科学的、合理的、論理的
ニセ科学を鵜呑みにするのは、論理的・合理的な認識力が無いからだ、という見方がありますね。
それは、確かに正しい部分を含んでいると思いますが、もう少し詳しく見ていくと、「論理的」や「合理的」と言うよりも、「(自然)科学的知識」があるかどうか、というのが、重要なのではないでしょうか。
自然科学とは、自然現象がどうなっているか、という事を解明する方法、及び、それによって集積された知識(方法に関する知識も含む)の体系、だと理解しています。そして、ニセ科学は、その体系と整合しない論を主張している訳ですね。ですから、それを見分けられるかどうかは、「知識の多寡」にも依存すると、考えられます。
ニセ科学は、それ自体は、それなりに論理的なものも、ある訳ですね。自然科学の体系を無視して見れば、辻褄が合っている場合もある、という。つまり、「論理的ではあるが科学的では無い」場合が、あり得るという事ですね。
ですから、分野が異なれば、ニセ科学かどうかが判断しにくい、という事も、起こるのですね。それは、基本的な論理的認識力が欠落しているからでは無くて、「具体的な知識に乏しい」から、なんですよね。水伝は信じなかったが、マイナスイオンの科学性は信じていた、といった様に。
当然、ニセ科学といっても、自然科学の詳しい知識が無くとも判断出来る水伝の様なものから、判断するのにある程度の知識が必要なもの(血液型性格判断等)まで、色々ある訳ですから、ニセ科学を信ずるのは論理性が足りないからだ、とは、必ずしも言えないのですね。勿論、文脈から、「論理」や「合理」に、「科学的」という意味を含められているのは当然だ、という見方はあるでしょうから、これは、瑣末な指摘なのかも知れませんが。
要するに、論理的である事は、科学的である事の必要条件ではあるが十分条件では無い、という事ですね。従って、ニセ科学は、非科学的であっても、非論理的では必ずしも無い、という事でもあります。
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おまけ。引用は広辞苑(第五版。外国語表記等、一部は省略)
【科学】 体系的であり、経験的に実証可能な知識。物理学・化学・生物学などの自然科学が科学の典型であるとされるが、経済学・法学などの社会科学、心理学・言語学などの人間科学もある。
【科学的】 物事を実証的・論理的・体系的に考えるさま。また、思考が事実にもとづき、合理的・原理的に体系づけられているさま。学問的。
【論理】 1.思考の形式・法則。また、思考の法則的なつながり。2.実際に行われている推理の仕方。論証の筋道。
【論理的】 1.論理学で取り扱う対象についていう語。2.論理の法則にかなっていること。りづめ。
【合理】 道理にかなっていること。
【合理的】 道理や理屈にかなっているさま。
【道理】 物事のそうあるべきすじみち。ことわり。
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コメント
こんにちは、TAKESANさん。
知識と思考というのは相補的な面があってね、知識だけで満足する人は思考が進まないだけではなくて、その思考によって促される「新たな知識の必要性」を感じる事が少ない訳ですよ。
例えばkikulogで「タミフルって何をするの」って質問した人に「ウイルスというのはこういうもので、タミフルはこういう働きをする」とか説明するでしょ。でもって説明した後で、「しまった、こういう部分も説明しておけば良かった、もっと詳しい説明を求められた時に、その部分を説明しておけば後の説明が楽だった」とか思うわけですね。でも
その自分が「しまった」と思う説明でも「なんとなく分かりました」とかお礼を言われておしまいになるのね。まあ、折角考えたのにもったいないから、「もう少し正確に説明します」と補足を書いておいたりするのだけどね。
これは私みたいな説明者の癖でもあるんだけど、「いろいろと簡略化した説明」をする時に「それだけで終わらないかも知れない」という意識は持っている訳です。簡略化したことで「新たな疑問、詳しいところへの疑問」は当然出ると予想して、二の矢、三の矢の用意をしてしまうわけです。多くの場合、簡略説明で「分かりました」とか言われて、二の矢、三の矢は使われずにしまわれてしまう訳だけどね。
この「ここは分かった(知識を得た)」という時に、思考する癖のある人は、その知識の上に「新たな疑問(さらなる知識の欲求)」が出る訳です。私が「思考する癖を大事に」というのは、別に知識持つことを軽視している訳ではなくて、それが知識を増やすことと強く結びついていると思うからなんですね。
投稿: 柘植 | 2007年4月 5日 (木) 08:44
私は「ニセ科学批判をするのならば」非常に重要なことだと考えています。ニセ科学を信じている人が、「合理性も論理性も持っていない」と考えるのと、「彼らなりの合理があるのだ」と考えるのでは、アプローチが変わってくると思うからです。
まあ、「合理」に関する知識量の多寡問題もあるわけですけど(笑)
投稿: newKamer | 2007年4月 5日 (木) 09:50
こんにちは、newKamerさん。
>ニセ科学を信じている人が、「合理性も論理性も持っていない」と考えるのと、「彼らなりの合理があるのだ」と考えるのでは、アプローチが変わってくると思うからです。
そうなんです。例えば「活性水素が活性酸素を失活させる」という話が健康上の意味を持つためには、「活性酸素が身体の細胞を傷める」という知識が必要です。それは、活性水素水の業者がきちんと広告で教えてくれます。その知識範囲内では「活性水素水が健康に良い」は合理的に整合する訳です。
