 上記の意味を踏まえて見ると、背中を反らし、肩甲骨を引き寄せた姿勢も、脊椎をニュートラルにし、肩甲骨周りの筋肉を弛緩させた状態も、いずれにも、「張る」という表現を適用出来る事になる。
- 一方、たとえば「胸を反らす」などの場合だと、背中側を引き付ける(つまり、「後に」反る―「反身」。逆は、前に「屈める」―「猫背」等)姿勢がイメージされる。従って、「良い姿勢」を表現するのに、「胸を反らす」というのは、余り用いられないという印象がある。尤も、「反身」を正しいとして、その表現が意識的に使われる場合もあるだろう。
- 現代においては、一般的には、「胸を張る」は、「反身」を表すと思われる。
- この事を直観的に踏まえてか、胸で「受ける様に」、と表現される場合もある。つまり、敢えて、誤解されそうな「胸を張る」という表現と共に、「受ける様に」という語を補助的に用いる事によって、より強く認知させようという、教育的方策である。
- この様に、同じ表現であっても、その意味する所は異なる場合がある、というのを、しっかり認識しなければならない。そうで無いと、「○○」という表現を用いているという事実のみで、パフォーマンスを評価してしまう場合があるからである。端的に言うと、「言葉の使い方にはズレが生じている可能性がある」、という事である。
- 従って、身体運動のパフォーマンスとしては同様であっても、それを表現する言語体系が異なる場合が、あり得る。達人と評価されるアスリートであれば、身体運動構造にも共通性があると考えるのが、妥当であるけれども(自然科学的には当然)、自らの属する体系の優位性を信じたり、言語に対する認識が足りない事によって、表現が異なっているから運動構造も異なっているであろう、と看做すのである。
- 然るが故に、バイオメカニクス的認識を身に着ける事が、望ましい。その様にして、厳密に定義された概念を用いる事によって、「誤魔化し」を通用させなくすべきである。そうで無いと、言葉の使い方に拘って、いつまでも、身体運動を科学的に認識する事が無い、という状況のままであろう。それでは、身体運動文化としての武術の発展は、望めない。
- 尤も、学習―教授過程において、ある運動構造についてメタファーを用いるのは、大変有効な場合がある。分析的に認知しにくい体性感覚情報を、「喩え」で表現するのは、解剖学的概念等を用いる説明より、学習者にとって有意義である場合も多いであろう。
- しかし、注意しなければならないのは、上にも書いた通り、言葉の使い方にはズレが生ずる可能性がある、という事である。即ち、異なる運動について、同じ表現を用いてしまう場合があり得る。名は同じでも中身が違う、という事。
- 従って、その様なメタファーを用いる際には、その前提の知識として、自然科学的知識を身に着けておくのが必要である。そうすれば、メタファーを「勘違い」しているかどうかが、チェック出来るからである。
これは勿論、武術に限った事では無く、他の色々な文化に敷衍出来ます。
言語の恣意性を認識している人にとっては、「そんなの殊更に主張する事か?」と思われるかも知れませんが、それを知らない人が、結構いる気がします。私の様に(下に書きますが)、何となく気付いているが、はっきりとは認識出来ない、というもどかしい思いをしている人も、いるでしょうね。これが一番きつい気もします。
私の場合、全く直観的に、「言葉は同じだけど、中身は違ったりするんじゃないかなあ…」というのを、漠然と思っていました。たとえば、「力を抜く」という表現は、一体何を指しているのだろう、とかですね。「胸を張る」も。で、言語論を勉強していく内に、疑問が氷解した訳ですね。
特に武術等では、体性感覚の認知(「気付き」と言うか)という、極めて主観的なものに対する評価が、パフォーマンスのレベルに決定的に関わり(適切にフィードバックし、それを変化させていく必要がある。無自覚に近いかたちで、ハイパフォーマンスを達成する人は、「天才」と呼ばれる)、それを言語化するという過程(伝承において重要。だから、古来、伝書や口伝で、何とかそれを、伝えようと腐心した訳ですね)が重要な訳ですから、心理学が発展していない時代には、メタファーに頼らざるを得なかった所があるのでしょう。
言葉は、受け渡した途端、意味は変わるのですよね。厳密に定義されたコードでなければ、発信者と受信者の解釈が一致する事はあり得ませんから。だから科学では、言葉の定義と論理性が重んじられる訳ですね。体性感覚情報をメタファーで表す場合には、発信者と受信者との「脳内辞書」が同一になる事は、殆ど無いでしょうから、ズレが生じます。だから、客観的にものを見たいなら、自然科学的に身体運動を測定して、それと主観の一致とを見て、パフォーマンスを評価する、というのが重要です。多分、武術関係者は、殆どは、こういう考えを嫌うと思います。そもそも、「武術の動きは言語に尽くせない」とか、「科学では解明出来ない」、というバイアスが掛かっていますから。
無論、どこそこの筋肉を鍛えればパフォーマンスは向上する、という単純な認識でも、駄目です。人間が、力学的且つ認知的存在である以上、総体として捉えなければ、筋力は上がったけど動きが悪くなった、なんて、悲惨な結果になりかねないですから(高岡英夫氏の、『鍛練』シリーズを参照)。
重要なのは、身体運動に関する自然科学的知識(具体的には、バイオメカニクス。実践家としては、それ程詳細な知識は要らないでしょうけれど)や、主観と「理想的な運動」がずれる可能性の自覚(つまり、パフォーマンスを科学的論理的に認識する事と、それを体現する事との違い。「”解る事”と”出来る事”の違い」。「解っている人が出来るとは限らない」し、「出来る人が解っているとは限らない」)等です。
批判・質問歓迎です。
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コメント
武術関連エントリーの読みにくさが他に較べて異常なのは仕様です。
投稿: TAKESAN | 2008年6月29日 (日) 02:37