問題は、多くの人が「その活性酸素ってどうして身体の中にできるの?」と疑問を持ってくれない事にある訳ですね。白血球が体内に侵入した細菌などを殺す際には、白血球の持つ酵素が活性酸素を作り出し、それで細菌を殺す訳です。身体の中でエネルギー源の糖を酸化してエネルギーを取り出す際にも酸素を活性な状態にする必要があるから酵素が働くわけです。体内の活性酸素そのものは我々が生きる上で必要不可欠なんです。身体に悪さをする活性酸素というのは、そうやって有用に働く活性酸素が「流れ弾」となった場合のことを言っている訳ですね。活性酸素のできる訳について疑問を持ってくれさえすれば、こういう知識は手に入る話なんです。
そして、こういう知識を得ると、当然だけど「飲んだ活性水素は『流れ弾』だけ止められるの?」という疑問にたどりつき、業者がその部分については何も言っていないことにも気が付ける訳です。こうやって、合理的に見えた話が不合理であることに気が付く上で、「一見合理的に見えても、さらなる疑問を持つ」という姿勢とそこから得られるさらなる知識が相補的に「より深いレベルの合理性」を作り上げていく事を理解して欲しい訳です。
投稿: 柘植 | 2007年4月 5日 (木) 11:17
柘植さん、今日は。
私も、知識と思考(認識)は、相互作用するものだと思います。
で、どうなっているかを「知らない」と、思考を進めていく事が困難になる場合があると考えています。特に、自然科学の体系の様な、数え切れない程の人達が、途方も無い年月を掛けて築いてきたものは、知らなきゃどうしようもない、という感じですね。
小林道夫さんだったと思いますが(うろ憶えです)、一切の科学の知識を持たず、一人で思索を進めていっても、せいぜいアリストテレスの体系の様なものに至るくらいだ、という見方がありました。現代の科学の膨大な体系に、及ぶ筈が無いのですよね。
だから、「知る」事も、大切だと思います。筋肉がどこにどの様に付着しているかを知らないと、人間(動物)がどう動き得るかを解りようがありませんが、そんな感じでしょうか。
上にも書いた様に、知識の少なさが、認識の進行を妨げる場合がある、と、思います。
だから、ニセ科学を判断するには、「科学を”知っていなければ”ならない」場合がある、と考えます。
何か、話がずれちゃってるっぽいですけど(笑)
因みに、kikulogでの柘植さんの、タミフルの説明、びっくりしました。余りに解り易くて。
投稿: TAKESAN | 2007年4月 5日 (木) 12:23
newKamerさん、今日は。
私がよく考えるのは、「ニセ科学を信じる”論理的”な人は、沢山いる」、という事ですね。物事の筋道をしっかりさせて考えられる人でも、科学の知識が無いばかりに、ニセ科学を信じる場合はある、という事ですね。だから、知識の多寡にも依存する、という。
>「彼らなりの合理があるのだ」と考え
>るのでは、アプローチが変わってくる
>と思うからです。
私も、この様に考えています。
敢えて分ける必要は無いのかも知れませんが、論じておこうかな、と思いました。
投稿: TAKESAN | 2007年4月 5日 (木) 12:29
柘植さんへ。
私は、ニセ科学について勉強していく内に、自分が明るくない分野についての論は、判断を保留するか、それについて積極的に調べるべきだ、というスタンスを、以前より明確に採る様になってきました。
コストはかかりますが、その方が、より合理的な態度だと思うからです。
幸い、情報化によって、欲しい情報を得るためのコストは下がってきていますしね。
投稿: TAKESAN | 2007年4月 5日 (木) 12:37
確か、朝永振一郎氏のエピソードだったと思うのですが(ソース失念)、朝永氏のお子さんが、木が風になびいているのを見て、「木を切ったら風が止むのではないか」、と仰ったそうなんですよね。これは、現象を観察しての推論として、充分論理的ですよね。しかし、科学的では無い。
そんな話も、念頭に置いています。
投稿: TAKESAN | 2007年4月 5日 (木) 12:52
亀@渋研さんに、TB頂きました。
http://shibuken.seesaa.net/article/60879793.html
とても興味深いエントリーなので、こちらでエントリー上げるか、お邪魔してコメントしたいと思います。
投稿: TAKESAN | 2007年10月16日 (火) 03:23
生煮えな(というよりは煮え煮えな)エントリにお付き合いくださって、ありがとうございます。
「わかる」「知る」というあたりをもっと徹底的に腑分けした議論を勉強しないとどうにもならないかもしれませんね。認識論あたりかしら。
そういえば「国語辞典的な定義や小事典的な定義では論じられない問題がある」って、大学1年のときのプロゼミ(法哲学)の先生に教わったような気がしてきました(いや、あれは三一書房の『法律学小事典』じゃダメだってだけだったかな?)。
投稿: 亀@渋研X | 2007年10月17日 (水) 00:39
亀@渋研Xさん、今晩は。
やはりこういう議論は、哲学とかでなされているのでしょうね。後、認知心理学とか。そもそも日常的に使われる語でもありますから、言語論とも関わってくるのだと思います。
でも、こういう問題って、自分なりに「理解している」所があるんですよね。脳の中では結構はっきりしているっぽけど、それを上手く言語化出来ない。なかなか歯痒いものがありますよね。
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>生煮えな(というよりは煮え煮えな)エン
>トリにお付き合いくださって、ありがとう
>ございます。
いえ、とんでもないです。私は、こういうのを考えるのは、好きなので。
それに私は、FREEさんを思いっきり付き合わせてしまった人間ですし…。
投稿: TAKESAN | 2007年10月17日 (水) 01:18